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わたしの記憶にない下落合の神田川橋。 [気になる下落合]

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 1975年(昭和50)に撮影された映像を観ていたら、山手線の神田川鉄橋と下落合の清水川橋との間に、もうひとつ小さな橋が架かっているのを見つけた。わたしには、この橋の記憶がまったくないので、1970年代の末ごろには撤去されたものだろう。映像は清水川橋の上から、山手線の神田川鉄橋のある東側を向いて撮影されたものだ。
 改めて地図を確認すると、この橋が採取されている地図と採取されていない地図のあることがわかった。その経緯から推察すると、同じ神田川に妙正寺川が合流する直前の下落合2丁目450番(現・下落合1丁目)にあった、園藤染物工場などと戸塚3丁目(現・高田馬場3丁目)との間に架かっていた、おそらく付近の瀧澤家が私費を投じて建設したとみられる私設橋「瀧澤橋(現・滝沢橋)」Click!と同様、周辺の企業や住民たちが交通の便宜を考えて架けた、私設橋Click!だった可能性が高い。
 もっとも瀧澤橋は、名前を採取されないままに地図には「無名橋」として橋記号だけ記載されていたが、その後、公有化されて自治体の管理に移行しており、各種地図にも正式に橋名がふられるようになっている。だが、くだんの小橋は私設橋のまま、1970年代末ごろには消滅してしまったのだろう。この小橋もまた、下落合1丁目60番地界隈と戸塚町3丁目とを結び、周辺にあった工場群の交通の便や、付近に住む住民が高田馬場駅へと短絡して出られるように架けられていたとみられる。
 映像を観察すると、山手線の神田川鉄橋からそれほど離れていない位置に設置されていたのがわかる。おそらく、この小橋をわたるときには、すぐ横に轟音を立てて通過する鉄橋上の山手線が間近に迫って見えていただろう。小橋が写る空中写真を観察すると、山手線の鉄橋下から西へわずか30m余のところに架かっており、清水川橋からだと東へ50m弱のところに架橋されていたとみられる。
 改めて、空中写真を年代順に追いかけてみると、戦後間もない時期の写真には、当該の流域にはなにも写っていない。初めて小橋らしい影が見られるのは、1963年(昭和38)のモノクロ空中写真からだ。ちなみに、戦後の地図を参照してみると、私設橋なので採取されていないケースも踏まえて探した結果、いちばん早い時期の地図では、1953年(昭和28)に作成された「復興新宿区全図」に、それらしい橋が採取されていることが判明した。おそらく1950年代に入って、すぐのころに架けられた私設橋ではなかったか。
 年代を下って空中写真を参照していくと、1975年(昭和50)のカラー写真には別角度からの空中写真を含め、小橋がかなり鮮明にとらえられていることがわかった。つづいて、1979年(昭和54)の空中写真にも小橋はとらえられているが、そのあとの1980年代の写真には、すでに見えなくなっている。つまり、1953年(昭和28)から1979年(昭和54)の26年間(ただし途中で一度解体/後述)、この橋は確実に存在していたと思われる。
 だが、十三間通り(新目白通り)Click!が開通し、人々の流れが清水川橋のほうへ集中するようになると、この小橋の利用者は徐々に減っていき、周囲の工場や工員寮、住宅などの相次ぐ移転とともに、あまり補修やメンテナンスなどもなされなくなり、その役割を終えたのではないだろうか。1979年(昭和54)まで存続していたとすれば、わたしも学校からの帰りに偶然目撃していたかもしれないが、残念なことにまったく記憶がない。
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 当時、学校からアパートにもどるには、十三間通り(一部工事中)をそのまま西へまっすぐ下落合方面へ歩くことが多かったし、早稲田通りを歩いてきたとしても、神田川を渡河する橋は高田馬場駅の手前で斜めに架かった旧・神高橋Click!を、あるいは栄通りを斜めに入った先にある田島橋Click!を利用することが多かったので、清水川橋と山手線の神田川鉄橋との間にある橋には気づかなかった。また、もし気づいたとしても解体が近い私設橋は、すでに通行禁止になっていたのかもしれない。
 この私設橋について調べていたら、ひとつおかしなことに気がついた。敗戦後間もない1928年(昭和23)作成の「復興新宿区全図」には、清水川橋の下流にこの小橋が確実に採取されているとみられるのに、7年後の1955年(昭和30)に新宿区役所が編纂した『新宿区史』に掲載の、新装なった山手線の神田川鉄橋を西側からとらえたモノクロ写真には、この小橋が存在していないことだ。カメラマンは、明らかに清水川橋の南詰めから山手線神田川鉄橋の西側面をとらえており、この時期、山手線鉄橋の補強と神田川の護岸補強工事のため、一時的に小橋が取り払われていたものだろうか。
 その後、1963年(昭和38)の空中写真では、再び架橋されているように見えるので、山手線の鉄橋工事とその周辺の護岸工事の期間だけ解体され、その後(1960年代に入ってからか)、通行の便を考えて再び架けられている可能性が高い。その経緯を踏まえると、この小橋は誰かひとりの篤志家が資金を出して架けたのではなく、周辺の企業(工場)や住民たちが資金を出しあい、共同で建設したものではないだろうか。
 この小橋がないと、1935年(昭和10)前後に直線化工事が実施された旧・神田上水の、大きく北側へ蛇行した川筋Click!がそのまま埋め立てられて道路になっていたため、特に神田川の北岸にある工場や企業の関係者は、大きく北側へ遠まわりをしてから清水川橋を利用するほかなかった。神田川の岸辺に建つ工場から、清水川橋へ迂回するルートの距離を測ってみると、約180mほどの遠まわりとなる。小橋の構造がわかる映像からの様子や、空中写真からとらえられた橋の道幅などを考慮すると、おそらく人が専用に利用する橋であって、クルマは通行できなかっただろう。
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 1950年(昭和25)すぎに架けられた私設橋と思われる小橋だが、昭和初期にもほぼ同じ位置へ、神田川を渡る木製の橋が架けられている。西武鉄道が、陸軍鉄道連隊Click!の演習とともに山手線の西側土手沿いに建設した高田馬場仮駅Click!から、山手線・高田馬場駅前の早稲田通りへと通じる連絡桟橋だ。
 この木橋は、高田馬場仮駅が今度は線路土手の東側へと移設Click!される際、すべて取り払われてしまったのだろうか。それとも、周辺の企業や住民の便宜を考え神田川を渡る木製橋のみ、しばらくの期間は残され利用されていたのだろうか。
 もっとも、1935年(昭和10)前後に行われた、神田川の大規模な直線整流化工事まで残っていたとは思えないが、周辺の企業や住民たちは、この位置に山手線・高田馬場駅までショートカットできる橋があった昭和初期、ずいぶん便利だったことは印象深く記憶に残していただろう。戦後、その記憶がよみがえり、誰が思い立ったのかは不明だが(おそらく北岸の下落合側にある企業か住宅の住民だと思われる)、「ここに、人が通れる橋を架けよう」といいだしたのではないだろうか。
 小橋は、1979年(昭和54)の空中写真までとらえられているので、そのとき気づいてさえいれば、わたしも渡れていたかもしれない。あるいは、目白駅から山手線に乗車したときにでも、注意深く神田川を観察していれば、鉄橋西側のすぐ下に架けられていた小橋に気づいていたかもしれない。山手線の神田川鉄橋が、間近で観察できたと思われる小橋の上に、いまから思えばぜひ立ってみたかったと思う。どなたか、この小橋についてご記憶の方、あるいは橋名をご存じな方はおられるだろうか?
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 もうひとつ、同じ映像には清水川橋の古い姿が映っており、山手線の鉄橋東側にあった旧・神高橋と同様、鉄骨に緑色の錆止め塗装の意匠をしていた。学生時代に、この橋を渡ったハッキリとした記憶はないが、栄通り沿いに見えている店舗の様子が、どこか懐かしい。

◆写真上:1975年(昭和50)の映像に映る、清水川橋と山手線との間に架かる小橋。
◆写真中上は、映像の明度をあげた画面。は、1953年(昭和28)の「復興新宿区全図」に採取された小橋。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる小橋。
◆写真中下は、2葉とも1975年(昭和50)の空中写真と別角度。は、1979年(昭和54)の空中写真にみる小橋。は、1955年(昭和30)に清水川橋から撮影された山手線・神田川鉄橋。小橋はなく、架かっていたとみられる位置の護岸が白っぽい。
◆写真下は、3葉とも現状の写真で小橋があったとみられる位置の推定。は、中落合の妙正寺川に架かる氷川橋。くだんの小橋も、このような意匠だったと思われる。は、1975年(昭和50)に撮影された清水川橋で突き当たりは栄通り。正面に見えているのは、学生などを相手にした24時間営業のコインランドリー「山手オートランドリー」らしい。

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