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龍胆寺雄の「目白会館」を再度考える。 [気になる下落合]

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 作家の龍膽寺雄(龍胆寺雄)Click!が、『人生遊戯派』の中で述懐している「目白会館」とは、下落合1470番地の第三文化村Click!に建っていた「目白会館・文化アパート」Click!のことか、それとも彼が描写した「目白会館」の様子が実際の建物の意匠とはかなり異なるので、同じ下落合538番地に建っていた「目白館」Click!のことなのか、「?」マークのままで終えた記事をわたしは過去に二度ほど書いている。
 ところが、前回の吉行エイスケClick!矢田津世子Click!に関連する記事Click!でも引用しているように、1931年(昭和6)の夏、下落合1470番地の「目白会館・文化アパート」Click!に住む矢田津世子Click!を訪問しインタビューした都新聞の記者は、1931年(昭和6)8月18日付けの同紙の記事で「以前に龍膽寺雄君が此処に居た時分、一度来たことがあるので記者も覚えてゐるアパートだ」と記述している。つまり、龍膽寺雄はまちがいなく少し前まで第三文化村の目白会館・文化アパートのほうに住んでいたことになり、目白通りの北側に位置する目白館ではないことが明らかになった。
 そこで、1979年(昭和54)に昭和書院から出版された龍膽寺雄『人生遊戯派』所収の、「私をとりまく愛情」へ頻繁に登場する「目白会館」をめぐる記述と、実際に文化村に建てられた目白会館・文化アパート(以下 目白会館)について、改めてもう一度検討してみよう。以下、同書より「目白会館」が登場する部分を引用してみる。
  
 目白会館は、東京で民営のアパートとしては、確か最初のもので、かれこれ二十室はあるコンクリートの二階建てだった。共通の応接間が二階の中央にあり、その隣りの、六畳と四畳半位の控えの間つきの二間を、私は借りた。/階下に広い食堂があり、別に、共同浴室や玉突き室、麻雀室が付属し、二階の屋上は庭園風になっていた。部屋が満員になったので、二階の中央の共通の応接室を、そのまま洋間として、その頃目白の川村女学院で絵の先生をしていた洋画家の佐藤文雄が、そこに住みついてしまっていた。私の処女出版の、改造社版『アパアトの女たちと僕と』に、美しい装釘をしてくれた。
  
 まず、下落合1470番地の目白会館はコンクリート建築ではない。1938年(昭和13)に作成された「火災保険地図」(通称「火保図」)では、スレート葺き屋根の木造建築として記録されている。また、外壁はモルタル仕様だったのか、太い線で「防火建築」と同様の表現がなされている。この木造モルタル造りの外観を、龍膽寺雄は「コンクリート」造りと勘ちがいしたのだろうか。
 「火保図」は、火災保険の料率算定のための基礎資料として作成されているので、住民の氏名採取ではときどきいい加減なミスが見つかるが、地図の使用目的からコンクリート建築を木造スレート葺き建築として採録してしまうとは考えにくい。
 また、目白会館が東京の民営アパートで最初のものでないことは以前にも記した。
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 引っ越して行った目白会館の、四畳半と八畳と二た間続きの部屋の、八畳のほうの白壁に、初山滋の童画の額縁を掛けようと思って、何気なく、長押の上へ手をやったら、小さな紙片れの折ったのが、その奥に挟んであった。ひろげて見ると、こういうことが書いてあった。/「この部屋には百万円かくしてあります。」/先住者のいたずらだ。
  
 書かれている「白壁」は、コンクリートに白ペンキを塗った壁ではなく、木造建築に多い漆喰壁だろう。その壁の上部に「長押」があることからも、木造アパートであることは想定できるはずなのだが、なぜか何度も「コンクリート」造りと書いている。
 では、龍膽寺雄が木造モルタル造りの建築をよく知らなかったかといえば、彼は同書の「川端康成のこと」の中で、吉行あぐりClick!が経営する村山知義Click!が設計した市ヶ谷駅前の「山ノ手美容院」Click!について次のように書いている。
  
 市ヶ谷見付を見おろす靖国通りのはしの三叉路の角に、吉行エイスケの妻君(ママ:細君)のあぐりさんが美容院を経営しており、そこに村山知義が設計したという、青っぽいモルタル三階造りの、軍艦のような形をした、シャレた建物があって……(以下略)
  
 まるで、見た目がコンクリートビルのような「山ノ手美容院」について、彼は正確に木造モルタル3階建てと観察しているにもかかわらず、スレート葺き屋根の見るからに木造モルタル建築然とした目白会館を「コンクリート」建築だったとするのが解せない。
 確かにモルタルには、防火・耐火のニーズからセメントを混ぜるが、木造モルタル2階建ての建築を「コンクリート」建築とを見まちがえる、あるいはそう呼称するはずがないのは、「山ノ手美容院」の記述でも明らかだろう。
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 もうひとつ、おかしな記述がある。同書の「私をとりまく愛情」から引用してみよう。
  
 コンクリート建ての、二階の屋上に、屋上庭園のようなものがあり、大きな洋風の共同の応接間や、一階には食堂のほか、浴室、玉突き場、麻雀荘などの設備があった。もっとも、その応接間は、満員でハミ出した洋画家が、アトリエを兼ねて借りてしまっていたので、塞がっていた。この洋画家というのは、目白の川村女学院で絵の先生をしていた佐藤文雄でのちに、改造社から出した私の処女出版『アパアトの女たちと僕と』の装釘をしてくれた。『アパアトの女たちと僕と』は、ここでのアパートの生活からヒントを得て書いた作品で、もちろんフィクションだが、谷崎潤一郎から激賞を受けた。
  
 目白会館に、「屋上庭園」は存在しないと思う。なぜなら、1936年(昭和11)から空襲で焼ける1945年(昭和20)までの、いずれの時代の空中写真を参照しても、「屋上庭園」が設置できるような仕様の屋根には見えないからだ。
 目白会館の屋根は、全体でひとつの主棟(大棟)を形成する大きな三角形をしたスレート葺きで、南向きと北向きの鋭角な屋根面には、2階の部屋の屋根窓(ドーマー)が並ぶ意匠をしているため、ある程度の広さが必要な「屋上庭園」を設けられる平坦なスペースが存在しえない。同建物を上から、あるいは南斜めから見るかぎりだが、2階屋根の主棟(大棟)に連なる2階のドーマーが確認できるだけだ。
 さて、前回の記事でも少し書いたが、龍膽寺雄は下落合に建っていた目白会館と、かつて住んでいた東京の別のアパートでの生活の記憶とが、どこかで錯綜してやしないだろうか。川村学園で絵の教師をしていた洋画家の佐藤文雄との想い出や、目白会館から目白通りをまっすぐ東へ歩いて新目白坂近くの佐藤春夫Click!を1週間に一度訪ねた記憶は確実だとしても、当時住んでいた目白会館の意匠や構造に関する記憶が、コンクリート造りで屋上庭園のある別のアパート(ひょっとすると民営アパートとしては東京で最初のものといわれていた建物?)と、ゴッチャになっているのではないだろうか。
 龍膽寺雄が目白会館にいたころから、1979年(昭和54)に『人生遊戯派』が書かれるまで(実際には1978年に執筆されたらしい)約50年の歳月が流れている。彼は1928年(昭和3)6月から1930年(昭和5)6月ごろまでの2年間、下落合の目白会館に住んでいるが、彼が転居した直後に屋根が改装されて屋上庭園がなくなった……とも考えにくい。当時、目白会館は建設されて間もない時期であり、矢田津世子Click!が入居したころでさえ、いまだ新築に近い状態だった。龍膽寺雄の記憶における齟齬、とみるのが自然だろうか。
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 あるいは、こうも考えられるだろうか。龍膽寺雄は「目白会館で最初に書いた作品が、『アパアトの女たちと僕と』だった」と同書で書いている。そして、この作品に登場するアパートはコンクリート建築であり、2階上には住民たちが集える屋上庭園が存在している。小説家にはありがちだというが、自身の創作で想像した情景と、現実の情景の記憶とが約50年の時間経過とともに、期せずして融合してしまったのではないか。いつか、「全身小説家」Click!井上光晴Click!について書いたことがあるが、彼も創作と現実の境目が徐々に曖昧となり、自身の創作上の想像を現実にあったことのように語りはじめている。

◆写真上:目白会館跡に建っていたアパートだが、現在は解体されて存在しない。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる目白会館と、1940年(昭和15)ごろに南斜めフカンから撮影された同館。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」に採取された同館。(ス)は木造スレート葺きで、太線は木造モルタル(防火)建築を意味している。なお、コンクリート建築は太線と細線の二重線で表現される。
◆写真中下は、空襲の前年にあたる1944年(昭和19)に撮影された目白会館。は、ダンスをする龍膽寺雄・安塚まさ夫妻だが室内の様子は目白会館ではない。は、1979年(昭和54)に出版された龍膽寺雄『人生遊戯派』(昭和書院/)と、1930年(昭和5)に出版された龍膽寺雄『アパアトの女たちと僕と/その他』(改造社/)。
◆写真下は、1999年(平成11)発行の「太陽」6月号の表紙になった龍膽寺雄。は、1931年(昭和6)8月18日発行の都新聞に掲載された目白会館の矢田津世子。転居して間もないころで本箱がなく、多くの本が床面に重なって置かれている。窓にはカーテンが吊るされているが、白壁の下は畳敷きだったのがわかる。は、同じく目白会館の矢田津世子。

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吉行エイスケと結婚した原因はパンデミック。 [気になる下落合]

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 昨年(2021年)の5月、日本経済新聞の『私の履歴書』に女優の吉行和子が、1ヶ月間にわたって吉行一家のことや仕事の思い出を執筆している。その過程で、上落合にあったとみられる吉行あぐりが経営したバー「あざみ」Click!の話が、母親か兄の淳之介あたりから聞かされた逸話として登場するかと期待したが、残念ながら東京での生活はすぐに美容院時代のエピソードへと推移してしまった。
 吉行あぐりが、吉行エイスケと結婚する要因になったのはパンデミック、すなわち1917年(大正6)ごろから1920年(大正9)ごろまでの約3年間にわたり全国で大流行した「スペイン風邪」Click!だった。そのときの状況を、2021年5月1日発行の日本経済新聞(朝刊)に掲載された、吉行和子『私の履歴書①』から引用してみよう。
  
 もう一つ、母からよく聞いた話をする。私は「スペイン風邪」の流行のおかげで生まれたともいえるらしい。/およそ100年前にスペイン風邪(インフルエンザ)が世界で大流行したことは、昨年来、新型コロナウィルスが問題になる中で、よく知られるようになった。一方、101年前の1920年、母あぐりの父と2人の姉が、スペイン風邪で相次いで亡くなった。この死がなければ、15歳の母が父に嫁ぐことはなく、私も、兄も妹も生まれていなかった。
  
 わたしは祖父母の時代からの“ことづけ”として、関東大震災Click!にまつわる伝承については両親からずいぶん聞かされたが、「スペイン風邪」がわが家に及ぼした影響についてはあまり聞いたことがない。祖父母の世代が、関東大震災では復興へ向け互いに協力しあいながら努力した印象が強いのに対し、パンデミックに対してはあまりにも無力で、子どもたち(父母たち)へ話したがらなかったせいなのかもしれない。
 吉行エイスケは、アナキズムと文学に傾倒してまったく家族や生活をかえりみず、吉行和子にいわせれば「あまりに自由人すぎた」性格だった。結婚して子どもでも生まれれば、少しは落ち着くだろうと考えた彼の父親は、いまだ少女のあぐりと結婚させたのだが、岡山で子どもが生まれるとすぐに妻子を放りだして、ひとりでさっさと東京へ出奔してしまう始末だった。女学校へ通わせてくれるという約束で結婚した15歳のあぐりだったが、子育てに追われてそれどころではなくなった。
 1935年(昭和10)8月に長女(和子)が生まれると、今度こそ家庭が円満にということで、家族に「和」をもたらす子という願いをこめて、祖母は「和子」と名づけたそうだ。だが、吉行エイスケの家族や生活をかえりみない性格は変わらず、まったく働こうとはせずに東京へいったきりになった。エイスケの父親は、市ヶ谷駅前に100坪の土地を買って与え、それで見こみのない息子とは縁を切ったとされている。
 吉行エイスケが、外でどのような仕事(?)をしていたのか、家族はほとんど知らなかった。吉行和子は、父親が雑誌を編集して各地の書店へ持ちこんでいたのを母親から聞かされているようだ。ただ、それも仕事だか趣味だかわからないような内容のものだった。2021年5月3日発行の同紙に掲載された、吉行和子『私の履歴書②』から引用してみよう。
  
 エイスケが何をしていたのか、すべては分からないが、一つには「売恥醜文」という名の雑誌を作って、各地の書店に持ち込んで置いてもらっていたようだ。タダイストの作家と呼ばれた父の文章は前衛的でトンガっていて、気楽な読み物とは少し違うものだった。/家族のことはほったらかしだったエイスケだが、あぐりの美容院のお弟子さんたちには人気があった。いつも優しくて、差し入れも持ってきてくれたという。家ではともかく、外ではいい男だったのだろう。
  
 一家が食べていけないので、吉行あぐりは米国から帰国した美容師の山野千枝子Click!に弟子入りして、美容院を開業することになった。父親からもらった市ヶ谷駅前の敷地には、吉行エイスケの友人だった上落合186番地の村山知義Click!が設計した三角の「山ノ手美容院」Click!が建設される。エイスケは文字どおり江戸期そのままの「髪結いの亭主」となって、妻に生活を支えてもらう「自由人」としての基盤が整ったことになる。
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 そんな吉行エイスケの書いたもの、あるいはその生き方や態度に嚙みついた作家がいた。当時は、下落合1986番地の借家に母親とともに住んでいた矢田津世子Click!だ。ふだんは静かで穏和な彼女がめずらしく怒ったのには、なにか特別な理由がありそうだ。彼女が書いた作品に対し、吉行エイスケがなにか見当はずれなケチをつけたか、それとも彼女のカンに触るような行為をしでかしたのかもしれない。
 以前、矢田津世子が1932年(昭和7)発行の「新潮」2月号に書いた、『吉行エイスケ氏』Click!の一部をご紹介したことがある。彼女にしてはめずらしく、ほんとうに怒っているらしい皮肉たっぷりな同作は、本文に「吉行エイスケ」という名前が一度も登場せず、すべて「貌麗はしい王子(プリンス)」としか呼称していない。華やかな外見に似ず、秋田女性らしい質朴剛毅な矢田津世子には、よほど腹にすえかねることがあったのだろう。
 1989年(平成元)に小澤書店から出版された『矢田津世子全集』に収録の、矢田津世子Click!『吉行エイスケ氏』から引用してみよう。
  
 つまり、王子自身の美貌が稀世のものであると同様に、彼のロマンは当然、高貴なダイヤ、(いや、或ひは、誰れもが持つてゐさうもない鐵の光沢であつてもいいが。)でなければならない、と彼は決意しました。自分を特徴づけるといふことは、いかなる時代にも必要なことです。で、王子は、ロマンの方向を一廻転させました。機械が、煙突が、工場地帯が……。また、はるばる舟を仕立てて、隣国をも視察にいくことを忘れませんでした。そして、一層、彼のロマンの色彩は複雑に、隣国支那の動乱や、そこにある工場や、踊り場や、虞美人草のやうなダンサアや……で、賑はつていきました。彼の特徴が完成に近づくと、次に、彼の精力的な感応が別の要求をするやうになりました。折角の才能をロマンに注ぎかけるだけでは勿体ない。より一層偉大なものへ! そして、王子は、その希望どほり、いまや、レビユウ劇場の顧問としてその手腕を振ふことになつたのです。
  
 矢田津世子Click!が、他のテーマで表現するふだんのエッセイ類の、几帳面かつ真摯でやさしい眼差しの文章と比較すると、『吉行エイスケ氏』の文体はほとんど罵倒と同様の表現になるだろう。彼女は、同エッセイの最後に「この童話はほんの序節に過ぎません」と収まらない怒りで書いているので、また怒らせるようなことを書いたり、ヘタな行為におよんだりすれば、「もっと書くから覚悟なさい」と脅している。
 以来、続編は書かれていないので、なにか思い当たるふしがあったらしい吉行エイスケが自重したか、あるいは特高Click!に留置された矢田津世子Click!が身体をこわし、続編を書いている余裕がなくなってしまったのかもしれない。矢田津世子の文章(特に随筆類)にはほとんど目を通しているが、これほど怒気を含んだ文章をほかには知らない。
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 さて、この記事を書くために資料を漁っていたら、面白い新聞記事を見つけた。1931年(昭和6)8月18日に発行された都新聞で、当時の同紙は「日盛りと女流」シリーズという訪問記事を連載していた。その7回目の記事は、下落合1470番地に建つ「目白会館」Click!の一室に当時は住んでいた、矢田津世子Click!を訪問してインタビューした内容だ。その「日盛りと女流(7)」の冒頭には、記者の言葉で「以前に龍膽寺雄君が此処に居た時分、一度来たことがあるので記者も覚えてゐるアパートだ」と書いている。
 つまり、龍膽寺雄(龍胆寺雄)Click!はまちがいなく下落合1470番地の第三文化村Click!内にあった目白会館に住んでいたことになり、下落合538番地の「目白館」Click!ではなかったことになる。だが、目白会館には屋上庭園は見えないし、また建築は木造モルタル造りの西洋館然とした仕様で、もちろんコンクリート構造のアパートでもなかった。ということは、移り住んだいくつかのアパートの情景を、龍膽寺雄は断片的な記憶同士でつなげてしまい、混同して記述しているのではないか。
 龍膽寺雄が、目白会館についての想い出を書いているのは、1979年(昭和54)に昭和書院から出版された『人生遊戯派』(実際に執筆されたのは前年のようだ)であり、目白会館に住んでいた時代から戦争をはさみ、約50年の歳月が経過したあとのことだ。その時代経過とともに、東京を転々としたいくつかのアパートの情景がいっしょくたになり、記憶に齟齬や錯覚が生じているのではないだろうか。もう一度、改めて『人生遊戯派』を読み直して、目白会館についての記述を再検討してみたいと考えている。
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 日本経済新聞に2021年5月に連載された吉行和子のエッセイは、劇団民藝や早稲田小劇場、映画、ドラマ、俳句などなど、わたしにとっては後半のほうがかなり面白い証言だった。ネットでもまとめ読みができるので、演劇や映画などに興味のある方へはお奨めだ。

◆写真上:公楽キネマ跡から見た、早稲田通り(正面)と東中野駅へと抜けられる住吉通り(現・区検通り/左手)。美容術を勉強中だった吉行あぐりがママをつとめていたバー「あざみ」は、両通り沿いかあるいは旧・八幡通りClick!のどこかにあった。
◆写真中上は、2021年5月1日~31日まで日本経済新聞に連載された「私の履歴書/吉行和子」の第1回。は、結婚して間もないころの吉行夫妻。
◆写真中下は、大正末ごろに撮影された吉行一家。中央は祖母の吉行盛代で、左の子どもは吉行淳之介。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる多くのタダイストの作家や詩人、画家などを集めていたバー「あざみ」が開店していたエリア。ちなみに上落合503番地には辻潤Click!が、上落合742番地には尾形亀之助Click!が住んでいた。
◆写真下は、市ヶ谷駅前にあった村山知義の設計による「山ノ手美容院」。は、怒りをかった吉行エイスケ()と、怒りを隠さないエッセイを書いた矢田津世子()。は、1931年(昭和6)8月18日に発行された都新聞に掲載の矢田津世子訪問記。

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富永哲夫博士による家庭衛生の常識。(8) [気になる下落合]

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 現在は貸家や貸室が空くと、次の入居者のために汚れ落としや見栄えをよするリフォームを行なったり、衛生管理のうえでもハウスクリーニングを実施するのがあたりまえになった。でも、昭和初期の当時は、前入居者が残していったゴミや室内の汚れを、次の入居者が清掃するのが当然のように行われている。だから、室内の衛生管理も入居予定者の大きな課題のひとつとなっていた。
 戦前の人々は、借家または借地上に建てた住宅に住むのがあたりまえであり、自身でわざわざ土地まで購入して住宅を建てるという、戦後に一般化したスタイルはむしろめずらしいほうだった。当時の貸家の賃料も、また敷地の借地料も現代に比べたら相対的に安かったせいもあるのだろう。下落合でいえば、むしろ目白文化村Click!近衛町Click!落合府営住宅Click!アビラ村開発Click!などディベロッパーや自治体による住宅敷地あるいは住宅販売のほうが、いまだ少数派だった時代だ。
 わたしが30年ほど前に住んでいた、聖母坂のマンションは敷地が神社の所有地で、以前に締結された60年契約の借地料が数百万円とかなり安かったのを憶えている。当然、2000年以降の契約からは時代がかなり経過しているので、次回の更新時にはやや値上がりするのだろうが、それでも集合住宅なので一戸あたり何十万円かの借地料を出しあえば、再び60年は借りられる計算になる。固定資産税なども考慮すれば、この地域で土地を購入するよりも、よほどリーズナブルにちがいない。
 さて、昭和初期の貸家や貸室に入居する際は、家内や室内の消毒が不可欠だった。もちろん、ノミやダニなどの害虫がいるかもしれないので駆除する必要もあったが、主目的は先住者が残していったかもしれない病原菌の消毒にあった。ことに先住者が転居したあと、すぐに入居する場合は空気感染による伝染病を予防する必要があると、富永哲夫Click!は指摘する。彼が挙げる伝染病とは、麻疹(はしかなど)や痘瘡(天然痘)、百日咳、猩紅熱、インフルエンザ(ウィルスではなく菌のケース)、そして結核だ。
 これらの菌は、屋外に出れば太陽光と乾燥によりほどなく死滅するが、屋内の湿潤な塵埃にまぎれて飛散すれば、次の入居者へ感染しかねないと警告している。そして、「前住者が如何なる疾患の持主であつたか不明なる故、一応充分に清掃消毒して住み込む必要がある」と注意をうながしている。当時、大流行していた結核は、大正末の段階で年間28万人以上の罹患者(発症者)Click!を記録しており、富永哲夫は結核菌の潜伏は長期間にわたるので、新たな入居者は注意が必要だと解説している。
 ただ、現代の環境から見れば、結核菌は相対的に弱い菌であり、よほどの不摂生な生活か栄養失調になりそうな偏食でもしていないかぎり、体内に取りこんでも通常は発症しないで制圧され抗体が形成される。小学校時代にイヤだったツベルクリン反応の注射だが、この検査で「陽性」と判定されBCGを打たなくて済んだ生徒たちは、もちろん結核菌の感染者(キャリア)だ。わたしは毎年「陰性」になるので、痛いBCGを避けるために、ツベルクリンを打ったところをシッペで叩き、皮膚を紅くして「陽性」を装ったことが何度かあるが、教師に見つかって怒られた憶えがある。
 富永哲夫がここで推奨する、家内あるいは室内を一気に消毒・殺菌する方法は、「フオルマリン瓦斯消毒法」と呼ばれていたものだ。これは、フォルマリンを加熱してガスを発生させるか、あるいはフォルマリンに過マンガン酸カリを加えて、一気にフォルムアルデヒドガスを発生させるもので、現在なら「絶対にダメでしょ!」の方法だ。『家庭衛生の常識』Click!(帝國生命保険/1932年)から引用してみよう。
  
 先ず室を密閉し、内容積千立方尺(約27.8m2)につき一個づゝの割合に四斗樽又は箱を用意し、その各に「バケツ」を入れ、局方「フオルマリン」二封度(ポンド)を同量の水に希釈したものを入れる。これに二封度(ポンド)の過「マンガン」酸加里を加へるのであるが、予め樽の周囲に新聞紙などを敷きつめて薬液飛散して汚染することを防ぐ。出口は何時でも閉鎖出来るやうにして置き、過「マンガン」酸加里を加へ、直ちに室外に出でゝ出口を閉鎖するのである。かくして一夜そのまゝに放置すれば完全に消毒が行はれるのである。(中略) 出口には指揮者が立つて号令のもとに薬を投入し、直ちに室外へ出で、全人員が外に出たのを確めて出口を閉鎖すべきである。誤つて人間をその室内に閉じ込める場合には、甚だしき不幸を惹き起こすのである。(カッコ内引用者註)
  
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 フォルムアルデヒドのガスを発生させているときだけでなく、その後、部屋で暮らすようになる住民にとっても、残留ガスによって喘息や鼻炎、皮膚炎、呼吸器疾患、粘膜炎症、その他アレルギー症などの「甚だしき不幸」が起きそうで、まず今日ではありえない消毒法だろう。翌朝、家の戸口をいっせいに開放して、室内の残留ガスを外へ逃がすのだが、もしフォルマリン臭が気になるなら、アンモニア水を薄めて撒布すれば臭いは消えるとしている。だが、これもまた敏感な人なら皮膚や粘膜に炎症を起こす要因になりそうで、今日では「とんでもない」といわれそうだ。
 家屋の中でも、特に不衛生になりやすいのが便所だ。特に便所の場合は、市街地を除いてほとんどが汲取り式だったため、ハエの発生源となっていた。ハエはコレラや赤痢、パラチフス、腸チフスなどを媒介するので成虫になる前、すなわちウジの段階で退治すべきだとしている。東京市衛生試験所が当時調査したものだろうか、赤痢患者が入院している病室に飛翔していたハエを捕まえたところ、約43%のハエで赤痢菌が見つかっている。
 便所の掃除は、今日と比べてもあまり違和感がない。同冊子より、引用してみよう。
  
 瀬戸物製の便器は希塩酸をつけた縄束(たわし)にて摩擦し、その上に充分水をかけて流すのである。汚染したものが乾燥すれば、除き難くなるものであるから、怠けずに清拭するがよい。/便所の消毒は普通の場合は必ずしも必要ではないが、伝染性の疾患が発生した場合又は夏季の悪疫流行時などには必要である。殊に日本式汲取り便所に於て必要欠くべからざるものである。/便所の板戸、引手、踏板、便器、或はその周囲などは、「クレゾール」石鹸液が最もよい。一-二%の溶液として洗ふのである。其他昇汞の五千倍溶液、石炭酸水二%溶液なども用ひられる。(カッコ内引用者註)
  
 現在でも、さまざまな製品名をつけて売られているトイレ用洗剤は、塩素系のものを中心に昭和初期の当時とあまり変わらないだろう。ただし、便器の周囲にはプラスチック製の精密機器が増えたため、便器用の洗剤とは別に便器の周辺機器用のアルコール系洗剤や、同様のウェットタオルなどが販売されている。
 東京市衛生試験所では、疫病を媒介するハエを撲滅するために、製薬会社とタイアップしウジの状態で退治する石油系乳剤を販売している。汲取り式の便槽や、下水の側溝などに撒いておくのだが、各地域の保健所が販売窓口となっていた。
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 もうひとつ、住宅には病気の発生源となる部屋がある。富永哲夫が、「病は台所より」と書いているキッチンの衛生管理だ。だが、冷凍冷蔵庫Click!がどこの家庭でも普及している現在、昭和初期の衛生管理はほとんど意味をなさなくなった。戦前の住宅に設置される台所は、たいがい太陽が当たらず室温が上昇しにくい、北側へ設計するのが常識だった。もちろん、食品の腐敗を懸念しての配慮だが、食品の保存管理を自由に設定できる現代では、台所は任意の方角に設置可能だ。
 また、富永哲夫は防湿を考慮してタイル貼りの仕様が望ましいととているが、現代ではステンレスや特殊セラミック、合成樹脂など素材技術の進歩により、目地が汚れやすくカビが付着しやすいタイル貼りの台所は、逆にめずらしくなりつつある。そして、台所は火を使うので熱気がこもりやすく、一酸化炭素などが大量に滞留する怖れがあるため、換気に十分配慮する必要があると書いている。これもまた、性能のいい換気扇Click!の登場で、戦後にはほとんど解消された課題だ。同冊子より、つづけて引用してみよう。
  
 台所は食物の調理をいる処である為、木炭や薪或は瓦斯を盛に使用する。従つて炭酸瓦斯が多量に発生し、稀には一酸化炭素も出ることがある。尚炊事の為めに温度が高くなり、蒸気が盛に発生して湿潤になり易い。従つて台所は特に空気の流通を計らなければならぬ。/一般に台所を開放すれば、火焔が動揺して「煮たき」の能率を減ずるものであるから、閉ざされ勝である。然る時は空気を汚染するのみならず、食物の腐敗を甚しく早める等の不利益も伴ふものであるから、通風換気の点に最も意を払ふ必要がある。戸棚も出来得る限り通気を充分にするがよい。
  
 当時の電気換気扇は高価だったため、富永哲夫は図版入りで「熱突」(熱やガスを逃がすための排管)の設置を推奨している。こちらでは、大正期に建てられた住宅の便所に設置する「臭突」Click!を何度かご紹介しているが、台所にもまった同じような「熱突」がある家も多かったのだろう。自然の風力を利用してベンチレーターが回転し、台所から出る熱を外へと逃がす仕組みだ。
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 最後に、食品に関しては家庭ですでに調理したもの、あるいは野菜など洗って清浄にしたものと、店から買ってきたばかりの食品とを、一緒の戸棚の中に入れてはダメだと書いている。上記の文中に通気性のよい「戸棚」を推奨しているのは、中に残った料理や食品類が入っているからで、店舗には衛生管理された食品が並び、家庭にはキッチンに必ず冷蔵庫がある現代の環境からは想像できない留意点だろう。食器類の定期的な煮沸消毒やアルコール消毒、天日干しなどを行なっている家庭も、もはや存在しないのではないかと思う。
                                 <了>

◆写真上:昭和初期の家屋が並ぶ、戦災から焼け残った本郷地域の一画。
◆写真中上は、畳を敷けばいかにも貸間らしい昭和初期の住宅。は、昭和初期の面影を残した階段のある路地。は、下宿屋らしいたたずまいの家屋。
◆写真中下は、衛生面から推奨されている陽当たりがいい日本間。は、昭和初期の市街地に建てられたコンパクトなモダン住宅。は、荻窪にある昭和初期に建てられた現役の「西郊ロッヂング」アパートメント(国登録有形文化財)。
◆写真下は、台所の熱やガスを逃がす「臭突」によく似た「熱突」。は、大正期から昭和初期の雰囲気が残る台所。は、帝國生命保険が提供する当時の健康増進サービス一覧。今日の保険会社が提供するサービスと、あまり変わらないのがわかる。

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1954年(昭和29)の新宿区勢要覧。 [気になる下落合]

高田馬場駅ガード下.jpg
 1955年(昭和30)に『新宿区史』Click!(新宿区役所)が出版される以前から、『新宿区勢要覧』とタイトルされたパンフレットが制作されていた。わたしの手もとにあるのは「昭和29年版」(1954年版)なので、1947年(昭和22)に四谷区と牛込区、淀橋区が合体して新宿区が成立した直後から発行されていたのだろう。また、『新宿区史』Click!の出版後にも発行されているので、1960年代末ぐらいまではつづいていたのかもしれない。
 表紙と表4(裏表紙)を別にして、変形B5判の8ページという構成だが、このパンフを拡げていくと変形B全サイズの「新宿区航空写真全図」が広げられる仕様になっている。1954年(昭和29)2月22日に撮影されたポスター大の空中写真には、新宿区の施設や学校、鉄道駅などが探せるよう、左下に記号の凡例のような索引が付加されている。空中写真の落合地域を見ると、戦災からほぼ復興した街の姿がとらえられている。
 以前の記事Click!では、この空中写真をもとにして落合地域の様子を中心に書いたが、今回は視界を少し拡げて、新宿区全体について改めてご紹介してみたい。コンテンツは「新宿区というところ」というエッセイ風の簡単な沿革紹介にはじまり、「区の行政」、「人口の推移と現状」、「区の財政」、「教育と文化」(文化財)、「新宿ところどころ」(写真ページ)などに分かれている。「新宿区というところ」から、一部を引用してみよう。
  
 新宿区としての誕生は昭和22年3月15日東京都に特別区制が施行されて、旧四谷、牛込、淀橋の3区が統合したときで、本年こゝに7周年を迎えるわけである。/人口33万人有余、面積18平方粁強で、西え西え(ママ)と移行する東京の都心がこの「新宿」であるといつても過言ではあるまい。/新宿駅の乗降客は、東京駅、大阪駅に次ぐ全国第3位を占め、そのラッシュは、朝の通勤、通学つゞいて各方面からのお買物、午後の観光、夜の娯楽といろとりどりである。/その多彩なことをみてもわかるように、区内には、早大、慶大医学部、学習院、女子医大をはじめ大学11校、小、中、高等学校にいたつては、公私あわせて72校という文教地区であり、また大蔵省、総理府統計局をはじめその他の官公署と金融機関の群立、それに伴う一大消費地としての商店街、アミユーズメントセンターとしての面目、いずれをみても、更に今後の発展に大いに期待をかけられる所以のものばかりである。
  
 この著者には少なからずオーバートーク気味のところがあり、たとえば「学習院」は豊島区にあるので、正確にいえば戸山の近衛騎兵連隊跡Click!に移転した「女子学習院」Click!(学習院女子大学)のことだし、「東京の都心がこの『新宿』であるといつても過言ではあるまい」も、1954年(昭和29)でそこまでいうか?……という感が強い。どう考えても、当時の都心は都庁があった丸ノ内や大手町、日本橋、京橋(銀座)界隈だろう。
 新宿区の人口が「33万人有余」は、今日でも約33万7,600人(2021年現在)とほぼ変わらない。変わったのは、新宿駅を利用する乗降客の人数だ。当時は、東京駅と大阪駅に次いで約70万人ほどだった乗降客は国内3位だったようだが、現在は1日の乗降客数は約350万人(2021年末現在)とふくらみ、国内はおろか世界1位の乗降客でギネスブックにも登録されている。また、当時は11校だった大学は16校に増えたが、小・中・高等学校は少子化の影響から統廃合が進み、72校から57校に漸減している。
 「区の行政」で時代的に目を惹くのは、新宿区が経営する「区営公益質屋」の存在だ。区内には、箪笥町公益質屋と柏木公益質屋、それに1953年(昭和28)には小滝橋公益質屋が新たに開設されている。3つの公益質屋の資金は約1,235万円と膨大で、当時は家庭へ手軽に融資してくれる銀行など存在せず、また消費者金融もなかった時代なので、人々はおカネに困ると戦前と同様に質屋通いをしていた。
 ただし、悪質な業者(町金融)もいたため、公共事業で質屋を経営する自治体は少なくなかった。新宿区の公益質屋の利用者数は、1957年度でのべ16,240人、1958年度でのべ13,460人と膨大な数にのぼる。貸し付けと利子には、以下のような規定があった。
  
 貸付金額は質物の評価の10分の7以下で一世帯について8,000円以内(将来増額する予定)であり、貸付利率は1ヶ月3分、流質期限は4ヶ月である。
  
新宿駅前夜景.jpg
牛込見附から神楽坂を望む.jpg
新宿御苑.jpg
 当時の大卒初任給が平均8,700円だから、今日の貨幣価値に換算すると22万円ほどだろうか。貸付上限の8,000円を20万円とすれば、満額借りると1ヶ月後には6,000円の利子が付加されることになる。公共事業にしては少し高いような気もするが、おカネを手軽に貸してくれるだけでも庶民にとってはありがたく、利用者は絶えなかったのだろう。
 「教育と文化」で目を惹くのは、「視覚教育」と「レクリエーシヨン団体」だろうか。
  
 ◇視覚教育…映画、テレビジヨンにより、行動的・実践的な新しい型の人間をつくるため知識や思想を伝え、生活の向上と高い文化をきずき上げるためusis映画を上映し、あるいは科学、ニュースその他教育映画を、テレビジヨンの公開映像で解説して科学知識の普及向上につとめている。 ◇レクリエーシヨン団体…レクリエーシヨン団体としては新宿区フオークダンス協会、新宿区釣魚会連盟及び新宿区写真連盟がある。
  
 「テレビばかり見てるとオバカになる」といわれて久しいが、当時は登場したばかりの目新しいメディアであり、人々の期待も少なからず大きかったのだろう。だが、『新宿区勢要覧』が発行される2年前、大宅壮一Click!が早くも一方的にタレ流しされる情報を、無批判にボーッと眺めるだけで論理的な思考や問題意識、批判力を鈍化させ停止させるメディアとして「一億総白痴化」を警告している。
 また、文中にある「usis映画」とは、United States Information Serviceが制作した映画の略で、米国思想を植えつけるための占領軍が奨励したプロパガンダ映画のことだ。いまだ占領下の影響が色濃く残っていた様子がうかがわれるが、自治体はこのような国の方針にNOとはいえなかったのだろう。新宿区が主宰するフォークダンス協会も、米国の肝煎りの臭いがプンプンする。そういえば、わたしが子どものころフォークダンスをずいぶん踊らされた記憶があるが、あれも占領軍政策の名残りだったにちがいない。
 「教育と文化」のページから、落合地域にあった教育機関や施設について調べてみよう。まず、各種学校で「日本通訳学校」というのが下落合4丁目1680番地(現・中落合4丁目)に開校していた。この地番は、先にご紹介した佐伯祐三Click!『看板のある道』Click!の描画位置から、三間道路を90mほど先へ進んだ左手にあたるのだが、この学校が現在のどの専門学校の前身にあたるのかが不明だ。
 また、当時は目白福音教会Click!宣教師館(メーヤー館)Click!を使用していた日本聖書神学校Click!(下落合1-500)は現在と変わらないが、七曲坂Click!の途中に大世学院(下落合2-286)というのが採取されている。これは富士女子短期大学の前身だが、同短大もすでに旧・神田上水(1966年より神田川)沿いに開校しているので当時は本部機能でも残っていたのだろうか。現在は、下落合1丁目7番地の田島橋Click!周辺に展開する東京富士大学のことだ。
西戸山小学校.jpg
西戸山中学校.jpg
早大演劇博物館.jpg
 幼稚園の項目を見ると、伸びる幼稚園Click!(上落合2-541/現在は「伸びる会幼稚園」)と目白平和幼稚園(下落合1-500)、目白ヶ丘幼稚園(下落合1-416)、みどり幼稚園(下落合4-1650/現在は「下落合みどり幼稚園」Click!)は変わらないが、尾崎行雄Click!の娘で佐々木久二Click!と結婚していた佐々木清香Click!が開園し、九条武子Click!も支援していた白百合幼稚園Click!(下落合3-1823)は閉園してしまった。
 また、オバケ坂Click!を登りきった九条武子邸跡の手前に、ルリ幼稚園(下落合2-791)というのが開園していたが、すぐにNHK落合寮や東洋信託銀行寮が建ってしまうので、開園期間は短かったのかもしれない。ルリ(瑠璃)は古代インドで尊重された宝石(ラピスラズリ)なので、経営していたのは仏教系の法人だろうか。
 さて、表3のページには、新宿の名所を紹介する写真が並んでいるが、今日の目から見るとやはりちょっとおかしい。新宿駅前の夜景や神楽坂はいいとして、国立国会図書館(1974年より現・迎賓館)は新宿区ではなく所在地は港区元赤坂だろう。キャプションをよく読んでみると、「東京中で、もっとも都塵の少ない、そしていちばん美しい国会図書館ふきん」と書いてある。なるほど、確かに当時の国会図書館(現・迎賓館)は新宿区に接しているので、ちょっとでも新宿区の一部が写真に入っていれば「ふきん」と表現して、なんとなく新宿区の風景になるのかもしれない。w
 新宿御苑Click!早大演劇博物館Click!はいいとして、「高田馬場駅のところ」という曖昧なキャプションはなんなのだろう。高田馬場駅が、特に新宿区内で“名所駅”であるはずもなく(高田馬場跡Click!なら話は別だが)、四ツ谷駅Click!や市ヶ谷駅、飯田橋駅のほうが、それぞれ千代田城Click!の外濠御門の見附跡駅で風景的にも映えるだろうに……と思うのだが、なぜか高田馬場駅Click!がチョイスされているのだ。
 1954年(昭和29)という年は、新宿の映画館の数が銀座を超えて26館となり、「銀座の商店の閉店は早いが新宿は夜がふけるまで賑やかで」などと書いているので、『新宿区勢要覧』の執筆者は銀座を競合相手と強く意識し、相当に気負って書いていたと思われる。確かに都庁が移転し、新宿駅が世界一の乗降客になり、ビジネスや商業では東京都はおろか日本の中心街となりつつあるように見えるが、残念ながら(城)下町Click!に比べて街としての歴史が圧倒的に浅いため(旧・四谷区と旧・牛込区は除く)、街の落ち着きはもちろん人々の間で紡がれる街の文化や風情が、いまだ確固としたものにはなってないように感じられる。
国会図書館.jpg
新宿区勢要覧1954表紙.jpg 新宿区勢要覧裏表紙.jpg
新宿区学校一覧.jpg
 わたしの目から見ると、時代の趨勢や流行にいともたやすく流されてモミクチャにされる、ドッシリと地面に接地していない、なんとなくフワフワした国籍不明ならぬ地域性不明の街……という感じがいまだにする。でも、言葉を裏返せば、そのような性格がこれからどうにでも変化していける可能性を秘めた街……ということへつながるのかもしれない。

◆写真上:なぜかグラビアの駅に選ばれた、1954年(昭和29)撮影の高田馬場駅ガード。
◆写真中上は、1954年(昭和29)に撮影された新宿駅前の夜景。は、同年の牛込見附から眺めた神楽坂方面。は、同年撮影の新宿御苑の台湾館前。
◆写真中下は、戸山ヶ原の西側に開校したばかりの西戸山小学校。は、同時期に開校した西戸山中学校。は、早稲田大学の演劇博物館。
◆写真下は、現在は迎賓館だが当時は国立国会図書館だった正門。手前の道路の半分までが新宿区で、道路向こうが港区だから「新宿風景」といえなくもないが。は、1954年(昭和29)に発行された『新宿区勢要覧』の表紙と表4。は、新宿区内のおもな公立・私立学校の一覧。1958年(昭和33)に創立される、西落合の落合第六小学校が未掲載だ。

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ようやく見つけた一枚岩(ひとまたぎ)の写真。 [気になる神田川]

一枚岩(拡大).jpg
 江戸期から神田川の名所のひとつだった一枚岩Click!を、わたしは「いちまいいわ」と読みそう呼んでいたが、地元では一枚岩と書いて「ひとまたぎ」と読み、また大正期までそう通称されていたようだ。取材不足で、とても恥ずかしい。
 証言が掲載されているのは、大正期から月見岡八幡社Click!の宮司をつとめていた人物の絵画や写真などをまとめた、1980年(昭和55)出版の守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影(うつりゆくかげ)』(非売品)だ。月見岡八幡社が、1962年(昭和37)に現在地へと遷座する以前、旧・八幡通り沿いClick!に面していたころの情景や写真類をまとめたもので、当時の同社は新・八幡通りや落合下水処理場Click!に境内東側のほとんどを大きく削られる以前なので、かなり広大な社域を有していた。同書では、前方後円墳Click!のようなかたちや地形をしていたと、著者自身が書きとめている。
 一枚岩(ひとまたぎ)があったのは、旧・神田上水(1966年より神田川)と北川Click!(井草流→現・妙正寺川)が落ち合う地点のわずかな下流域で、その読み方の通り、上落合村や上戸塚村のある神田上水の南側から、北側の下落合村へと抜けるとき、川中に露出した一枚岩を足場に“ひとまたぎ”でわたれたからだろう。わざわざ落合土橋Click!(比丘尼橋Click!→現・西ノ橋)へ迂回しなくても、ひとまたぎ(実際は対岸へ助走をつけた“ふたまたぎ”か?)で川越えできるのだから、かなり便利だったにちがいない。
 大正期に撮影された写真を見ると、江戸期に出版された市古夏生『江戸名所図会』Click!の挿画を担当した長谷川雪旦Click!の写生が、なかなか写実的だったことに気づく。ただし、一枚岩の大きさや水流の迫力を強調するためにか、人物はやや小さめに描かれていそうだ。もっとも、岩盤は川の流れで徐々に浸食されつづけているので、江戸期よりはそのサイズがかなり小さくなっている可能性が高い。
 写真は戸塚町側(現・高田馬場3丁目)から北西を向いて撮影されたと思われるが、長谷川雪旦の挿画は逆に下落合村側から西南西を向いて写生されているとみられる。写真にとらえられている流れもそうだが、当時の旧・神田上水や妙正寺川の川筋は、現在とはまったく異なっている。1935年(昭和10)前後に相次いで行われた直線整流化工事によって、蛇行を繰り返していた両河川は直前状に、あるいはカーブの角度をできるだけゆるやかにして氾濫を防止するコンクリートの護岸が構築されている。その際、一枚岩(ひとまたぎ)は取り除かれるか、干された川筋ごと土砂で埋められて姿を消した。
 1791年(寛政3)に完成した『上水記』Click!や、1852年(嘉永5)の『御府内場末往還其外沿革図書』Click!など江戸期の資料を参照すると、旧・神田上水や妙正寺川の川筋は大正期までほとんど変化のないことがわかる。その川筋を前提に一枚岩があった正確な位置は、1983年(昭和53)に上落合郷土史研究会から出版された『昔ばなし』Click!(非売品)の古老証言によれば、現在の西武線・下落合駅の南東側に位置する同鉄道の変電施設のあたりということになる。おそらく、直線整流化工事が行われる以前の、旧・神田上水と妙正寺川とが合流していたポイントの、ほんの少し東側(下流)ということになる。ということは、『江戸名所図会』の「落合惣図」に描かれた位置も、かなり正確だったことに気づく。
 『昔ばなし』から、一枚岩(ひとまたぎ)の箇所を一部引用してみよう。ちなみに、1824年(文政7)に書かれた『落合八景略図』は、残念ながら未見だ。
一枚岩.jpg
長谷川雪旦「一枚岩」.jpg
御府内沿革図書1858.jpg
  
 また文政七年の「落合八景略図」(中村多喜蔵氏所蔵)にも「落合一枚岩」の図が書かれている。そしてその図の横に/水音も 岩おに居茶や 堀の道/千鳥なく 川辺にかへる むれ鷹の/岩おに とまる 姿との 追風/と書いてあるそうです。この一枚岩は、神田川と妙正寺川の合流点に在った。(中略) 何れにしてもこの一枚岩附近の流れは奇景であり、江戸時代の風流人が集り来てこれを眺め、杯を交わし清遊したのでしょう。さて、落合の一枚岩は何所の辺に在ったか? と言うと、下落合駅の下りホームの高田馬場よりの所に小さな変電所があるあの辺らしいと言われている。
  
 さて、『移利行久影』には大正末か昭和初期に撮影された、旧・神田上水と妙正寺川の合流点の写真も収録されている。もちろん、この合流点も直線整流化工事で場所がまったく変わってしまい、工事以降は本来の位置から180mほど下流で両河川は合流していた。旧・神田上水は、それなりに幅があって河川と呼ぶにふさわしい流れだが、妙正寺川はまるで小川で、橋などわたらなくても対岸へは(男なら)ひとっ飛びでわたれただろう。
 同じく、妙正寺川を写した写真に「どんね渕附近」という1葉がある。「どんね渕」があったのは、落合土橋(比丘尼橋→現・西ノ橋)のわずか上流で、地番でいうと上落合275番地あるいは下落合1110番地あたりの流域だ。この「どんね」とはどういう意味か、しばらく考えてしまった。最初は、原日本語か古朝鮮語を疑ったが、おそらく古い江戸東京地方の方言ではないだろうか。「どんね」は、本来「どんねえ」と発音されていたはずで、「どうむねえ(どうもない)」が転訛した簡略(省略)形のように思われる。
 つまり、「どうもない」=「どうもしない」「大丈夫」「なんともない」という意味で、地名に当てはめられれば「たいしたことない(危険でない=小規模な)渕」という意味になる。小流れの妙正寺川にある渕は、確かに旧・神田上水の溺死者がでる危険な渕Click!に比べれば、川底に引きこまれる恐れもない流れの小さな渦で(そもそも川底には子どもでも足が着いたろう)、ぜんぜん危なくない「どんねえ」渕だったにちがいない。
御府内沿革図書+空中写真.jpg
落合合流点.jpg
どんね渕.jpg
 妙正寺川の様子を、『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)から引用してみよう。
  
 妙正寺池から流れる小川に「トゲの魚」という巣を作る小魚が棲んで居りました。徳川将軍代々、この川は魚釣をする川とやらで、昭和の初め頃まで随分魚が獲れました。また「ホタル」や「川うそ」も明治の頃まで居たそうです。「川うそ」はたんぼに穴を掘ったり、魚を獲る網にいたずらをしたそうです。上野の戦争の時、彰義隊の雑役夫として、此の土地の若い男が連れていかれる!という噂が拡がって若い男達はこの川に入って筵をかぶってかくれたそうです。
  
 江戸期には、神田上水での釣りは禁止されていたが(それでも水道番Click!の目を盗んでは釣りをしていたようだが)、そのぶん支流である妙正寺川は大っぴらに魚釣りが許可されていたようだ。ニホンカワウソClick!は、妙正寺川の随所に棲息していたようで、さらに上流の和田山Click!付近でも頻繁に目撃された記録が残っている。また、彰義隊Click!の「雑役夫」のウワサは、もちろんデマだ。
 『移利行久影』にはもう1葉、上落合の旧・神田上水沿いに展開した工場地帯で、頻繁に火災が起きた前田地区Click!付近をとらえた写真が収録されている。大正末から昭和初期にかけての、旧・神田上水の規模や流れがわかる貴重な写真だ。旧・神田上水の蛇行の形状から、左側の煙突は前田地区にあった佐藤製薬工場の焼却炉かなにかで、対岸に見えているのはおそらく戸塚町の住宅街だろう。
 だとすれば、旧・神田上水の流れは画面の右手、すなわち東側へ直線状に大きく修正され、画面に写る流れ全体が埋め立てられることになる。そして、1937年(昭和12)になると埋立地の地番となる上落合1丁目136~141番には、明星尋常小学校Click!(現在は上落合の落合水再生センターClick!内)が建設されている。
 こうして見てくると、旧・神田上水や妙正寺川の蛇行修正で、落合町と戸塚町の町境や上落合と下落合の大字境が随所で入れ替わり、修正されていることに改めて気づく。面白いのは、落合町と戸塚町とでは、整流化された旧・神田上水が町境としてほぼきれいに設定できているのに対し、高田町と戸塚町とでは旧・神田上水の蛇行した工事前の流れがそのまま町境となっており、随所で神田川の此岸や対岸で高田町と戸塚町とが飛びとびに入り組んでいるのは、当時もいまも変わらない。やはり、町境以前に豊島区と淀橋区の区境ということで、どうしても話し合いがつかず双方で譲らなかったものだろうか。
前田地区.jpg
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守谷源次郎宮司.jpg 移利行久影奥付.jpg
 『移利行久影(うつりゆくかげ)』には、これまで空中写真や地図でしかうかがい知ることができなかった、かけがえのない貴重なスケッチや写真が数多く収録されている。上落合地域に、昭和初期ごろまで残されていた多彩な古墳群にも言及されており、その調査には鳥居龍蔵Click!も参加している。また機会があれば、ぜひご紹介してみたい重要な記録だ。

◆写真上:大正期に撮影されたとみられる、旧・神田上水の一枚岩(ひとまたぎ)。
◆写真中上は、一枚岩の全景。は、『江戸名所図会』の長谷川雪旦が描く一枚岩で、まだ浸食がそれほど進んでいないのがわかる。は、1858年(安政5)の『御府内場末往還其外沿革図書』へ「一枚岩」と「どんね渕」のおおよその位置を記載。
◆写真中下は、現在の空中写真と『御府内場末往還其外沿革図書』(「江戸~東京重ね地図」より)を重ね合わせた透過図。は、大正末ごろの妙正寺川と旧・神田上水が落ち合う合流点。一枚岩(ひとまたぎ)は、この合流点からわずかに下流(画面では右手枠外)の位置にあった。は、西ノ橋のやや上流にあった「どんね渕」あたり。
◆写真下は、前田地区を流れる直線整流化工事前の旧・神田上水。は、1980年(昭和55)に出版された守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影』(非売品)。下左は、同書の著者である月見岡八幡社の故・守谷源次郎宮司。下右は、同書の奥付。

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富永哲夫博士による家庭衛生の常識。(7) [気になる下落合]

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 現在でも、下落合で悩まされている害虫にヤブカ(薮蚊)がいる。正確には、ヒトスジシマカとかヤマトヤブカなどに分類されるようだが、あの縞々パンツをはいたやつに刺されると強烈なかゆみが襲ってくる。樹木が多く繁り、森林の中に泉や池があるような環境では、ヤブカの大量発生はやむをえないのだろう。イエカ(家蚊)とちがい、蚊取り線香の煙ではなかなか死なず、しぶとく人間の吸血をねらって襲来を繰り返す。
 害虫の中でも、人間に寄生・依存して生きるものは、おおまかに「寄生虫」の範疇に分類され、カやノミ、ナンキンムシ(トコジラミ)などは「一時的寄生虫」に規定されている。これに対し、以前の記事Click!に登場した人体内に寄生して生きるカイチュウやジョウチュウなどは、「持久的寄生虫」として分類されている。昭和初期の規定なので、現代の衛生学上ではより細目な分類が行なわれているのかもしれない。
 昭和初期は、日常生活でもノミがそれほどめずらしくなかった時代で、1896年(明治29)に衛生学の生みの親である緒方正規が、台湾でペスト(黒死病)の流行はネズミのノミが媒介することを突きとめ、以来、日本をはじめ世界各国ではノミの撲滅運動が盛んになった。緒方正規の研究によれば、ペストの流行は人間より先にネズミの集団内で起き、寄生したネズミが全滅してしまうと、今度はノミが人間に寄生してペストを流行させることが証明された。ヨーロッパでは、長い間「ペストはネズミが媒介する」といわれてきたが、ペスト菌を運んでいたのはネズミ自体ではなく、寄生するノミだったのだ。
 ノミは、一度に8~10個の卵を産み、1匹の雌ノミは一生に750~800個の産卵を繰り返すといわれている。卵(0.4~0.7mm)には粘着性がなく、人体や着物に産みつけられてもパラパラと床面や地上に落ち、暗い隙間などに吹き寄せられて孵化する。幼虫は、塵埃が多い家具の隙間や畳の目、畳下、床下などで棲息して12日前後で成虫となり跳躍しはじめる。ノミは直射日光を好まないが、ジメついた湿度の高い場所も苦手なようだ。
 以上のノミの性質を前提に、富永哲夫Click!『家庭衛生の常識』Click!(帝國生命保険/1932年)の中で、清潔を保ちさえすればノミの繁殖は防げるとしている。ノミが棲息しやすい日本間の場合、畳の目を「真空掃除機」で吸うのが理想的だが、よく絞った雑巾で拭きとるのも効果があると書いている。昭和初期、性能のいい「真空掃除機」=電気掃除機は輸入品が中心であり、しかもかなり高価だったので、庶民が手軽に購入するわけにはいかなかった。銀座の輸入家電専門店「マツダ・ランプ」Click!へ、しじゅう出かけていた新しもの好きな村山籌子Click!は、英国製の電気掃除機を使っていたが、村山知義Click!の目玉が飛びでるほどの高額だったろう。
 ノミは、塵埃の多い乾燥した場所を好むので、電気掃除機がいちばん効果的な駆除法だったようだが、薬品による駆除も紹介している。同冊子より、引用してみよう。
  ▼
 殺虫用薬品として最も有効なるは石油又は石油乳剤である。蚤は石油に対して極めて弱く殆んど瞬間に死滅するものである。五月頃、畳及び床を清掃して塵を払ひ、床板の上に二三枚の新聞紙を隙間なく敷き詰め、それに石油、石油乳剤、樟脳油、「クレゾール」等を噴霧にしてかけ、その上に畳を敷くのである。尚地面にも石油乳剤を撒布すれば充分効果を現はすことが出来る。/除虫菊粉即ち蚤取粉は有効ではあるが、蚤を昏朦麻痺の状態に陥れるのみにて撲滅の目的を達することは出来ぬ。即ち麻痺の状態にある蚤を集め処分する必要がある。/其他「ベンヂン」、「テレピン」油、「クレゾール」、「クレオリン」等も相当有効である。「ナフタリン」は五-六時間にて漸く奏功するものであるから、余り有効とは云ひ得ない。
  
 これらの薬物の使用は、今日ではカンベンしてほしい駆除法だ。家じゅうが、臭くなってたまらない。現在、外壁用のクレオソートClick!さえ条例によって禁止されている有毒物質なので、室内にこれらの薬物を噴霧したら、人体になんらかの影響があるだろう。
ネコノミ.jpg 米国GE真空掃除機1928.jpg
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 次に、カも深刻な病気をもたらす害虫で、フィラリア病や黄熱病、マラリアなどを媒介することが知られていた。また、コガタアカイエカと日本脳炎の因果関係が発見されるのは、富永哲夫が同冊子を書いてから3年後、1935年(昭和10)になってからのことだ。同年に、どうやら日本脳炎ウィルスがコガタアカイエカを媒介にして発症するらしいことが確認されている。また、2014年(平成26)にヒトスジシマカ(ヤブカ)がデングウィルスを媒介して、都内で100人を超えるデング熱患者が出たのは記憶に新しい。
 昭和初期は、道路が舗装されておらずあちこちに水たまりがあり、道路の側溝(下水溝)には蓋がされていなかったため、ボウフラが繁殖する温床となっていた。カの産卵は、一度に65~350個におよび2~5日でボウフラになる。4回ほどの脱皮のあと、蛹(さなぎ)になって成虫になるまで、およそ10~23日ほどかかる。カを撲滅するためには、ボウフラや蛹のうちに退治するのが肝要だとしている。また、できるだけ地面を平坦にして水たまりをつくらず、湧水源や池には魚を放しておけばカの発生は防げるとしている。
 だが、カの幼虫を駆除するのにも、富永哲夫は薬品を推奨している。
  
 水溜(みずたまり)に生存する幼虫の撲滅には石油が最も有効である。水面一平方米(メートル)につき三〇立方糎(センチメートル)の割合に石油を使用すれば充分である。一週間に一度づゝ石油を撒布すれば孑孑(ボウフラ)及び蛹を殺し蚊の発生を防ぎ充分目的を達することが出来る。/成虫の撲滅に対しては燻臭法として「テレピン」油、沃土(ヨウド)「フオルム」、薄荷(ハッカ)油、樟脳油等を用ひて効果がある。煙草、除虫菊、纈草根(けっそうこん=カノコソウのこと)、「ユーカリ」樹の葉等を燻煙しても効果がある。市中に販売せらるゝ蚊取り線香は主として除虫菊にて作らるゝものであるが、不良品が少なくないから注意を要するものである。(カッコ内引用者註)
  
 文中に「除虫菊」や「纈草根」の名称が出ているが、これらの植物は昭和初期には重要な栽培植物で、欧米諸国へ向け「除虫剤」として大量に輸出されていた。
 それにしても、水たまりやドブにいるボウフラなどを退治するのに、またしても臭い石油系の薬剤がいくつか紹介されているが、これでは街じゅうが臭くなってしまうではないか……との懸念がある。事実、わたしが物心つくころには、側溝(下水溝)へこれらの油性剤がいまだ多く撒かれ、住宅街全体が臭かった記憶がある。
 蚊取り線香(除虫菊など)やハッカ油は、現在でも「蚊除け」として使われているが、これらの衛生努力を重ねてもカの発生はほとんど抑えられず、結局、人々は蚊帳を吊って寝るのが常態だった。わたしが幼稚園へ通うころまで、緑色の蚊帳を自宅でも吊っていた記憶がうっすら残っているが、祖父の家へ出かけるとずいぶんあとまで蚊帳を見かけたものだ。。
ボウフラ.jpg ヤブカ.jpg
側溝排水溝.jpg
除虫菊.jpg カノコソウ.jpg
 さて、もっとも馴染みのない害虫がナンキンムシ(トコジラミ)だが、わたしは一度だけ友人の下宿で見たことがある。高校を卒業したばかりのころ、大学に通う友人のアパートへ遊びにいったら、「夕べ、つぶしてやったぜ」と、血を吸って4~5mmほどに大きくなった数匹の死骸を見せられた。夜に床へ入ると、なぜか背中や足のあたりがモゾモゾし、翌朝になると強烈なかゆみに襲われたとかで、自身の身体をオトリにして連日、ナンキンムシと戦争をしているようだった。薬剤を買えば、すぐにでも駆除できそうなものだが、友人はどこか「戦争」を楽しんでいるフシが見えた。
 ナンキンムシは、特に重篤な病気を媒介することはないが、刺されたあとのかゆみはカやノミよりも強烈という話だ。人をはじめ、動物の血を吸って生活している虫だが、エサに数ヶ月間ありつけなくても生きていられるしぶとい虫らしい。一度に7~8個の卵を産み、7~8週間で成虫になる。欧米諸国でも、ナンキンムシは悩みの種だったらしく、ベッドの脚をツルツルにして這いあがれなくしたり、ベッドの脚の先に水をためられる小さな容器を取りつけたりと、さまざまなナンキンムシ対策が考案されたようだ。
 富永哲夫はここでも、あとあとまで強烈に臭う薬物の使用を奨めている。
  
 揮発油、昇汞水(しょうこうすい)、「ストロハン」丁畿(チンキ)、「アルコホール」、錯酸(さくさん)、石炭酸、安息香酸、「ベンヂン」、「テレピン」油、石油、「クレシン」或は「フオルマリン」等を噴霧器により隙間に吹き込み、或は又硫黄燻蒸、硫化水素燻蒸、青酸瓦斯燻蒸、除虫菊燻蒸、「フオルマリン」蒸気或は熱蒸気法等を応用することがある。尤もこれ等の薬品並に方法は成虫を駆除するには有効であるが、卵には何等効果がない。従つて繰り返し行ふ必要がある。(カッコ内引用者註)
  
 アルコールはともかく、いずれも強い臭いが長く残る薬剤が多いが、「硫化水素燻蒸」とか「青酸瓦斯燻蒸」など、ヘタをすれば住民が「燻蒸」されかねない強烈な毒物だ。
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クレゾール.jpg テレピン油.jpg
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 子どものころ、銀座の地蔵祭Click!かどこかで戦前からつづく、「三寸」=露天商Click!の見世による「おみくじウグイス」Click!を見たことがあるが、親父が子どものころには「ノミのサーカス」という見世物もあったそうだ。にわかには信じられなかったが、海外ではいまだ現役のようで、実際にノミが跳ねて空中ブランコに乗ったり、小さな遊具で遊んだりする。ウグイスとちがって、ノミに芸を仕こむのはたいへんだったろう。エサで釣って芸をおぼえさせるのだろうが、そのエサは露天商の手先から吸う生き血だったのかもしない。

◆写真上:侵入したカを退治するため、いまでもたまにお世話になる蚊取り線香。
◆写真中上上左は、ネコに寄生するネコノミ。上右は、1928年(昭和3)に発売された米国GE社の最新式「真空掃除機」。は、昭和初期の住宅は圧倒的に畳敷きの部屋が多かった。は、火を使わずに害虫を駆除できる現在の室内燻蒸。
◆写真中下は、カの幼虫のボウフラ()とヤブカ()。は、排水用に開けられた側溝口。は、明治以降は欧米にも盛んに輸出された除虫菊()とカノコソウ()。
◆写真下は、陽当たりの悪い湿った部屋に棲息するナンキンムシ(トコジラミ)。は、病院臭でおなじみのクレゾール石けん液()と、油絵には欠かせないテレピン油()。は、着物の防虫剤に使われる樟脳油()と、理科室の標本でおなじみのホルマリン()。

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「公楽キネマ」に出稿する上落合の商店。(下) [気になる下落合]

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 公楽キネマClick!で映画を観たあと、「ちょっと、そこらで一杯いこうや」という帰りがけの客層をねらう、上落合とその周辺の飲み屋が出稿した広告も多い。広告の掲載媒体(映画館)を考慮し、ターゲットを絞りこんでいる点では、マーケティングが練れた広告づくりといえるだろう。しかも、なぜか沖縄の泡盛を宣伝する広告の目立つのが特徴だ。
 たとえば、1933年(昭和8)8月31日のパンフレット「公楽キネマ」に掲載された飲み屋のうち、2軒までが泡盛お奨めの店になっている。まず、上落合1丁目231番地に開店していた「豊後屋 泡盛食堂」は、八幡通りに面している。
 「泡盛を呑めば 暑さも何処へやら」と誘うキャッチコピーは、「公楽キネマ」を観たあと下落合駅方面へ向かう帰りがけの観客や、上落合東部の住民たちの来店を意識しているのだろう。「肴はお好み是非召しませ泡盛を」と、呑兵衛にはたまらないコピーだが、この広告に誘われて仲嶺保輝Click!南風原朝光Click!など沖縄出身の画家たちClick!は、せっせと通っていたのかもしれない。
 同じ泡盛を常備している飲み屋には、戸塚町4丁目617番地に開店していた「薩摩屋」がある。この所在地は、小滝橋Click!を東へわたった交差点の真正面あたりで、明らかに映画館から山手線・高田馬場駅方面へ帰る観客、すなわち戸塚町の西部住民をターゲットにしているとみられる。「沖縄純粋泡盛 のんで味あふ真の味」というキャッチだが、当時は泡盛のブームが起きて、ニセモノの泡盛モドキも多く出まわっていたのだろうか。
 「朝のめば晩も召さずに居られない」は、朝っぱらから泡盛かよ……という気がするが、当時は朝から開店している郊外の飲み屋も少なくなかった。耕地整理で住宅地が造成されると、その土地に貸家を建てて家賃をとり、あっという間に高額所得者の大地主Click!になった元農民の例は枚挙にいとまがない。礒萍水Click!が紹介している、同じ郊外地域だった目黒の「鍬を担いで咥え煙管の爺さん」は、決して特殊な例Click!ではなかった。田畑の仕事がなくなったのですることがなく、朝から泡盛を飲んでは紅い顔をして街をフラフラ出歩く大地主が、落合地域にもいたのかもしれない。
 次は、少々色っぽい気になるキャッチフレーズだ。上落合1丁目170番地の小料理屋の「壽々木家」で、八幡通りから南の早稲田通りへと出る直前の西側で営業していた飲み屋だ。公楽キネマからも近く、東へ直線距離で240mほどのところだ。「美味和洋小料理」はふつうだが、「料理揃へてかん付けてぬしの おいでを待つばかり」と、まるでお座敷で芸者がささやきかけるようなコピーになっている。これを読んで、「ほいほい、いまいくよ」と出かけたお父さんも多いのではないだろうか。
 「壽々木家」は、特に泡盛をアピールしていないので、ちょっと色っぽい(かもしれない)女将(おかみ)のいる、ふつうの日本酒と小料理を提供する店だったのだろう。和食の小料理ばかりでなく、洋食の小料理もできるところが、他店との差別化を意識している点だろうか。なんとなく、周辺住民の常連客が多そうな雰囲気の店だ。
 さて、1933年(昭和8)9月7日のパンフレット「公楽キネマ」には、6軒の商店が広告を出稿している。まず、現在のエステサロンに相当する「美容百萬弗(美容百万ドル)」から見てみよう。所在地が小滝通りと書いてあるので、小滝橋交差点を右折して豊多摩病院Click!のほうへと向かう途中に開店していた店だろう。
 「美顔術 ¥.50以上」(爆!)は、とんでもない価格だ。当時の1円を約2,500円前後(物価指数換算)とすると、この美顔術はつごう約12万5,000円以上はかかりますわよ……ということになる。昭和初期の美顔術は、どのような技術を顔面に施していたのだろうか。白髪染めのほうは、「殿方」が50銭なのに対し「御婦人方」は松・竹・梅と分かれており、いちばんいい染めを選ぶと髪が長いのを前提にしてか梅染5円(約12,500円)もかかった。それでもニーズがあって営業ができていたのは、この店の西側の丘上にある大屋敷街・小滝台住宅地Click!(旧・華洲園Click!)から、常連客が通ってきていたのだろうか。
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 次は、前回ご紹介した魚屋「魚福」や「ときわ湯」のごく近くで開店していた、小滝町46番地のクリーニング店「昭和ドライクリーニング商会」だ。この業種も競合店が多かったらしく、「他店よりもヅント勉強致します」をキャッチフレーズにしている。クリーニング店も当時は御用聞きがふつうで、各家庭を訪問しては洗濯物を集めてまわり、わざわざ顧客が店に出かけて洗濯物を依頼するほうが少なかったかもしれない。わたしが子どものころまで、自転車の荷台に丈夫な布製の大きな“箱”をくくりつけたクリーニング店員が、各家庭をまわってはクリーニング済みの衣服を配達していた記憶がある。
 つづいて、どこの街にもあった写真館「技術本位の店 御園スタヂオ」だ。「写真・丁寧・迅速・優美」をモットーに、上落合1丁目120番地で八幡通りの中ほど東側、昭和電機工場のすぐ南側で営業していた。ボディコピーが、まるで漢文のようで読みにくく、「出張写真遠近昼夜出張費不要 写真写物昼夜の別なく迅速優美 現像焼付特に安く優美に仕上ます」と、アピールしたいことをすべて詰めこんだ欲ばりコピーだ。
 次に、所在地が不明な「ちばや料理店」だが、明らかに前回ご紹介した「美人のサービスはありませんが親爺の熱心な板前振りを味つて下さい」の「岐阜屋食堂」を強く意識しているコピーなので、同じ八幡通り沿いで近接しながら営業していた競合店だろうか。いわく、「美人のサービスあり 料理は自慢一度お試食を願ひます」とあり、「江戸前料理をお味ひ下さい」がキャッチフレーズだった。
 わたしなら、ついフラフラと「ちばや料理店」に出かけてしまいそうだが、店名も岐阜と千葉とで県名(おそらく店主の出身地だろう)を掲げた同士となり、八幡通りではお互いの店を意識してライバル視していたのかもしれない。もうひとつ、料理の文化や趣味・風味という点でも、同じ関東で東京湾や太平洋に面した千葉のほうが、親しみを感じまた味も信用できそうなので、わたしなら決して「美人のサービス」に惹かれるだけでなく(ほんとうかな?)、「ちばや料理店」のほうへと出かけそうだ。
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 つづいて、ようやく出ました喫茶店の広告で、中野住吉通りに開店していた「グロリー喫茶店」だ。中野住吉通りとは、中央線・東中野駅へ向かう旧・住吉町と旧・小瀧町(現・東中野4~5丁目)を縦断する道路のことで、公楽キネマから南西へ斜めに入っていく通りのことだ。大正期から昭和初期にかけ、上落合に住むプロレタリア作家たちが「プロレタリア通り」と呼んでいた道路で、現在では区検通りと名づけられている。
 キャッチが「毎度有難う御座います」なので、けっこう流行っていた喫茶店なのだろう。明らかに、東中野駅方面へと向かう客層を意識しており、「キネマのお帰りにお立寄り下さいませ お待ち申して居ります」と女性言葉のコピーなので、店主はママだったにちがいない。住吉通りは、東中野駅前へ近づくほどにぎやかな商店街となるのは当時もいまも変わらず、数多くの喫茶店や飲み屋が通り沿いに出店していた。
 最後は、やや地味な広告で「足袋各種 壽屋足袋店」だ。上落合1丁目189番地といえば、以前にご紹介した宇田川利子Click!が嫁いで苦労を重ねた宇田川邸の広い敷地内で、八幡通り沿いに宇田川家が建てた貸店舗を借りて、壽屋足袋店は営業していたのだろう。「皆様のタビ店 御誂物御用は是非当店へ」と、これまた地味なコピーで宣伝している。
 当時は、洋装よりもまだまだ和装のほうが優勢だったので、足袋の需要はそれなりに多かったのだろう。女性の日本髪はすたれ、髪をゆわえる元結Click!の需要は大幅に下がっていったが、髪型は洋風でも衣裳は着物という生活が定着し、日常生活において足袋は男女ともに必需品だった。店の位置が「八幡神社際」とあるので、壽屋足袋店は月見岡八幡社境内にも面し、宇田川邸敷地の北側角地にあったと思われる。
 さて、パンフレット「公楽キネマ」に掲載された広告を見てくると、やはり飲食店の広告が目立っている。他の業種のように、御用聞きがまわる決まったテリトリーあるいは営業エリアがあるわけでなく、とにかくひとりでも多くの顧客が店に足を運んでくれなければ商売にならない業種が、積極的に広告を出稿している。
 1933年(昭和8)の当時、それまでは付近の飲み屋や喫茶店に足しげく通い、情報交換や議論を闘わせていた上落合のプロレタリア作家や美術家、アナキスト、タダイストたちは、あらかた特高Click!に検挙されるか地下に潜行して表面上は鳴りをひそめていた。
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 飲み屋や喫茶店での議論や、仲間同士の喧嘩も少なくなっていただろう。一般の庶民にとっても、息苦しい時代がすぐそこまで迫っていた。当時、公楽キネマの上映作品は無声映画だったが、どのようなタイトルが上映されていたのか、それはまた、別の物語……。
                                <了>

◆写真上:旧・八幡通りが通っていたあたりで、現在は落合水再生センターの敷地内だ。同施設は神田川のほか、現在では渋谷川や古川、目黒川の“源流”となっている。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真でひときわ白く輝く公楽キネマ。は、1933年(昭和8)の「公楽キネマ」8月31日号に掲載の広告。
◆写真中下は、現在の八幡通り。は、小滝橋交差点の左から早稲田通り・諏訪通り・小滝橋通りで、「薩摩屋」は諏訪通りあたり(当時は未設)に、「美容百萬弗」は右折した小滝橋通り沿いに開店していた。は、上落合を流れるサクラ並木の神田川。
◆写真下は、1933年(昭和8)の「公楽キネマ」9月7日号に掲載された広告。は、1936年(昭和11)の空中写真に前記事も含めた各店舗の所在地を記載したもの。

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「公楽キネマ」に出稿する上落合の商店。(上) [気になる下落合]

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 上落合521番地にあった映画館「公楽キネマ」Click!では、上映作品がかけかわる1週間ごとに、作品の概説を掲載した小型2つ折りのパンフレットを制作していた。そして、次回の翌週に上映予定の作品予告も入れ、何号かに一度は上落合に開店していた当時の商店向けに、まとまった広告スペースを提供している。
 きょうは、同映画館のパンフレット「公楽キネマ」に出稿していた、上落合とその周辺の商店についてご紹介したい。ひょっとすると、山手大空襲Click!で焼けてしまう戦時中まで営業をつづけていた商店があれば、記憶されている方、あるいは実際に店を利用された方がおられるかもしれない。上落合の商店街は、空襲でほぼすべてが壊滅しているので、戦前に開店していた商店を具体的に知ることができる情報は貴重でめずらしい。
 たとえば、1933年(昭和8)8月17日に発行された「公楽キネマ」の表4には、周辺の商店6軒が広告を出稿している。店主によっては、キャッチコピーもいろいろ工夫しているようで面白い。まずは、上落合の八幡通りにあった「岐阜屋食堂」から。
 ここでいう八幡通りClick!とは、現在は小滝橋へと向かう関東バスClick!が走る、1962年(昭和37)まで移転前の月見岡八幡社Click!の正面鳥居と階段(きざはし)が面していた道路のことではない。現在は消滅してしまった、古くからの旧・八幡通りのことだ。いまの八幡通りは、広大な落合下水処理場Click!(現・落合水再生センターClick!)が建設される際、西へ40~60mほどズラして再敷設されたもので、1933年(昭和8)当時の八幡通りは現・八幡通りからかなり東寄りに通っていた南北の道筋だ。
 岐阜屋食堂のキャッチコピーは、「美人のサービスはありませんが親爺の熱心な板前振りを味つて下さい」とあり、映画を観たあとの「御帰へりに是非御お立寄り御試食を」と「御」だらけのコピーだ。「御(おん)お立ち寄り」などという言葉づかいは初めて見るが、この店で発行されるのは「御食事券」となり、「汚職事件」とからめてなにかオバカ記事が書けそうだ。そして、メニューには「超西洋料理/超支那料理」とあるが、90年代の大学生じゃあるまいし、「チョー」がつく料理には残念ながら食欲がわかない。
 次に、「どこよりも一番勉強する店 硝子入替五銭」というキャッチは「金昭堂時計店」だ。この時計屋さんも八幡通り沿いに開店していた店だが、現在では広告コードにひっかかってこのキャッチはアウトだろう。「一番勉強する」は「一番安い」といいたいのだろうが、どうして「一番」だと表現できるのか、その根拠や出典の表示が求められてしまう。昭和初期、時計用の強化ガラスやサファイアガラスなど存在せず、腕時計や懐中時計のダイヤルを覆うガラスは脆弱で、どこかにぶつけたりすればすぐにヒビが入るか割れてしまったのだろう。当時の5銭は、キャラメル1箱と同ぐらいの価格で、また山手線の初乗り料金と同額なので、確かにかなりリーズナブルかもしれない。
 つづいて、公楽キネマの坂上にあった「岡田調髪所」という床屋さんだ。「皆様の御調髪は当店へ」と、おとなしめなキャッチが載っている。調髪が30銭に対して顔剃りが20銭と、髭をあたるだけのほうが当時はかなり高かった。所在地が「公楽キネマ坂上」とあるが、現在はかなり勾配が工事で削られてゆるやかになっているものの、公楽キネマは小滝橋からつづくダラダラ坂Click!の途中に位置しており、「坂上」ということは映画館の西側につづくダラダラ坂を上りきったあたりという意味だ。
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八幡公園.JPG
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 次に、「いつもおいしい焼立てのパンを売る店」とストレートで、しごく真面目なキャッチを乗せているのは「木村屋パン店」だ。当時は、銀座の木村屋でアンパンが大ヒットしたのにあやかり、東京じゅうに「パンの木村屋」がオープンしていた時代だ。現代なら、商標権の侵害ですぐにも裁判沙汰だろうが、当時はおおらかな時代だったのだろう。
 このパン屋さんも公楽キネマの並びで営業しており、所在地が上落合2丁目576番地とある。映画館から、早稲田通りを西へ400mほど歩いたところ、ちょうど大塚浅間古墳(落合富士)Click!の手前にあたるところ、現在は山手通りの交差点にさしかかる手前右手の敷地で開店していたパン店だ。
 つづいて「薬の御用は保命堂薬局へ」と、こちらもストレートなキャッチの薬屋さんだ。薬剤師の名前が山中一樹と記載されているが、残念ながら『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会/1932年)には掲載されていない。所在地が「公楽キネマ」前とあるので、早稲田通りをはさんだ向かい側にオープンしていた薬局だろう。
 早稲田通りをはさんだ向かい側は、東中野のエリアだと思われがちだが、映画館の南東向かいから東へ130mほどが、通りの南側へ張りだした上落合の町域だった。ちょうど、目白通りの北側に下落合の町域がエンエンと900mにわたってつづくように、村境を意識せず道路を敷設したせいで起きる“飛び地”現象なのだろう。したがって、保命堂薬局が上落合なのか東中野側なのかはわからない。
 次は、特にキャッチフレーズを掲げない「武蔵屋・加藤錦蔵商店」という、「清酒卸小売商」=酒問屋兼酒屋だ。加藤錦蔵は『落合町誌』に掲載されており、住所が上落合525番地となっているので、広告の上落合1丁目524番地は早稲田通りに面した店舗のみの所在地で、自宅は引っこんだ奥にあったのかもしれない。
 上落合524番地の住所には、大久保射撃場の廃止移転を衆議院に請願Click!した、当時は落合町会役員で月見岡八幡社の氏子総代だった署名筆頭の加藤公太郎Click!が住んでいた。公楽キネマのすぐ西隣りに位置する区画で、武蔵屋・加藤錦蔵商店は通り沿いで開業していたのだろう。同じ加藤姓で敷地も隣接しているので、公太郎と錦蔵は姻戚関係だろうか。
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 つづいて、1933年(昭和8)8月31日の「公楽キネマ」には、八幡通りで「岐阜屋食堂」の競合店である「ちとせ食堂」が出稿している。「定評あるちとせへおいで下さい/佳味美味をお味あひ下さい」というキャッチなので、八幡通りでも営業が古く「岐阜屋食堂」とは知名度と「定評」で差別化したかったものだろうか。これだけで、どのような料理を出すのかまったく不明だが、地元の住民たちには自明のことだったのだろう。
 次に、公楽キネマの東隣りの上落合519番地で営業していた「カチドキ堂看板店」だ。当時、日本家屋の外壁には腐食防止のクレオソートClick!が塗られたが、洋風の外観で好きな色のペンキを塗る住宅も少なくなかった。.特に西洋館が多かった落合地域では、かなり需要が高かったのだろう。また、住宅が増えるにつれ商店の進出も急速に進んだので、看板書きのニーズも急増し商売は流行っていたのではないだろうか。「他店より勉強致します 御用はカチドキへ」は、それだけ競合店の多かったことがうかがわれる。
 つづいて、「当店自慢品は新鮮値は安し」の魚屋さん兼仕出し屋の「魚福」だ。所在地は「中野小瀧ときわ湯隣り」とあるが、ときわ湯は中野区小瀧町46番地にあった銭湯のことだろう。公楽キネマから早稲田通りをはさみ、南西へ60mほどのところに位置し、銭湯ときわ湯の後継がいまの「松本湯」(中野5丁目)ではないだろうか。
 魚屋の自慢が「新鮮」なのは当然だが、当時は魚を“おつくり”にして出前する仕出し料理の注文も多かったのだろう。そういえば、わたしが子どものころ近くの魚屋に刺身を頼むと、青い皿に盛ってそのまま持ち帰れるようにしてくれた。皿は翌日、母親が魚屋へ返しにいくのだが、そこで獲れたての活きのいい相模湾の魚Click!を見つけたりすると、再び刺身の皿をもって帰ってくることがあった。同店で作っていたであろう弁当も、焼き魚や刺身の入った海鮮弁当だったのだろう。
 「お魚の御用は魚福へ 鮮魚出前は迅速 致します」と、当時は御用聞きClick!が各家庭をまわって注文をとり、夕食前に注文主の家庭まで配達するのがあたりまえの時代だった。そんな馴染みになった、目白通り沿いの魚屋の御用聞きが配達したサバClick!2尾を、佐伯祐三Click!もアトリエで描いている。
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 当時の上落合周辺は、住宅街の西への拡大や貸し家やアパートの増加により人の流入が多く、商店も続々と進出してきて鎬(しのぎ)を削ってClick!いたのだろう。おそらく毎日のように、周旋屋(引っ越し屋)のトラックや荷車が、道路を往来していたにちがいない。そんな活気のある街の様子を、パンフレット「公楽キネマ」に出稿した商店広告は教えてくれる。
                                <つづく>

◆写真上:公楽キネマがあった、上落合1丁目521番地界隈の現状。
◆写真中上は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる公楽キネマ。は、1962年(昭和37)まで月見岡八幡社があった現在の八幡公園。は、小滝橋の現状。
◆写真中下は、昭和初期に上落合の火の見櫓から撮影された公楽キネマ(奥の白い大きな建物)で、背後の森は当時は広かった月見岡八幡社の境内。は、1933年(昭和8)の「公楽キネマ」8月17日号に掲載された周辺の商店広告。
◆写真下は、昔日の旧・八幡通りの入口で現在は突きあたりは行き止まりになっている。は、落合水再生センター沿いを通る現在の八幡通り。は、1933年(昭和8)の「公楽キネマ」8月31日号に掲載された映画館周辺の商店広告。

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望気術をあやつる巫(かんなぎ)のお仕事。 [気になる下落合]

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 あるところに、星座の運行によって「運気」を判断する「巫(かんなぎ)」Click!がいた。彼女は、明治末に生きていた人物で、星座の運行とともに星くずClick!が降りそそぐ地域の、地面から発する「好気」を見る「望気術」も身につけていた。
 望気術は、もともと大昔から山師(探鉱師)が修得していた技術で、地下に眠る鉱物、たとえば金(かね:鉄・砂鉄)や銅(あかがね)、黄金(こがね)、丹(に:辰砂=水銀)、錫(すず)の五大金属を発見するために、地面から上空へとあがる鉱脈の「気」を望見して場所を特定し、鉱山を開発するという特殊能力を備えた専門の職業だった。
 唐に留学した空海(弘法大師)Click!は、この望気術をマスターして帰国し、ときの政権が展開する山師(探鉱師)の元締めとして、日本全国の地脈を探査してまわったのは有名な話だ。山師としての空海の足跡は、いくつかの専門書も出ているのでご存じの方も多いだろう。各地には、「弘法大師の温泉」や「弘法大師の井戸」が存在するが、もちろん空海ひとりが調査し試掘してまわったわけではなく、彼が組織化したいくつかのプロジェクトチームが全国各地へと展開したのだろう。
 そして、彼らが探していたのはもちろん温泉や湧水ではなく、地中にある五大金属のいずれかだった。藤原時代になると、金(かね:砂鉄)や銅(あかがね)の精錬は各地でおよそ軌道に乗っており、同時代にもっとも探索されたのは、より稀少な黄金(こがね)と丹(に:辰砂)だったと思われる。空海は、山師としての大きな功績により、近畿圏ではもっとも黄金の気が強かったといわれる、高野山を拝領して金剛峯寺を建立している。
 望気術について解説した書物に、江戸後期の『山相秘録』という書物がある。だが、これは金・銀・銅が重要な貴金属だと認知され、貨幣の価値へとそのまま投影された近世の価値観を反映しており、それらの鉱脈を探すのに特化した書物ということになるのだろう。したがって、空海が用いた広義の望気術からは少なからず変質している可能性がある。黄金(こがね)探査の望気術について、1999年(平成11)に河出書房新社から出版された、加門七海『黄金結界』より引用してみよう。
  
 雨上がりの後、晴れ上がった時を最高として、時間帯は巳から未の間――即ち、午前九時頃から午後三時頃までに観るという。/このとき、青翠色の大気の中に「露光瑞靄」を発して、鮮明に他と異なるところが、金を含む山である。/「露光瑞靄」とはわかるような、わからないような表現だ。微細に光り輝く靄や霞の立ちこめる山ということか。/ともあれ、これを「最初遠見の法」と言う。諸山の中から、金のある山を見立てる方法だ。次に行なうのは「中夜望気の法」。目当ての山のどの部分に、金があるかを探る法である。これは五月より八月までの間に行えと書いてある。/「諸金精気ノ出現スルハ大抵夜半子ノ時。月ノナイヨク晴レタ夜ヲ選ブベシ」とあり、一度ではなく、幾度も窺って確認しなければならないとか。/すると金精は華のごとく、銀精は龍のごとく、銅精は虹のごとくに見えてくる。これもまた抽象的な表現だ。
  
 望気術の基盤には、古くから伝わる中国の陰陽五行の思想が通底しており、先に書いた東洋式に星座の運行を観察して「運気」を占う巫術(ふじゅつ=占星術)や十二支による方位学もまた、同思想から大きな影響を受けている。
 巫の彼女は、方位盤を手に北辰(この場合は北極星)のある東京の真北の空を、頻繁に観察していた。ソメイヨシノが咲いたばかりだが、いまだ冬の余韻が感じられて肌寒く、白い巫衣裳を通して夜明け前の冷気が身にしみた。だが、あらゆるものが生まれいずる弥生三月、もっとも星々の動きが見えやすいのは夜明け前をおいてほかになかった。このところ長雨つづきで星が見えず、望気術で観察することがかなわなかったが、3月末のこの日は夜空に雲がほとんどなく北の天空は快晴だった。時刻を確認すると寅一ツ(午前4時ごろ)、巫は5日ぶりに見晴らしのいい高所に立つと、北辰(北極星)を中心にすえ北斗七星の位置を確認する。本来の望気術なら、北から南側の風景を眺めて「景気」を探るのだが、それだと仕事の依頼主が信奉する妙見神、すなわち北斗七星の位置が視界に入らない。
 古くから妙見神と習合している北斗七星は、春を迎えたいまの時刻、ちょうど北辰の左手に見えており、方位盤で確認すると「戌(いぬ)」と「子(ね)」の間、「亥(い)」の方角に7つの星々が光っていた。彼女は方位盤を置くと、やや腰を落としながら、両手を円を描くように頭上に高くあげたあと、手のひらを「亥」の方角にかざして目を閉じ、両目の間に「気」を集中する。そして、全身から眉間に「気」が満ちみちたと感じた瞬間、そっと目を開いて北斗七星の真下の地域を注視した。
 すると、その方角に初めて光の柱が2本、地上から空へ向けてぼんやりと伸びているのが望見された。しばらく見つめていると、左手の光柱に向けて流星がひと筋、落ちていくのを瞬間的に観察することができた。彼女が気を抜いて大きく息を吐きだすと、たちまち光の柱は消えてなくなり、もとの夜空へともどっていた。
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 巫は、別に五大金属が眠る鉱脈を、東京の北側に探していたわけではない。彼女が使った望気術は、近世に入り占星術や方位学などと習合し、鉱脈ならぬ「運気のいい地域や地脈、あるいは好気の方角を規定する」ための巫術のひとつになっていた。彼女は依頼者に報告できるよう、その方角に該当する最新の参謀本部地図Click!を参照して、光の柱が立つように見えたあたりを調べはじめる。およそこのあたりと地図に印をつけた地域へ、翌日、助手たちを調査に派遣すると、ほどなく彼らは期待どおりの成果を持ち帰った。
 北斗七星の真下、左手に見えた光柱のあたりには、古くから妙見山Click!と名づけられた丘のあることがわかった。古えの昔から、星降る山として妙見山は知られており、流星が降ったのも必然のようだ。落合村の葛ヶ谷と呼ばれる地域で、千川分水(落合分水)Click!の西側にそそり立っている山だ。また、右手に見えた光柱のあたりには、高田村雑司ヶ谷の法明寺Click!つづきの鬼子母神Click!の境内があり、その本堂の真裏には妙見社の奉られていることが判明した。法明寺によって妙見堂の妙見菩薩と神仏習合がなされているが、鳥居が残る明らかに妙見神を奉った古えからの妙見社だ。その2点間の距離は、ほぼ2.80kmほどだ。巫は、東京の広域地図を広げると2点間に迷わず直線を引いた。
 次に、自身が方位盤を手に望気術を行なった赤坂氷川明神社Click!へ、2点から直線を引いて細長い三角形を形成した。出雲Click!に由来する赤坂氷川社の主柱にも、北斗七星と関連の深いスサノオと神田明神社Click!と同様にオオクニヌシが奉られている。だから、望気術をほどこす起点に選んだわけだが、こうして地図上の図形を見ると、「亥(い)」の方角に北斗七星との関連が深いふたつのメルクマールが近接してあるのも、まちがいなく必然なのだろう。彼女はそう確信すると、落合村葛ヶ谷の妙見山と高田村雑司ヶ谷の妙見社の間に引いた線の中間点、落合の妙見山から東へ1.4km、雑司ヶ谷の妙見社からも西へ1.4kmのところに☆点をふり、☆点から直線を一気に赤坂氷川社まで引き下ろした。
 この長大な三角形、いわば北斗七星=妙見神による結界の中を通る中心線、この線上であればどこへ屋敷を新築して転居しても、運気は上がりこそすれ下降することはないだろう。巫は地図を折りたたむと、この屋敷の主人と会見したい旨を家令に告げた。彼女が逗留している屋敷とは、赤坂氷川明神社の南隣り、江戸期には相馬藩中屋敷だった敷地へ明治以降に建っている、赤坂今井町40番地(現・六本木2丁目)の相馬順胤Click!邸だった。やがて、その中心線上には下落合の未開発地だった御留山Click!がひっかかっているのを、相馬家の誰かが発見して当主に進言した……。
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 ……と、見てきたようないい加減なことを書いてきたが、赤坂の相馬邸が下落合へと移転するに際して、たとえばこのような巫術が行われた可能性は高いと考えている。あるいは順序が逆で、近衛家より売りに出されていた下落合の御留山について、巫に占術の側面から運気の“ウラ取り”調査を依頼したとも考えられる。
 以前は、おもに神田明神を中心とする出雲社と妙見山つながりの、レイラインにもとづいた巫術Click!について想定してみたが、今回はまったく異なる角度から相馬邸の下落合転居を探ってみた。東京の西北部に、妙見神の事蹟が残るのは上記の2ヶ所に限られ、江戸期に相馬藩中屋敷を建設する際に重要だった、北面の赤坂氷川社を起点にして形成される三角形(結界)の中心線上に、偶然か必然か下落合の御留山が位置することになる。
 ここに書いた望気術は、すでに鉱脈発見の手段として用いられていた時代から変質し、地脈や地味、地中から湧きでる「好気」をとらえる、方角や風水などと混然一体となった、より人々の生活に密着した巫術として想定してみた。明治末の東京は、いまだ住宅群には埋もれてはおらず、高所に立てばかなり遠くまで見わたせたはずだ。北斗七星が「亥」の方角にかかるには、もう少し季節を春爛漫の時期に近づけたいが、とりあえず生命がいっせいに芽吹く弥生3月の末に設定している。
 このような巫術の成果を踏まえ、1915年(大正4)に下落合の御留山に邸が竣工すると、相馬家は赤坂をあとに転居してきているのではないだろうか。そして、邸敷地の丑寅(うしとら)の方角、すなわち鬼門に太素神社(妙見社)を遷座して奉っている。
 さて、以前の記事で相馬邸の七星礎石Click!に加え、同邸の主屋根が北斗七星を模したかたちに並んでいたことにも触れていた。その際、北斗七星の“尾”は南西の方角、つまり御留山の谷戸のほうへ向いているように解釈していた。だが、もうひとつ別の、ちょっと怖しい配列も想定できることに気がついてしまった。それは、母家Click!(相馬順胤邸→相馬孟胤邸Click!)の二階建てを含む大屋根の配置に、玄関からすぐの客間があった2階の応接棟の屋根を含めると、武具蔵Click!の北側にある相馬惠胤Click!邸をへて、太素社(妙見社)へと抜ける北東の方角につづく“尾”だ。
 つまり、この想定の場合、北斗七星のもっとも不吉な“尾”の先、太素社(妙見社)=「破軍星」が指している方角は、以前の未申(南西)の方角=裏鬼門の想定とは正反対の丑寅(北東)の方角ということになる。そして、その破軍星が向く先にあるものといえば、相馬邸が竣工した1915年(大正4)の時点では近衛町Click!が開発される以前、近衛篤麿邸Click!(同時代の当主は近衛文麿Click!)の母家ということになる。
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 これは、将門相馬氏が近衛家(藤原氏)へ仕掛けた、ひそやかな呪術の一種だろうか。母家の主屋根のかたちも、見方によっては木・火・土・金・水の互いの相克を表す魔除けの五芒星(魔方陣=☆印)のようにも見える。わたしの妄想は、空中写真と地図を眺めながら、どんどんふくらんでいく。そして、のちに太素社がその写真などから相馬邸敷地内を移動(再遷座)しているとみられるのは、近衛町が開発されて以降、近衛邸Click!がかなり北寄りの位置(下落合436番地)に移転しており、この呪術が意味をもたなくなったからではないか。

◆写真上:赤坂区今井町40番地にあった、現在は米国大使館の宿舎が建つ相馬邸跡。
◆写真中上は、江戸後期の山師マニュアル『山相秘録』に描かれた「金精図」。(加門七海『黄金結界』より) 中上は、赤坂の相馬邸に隣接していた赤坂氷川明神社。中下は、1861年(万延2)に作成された尾張屋清七版「今井谷六本木赤坂絵図」に掲載された相馬藩中屋敷。は、雑司ヶ谷鬼子母神の真裏にある妙見社。江戸期の神仏習合から「妙見菩薩」とされているが、鳥居が保存された形態は明らかに妙見社だ。
◆写真中下は、落合町葛ヶ谷(現・西落合)の妙見山を南斜面から見あげたところ。は、相馬邸が下落合から中野広町へ転居したとき御留山へ大量に残された七星礎石の1組。は、葛ヶ谷妙見山と雑司ヶ谷妙見社を結んだ直線とその中心点。
◆写真下は、、赤坂氷川社(相馬邸)との間に形成される長大な三角形の七星結界。は、下落合の相馬邸敷地へ遷座した太素社(妙見社)。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる御留山の相馬邸。主要な屋根を結ぶと、いろいろ妄想できて楽しい。

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