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「前方後円墳風な地形」の月見岡八幡社。 [気になる下落合]

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 旧・八幡通りClick!に面していた、1962年(昭和37)に現在地へ遷座する以前の月見岡八幡社の境内は、大正期から宮司をつとめていた守谷源次郎Click!によれば「前方後円墳風な地形」をしていたと記している。そう書かれているのは、1980年(昭和55)に出版された守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影(うつりゆくかげ)』(非売品)だ。
 当時の月見岡八幡社の地形や、大正期から昭和初期にかけて上落合や下落合に残存していた多種多様な古墳群Click!を観察し、昔日より伝承されてきた「百八塚」Click!の故事と重ね合わせて、落合地域が実は“古墳だらけ”だったのではないかと確信するようになったのだろう。そして、古墳の発掘調査では高名だった鳥居龍蔵Click!を、落合地域へ招聘して大正末から昭和初期にかけフィールドワークを行なっている。
 江戸期には、大田南畝(蜀山人)Click!も訪れた月見の名所だった月見岡(丘)の高台だが、おそらく守谷宮司は前方後円墳の後円部の墳丘だったのではないかと考えていただろう。江戸期には「瓢箪型」をしていたとみられる旧・月見岡八幡社の境内は、大正期現在では北側の一部を削られているようだが、境内の北側、および西側にあった小型の円墳(ないしは前方後円墳)は、大正期まで墳丘の面影が残存していたようで、『移利行久影』に付属する「上落合附近上古之図」に採取されて記載されている。
 境内の北側、すなわち廃寺の泰雲寺Click!側に位置していた小型の古墳と、境内の西北西側に残っていたそれは、守谷宮司が想定する思考の流れに沿えば、主墳の後円部に付属する陪墳ではないかと疑っていたにちがいない。境内の西北西側にあった古墳は、のちに改正道路(山手通り)Click!工事計画Click!にひっかかるため、1927年(昭和2)に移築された落合富士Click!(当初の基盤は大塚浅間古墳Click!)の土台となったようだ。また、同社境内の西側20mほどのところにも、小型の円墳(ないしは前方後円墳)が採取されており、この1基もまた守谷宮司は陪墳のひとつととらえていたかもしれない。
 月見岡八幡社周辺の古墳をはじめ、守谷源次郎は上落合や下落合の古墳群を鳥居龍蔵Click!とともに、多くの古墳の現地調査をしてまわっているようだ。『移利行久影』の冒頭に掲載されている、守谷護「はじめに」から引用してみよう。
  
 折り込んであります「天保末期上落合之図」は、昭和初期の氏子総代・宇田川忠蔵氏・加藤公太郎氏・中村半三郎氏・福室鏻太郎氏・高山治助氏・宇田川傳三郎氏をはじめ、里老の話を総合して書き上げたものです。又、「上落合附近之古之図」(ママ:「上落合附近上古之図」)は、著者・父が昭和初期に考古学者・鳥居龍蔵先生に御指導いただき、上落合附近を調査したものです。古代地割線は、地図を基としたものでなく、長い期間歩いた結果を図示したものです。(カッコ内引用者註)
  
 同書に添付された「天保末期上落合之図」は、まだ記事ではご紹介していないが、同図の制作に参画している人々の名前は、すでにこちらでも何度か登場している人々が多い。また、もうひとつの「上落合附近上古之図」に記載されている古墳群は、やはり守谷宮司が鳥居龍蔵ら考古学チームとともに調査を行なった気配が濃厚だ。その調査記録をなんとか探しだして見てみたいものだが、いまだ鳥居龍蔵関連の資料からは発見できずにいる。
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 また、同書には守谷源次郎が作成した、旧・八幡通りに面した月見岡八幡社境内の平面図(200分の1縮小)が掲載されている。その図面を、実際に空中写真へ当てはめてみると、かなり広大な境内だったことがわかる。おそらく、大田南畝Click!が訪れた江戸期の境内は、さらに広範囲にわたっていたのだろう。拝殿および本殿は茅葺きで、現在のものよりも規模がやや大きかったと思われる。また、移築された落合富士も、現存しているものよりも高かったのではないだろうか。守谷宮司が描いたスケッチを参照すると、山頂から見下ろす同社の大きめな拝殿や神楽殿の様子から、大塚浅間古墳を土台としていた移築前の落合富士と同等か、やや高めだったように感じる。
 さて、旧・八幡通りに面していた月見岡八幡社について、守谷源次郎は詳細なスケッチや写真類を残している。これらは、守谷宮司は「東京大空襲」Click!と書いているが、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!によって、そのほぼすべてが灰塵に帰した。その時の様子を、同書より再び引用してみよう。
  
 氏子も私も、吾社のみは焼けまいと信じていたが、この日最後に来襲したB29の空襲に、家屋も吾神社も悉く灰墟に帰してしまった。/幸い吾社は、神宿す御鏡も重要書類、文化財の大方を遺し得たとは云え、誠に残念の一語に盡きる思いであった。/地上何物もなく焼けただれた境内に、苦心して揑(ママ:捜)し求めた榊一本を、今日からは吾社のシンボルとして崇めることとなった。(中略) 昭和二十年五月の大空襲によって、本殿、拝殿、木造鳥居等は完全に焼失してしまった。/戦后、徐々に復興して、本社を廻る諸来社もまたそれぞれに再建され、境内全体がようやく整備されて神座す威厳を添え初(ママ:始)めた。(カッコ内引用者註)
  
 このとき、谷文晁に絵の師である加藤文麗を通じて依頼した、拝殿の天井画30数点もことごとく灰になってしまったが、かろうじて1枚だけ偶然に取り外されていたため、その天井画は現存している。また、数奇な行路をたどって北海道をさまよっていた同社の鰐口についても、谷文晁の天井画とともに以前、ここでご紹介Click!していた。
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 戦後は、少しずつ社殿や鳥居、境内へ包括されていた諸社の殿が復興していったようだが、戦前のような大規模な社殿にはなかなかもどらず、落合富士だけが大きく上落合一帯に目立ってそびえているような風情だったらしい。ようやく戦争の傷跡も目立たなくなり、境内の建物や樹林も落ち着いてきたころ、降ってわいたように落合下水処理場Click!(現・落合水再生センター)の計画がもちあがった。
 同社境内の東側の大半が、落合下水処理場と新たに敷設される新・八幡通りに削られてしまうため、どこかへの遷座を迫られることになった。同社の北西50mほどのところに、当時は廃寺になっていた龍海寺の敷地がそのまま残っていたため、少なくとも社伝では1050年ごろから同地にあったとみられる社の境内を丸ごと遷座せざるをえなくなった。
 この遷座がよほど残念だったものか、守谷源次郎の文章には無念さがにじみでているようだ。『移利行久影』より、つづけて引用してみよう。
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 戦災より既に十有余年、境内樹は未(いまだ)若木ながらも、はや枝を重ね合い本社を廻る諸末社またそれぞれに復興し、境内全体がようやく整備されて威厳を添え初(ママ:始)めた状景は誠に目出度い限りであった。/昭和三十五年旧前田部一帯の地を副して汚水処理場の設置決定に際し、吾社は二千年来住み馴れたこの月見岡の地を離れ、旧竜海寺跡(現在地)に移動するの止むなきに至った。
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 1960年(昭和35)11月に、月見岡八幡社の再建委員会が発足し、翌年2月には社務所と八幡神社愛育園(保育園)の園舎が移転を終えている。つづいて、1962年(昭和37)6月に新たな敷地へ本殿、幣殿、拝殿が竣工し、同年7月には遷座祭が行われた。
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 戦前の月見岡八幡社は、社殿の裏に落合富士を背負っていたため、周囲の街並みを見わたせる格好の展望台だったろう。写真が残っていないのは残念だが、旧・境内から眺めた旧・八幡通り沿いの風景は残っているので、近々改めてご紹介したい。その中には、泰雲寺Click!跡の礎石群とみられる石が、いまだに連なっているのが見られるのも貴重でめずらしい。

◆写真上:月見岡八幡社境内の西側一部で、1963年(昭和38)に開園した八幡公園。
◆写真中上は、守谷源次郎の制作による戦前の境内平面図(200分の1)。は、1945年(昭和20)4月2日に米軍の偵察機F13Click!が撮影した空中写真に同平面図を透過させたもの。は、現在の空中写真に同平面図を透過させたもの。
◆写真中下は、旧・八幡通りに面した階段(きざはし)と鳥居につづく表参道。は、藁ぶき屋根が特徴的な焼失前の拝殿。は、守谷源次郎のスケッチで社殿の背後にある落合富士の山頂から神楽殿(左)と拝殿を見下ろしたところ。
◆写真下は、同じく守谷宮司のスケッチで空襲前の月見岡八幡社全景。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる焦土と化した同社境内。は、現在の同社。

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ネコを「虎」と強弁する大橋の見世物小屋。 [気になる猫]

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 江戸期の大橋(両国橋)Click!の西詰めと東詰めには、延焼防止のための広場に近い道路が設置され、両国広小路Click!と呼ばれていた。そして、日本橋側の米沢町の北側をおおざっぱに西両国(現・東日本橋)、本所側の南本所元町あたりを東両国と通称していた。もっとも、現在の大橋(両国橋)は本来の位置から40~50mほど北側に移動して架けられているので、当時の広小路は本所側にその道筋の一部が残っているにすぎない。(冒頭写真)
 この当時は江戸一の繁華街だった大橋の両詰めで、江戸後期には盛んに見世物が小屋がけしていた。「小屋」といっても、40間×11間(約72.8m×約20m)もある巨大な建物や、高さが4~5階建てのビルに匹敵する「小屋」もあり、明治以降や今日イメージする見世物小屋とはまったく異なる建造物だ。浮世絵にも描かれ、江戸東京博物館には大橋のジオラマも展示されているので、ご存じの方も多いかもしれない。余談だが、わたしの先祖はすでに西両国の南側に位置する日本橋米沢町ないしはは薬研堀界隈Click!に住んでいたので、新しい見世物がかかるとさっそく見物しに出かけていっただろう。
 見世物小屋は当時、大橋の両詰めと浅草の奥山が有名で、大橋は本所側にある回向院Click!の催事に合わせ、奥山は浅草寺Click!の催事に合わせて開催されるのが一般的だった。江戸期の見世物は、明治以降に流行った淫靡猥雑なコンテンツとはかなり異なり、見世物文化研究所の川添裕の分類によれば細工ものや曲芸・演芸もの、動物もの、そして人間ものに分類されるといい、特に多かったのが細工ものと曲芸・演芸ものだった。
 細工の見世物というのは、ギヤマン(ガラス)や貝殻などを使った巨大細工、編み籠や竹細工、一文銭などを用いた大きな人物像や動物など、今日でいえばテーマパークや遊園地、リゾート地などにありそうな趣向のものだった。美術的ないい方をすれば、それらは江戸の巨大なインスタレーションと呼べなくもない作品群だ。本来は別の目的のために作られたモノ(たとえば竹籠)が、高さ2丈6尺(約8m)もの三国志に登場する関羽に姿を変えてしまうところが、細工見世物の面白さとダイナミズムだったのだろう。曲芸・演芸ものは、その名のとおり今日のサーカスやマジックショーのような見世物だ。
 これらの見世物で当たり(ヒット)をとると、ゆうに数千両の売上があったというから、当時の商売としては最大のイベント興行だったろう。ひとたび大ヒットすれば、芝居(歌舞伎)小屋の収益を大きく上まわったというから、全国各地の寺社が見世物小屋を勧請したがるのも無理はなかった。川添裕によれば、大当たりの見世物は武家や町人を問わず、大江戸(おえど)の全人口の半分(70~80万人)が押しかけるような盛況だったという。大江戸では、そんな見世物小屋が参集するのは、広小路(広場状の火除地)のある大橋(両国橋)と、外濠(神田川)の浅草御門(浅草見附)の彼方にある浅草寺裏の奥山が中心だった。
 見世物の大多数は、細工ものと曲芸・演芸ものが主流だったが、回数はそれほど多くはないものの動物見世物も大きな話題を呼んでいる。特に、海外の動物はほとんど誰も見たことがなかったため、そのたびに大騒ぎとなった。まず、1824年(文政7)には駱駝(ヒトコブラクダ)の夫婦が江戸にやってきて、にわかにラクダブームが起きている。入場者数は1日に5,000人といわれ、6ヵ月ものロングラン興行だったという。
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かつ川長徳斎「海獣俗よんで海怪うみのおばけ」1838.jpg
 その入場料による収益は数千両にのぼり、ラクダにちなんだ多種多様なグッズの売上も含めると、莫大な利益が計上されたのだろう。ラクダは、オシドリと同様に夫婦和合の象徴とされる動物で、また麻疹(はしか)や疱瘡(天然痘)の予防にきくなどといわれ、さまざまなご利益グッズが作られ販売されている。2頭のラクダは、その後、10年以上にわたって日本全国を巡業してまわったというから、その人気のほどがうかがわれる。
 次に、1838年(天保9)にはアザラシの見世物小屋が大橋詰めに建った。相模湾で漁師の網にかかったもので、以前から馬入川(相模川)の河口域で2頭の海獣が目撃されていた。いまでこそ、前世紀よりはきれいになった多摩川や荒川、中川などでアザラシはたまに目撃されているが、当時は見たことがない人々が多かったせいか、たちまち大評判となった。愛嬌のあるアザラシのことを、「海怪(うみおばけ)」などと呼んで囃し立てているところをみると、当初は海の「怪獣」として売りだそうとしていたものだろうか。
 1851年(嘉永4)には虎(トラ)の見世物小屋が両国橋に建った……が、斎藤月岑の日記に挿入された絵を見ても、どうしてもトラには見えずネコなのだ。2021年4月28日発行の日本経済新聞に掲載された、藤原重雄「日本史のネコ十選」より引用してみよう。
  
 豊後(大分県)から生け捕ってきたもので、小犬の大きさで尾が太く、とても太っていて、薄鼠色に茶色の斑があり、生餌を食した。別の随筆では、鳴き声が聞こえないように拍子木でごまかしていたといい、月岑も「虎にあらず猫の一種なり」と記している。また別の記録では、対馬で捕獲したとしており、月岑が記す特徴からも、ツシマヤマネコであったらしい。真実を明かした方が、今日では珍しがられたかもしれない。
  
 大分県にトラが棲息していたというのは、かつて一度も見聞きしたことがないし、ニャンコのような鳴き声だったというから記事の想定が正しいのだろう。身体が「小犬」ほどのサイズというから、対馬でツシマヤマネコの幼体をひろったものだろうか。
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 ニャーオという鳴き声を、見物客に聞かれないよう拍子木の音でごまかしていたらしいが、けっこうな人出があったようなので、ヤマネコをトラに化けさせたわりには収益が多かったのかもしれない。実際のトラを、誰も見たことがないので成立しえた見世物だったのだろう。この伝でいけば、うちのちょっと凶暴なオトメヤマネコも、大橋西詰めにかかる見世物小屋では、トラで十分押しとおすことができそうな気がする。
 ところが、その9年後にはホンモノの獰猛なトラがやってくるというので、大江戸は再び大騒ぎとなった。生餌として与えられたニワトリを、追いまわしては一撃で仕留めて食べてしまう大きな猛獣に、武家も町人も熱狂したのだろうが、当時の浮世絵を参照するとどう見ても縞模様のトラではなく、身体にブチブチの斑点が入ったヒョウなのだ。
 獅子(ライオン)もトラも実物を一度も見たことがない当時の人々は、それでもトラには縞模様があることぐらいは絵画を通じて知っていたので、「ありゃ、虎じゃなくて豹だぜ」と指摘する人がでてきたものか、ヒョウはトラのメスだということで話が落ち着いたらしい。そんなところで納得してしまうのも、今日から見れば妙な気がするが、大型のネコ科の動物を見るのは初めてだったので、「トラでもヒョウでも、とにかくスッゲ~!」と、その迫力に圧倒されたのだろう。少なくとも、9年前のツシマヤマネコよりは、トラへ少しだけ近づいたのはまちがいない。
 さて、1863年(文久3)には久しぶりに象(アジアゾウ)が見世物小屋にやってきている。江戸へ安南(ベトナム)からアジアゾウが初めてやってきたのは、1729年(享保14)の徳川吉宗の時代のことなので、すでに当時を知る人はいなくなっており、人々は「その昔、うちのご先祖が象というべらぼーな動物が通るてんで、いっさん見に出かけたらしいんだけどさ」と、もはや昔話のように子孫へ語られていたにちがいない。
 アジアゾウの見世物は、幕末で最大のヒットとなったが、めずらしい海外の動物は長崎からもたらされるのではなく、このアジアゾウは開港したばかりの横浜に上陸して、すぐに大江戸へとやってきている。ラクダやトラもそうだが、ゾウもまた神獣や霊獣のたぐいであって、そのご利益にあやかろうと多彩なグッズ商売が生まれている。特にゾウは、普賢菩薩の化身であって信仰する人々にはありがたい動物だったのだろう。
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 さて、享保年間に安南(ベトナム)から江戸へとやってきたアジアゾウだが、飼育・管理費がかかりすぎるため幕府から払い下げられ、中野村の農民たちが引きとって余生の面倒をみることになった。このとき、落合地域からは大挙して見物客が中野村へ押しかけているとみられ、相変わらずその人気は高かったにちがいない。アジアゾウの体調が悪くなると、面倒をみていたのが象小屋から北へ1,500mの位置にある、上落合村の馬医(現在の獣医に相当)だったことから、ことさら落合の村々ではなじみの動物になっていたのではないか。

◆写真上:本所側の旧・両国広小路跡で、突き当りの向こう60m先は大川(隅田川)。
◆写真中上は、2葉とも1841年(天保12)ごろ制作の広重Click!『東都名所両国橋夕涼全図』。(手前が日本橋側で川向こうが本所側) 大橋両詰めの広小路には、大小さまざまな見世物小屋が並んでいる。は、1824年(文政7)制作の国安『駱駝之図』。は、1838年(天保9)に制作された長徳斎『海獣/俗よんで海怪(うみのおばけ)』。
◆写真中下は、1851年(嘉永4)10月21日の『斎藤月岑日記』に描かれた「虎」のスケッチ。どう見てもニャンコだが、ツシマヤマネコでもめずらしかったろう。は、ツシマヤマネコ。は、江戸期なら「虎」になれたかもしれないオトメヤマネコ。
◆写真下は、1860年(万延元)に制作された広景『虎の見世物』。どう見てもトラではなくヒョウなのだが、トラのメスということで一件落着したらしい。は、1963年(文久3)に描かれた芳豊『中天竺舶来大象之図』。このゾウは人には慣れており、お辞儀をする芸まで憶えていたらしい。は、現在の大橋(両国橋)の中央付近から日本橋側を眺めた夜景。左端の灯りが点いているビルの一帯が、江戸期に西両国の広小路があったあたり。

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下落合を描いた画家たち・鳥居敏文。 [気になる下落合]

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 鳥居敏文は1931年(昭和6)に、東京外国語学校(現・東京外語大学)のドイツ語科を卒業すると、翌年にはヨーロッパにわたっている。ドイツやオランダ、ソ連、イタリア、ギリシャ、スペイン、イギリスなどを周遊したあと、1932年(昭和7)にはパリに定住している。そして、グランド・ショーミエールClick!の教室で油絵を習い、つづいてパリに滞在中だった林武Click!のアトリエに通って師事している。
 外語学校を卒業したのに、画家をめざした異色の鳥居敏文だが、絵の勉強は早くからはじめていたようで、1925年(大正14)の秋に行われた三科の第2回展に、村山知義Click!松山文雄Click!柳瀬正夢Click!矢部友衛Click!岡本唐貴Click!らの名前とともに、鳥居敏文の名前を見つけることができる。三科へは、故郷が同じ新潟県岩船郡村上町の大先輩だった、矢部友衛に誘われて参加しているとみられる。
 鳥居敏文は、1935年(昭和10)にパリから帰国すると、林武Click!のいる独立美術協会Click!へ接近すると同時に、プロレタリア美術運動にも参画している。前者は、フォービズムやシュルレアリズムが主流の芸術至上主義的な団体だったのに対し、後者はもちろん左翼的なリアリズムが中心なのだが、鳥居敏文は両者の表現を研究することで自身のオリジナリティを獲得し、また同時に広い留学の視野から反戦の意思表示をしようとしたものだろうか。当時としてはめずらしい経歴の画家だが、事実、彼の戦後の作品には、これらの表現が消化され混然一体となったような画面も見られる。
 当時のプロレタリア美術について、1967年(昭和42)に造形社から出版された岡本唐貴・松山文雄『日本プロレタリア美術史』から引用してみよう。
  
 (1930年代出版物の特徴には)いわゆる漫画専門家だけでなく、一般油絵画家の間からも多数参加しているという点にもあらわれている。(中略) 犠牲者救援のための絵葉書集等には、岡本唐貴、高森健三、鳥居敏文、喜入巌、寄本司麟、小野沢亘、竹本賢三、村田悥、新井光子その他の顔ぶれが見える。そしてこれらの人々の作品が、専門漫画家のある形にはまった作品にくらべて、とらわれない自由さがあり、絵画性も強いというわけで、プロレタリア漫画をいちじるしく多彩なものにする役割りをした。(カッコ内引用者註)
  
 鳥居敏文は、1931年(昭和6)11月28日から12月13日まで、上野の東京自治会館で開かれた第4回プロレタリア美術大展覧会Click!に、『通信労働者は立った』という作品を出展している。このあと、特高Click!から徹底した弾圧を受けたことは想像に難くないが、この間の事情は本人もあまり語りたがらなかったのか具体的な記録が見あたらない。
 ただし、戦後になると「美術家平和会議」の結成に参画して平和美術展へ毎年出品したり、「『九条の会』アピールを広げる美術の会」などへ加わるなど、反戦・平和運動へ積極的に参加しているのを見ると、思想的には昭和初期からそれほど大きくは変わっていないのではないかと思われる。それは、5年間にわたってヨーロッパ各地をめぐり留学していた広い見分や、当地での経験などから得られた視座なのだろう。戦後の広範にわたる活躍は、画集や図録などを参照していただきたい。
 その後、1937年(昭和12)に開かれた独立美術協会の第7回展へ、『ロバに乗る少年』を出品して入選。以降、独立展には毎年入選する常連となり、翌1938年(昭和13)には独立展の出品者が4人集まり、「惟軌会」を結成して展覧会を開いている。戦争をはさみ、敗戦直後の1946年(昭和21)には、独立美術協会の会員に推挙されている。
 1942年(昭和17)の時点で、鳥居敏文のアトリエは豊島区長崎1丁目1番地にあった。椎名町駅Click!から、線路沿いに東へ300mほど歩いた区画だ。谷端川沿いの台形のようなかたちをしたこの地番は、二度にわたる山手大空襲Click!からも焼け残っている。東側を谷端川に、北側を空き地に、南側を武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)に、西側を緑の多い屋敷林に囲まれていたおかげで、奇跡的に延焼をまぬがれたのだろう。おそらく鳥居敏文は、この長崎1丁目1番地のアトリエから下落合にやってきているのだろう。
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 1947年(昭和22)、毎日新聞社の主催で美術団体連合展へ出品したこの年に、鳥居敏文のスケッチブックには西武新宿線Click!下落合駅Click!が描かれている。(冒頭写真) また、このスケッチブックの同じ綴じの反対側には、同日に描かれた野方駅が描かれている。長崎のアトリエから、なぜ下落合駅や野方駅へ出かけているのかは不明だが、独立美術協会に所属する画友のアトリエを訪ねているのかもしれない。
 あるいは、同年に発表されている『駅の人々』(1947年)から推察すると、駅へ集う群像を描きに周辺の駅をスケッチしてまわっていたとも考えられる。鳥居敏文の作品には、駅や鉄道とそれを利用する人々を描いた作品が何点かあり、同作のほか満州旅行の際に駅の構内で写生したとみられる『家族の旅』(1943年)や、列車に乗って職場に向かう『鉱山の娘達』(1943年)などがある。この時期、鉄道駅に集まる人々の群像に惹かれ、モチーフを求めて近くの駅を訪ね歩いていたものだろうか。
 1947年(昭和22)8月31日に描かれた、『下落合駅』の画面を詳しく観てみよう。空襲で焼けた敗戦直後なので、改札口を覆う建物は再築されているが駅舎はまだ存在せず、切符売り場の背後にはバラックのような仮駅舎が見えている。駅名表示には、「西武電車/下落合駅」と書かれ、占領下なので「SHIMOOCHIAI STATION」と英語が併記されている。
 右手には、「たばこ」の看板が下がる売店があり、駅の手前には郵便ポストが設置されている。ちなみに、この郵便ポストは1960年代までこの位置にあり、右手の売店横へと移動するのは1970年代に入ってからのことだ。駅の上には、目白変電所Click!へとつづく旧・東京電燈谷村線Click!高圧線鉄塔Click!が見えており、画面にはそこから分かれて下落合駅の南に設置された変電所Click!へと向かう電力ケーブルが描かれている。
 鳥居敏文は、現在の大きな「牛」Click!のいる「加勢牧場」の店先あたりから、南東側を向いてスケッチしていることになる。ポストの背後に描かれた、上部が太くて下部が細い独特なデザインの柱は、1960年代までは残っていたのが写真で確認できるが、1970年代には同じような形状だがもう少し厚みの薄い柱に改修されているようだ。また、画面では切符売り場の窓口が東側で、改札口が南側に配置されているが、1980年(昭和55)前後に跨線橋が建設されてから、切符売り場が南側になり上り線ホームおよび跨線橋の階段へとつづくスロープが設置されたように記憶している。
 画面には人物が4人ほど描かれているが、ふたりは切符を買っている男性と女性のようで、ひとりが駅員のいる改札を抜けていく様子がとらえられている。電車は描かれていないが、この時期の西武新宿線は2~3両の編成の車両Click!が運行していたのだろう。『下落合駅』が描かれたのと同年、1947年(昭和22)の空中写真を眺めてみると、駅の北側の下落合側は住宅街がほぼそのまま焼け残っているが、南側の戸塚地域と上落合地域はいまだ一面の焼け野原が拡がっているような風景だった。
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 同じ8月31日にスケッチされた『野方駅』のほうには、子どもたちを含めた6人の人物が描かれており、しかも野方駅とその周辺の住宅街は空襲を受けていないため、駅舎も含め戦前からつづく風景がそのまま残ったせいか、殺伐とした『下落合駅』に比べ人物たちが心なしか生きいきと描かれている。ただ、両駅とも鳥居博文のモチーフとしては物足りなく感じたものか、これらのスケッチがタブローに仕上げられることはなかったようだ。同年に制作された『駅の人々』(1947年)には、どこの駅だろうかもっと広い構内が描かれ、大きな荷物をもって地方へ移動する、あるいは買い出しに出かける人々や、いまだ戦時中の防空頭巾Click!をかぶった少女などが描かれている。
 戦後、『日本プロレタリア美術史』を刊行するにあたり、岡本唐貴からアンケートを受けとった鳥居敏文は、次のような回答を寄せている。同書より、引用してみよう。
  
 小生の場合は、矢部友衛氏が郷里の先輩であったということで、いつの間にかその運動に加わったという形です。自主性は余りなかったように思います。/漫画(?)のようなものを時に描きました。/走り使いのようなことをしました。プリントを切ったり、ニュースや機関誌、美術新聞の編集をしたり、小さな論文(?)のまねごとのようなものを書いたり、翻訳を少々やりました。その他海外からの通信、連絡をとりました。/今から考えると、政治的偏向が強すぎたように思います。大きい意味の政治性よりも、その時々の運動に引きまわされすぎたように思います(佐野学をもちあげたり、大山郁夫をひどくやっつけたり、そういった誤りが沢山あったように思います) 前衛党の行き方ばかりにこだわって、その底をなす大きな国民感情の上に立って運動をすすめなかったのではないでしょうか。
  
 おそらく、このような感慨は同書が出版された1967年(昭和42)時点のものではなく、戦前にプロレタリア美術運動から離脱して、独立美術協会に専念するようになったころからのものだろう。『下落合駅』が描かれたのと同年に、権力や資本から美術の独立をめざして制作する日本アンデパンダン展へ出品し、1952年(昭和27)には美術家平和会議の結成に参画して平和美術展へ作品を出展しているのを見ても、戦前からの彼ならではの思想性や世界観、社会観が継承されていることをうかがわせる。
 1991年(平成3)に出版された『鳥居敏文画集』(鳥居敏文画集刊行会)で、林紀一郎は「鳥居敏文の絵画-寓意と象徴の意味するもの-」と題して次のように書いている。
  
 芸術家と称する種族の中には、自分以外の世界の激動など全く無関心で、アトリエに籠り、自己顕示を満たす制作のみに専念する者も少なくない。鳥居敏文は、そうした傾向の中にあって、つねに世界の今日的な変革や社会の現実相に画家としてだけでなく、あくまで一人の人間としての眼差しを向け、芸術とヒューマニズムの問題意識を強くしてきた画家の一人である。
  
鳥居敏文「家族の旅」1943.jpg
鳥居敏文「駅の人々」1947.jpg
鳥居敏文「牛と男(A)」1960.jpg
鳥居敏文.jpg
 昭和初期にパリからもどった鳥居敏文は、出発点からこのような眼差しをもつ画家だったように感じるが、破滅的な戦争をへた1945年(昭和20)8月の敗戦後、反戦・平和をテーマにその思想性がますます強固になっていった経緯を、のちのあまたの作品群に見ることができる。ちなみに、鳥居敏文は1956年(昭和41)にアトリエを練馬区南田中1058番地へと移し、つづいて石神井公園近くの同区石神井町1丁目13番地にアトリエを建設している。

◆写真上:1947年(昭和22)8月31日に描かれた鳥居敏文のスケッチ『下落合駅』。スケッチブックには同日の『野方駅』もあるので、機会があったら取りあげたい。
◆写真中上は、『下落合駅』が描かれたのと同年の空中写真に写る下落合駅で、ちょうど上下線のプラットホームには2両編成の電車が停車している。中上は、現在の下落合駅から「牛」のいる画家の描画ポイントあたりを眺めたところ。中下は、1960年(昭和35)前後に撮影された下落合駅。駅のプレートや柱、ポストなどは『下落合駅』の画面当時のままだが、新たにオレンジ色の瓦を葺いた三角屋根の駅舎が建設されている。下左は、1996年(平成8)に練馬区立美術館で開かれた「楢原健三・鳥居敏文展」図録。下右は、1967年(昭和42)に出版された岡本唐貴・松山文雄『日本プロレタリア美術史』(造形社)。
◆写真中下は、1960年代とみられる下落合駅の切符売り場。中上は、1974年(昭和49)撮影のわたしも利用した下落合駅。中下は、1950年(昭和25)前後に撮影された西武新宿線のモハ311形車両。は、『下落合駅』画面の部分拡大。
◆写真下は、1943年(昭和18)に旅先の満州で描かれた鳥居敏文『家族の旅』。中上は、スケッチ『下落合駅』と同年の1947年(昭和22)に制作された同『駅の人々』。中下は、1960年(昭和35)制作の同『牛と男(A)』。は、1990年(平成2)ごろの鳥居敏文。

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落合には37基の古墳が記録されている。(下) [気になる下落合]

月見岡八幡社旧境内.JPG
 つづいて、上落合に展開する古墳を見ていこう。大正末から昭和初期にかけ、上落合には24基の古墳が記録されている。ただし、前出の守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影(うつりゆくかげ)』Click!(非売品)には、いくつか古墳のスケッチが掲載されており、たとえば大塚浅間古墳(落合富士)Click!の北側に隣接する天神社が奉られた丘上の古墳は、同書に添付されている「上落合附近上古之図」へ記載された表現は1基だが、実際には6基の円墳が存在していたことが同書のスケッチから知ることができる。
 前回の下落合ケースClick!も同様だが、地図上では1基の表現であっても、実際には複数基だった可能性があり、上落合も24基ではなく24エリアと解釈したほうがいいのかもしれない。つまり、この6基が描かれたスケッチだけでもプラス5となり、地図記載とは異なり29基がカウントできるからだ。また、地図では円墳の表現で記入されていても、スケッチを見ると明らかに前方後円墳であり、著者自身も明確に「瓢箪型古墳」(戦前における前方後円墳の名称)と規定しているため、地図上の「円墳」記号には前方後円墳ないしは帆立貝式古墳が混在している可能性がきわめて高い。
 まず、上落合の東側から順番に見ていこう。戦前は無住の寺だった光徳寺がある北東側には、古い墓域が存在していたようだ。その墓域から横並びに、東から西へ4つの古墳が丘上に記録されている。「上落合附近上古之図」では円墳表現だが、実際の形状は不明だ。これらの墳丘は、以前に上落合のふくらみが残る巨大なサークル跡としてご紹介Click!していた、後円部と想定できる北側に沿うようなかたちに展開しており、新宿角筈古墳(仮)Click!に見られるのと同様に、後円部に付属していた陪墳群だった可能性がある。
 だが、いずれも現在は宅地造成で破壊され、築造時期を規定できないのでなんともいえない。主墳であると想定する巨大なサークル跡のほうは、江戸期(ないしはそれ以前)に崩されとうに農地化されていたが、その陪墳群が成子の天神山ケースClick!のように大正期から昭和初期まで残存していたものだろうか。また、付近では古墳期の遺構Click!(住居遺跡)が発掘されており、規模の大きな集落があったとみられるが、現在ではすべてが住宅街の下になっており、点ではなく面での発掘調査ができないのが残念だ。
 つづいて、旧・八幡通りClick!に面した南側の月見岡八幡社Click!の境内には、ふたつの古墳が記録されている。ひとつは、のちに大塚浅間古墳が改正道路(山手通り)の工事Click!で崩され、その上部に築造されていた落合富士の遺構(祠や溶岩、石碑)をそのまま移築したとみられる、境内東側にあったやや大きめな古墳だ。同社のいわれとなった、いわゆる「月見岡(丘)」の一部に築造されていたとみられ、同社が1962年(昭和37)に現在地へと遷座するまで、落合富士の土台となっていた古墳とみられる。
 同社の境内にあったもうひとつの古墳は、北側の廃寺となった泰雲寺寄りの位置に確認できる。守谷源次郎は、月見岡八幡社の境内全体がかつて「瓢箪型」をしていたことから、そもそも月見岡全体が大型の前方後円墳ではないかと疑っているが、その前提からいえばやはり先の落合富士の土台になった古墳も含めて、後円部に沿った位置にある陪墳のひとつだろうか。ちなみに、当初は瓢箪型をした月見岡八幡社の境内は、東西方向に約130mほどのサイズになる。また、くだんの巨大なサークル跡に比べるとひとまわりサイズが小さいが、羨道の入口が東を向いて南北に並ぶように位置していたのがわかる。
 つづいて、村山知義アトリエClick!の西側、同アトリエへ近接する十字路のところにも古墳が1基採取されている。ちょうど、十字路全体を覆うような墳丘だったらしく、この道路が敷設されるときに崩されているとみられるので明治末にはすでに存在せず、守谷宮司の記憶ないしは先代の伝承から描きこまれた古墳のように思える。その南西側にも1基、小さな古墳が採取されている。ちょうど、のちに開業する公楽キネマClick!の敷地とその真裏あたりだ。当時は、一般の地図にも掲載される墓域一帯で、墓地の記号とともに小規模な古墳が描きこまれている。
光徳寺エリア.jpg
月見岡エリア.jpg
落合富士(旧境内).jpg
落合富士(現状).JPG
 早稲田通りを西へと向かい、鶏鳴坂Click!の手前(東側)には3基の古墳が描かれている。そのうちの2基には鳥居マークが付随しているので、なんらかの祠ないしは社が奉られていたものだろう。おそらく、鶏鳴阪に近いほうの鳥居マークのついた1基が、のちに伊勢社が奉られた小型の前方後円墳だ。針葉樹林の中に横たわる前方後円墳を、鈴木宮司はスケッチに残している。現在の早稲田通りから、落合第二小学校へと抜ける北向き斜面の丘上に近い位置に、3基の古墳が並んでいたことになる。
 つづいて、現在は山手通り(環六)の工事で墳丘全体が消滅してしまった、大塚浅間古墳(落合富士)のエリアには2つの古墳が採取されている。ひとつは、落合富士の土台にされていた大塚浅間古墳だが、もうひとつはその北側にあった丘で天神が奉られていた(この丘が「天神山」Click!と呼ばれていたかどうかは確認がとれない)。大塚浅間古墳(浅間社境内)を高位置から見下ろすような写真が残っているが、「天神山」側から撮影されたもので、同山のほうが高さもあって規模が大きかった可能性が高い。前出の『移利行久影』より、落合富士について書かれたキャプションを引用してみよう。
  
 天神社の隣りに位置するのが、この辺りを百八塚と噂されるほどの古墳郡(ママ)であった。(ママ) 高さは三丈余と云は(ママ:わ)れる程の大塚古墳で、後世この境内に近隣の富士講社の信仰をより強くしようと、北口富士の分御霊を此の地に仰ぐことになった。/裏側にあった大塚を富士塚に改良して、後に浅間塚の名がここに起った。その起源は德川期以前か或いは初期であろうと推定される。
  
 守谷宮司は、落合富士にされていた土台の古墳を「大塚」と表現しているが、わたしは上落合東部から中野側にかけて広範に残された字名の「大塚」は、これほど小規模な古墳ではないと見ているのは、これまで何度か記事Click!に書いたとおりだ。山手線の駅名にも名残りがある大塚(実際の大塚地域は駅の南東側だが)や、世田谷区の野毛に現存する大塚古墳は100m前後のクラスの前方後円墳(ないし帆立貝式古墳)だ。
鶏鳴坂エリア.jpg
鶏鳴坂前方後円墳.jpg
鶏鳴坂.JPG
落合富士エリア.jpg
 そして、落合富士に隣接し天神社が奉られていた丘には、地図上では1基の表現でしか描かれていないが、その丘上ないしは斜面には6基の円墳があったことが、守谷宮司のスケッチからうかがえる。これも、天神社が奉られた丘自体がそもそも円墳か前方後円墳(後円部)の墳丘であり、それに寄り添った陪墳6基が付属していた……とも解釈できそうだ。いずれにせよ、戦時中の山手通りの工事で発掘調査もなされず、大塚浅間古墳と隣接した古墳とみられる天神社の丘はあっさりと破壊されてしまった。
 大塚浅間古墳の北側にも、離れた位置に2基の古墳が採取されている。ひとつは、現在の上落合郵便局がある一画全体、もうひとつは最勝寺の本堂と墓地の北隣りにあたるエリアだ。いずれも、妙正寺川を見下ろせる高台の上に築造されていた。上落合郵便局があるあたりの古墳に比べ、最勝寺の北側に記録された古墳のほうが規模が大きかったとみられ、地図上に描かれた記号のサイズも異なっている。
 つづいて、早稲田通りをさらに西へたどると、江戸期からの落合火葬場Click!へと斜め(北西)に入る道の右手に、古墳が1基記録されている。現在の、極真会館落合道場のあるあたりだ。そして、落合火葬場の東側にも大きめな古墳が採取されている。寺院の記号が付加されているが、江戸期からの名残りか大正期まで寺院のような施設が設けられていたものだろうか。最勝寺も、また落合火葬場もそうだが、なんらかの禁忌伝承Click!が語られてきたとみられるエリアに、寺院や墓地、火葬場(斎場)が設置されている点にも留意したい。これは、江古田富士Click!が築造されている、江古田駅前の古墳でも同様なのだろう。
 さらにその西側、上落合と上高田の境界に近い位置にある寺町の台地、すなわち神足寺や願正寺、境妙寺、金剛寺などが建立されている、上落合側を向いた東側のバッケ(崖地)Click!一帯に横穴古墳群が記録されている。地図上には6基の古墳が記入されているが、台地の規模からするとさらに多かったのではないかと思われる。昭和初期まで残存していたのが、記録された6基ということではないだろうか。しかも、この台地一帯も墓域であり寺町が形成されたということは、丘下の落合火葬場とあわせ、古くからのなんらかの禁忌に関する伝説・伝承が語られていた可能性が高い。
 この6基の横穴古墳のうち1基が、昭和初期に撮影された写真に残っている。守谷源次郎が招聘した、考古学者の鳥居龍蔵Click!らとともに調査したときの記録写真だ。鳥居龍蔵はこの横穴古墳群のほか、上落合ないしは下落合のいずれかの古墳も同時期に調査している可能性が高い。守谷宮司のいる月見岡八幡社が上落合にある関係から、やはり上落合地域の古墳を中心とした調査だったのかもしれないが……。
天神社丘.jpg
大塚浅間古墳.jpg
落合斎場エリア.jpg
神足寺横穴古墳.jpg
 関東大震災Click!で焦土となり、東京各地に露出した大小の古墳Click!について調べたとき、鳥居龍蔵Click!の著作にはけっこう当たっているが、落合地域の古墳について書かれた論文は発見できなかった。守谷宮司に招かれ実地調査を行なっている以上、戦災で焼けていなければどこかに記録が残っているはずだ。もし発見できれば、改めてこちらでご紹介したい。
                                  <了>

◆写真上:1962年(昭和37)まで月見岡八幡社が建っていた、旧境内の一部(現・八幡公園)。守谷宮司が瓢箪型と表現する、後円部のふくらみが一部残っている。
◆写真中上は、光徳寺の周辺域に残されていた古墳群。中上は、旧・八幡通りに面していた月見岡八幡社(旧境内)とその周辺域に展開していた古墳群。中下は、1927年(昭和2)に同社の旧境内に上落合607番地の大塚浅間古墳から移設された落合富士の上部。は、現在の月見岡八幡社境内に再移設された落合富士の現状。
◆写真中下は、鶏鳴坂の東側斜面に残っていた2基の古墳。中上は、伊勢社が奉られた1基は守谷源次郎のスケッチにより小型の前方後円墳だったことがわかる。中下は、鶏鳴坂の現状。は、大塚浅間古墳(落合富士)とその周辺の古墳。
◆写真下は、大塚浅間古墳(落合富士)の北側にあった天神社を奉る丘で描かれた6基の円墳。中上は、天神社のある丘上から撮影された大塚浅間古墳(落合富士)。天神社の丘のほうがかなり大きかったと思われ、丘全体が陪墳6基の付随する古墳だった可能性がある。中下は、落合火葬場とその周辺域に展開する古墳群。は、神足寺東側の崖地に穿たれた横穴古墳を調査する鳥居龍蔵(右)と守谷源次郎(左端)。羨門と思われる横穴のサイズから、下落合横穴古墳群Click!に近似した仕様だったことがわかる。

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落合には37基の古墳が記録されている。(上) [気になる下落合]

蘭搭坂途中.JPG
 大正期から昭和初期にかけ、上落合と下落合には合わせて37基の古墳が記録されていた。ただし、葛ヶ谷地域(現・西落合)は未調査Click!だったと思われ、実数はもっと多かったのではないか。もちろん、1966年(昭和41)7月15日に発見された下落合横穴古墳群Click!は、このカウントに含まれていない。わたしの想定していたよりもはるかに多くの古墳群が、大正末から昭和初期まで残され確認できていたのがわかる。
 上落合と下落合をたんねんに歩き、ときに鳥居龍蔵Click!らとともに地元の古墳を発掘・調査、そして記録しつづけたのは、大正期から月見岡八幡社Click!の宮司をつとめていた守谷源次郎Click!の仕事だ。彼は、戸塚から落合、大久保にかけて色濃く残っていた「百八塚」Click!の伝承を強く意識していたとみられ、考古学に関する豊富な知識と、現場を訪れて描くていねいなスケッチとで、地元にとってはかけがえのない一級資料を残してくれている。また、神社の宮司だったにもかかわらず薩長政府の皇国史観Click!に収斂せず、落合へ鳥居龍蔵を招聘しているように人文科学的な視座Click!も備えていた稀有な人物だ。
 その中には、わたしの知らない、あるいは下落合でさえ知る人のほとんどいない古墳群までが含まれており、現在では確認しようにもとうに墳丘が崩され、住宅街の下に埋没したものがほとんどだ。つまり、宅地化が進む昭和初期まで残されていた古墳は、裏返せばすでに37基しか残されていなかったということにもなり、こちらでも何度か記事にしている大型古墳Click!の痕跡らしい多様な正円フォルムClick!は、江戸期から農地開墾で崩されたり、寺社の境内にされていたとみられるため、37基の中には含まれていない。
 月見岡八幡社の守谷宮司は、同社の瓢箪型をした境内(1962年に現在地へ移転する前の境内=現在は境内跡の西側の一部のみが八幡公園)を、大型の前方後円墳ではないかととらえており、おそらく境内の西側と北側にあった小規模な円墳ないしは小型の前方後円墳を、主墳に付随する陪墳ではないかとみて、37基の中にカウントしている。また、地図上には1基として記載されている古墳でも、同一場所で複数の墳丘が描かれているスケッチも残されており(大塚浅間古墳エリアのケース)、厳密にいえば37基は37エリアという意味になり、古墳の実数はもっと多かったのではないかと推定できる。
 1980年(昭和55)に出版された守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影(うつりゆくかげ)』(非売品)の中から、戦災により焼失する以前の月見岡八幡社の全景を描いた絵に添えられた、著者のキャプションより引用してみよう。
  
 戦災前最古の神社として町人が崇め続けた「月見岡八幡社」の全景。/前方後円墳風な地形といい、石器、土器、埋葬、遺蹟をも包含した境内は、大樹小木密生して本社を取りまき、八幡神社の大景を作り出した状景は、夜空に照り映ゆ月が数多の星を従えて高天短天の中津空に音も立てず静かに座します状に似たものを感じさせる。この神社も一夜にして昭和二十年五月二十五日の戦禍に焼失してしまった。
  
 境内から出土した土器の中に、縄文式や弥生式のものに加え、素焼きの埴輪片が混じってなかったかが非常に気になるところだ。
下落合東部.jpg
藤稲荷の丘.JPG
権兵衛坂神木.JPG
 まず、下落合から見ていこう。御留山の斜面に建つ藤稲荷Click!には、横穴(おうけつ)古墳が1基採取されている。おそらく、藤稲荷の本殿・拝殿がある丘の斜面に穿たれた横穴式の古墳で、下落合横穴古墳群と同じような仕様だったのだろう。
 つづいて、七曲坂Click!の中途(東側)の丘上には円墳(ないしは前方後円墳)が1基確認できる。鳥居のマークが付いているので、大正期までなんらかの祠か小さな社(やしろ)が奉られていたのだろう。ひょっとすると、昌蓮Click!が設置した祠がそのまま残っていたのかもしれない。場所は、権兵衛坂の中腹にある十返肇Click!十返千鶴子邸Click!の庭先にあったとみられる神木Click!と、七曲坂の間あたりの丘上に位置する。
 ただし、このあとにご紹介する「円墳」とされている古墳も、前方部が崩されて後円部しか残らなかったケースの可能性が多々あり、戦前には「円墳」とされていたものが戦後の緻密な発掘調査で、実は前方後円墳(あるいは帆立貝式古墳)だったことが判明した事例が、1980年代より現代まで連綿とつづいているのは周知のとおりだ。
 次に、下落合弁天社Click!の西並びにも、円墳として1基が採取されている。当時は、その背後の急峻な斜面に隠れていた下落合横穴古墳群は未発見であり、斜面の丘下には別の古墳が存在していたのだろう。わたしが想定している、下落合摺鉢山古墳(仮)Click!に付属していた陪墳のひとつなのかもしれない。
 いつか、下落合の“ニキビ”Click!としてご紹介していた、地面から突きでた円墳状の正円突起について、すなわち曾宮一念アトリエClick!蕗谷虹児アトリエClick!の前にあった1基、西坂の坂上にあった1基、そして第一文化村Click!の1基については、守谷源次郎が調査をしているさなかに崩されるか、あるいはそれ以前に当該エリアの宅地開発で消滅してしまったものと思われる。少なくとも大正末まで、それらの円墳状の突起が残されていれば、当然、守谷源次郎の目にとまり現地調査をしていただろう。
 つづいて、現在の六天坂Click!が通う斜面に円墳が1基記録されている。おそらく、第六天Click!の祠が坂下に移される以前、本来の境内があったと思われる位置に存在したのではないだろうか。そして、六天坂の西側の急峻な斜面には横穴古墳群が展開していたようで、2基の横穴古墳が地図に記載されている。現在は、山手通りの貫通でほぼ全的に消滅してしまった、六天坂と振り子坂Click!との間に通っていた矢田坂Click!の斜面にも、先の2基の古墳と対面するように横穴古墳が1基記録されている。
下落合弁天社.JPG
下落合中部.jpg
六天坂西側斜面.jpg
 さらに、下落合の西側へ目を向けてみよう。蘭塔坂Click!(二ノ坂)の坂上近くにあった墓地の南側に、大きなめな円墳記号が印されている。下落合に記入された古墳記号では最大のもので、守谷源次郎が作成した地図では、落合富士Click!にされていた大塚浅間古墳Click!に匹敵するサイズだ。明らかに塚状の円墳ないしは前方後円墳(前方部が欠損したもの)があったとみられ、地元ではなんらかの禁忌エリアClick!の伝承がつづいていたものか、近世に入って附近の住民たちの墓域にされていたとみられる。
 そのさらに西側には、目白学園Click!のキャンパス内に、同様の円墳が1基採取されている。同所は旧石器時代Click!にはじまり、縄文時代から現代までつづく重層遺跡の落合遺跡Click!が発見されたエリアで、その中の古墳時代の遺構(近代まで残りやすい古墳)が、昭和初期まで残存していた可能性が高い。落合遺跡Click!が発見されるのは、守谷源次郎が同古墳の存在を採取してから、戦争をはさみ20年以上のちの時代のことだ。
 同様に、目白学園の南西に位置する中井御霊社Click!には、中規模の円墳が3基に小規模なものが2基ほど採取されている。中井御霊社もまた、そもそもの境内が高台に造営された大型古墳のひとつだったと仮定すると、これらバッケが原Click!が一望できる西側に集中する中小の古墳群は、主墳の後円部に付属する陪墳の可能性がありそうだ。
 以上が、守谷源次郎の調査による大正末から昭和初期まで残存していた、下落合の古墳あるいは古墳の残滓だ。数えてみると14基ほどだが、これほど古墳数が少なかったとはどうしても思えない。先の“ニキビ”の事例もそうだし、1966年(昭和41)発見の下落合横穴古墳群もそうだが、地図から漏れている古墳、あるいは未発見のまま破壊された古墳はかなり多数にのぼるのだろう。
 また、守谷宮司がいるのは上落合の月見岡八幡社であり、当然、下落合よりも地元である上落合の地勢のほうが、よほど詳しかったにちがいない。同時に、箱根土地Click!東京土地住宅Click!など大手ディベロッパーによって、大規模な開発が急速に進む下落合に対し、耕地整理が進捗中だった上落合のほうが、往古からの地形がそのままで古墳が発見しやすかったという事情もあるとみられる。
 それは、下落合に記載された古墳の所在地が、大正末から昭和初期にかけて宅地造成の進んでいない未開発の地域、あるいは社(やしろ)の境内で手つかずの場所であることからもうかがえる。また、下落合の北西に位置する葛ヶ谷(現・西落合)は未調査のままだったようで、こちらの記事でご紹介している丸塚Click!や四ツ塚などの記載が漏れているのは、仕事の手がまわらなかったのだろう。
下落合西部.jpg
御霊坂.JPG
中井御霊神社.JPG
 次回は、上落合とその周辺域に残っていた古墳群をご紹介したいが、下落合とは異なり守谷宮司は近所で訪れやすかったせいか、すでに消滅してしまった古墳群のていねいなスケッチも残している。現代では、かけがえのない貴重なビジュアル証言といえるだろう。
                                <つづく>

◆写真上:比較的大型の古墳があり、大正期までは墓域にされていた蘭搭坂(二ノ坂)の丘上あたり。大谷石の築垣は、現在は解体されて存在しない。
◆写真中上は、『移利行久影』に添付の「上落合附近上古之図」に採取された古墳群。守谷源次郎が調査・記録したもので、下落合東部の状況。は、昭和初期まで横穴古墳があった藤稲荷の杜。は、権兵衛山の神木があった十返千鶴子邸跡。古墳は、その神木と七曲坂の丘上の中間あたりに位置していた。
◆写真中下は、下落合弁天社の西側敷地で、正面にはのちに下落合横穴古墳群が発見される急斜面があった。は、「上落合附近上古之図」に採取された下落合中部の古墳群。は、大正期には第六天の境内だったとみられる六天坂西側の斜面。
◆写真下は、「上落合附近上古之図」に採取された下落合西部の古墳群。は、中井御霊社の西側に通う御霊坂。古墳群は、坂を上がった左手の丘上にあった。は、中井御霊社の拝殿で、古墳群はその裏手から右手にかけて展開していた。

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21世紀には「寺じまい」が加速する。 [気になるエトセトラ]

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 これまで、東京地方にいた仏教の坊主Click!たちが、空襲が予想されるようになった1944年(昭和19)暮れあたりから1945年(昭和20)のはじめにかけて、檀家(信者)も堂宇も、寺の本尊も墓地(仏)も、法事も日々の勤行も、なにもかもいっさいがっさい放りだして、次々に東京から逃げていった経緯を何度か悪しざまに書いてきた。
 親父は、檀家寺の坊主がもっともらいしい理由をつけて、東京大空襲Click!の少し前に逃げだしていったことを、本気か冗談か生涯「敵前逃亡」と称して軽蔑していたが、当時の軍隊でいえば「敵前逃亡」は、その場でただちに銃殺を意味するコトバだ。
 それほど、檀家にとっては肉親の遺体が判明しても弔いさえ出せなかった許しがたい逃亡坊主たちが、説教師面(づら)しながら生死について語る欺瞞性や醜悪さに辟易していたのだろう。そんな東京地方の歴史をまったく考慮しない、勉強不足でなにも知らない京都のオバカ坊主たちが、『京都ぎらい』Click!によれば女の子のいる銀座のクラブだかキャバクラに僧衣のまま繰りだして、周囲を「凍りつかせた」エピソードClick!(「しもた、ここは京都とちがうんや」と凍りつかせただけで済んで、よかったね)もご紹介していた。
 わたしは、朝鮮半島経由のシャカ王国を起源とするこの外来宗教を、まったく信じてもいなければ尊重もしていない。両親も同様だったようで、戦後、江戸期から先祖代々の墓がある深川の寺を早々に見かぎり、現在は目白崖線つづきの小日向にある高台の無宗教墓に眠っている。もっとも、仏教という外来宗教は親世代からの伝承で嫌悪感をもよおすが、仏教美術(特に彫刻Click!)は少なからず好きだ。
 親父も同様で、子どものころから全国各地の堂宇Click!仏像Click!、それが展示されている宝物館や博物館などへ鑑賞に連れまわしてくれた。そのおかげか、わたしは特に鎌倉時代の仏師が彫りあげる豪壮な彫刻Click!が好きで、そこそこ名の知られた作品は(鎌倉期を問わず)ほとんど拝観しているのではないか。もっとも、これらの作品は仏教が比較的「マジメ」で、真摯な時代に創造されてきたものにはちがいない。
 さて、少子化や檀家の減少、無縁墓の増加、過疎化、無関心、あるいは東京地方のように東京大空襲Click!などの戦争体験から、危機的な状況を迎えた肝心なときに檀家(信者)の前から姿を消す外来宗教の坊主に対して、「てめえら、それでも宗教者か!」(失礼)という反感を抱く地域性などにより、このところ寺院の廃寺が止まらないようだ。
 たとえば、下落合では佐伯祐三Click!の実家である光徳寺Click!や、九条武子Click!の実家である西本願寺Click!浄土真宗本願寺派Click!では、文化庁の『宗教年鑑』によれば10,507院(1970年現在)あった寺が2020年には10,185院と、なんと242院も減少している。ちなみに、うちの檀家寺だった禅の曹洞宗だが、14,696院(1970年現在)あったのが14,497院(2020年)と、やはりマイナス152院に減少している。ニュースなどで「墓じまい」の話はよく聞くけれど、この統計からは「寺じまい」が加速している様子がうかがえる。
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 坊主の減少はもっと深刻で、浄土真宗本願寺派の場合はピーク時に28,894人(1995年)いたものが、2020年には19,206人と1万人近く減少(-9,689人)している。曹洞宗は16,765人(1995年)いたものが、浄土真宗本願寺派ほど深刻ではないにせよ2020年には15,563人と、マイナス1,202人を記録している。ただし、この数字は各宗派が文化庁に提出した僧籍簿をもとにしたもので、僧籍だけが帳簿に残り実際には宗教活動をしておらず、どこか一般企業に勤務して生活している人物(在家僧)も含まれているとみられる。
 中でも、曹洞宗の寺院数が全国で14,497院もあるのに、15,563人しか坊主がいないということは、野球でいえばリリーフピッチャーがひとりもおらず全試合、ときには他試合までを同一のピッチャーで投球しつづけなければならない……というのに等しい。なぜなら、15,563人の中には親子(住職・副住職)で経営している寺院もあるので、たったひとりで切り盛りしている寺の多くは、ケガをしようが病気になろうが法事は待ってはくれないので執行しなければならず、もしその坊主になにかあれば、すぐさま「寺じまい」を考えなければならないというのが現実のようだ。
 すでに兼務の寺々も、数多く出はじめているのだろう。事実、同宗派が2015年(平成27)に公表した「宗勢総合調査報告書」によれば、2005年(平成17)には19.5%だった全寺院における兼務寺院の割合が、10年後には22.2%と増加している。いまに兼務では手がまわらず、無住の寺院が増加して「寺じまい」が加速しそうな状況だ。
 当然、仏教を信仰する人間が減れば寺の収入も減少し、檀家が少なくなれば寺の経営を直撃する。「坊主まるもうけ」などといわれた時代は遠く去り、ほんの一部の裕福な観光寺や不動産業者兼地主と見まごう寺を除けば、年収200万円を切るような低所得にあえいで生活苦に悩む寺々も多いらしい。法事や寄進をする檀家が減り、雨漏りする屋根や崩落した軒先さえ修繕できない寺院もあるようだ。
 また、サラリーマンや企業の経営感覚をもちこむ坊主が急増し、宗教者としての質的な課題も多々あるようで、「本山」では頭を痛めているらしい。特に、先の浄土真宗本願寺派で1万人近くも坊主が減少しているのは、同宗が推進する「僧侶育成体系プロジェクト委員会」により、廃寺というよりも質的によくない坊主を淘汰したという側面もありそうだ。
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 そこで、各宗派とも坊主の養成には熱心なようで、宗門関係の学校や養成機関では奨学金や奨励金を設けて学生を集めるところも少なくない。また、「中高年出家プロジェクト」も盛んで、勤務先の会社を退職した、あるいは見切りをつけた人々を「第二人生プロジェクト」として僧籍にオルグする仕組みだ。坊主の減少を食い止めるためには、人材確保がまず第一の課題と位置づける宗派は多い。つまり、「僧侶資格」取得のために専門の学校を卒業していなくても、ある一定期間で決められたカリキュラムをこなす掛搭(修行のこと)を終えれば、それだけで僧籍を与えるという即席の簡易育成制度だ。
 うちの檀家寺だった、曹洞宗の事例を見てみよう。2022年に興山舎から発行された「月刊住職」2月号から、曹洞宗宗務庁教学部の担当者の言葉を引いてみる。
  
 曹洞宗に関係する学校を卒業や修了しなければ(僧籍の)資格を取得できないわけではありません。卒業あるいは終了した学校の種別に応じた、一定の僧堂掛搭期間を了ずることによって教師資格(僧の資格)を取得することができる制度としています。多様化する社会にあっては、教師資格取得に関する柔軟な制度であるとは考えています。(中略) 卒業した学校にかかわらず教師となることは可能ですが、駒澤大学や愛知学院大学といった、曹洞宗に関係する学校法人が運営する学校が多数あり、曹洞宗の教えを建学の理念等に掲げ、教育が実施されておりますので、教師養成としての学校として宗別で位置付けしております。さらには、教化機関としての学校として位置付けており、学生生徒が曹洞宗の教えに触れる機会となることから、関係学校と連携しながら、宗風の宣揚を図っていきたいと考えています。(カッコ内引用者註)
  
 「多様化する社会」とか「柔軟な制度」とか、まるで専門学校のパンフを読んでいるようだが、これではますます宗旨の本質を踏まえない「でもしか」即席坊主だらけで、より質的な課題が拡大しそうだと思うのだがいかがだろうか。どの宗教でも同じだと思うが、もっとも重要なのはにわか知識の詰めこみではなく現場での実践と経験ではないか。そして、信者の危機や苦悩に寄り添い「本山」(実際は「江戸の恥はかき捨て」で生まれ故郷だろう)などへ逃亡などせず、正面から向きあうことではないか。
 同誌には、寺院へICTを導入してVRツアー&参拝だのリモート墓参り、リモート除夜の鐘、デリバリー除夜の鐘、プロジェクションマッピングとライトアップイベント、勤行のライブ配信など、「御供養の新たなニーズに対応」する「コンセプト」のケーススタディが紹介され、より仏教を手軽で身近になどという記事が掲載されているけれど、どこか根本的なところでまちがっているような気がする。
 宗教は、道具立てや堂宇の風情や、催事や観光めあての仕掛けではなく、どこまでいっても“人”であり人望であり、信望であり徳望だと思うのだが、それを亡くし形骸化して久しい外来宗教には、むしろふさわしい末期的な症状というべきだろうか。
 余談だが、除夜の鐘はもともと禅寺で撞かれたもので、宗派を問わず撞かれるようになったのは、NHKの中継放送からだという研究者の説がある。『宗教年鑑』によれば全国の寺院75,495院(2021年現在)のうち、鐘楼がある寺院は全体の25%前後にすぎないそうだ。
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 いまでは茶の湯用語として知られる【一期一会】だが、本来は仏教用語から引かれたもので、生涯に一度あるかないかの生命の瀬戸際に立たされた空襲前夜、尻に帆かけて東京から逃亡していった不マジメな坊主たちを、いったい誰が信用するだろうか。銀座のクラブだかキャバクラへ、女の子めあてに繰りだす京都のふざけた僧衣坊主も同様だが、腐敗し堕落した外来宗教に明日はない。仏教の衰退に、再びシャカ用語を借りればいまさら【四苦八苦】するのは、堕落のはてに反感と無関心を助長する、文字どおり【自業自得】ではないか。

◆写真:とりあえず廃寺の心配がなさそうな、各地にある有名な寺々。伽藍を見ただけで寺名を当てられる方は「お寺通」で、いまや宗門にとってはありがたいクライアントだろう。

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1962年(昭和37)の新宿区勢要覧。 [気になる下落合]

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 1955年(昭和30)に出版された、いちばん最初の『新宿区史』Click!(新宿区役所)の以前に記録された新宿区全体の情報はめずらしく、先に1954年(昭和29)に発行された『新宿区勢要覧』Click!をご紹介していた。今回は、それから8年後の1962年(昭和37)に発行された『新宿区勢要覧』と、同冊子に添付された1962年(昭和37)発行の「新宿区広報」4月20日号をご紹介したい。
 なぜ、1962年(昭和37)の新宿区が気になったかというと、新宿は1960年代の後半から「若者の街」あるいは「副都心」として注目を集めはじめ、1970年代前半には淀橋浄水場Click!の跡地を中心に新宿駅西口の再開発が進捗して、街全体が「副都心」あるいは「新都心」と呼ばれはじめている。ところが1960年代前半の新宿区は、いまだそれほど目立たず「武蔵野」あるいは「郊外」のイメージを払拭しきれておらず、旧・市街地からは相変わらず東京近郊のように見えていただろう。
 そんな地味だった時代の新宿区について、1962年(昭和37)発行の『新宿区勢要覧』は、当時の様子を具体的な数値データなどとともに教えてくれる格好の資料だ。『新宿区勢要覧』(昭和37年版)の冒頭、新宿区の概況から引用してみよう。
  
 本区は、昭和22年3月15日旧四谷、牛込、淀橋の三区を統合して創設され、本年3月で、15周年を迎えることとなった。面積18.04平方キロメートル、人口41万3千人を有しほぼ都の中心部に位(ママ:位置)している。新宿駅を中心とする周辺は江戸時代の「内藤新宿」といわれ、甲州・青梅の両街道の追分にある宿場として交通の要衝にあたったところであり昭和初期頃は、まだ東京市の西郊に過ぎなかったが、今日では、新宿駅は、東京駅、上野駅と並んで、国鉄環状線(山手線)にある3大駅として、東京駅とともに全国第1位の混雑を極めており、かつ都外数県に通ずる国鉄の大動脈である中央線の発着駅である。従ってこの周辺は、都の内外に通ずる西玄関として重要な地点となっている。国鉄、私鉄、地下鉄、都電、バス等のあらゆる交通機関集まり、いよいよ都の新たな中心地と目されるに至っている。国鉄新宿駅も時勢の進展に伴い狭隘となり、昨年12月起工式を行い、地上8駅の民衆駅として大改築が行われることとなった。(カッコ内引用者註)
  
 現在の新宿区の面積は、18.23平方キロメートルとやや広めだが、区域が増えたというよりも当時と現代の測量技術のちがいで生じた誤差ではないだろうか。人口は当時のほうが圧倒的に多く、現在は34万929人(2022年2月現在)となっている。
 1962年(昭和37)の当時、国鉄の路線のみでカウントした新宿駅の1日の乗降客は約107万人と、すでに全国一の規模になっていた。また、2位は東京駅の約75万5,000人、3位は上野駅の約59万5,000人、4位は大阪駅の約56万人だった。ちなみに、現代のJRの路線のみに限った乗降客数の全国ランキング(2021年現在)は、1位が新宿駅の約223万人、2位が渋谷駅の約206万人、3位が池袋駅の約194万人、4位が横浜駅の約158万人、5位が北千住駅の約116万人、そして6位が名古屋駅の約87万人となっている。
 上掲の文章で、「都の新たな中心地」と自信満々に書いているのには、このころ大きな開発計画が始動していたからだ。1898年(明治31)以来、東京の上水道のカナメだった淀橋浄水場Click!が東村山へ移転することが決まり、その跡地(約82万平方メートル)を東京の一大ビジネスセンターとして再開発するめどが立ちつつあった。同時に、東京都が総合的な第二副都心建設の構想を発表し、新宿副都心建設公社が設立されていたからだ。
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 文中にある新宿駅の大規模なリニューアル工事は、同構想の実現へ向けた計画の一部であり、また2年後に行われる予定の東京オリンピック1964に向けた整備工事の一環でもあった。また、大規模なオフィス街の建設とともに行政機関の移転も計画には含まれており、実際に東京都庁が丸ノ内から新宿駅西口へ移転してきたのは、上掲の文章から29年後の1991年(平成3)になってからのことだ。
 つづいて、『新宿区勢要覧』から住環境に関する部分を引用してみよう。
  
 区内の地勢は、四谷台、牛込台、角筈、柏木、大久保、戸塚、目白、落合の台地からなり、地盤は堅牢で高層建築物にも堪えられるので、近年高層建築物が増加しているので市街美を一変されると思われる。(ママ) 台地の間を神田上水、妙正寺川、渋谷川などが流れ、かつ、風水害も比較的に軽微なので、都内屈指の住宅地帯である。/以上のような立地的条件に恵まれた本区は、戦後15ヵ年間、道路の美化清掃、舗装、建築の指導相談を通じ、市街美の完成を目標として清潔な新宿区の発展を、また区立学校の施設の完備を図り文教地区として新宿区の育成を、中小商工業者に対しては、短期融資制度を設け、(以下略)
  
 冒頭の文章表現がおかしいが、ここに書かれている「高層建築物」は、今日にイメージするような高層建築のことではなく、せいぜい15階建てぐらいのビルを想定しているのだろう。確かに、当時に比べれば「市街美」は一変してしまったが、それを「美」と見るか「醜」と見るかは個人の主観なのでさておき、少なくとも「市街美を一変」したことによって新宿区から失われた森林や樹木=緑は、現代にいたるまで広大な面積にのぼるとみられる。同時に、それを「息苦しくて住みにくい」と感じ、新宿区から転居していった住民もまた、膨大な人数にのぼるのではないだろうか。
 ちょうど、親父たちの世代の多くが1964年(昭和39)の東京オリンピック前後に、日本橋から「もはや、人の住むとこじゃねえや」と東京西部へ転居Click!していき、1980年代には人口がほぼ半減(15万人余→8万人)したのと同じような現象を想起してしまう。現在、またしても緑地の大量伐採が新宿区を含む神宮外苑で計画されているが(もっとも計画主体は新宿区ではなく東京都だが)、ホッと一息つける閑静な場所がない地域に、人は徐々に住みたいとは思わなくなるだろう。東京都は、60年前に日本橋で踏んだ同じ轍を、新宿とその周辺域でもう一度浅はかにも踏もうとしている。街を壊される(日本橋では“町殺し”Click!と呼ばれた)地元の新宿区は、ぜひいまからでも「待った!」をかけるべきではないか。
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 1962年(昭和37)当時は、「少高齢多子化」の時代だったので、新宿区にはものすごい勢いで学校が増えつづけていた。公私立あわせた学校の数は、大学10校、各種専門学校69校、高等学校20校、中学校23校、小学校37校、そして幼稚園が45園あった。このあと、1960年代後半から70年代にかけて、さらに増加しつづけることになる。
 新宿区も教育には注力しており、さまざまな施設や教室を整備している。中でも、幼児や小学生を対象とする「子ども科学教室」というのを、1961年(昭和36)より内藤町87番地にあった新宿文化会館(現・四谷地域センター)内に開設しており、多彩な設備や実験機器などをそろえて子どもたちを集めていた。1962年(昭和37)4月には、同教室へ新たにプラネタリウムが導入されたようで、「宇宙時代」の勉強にはピッタリだと宣伝している。
 「子ども科学教室」の様子を、同年の『新宿区勢概要』と同梱して区民に配布されたとみられる、同年の「新宿区広報」4月20日号から引用してみよう。
  
 科学時代にそくして、子どもたちが科学に親しみをもつようにとのねらいで、「子ども科学教室」=内藤町八七新宿文化会館内二階=を開設してから十ヵ月になりました。/弾丸列車、日本最大の長距離模型鉄道、強力日本一の豆機関車、よい子の人気者巨人ロボット、ロボット楽団とフランス人形楽団、天体望遠鏡や地球儀、その他電力利用の模型、各種解説模型、工作用具の備わった工作室などがあります。さらに、今度はプラネタリウムの新設、科学の進歩に応じた工作室の完備、科学の基礎がたのしく勉強できる科学講座の充実が行なわれます。/宇宙時代にふさわしい科学の勉強に役立せてください。
  
 なぜ、「科学」だの「宇宙時代」がことさら強調されたのかは、前年の1961年(昭和36)4月にソ連のガガーリン宇宙飛行士が地球の周回軌道をまわることに成功しており、にわかに「宇宙」ブームが巻き起こったからだった。
 また、子ども科学教室には、今日の鉄道マニアなら垂涎の「日本最大の長距離模型鉄道」とか、おそらく実際に走行できる機関車のミニチュアとみられる「強力日本一の豆機関車」が置かれており、子どもだけでなく大人も楽しめるようなコンセプトだったのだろう。「弾丸列車」や「巨人ロボット」などは、少年雑誌で人気が高かった「鉄腕アトム」や「鉄人28号」からの影響ではないか。弾丸列車はどのようなものか想像できないが、巨大ロボットには今日の地域“ゆるキャラ”のように、人が入って操作してなければいいのだが……。
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 夏休み、子どもたちが目を輝かせて巨大ロボの前に集まっていると、「……真空管いっぱい付けやがって、暑(あち)いったらねえぜ」、「ママ、いまロボットが暑いっていったよ」、「そうね、この暑さはロボットさんにもこたえるわね」、「ママ、いまロボットが気持ち悪いっていったよ」、「あら、ロボットさんもたいへんね」、「ねえママ、ロボットさんが吐きそうだって」、「そうね、ロボットさんが吐かないうちにあっちへいきましょ」。

◆写真上:新宿通り上空から西の新宿駅方面を向いて撮影した、1962年(昭和37)の「新宿区広報」4月20日号に掲載された空中写真。眼下中央の大きめなビルは新宿伊勢丹で、新宿駅西口には淀橋浄水場の濾池が見えている。
◆写真中上は、『新宿区勢要覧』(昭和37年版)が配布時に入れられていた袋(左)と、同冊子の行政関連解説ページ。は、1962年(昭和37)現在の落合地域東部(上)と西部(下)の市街図。は、交通事故の急増も大きな課題のひとつだった。
◆写真中下は、1962年(昭和37)1月31日に撮影された下落合東部(上)、下落合西部と西落合(中)、そして上落合(下)の空中写真。は、同年に新宿文化会館の「子ども科学教室」に設置された「宇宙旅行とロケット」コーナー。
◆写真下は、1962年(昭和37)の新宿区の交通情報と観光名所。は、新宿区立の小中学校および幼稚園を除いた学校一覧。は、「新宿区広報」の表紙ヘッダー。
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古墳の盗掘がそのまま伝承されたタタリ譚。 [気になるエトセトラ]

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 これまで、古墳の周辺で語り継がれる屍家(シイヤ・シンヤ)伝説Click!に象徴的な禁忌伝承Click!や、古い墓域Click!への立ち入りをためらわせる妖怪譚Click!、あるいは村からどこかへ出かけていき短期間で裕福になった長者伝説Click!など、この地域の周辺に伝わる説話を記事にしてきた。そのような禁忌やエピソードが語り継がれてきたエリアには、大小の古墳群Click!を想起させる痕跡が残されていたことも、併せてご紹介している。
 中でも長者伝説Click!に関しては、農民あるいは町人がある日“一夜にして”と表現するほどの短期間で大金持ちになるような、どこか「宝さがし」を連想させる物語Click!が付随しているケースも多く、古墳に埋葬された副葬品を盗掘し、それら装飾品の貴金属や宝玉を売りとばすことによって、にわかに大金を得たかのような経緯を連想させる。事実、近世には古墳の盗掘が全国各地で盛んに行われていた。
 また、このような盗掘で出土する錆びた鉄刀や鉄剣は江戸期の研ぎ師Click!「御魂研處」Click!のもとへと流れ、目白(鋼)Click!が酸化した錆を粉末状にして、研磨の仕上げにおける最終工程の平地や刃の磨き粉などに用いられている。
 大型の古墳に穴をうがち、玄室に副葬されている“お宝”を盗みだす……というような直截的な物語ではなく、「呪い」や「祟り」あるいは「長者」の繁栄とその悲惨な末路、ときに怖ろしい妖怪譚というように、墳墓の盗掘そのものを直接的に伝承するのではなく、盗掘をそのまま語るとのちの障りを気にしてか別の物語にスライドさせて、婉曲に語り継がれてきた要素が強いのではないかと思われる。
 ところが、めずらしく古墳盗掘に関する直接的な伝承が、大阪地域で語り継がれているのを見つけた。しかも、盗掘した人物は、古墳の玄室から巡査に引きずり出されたあと、すぐに倒れて死亡している。おそらく、明治末か大正初期のころの“事件”だとみられるが、地元の新聞や郷土資料にも確かな記録が残されているようなので、事実、そのような出来事があったのだろう。人々は、この事件を古墳の被葬者による「祟り」あるいは「呪い」として、印象的に記憶したようだ。
 また、昔からマムシがいるから危険なので立ち入らないようにと、地域の子どもたちは教えられて育ったらしい。いまの子どもたちに、「呪い」や「祟り」「妖怪」では説得力がなく抑止力にならないため、ことさらマムシの巣窟だとして禁忌エリアにしていたのかもしれない。その古墳は、子どもたちの通学路がある四辻に面しており、周囲はほとんど田畑しかない見通しのいい環境だった。古墳に立ち入る人を見かけたことはなく、ときおり町内会の役員たちが掃除をするぐらいだった。
 だが、その見通しのいい四辻では、大きな交通事故が頻繁に起きる地点としても有名だった。それを不思議に思い、作家が同級生の90歳ほどにもなる祖母に訊ねると、思いもかけず古墳の盗掘事件の昔話が飛びだした。2013年(平成25)に竹書房から出版された『実話怪談FKB饗宴』収録の、田辺青蛙(せいあ)『四辻』から、同級生の祖母の話を引用してみよう。ちなみに、彼女は生まれ育った大阪のとある地域にある「K古墳」としており、具体的な古墳名は明らかにしていないが、地元の方が読めばすぐに「あそこだ」とわかるのだろう。
  
 あの古墳は誰のお墓か、あんまりハッキリしないんやけどねえ。あたしが子供の頃古墳に墓泥棒が入って、荒らしたんよ。/勾玉かなんか出てくると思ったんやろうね。あっこ、あんなに見通しええのに昔から人が入らんし、今もそうやろ。/学者さんも最近はどうか知らんけど、当時はろくに調べにも来てへんかったみたいやし。古墳の脇腹ん所に石棺があるやろ。/(中略) 重たかったやろうに、鍬やらモッコやら持って夜中に一人で入って古墳中を掘り返したんやわ。/でも結局何も出て来なかったらしいんやけどね。/変なんが、朝になって誰が呼んだか分からんけど、巡査が来て声をかけても墓泥棒は夢中で泥まみれになって古墳掘りを続けてたんやて。/そいで、巡査さんが怒って着物を引っ張って古墳から引きずり出したんよ。したらねえ、どうしたわけか急に仰向けになって全身を強張らせて黒い泡ぶくぶくぅっと吹き出して突然墓泥棒は亡くなってしまったんだわ。/墓泥棒のひっくり返った姿を見た人もおってね、黒豆みたいな艶がかった泡が顔にべったりついて気持ちわるかったって話してたんをいまだに覚えとるよ。
  
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 四国か中国地方の方言が、わずかに混じるような同級生の祖母の話しぶりだが、この「K古墳」のあるのは大阪でも兵庫寄りの地域だろうか。ちなみに、著者の田辺青蛙の先祖は備前長船の刀鍛冶ということなので、現在の岡山県ということになる。
 彼女は、友人の祖母の話に「うっそ~」というような表情をしたものか、老婆は「図書館にある郷土資料や古新聞を調べてみ」と不満そうな表情を浮かべながらいった。著者も“ウラ取り”のために、さっそく地元の図書館へ出かけている。すると、すぐに郷土資料に古墳盗掘の記録が見つかり、老婆の話したことは事実だったことが判明している。
 ただし、墓泥棒が巡査に引きずりだされた直後、口から黒い泡を吹いて死亡したのは、古墳を暴かれたことによる被葬者の「祟り」や「呪い」などではなく、暗闇から強い日光の下に晒されて「てんかん」の発作が起き、呼吸困難で急に心停止して死亡したのかもしれず、泡が黒く見えたのは掘り返していた土が口辺に付着したからではないか……との想定も成立する。ただし、それ以外の事実関係はすべて友人の祖母が話した内容のとおりだった。
 同書の証言より、つづけて引用してみよう。
  
 墓泥棒の話が載っていたのは、郷土史家が集めた話が二~三十話程載っている薄い黄緑色をした表紙の本だった。/古い本なのか紙の端が焼けて黄ばんでいた。用心してページを捲らないとホッチキスで留められた綴じ目から紙が落ちてしまいそうだった。/中には当時の新聞記事からの抜粋と、古墳についての謂れが二十行程の文章に纏めて書かれていた。/ふと、文章を追ううちにそのページのノンブル横辺りに、鉛筆書きの歪な字で薄く「やばいで」と一言落書きを見つけた。/図書館の資料に酷いことをする人もいるもんだと思って、落書きにそっと消しゴムをかけようかと思ったがやめた。/もしかすると、本当に何かの警告かもしれないと感じたからだ。
  
 「やばいで」と落書きされたその古い資料は、館内閲覧のみの資料だったが、ほかにも何冊か気になる郷土資料が見つかったので、著者はまとめて借りだしている。
 彼女が高校生のころ、おそらく1990年代半ばすぎのころのことで、図書館で借りた資料類を自転車の買い物かごに入れて自宅めざしてペダルをこいだ。すると、K古墳のある見通しのいい四辻にかかったところで、危うくバイクと衝突しそうになるのだが、バイクの存在にまったく気がつかなかった……という怪(あやかし)の展開になる。
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 つまり、彼女はバイクのエンジン音も聞こえなかったし、バイクの存在自体にも気づかず、いま自分が調べている古墳の前で危うく自転車ごとバイクに轢かれそうになったということは……と、ここで気味の悪い怪談めいた体験に遭遇するというわけだ。K古墳と交通事故の因縁話はともあれ、現在は最寄りの駅前に高層マンションも建ち並びはじめたが、古墳の周辺は未開発のまま当時と変わらない風情だという結末で終わっている。
 古墳の盗掘が、明治末か大正初期ごろの“新しい”エピソードだったので、妖怪譚や他の「呪い」話(現代らしく交通事故の頻発地点としては語られているが)に転化せず、ほぼ事実関係がそのままの「怪談」として、地域でこの100年ほど語り継がれてきためずらしいケースだろう。これが江戸期以前に起きた事件だったりすると、そのまま「話すと呪われる」「伝えると祟られる」という心理的ストッパーが働き、別の怪しげな狐狸妖怪譚や幽霊譚に転化しながら伝承された可能性が高い。
 さて、最後に余談をひとつ。昨年(2021年)、同じ大阪府の堺市にある大山古墳(大仙陵古墳)で、周壕(濠)の周域において発掘調査が行われた。そこで、明らかに切れ目のない横一線の刷毛目(ヨコハケメ)がついた円筒埴輪が出土し、精細な記録映像も公開されている。横一線のハケメが見られる円筒埴輪は、これまで5世紀後半から6世紀初頭までに造られた円筒埴輪(東京国立博物館規定)の特徴だと分類されていたはずだ。
 「仁徳天皇」は399年(?)に死去したとされており、明らかに被葬者は「仁徳天皇」などではないだろう。「世界遺産」にも登録されたことだし、巨大な大山古墳に眠る被葬者はどこの勢力のいったい誰なのか、この先ぜひ羨道や玄室の科学的な調査も行ってほしい。もちろん、同時にAMS法も加えた最先端の年代測定も実施したい。
 皇国史観Click!の学者サンたちは、「仁徳天皇」を懐かしんだ5世紀半ば以降の人々が、古墳の周囲へ同時代に一般化した円筒埴輪を並べて「追善供養」祭祀を開催して奉じたなどと、今度は記紀の「千子二運」にならい、まさか朝鮮半島からの仏教伝来を前世紀まで遡らせたりとか、横一線の刷毛目の技法は4世紀末にはすでにあったとか、これまで積み上げてきた人文科学的な学術の成果を「なかったこと」「見なかったこと」にはしないよね。 
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 ぜひ、周辺に展開する上石津ミサンザイ古墳やニサンザイ古墳、百舌鳥陵古墳など同族および関連する陪墳群とみられる大小の古墳についても、薩長政府の教部省が「なんとなく」テキトーに規定した、自国の歴史を歪曲して自ら貶めるデタラメ古代史を排し、科学的(21世紀の現代考古学的)な発掘調査Click!が的確かつ精確に進むことを期待したい。

◆写真上:東京府中市の西府町の熊野神社境内にある、日本最大規模の上円下方墳Click!
◆写真中上は、熊野神社上円下方墳で復元された羨道から玄室への入口。は、円筒埴輪が復元されてズラリと並ぶ世田谷区の野毛大塚古墳Click!
◆写真中下は、東京タワー下の芝増上寺境内とその周辺域に陪墳群13基余を従えていた、前方部の先を道路に断ち切られている巨大な芝丸山古墳Click!は、世田谷の等々力渓谷に造られた等々力3号墳の玄室への入口である羨門。は、同じく尾山台の狐塚古墳Click!後円部の墳頂から付近の住宅街を見下ろしたところ。
◆写真下は、大田区の田園調布にあるカメラに収まり切れない大きな亀甲山古墳Click!は、台東区の上野公園内に墳丘を削られながら唯一残された上野摺鉢山古墳Click!は、大阪の堺市にある大山古墳(大仙陵古墳)の調査で出土したヨコハケメの入る円筒埴輪。

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「怪談興行」や「グロ週間」もある公楽キネマ。(下) [気になる下落合]

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 時代劇ばかり制作されると、主演は必然的に刀を振りまわす男優の起用が多くなる。上映された53作品のうち、女優が看板主演しているのは、『女彌次喜多』の五味國枝と『怪談両國花火供養』の琴糸路、『江戸姿紫頭巾』の原駒子、そして『怪談くりから峠』の鈴木澄子のわずか4本にすぎない。原駒子は、別の作品にもしばしば出演しているので、当時はかなり人気があった女優なのだろう。
 公楽キネマClick!が、おそらく同年冬の興行として公開を予定していたとみられる作品に、主演・入江たか子Click!で監督・溝口健二Click!による時代劇『瀧の白糸』がある。入江たか子のように、飛びぬけたスター女優が出現すると主演映画がつづけさまに制作されているが、昭和初期の東京宝塚映画には、主演をまかせて観客を呼べる女優がまだまだ少なかったのだろう。『瀧の白糸』の梗概を、1933年(昭和8)に発行された「公楽キネマ」7月6日号の近日公開予告から引用してみよう。
  
 江戸の花、今は名残りの両國に藝事なら、顔立なら並ぶ者なき水藝の女太夫瀧の白糸が生涯を賭けての戀絵草子! 満天下のフアン諸兄姉が待ちに待つた入江たか子最初の情緒豊かな下町物! 岡田時彦の神技と名匠溝口監督の指導とを得て遂に完成された纏綿極りない空前の華麗黄金篇。/原作 泉鏡花 監督 溝口健二
  
 なんとなく江戸期の話のようだが、岡田時彦が裁判官役で登場し、原作が泉鏡花Click!ということで、おそらく明治中後期の情景を描いた時代劇だろう。
 さて、夏休みが終わる同年8月31日から9月6日まで上映されたのは、『越後獅子の兄弟』『江戸姿紫頭巾』『複雑な裏面』の3本立てだ。『複雑な裏面』は、夫の財産をねらうママ母の子どもイジメと、愛人を陥れるための陰謀と、これまたドロドロとした愛憎現代劇で、同時上映の『江戸姿紫頭巾』は先述の原駒子が主演している。
 つづいて、9月7日から13日まで上映されたのは、『鳴子八天狗(飛龍篇)』『三日月お美代』『起てよ甚五三』の3本立てで、すべて時代劇だった。3作ともありがちなストーリーで、金塊護送と盗賊との追いつ追われつの話、大江戸に出没する泥棒の話、父親を殺された息子の敵討ちの話と、映画を観なくてもだいたい筋立てが想像できる展開だ。
 次に、9月14日から20日に上映されたのは、めずらしく『萬花地獄(前篇)』と『黄金騎士』の2本立てだ。いずれも時代劇だが、どちらかの上映時間が長かったのかもしれない。前者は片岡千恵蔵、後者は嵐寛寿郎が主演している。『萬花地獄』は、めずらしく刀の研ぎ師Click!から物語がはじまるようで、奸臣をやっつける忠臣の話だ。「公楽キネマ」9月14日号から、同作の梗概を引用してみよう。
  
 甲州負手の研師定八には水田郷国定の一振りを依頼した若き武士こそ奸臣司馬大學を誅すべく、肝膽を砕く忠臣小枝角太郎であつた。
  
 これだけの短い梗概だが、「水田郷国定」は江戸期に名の知られた刀鍛冶である、備中の水田住国重のパロディだろう。後述するが、当時の映画で実在の人物を描くときは、名前の1文字を別字に変えて演出することが多かった。
 つづいて、9月21日から23日の3日間は2本立ての興行で、『萬花地獄(後篇)』と『乱刃花吹雪』を上演している、ともに時代劇で、この時期は刀剣にまつわるテーマの作品が多かったようだ。上映期間が短かったのは、どこかの系列館で上映したとき、観客の動員数があまりなかった作品なのだろうか。当時の映画館は、客の入りが悪いからといって急に上映作品を変えてしまうような、今日のようにフレキシブルな興行体制はとれず、予告した期間には必ず予定のタイトルを上映していた。
 9月24日から27日までの4日間も、『結婚五十三次』と『阪本龍馬』の2作を上映している。『結婚五十三次』は甲賀計二が主演の現代劇だが、梗概が省略されていて内容がわからない。『阪本龍馬』の「坂本」が1文字ちがいなのは、当局のチェックや遺族からのクレームを防止するための改変であり、フィクションであることを強調したいがためだろう。
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 つづいて9月28日から10月4日までは、人気の『銭形平次・復讐鬼』や『龍虎八天狗』、『悲しき操』の3作が上映されている。当時の銭形平次は、アラカンこと嵐寛寿郎が演じている。南町奉行所の与力だった笹野新三郎の周囲で、座敷に生首が現れる怪異や就寝中の不吉な夢魔などがつづき、銭形平次が笹野家の呪いを解き明かすために探索に乗りだすというような、なかば夏向きの怪談じみた展開だ。
 また、『悲しき操』は現代劇だが、やや悲劇がらみのホームドラマとなっている。「公楽キネマ」9月28日号から、その梗概を引用してみよう。
  
 妻を失つた國友は妹美奈子と文子の成長を楽しみに餘生を送つた。國友の竹馬の友山田は職を求めて上京し、國友の友誼に甘へてその家に寄宿した。ある日思はぬ悲劇が國友の上に襲つた。
  
 「國友の上に襲いかかつた」が日本語の表現的には正しいと思うが、パンフレット「公楽キネマ」の梗概を書いているのは、専属ライターなど同館にはいそうもないので、館主か従業員の誰かなのだろう。ストーリーをうまくまとめ、読み手に「つづきを観てみたい」と思わせるような、誘引力のあるうまいコピーを書いている。
 次に、10月5日から12日まで上演されたのは、『怪談くりから峠』と『右門十番手柄』の2本立てで、2作とも時代劇だ。『怪談くりから峠』は、先述したように女優の鈴木澄子が主演する作品だが、『右門十番手柄』の“むっつり右門”は、またまた嵐寛寿郎が演じている。「先週まで盗賊に寛永通宝を投げてた平次親分が、なんで今週は八丁堀の与力なんだよう」というような文句は、おそらく出なかったろう。当時は、映画も芝居と同一視されていて、客席から「よっ、アラカン待ってました!」のかけ声があるのもめずらしくなかった。ある俳優でヒットした“持ち役”の作品は、何度でも繰り返し制作されており、銭形平次とむっつり右門が同じ俳優でも、なんら不自然には感じられなかったろう。
 ちなみに、「公楽キネマ」10月5日号より『右門十番手柄』の梗概を引用してみよう。
  
 八丁堀の名物與力むつつり右門と、その腰着巾(ママ:腰巾着)、おしやべりや傳六の功名話。傳六め。柄にもなく浅草で評判の大魔術見世物小屋の女太夫お初に戀をしたが、俄然老中松平伊豆守の股肱の隠密井上金八郎暗殺事件が突発した。曲者は明察神の如き右門の裏の裏行く不敵な奴、茲に右門と怪人の腕比べの幕は切つて落されたが、又々現れたあばたの敬四郎、毎度の失敗にこりもせず事件の中へ飛込んだ。しかるに傳六の戀人お初が意外や事件の黒幕となつてゐて………?
  
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 この2本立て上映のあと、公楽キネマは10月13日から18日までの6日間、従業員の骨休めのためか休業しているとみられる。8月18日以来の2ヶ月ぶりの休業で、ようやく暑さが遠のいた館内ではホッとした空気が流れていたのではないだろうか。
 休み明けの10月19日から22日までの4日間は、『東京音頭』『颱風を突破るもの』『時雨の長脇差』の3本立てで、『東京音頭』は現代劇だが梗概がないので内容は不明だ。つづいて、10月23日から25日までの3日間が、『出世二人侍』『火の車お萬』『開花異聞・落花の曲』の3本立てで、いずれも時代劇となっている。そして、この1週間が他の上映期間と異なるのは、「音楽週間」と位置づけられていた気配が見える点だ。
 上映作も、『東京音頭』と『落花の曲』が音楽(音曲)がらみの作品だと思われ、パンフレット「公楽キネマ」の同じ見開きには、レコード会社による「コロンビア週間」(ママ:コロムビア週間)の広告が掲載されているからだ。小唄勝太郎と三島一聲によって、日本ビクターに『東京音頭』が吹きこまれたのは1933年(昭和8)のこの年で、レコードは空前の大ヒットとなった。映画にレコードに踊りのイベントと、絵に描いたようなメディアミックス戦略だが、もっとも早い時期での成功例といえるだろうか。この流れからいけば、『東京音頭』Click!をリリースしている日本ビクターが広告を出稿しそうなものだが、なぜか公楽キネマは日本コロムビアに広告出稿の声がけをしている。
 日本コロムビアが宣伝しているレコード(もちろん当時は蓄音機用のSP盤)は、「流行唄」としてミス・コロムビア(松原操)と松平晃が唄う『秋の銀座』『思ひ出の月』、伊藤久男と赤坂・小梅が唄う『旅に泣く』『もつれ髪』、そして「ジヤズソング」と銘うつ川畑文子が唄う『ウクレン・ベビー』『淋しき路』の3枚だ。もちろん、「ジヤズソング」は今日のJAZZとは関係なく、西洋音楽っぽいポップスぐらいの意味あいだったろう。ところで、「ウクレン」ってなんだ?……と調べてみたら、川畑文子が唄ったのは「ウクレレ・ベビー」の誤植で、しかも2ビートのハワイアンだった。
 次に、10月26日から29日までは2本立ての時代劇で、『風流上州颪』と『荒木又右衛門』が上映されている。特に『荒木又右衛門』は歴史物なので、東京宝塚映画の嵐寛寿郎や羅門光三郎、原駒子などオールスターが出演していたようだ。
 さて、公楽キネマでは10月30日から11月5日の6日間を「グロ週間」と名づけて、血みどろ映画3本立てを企画している。「グロ週間」があるのなら、エロ・グロ・ナンセンスブームから「エロ週間」もありそうだが、少なくとも、1933年(昭和8)の6月から11月までの半年間には見あたらない。上映されたのは、主演が市川正二郎の『怪談南海の激浪』、松本田三郎の『流血白鬼城』、尾上梅太郎の『宇都宮怪談』の3作でいずれも時代劇だ。「ねえねえ、グロ週間にかかる活動が面白そうだからさぁ、映画に連れてってよ~」とせがむ子どもに、親は青筋たてて「もう金輪際、絶対にダメです!」と叱りつけただろうか。
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 つづいて、11月6日からは『日の丸若衆』と『天蓋浪々記』そして『隠密傀儡師』の3本立てが予告されているが、羅門光三郎の『隠密傀儡師』は7月にも一度上映されており、3ヶ月後のアンコール上映ということになる。公楽キネマでは、観客にもう一度見たいタイトルをアンケート調査で募集し、いちばん票が多かった作品を再上映したものだろうか。
                                  <了>

◆写真上:1933年(昭和8)9月14日から上映された、白井戦太郎の『黄金騎士』。
◆写真中上は、第1次山手空襲Click!直前の1945年(昭和20)4月2日撮影の空中写真にとらえられた公楽キネマ。警察からの強い“指導”Click!でも入ったのだろうか、日米開戦前の1940年(昭和15)ごろから目立つ外壁の白い塗装はやめていたようだ。は、8月31日~9月6日で上映された嵐寛寿郎が主演の『右門捕り物帖・越後獅子の兄弟』。は、9月14日~20日で上映された片岡千恵蔵が主演する『萬花地獄(前篇)』。
◆写真中下は、9月28日~10月4日で上映された嵐寛寿郎の『銭形平次・復讐鬼』。は、10月5日~12日で上映された嵐寛寿郎の『右門十番手柄』。は、10月26日~29日で上映された阿部九州男と木下双葉が共演の『風流上州颪』。
◆写真下は、近日上映予定で紹介されている尾上菊太郎と鈴木澄子が共演の『左門戀日記』。は、1933年(昭和8)8月31日~11月5日の公楽キネマ上映リスト。下左は、近日公開予定の入江たか子と岡田時彦が共演する『瀧の白糸』。下右は、「公楽キネマ」10月19日号に掲載された「コロンビア週間」(ママ:コロムビア週間)のレコード広告。

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「怪談興行」や「グロ週間」もある公楽キネマ。(上) [気になる下落合]

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 上落合521番地で営業していた映画館「公楽キネマ」Click!では、どのような映画が上映されていたのだろうか。以前、長崎町のバス通りにオープンしていた洛西館Click!(のち目白松竹館)の上映作品を、同館で発行していたパンフレットClick!とともにご紹介していた。同館では、松竹蒲田や松竹大船で撮影された作品を上映していたが、公楽キネマは東京宝塚映画(現・東宝)系の作品を上映している。
 手もとには、公楽キネマで発行されていた1933年(昭和8)の下半期パンフレットが14部ほどあるが、当時は無声映画が主流なので、もちろんスクリーンには字幕が入り、気のきいた劇場ならピアノかヴァイオリンの画面に合わせた生演奏や、蓄音機によるレコードの伴奏などがつき、あるいは古い映画館ならいまだ所属の活動弁士がいたかもしれない。
 当時、公楽キネマへ通った上落合住民の方の証言が残っている。1983年(昭和58)に、上落合郷土史研究会が出版した『上落合昔ばなし』から引用してみよう。
  
 当時、小滝橋から早稲田通りの坂の途中位までを「まち」と呼んで居りました。現在の落合建材やさん辺が切り通しになって居り、北側は小高く森となって居りました。大正の末頃から人家も増えて、今の落合建材やさんのあたりに公楽キネマと言う活動館がありました。一階は土足のままで、二階は下駄をぬいで座布団を敷いて、無声映画を見入っていました。
  
 小滝橋から、丘の斜面を掘削して通した早稲田通りは、西へ向かうにつれダラダラと上り坂になっていたのは、現在でもその面影を見ることができる。ただし、切り通しの両側の崖地は取り払われ、いまでは通りと同じ面に商店などが連なっている。
 公楽キネマは、そんな傾斜のゆるやかな坂道の途中、小滝橋から340mほどのところにあり、外壁をペンキで真っ白に塗られた2階建ての大きな建物だった。1階は、通常の映画館のように座席が並んでいたが、2階席は畳敷きに座布団が並べられた、まるで当時の寄席のような造りだったのがわかる。ここで上映されていたのは、ほとんどが無声映画時代の時代劇作品で、現代劇は非常に少ない。
 通常は1日3本立ての上映で、1週間のサイクルをめどに次の作品へかけかえられていた。3本立てのうち、1本が現代劇というペースだったが、3本とも時代劇Click!という週もめずらしくなかった。それほど、当時は時代劇作品の人気が高かったように思えるが、ひょっとすると特高Click!による検閲Click!が、時代劇よりも現代劇のほうがかなり厳しく、よけいに配給までの時間がかかったのかもしれない。
 各映画館への配給サイクルを考慮すると、時代劇のほうが現代劇よりも検閲リードタイムが短くて、興行的には現代劇よりも効率がよく収益も多かった可能性がある。現代劇の作品で万が一、特高から修正指示があれば映像編集や字幕修正をもう一度やり直さなければならず、そのリスクを避けて時代劇ばかりを撮っていたものだろうか。
 公楽キネマでは、7月13日から19日にかけて「お盆興行」と銘うち、人気作品の3本立て上映を行なったり、「怪談興行」あるいは「グロ週間」と名づけて怪談映画を上映したりしている。1933年(昭和8)6月29日から、同年11月5日まで上映された53本の作品を把握できたが、そのうち同時代の現代劇はわずか10作品にすぎず、残りの43本は明治期を描いたものまで含めて時代劇となっている。
 それにしても、当時の映画会社は膨大な量の映画作品を、系列の上映館に短期間のサイクルで配給していたのがわかる。毎週3本立ての興行を、1年間つづけても作品がほとんどダブらなかったということは、昭和初期にいわれた1本の映画制作は最短で1週間の大量生産だったというのも、あながち誇張ではなさそうなボリュームだ。
 制作期間が短ければ、出演する俳優も当然スタジオにそのまま“貼りつき”となり、タイトルが異なるのに出演者が同じという作品もめずらしくなかった。公楽キネマで上映された53本の作品のうち、わたしが知っている俳優は嵐寛寿郎Click!と月形龍之介、片岡千恵蔵Click!、それに入江たか子Click!ぐらいしかいないが、これら俳優たちも戦後の「多羅尾伴内」(片岡千恵蔵)ではないけれど、作品ごとに「七つの顔」を使い分けるのはたいへんだったろう。
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 さて、今回は公楽キネマで上映された作品のうち、1933年(昭和8)6月29日から8月30日までの作品を見ていこう。6月29日から7月5日までは、『決戦荒神山』『摩天楼の顔役』『安政大獄』の3本立てだ。この中で、『摩天楼の顔役』が現代劇だが、その梗概を1933年(昭和8)に発行されたパンフレット「公楽キネマ」6月29日号から引用してみよう。
  
 朗らかな男、街のスリ三吉は今日も又クラドツク探偵ならぬ刑事杉さんに追つかけられてゐた。と云ふのは盛り場の人込みで鐵五郎の親分久五郎の懐からたんまり久し振りにかせいだ三吉が、空財布をすてたのが運悪く杉さんの頬ペタに当つたからだ。杉さんに追はれた三吉、ある曲藝團の小屋へ逃げこみ見せ物を滅茶苦茶にして揚句の果はその小屋のスターミドリの楽屋へ逃げ込む。そこに久五郎がミドリを口説きにきてゐるのとぶつかり久五郎の乾分と喧嘩をはじめる。
  
 ……と、もうドタバタ喜劇の典型だが、別に現代劇でなく時代劇でも通用しそうなシナリオだ。西両国を流していた胡麻のハエが、たまたま投げた空財布が十手もちの顔に当たり、近くの見世物小屋へと逃げこんでひと騒動……と焼きなおしも簡単だ。ひょっとすると、過去の時代劇からのシナリオ流用かもしれない。
 つづいて、7月6日から12日までが、『鞍馬獅子』『助太刀辻講釈』『涙の天使』の3本立てで、タイトルからもわかるように『涙の天使』が現代劇だ。この時期の鞍馬天狗は、阿部九州男や月形龍之介が演じていて嵐寛寿郎の持ち役にはなっていない。
 つづいて、「お盆興行」とうたわれた7月13日から19日までは、公楽キネマにとっては書き入れどきだったろう。東京の企業や商店では、お盆で休業するところも少なくなく、従業員や店員たちが休暇を与えられて、「映画でも見ようか」と思い立つ1週間だった。『隠密傀儡師』『右門捕物帖』『嘆きの夜曲』の3本立てで、『嘆きの夜曲』はある夫婦をめぐる愛憎ドロドロの現代劇だ。
 7月20日から27日までは、「夏休み特集」として『嬌艶龍虎の渦』『よ組の金五郎』『鉄路の縁』の3本立てだが、せっかく夏休みに入った子どもたちは、親に「連れてってよ~」とねだっても、「ダメです!」とにべもなかったろう。妖艶な目つきで男を見る原駒子の『嬌艶龍虎の渦』や、かたぎの夫婦に横恋慕する芸者の『よ組の金五郎』、踏み切り自殺した若妻の子を育てる『鉄路の縁』など、3本ともトンデモ内容だったからだ。
 ここで7月28日から8月2日までの6日間、公楽キネマは夏休みをとって閉館していたようだ。現在のように、館内にはクーラーがきいているわけでもなく、特に映写室などはうだるような暑さで、従業員の消耗も著しかったにちがいない。
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 8月3日から6日にかけては、『神楽稲妻峠』『踊子行状記』『人生案内』の3本立てだ。この中で、大岡怪童が主演する『人生案内』が現代劇(この作品に関しては梗概が書かれていないので内容は不明)だが、ほかは相変わらずの武家と町人との間での横恋慕話に、艶っぽいお姐さんが活躍するストーリーで、「ねえ、連れてってよ~」という子どもに、親は「どうしてもダメです!」といいつづけてたろう。
 この期間は4日間とサイクルが短く、次の8月7日から9日まではわずか3日間の3本立て上映だ。公楽キネマでは、明らかに「藪入り」Click!(旧盆休み)を意識しており、別の地方(=旧正月や旧暦の盆を採用している地域)から東京へやってきて働いている人々、企業や店舗の従業員たちへ休暇が出るのを見こしたプログラムの入れ替えだったろう。
 休暇は数日しかないので、故郷に帰るには時間があまりなく、「映画でも見よか?」、「『踊子行状記』はもう見たがな」、「いま、かけかえで『女彌次喜多』やってるで」、「ほな、いこか」……というような具合に、この時期、東京の映画館はどこも大入満員の盛況だった。8月7日から9日までは、『女彌次喜多』『春秋長脇差』『西南戦争』の3本立てだった。このぐらいの内容だったら、子どもたちも連れていってもらえたかもしれないが、満席で座れずに立ち見だった可能性が高い。
 つづいて、8月10日から16日までの1週間も、公楽キネマは従業員を休ませる藪入り休業だったらしい。映画館は、平日も休・祝日も正月も関係なく営業しつづけ、むしろ休日のほうが収益が多いので、従業員たちはめったに休めなかっただろう。ときどき上映スケジュールが空いているのは、映画館のまとまった休暇か、あるいは作品の配給手配がうまくつかないかのどちらかだ。
 8月17日から23日までは、『鳴子八天狗(前篇)』『琵琶歌』『都一番風流男』の3本立てだった。この中で『琵琶歌』が現代劇だが、同年に発行された「公楽キネマ」8月17日号から、その梗概を引用してみよう。
  
 相州の静かな小さい一漁村に住む漁師荒井三蔵の妹里野は同じこの漁村に宏壮な別荘をもつ資産家武田貞次に愛されてゐた。兄の三蔵は里野と貞次との結婚問題に対して身分を思へばきもすゝまなかつたが貞次の熱意と里野のいじらしい心に事なかれと祈つて彼等二人の結婚を許した。が、結婚した里野には貞次の母の迫害があつた。里野は愛する夫貞次の必ず迎ひに行くと云ふその言葉を信じ姑の云ふがまゝに実家へと帰つた。
  
 こちらは、大磯Click!鎌倉Click!あたりの別荘地Click!での嫁姑のドロドロ物語のようだが、「夏休みも終わっちゃうから、映画に連れてってよ~」という子どもに、やはり親は「絶対にダメです!」と拒絶したのではないか。同作は当時の風景が写っている可能性が高く、映像を観てみたい。ちなみに、『鳴子八天狗(前篇)』のあと、後篇がいつまでたっても上映されず、「あの結末は、ど~なってんだよう? つづきが気になって、夜もおちおち眠れねえや」と、公楽キネマへクレームを入れた観客がいたかもしれない。
 次の8月24日から27日の4日間は、嵐寛寿郎の主演で『百萬両秘聞大會』のめずらしく1本立て上映だ。ただし「大会」と名づけているように、『百萬両秘聞』は前・中・後篇に分かれており上映時間が長く、実質的には3本立て興行と同じ構成になっていた。
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 8月最後の週には、ようやく子どもでも見られそうな「怪談興行」と銘うつ上映がスタートしている。8月28日から30日のわずか3日間だけの興行で、『牡丹燈籠』『怪談げらげら草紙』『怪談両國花火供養』の3本立てだった。両親といっしょに、ようやく公楽キネマへ連れていってもらった子どもたちは、映画館を出るとき「もう夏休みも終わりか~」と、まだ終わりそうもない宿題と新学期のことを思って、ため息をついたかもしれない。
                               <つづく>

◆写真上:上落合530番地の火の見櫓から撮影された、上落合1丁目521番地の公楽キネマ。背後に見える大きめな森は、1962年(昭和37)まであった月見岡八幡社の旧境内。
◆写真中上は、1933年(昭和8)に発行された「公楽キネマ」6月29日号()と8月17日号()。は、7月20日号の上映作品を紹介するパンフレット見開き。は、同年7月6日~12日で上映された阿部九州男が主演の『鞍馬獅子』。
◆写真中下は、7月13日~19日でされた羅門光三郎と原駒子の『隠密傀儡師』。は、7月20日~27日で上映された羅門光三郎と原駒子の『嬌艶龍虎の渦』。は、8月17日~23日で上映された羅門光三郎と原駒子の『鳴子八天狗(前篇)』。出演俳優の多くが重なっているため、あとでストーリーがゴッチャになっただろう。
◆写真下は、1933年(昭和8)6月29日~8月30日の公楽キネマ上映リスト。途中で、夏休みと藪入りがはさまっている。は、8月28日~30日の怪談3本立て上映。上落合の子どもたちは、映画館前をウロウロしながら看板やスチールを眺めていたにちがいない。

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