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公楽キネマの周辺に写る上落合の家々。 [気になる下落合]

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 月見岡八幡社Click!の宮司・守谷源次郎Click!が、大正末か昭和の最初期に上落合530番地にあった火の見櫓から東を向いて撮影した、上落合521番地の公楽キネマClick!とその周辺の写真をすでにご紹介していた。きょうは、公楽キネマの周辺にとらえられた住宅や早稲田通り沿いの商店について、できるだけその詳細を特定してみたい。
 参考にするのは、公楽キネマが1933年(昭和8)に発行していた映画案内パンフレットの週刊「公楽キネマ」Click!へ、映画の観客をターゲットに出稿していた周囲の商店広告や、1938年(昭和13)に作成された「火保図」、そして同時期の各種地図類などだが、撮影時期が大正末から昭和初期ごろということなので、10年ほどのちに記録された「火保図」とは、住民や商店、施設などに若干の齟齬があるかもしれない。
 また、1932年(昭和7)に東京35区制Click!の施行で淀橋区Click!が成立し、落合町が消滅(地域が上落合・下落合・西落合へ)するとともに、道路や路地の拡張工事などが行われ、それにともない若干の地番変更がなされていると思われる。もちろん、写真当時の道路や路地は拡幅整備工事の前であり、「火保図」の時代とはかなり異なっている点にも留意したい。以上のようなテーマをご承知のうえで、読み進めていただければと思う。
 まず、火の見櫓の下に見えている風景から見てみよう。火の見櫓と同じ早稲田通り沿いの真下に見えている屋根は、上落合530番地の守田医院だ。院長は守田武雄という人で、内科と小児科が専門の医者だった。実は、撮影者の背後のすぐ真下も医者で、岡本一之助が院長の岡本医院だった。こちらも専門は内科と小児科で、火の見櫓をはさんでまったく同じ診療科目の医院がふたつ競合して並んでいたことになる。
 守田医院の屋根から、狭い路地をはさんで視線を上(東側)に移していくと、早稲田通り沿いの商店群が並んでいる。当時の早稲田通りは、幅わずか三間(約5.5m)ほどしかなく、写真でもおわかりのようにかなり狭かった。その通りに面して、2階建てのひときわ目立つ大きなかまえの商店が、週刊「公楽キネマ」に広告を掲載していた武蔵屋・加藤錦造商店だろう。上落合524番地の同店は、清酒の卸し問屋兼小売りをしていた酒店だ。
 武蔵屋・加藤錦造商店の向こう側(東側)にも、細い道が左右(南北)に通っていたが、「火保図」(1938年)の時代になると大幅に拡幅され、しかも道筋が屈曲していたため早稲田通りへの出口は直線化工事のため元の小道よりも手前(西側)になるので、「火保図」(1938年)の時点では公楽キネマの西側に細長い三角形の、まるでロータリーのような敷地が取り残されてしまっているのがわかる。写真には未設で写っていないが、この新しく敷設されたのが現在の上落合中通りと呼ばれている道路だ。
 守田医院の近くにもどって、商店群のすぐ裏に2軒の大きめな家が写っている。「火保図」とは、住宅の配置が少し異なるが、庭に洗濯物がたくさん干されている家が、上落合528番地で地主の加藤喜崇邸、左手の画面から半分切れているのが上落合525番地(のち527番地)の武蔵屋を経営していた加藤錦造邸だろうか。一帯の520番地台の地番には加藤姓が多く、姻戚関係だったものか月見岡八幡社の氏子総代であり、大久保射撃場の移転・廃止運動Click!を上落合地域でリードした加藤公太郎Click!もまた、上落合524番地に住んでいた。
上落合1929.jpg
火の見櫓跡.JPG
公楽キネマ(昭和初期)周辺1.jpg
加藤錦造邸前.JPG
 次に、公楽キネマの近隣に目を移してみよう。いまだ拡幅される以前の、小道だったプレ上落合中通り沿いに建っている家々は、公楽キネマの建物と重なる手前が、1938年(昭和13)の時点では上落合523番地の倉持医院だ。この医院の詳細は不明で、1932年(昭和7)の『落合町誌』Click!には収録されていないので、1932年(昭和7)から「火保図」が作成される1938年(昭和13)の間に新規開業していると思われるが、この写真が撮影されたころは別の住民が住んでいたのだろう。倉持医院も内科・小児科だったりすると、この近所では患者の奪いあい状態だったろう。
 のちに倉持医院となる住宅の左隣り(北隣り)が金井邸、そのさらに北隣りが川上邸という並びだ。金井邸や川上邸の向こう側(北東側)には、東南から北西へ斜めに抜けるゆるいカーブの路地があるはずで、左端に写っているモダンな西洋館は露地の向こう側(東側)にある、上落合516番地の大きな小布施邸と思われる。その小布施邸の右斜め上(東並び)に見える、2階建てのこちらもかなり大きな和館が上落合517番地の林邸だろう。
 そして、小布施邸の屋根の上にチラリと見えている住宅は、上落合486番地のこちらも敷地が広く大きな屋敷だった山岡邸だ。また、林邸の右手(南側)に見えている大小2軒の家は、左手前が砥目邸で右奥が大きな戸川邸だと思われる。以上の邸のうち、早稲田通りから北へと入る小道(現・上落合会館通り)に面しているのは、南から北へ戸川邸、林邸、山岡邸の3軒ということになる。このあたり、大きな住宅が建ち並ぶお屋敷街だった様子が写真にとらえられていてよくわかる。
 さて、写された画面の遠景を見ていこう。まず、前述の現・上落合会館通りの沿道西側に並んでいた、戸川邸・林邸・山岡邸の3屋敷の向こう側、大きな樹木が繁り公楽キネマの屋根上のほうまで林が連なっているのが、当時は広い境内だった月見岡八幡社だ。同社の境内は、表参道の入口鳥居のある旧・八幡通りClick!の階段(きざはし)までつづき、移転後の現在の境内に比べると約2倍ほどの広さがあった。
 月見岡八幡社の裏参道の鳥居がある路地、すなわち写真では戸川邸の前あたりに上落合186番地の村山知義Click!村山籌子Click!「三角アトリエ」Click!があるはずだが、遠くて確認することができない。もし、同写真が昭和初期の撮影だとすると、すでに「三角アトリエ」は解体されて、村山家の広い敷地内には新しいアトリエや複数の借家、アパートなどが建設中だったはずだ。その際、村山夫妻は仮住まいとして、下落合735番地のアトリエClick!に転居していて上落合には不在だった。
上落合会館通り.JPG
公楽キネマ(昭和初期)周辺2.jpg
裏参道1935頃.jpg
裏参道跡.JPG
 月見岡八幡社の西北端には、改正道路(山手通り)工事で破壊された大塚浅間古墳Click!から移設した落合富士Click!が再構築され、その手前の上落合202番地には大きな山本邸が建っていたはずだが、画面にはとらえられていない。山本邸も「火保図」(1938年)では採取されているので、1935年(昭和10)前後に建設された住宅ではないかとみられる。公楽キネマの屋根の左側、暖炉の煙突があるオシャレな西洋館っぽい住宅は、おそらく上落合186番地の池田邸で、小道をはさんで右手(南側)に見えている屋根が太田邸だろうか。
 なお、月見岡八幡社の樹林の間から、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いの前田地区Click!に建つ工場からの排煙が見えているが、方角的にみると旧・八幡通りの向こう側(東側)に建っていた、日本テラゾ工業所または大井製綿工場の排煙だろう。前田地区は大正期からの工業地域で、写真が撮影された時期には大井製綿工場の左手(北側)には小松製薬工場、昭和電気工場、東京護謨工場などが、また日本テラゾ工業所の右手(南or南東)には山崎精薬綿工場、東京製菓工場、山手製氷工場などが操業していた。
 早稲田通り沿いの遠景を見ると、公楽キネマの手前(西隣り)には店名不明の食堂が営業していたが、樹木に隠れてそれらしい商店は見えない。公楽キネマの向こう側(東隣り)に、チラリと見えている1階建ての商店は、「公楽キネマ」に広告を出稿していた上落合519番地のカチドキ堂看板店だろう。その数軒先には、沿道に戸川邸・林邸・山岡邸が並んでいた、前述の現・上落合会館通りの早稲田通り出口があるはずだ。
 いまだ拡幅・直線化の整備工事前で、大きく蛇行する早稲田通りに目を向けると、特に公楽キネマ周囲の路上には多くの人出があるようなので、守谷源次郎は休日あるいは祭日(社の祭礼日)に火の見櫓へ上り撮影したものだろうか。現・上落合会館通りの向こう側(東側)に、ひときわ大きく光って見える屋根は、上落合189番地の大野邸のものかもしれない。大野邸のさらに向こう側(東側)には、商店街がにぎやかな旧・八幡通りが左右(南北)に通っていて、月見岡八幡社の表参道へと入る鳥居と階段があったはずだ。
 さらに、旧・八幡通りに近い位置に高い煙突が見えるが、上落合192番地で開業していた銭湯の竹ノ湯だろう。竹ノ湯の背後(東側)のやや遠景に、大きめなコンクリート造りとみられるビルのような建物がとらえられているが、これが戦災からも焼け残った山手製氷工場の建屋だ。この製氷工場の右手(南側)が、関東乗合自動車小滝橋車庫Click!(のち東京市電気局自動車課小滝橋営業所/現・都バス小滝橋車庫)があるはずで、ほどなく旧・神田上水をまたぐ小滝橋だが、そこで画面が切れていて判然としない。また、竹ノ湯の左手(北側)には当時、上落合市場が開業していたはずだが、公楽キネマの背後に隠れてよく見えない。
八幡公園.JPG
公楽キネマ(昭和初期)周辺3.jpg
早稲田通り小滝橋方面.JPG
山手製氷工場1956.jpg
 大正末から昭和の最初期に撮られた写真へ、このように住民名や施設名を当てはめて眺めてみると、単なる古写真だった画面が、がぜん人々の息吹を感じとれるリアルな街角写真へと変貌するのが不思議で面白い。また近いうちに、いまから75年ほど前に米軍の偵察機F13Click!によって撮影された下落合の西坂・徳川邸Click!(新邸)や、聖母坂沿いのグリン・スタディオ・アパートメントなどの住宅街写真でもやってみたいと考えている。

◆写真上:大正末から昭和初期ごろ、守谷源次郎宮司が撮影した公楽キネマ周辺。
◆写真中上は、1929年(昭和4)作成の落合町市街図にみる撮影ポイントと画角。中上は、左手の茶色いマンションあたりが火の見櫓跡。中下は、写真手前にとらえられた家々の特定。は、当時の上落合525番地にあった加藤錦造邸跡(左手)の現状。
◆写真中下は、左手に戸川邸や林邸、山岡邸などの大きな屋敷が並んでいた現・上落合会館通りの現状。中上は、写真の左奥に写る住宅の特定。中下は、1935年(昭和10)ごろに守谷宮司が撮影した月見岡八幡社の裏参道の階段(きざはし)と鳥居で、画面の右手背後が村山知義アトリエ。は、現在の八幡公園に残る裏参道跡。
◆写真下は、八幡公園から眺めた落合水再生センターの敷地で、1962年(昭和37)以前は先に見える野球場の手前を通っていた旧・八幡通りまでが月見岡八幡社の境内だった。中上は、写真の右奥に写る建造物の特定。中下は、現・八幡通りの早稲田通り出口から小滝橋方面を眺めたところ。は、1956年(昭和31)に守谷宮司が撮影した山手製氷工場。コンクリートの建屋は戦災からも焼け残り、戦後も操業をつづけていた。

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30年の時をへだてた池袋駅東口のふたり。 [気になるエトセトラ]

サンシャイン通り入口.jpg
 1925年(大正14)に21歳で東京にやってきた大江賢次Click!は、恩師の池田亀鑑から紹介された西銀座の実業之日本社に就職している。当時の同社は、メインの「実業之日本」をはじめ「婦人世界」、「日本少年」、「少女の友」といった雑誌を出していた。池田亀鑑が池袋の「うら町」(おそらく豊島師範学校が建っていた池袋駅の西口側)に住んでいたので、大江賢次も近くに下宿を探すことになった。
 ほどなく、恩師の家から北へ歩いたところにある素人下宿を見つけ、2階の6畳間に月10円で落ち着くことになった。この家は、関東大震災Click!で市街地の袋物の店舗が焼け、おかみさんによれば「こんな辺鄙」な土地に家を建てたが、窓から見える富士山がまるで額縁に入れた絵のように美しいと自慢した。この家の主人は、店が全焼して財産を失ったせいかブラブラしていたが、このごろは池袋周辺で土地斡旋業をはじめていた。
 この家には、マサ子という娘がいて新宿のほていやデパートメントClick!(現・伊勢丹Click!)の売り子をしており、大江賢次が必要な調度や日用品をデパートの社員割引きで安く買いそろえてくれた。銀座の出版社や編集という仕事にあこがれているらしく、「毎日銀座が歩けてうらやましいわ」といった。毎朝、ふたりはいっしょに家を出ると、新宿駅で別れる生活がつづいた。会社からもどると、おかみさんは石鹸箱とタオルをもって待ちかまえており、彼を近くの銭湯へいかせた。ある日、彼が「まるで婿さんみたいですね」というと、「そうならいいけど」と意味ありげに答えている。
 大江賢次は、どうやら大きな資本の安定した出版社に勤めている彼を、娘の婿にと考えているらしいのを察知して驚いた。いつの間にか、2階の彼の部屋へ夕食を運んでくるのも、娘のマサ子の役目になっていた。食事の間じゅう、マサ子はそばに座って彼の給仕をしてくれた。大江賢次は、ものを食べて咀嚼するときことさらアゴが醜く目立つので辟易したが、彼女はまったく気にしていない様子だった。
 ある日、「このアゴ、おかしいでしょう?」と訊くと、「あら、ちつとも。それがなかつたらお化けだわ」と答え、「色男なんつてハア太郎よ、ほんと!」といったので、顔貌でイヤな目にさんざん遭ってきた大江賢次は、ついマサ子の手を握って引き寄せると、彼女は「アイラブユー」といってほのかなソバカス顔が迫ってきた。だが、アゴが邪魔してうまくキスができないでいると、「いやなしと!」といって階段を下りていった。
 だが、翌日もマサ子は夕食を運んできて、前夜のことなど忘れたかのように給仕をつづけた。1週間ほどすぎて、新宿の武蔵野館Click!で徳川夢声の弁士による外国映画のラブシーンを観て、大江賢次は「ややつ!」と気づくと、急いで下宿に帰った。夕食の給仕にやってきたマサ子を立ったまま抱き寄せると、顔を確実に斜めにしてついにキスをすることに成功した。彼女は、そのまま膝からくず折れて失神してしまい、これはたいへんと大声でおかみさんを呼ぶと、「癲癇じゃあるまいし」などといいながら階段を上がってきた。そのころには、目がさめたマサ子はびっくりして飛び起きると、母親の問いかけに「どうもしちやいないわよ、はばかりさま!」といって大江賢次をにらんだ。
 2年めに入り、大江賢次の勤め先の給与が上がると、おかみさんは「おンやまあ、ほんとに上々の首尾じゃないの、鶴亀々々」といって、特別にタイの尾頭つきで祝ってくれた。まるで婿のような待遇だったが、娘のマサ子はそれを聞くと「うらやましいわ。うちの店なんか、布袋どころか寿老人よ」と舌打ちした。ほていやデパートは裕福どころか給与がケチで、やたら店の歴史ばかりが古いだけといいたかったのだろう。
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 それからすぐのこと、この家の主人が大江賢次へ盛んに土地の購入を勧めはじめた。1958年(昭和33)に新制社から出版された、大江賢次『アゴ傳』から引用してみよう。
  
 「(前略)ねえ社員さん、悪いことはいわないから、将来のためにひとつ土地をお買いになったら……? まあ、考えてもごろうじろ、いまこそこの池袋界隈は、肥くさいとかなんとかケチをつけてるが、十年さき、二十年さきになつたら、へん、山手線じや新宿をのけたら池袋と渋谷でさ。いまあんた、駅前の東口一帯の草ッ原が一坪一円だが、ほらよ、いわんこつちやねえ、やがて鰻のぼりに十倍にも百倍にもなりまさ。いかがです、毎月五坪でも六坪でも買いだめなすつたら? 一年にや六十坪、十年経ちやなんと六百坪! そのうちに昇給するし、ボーナスもふえようし、てんから千坪は保険つきたしかでさ。それが百倍の半分の五十倍とみたつて……へん、三万円ですぜ、三万円!」と、乱杭歯からつばしぶきをとばしてすすめはじめた。
  
 おそらく、大江賢次と娘が結婚したあとの生活や蓄財まで考えて、主人とおかみさんは、いや一家ぐるみで婿とり作戦を開始したのだろう。
 当時は、こんなことを話して池袋駅東口の土地購入を勧めても、誰もがマユにつばをつけて土地ブローカーの詐欺話のように感じたかもしれないが、この主人の先読みは正確だった。新宿に次いで渋谷と池袋という読みも正確なら、「三万円」は控えめなぐらいの数字だったことがわかる。この年から30年後の1955年(昭和30)、池袋東口の地価は坪あたり1円の30万倍となり、現在はなんと1,000万倍をゆうに超えている。
 こうして、下宿でなにくれと待遇をよくしてくれるぶん、大江賢次は最初5坪の土地を購入してみる気になった。池袋駅東口の改札を出ると、すぐ真正面にある原っぱの土地で、5坪だとゆくゆくタバコ屋ぐらいはできそうだった。両親とともに土地を見にきたマサ子は、「そうね、奥さんの内職にいいわね」などといいながら、パラソルをくるくる回していた。その後も、土地を少しずつ買いつづけ、マサ子も出資して3坪ほど買い池袋駅の真ん前の土地をふたりで18坪ほど手に入れた。小作人のせがれだった大江賢次は、東京で地主になるとは思ってもみなかった。18坪の土地を前に、「二階建てにしたら、けっこうな店舗がはられるじやないのさ」と、おかみさんはポンと膝を打った。
 このままズルズルと池袋で下宿生活をつづけていたら、大江賢次は出版社のサラリーマンで終わっていたのかもしれない。ほどなく、父親危篤の知らせが郷里の鳥取から彼のもとにとどいた。父親は死に、彼は天涯孤独な身になって、改めて自分は東京へ文学を学びに旅立ったことを思いだした。彼は実業之日本社をやめて、本人のいう「第二の人生」を踏みだすために、しばらく地元で農業をつづけたあと、農民作家の悦田喜和雄の紹介で当時は小岩にあった武者小路実篤邸Click!の書生として住みこむことになった。
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池袋駅東口1954.jpg
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 それから30年、こんなことClick!あんなことClick!そんなことClick!とんでもないことClick!があってのち、大江賢次は下宿のマサ子と池袋で再会する。
 空襲下、柏木5丁目に住んでいたころの町民や大工たちが協力してくれて、戦後、大江賢次が江古田に安く自邸を建設できたあとのことだ。いつも書斎に引きこもって原稿を書いていた彼は、気晴らしに池袋の泡盛屋へ久しぶりに出かけた。この泡盛屋とは、池袋駅西口にあった「西口マーケット」の中の1店だろう。その帰り道、路地をフラフラ歩いているといきなり帽子をひったくられた。ありがちな、バーか飲み屋の客引き女がよくつかう手で、その女が入った飲み屋に追いかけて入り、「もうカラケツだから勘弁してくれよ」といったとき、店の正面にいたおかみさんと目があった。
 そのおかみは、いきなり「あ、このアゴだ! あんた大江さんでしよ? わたしをご存じ……マサ子よ」と叫んだ。彼はなにをいわれているのかわからず、ポカンとしていると、「池袋のさ、うちの二階に下宿してたじやないの!」といわれて、「あつ、分つた! 三十年の昔だ」と気づいた。ふたりは握手をすると、「わたしがおごるからのんで頂戴」といって、いまだ30代ぐらいに若く見えるマサ子は自分も飲みはじめた。
 この30年の身の上話を訊ねると、「ひと晩やふた晩に話せますかいだ」といって、店の女の子に「三十年前にわたしこのひとと結婚しようと思つていたのよ、どう?」といった。そして、娘が自分と同じように西武デパートへ勤めていること、文学が好きな娘が大江賢次の本を読んでいることなどを語りはじめた。やがて、池袋東口の駅前にふたりで買った土地を思いだしたのか、1円の土地が「今じや三十万円は下かどよ! とすると、二三が六百万円! ええいこん畜生、それがあつたらねえ」と、急に泣きはじめた。そして、その土地をいまから見にいこうよといいだした。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 「見たつて仕様がないじやないかね」と、私がしきりになだめればなだめるだけ、/「仕様がないつていう気が、凪ぐからさ」と、先になつて出ていつた。/地下道をくぐつて、東口の駅の正面の富士銀行と三和銀行のあたりを、目測で私たちは三十年前の草原を思いうかべた。マサ子はまだ興奮がさめず、しきりに地だんだをふんで未練をくり返していたが、ふと、/「あんた、キスして――」と、寄りそつてきた。/「いや、いまさらアゴがつかえるといけないから、握手にしようや」/「ふふん、三十年か……わたしたちも変つたけれど、池袋はもつと変つたじやないの」/私たちは握手をして別れた。写真のネガをのぞくようでむなしかつた。
  
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 大江賢次とマサ子のふたりが、将来の淡い夢を見ていっしょに買った土地は、1955年(昭和30)現在で三和銀行と富士銀行があったあたり、いまの街並みでいうとサンシャイン通りへの入口の両側にある、日米英語学院とシェーン英会話のビルが建っているあたりだったのがわかる。ちょうど池袋駅の真ん前で、父親が急死せず下宿屋でもう少しグズグズしていたら、大江賢次は終生貧乏な作家になどならず、戦後は貸しビル業でも営んで裕福に暮していたのかもしれない。まったく異なる人生航路を切り拓く、男と女の出逢いは面白い。

◆写真上:大江賢次とマサ子が、少しずつ土地を買っていたサンシャイン通り入口界隈。
◆写真中上は、1925年(大正14)撮影の池袋駅構内。東京へきたばかりの大江賢次が、日々目にしていた風景だ。は、1924年(大正13)撮影の池袋駅から東口の根津山Click!方面を望む。は、大正期に撮影された池袋駅のホームで山手線を待つ人々。
◆写真中下は、戦後の1954年(昭和29)撮影の池袋駅。は、同年に撮影された手前に建設中の西武デパート側から眺めた池袋駅東口。は、1960年(昭和30)撮影の同駅東口。手前に、大江賢次とマサ子が買った土地に建つ富士銀行が見える。
◆写真下は、大江賢次とマサ子が再会したころ1957年(昭和32)の1/10,000地形図にみる池袋駅周辺。は、池袋駅西口にあった「西口マーケット」の飲み屋街。は、1962年(昭和37)撮影の池袋駅東口。富士銀行の手前が、三和銀行の入っていたビルだ。

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ピースをくわえてダミ声でしゃべる「天使」。 [気になる下落合]

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 三田村鳶魚Click!は、「幽霊を、あるとして無い証拠を挙げるのも、無いとしてあるという現実を打破しようとするのもコケの行き止まりだ」としているが、それが物理的な存在でない以上「科学の眼」では存在しないものの、幽霊譚そのものは確実に存在しているので、それが民俗的に人間にとってどのような意味をもつのかを考えるのは、逆に大きな意味をもつことになるのだろう。幽霊を「いる」「いない」と論争したところで、三田村鳶魚のいう「コケの行き止まり」になって非生産的なことにちがいない。
 最近、なにやら記事が怪談づいているけれど、下落合の住民にもこんな話が残っていた。権兵衛坂Click!が通う大倉山Click!の中腹、下落合1丁目286番地(現・下落合2丁目)には、中井英夫Click!『虚無への供物』Click!に登場する「下落合の牟礼田の家」のモデルになった、見晴らしのいい十返千鶴子Click!十返肇Click!夫妻邸が建っていた。十返千鶴子は2006年(平成18)に死去する前、下落合に中村彝アトリエClick!が現存することをエッセイ「下落合-坂のある散歩道-」を通じて教えてくれた、わたしにとっては重要な人物だ。
 十返千鶴子は、夫の十返肇をかなり早くから亡くしており、その後、43年間もひとり身を張り通した女性だが、42歳のときに思いがけなく幽霊に遭遇して会話までしている。ほかならぬ夫の十返肇の幽霊で、下落合の自邸ではなく旅行先の海外で出会っている。ちなみに、文芸評論家で編集者の十返肇は、1963年(昭和38)に49歳で病死しているので、記事の出来事はその3年後ということになる。
 1966年(昭和41)に発行された東京タイムズに掲載の「フローレンスの亡霊」とタイトルされた記事を、それが収録されている1969年(昭和44)に社会思想社から出版された今野圓輔『日本怪談集―幽霊篇―』から孫引きしてみよう。
  
 約二カ月間のアメリカ・ヨーロッパの旅から帰ってきた十返千鶴子さん、三年前になくなった夫君肇さんの亡霊を、フローレンスで見たと大さわぎ。/というのは、その町のホテルについた千鶴子さんを、着物姿で、虎造ばりのダミ声でたずねてきた肇さんは「着物の柄までわかるんですよ。たびをはいていたし、足もありましたよ」とのこと。二人は世間ばなしの末、夜もふけ、さてということになったが、肇さんの亡霊は、「それだけはあかんのや。わいは、フローレンスの文壇にいるが、まだ下ッぱで、それをしたら追放されてしまうのや。かんにんや」と、ピースを口にくわえたまま、白い翼をパタパタさせて、窓から飛んでいってしまった。「幻なんてものではありません。本当に生きているのと同じでしたよ」としきりと、名残りおしそうな十返さんでした。
  
 浪花節の虎造なみに、ダミ声を張りあげてしゃべっていたとすれば、ずいぶんうるさくて耳ざわりだったろう。十返肇の声を、わたしは聞いたことがないが、東京が長いにもかかわらず、ふだんからこのように大阪弁(出身は香川)のようなしゃべり方をしていたものだろうか。文中の「フローレンス」とは、米国サウスカロライナ州の都市のことだと思うが、なぜ十返肇がこんなところに化けてでるのかもさっぱりわからない。
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十返千鶴子「夫恋記」1984.jpg 東京人199103.jpg
 十返肇は、1935年(昭和10)に大学を卒業すると、在学中から参加していた中河與一Click!の主宰する「翰人」の同人となっている。そして、吉行エイスケClick!に師事して文学を志したが(師事する作家をまちがえている気もするが)、途中で企業の宣伝部に就職して広告の仕事をしたあと、第一書房に入社して「新文化」の編集長をつとめた。戦後は文芸評論が中心で、その対象は海外文学というよりは国内文学の評論活動が多い。
 つまり、彼の死後、米国のフローレンス市までわざわざ出かけていって、そこの文壇の「下ッぱ」になっている意味が不明なのだ。生前に、米国文学の評論家や研究者であれば不思議ではないが、彼は日本文学をおもな対象とする評論家だったはずだ。しかも着物姿で、日本でしか販売されていないピース(両切り缶ピース)を吸いながら出現している。きわめつけは、「白い翼」をパタパタさせながら、窓から空へ飛びだしていったことで、米国では幽霊になると背中に天使のような羽根が生えるのか……と、がぜん十返千鶴子証言のリアリティを薄め、信憑性を根底からゆるがしかねない姿をして現れている。
 十返千鶴子は、現在の小池真理子が体験を綴っているのと同様に、夫の死に大きな喪失感と痛手を受けており、その後、夫を思いつづける暮らしをしていたのは『夫恋記』(1984年)などの内容からも明らかだが、死別の衝撃で思いつめたそんな感情が、旅先の米国のホテルで孤独感とともにあふれだし、思いもかけない羽の生えた夫の幽霊を夢か現(うつつ)に出現させた……とでもいうのだろうか。
 そこまで慕われていたら、男としては死んでも本望だろうが、それほど慕っても懐かしんでもいない、死んでようやく世話から解放されせいせいしている妻のもとへ、夫の幽霊が白い羽をパタパタさせながら「かんにんや~」とダミ声のくわえタバコで現れたりしたら、「うるさい!」とキンチョールでもシューッと噴きかけられて、羽根をパタつかせながら「かなわんな~」と窓から逃げていくのだろうか。よほど仲のいい夫婦でなければ、十返千鶴子のような“怪談”証言は生まれにくいのだろう。
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 十返夫婦とは逆に、妻が先に死んでしまい、死後も夫を慕いつづけ亡霊となって現れるという怪談は、古今東西を問わず数が多い。女性の幽霊のほうが、なにかと凄味があって怖いのだろうけれど、冒頭の江戸研究家・三田村鳶魚にちなんで、江戸前期の代表的な仮名草子である1661年(寛文元)に出版された鈴木正三『因果物語』から、とある仲のいい夫婦にまつわる怪談をピックアップしてみた。しかも、死んだ妻の幽霊は裏切った夫の前ではなく、後妻におさまった女性の前に「うらめしや」と出現して悩ませている。現代語訳は今野圓輔で、「夫は恨まぬが」から引用してみよう。
  
 江戸の麹町のある人の妻が重病にかかって死ぬ前、その夫に向かって、「もし自分が死んだ後に、家の下女を後妻にでもしたら、きっと祟りをするであろう。よくよく覚えていなさい」と遺言しておいた。/ところが男は、妻が死んで間もなく、その遺言も忘れて、下女を女房に直すと、そこへ妻の幽霊が現れて、下女の髪をむしり取ろうとするので、その痛さ、苦しさ、恐ろしさに下女は大声で泣き叫ぶ。驚いて人びとが集まって来て、よくよく見ると何の変わったこともない。けれども人がいなくなると、また幽霊が手をのべて、ちくちくむしり取ろうとする。こうした事が度重なって、下女の頭には、ついに一本の髪の毛も残らず、とうとうあえなく死んでしまったという。
  
 麹町(江戸期は糀町)での出来事なので、おそらく小旗本の屋敷内で起きた怪談なのだろう。おそらく、この屋敷の主人は婿養子で、生前は妻に頭があがらなかったのではないか。迷惑なのは、主人から頼まれて後妻に入った「下女」のほうだ。
 生前の約束を守らず、「なかったこと」にして無責任な行ないをしているのは夫のほうであり、本来なら夫の前に「うらめしや」と化けてでるのが理屈のはずだが、よほど夫が好きだったものか、後妻に嫉妬してとり憑き殺すというまったく筋ちがいなことをしている。そんなに夫への未練があるのなら、夫をとり殺してあの世へ芝居の「道行き」よろしく連れていけばいいのに……と考えるのは、あまりにも合理的で現代的な発想だろうか。
 また、仲のよい夫婦のもとには、先に死んだ夫なり妻なりが慕わしげに化けてでるのであれば、仲の悪い夫婦の場合は、なおさら執念深く復讐すべき相手の前へ、恨みごとを並べつつ呪いや祟りをもたらす悪霊となって、頻繁に出現してもよさそうなものだが、案外そのような怪談は少ない。相手を殺害したりすれば別だが、単に仲が悪いぐらいの夫婦では、先にどちらかが死んでも残されたほうはせいせいして、さっそく相手を忘却のかなたへと押しやるせいで、幽霊の出現率も非常に少ないのではないかと想像できる。
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鈴木正三「因果物語」1661寛文元.jpg 新刻因果物語挿画(山本平左衛門板)1963.jpg
 つまり、思いが深ければ幽霊が出現し、思いが薄く逆に嫌いか、どうでもよければ幽霊の出現率が低下するのは、どうやら残された妻なり夫なりの心理や記憶に、その主因が求められそうな気がするのだ。十返千鶴子は、よほど夫思いの女性だったのではないだろうか。

◆写真上:新宿駅方面が一望できる、権兵衛坂の中腹にあった十返邸跡の現状。
◆写真中上は、十返肇()と十返千鶴子()。下左は、1984年(昭和59)に新潮社から出版された十返千鶴子『夫恋記』。下右は、十返千鶴子のエッセイで中村彝アトリエの現存を気づかせてくれた1991年(平成3)発行の「東京人」3月号。
◆写真中下は、下落合の自宅でくつろぐ十返肇・十返千鶴子夫妻。は、十返千鶴子が死去した翌年(2007年)に撮影した十返千鶴子邸。
◆写真下は、くわえタバコに和服姿でダミ声のおしゃべりな「天使」が、「かんにんや~」と現れたらどうしたもんだろう。カバネルの『ヴィーナスの誕生』(1863年/部分)より。下左は、1661年(寛文元)に出版された鈴木正三『因果物語』。下右は、その3年後の1663年(寛文3)に出版された『新刻因果物語』(山本平左衛門版)の挿画。

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金山稲荷の石堂孫左衛門と「石堂孫右衛門」。 [気になるエトセトラ]

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 どこかで誰かが、記述をまちがえている。かつて、金山稲荷(鐵液稲荷)Click!のあたりに住みついた刀工の石堂派Click!(わたしはいまのところ石堂守久一派Click!ではないかと想定している)の当初の人物名を、石堂孫左衛門とする史料と、「石堂孫右衛門」とする史料とが混在している。拙サイトでは、寛政年間に金子直德Click!が記録した『和佳場の小図絵』Click!にならい石堂孫左衛門と書いてきたが、たとえば1951年(昭和26)に出版された『豊島区史』(豊島区役所)では、「石堂孫右衛門」となっている。
 きょうの記事は、いつどこで誰が、刀工名の記述をまちがえているのかがテーマだ。刀工が茎(なかご)Click!に切る銘と本名が、まったく異なるケースはめずらしくないが、本名の記載をまちがえたりすると、そもそも刀工の「代」が変わって時代ちがいになってしまったり、同じ流派の場合だと(姓に相当する部分が共通することが多いために)、まったくの別人を指してしまうケースがままあるからだ。ここは、金山にいた刀工の名前を、改めて厳密に規定しておきたいと思う。
 まず、あらゆる地域史料の原典とみられる、寛政年間に金子直德が記録した『和佳場の小図絵』(早稲田大学所蔵の原本)から、原文をそのまま引用してみよう。
  
 鐵液(かなくそ)稲荷大明神 此辺の鎮守とす、又金山いなりとも云。法華勧請。別堂石堂孫左衛門と云、鍛冶の住居にて、守護神に祭る所也。今に鐵くそ出る。利益甚多し。例年二月初午に祭、昔は廿二日祭礼なりしと。(カッコ内引用者註)
  
 金子直德は金山で鍛刀した刀工名を、明らかに石堂孫左衛門だと規定している。
 では、『和佳場の小図絵』などの地誌を参照したとみられ、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)ではどうだろうか? 以下、引用してみよう。
  
 金山稲荷社 雑司谷金山の東にあり元亀年間此所の刀鍛冶石堂孫左衛門宅地にて稲荷を安置し常に刀剣の妙を記念す、老て其所に入定すと言伝ふ、然るに文化の頃此地を開墾せし折一個の石櫃を掘得、蓋を退けて閲するに帽子装束せし故骨全体具足して生るゝが如く暫時にして崩れたり、是なん石堂氏入定の故骨なりと言ふ。
  
 この伝承では、おそらく古墳時代の武人の古墳、ないしは鎌倉時代の武士の“やぐら”(墓所:ただし石櫃や遺体の状況が時代的に不可解)と、室町末から江戸初期に江戸へやってきた石堂派の「入定」墓とを混同しているとみられる。空気に触れたとたん「具足」(鎧兜)が崩壊しているところをみると、古墳時代の遺構の可能性が高いように思える。棺が石製Click!(房州石Click!か?)だった点も、古墳の玄室を想起させる特徴だ。
 そして、『高田村誌』でも刀鍛冶は石堂孫左衛門と記録されていてまちがいがない。では、金子直德の『和佳場の小図絵』を現代語訳した、1958年(昭和33)出版の海老澤了之介Click!による『新編若葉の梢』Click!(新編若葉の梢刊行会)から引用してみよう。
  
 鐵液稲荷大明神/鐵液稲荷はまた金山稲荷ともいう。御嶽・中島・金山の鎮守である。別当を石堂孫左衛門という。鍛冶の家で守護神に祭ったのである。この所いまでも鐵液が出る。利益甚だ多い。例年二月初午の日に祭るが、昔は二十二日が祭礼日であった。/<石堂孫左衛門は金山稲荷の社前にて刀鍛冶を業としたという。また鍛冶屋遠藤孫右衛門の居りしところともいう。>
  ▲
 < >内は、海老澤了之介Click!が加えた註釈で、大正期から昭和初期ごろまで鍛冶屋(刀鍛冶ではなく野鍛冶Click!=刃物・大工道具・日用金物などを製造した道具鍛冶か?)だった、遠藤孫右衛門という人物がいた伝承も添えられている。
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 海老澤了之介もまた『新編若葉の梢』や、同年に出版された『江戸西北郊郷土誌資料』(新編若葉の梢刊行会)でも、まちがいなく石堂孫左衛門と記録している。
 では、次に雑司ヶ谷へ転居してきて周辺地域の歴史に興味をもち、秋田雨雀Click!などとも親しく交流していた江副廣忠の『高田の今昔』Click!では、どのように書かれているのだろうか。『高田の今昔』は、全編が和紙に謄写版(ガリ版)刷りの和綴じ本で、江副廣忠Click!が雑司ヶ谷に引っ越してきてから9年目に出版されている。
 1929年(昭和4)に出版された、江副廣忠『高田の今昔』(三才社)から引用しよう。
  
 金山稲荷(無格社)/所在 大字雑司ヶ谷金山の東
 元亀年間、此地の刀鍛冶、【石堂孫右衛門】なる者、宅地内に稲荷社を安置し常に刀剣の効を祈念す、後、老いて此地に入寂すと言伝へらる、文化年間此地を開墾せし時、一個の石櫃を掘出し、蓋を退けて見るに烏帽子、装束せる古骨、全体具足して安坐せるが、大気に接して暫くの間に崩壊せりと云へり、是即ち石堂氏入定の故骨なりしなり、(【 】引用者註)
  
 石堂派Click!の刀工名を、傍らで1919年(大正8)の『高田村誌』を直接参照しているのに「石堂孫右衛門」と誤記しているばかりでなく、『高田村誌』の文章によけいな解釈や表現をプラスしているのがわかる。刀鍛冶の装束に見あうよう、「帽子装束」を勝手に「烏帽子(えぼし)」と解釈してしまい、「石櫃(棺)」に寝かされていたかもしれない遺体を、「入定(寂)」に見あうよう「安坐」していたことになっている。ちなみに、「帽子」は古くからの刀剣用語Click!でもあり、鋩(きっさき)に返る刃文も意味している。
 石堂孫左衛門を、「石堂孫右衛門」と勘ちがいしたのは、のちに同所で鍛冶屋を営んでいた道具鍛冶だったとみられる遠藤孫右衛門のことも聞きおよんでおり、両者の名前が近似していることから、つい「孫右衛門」と誤記してしまったものだろうか。
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 さて、イヤな予感がしてきた。江副廣忠の『高田の今昔』は、1933年(昭和8)に出版される『高田町史』Click!(高田町教育会)では、史蹟や文化の項目で参考書としてかなり引用されたとみられ、近似した表現が目立つからだ。あるいは、江副廣忠自身が高田町教育会に参画して、『高田町史』の編纂委員のひとりだったのかもしれない。同書より引用してみよう。
  
 金山稲荷(無格社) 雑司谷三百三十四番地(新町名雑司谷町一丁目)
 祭神は宇迦之御魂命(略)。人呼んで金山稲荷とも鐵液稲荷とも云ふ。元亀年間この地に住める刀鍛冶の【石堂孫右衛門】なるもの、其の宅地に稲荷社を安置して、常に刀剣製作の妙を得んと祈願したと伝ふ。(以下略/【 】引用者註)
  
 なぜ、『高田町史』の高田町教育会は、1919年(大正8)に出版されていた『高田村誌』を参照せず、また原典に当たって“ウラ取り”をしないで、江副廣忠の『高田の今昔』に記された「石堂孫右衛門」を、そのまま採用してしまったのだろうか。
 イヤな予感と書いたのは、行政資料がひとたび記述をまちがえると、その誤りがエンエンとどこまでも引き継がれていく怖れがあるからだ。そして、この誤りは戦後の1951年(昭和26)に出版された『豊島区史』(豊島区役所)でも、そのまま踏襲されていくことになる。
  
 金山稲荷社 雑司ヶ谷町一ノ三三四/祭神は宇迦之御魂命、人呼んで金山稲荷とも鉄液稲荷ともいう。刀鍛冶の【石堂孫右衛門】が此の辺に住み刀剣作法の妙を得ようと、祭つて祈願した神社と云い伝えられている。(【 】引用者註)
  
 現在、豊島区民のみなさんが手にする、1981年(昭和56)に出版された『豊島区史』(通史編1)でも、刀工名が「石堂孫右衛門」のままになってやしないかが心配だ。
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 最後に少し余談だが、雑司ヶ谷金山に日本女子大学Click!の寮が建設されて、戦後もしばらくたったころ(少なくとも1955年以降)、地元には金山稲荷社は廃社になったという方と、遷座ないしは分祀されて雑司が谷1丁目のアパートが建つバッケ(崖地)Click!裏に、「刀稲荷」として残っているという方がいて、どちらの経緯が事実だかハッキリしない。元の金山稲荷の位置から、北東へ140mほどの1丁目にある社(やしろ)は、いまでは単なる稲荷社としか呼称されておらず、由来や由緒書きのプレートも設置されていない。雑司ヶ谷にお住まいの方で、どなたか金山稲荷のその後をご存じの方がいれば、ご教示いただきたい。

◆写真上:1955年(昭和30)に『新編若葉の梢』の著者・海老澤了之介が撮影した、日本女子大学の寮内にあったころの金山稲荷社。
◆写真中上は、早稲田大学に収蔵されている金子直德『和佳場の小図絵』の原文。は、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』の解説文。は、1958年(昭和33)に出版された海老澤了之介『新編若場の梢』の解説文。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に出版された江副廣忠『高田の今昔』の解説文(誤記)。は、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』の解説文(誤記)。は、戦後初の1951年(昭和26)に出版された『豊島区史』の解説文(誤記)。
◆写真下:アパート裏のバッケ(崖地)中腹にある、雑司が谷1丁目の稲荷社。

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雑司ヶ谷金山の石堂派は「土」に惹かれたか。 [気になるエトセトラ]

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 鎌倉の五郎入道正宗Click!は、刀身の焼入れ直前に行なう「土取り」に、どこの粘性の高い土または粘土を混ぜあわせて使っていたのだろう? おそらく、神奈川の鎌倉付近で産出する高い粘性の土か凝灰質の粘土、あるいはその混合であったのはまちがいないのだろうが、相州伝(というか日本刀)を代表する刀工の技術は、いまに伝わっていない。
 刀剣の鍛冶における「土取り」とは、目白(鋼)Click!を沸かして折返し鍛錬を繰り返し、刀身のかたちへ造りこんで素延べにし、反りをつけて生仕上げの荒研ぎ(鑢がけ)をしたあと、焼入れの手前で行なう非常に重要な工程のことだ。
 土取り(あるいは「土置き」ともいう)に使う「焼刃土(やきばつち)」は、粘性の高い土または粘土を焼き(焼かない工法もあるようだ)、そこに砥石(大村砥)の粉と松炭の粉を入れてよく混ぜ合わせる。土と砥石粉と松炭粉は1:2:3の割合といわれているが、すべて刀工ごと一子相伝の極秘技術なので、あくまでも一般論としてお読みいただきたい。砥石の粉は大村砥のものとは限らず、また炭粉も松炭のものとは限らないケースがあるかもしれない。砥石や炭は、あらかじめ薬研Click!で粉にして準備しておく。
 これらの材料を混ぜあわせた黒い焼刃土を、刀の形状らしくなった素延べの刀身へていねいに塗っていく。そして、もっとも重要なのは刀身の刃の部分に塗られた焼刃土へ、任意の“文様”をつけながら落としたり薄く削ったりする。この工程により、焼入れのときに刃の部分は鋼の硬さや強度がさらに増し、他の部分は皮鉄や芯鉄、棟鉄など鋼の柔軟性を備えたまま、「折れず曲がらずよく斬れる」日本刀ができあがる。
 また、刃や平地の部分の焼刃土の落とし具合や描く“文様”しだいで、直刃(すぐは)や乱刃(みだれば)、皆焼(ひたつら)など、多種多様な思いどおりの刃文を形成することができる。この土取りから焼入れまでの工程が、日本全国に展開していた刀工ごと、流派ごとに門外不出の“秘伝”なのはもちろん、この工程を工夫することで、誰も見たことのない新たな刃文を生み出すこともできるのだ。
 世界中の刀剣を見わたしても、目白(鋼)の緻密な折返し鍛錬にはじまり、このように繊細な工程をとる製品は存在せず、日本刀ならではの独自技法の世界だ。その土取りについて、1939年(昭和14)に岩波書店から出版された本間順治『日本刀』から引用してみよう。
  
 やがて焼入に進むのであるが、こゝでも亦切れるやうに、折れてはならぬの注文に応じて周到の用意がなされるのである。その為には焼刃土と称するものを鋼の箆(へら)でまづ刀身一面に塗り、次に刃にする部分の土を落す、それは刃の部分だけに完全に焼を入れてそこを硬くしようとの計画である。この焼刃土は、土を焼きそれに松炭と砥石の粉末を混じ(ママ:混ぜ)、乳鉢で水を加へてよく練つたもので、土そのものの吟味も大切である。(中略) さて日本刀には直刃だけでなく種々の刃文があるが、それは土の置き方、落し方に色々と各工が趣向を凝らすからで、この工作を土取と云ひ、これの巧拙も刃文に表れるのである。(カッコ内引用者註)
  
 刃にする部分の土を、「落とす」(土を取る)というように表現しているが、すべての土を落としてしまうわけでなく、実際には刃になる部分の土を薄くしたり、いろいろな“文様”を加えたりすることだ。つまり、刀剣を武器としてではなく、美術品と同等に刃文や平地を鑑賞するのが普通になった元和偃武ののち、この土取りがいかに重要な工程であり、刀工たちの腕の見せどころだったのかがわかるだろう。
 本間順治は、「土そのものの吟味も大切である」と書いているが、その昔、山城の小鍛冶(刀鍛冶)たちは伏見の稲荷山の土を好んで用いたとされている。同様に、相州伝Click!を完成させた正宗は、鎌倉あるいはその周辺の山々の土や粘土を探索し、自身が鍛える作品の土取りに最適な土または粘土を発見していると思われる。
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 そこで、かぜん重要なテーマとして浮上してくるのが、室町末ないしは江戸初期から雑司ヶ谷村の金山で鍛刀していた石堂一派Click!(石堂守久Click!一族の可能性がある)の存在だ。金山の石堂派は、周辺に残る大鍛冶=タタラによる砂鉄を神奈流しで収集する、目白(鋼)製鉄Click!事蹟Click!に惹かれたのかもしれないが、同時に雑司ヶ谷金山の「土(粘土)」が土取りの工程に適しているのを発見して工房をかまえているのではないか。江戸初期までタタラ製鉄の跡が残る、あちこちに露出した崖地の地層から、土取りに最適な土(粘土)を採集して、金山に鍛冶場を設ける決心をしたのではないか?……という想定だ。
 関東平野の赤土は、富士山や箱根連山などの噴火による、もともと粘性の高い火山灰質の土壌をしている。たとえば、落合地域に通う神田川とその周辺のロームは、上から下へ立川ロームClick!に武蔵野ローム(以上が富士山の噴火による火山灰とみられる)、その下が下末吉ロームに多摩ローム(以上が箱根・伊豆連山の噴火による火山灰とみられる)、その下には小石によって形成された武蔵野礫層=東京礫層(東京パミス)と凝灰質粘土層が走り、さらにその下には12~13万年前に形成された木下(きおろし)層(木下貝層)または古東京湾層Click!と呼ばれる、多数の貝化石を産出する古い地層が積み重なっている。
 これらの地層の中で、粘土そのものはロームの下に礫層とともにあり、地下水脈が走る凝灰質粘土層だが、刀剣の土取りに用いられそうな土は、ロームであれば粘性が高くていずれも使えそうだし、凝灰質粘土と混ぜればより強力な粘り気を発揮するだろう。土取りをした刀身は、もう一度火床で熱せられ火をくぐるので、砥石粉や炭粉と混ぜても強い粘性を維持できなければ使いものにならない。鎌倉の土壌も、岩盤が露出している一帯はともかく、おそらく東京の地層や土壌と似たり寄ったりだろうから、正宗も土取りに適した土質の吟味には少なくない時間をかけたのだろう。
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 この土取り(土置き)用の土の作り方について、現代刀匠の事例を引用してみよう。2011年(平成23)に雄山閣から出版された、松田次泰・かつきせつこ『日本刀・松田次泰の世界―和鉄が生んだ文化―』で明らかにされた内容だ。ちなみに、刀工が秘匿すべき自身の技術を公開することなど、少し前の時代まではありえない話だった。
  
 生仕上げの工程を終えると、刀の姿が決まってきます。次に焼入れ工程にすすみますが、まず土置きといって刀身に土を塗る作業から始めます。/土を置く前に、刀身の表面を金剛砥石でこすり、次にわら灰でこすって水洗いし、塗った土が剝がれないよう脂気をとります。そして刀身を自然乾燥させておきます。/刀身に塗る土は、ホドの火にかけた時に剥がれず、焼入れの水に入れた時には適度に剥がれる土がよいとされています。これは粘りのある粘土(木節粘土)と砂っぽい砥石の粉(大村砥)と木炭の粉(薬研で細かにしたもの)を合わせてつくります。その割合は基本的には1:2:3ですが、この比率は条件に合わせて変えることもあります。合わせた土に水を加え、スリガラスの上でヘラで擂って練ります。/ザラザラという擂る音がなめらかなシャリシャリという音に変わっていき、練ってできた土の溜まりの山が流れない程度にねっとりしてくると、そこで止めます。そうなるまでに一時間ほど要します。
  
 松田刀匠は、窯業(焼き物)などで多用される「木節粘土」を用いているようだが、それがたやすく手に入りにくい時代には、もちろん全国の各地域で特有の多種多様な粘土が用いられ、さまざまな工夫がほどこされていたのだろう。その粘土あるいは土の混合もまた、刀鍛冶たちの秘匿技術であったにちがいない。
 刀鍛冶たちは、土取り(土置き)で刀に塗った土の厚さや薄さ、特に刃の部分に描く“文様”を見ただけで、どのような刃文が形成されるのかがだいたいわかる。それもまた秘技であり、これまで一般に公開されることなどありえなかった。全国に展開した各流派によって、刃部の土取りは千差万別であり、焼入れをへて姿を現す刃文もまた、それぞれの流派の特徴を備えた個別独特な美しい景色を備えている。
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 雑司ヶ谷村は、鬼子母神Click!で有名になっていくが、江戸初期には市街地から遠く離れた郊外だった。そんな不便な地へ、なぜ石堂派は工房をかまえたのだろうか。目白(鋼)を製錬した大鍛冶、すなわちタタラの事蹟も重要だが、もうひとつ彼らが神奈流しで残した雛壇状の崖地にのぞく、さまざまな地層の土質に惹かれたのではないか。
 余談だが、金山にいた刀鍛冶を石堂孫左衛門とする史料と、「石堂孫右衛門」とする史料が散見される。もちろん、金子直德が寛政年間に記した原典の『和佳場の小図絵』では石堂孫左衛門だが、のちに同じ金山で鍛冶屋(野鍛冶?)を営んでいた遠藤孫右衛門と混同している史料がありそうだ。このテーマについては、また改めて記事にしたいと思っている。

◆写真上:雑司ヶ谷の金山に露出した住宅造成地の地層で、最上部の立川ロームから凝灰質粘土層まできれいに現われている。途中で地盤が隆起したものか、武蔵野礫層(東京パミス)から下の地層が斜めに湾曲しているのがわかる。石堂派の刀工たちは、大鍛冶(タタラ集団)が残した神奈流し跡に露出する、このような地層を目にして土取りに適した「土」を見つけたのではないだろうか。上部の建物は、日本女子大学の付属寮。
◆写真中上は、雑司ヶ谷金山の崖地風景。は、緑が多い金山地域の風情。
◆写真中下は、鎌倉駅近くにある「正宗孫刀剣鍛冶綱廣」の工房。綱廣が「正宗子孫」と名のるのは後世なので、正宗の相州伝を伝承するという意味ぐらいにとらえたい。中左は、2004年(平成16)に出版された天田昭次『鉄と日本刀』(慶友社)。中右は、2011年(平成23)出版された松田次泰・かつきせつこ『日本刀・松田次泰の世界―和鉄が生んだ文化―』(雄山閣)。は、刀匠・天田昭次の土取り。(『鉄と日本刀』より)
◆写真下は、土取りとそれによって形成された刃文。(『日本刀・松田次泰の世界―和鉄が生んだ文化―』より) この土取りの文様だと、互の目丁子(ぐのめちょうじ)混じりの中直(なかすぐ)刃文が形成されるようだが、いくら土取りを眺めても素人にはわからず、長い経験と実績を積み重ねてきた作刀技術の成果だ。は、第一徴兵保険Click!(のち東邦生命)の宅地開発Click!により切り崩される前の御留山Click!(左手)と、丘陵へ切りこんだ谷戸の崖地に露出した地層を描いた、1922年(大正11)制作の清水多嘉示Click!『下落合風景』Click!
清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

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旧・八幡通り沿いに展開していた風景。(下) [気になる下落合]

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 にぎやかな商店街Click!が、旧・八幡通りClick!沿いに形成されていた昭和初期のころ、月見岡八幡社Click!の祭礼には住民たちが大勢集まっていただろう。神輿や山車は、旧・八幡通りを起点に各町内を巡行し、再び同社の前に集合していたにちがいない。旧・八幡通りの商店街でも、祭礼の日には提灯や飾りつけが華やかだった様子を想像できる。
 ちなみに、月見岡八幡社には神輿や山車はなく、祭りで巡行するのは昭和初期から上落合の町々で誂えた“町神輿”だった。現在の祭りの様子を、1994年(平成8)に新宿歴史博物館から出版された『新宿区の民俗(4)/落合地区篇』から引用してみよう。
  
 上落合地区の神輿は、町会で持つ町神輿である。月見岡八幡神社には、昭和初期から神輿はなかったそうである。現在の町会で所有している神輿は、東部町会が、大人神輿一・子供神輿三、中央町会が子供神輿一、三丁目町会が大人神輿一・子供神輿一、である。はっぴや揃いのゆかたなどは、町会ごとに用意している。神輿の収納は、月見岡八幡神社にある神輿蔵を借用している。各町会とも神輿は町内を巡行し、宮入はない。
  
 これは、月見岡八幡社が1962年(昭和37)に現在地へと遷座し、旧・八幡通りが消滅して新・八幡通りが敷設されたあとの祭礼の姿だが、旧・八幡通りに面していた時代もさほど変わらない神輿の巡行が行なわれていたのだろう。もっともにぎわったのは、1940~1941年(昭和15~16)に行われた祭礼だったようで、守谷源次郎Click!も神輿と山車が練り歩く様子をスケッチに残している。
 この祭礼には、「表祭」と「裏祭」があったというのは、上落合に長く住む古老の証言だ。別に、祭り自体に表裏があるわけでなく、落合柿Click!のよく実をつける年が「おもて」で、それほど実がならない年が「うら」と称していただけのようだ。1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会が出版した、『上落合昔ばなし』から引用してみよう。
  
 お祭りに「おもて祭」と「うら祭」とあるそうですが、神社としては「おもて」も「うら」もないそうです。/ではどうして「おもて」「うら」というようになったのかしら……/古老の話では、昔、落合一帯は柿の名産地であったそうです。/柿は一年おきになるので、柿のなる年は祭を盛大にやると言うので、その年は「おもて祭」と言うようになったそうです。従って柿がならない年は「うら祭」と言うことになります。
  
 落合柿が名産品だったのは、江戸後期から明治期にかけてだったと思われるので、そのような祭りの表現は大正期に入ると、早々に忘れ去られたのだろう。
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 カキの木も含め、二度にわたる山手大空襲Click!で上落合はほぼ丸焼けになり壊滅したせいか、あるいはもともと工場敷地が多かったせいか、1956年(昭和31)ごろに撮影された旧・八幡通りの東側から南側にかけての街並みには樹木が少ない。
 1980年(昭和55)出版の守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影(うつりゆくかげ)』Click!(非売品)に収録された、月見岡八幡社付属の愛育園(保育園)の屋根上から東を向いて撮影された写真には、小滝橋の西詰めに近い位置に建っていた山手製氷工場Click!の建屋がとらえられている。このビルは、戦前からバスの小滝橋車庫の北側に建っており、爆撃されているにもかかわらず焼け落ちなかったのは鉄筋コンクリート構造だったからとみられる。戦後も、しばらくはそのまま使われつづけたようだが(製氷工場ではなかったかもしれない)、1960年代の後半になって解体されているようだ。
 次に、小滝橋方面を撮影した写真には、先の山手製氷工場の建物の一部と、早稲田通り方面の風景が写っているが、やはりあちこちの焚き火の煙だろうか、遠景がかすんでよく見えない。少し高くなった位置の地平線に、横へ連なるように見えている四角い黒い影は、おそらく北西側から眺めた戸山ヶ原Click!アパート群Click!だろう。
 そして、南側を向いて撮影した写真には早稲田通りへと出る直前の、旧・八幡通りの様子が記録されている。また、右手には小滝台住宅地Click!の急峻な斜面が見えており、丘上には同住宅地に建っていた屋敷のひとつが見えている。小滝台住宅地も空襲でほぼ全滅しているので、写真にとらえられている丘上の建物は戦後のものだろう。小滝台の左手(東側)に見えているかなり高い煙突は、焼け残った中野伸銅工場のものだろうか。
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 旧・八幡通りに目を移すと、路上の人物がふたり見えている。手前に見えている制服姿の人物は、腕章をして自転車に乗った巡査か郵便配達員だろう。そして、その後方を歩く人物の姿が面白い。肩からなにやら白い布バッグ状のものを袈裟がけに下げ、左手には薄い大きめな板のようなものを抱え、右手はこれも大きめなバッグ(?)のような、西風にあおられていそうな薄くて四角い手さげ包みをもっている。頭にはベレー帽をかぶっていそうで、見るからに写生帰りの画家のような風体の人物だ。
 左手で抱え右手に下げているのは、2枚とも布のようなものに包んだキャンバスのように見え、サイズから想像すると双方とも20号ぐらいだろうか。写生地へ出かけるところか帰りなのかは不明だが、この時期の画家が集まる写生地というとどこだろう? 大正期が終ったばかりの昭和初期、上落合の早稲田通り沿いを描いたとみられる作品に、下落合727番地に住んでいた宮坂勝Click!『初秋郊外』Click!がある。戦後の画家は、下落合の坂道あたりから復興する新宿方面の眺望を描きにでもいくのだろうか。
 戦災で大きなダメージを受け、戦後は落合下水処理場の建設のための用地買収で、空き地だらけになってしまった旧・八幡通り沿いでは、戦前はにぎやかだった月見岡八幡社の祭礼も、あまり盛り上がらなかったのではないだろうか。そろそろ、龍海寺跡の敷地へ遷座する話も出ていたのかもしれない。にぎやかだった以前の祭りの様子を、前出の『上落合昔ばなし』から引用してみよう。
  
 大正の初め頃までの「お祭り」は、近郷近在でも有名であった。それは、村中総出で大きな屋台や桟敷を作り、浅草から芸人を呼んで夜どおし芝居をやったからです。その頃境内に「力石」という石があった。丸い石で「二十貫」「三十貫」と刻んであり、村の若者達はカツイだり、さし上げたりして力自慢をしました。昔の八幡さまは本当に素朴な建物であり、拝殿の天井が格天井となっていた。その一枚一枚に江戸時代の有名な画家の「谷文晁」の筆による色彩鮮やかな花鳥の絵が書いてありました。空襲のとき、神主さんがやっと一枚だけ助け出すことが出来たそうです。
  
 この「神主さん」とは守谷源次郎のことだが、谷文晁に依頼して制作してもらった天井画Click!のうち、たまたま空襲のときには1枚だけ取り外して別の場所に保管されていたため、延焼の難を逃れたというのが事実のようだ。
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 戦前に撮影された旧・八幡通りの写真は、残念ながら発見することができなかったが、1936年(昭和11)から1944年(昭和19)、そして空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に偵察機F13Click!から撮影された空中写真などを見ると、沿道にはたくさんの商店と見られる家々が建ち並んでおり、当時はにぎやかだった商店街の様子を想像することができる。その繁華な街も、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で壊滅してしまった。
                                 <了>

◆写真上:現・八幡通りから眺めた、旧・月見岡八幡社の境内の一部(八幡公園)。
◆写真中上は、右手の八幡公園から中央の現・八幡通りにかけての旧・月見岡八幡社の境内跡。は、現・八幡通りから落合水再生センター内にかけての同社境内の跡地。は、落合中央公園の野球場手前までが同社境内の跡地。
◆写真中下は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる空襲で壊滅した旧・八幡通り界隈。明星尋常小学校の焼け跡には、すでに4棟のアパートが建ち並んでいる。は、1957年(昭和32)の空中写真にみる旧・八幡通りで、すでに落合下水処理場建設の用地買収がかなり進捗している。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる消滅した旧・八幡通りで、現在の新・八幡通りが西側へ新たに敷設されている。
◆写真下は、旧・月見岡八幡社の境内から南東側を撮影した写真。焚き火の煙でかすんでいるが、右手に見えているビルが旧・山手製氷工場。は、同社より南南東の風景で遠景に連なるのは戸山ヶ原のアパート群だろう。は、同社から南側の旧・八幡通り沿いの風景。小滝台のバッケ(崖地)Click!が右に見え、路上にふたりの人物がとらえられている。

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旧・八幡通り沿いに展開していた風景。(上) [気になる下落合]

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 1962年(昭和37)ごろからスタートした落合下水処理場Click!の建設工事により、それまで月見岡八幡社Click!の表参道が面していた旧・八幡通りは、ほぼ全体が消滅した。現在は、下落合駅から踏み切りをわたり、聖母坂Click!つづきの上落中通りを南西へ歩く途中に、旧・八幡通りの入口にあたる行き止まりの道がその痕跡を残しているだけだ。本来の八幡通りは、現在の落合水再生センターの下になってしまった。
 上落合と下落合は、江戸期からの街道がほぼそのままの道筋で残されていることが多いが、八幡通りのように工事などの影響で、道路が全的に消滅してしまう例はめずらしい。下落合の事例でいうと、改正道路(山手通り)工事Click!の影響からほぼ全域が消滅してしまった、目白崖線のバッケ(崖地)Click!に通う矢田坂Click!が挙げられるだろうか。同坂の跡には、行き止まりの入口だけが残っているのも、八幡通りのケースと近似している。
 少し前の記事で、上落合の映画館「公楽キネマ」Click!が発行していたパンレットに出稿している、八幡通り沿いの商店についていくつかご紹介していた。下落合氷川明神社Click!の前にあった西武電鉄の下落合駅Click!が、1930年(昭和5)に現在の位置へ移動すると、駅前通りのつづきという立地や、付近の前田地区Click!堤康次郎Click!による東京護謨工場Click!など多彩な工場群が建設されたことから、八幡通りには繁華な商店街が形成された。
 その商店街Click!の中には、1933年(昭和8)現在で豊後屋泡盛食堂をはじめ、御園スタヂオ(写真館)、金昭堂時計店、岐阜食堂、ちとせ食堂、ちばや食堂、壽屋足袋店、壽々屋(小料理屋)などが軒を並べていたとみられる。
 当時の八幡通りの様子を、1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会が出版した『上落合昔ばなし』(非売品)から、当該箇所を引用してみよう。
  
 「仲通り」の方は西ノ橋を渡って下落合駅前を通って磯ヶ谷ビルの前を通って左に行くと今の汚水処理場の中程辺りに旧八幡神社の前の道があり、「早稲田通り」に通じて居りました。(中略)/(月見岡八幡社は)それまでは現在の八幡公園のところにありました。汚水処理場が出来、道路が西の方に大幅に移動したので、境内の大部分が取られてしまい狭くなったためです。/旧八幡さまの前の通りを、「八幡通り」と呼んで居り、商店が軒を連ねて居り大変にぎわっていました。この道は奥州街道に通じていたとかで、「八幡太郎義家」が、奥州征伐から帰える(ママ)途中、立寄り、戦勝を謝し、松を植えたという。長い年月の間に松も枯れ、影も形もなくなってしまいました。(カッコ内引用者註)
  
 文中にある「仲通り」とは、現在の上落中通りことではなく、1本西側に寄った細い道のことで、以前、「もどり橋」Click!の記事に登場している農村時代の古い道筋のことだ。聖母坂が開拓され、西ノ橋Click!のすぐ西側に落合橋が架設されて関東バスClick!の運行がはじまるころ、現在の上落中通りの道筋が改めて敷設されている。
 古い「仲通り」は、光徳寺の手前で現在の上落中通りと合流するなどややこしいので、とりあえず一連の記事では上落中通りを基準に記述している。
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 旧・八幡通りがにぎわったのは、下落合駅から上落合の住宅街へ帰る道筋ということもあり、上落合東部の住民たちが利用したことにもよるが、付近の前田地区には旧・神田上水沿いに、さまざまな工場が集中していたせいもあるだろう。
 ちょうど、上掲の商店が営業をしていた時期には、東京護謨工場や昭和電気工場、小松製薬工場、大井製綿工場、山崎精薬綿工場、東京製菓工場、山手製氷工場、日本テラゾ工場などが操業している。これら工場の従業員たちもまた、八幡通り沿いの商店街を頻繁に利用したのだろう。旧・神田上水沿いの工場群は、1945年(昭和20)の二度にわたる山手大空襲Click!で壊滅したあと、戦後にはすべてが移転するか廃業している。
 1980年(昭和55)に出版された守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影(うつりゆくかげ)』Click!(非売品)には、1956年(昭和31)に月見岡八幡社に付属して創立された愛育園(保育園)の屋根上から、旧・八幡通りを北から南へ撮影したとみられる貴重な写真が掲載されている。山手大空襲Click!による戦災で、月見岡八幡社Click!を含め周辺の住宅街や商店街の建物が、ほぼすべて焼失してから10年ほどしか経過していないので、いまだあちこちに空き地のままの原っぱが目立つ。また、このころには落合下水処理場の建設計画も浮上していたとみられ、よけいに焼け跡からの復興が遅れていたのだろう。
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 撮影された季節は、周囲の樹木の様子や焚き火などの風情、人物の服装などから推察して秋もかなり深まったころではないかと思う。あちこちに焚き火の煙が漂っているのは、落ち葉や原っぱの枯れ葉を焼いているのだろう。空はかなり曇っており、西寄りの風がやや強く吹いているようだ。道路の陰影や、建物に当たる光線の加減から、午後の早い時間に撮影されたのではないかと思われる。
 八幡通りの北側に展開する風景を見ると、月見岡(丘)があった高台からつづく小規模なバッケ(崖地)が左手(西側)に見え、戦後に建てられた新しい住宅が見えている。この崖地のやや右手にあたる地面へ、現在の関東バスが走る新・八幡通りが敷設されることになる。焚き火の煙があがる手前の地面には、大きめな石が大量に並んでいるが、1911年(明治44)ごろから無住となり、廃寺となった泰雲寺Click!の山門および伽藍の礎石だろうか。
 下落合方面へと向かう北側の旧・八幡通り沿いには、戦後に再建されたとみられる商店のつづいているのが見えるが、およそ5年後には落合下水処理場の建設工事のために立ち退かなければならなかったろう。遠景には、目白崖線(下落合)の緑が連なっているのがうっすらと見えているが、東へ流れる焚き火の煙により白くかすんでハッキリとは見えない。前田地区にあった工場は、その多くが移転ないしは廃業で姿を消し、その跡地には住宅が建ちはじめているが、落合下水処理場の建設計画でこれらの建物も解体されることになった。
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 前田地区の旧・神田上水沿いにあった明星尋常小学校Click!の焼け跡には、1950年代半ばに鉄筋コンクリート造りとみられる4棟の4階建て大型アパートを確認することができる。1955年(昭和30)に出版された『新宿区史』(新宿区役所)に掲載の「落合下水処理場建設用地」写真や、1957年(昭和32)の空中写真にもとらえられているが、守谷源次郎宮司が撮影したとみられる写真には、流れる煙の中にかろうじてその輪郭が浮かんでいるようだ。
                               <つづく>

◆写真上:いまでも痕跡が残る、上落中通りから旧・八幡通りへ抜けていた入口。
◆写真中上は、落合水再生センターの敷地内で旧・八幡通りは右手フェンスの向こう側あたりを貫通していた。画面左手のビルのあたりが新・八幡通り。は、南を向いて撮影した落合水再生センターの敷地で、旧・八幡通りは左手の野球場からやや斜めに屈曲して早稲田通りへと抜けていた。は、1955年(昭和30)撮影の落合下水処理場の建設予定地で、正面に明星尋常小学校跡地に建っていた4棟のアパート群が見えている。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる旧・八幡通り。は、1945年(昭和20)4月2日の空中写真にみる空襲直前の旧・八幡通り。
◆写真下は、月見岡八幡社の愛育園から眺めた北側の風景。神田上水の河岸段丘上に、戦後の住宅が建ち並んでいる。中上は、同じく北側の情景で焚き火の手前に泰雲寺跡の礎石とみられる石列が見えている。中下は、同じく北側の旧・八幡通り沿いで、戦後に再建された商店が並んでいる。遠方には煙を透かして、明星小学校跡のアパート群がぼんやり見えるようだ。は、北東方向の眺めで現在は一帯が落合中央公園の野球場になっている。

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佐々木喜善と森口多里の「馬鹿婿噺」。 [気になるエトセトラ]

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 森口多里Click!といえば、拙サイトでは美術関連の記事Click!に登場している。佐伯祐三Click!の第1次渡仏時には、同じ「香取丸」に乗りあわせ木下勝治郎Click!らと交流していた様子が伝えられている。だが、美術史家や美術評論家、ときに建築評論家としての活動のほかに、もうひとつあまり目立たないが民俗学研究者としての顔がある。
 森口多里は岩手県の水沢町の出身であることから、遠野をはじめその周辺域に伝承された民話や伝説、昔話、童話などを採集しては記録している。そして、それらの記録を当時は地元にいた佐々木喜善へ研究素材として提供している。佐々木喜善は、柳田國男Click!が『遠野物語』を執筆する際に、その基盤となる民話や伝説、昔話などを直接提供した人物だ。彼もまた、岩手県上閉伊郡土淵村の出身だった。
 佐々木喜善は、東京にやってくると1907年(明治40)に哲学館Click!(現・東洋大学)へ入学している。ちょうど、井上円了Click!が哲学堂の建設を手がけていたころで、哲学館では井上円了Click!から「妖怪学」を学びたかったらしく、そのころ井上円了は和田山Click!に居をかまえていた。佐々木喜善も、目白通りを歩いて哲学堂に竣工していた四聖堂Click!を、見学しに訪れていたかもしれない。ただし、彼は哲学館では飽き足らなかったらしく、しばらくすると退学して早稲田大学文科へ改めて入学しなおしている。
 この間、彼は次々と小説を発表しているので、もともとはいわゆる初期の民俗学ではなく文学をやりたかったようだ。また、語学の勉強も熱心に進めていたが、その途中の1908年(明治41)に柳田國男Click!と出会うことで、彼の進路は大きく方向転換することとになった。柳田は、彼が語る岩手県陸中の遠野地域に伝わる民話や伝説に興味をもち、それを次々に記録して1910年(明治43)に出版したのが『遠野物語』だ。
 つまり民俗学的な解釈はともかく、『遠野物語』は柳田のフィールドワークではなく、“語りべ”としての佐々木喜善の育った原風景を記録した本ということになる。金田一京助Click!が、佐々木喜善のことを「日本のグリム」と呼んだゆえんだ。また、宮澤賢治Click!は何度か佐々木喜善のもとを訪ねているようで、書簡のやりとりが記録されている。
 佐々木喜善と柳田國男について、2010年(平成22)に筑摩書房から出版された佐々木喜善『聴耳草紙』収録の、益田勝実『聴耳の持ち主』から引用してみよう。
  
 柳田は佐々木の背負っている<遠野>とつながり、旅人の学問として出発しつつ、佐々木との出会いにおいて、その旅人性を止揚する可能性をつかみえた。日本民俗学の草創の頃には、佐々木の郷里である北の遠野と、南海洋上の沖縄とが、新しいこの学問をめざす人々の巡礼の地であったのは、単に遠野が東北民俗の宝庫であったからだけではない。佐々木はそこに帰り、そこで生き、その心で民俗を見て、旅人たちに媒介してくれたからである。(中略) 文献資料を駆使してやっていく中央の研究に対して、生の資料を採集して番(つが)えていく。それが当時の佐々木であった。(例示略) 中央の<旅人>の学者に対して、<同郷人>のなしうることはそうであった。
  
 さて、佐々木喜善の『聴耳草紙』には、森口多里が収集して記録した昔話や伝説が数多く提供されている。森口が採集した説話を挙げると、たとえば水沢町付近で採取した「ランプ売り」、同じ地域の「蒟蒻と豆腐」、芝居見物の「生命の洗濯」、笑い話の「鰐鮫と医者坊主」、下姉帯村の「カバネヤミ(怠け者)」、そして「馬買い」「相図縄」「沢庵漬」などの「バカ婿(むこ)」シリーズだ。特に、森口多里は「バカ婿」シリーズが大好きだったようで、地元の古老にあたっては積極的に収集していたフシが見える。
 「馬鹿婿噺」と総称される一連の伝承は、親が子どもを寝かしつけるときに語る昔話でも童話でも妖怪譚でもなく、大人が集まってヒマなときに披露しあう日本版アネクドートのようなものだったのだろう。もちろん、「バカ婿」シリーズだけでなく「バカ嫁」シリーズも数多く伝承されており、小噺の中にはかなり艶っぽくきわどい卑猥な笑いも含まれている。森口多里が集めた説話の傾向からすると、妖怪譚や昔話などの系列ではなく、滑稽でつい笑いを誘う大人の小噺収集に注力していたのではないだろうか。
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 「馬鹿婿噺」の特徴は、婿がバカなのに対して妻のほうは利口でかしこいという点が共通している。つまり、バカ婿は妻のいうとおりにしていれば恥をかかないで済み、親族や地域の住民からもバカにされないで暮らせる……という設定なのだが、どこかで妻のいいつけから外れて、必ず本性のバカが丸だしになるというオチが付随している。
 森口多里が水沢町で記録した、「相図縄(合図縄)」から引用してみよう。ここに登場する「馬鹿婿殿」は新婚で、舅家からご馳走を用意したので娘(妻)といっしょにこいと呼ばれる。舅家への道順が、なかなか憶えられないバカ婿は妻といっしょに出かけたいのだが、「薄馬鹿(うすらばか)」と一緒に歩くのは恥ずかしいと妻にいわれ、ヘンデルとグレーテルのパン屑よろしく、小糠をこぼして実家まで帰るから、あなたは少したってからそのあとを追ってらっしゃいといわれた。
 バカ婿は、妻が出かけたあとしばらくして小糠をたどりながら歩きはじめるが、小糠は風に吹かれてあちこちに飛び散り、彼が舅家にたどり着いたころには野を越え川を越え森を越えて、全身がびしょ濡れでボロボロになっていた。さっそく妻に叱られるが、舅からはご馳走の用意ができたと勧められた。ところが、ご馳走はなにから順番に箸をつければいいのか、食事の作法をまったく知らないバカ婿が途方に暮れていると、妻は……。
  
 婿殿を蔭に呼んで、大事なところに紐を結びつけて、その端を持っていて、人に知れないようにツツと引いたらお汁(つけ)を吸いなさい。ツツツツと引いたら御飯を食べなさい。またツツツツツツと引いたらお肴を食べさんしとくれぐれも言い含めておいた。いよいよ御馳走が始まったが、嫁子が約束通りの合図の紐を引いてくれたので、婿殿は箸を取って、はい御飯、はいお汁、はいお肴と間違いなく食事をすることができた。お客様達はこれを見て、はてこの婿殿は薄馬鹿だという評判だが、こうちゃんと物を順序に食べるところを見ると、まんざらでもないらしいと心の中で思っていた。ところがそのうちに嫁子は小用を達(ママ:足)したくなったので、ちょっとの間ならよかろうと思って、紐を柱に結びつけておいて厠へ立った。その隙に猫がやって来て、紐に足を引っ掛けて、もがいて、無茶苦茶に紐を引っぱったので、馬鹿婿殿はそれを嫁子の合図だと早合点して、この時だとばかり、大あわてで汁も飯も肴もアフワアフワ呻りながら一緒くたに口に搔攫い込んだ。それを見てお客様達は、なるほどこいつア名取者だと初めて知った。
  
 このように、妻がちょっと目を離したスキに、とんでもないことをしでかすのが「バカ婿」シリーズの筋立てだ。舅家への道順をようやく憶えたバカ婿は、再びお呼ばれして出かけることになるのだが、妻が実家では必ず風呂を勧められると思うから、そのときは糠袋をもらって身体をきれいに洗いなさいと、くれぐれもいいきかせて夫を送りだした。
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 バカ婿は舅家まで歩いていく道々で、「糠、糠、糠」と繰り返して忘れないようにしていたが、道で石につまずいたとき、つい「沢庵、沢庵、沢庵」といいまちがえてしまった。舅家に着いて、さっそく風呂を勧められたバカ婿は、下女に「沢庵漬、沢庵漬」と風呂場から叫んだ。食べるなら切ってお持ちしましょうかという下女に、長いのを1本そのまま持ってきてくれといって、沢庵漬で一生懸命身体をこすりはじめた……。
 森口多里が、水沢町で好きな「馬鹿婿噺」を集めてまわり、楽しみながら記録していった様子が目に浮かぶ。これらの小噺は、単発で終わるのではなく、つづきもののように延々と語られつづける点も、彼が惹かれた要因だろうか。
 さて、話はガラリと変わるが、森口多里は母校の早大キャンパスにある大隈重信Click!(立像)と高田早苗Click!(座像)の銅像の位置が近接していて窮屈だとし、建築学的あるいは美術的な視点から前総長の高田早苗の銅像を正門を入ったところ、すなわち当時の図書館と本部校舎にはさまれた広場に移してはどうかと書いている。そして、壮大な並木を植えてキャンパスを緑化したらいかがなものかと、当時としては斬新な提案をしていた。1943年(昭和18)に鱒書房から出版された、森口多里『美と生活』から引用してみよう。
  
 銅像のことは別としても、あの正門内の広場には壮大な並木が欲しいものだと、つねづね思つてゐたのである。一体、東京市は樹木の割合に豊富な都である筈だが、その割に、緑蔭を歩くといふ快味には恵まれることの少い都である。(中略) さて、学園の広場に並木をつくるとすれば、どんな種類の樹木を選ぶべきであらうか。勿論落葉樹であるべきだが、篠懸木(プラタナス)では無風流だと感ずるならば、さしづめ公孫樹といふところか。しかし、公孫樹の樹冠は洋風建築の前では何となく窮屈な固い感じを与へるし、それに東京帝大で既に先鞭をつけてゐるから、日本的な風趣を望むならば、寧ろ欅などがよいであらう。成長の早い水木でも悪くない。私の空想が許されるならば、菩提樹の並木をつくりたい。
  
 森口多里ならではの、美術的な感覚と建築学的な美感を合わせて考察した風景論が展開されている同書だが、残念ながら現在の正門を入ったところにある広場に植えられた並木は、菩提樹ではなくヒマラヤスギ(左手)とイチョウ(右手)だ。
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 森口多里が望んでいた並木のひとつであるケヤキは、大学のキャンパス内ではなく正門通り(現・早大通り)に植えられて、この半世紀で大きく枝葉を拡げて気持ちがいい緑蔭をつくっている。早大正門から山吹町の交差点まで、東へおよそ900m余もつづく正門通りのケヤキ並木は美しいが、森口多里の「勿論落葉樹であるべきだ」というのにはかなっているものの、気の遠くなるような量の落ち葉掃きをする人たちにしてみれば、12月の声を聞くと下落合の多くの住民たちと同様に、かなり憂鬱になるのではないだろうか。

◆写真上:岩手県遠野市の風景で、この地方独特の“曲がり屋”が見えている。
◆写真中上は、佐々木喜善()と柳田國男()。中左は、2010年(平成22)出版の佐々木喜善『聴耳草紙』(筑摩書房)。中右は、1910年(明治43)出版の柳田國男『遠野物語』(初期私家版)。は、遠野市でもっとも有名な観光スポットの「河童淵」。
◆写真中下上左は、2009年(平成21)出版の佐々木喜善『遠野奇談』(河出書房新社)。上右は、2020年(令和2)出版の佐々木喜善『ザシキワラシと婆さまの夜語り』(河出書房新社)。中左は、佐々木喜善と交流した宮澤賢治。中右は、佐々木喜善に昔話や民話を提供した森口多里。は、森口多里の提案とは異なる並木がつづく早大正門内広場。なんだか立て看のないキャンパスは、スッキリしすぎていて学生たちがヒツジのようで逆に不安になる。ところで学校当局のひどい腐敗ぶりに、なぜ日大の学生諸君は怒らないのだろう?
◆写真下は、早大演劇博物館への並木道。は、1974年(昭和49)に撮影された早大通り(旧・正門通り)。は、現在の早大通りでケヤキが育ち緑蔭ができている。

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「心霊相談」と「事故物件」に寺はどう向きあうか。 [気になるエトセトラ]

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 初めて「月刊住職」Click!(興山舎)という“寺院住職実務情報誌”を読んだのだけれど、これがけっこう読みでがあって面白い。加門七海Click!の『門前でうろうろする』というエッセイが気になって手にしたのだが、ほかの記事も面白くてついつい読んでしまう。日本の仏教寺院が置かれている状況が、手にとるようにわかるからだ。
 加門七海も同誌に書いているように、最近は一般人に対して閉鎖的かつ排他的な寺院が少なくない。檀家あるいは門徒でなければ、うっかり境内へ立ち入ったりすると怒られ、ヘタをすると警察へ通報されかねない寺が増えている。こういうところが、神社やキリスト教会と大きく異なる点だが、寺の境内を散策するにも事前予約が必要な時代になったのかと、唖然としてしまうことが少なくない。
 わたしも、宮崎モデル紹介所Click!の跡地を取材した際、近くに領玄寺(日蓮宗)があるので「ここは縄文時代Click!の領玄寺貝塚が発見されたところだったな」と、ちょっと境内を散歩しに入ったらさっそく坊主に叱られた。確かに、わたしは檀家でも仏教徒でもない人間だが、ここまで排他的で狭量になると一種異様な感じを受ける。
 同誌にも、「境内を荒らされるから」という理由で一般人を立入禁止にしている寺院のケースが紹介されているけれど、多くの場合はどこをどう荒らされたのかを具体的に明示せず、単に境内へ“赤の他人”が入るのを拒む、もっともらしい「理由」づけのひとつとして挙げられているにすぎないのではないか。なんだか神経症的な昨今の寺院の対応を見ていると、とても宗教者とは思えず心根(経営?)にゆとりや余裕のない、心が荒んだ坊主が増えているのかな……と想像してしまうのだ。
 加門七海も、そんな閉鎖的で排他的な寺院の境内には入りづらいらしく、『門前をうろうろする』ことになってしまうようなのだが、同エッセイから引用してみよう。
  
 正直、町を歩いていても、あまりお寺は目に入らない。存在しないわけではない。そこに入るという選択肢がほとんどないから目につかないのだ。観光寺院や歴史ある古刹には人がいるけれど、日常には入ってこない。/中を窺うことのできない、ビルになっている寺院も多くある。たとえ扉がガラスであっても、閉ざされていると参拝していいのかどうか迷ってしまう。/私は寺院が好きなので、そんな場所でも宗派や寺名を確認したりするのだが、それだけで胡散臭い目で見られるときも少なくない。都会のお寺は、神社よりずっと閉鎖的なのだ。
  
 わたしは、人と向かいあい心を救うのが宗教の本義だと考えているので、門戸を閉じて排他的になるところが、逆にいかがわしくて胡散臭く見えてしまう。「宗教法人の優遇税制のもと、なにを隠れてコソコソやってんだ?」という感覚だ。
 加門七海は、「お寺そして仏教と縁を持ちたい人は、多分、沢山いる」と書いているが、わたしは正反対にかかわりを持ちたくない人々が、これから年を追うごとに急増していくと見ている。そのせいか、寺院側でもよけいにスネて被害妄想的な心理が働き、より閉鎖的かつ排他的になっていく、負のサイクルに陥っている気配を強く感じるのだ。
 なにも、奈良・広隆寺Click!の手前にあった新しい某寺のように、拝観料めあてなのか境内へ呼びこみなどしなくてもいいと思うが、緑が多い寺の境内の散策ぐらいは自由にさせてくれる、心のゆとりや鷹揚さぐらいはあってもよさそうに思う。
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 さて、寺の中には少しでも身近な存在になりたい、あるいは人々の心の拠りどころになりたいと、がんばっているところもある。「心霊現象」に遭遇してしまった人を救う、コンサルテーション的な役割りを引きうけている寺院だ。
 「この呪われたアンティークドールは、夜になると走りまわって、わたしの首を絞めるんです」とか、「わたし、このところ霊にとり憑かれてるみたいなの」とか、「中古で買ったクルマが事故車で、わたし霊のタタリに遭ってるのよ」とか、「心霊スポットで心霊写真を撮ってしまったんだけど、どうしましょ」といったたぐいの相談だ。
 たとえば、浄土真宗や曹洞宗などでは死後の世界や幽霊などは、「ありえない」「気のせい」「世迷いごと」であり、「そんな困りごとを、うちに相談されてもねえ」「こんな気味の悪いもん、持ってこられてもさぁ」「近くの心療科を紹介しましょうか?」「お焚上げって、寺が火事んなったらどうすんの」……というような反応をするはずだが、その「心霊現象」をていねいに聞いてあげ、経を唱えて相談者の怖気づいた心を落ち着かせ、率先して慰めてあげる仕事を引きうけている寺もある。
 「月刊住職」(2022年2月号)に収録された、東北大学大学院文学研究科の高橋原『幽霊を見たという相談に僧侶にしかできない傾聴と儀礼の力』から引用してみよう。
  
 傾聴ということの本質においては、それが病院のベッドサイドで行われるものであれ、自坊での「心霊相談」の際に行われるものであれ、大きな違いはない。現象として現れていることの背後に、どのような人生の苦悩が織り込まれているのか、どんな不安が隠されているのかを聴き取り、その人を支える姿勢を示すことが求められているのである。臨床宗教師というあり方から、逆に宗教者としての本来あるべき姿が照射されてくることもあるはずである。/心霊現象というと突飛な話題であると考えられがちであり、私が『死者の力』で示した調査結果においても、とりわけ浄土真宗の僧侶はそのような現象に概して否定的であり、宮城県の最大宗派である曹洞宗でも、そんなことに囚われてはいけないという見解を持つ僧侶が多かった。/しかし、本来の仏教の教えから外れるテーマであればなおさら、なぜそんなことが気になってしまうのか、真摯に相手に向き合ってみることが必要なのではないだろうか。
  
 著者の東北地方では、先の東日本大震災Click!で膨大な死者がでているため、地元の寺々でも「心霊現象」に関する相談が急増したのかもしれない。
 文中の『死者の力』とは、著者が「心霊相談」について寺々へ向け実施したアンケート調査だが、幽霊の存在を否定する浄土真宗の僧が、「悩む人の心が良い方向へと改善されるのであれば」価値があるかもしれないと答え、曹洞宗の僧は霊の存在はさておき「宗教者は生者も死者もケアする力がある」と回答している。大震災を経験したせいだろうか、本来の宗教者としてのスタンスが明確化しているケースだろう。空襲が予想されるようになり、自身の生命が危うくなると檀家(信者)の前から逃亡していったどこかの坊主たちClick!に比べ、少なくとも宗教者らしい真摯な姿勢を汲みとることができる。
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 「心霊相談」が増えるにつれ、それを寺院への今日的で新しいニーズととらえ、従来にはない付加価値サービス、新規業務の開拓として位置づける寺院も登場している。不動産業における、いわゆる「事故物件」をめぐる“浄化”ニーズだ。
 先月も、2021年の年間死者数が戦後最高の145万人を突破したニュースが伝えられていたが、「日本の将来推計人口」(国立社会保障・人口問題研究所)のシミュレーションによれば、2024年にはついに大台の150万人を突破し、2039~2040年の2年間に死者167万9,000人/年のピークを迎え、再び150万人台まで死者が減るのは2072年になってからだという試算数値を発表している。つまり、この先50年間にわたり、かつて経験したことのない死者数がカウントされつづけることになるわけだ。
 そして、家族のいない高齢者のひとり住まいも増えつづけ、孤独死による「事故物件」も数年で急増することになる。厚生労働省が行なった国民生活基礎調査の統計によれば、2019年の時点で65歳以上の高齢者がいる家庭は全国で約2,600万世帯で、全世帯数の49.4%、つまり約半数が高齢者のいる家庭ということになる。そのうち、独居老人の世帯数は、すでに約740万世帯もあり全体の28.8%にものぼる。
 この膨大な数値を、次世代の経営基盤となる有望な“マーケット”としてとらえている寺院や企業が少なくないようだ。また事実、不動産業者やアパート・マンションのオーナーからの相談も年々増加しているという。不動産業者の中には、それぞれ孤独死・自殺・心中・焼死・殺人など「事故物件」にランクづけし、それに見あった供養や“浄化”(もちろんお布施の額も「事故」の種類で異なる)を求めてくるケースもあるようだ。
 そのような特殊サービスの一端を、同誌収録の『自殺や孤独死で起きる事故物件に僧侶が関わり始めた訳』より、大阪のケーススタディから引用してみよう。
  
 浄霊供養の依頼の受け口を、基本的にメールに限定し、お布施の目安として孤独死は二万円から、自死は三万円から、火事や殺人などの事件は四万円からとしている。その理由をこう話す。「私自身、霊が見えたことはないのですが、ご依頼をなさる方には、霊障の仕業だと言って来られる人や、精神的に不安定な方もおられます。そのため、メールでは、お名前、生年月日、生誕地と現住所、電話番号、発生している現象などをみんな書いてもらって、それから受けるようにしています。(中略)」/現場に赴く際は、仏具や掛け軸、鳴り物、僧衣などもスーツケースに入れて持っていくそうだ。/「ホテルなど営業している施設や近所の目に触れたくないとお思いの方もおられますので、そうした場合には私服で現地まで行って、そこで着替えて供養を行います。それと、お清めの塩も多いときには百個くらい授与して、作法もきちんと教えてあげます」
  
 また、人材派遣業にも供養・浄化サービスを行なう専門チームがあるそうで、7つの区分で営業しているという。その7つとは、①心理的瑕疵施設などが見える物件、②共用部分や他の部屋などで事故があった物件、③発見までに72時間未満の孤独死および病死物件、④発見まで72時間以上の孤独死物件、⑤火事や事故で人が亡くなった物件、⑥自殺物件、⑦殺人物件……という、具体的なケースごとの分類だ。
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 もちろん、区分によってサービス料金も体系づけられ、⑦がもっとも高額な布施となる。これからの数十年、お盆でもないのに背中へ仏具を入れたバッグを背負い、バイクや自転車で街中を走りまわる、デリバリー専門のUber Bouzuの姿が増えるのかもしれない。

◆写真上:鬼瓦や肘木の意匠を見ただけで、どこの寺かがわかる方は寺院ヲタクだ。
◆写真中上は、鄙びて落ち着いた風情の茅葺き山門。は、興山舎発行の「月刊住職」()と、挿入された寺院向けアンケート()。は、樹間に見え隠れする五重塔。どぎついベンガラがすっかり落ち、杢目そのままの色合いが自然で美しい。
◆写真中下は、今年(2022年)に刊行された「月刊住職」2月号の目次。は、ふだんはあまり見かけない同誌へ出稿しているめずらしい寺院向け広告類。
◆写真下は、クルマへ向けた交通安全か除霊供養の祈祷。は、加門七海()と同紙に掲載のエッセイ『門前でうろうろする』()。は、風鐸の音を聴いてみたい三重塔。

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18年間に読まれた記事ベスト20。 [気になる下落合]

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 いまから10年ほど前に、拙サイトで読まれている人気の記事ベスト10Click!という企画をやったことがある。あれから10年、久しぶりにアクセス数の多い記事のベスト20を調べてみたのでご紹介したい。もっとも、古い記事ほどアクセス数の多いのはあたりまえなので、記事の掲載時期を「2004年~2011年」の8年間、「2012年~2018年」の7年間、そして最近の「2019年~2022年」の4年間(正確には3年5ヶ月間)と、掲載時期を3期間に区切ってアクセスの多い記事のランキングを調べてみた。
 おしなべて、落合地域にあまり関係のない記事への大量アクセスが目立つが、当然ながら落合地域に住んでもいなければ馴染みもない方は、新宿区の片隅で紡がれるローカルなテーマには興味が湧かないのだろうし、また落合地域を問わず人気のある「有名人」の記事やテーマへアクセスが集中するのは、サーチエンジンの上位にヒットする確率が高いせいで、これまた必然のことだろう。
 だが、落合地域とその周辺域には、史的に多種多様な職業(おもに芸術分野)の人々が住んでいた関係から、それら住民に関する記事へのアクセス数は驚くほど多い。2018年までの記事へのアクセス数は、ほぼすべてが万単位となっている。もちろん、中にはリピータの方もいるのだろうが、たとえば落合地域にかつて住んでいたある住民のことを、1万人の方が興味をもって読んでくださり、その人物が暮らした落合地域についてより深く知りたくなったり、「一度、落合地域を散歩でもしてみようか」などと思われた方がいるとすれば、わたしとしては記事にして“大成功”だったことになりたいへんうれしい。
 さて、まずは2004年から2011年までの8年間に掲載した記事について、アクセス上位のベスト20をご紹介したい。ちなみに、調べたのは今年(2022年)の3月26日現在だ。
★2004年~2011年ベスト20
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 写真画像がところどころ抜けて「NO IMAGE」となっているのは、管理画面で古い記事を検索すると、イメージDBから画像が引かれないまま対象記事を一覧表示してしまう遅延エラーからだ。また、記事の一覧表示がそろわないのは、ブログシステムの運用管理者側が年代によって表示フォーマットを微妙に変えてきているのが原因とみられる。
 以前のランキングと異なるのは、学習院に保存されていた陸軍弘前31連隊の八甲田山雪中行軍演習の記録写真Click!に関する記事が、下落合のドラマ『さよなら・今日は』Click!記事の上位にきたことだ。また、東京の古墳に興味のある方が多いのか、大手町にあった「柴崎古墳」Click!についての記事も急上昇している。同時に、中国や朝鮮半島からの思想や宗教が入りこむ以前の「原日本」Click!についての記事や、江戸東京の(城)下町Click!についてのエピソード記事へのアクセス数がベスト20以内に限らず目立っている。
 「あけがらす」Click!「ハゲ好き」Click!などの記事にもかかわらず、下落合の九条武子Click!に関する記事をご覧になる方は相変わらず多い。落合地域およびその周辺に住んでいた吉屋信子Click!をはじめ、柳原白蓮Click!近衛家Click!徳川家Click!に関する記事もよく読まれているようで人気が高い。変わったところでは、大磯Click!澤田美喜Click!について書いた記事と、文楽ファンが多い(?)ものかガブClick!の首(頭=かしら)についての記事が急上昇している。もっとも、文楽の記事は「愛しさ怖さガブのみ写真集」Click!というタイトルに騙され、ツンデレ系グラビアアイドルのしどけない姿の写真集と勘ちがいして、ついアクセスしてしまった方も多いのではないかとにらんでいる。w
 さらに、「タヌキの森」Click!に象徴される東京の緑の減少、あるいは景観など環境問題に関する記事への関心が高いのか、ベスト20以内に限らずアクセス数がかなり多い。
 では、つづいて2012年から2018年までの7年間の上位ベスト20を見てみよう。
★2012年~2018年ベスト20
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 この7年間で目立つのは、なんといっても落合地域にも住んだ淡谷のり子Click!記事の人気だ。これは、彼女がとても美しくて魅力的………というよりも、戦前戦中を通じ徹底して軍国主義による弾圧に抵抗しつづけ、特高Click!や憲兵隊による検束や始末書は数知れず、慰問先では陸軍の将校には危うく軍刀で斬り殺されそうになるなど、命がけで敵国のシャンソンやブルースを唄いつづけたエピソードに興味を抱かれる方が多いのだろう。
 ちょうど、現在の中国やロシア、ミャンマー、北朝鮮などのコンサートで、公然と「反戦」や「民主化」を唱えるのと同じような勇気を要するエピソードに惹かれて、アクセスする方が多いのではないだろうか。それとともに、戦時下における日本国内の世相や思想弾圧に関する記事へのアクセスも、ここに挙げたベスト20に限らず多い。
 下落合の寺斉橋の北詰めで、喫茶店「ワゴン」Click!を経営していた萩原稲子Click!(元・萩原朔太郎夫人)に関する記事の人気も驚くほど高い。変わったところでは、雑司ヶ谷村の新倉家Click!が有吉佐和子を訪ねて証言した、板橋宿で和宮Click!の代わりに入れ替わって将軍家へ嫁いだとみられる女性の記事や、どこかで生き残っていると信じたいニホンオオカミClick!に関する記事も上位にランクインしている。
 また、江戸東京の(城)下町に関する記事や、落合地域に住んだ人々の紹介記事は、この7年間でもコンスタントにアクセスされているようだが、ベスト20にランクインしているしていないに関わらず、関東大震災Click!など地震や災害に関する記事へのアクセスが目立つのは、2011年に東日本大震災を経験しているからだとみられる。
 では、最後に2019年から2022年の現在までアクセス数の多いベスト20だ。
★2019年~2022年ベスト20
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 やはり、ニホンオオカミと大神・山犬信仰に関する記事へのアクセスが多い。関東では、秩父山系に生存している可能性が高いといわれるが、はたしてどうだろうか?
 最近の記事で目立つのは、小林多喜二Click!とその妻で下落合に住んだ伊藤ふじ子Click!に関する記事へのアクセスの多さだ。ちょうど、香港における思想弾圧や、ミャンマーでの軍事クーデターが起きた時期に重なって急増している。かつての日本でも、同様の苛烈な思想弾圧が行なわれていたことについて、決して他所事ではないと気づいた若い子たちのアクセスが増えているものだろうか。また、ここでも淡谷のり子の記事や、関東大震災におけるアナキストや労働組合員などの虐殺事件Click!も上位にランクインしている。
 先ごろ亡くなった瀬戸内晴美(寂聴)Click!の、目白台アパート時代についての記事も閲覧者が多い。淀橋浄水場Click!の記事へアクセスが多いのは、新宿区内にお住まいのビジターが多いからだろうか。ランクインしている2つの記事以外にも、淀橋浄水場Click!のエピソード記事はよく読まれている。また、おそらく豊島区の雑司ヶ谷周辺の方たちが、印象に強く残るハイゼの雑司ヶ谷異人館Click!の記事を参照されているとみられる。
 相変わらず、東京に展開する古墳の記事は人気が高いが、面白いのはドラマ『JIN―仁―』のファンが多いものか、「南方仁」のプロトタイプとなった日本初の西洋医である松本順Click!が創立した、早稲田の蘭疇医院Click!の記事へもアクセスが多い。変わったところでは、目白駅の近くに住んだ柳家小さんClick!生代子夫人Click!や、上落合の日本心霊科学協会にからめて書いた「貞子さん」Click!へのアクセスが目をひく。
 こうして、各年代のアクセスの多い記事を参照してみると、落合地域で暮らした画家などの美術家よりも、文学の作家に興味をもたれるビジターが多いようだ。作家の場合は、周辺の生活環境を文章で残しているケースが多くて調べやすいが、美術家の場合は佐伯祐三Click!中村彝Click!曾宮一念Click!金山平三Click!松本竣介Click!など大勢のファンがいる一部の画家を除き、その人物像や暮らしぶりを調べるのは相対的に容易ではない。したがって、どちらかといえば画家たちの調査に注力することになるわけだが、ここで書き手側の希望をいわせてもらえば、落合地域で暮らした美術分野の人々の記事が、もう少し上位に入ってきてくれるとうれしいのだが……。

◆写真上:この季節には鮮やかな、下落合に残る菜の花畑。
◆写真中上:下落合をあちこち散歩する、好奇心が旺盛なネコ。
◆写真中下:川床に下落合の一枚岩Click!と同じ、シルト層がのぞく神田川の桜並木。
◆写真下:暖かくなると散歩したくなる、下落合の森の小道。

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