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30年の時をへだてた池袋駅東口のふたり。 [気になるエトセトラ]

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 1925年(大正14)に21歳で東京にやってきた大江賢次Click!は、恩師の池田亀鑑から紹介された西銀座の実業之日本社に就職している。当時の同社は、メインの「実業之日本」をはじめ「婦人世界」、「日本少年」、「少女の友」といった雑誌を出していた。池田亀鑑が池袋の「うら町」(おそらく豊島師範学校が建っていた池袋駅の西口側)に住んでいたので、大江賢次も近くに下宿を探すことになった。
 ほどなく、恩師の家から北へ歩いたところにある素人下宿を見つけ、2階の6畳間に月10円で落ち着くことになった。この家は、関東大震災Click!で市街地の袋物の店舗が焼け、おかみさんによれば「こんな辺鄙」な土地に家を建てたが、窓から見える富士山がまるで額縁に入れた絵のように美しいと自慢した。この家の主人は、店が全焼して財産を失ったせいかブラブラしていたが、このごろは池袋周辺で土地斡旋業をはじめていた。
 この家には、マサ子という娘がいて新宿のほていやデパートメントClick!(現・伊勢丹Click!)の売り子をしており、大江賢次が必要な調度や日用品をデパートの社員割引きで安く買いそろえてくれた。銀座の出版社や編集という仕事にあこがれているらしく、「毎日銀座が歩けてうらやましいわ」といった。毎朝、ふたりはいっしょに家を出ると、新宿駅で別れる生活がつづいた。会社からもどると、おかみさんは石鹸箱とタオルをもって待ちかまえており、彼を近くの銭湯へいかせた。ある日、彼が「まるで婿さんみたいですね」というと、「そうならいいけど」と意味ありげに答えている。
 大江賢次は、どうやら大きな資本の安定した出版社に勤めている彼を、娘の婿にと考えているらしいのを察知して驚いた。いつの間にか、2階の彼の部屋へ夕食を運んでくるのも、娘のマサ子の役目になっていた。食事の間じゅう、マサ子はそばに座って彼の給仕をしてくれた。大江賢次は、ものを食べて咀嚼するときことさらアゴが醜く目立つので辟易したが、彼女はまったく気にしていない様子だった。
 ある日、「このアゴ、おかしいでしょう?」と訊くと、「あら、ちつとも。それがなかつたらお化けだわ」と答え、「色男なんつてハア太郎よ、ほんと!」といったので、顔貌でイヤな目にさんざん遭ってきた大江賢次は、ついマサ子の手を握って引き寄せると、彼女は「アイラブユー」といってほのかなソバカス顔が迫ってきた。だが、アゴが邪魔してうまくキスができないでいると、「いやなしと!」といって階段を下りていった。
 だが、翌日もマサ子は夕食を運んできて、前夜のことなど忘れたかのように給仕をつづけた。1週間ほどすぎて、新宿の武蔵野館Click!で徳川夢声の弁士による外国映画のラブシーンを観て、大江賢次は「ややつ!」と気づくと、急いで下宿に帰った。夕食の給仕にやってきたマサ子を立ったまま抱き寄せると、顔を確実に斜めにしてついにキスをすることに成功した。彼女は、そのまま膝からくず折れて失神してしまい、これはたいへんと大声でおかみさんを呼ぶと、「癲癇じゃあるまいし」などといいながら階段を上がってきた。そのころには、目がさめたマサ子はびっくりして飛び起きると、母親の問いかけに「どうもしちやいないわよ、はばかりさま!」といって大江賢次をにらんだ。
 2年めに入り、大江賢次の勤め先の給与が上がると、おかみさんは「おンやまあ、ほんとに上々の首尾じゃないの、鶴亀々々」といって、特別にタイの尾頭つきで祝ってくれた。まるで婿のような待遇だったが、娘のマサ子はそれを聞くと「うらやましいわ。うちの店なんか、布袋どころか寿老人よ」と舌打ちした。ほていやデパートは裕福どころか給与がケチで、やたら店の歴史ばかりが古いだけといいたかったのだろう。
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 それからすぐのこと、この家の主人が大江賢次へ盛んに土地の購入を勧めはじめた。1958年(昭和33)に新制社から出版された、大江賢次『アゴ傳』から引用してみよう。
  
 「(前略)ねえ社員さん、悪いことはいわないから、将来のためにひとつ土地をお買いになったら……? まあ、考えてもごろうじろ、いまこそこの池袋界隈は、肥くさいとかなんとかケチをつけてるが、十年さき、二十年さきになつたら、へん、山手線じや新宿をのけたら池袋と渋谷でさ。いまあんた、駅前の東口一帯の草ッ原が一坪一円だが、ほらよ、いわんこつちやねえ、やがて鰻のぼりに十倍にも百倍にもなりまさ。いかがです、毎月五坪でも六坪でも買いだめなすつたら? 一年にや六十坪、十年経ちやなんと六百坪! そのうちに昇給するし、ボーナスもふえようし、てんから千坪は保険つきたしかでさ。それが百倍の半分の五十倍とみたつて……へん、三万円ですぜ、三万円!」と、乱杭歯からつばしぶきをとばしてすすめはじめた。
  
 おそらく、大江賢次と娘が結婚したあとの生活や蓄財まで考えて、主人とおかみさんは、いや一家ぐるみで婿とり作戦を開始したのだろう。
 当時は、こんなことを話して池袋駅東口の土地購入を勧めても、誰もがマユにつばをつけて土地ブローカーの詐欺話のように感じたかもしれないが、この主人の先読みは正確だった。新宿に次いで渋谷と池袋という読みも正確なら、「三万円」は控えめなぐらいの数字だったことがわかる。この年から30年後の1955年(昭和30)、池袋東口の地価は坪あたり1円の30万倍となり、現在はなんと1,000万倍をゆうに超えている。
 こうして、下宿でなにくれと待遇をよくしてくれるぶん、大江賢次は最初5坪の土地を購入してみる気になった。池袋駅東口の改札を出ると、すぐ真正面にある原っぱの土地で、5坪だとゆくゆくタバコ屋ぐらいはできそうだった。両親とともに土地を見にきたマサ子は、「そうね、奥さんの内職にいいわね」などといいながら、パラソルをくるくる回していた。その後も、土地を少しずつ買いつづけ、マサ子も出資して3坪ほど買い池袋駅の真ん前の土地をふたりで18坪ほど手に入れた。小作人のせがれだった大江賢次は、東京で地主になるとは思ってもみなかった。18坪の土地を前に、「二階建てにしたら、けっこうな店舗がはられるじやないのさ」と、おかみさんはポンと膝を打った。
 このままズルズルと池袋で下宿生活をつづけていたら、大江賢次は出版社のサラリーマンで終わっていたのかもしれない。ほどなく、父親危篤の知らせが郷里の鳥取から彼のもとにとどいた。父親は死に、彼は天涯孤独な身になって、改めて自分は東京へ文学を学びに旅立ったことを思いだした。彼は実業之日本社をやめて、本人のいう「第二の人生」を踏みだすために、しばらく地元で農業をつづけたあと、農民作家の悦田喜和雄の紹介で当時は小岩にあった武者小路実篤邸Click!の書生として住みこむことになった。
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 それから30年、こんなことClick!あんなことClick!そんなことClick!とんでもないことClick!があってのち、大江賢次は下宿のマサ子と池袋で再会する。
 空襲下、柏木5丁目に住んでいたころの町民や大工たちが協力してくれて、戦後、大江賢次が江古田に安く自邸を建設できたあとのことだ。いつも書斎に引きこもって原稿を書いていた彼は、気晴らしに池袋の泡盛屋へ久しぶりに出かけた。この泡盛屋とは、池袋駅西口にあった「西口マーケット」の中の1店だろう。その帰り道、路地をフラフラ歩いているといきなり帽子をひったくられた。ありがちな、バーか飲み屋の客引き女がよくつかう手で、その女が入った飲み屋に追いかけて入り、「もうカラケツだから勘弁してくれよ」といったとき、店の正面にいたおかみさんと目があった。
 そのおかみは、いきなり「あ、このアゴだ! あんた大江さんでしよ? わたしをご存じ……マサ子よ」と叫んだ。彼はなにをいわれているのかわからず、ポカンとしていると、「池袋のさ、うちの二階に下宿してたじやないの!」といわれて、「あつ、分つた! 三十年の昔だ」と気づいた。ふたりは握手をすると、「わたしがおごるからのんで頂戴」といって、いまだ30代ぐらいに若く見えるマサ子は自分も飲みはじめた。
 この30年の身の上話を訊ねると、「ひと晩やふた晩に話せますかいだ」といって、店の女の子に「三十年前にわたしこのひとと結婚しようと思つていたのよ、どう?」といった。そして、娘が自分と同じように西武デパートへ勤めていること、文学が好きな娘が大江賢次の本を読んでいることなどを語りはじめた。やがて、池袋東口の駅前にふたりで買った土地を思いだしたのか、1円の土地が「今じや三十万円は下かどよ! とすると、二三が六百万円! ええいこん畜生、それがあつたらねえ」と、急に泣きはじめた。そして、その土地をいまから見にいこうよといいだした。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 「見たつて仕様がないじやないかね」と、私がしきりになだめればなだめるだけ、/「仕様がないつていう気が、凪ぐからさ」と、先になつて出ていつた。/地下道をくぐつて、東口の駅の正面の富士銀行と三和銀行のあたりを、目測で私たちは三十年前の草原を思いうかべた。マサ子はまだ興奮がさめず、しきりに地だんだをふんで未練をくり返していたが、ふと、/「あんた、キスして――」と、寄りそつてきた。/「いや、いまさらアゴがつかえるといけないから、握手にしようや」/「ふふん、三十年か……わたしたちも変つたけれど、池袋はもつと変つたじやないの」/私たちは握手をして別れた。写真のネガをのぞくようでむなしかつた。
  
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 大江賢次とマサ子のふたりが、将来の淡い夢を見ていっしょに買った土地は、1955年(昭和30)現在で三和銀行と富士銀行があったあたり、いまの街並みでいうとサンシャイン通りへの入口の両側にある、日米英語学院とシェーン英会話のビルが建っているあたりだったのがわかる。ちょうど池袋駅の真ん前で、父親が急死せず下宿屋でもう少しグズグズしていたら、大江賢次は終生貧乏な作家になどならず、戦後は貸しビル業でも営んで裕福に暮していたのかもしれない。まったく異なる人生航路を切り拓く、男と女の出逢いは面白い。

◆写真上:大江賢次とマサ子が、少しずつ土地を買っていたサンシャイン通り入口界隈。
◆写真中上は、1925年(大正14)撮影の池袋駅構内。東京へきたばかりの大江賢次が、日々目にしていた風景だ。は、1924年(大正13)撮影の池袋駅から東口の根津山Click!方面を望む。は、大正期に撮影された池袋駅のホームで山手線を待つ人々。
◆写真中下は、戦後の1954年(昭和29)撮影の池袋駅。は、同年に撮影された手前に建設中の西武デパート側から眺めた池袋駅東口。は、1960年(昭和30)撮影の同駅東口。手前に、大江賢次とマサ子が買った土地に建つ富士銀行が見える。
◆写真下は、大江賢次とマサ子が再会したころ1957年(昭和32)の1/10,000地形図にみる池袋駅周辺。は、池袋駅西口にあった「西口マーケット」の飲み屋街。は、1962年(昭和37)撮影の池袋駅東口。富士銀行の手前が、三和銀行の入っていたビルだ。

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