妖怪学講義から100年後でも「幽体離脱」。 [気になるエトセトラ]
哲学館Click!(現・東洋大学)の井上円了Click!が、「妖怪学講義」で次のような講話をしたのは、およそ1世紀以上も前のことだ。落合地域の西隣りにある井上哲学堂Click!でも、訪れる人々や学生たちに同じような話をしていたのかもしれない。それから100年余、世の中の人々は相変わらず「真怪」Click!に悩まされつづけている。
井上博士による「妖怪学講義」の一部を、1924年(大正13)に帝國教育研究会から出版された『精神科学/人間奇話全集』(文化普及会)の第4巻から引用してみよう。
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宇宙間に真正の真怪無きかと云ふに然らず。真怪は素より存するに相違ない。之を説明すれば、宇宙間の諸現象を分つて、客観主観即ち物心両界にするのが古来のきまりである。而して物界には物の規則があり心界には心の規則があつて、物の規則は物的科学によつて精密に立証せられ、心の規則は心的科学によつて詳細に論明せられ、又其の両界の関係は哲学によつて是亦明示せられてゐる。/是等の諸説に照せば、世間にて伝ふる千妖万怪の疑問は氷釈瓦解して青天白日となる。然るに更に一歩を進め、其物自体は何か、其心自体は何かといふに至つては、物的科学も心的科学も筆を投じ口を緘し、造化の妙、谷神の玄と冥想するのみである。是こそ真正の真怪にして、真の不思議といふものだ。
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井上博士は、物心両面の科学が「千妖万怪」にまっすぐ目を向け、それを解明しようとしないことこそ不思議で奇怪だと皮肉っぽく書いているが、現代科学もまた「千妖万怪」に対しては冷ややかな眼差しを向けるだけで基本的に無力の状態だ。
もっとも、人文科学分野の民俗学者ならともかく、物理学者が「幽霊が出現する法則性について研究したい」などといったり、動物学者が「妖怪の有無をフィールドワークで究明したい」などと表明したり、医学者が「オーラとエクトプラズムの関連性について実証したい」など申請したら、まず当局にはまともに取りあってもらえず、「キミには、休暇が必要なようだね」などといわれ、即座に研究費と研究室を丸ごと没収されるか、場合によっては大学や研究所にはいられなくなるだろう。
井上円了は、自身が創立した学校での講義なので自由にどのような話でもできたのだろうが、ほぼ同じ時期に学習院Click!の院長をしていた乃木希典Click!が、学生たちを前に訓話ならぬ怪談話Click!をしただけで、父母たちからひどく顰蹙をかった事件Click!を見ても、「千妖万怪」現象に対する当時の“科学万能”的な世相を想像することができる。
井上円了は「妖怪学講義」の中で、科学で解明できない「真怪」として、実際に遺族へ直接取材したとみられる短い怪談を紹介している。つづけて、引用してみよう。
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維新前彦根藩士寺澤友雄といふ者があつた。一夜同藩士某が寺澤の邸外を通行せしに、垣の上に半身を顕はし、前後を見廻してゐる人を認め、月の光りに照してみれば、其家の主人である。然るに寺澤は江戸詰にして不在の筈なれば不審に堪へず、翌朝其家に至つて尋ぬれば、夫人も同時刻良人の影の障子に映りしを見たとのことである。其後江戸より急報が来て、果して寺澤は同時刻に熱病で不帰の客となつたことが知れた。
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この事例は、物理的な肉体から「幽体」が離れて別の場所に出現するというケースだが、妻(肉親)と第三者(知人)がほぼ同時刻に目撃していることから幻覚とは思えず、井上円了はどう論理的に考えても説明のつかない「真怪」として紹介したものだろう。「虫の知らせ」というようなことは昔からいわれるが、複数のしかも肉親でもない人間を含めて姿が目撃されるというのは、なんらかの物的ないしは心的な事実なり作用なりがあったのではないかととらえているようだ。
現代の怪談用語でいえば、死者から魂が抜けだす「幽体離脱」ということになるのだろうが、100年前とほとんど変わらずに、この手の話は現代でも数多く語られつづけている。肉体から離れでる「幽体」は、別に死者でなくても起こりうる場合があり、たとえば眠っている間に肉体から「幽体」が抜けだして周囲を徘徊したり、友人・知人のもとを訪れたりする「生霊」怪談も少なくない。ふつうは「きっと、夢でも見てたんでしょ」ということになりそうだが、訪れたこともない友人の部屋に貼ってあるポスターや家具の配置、読んでいる本などを当てられてビックリ……という話が多いようだ。
医療の最前線で仕事をする医師にも、「幽体離脱」を頻繁に目撃しているという人物がいる。面白くてすっかりハマってしまった「月刊住職」Click!(2022年2月号)に連載されている、内科医で医学博士の志賀貢が記録する「多くの死者を看取って体験する幽体離脱という事実」では、医師や看護士の日常として「幽体離脱」が語られている。
現在、年間の国内死者数が約145万人で、うち65歳以上の高齢者の占める割合は約90%だという。著者が勤務する内科では、そのような高齢者の入院患者が多く、必然的にそのまま死去するケースも急増している。同誌より、少し長いが一部を引用してみよう。
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私が当直室で仮眠をとっていると、朝方の四時から五時の時間の間に、ドアをノックする音に目が覚めて、思わず「はい」と答えることがよくあるのです。/確かにノックする音は聞こえていたのですが、ドアを開けてみると、夜明けのひやりとした冷たい風が肌に感じるだけで人影はありません。もちろん、科学を学んできた科学者の末席を汚している者としては、幽霊の存在など信じたことはありません。/しかし、医者ともあろう者が、錯覚で目を覚まし答えてしまうとは、何と情けない話だと、ため息をつきながら、もう一度ベッドにもぐりこみます。/もっとも、このような現象に出くわしているのは私だけではありません。(中略) こうした数々の怪奇現象で一番病棟スタッフを驚かせるのは、幽体離脱という現象です。これも、ある看護師が実際に体験したことですが、夜勤で病棟の見回りをしている時に起こったことです。/――まさに、ベッドで寝ている患者の体から、いきなり人影が身体を離れて宙に浮かび上がりました。思わず息を飲み、ベッド際に立ち尽くしていると、その物体は壁の方に移動して次の瞬間、壁の中に吸い込まれてゆきました。驚いてナースステーションに戻った彼女の様子を見て、ベテランの看護師は、患者の臨終を予感したのでしょう。他の同僚を連れて、その患者のもとに駆けつけました。
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これは、「あたしの友人の隣りに住んでいる、仮にAさんとでもしときましょうか、Aさんの実家の前にある神社の神主さんの大叔母さんにあたる方の息子さん、仮にBさんとしときましょうか、その息子さんの友人で仮にCくんとしときましょうか、が体験したことなんですがね………こんなことって、あるもんなんですね~」と稲川淳二が語っている怪談ではない。現役の内科医がスタッフらの体験とともに証言している現象だ。この入院患者はほどなく死去したようだが、病気ではなく交通事故などで瀕死の状態のまま、救急搬送された重傷患者の場合にも起きることがあるという。
たいていの場合、「全ての現象が幻覚か錯覚ではないか」と済ませてしまうことになるが、著者はいちおう医学者なので、大脳生理学に「幽体離脱」の要因を求めている。大脳の前頭葉の外側、側頭葉の上端に「角回」と呼ばれる領域があり、この機関は脳の中で言語やものごとを認知する機能と、密接につながる重要な役割をもっているという。この部分へ電気的な刺激を与えると、「幽体離脱」が起きることがあるとしている。
しかし、脳の一部を刺激しただけで、なぜ当人と同様の姿かたちをした、あるいは影のようなもうひとりの人物(幽体)が出現するのかが、これではまったく説明されておらずわからない。肉体の一部である脳は物的な実態だが、「幽体離脱」で出現するモノは、ではいったいなんなのかが不明のままなのだ。井上円了なら、すぐに「物的物体」と「心的物体」などと分類しはじめそうな気がするが、思考をつかさどる脳を刺激しただけで、誰でも「目に見えるモノ」が出現すること自体、すでに物理学からは逸脱しているだろう。
それが、人間に備わった本来の「生理現象」のひとつであるならば、ぜひ医学の観点から脳の研究を深めていただきたいと思うのだが、おそらく現状だと誰からも研究費や研究施設、研究設備などは提供されないにちがいない。おそらく、著者もそのことをよく承知していて、学会誌ではなく「月刊住職」へエッセイとして寄稿しているのだろう。
余談だが、同誌には「僧形俗形世間法」というコーナーがあって、いろいろ社会的なニュースが掲載されている。2022年2月号には三重県松阪の坊主が、トンネル内の道路で自転車に乗った人をひき逃げし、警察に逮捕された記事が紹介されている。逃げた理由について、これから葬式があるから急いでいたということだが、ひかれたのは78歳の高齢者で、被害者の救護もせずに葬式がもうひとつ増えたらどうするつもりだったのだろう。人を救うはずの宗教者がひき逃げするとは、これこそ21世紀の「真怪」というべきだろうか。ちなみに、自転車に乗っていた方は「み仏のご加護」かどうかは知らないが幸いケガで済んだようだ。
◆写真上:井上円了の墓所である、西落合に隣接する江古田の蓮華寺。
◆写真中上:上は、1896年(明治29)に哲学館から出版された井上円了『妖怪学講義-理学部文・医学部門』(左)と著者の井上円了(右)。中は、蓮華寺にある井上円了の墓。下は、昭和初期に撮影された幽霊姐さんClick!のいる井上哲学堂の哲理門。
◆写真中下:上は、同じく昭和初期に撮影された井上哲学堂の四聖堂。中は、田畑が拡がる上高田側から妙正寺川をはさんで眺めた昭和初期の撮影とみられる和田山Click!の井上哲学堂。下は、哲学堂のシンボル的な六賢台から眺めた四聖堂。
◆写真下:上・中は、六賢台の内部。下左は、1924年(大正13)出版の文化普及会・編『精神科学/人間奇話全集』(帝國教育研究会)。下右は、2022年に刊行された「月刊住職」(興山舎)掲載の志賀貢「多くの死者を看取って体験する幽体離脱という事実」。
★おまけ
今年、下落合にやってきたウグイスはせっかちなのか、早朝からのべつまくなしに鳴きつづけている。何度かに1回はきれいな鳴き方をするけれど、たいていヘタで耳ざわりだ。
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好きなものが好きでないとルノワールはいった。 [気になるエトセトラ]
高校生も終わりに近づくころ、家では絵ばかり描いて本を読み漁っていたわたしは、まがりなりにも大学の受験勉強をしなければならなくなった。時間を好きなように使えなくなる受験勉強は、苦痛以外のなにものでもなかったが、学校へ通うのはそれほどキライでもなく、授業は退屈だったが友だちに会えるのは楽しかった。
当時、わたしのクラスは女子が32人に男子が16人と、文系進学クラスでもとりわけ女子が圧倒的に多い構成だったので、たいがい以前の学年で同じクラスだった友だち(もちろん男子)もいっしょに誘っては、下校のときなど寄り道をして遊んでいた。女子が多く集まると、あまり男子の目が気にならなくなるのか、まるで女子高のような「やりたい放題」状態で、他のクラスの生徒からは「いいな~!」などとうらやましがられたが、そのたびに現場の実態をあまりにも知らなさすぎると感じていた。
男女がフィフティフィフティで、双方が拮抗している状態だからこそ緊張感も持続し、うまくバランスがとれるわけで、女子が男子の2倍もいるクラスだとあらゆる面でアンバランスの“弊害”が生じてくる。夏など、男子などそこにいないかのように平然と着替えたり(うっかり目を向けたりすると、女子更衣室をのぞいた痴漢のようにののしられる)、わたしではないが好きな女子のいるグループから、その弱みにつけこまれ黒板写し係や宿題係を命じられる、まるでパシリのような情けない男子もいた。
10代後半の男子が抱く、異性に対する“夢”や“妄想”や“期待”を打(ぶ)ち壊すには、大勢の女子の中に少数の男子を放りこんでおけば、数ヶ月もたたないうちにウンザリした気分になってくるだろう。そのうち面倒なので、女子がニコッとしながら、あるいはなぜか鋭い目つきをしながらなにをいおうが、「はい、わかった~」「はいはい、いいよ~」としかいわなくなるにちがいない。このあたり、3人姉妹の中でたったひとり育った男子を想像してみれば、あながちピント外れでもないだろう。
さて、大学受験が近づくにつれ、クラスには少しずつ緊張感が生まれてきたのだが、わたしは相変わらず絵を描いて好きな本を読んでばかりいた。教師たちも、「この部分の問題がよく入試には出題されるので、マークしておくように」などと、受験がらみの授業が多くなっていたせいかムダ話をまったくしなくなり、よけいに面白くなくなっていた。当時は共通一次試験も共通テストも存在せず、大学入試はその場かぎりの一発勝負で、そのチャンスを逃すと(落ちると)希望する大学へは進学できなかった。どうしてもその学校に入りたければ、浪人するのがあたりまえの時代だった。
受験勉強などしたくないわたしは、できるだけ勉強机の前に座りたくなく、また参考書の問題をあくせく解くこともせず、居間で家族といっしょにTVを視ながら、いつまでもグズグズしていたのを憶えている。特に日曜日ともなると、また明日から受験色が日に日に濃くなる学校へいかなければならず、現実逃避をはかるために日曜洋画劇場で映画を11時まで観ていた。でも、解説の淀川長治Click!が「まあ、次回もまたヒッチコックのこわいこわい、こわいこわい作品ですね。さ、もう時間がきました。それでは、次週をご期待ください。さよなら、さよなら、さよなら」といって、「声の出演」とともにエンディングテーマが流れてもまだ、わたしはソファでねばって画面を視ていた。
エンディングテーマが流れ、「この番組は松下電器、サントリー、小林製薬の提供でお送りいたしました」と、女性アナの声が流れるとともに、たいがい「もう、いったいいつになったら勉強するのよ!?」という、業を煮やした母親Click!の声がかぶさる。「もう少し、♪ロンロンリロンシュビラレン~エロ~エロ~レ~を聴いてから」と、わたしはとっさに答えるのだが、はたして日曜洋画劇場のエンディングテーマのあとに、サントリーオールドのCM「顔」Click!が流れるとは限らなかった。
向田邦子Click!の「寺内貫太郎」の、いや小林亜星のこの曲が運よく流れたりすると、あと60秒間だけ居間でグズグズできるのだ。ちなみに、「♪ロンロンリロンシュビラレン~エロ~エロレ~」は、ブラウン管TVのモノラルサウンドが不鮮明だったせいの空耳で、実際は「♪ドンドンディボンシュビダドン~バ ラリ~ホラ~レ~」(唄:Silas Mosley)が正しい。
このCMは母親も好きだったようで、大人しくいっしょに視ている60秒の猶予だった。いまでこそ気づくが、親父は「勉強しろ」とは一度もいわなかったように思う。そのあたり、ふたりで話しあって役割分担ができていたのだろう。「♪ドンドンディボンシュビダドン~バ」のCMが終ると、「さて、そろそろ勉強するかな」という気分になり、2階の自室に引きあげるのだが、もちろんすんなり受験の参考書を開くわけもなく、中学時代にめずらしく小遣いを貯めずに買ってもらえたGXワールドボーイ(RF-858)Click!の赤いパワースイッチをオンにすると、FMかFENにダイヤルを合わせて洋楽ばかり聴いていた。
小学校高学年から中学生にかけては、深夜放送Click!をよく聴いたけれど、このころはダイヤルを合わせれば「♪あなたは~もう忘れたかしら~」Click!とか、「♪あ~だから今夜だけは~君を抱いていたい~」とか、みじめでジメついたフォークソングClick!ばかりが流れたので少なからずウンザリしていた。クラシックは、もの心つくころから母親にさんざん聴かされていたので、選択肢は洋楽(ロック・ポップス・JAZZなど)しかなかった。
ラジオから流れるバッドカンパニーやシカゴ、ピンクフロイド、P.マッカートニーとウィングスなどを聴きながら、東京の地図を広げて「ドラマの舞台になってる、新宿の下落合はどんな街なんだろ?」と、飽きもせずに電車や道筋などを眺めていた。ドラマClick!のロケは学校のチャイムが聞こえるから、この大きな公園のある小学校Click!の近くなのかもしれないな、ふーん、佐伯祐三Click!が住んでたんだ……などと地図上に印をつけ、来週の日曜日にでもいってみようかなどと、受験勉強そっちのけで電車の乗り継ぎや歩く道筋、施設などの見学コースを地図へ書きこんだりしていた。
そうこうしているうち、アッという間に1時間ほどがすぎて歯を磨きに1階へ降りると、母親が編み物をしながらひとりでカクテルを飲んでいる。親父はアルコールを1滴も飲めなかったが、母親は少なからず好きだったのだ。当時、サントリーでは20種類ほどのカクテル頒布会を開催しており、母親はそれに入会して毎月とどく壜詰めのカクテルを楽しんでいた。すでにシェイクされた壜カクテルだけでなく、それに見あうグラスやコースター、シェーカー、ジガ―カップ、バースプーンなどが毎月セットになっていて、頒布会が終わるころには食器棚の一隅がカクテルバーのような風情になっていた。
わたしが様子を見に居間へ入ると、ほんの1時間ほど前まで「いつになったら勉強するのよ!?」などといっていた母親が、「ちょっとだけ味見する?」と少しだけお裾分けしてくれた。親父が下戸で、家では自分だけしか飲まないのが少しうしろめたかったのか、“共犯者”をつくりたかったのだろう。マンハッタンとかドライマティーニ、バイオレットフィズ、バレンシア、カカオフィズ、カシスオレンジとか、当時は苦かったり甘すぎたりして子どもの口にはまずかったが、いまとなっては母親と酒を飲みながらすごした懐かしい時間だ。
当時は、大学受験という目に見えない環境圧力を、家でも学校でもひしひしと感じていたけれど、こういう自分だけのひとときに母親は「受験勉強は進んでるの?」などと、野暮なことはいわなかった。「バイオレットフィズのスミレのリキュールって、どうやって作るのかしらね?」などと、頒布会の解説パンフをテーブルに置きながら、手もとの編み物の針をせわしなく動かしていた。
野見山暁治は、1978年(昭和53)に河出書房新社から出版された『四百字のデッサン』の中で、ルノワール(文中ではルナアル)の言葉を引用して次のように書いている。
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ルナアルの日記の一節にこういうのがあった。――嫌いなものが嫌いなほど、好きなものが好きでない――。人間どんなに忙しい時でも、嫌いなものにぶち当れば、その場ではっきりと嫌悪感がある。キライな食物、気味悪い生物、退屈な会話。例えばだ。キライな食物を口に入れたときは、即座に吐き出すか、食道を逆流して戻ってくるかだ。もしもだ。それほどの強い力をもって、好きなものが口から喉へ、そして食道へと伝わってくれたらどんなに幸福だろう。快感とか幸福感とかいうものはその時点においては実感として押し寄せてはこない。振り返った時にそういう感触で受止めるのだ。あとの祭りか。
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確かに、幸福感はその場では実感として味わいにくいが、あとで回顧してみると改めて「あのときは……」と気づくことが多い。受験勉強はキライだったし、母親が喜んで飲んでいるカクテルはまずくて辟易したが、少年時代の最後に味わう深夜のこういう時間は好きだった。きっと、いまから思えば幸福な時代だったのだろう。スマホのバイブや、PCのメール着信音、横文字だらけのICT用語などに煩わされることもなく、受験で尻に火が点いていたにもかかわらず、ゆったりとした空気が漂う静かな時間だった。
さて、そろそろ勉強でもしようかと自室にもどるが、アルコールのまわった頭ではロクな勉強などできるわけがない。こんな不マジメな受験生が、必死で受験に備えている連中といっしょになって入試を受けても、たちまち落ちて浪人するのは目に見えていた。
それでも、明日はなにか学校で面白いことがあるかな、今度の日曜は下落合でも散歩してみようか、それにしても、なぜあんなまずいカクテルを大人は喜んで飲むのかな……などと、とりとめのないことを考えながらラジオのスイッチを切って寝床に就く。こんな毎日が、実は幸福な日々だったとは当時は露ほども思わず、カクテルでボーッとなった頭に毛布をかぶりウツラウツラしはじめながら、「それでは、次週をご期待ください。さよなら、さよなら、さよなら」とかなんとかつぶやいているうち、徐々に意識が遠のいていった。
◆写真上:下落合の日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮)にあるバー。
◆写真中上:上は、日曜洋画劇場(NET/10ch)で解説していた淀川長治。下は、1970年代半ばに流れていたサントリーオールドのCM「顔」。
◆写真中下:上は、いちばん多くデッサンに用いたアグリッパの石膏モチーフ。下は、めずらしく小遣いをためずに親が買ってくれた松下電器のGXワールドボーイ。
◆写真下:上は、いまでも家に残る母親のカクテル頒布会でオマケについてきたストレートグラスとオンザロックグラス。なぜ残っているのかはよくわからないが、きっとカクテルグラスに比べ割れにくかったのだろう。下は、ドライマティーニのあるカウンター風景。
東京に残るマーケットと東京牧場の面影。 [気になるエトセトラ]
東京の住宅街を歩いていると、昔のマーケットに出あうことがある。マーケットとは、ひとつの大きめな建物に複数のテナントが入り、そこで買い物をすればたいていの食品や日用品がそろってしまうことから、当時はとても便利な施設だったろう。
落合地域やその周辺域にも、大正期から現在の中井駅前にあたる位置に設置されていた下落合市場Click!をはじめ、昭和初期には旧・月見岡八幡社Click!の向かいにあった上落合市場Click!、下落合から目白通りを越えた長崎バス通り沿いにあった、ヨーロッパの古城のような意匠の長崎市場Click!、そして目白駅前には川村学園Click!の女子学生たちが運営する喫茶店Click!などが入り、小熊秀雄Click!が描いた同じく古城のようなデザインの目白市場Click!などが目にとまる。これらの公営市場の多くが、大正期の米騒動をきっかけに東京各地へ設置された経緯についてはすでに書いた。
これらの施設は、マーケットとは呼ばれずに訳語の「市場」と名づけられていたが、東京市や東京府などが運営する公営のものが多く、時代をへるにしたがい私営のマーケットも増えていった。マーケット(市場)が、いくつかの商店が応募する個人店舗の集合体で運営されていたのに対し、戦後になると鉄道会社や百貨店など大手企業が設立し、食品から日用雑貨、衣料品まで生活に必要なありとあらゆる商品をそろえる、大型のマーケットが出現する。マーケット(市場)を超える大規模な流通施設ということで、超市場(スーパーマーケット)と呼ばれるようになった。
わたしが子どものころ、近所にはスーパーマーケットとマーケットの双方があったが、母親はスーパーマーケットのほうをよく利用していた。おそらく、個人商店の集合体であるマーケット(市場)よりも、大量仕入れのスーパーのほうが安かったからだろう。わたしの学生時代には、目白通りや椎名町駅の近くには大型スーパーが、長崎バス通りの入口や少し入ったところには昔ながらのマーケットがあったが、利用率は半々ぐらいだったろうか。
肉や調味料、加工食品などはスーパーで、魚や野菜、できたての惣菜類はマーケットで買っていた憶えがある。おしなべて、マーケットは新鮮な素材食品に強く、スーパーはあらゆる食品をそろえた種類の豊富さで集客していたようだ。また、スーパーは夕方ともなれば近所の人々で混雑していたが、マーケットはそれほどでもなかったので、当時からマーケットは大型スーパーに押され気味だったのだろう。空いているマーケットでは魚介類を買い、その日のうちに調理して食べていた記憶がある。
買ってきた肉や野菜は、いっぺんに茹でたり炒めたり、味つけをしたりして冷凍庫に入れて凍らせストックしておくと、あとあと料理の手間が省けて便利だった。また、冷蔵庫の中でいつの間にか腐ったり、野菜が溶けだしたりする心配もなく、日もちもよかった。貧乏学生は、できるだけ外食を控えるのが生活の鉄則だったのだ。
凍らせた肉や野菜は、小出しにして溶かしては調理したり、味のついている肉などはそのままフライパンで野菜と炒めたり、改めて鍋で煮なおしたりして食べることになる。電子レンジはすでに当時からあったが、とても高価で学生には買えなかった。アルバイトで稼いだおカネは、電子レンジなどに消費するよりも、レコードや本、少し貯めてオーディオ装置Click!などにつかいたかった。料理が面倒なとき、よくマーケット(市場)へ寄っては刺身や出来あいの惣菜を買ってきて、飯だけ焚いては食べたものだ。
先日、箱根土地Click!が目白文化村Click!を開発した直後、下落合の姻戚つながりで1925年(大正14)から開発に着手した東大泉村一帯=練馬区の大泉学園Click!を散策していたら、昔のマーケット(市場)のような施設を見つけた。すでに、いくつかの店舗はシャッターを閉めて廃業しているようだが、歩道に面したクリーニング店のみは営業をつづけているようだ。すでに看板の文字も朽ちかけているが、かろうじて「西武名店ストア」と読めるので、大泉学園の住民をターゲットに西武鉄道が戦後に設置したマーケットだろう。
大泉学園は、大規模な開発計画にもかかわらず、販売から20年ほどたった1941年(昭和16)6月の段階でも、いまだ駅の北側に小規模な住宅街が形成されているにすぎなかった。空中写真を年代順に見ていくと、戦後すぐの1947年(昭和22)の写真では住宅街が北へ伸びはじめ、1960年代になると当初の開発予定地はほぼ住宅で埋めつくされている。そして、1963年(昭和38)の写真では「西武名店ストア」の敷地は空き地だが、1965年(昭和40)の写真には同マーケットがとらえられている。つまり、「西武名店ストア」は1963年(昭和38)から1965年(昭和40)までの2年間のどこかで開業したものだろう。
大泉学園の住宅街は、駅から北側へ細長く伸びているため(当初の計画では北側全体を開発する予定だったが、西側半分の住宅地を開発し終えたところでストップしている)、駅から遠い住民たちの便宜を考え、北寄りの敷地に住宅敷地がほぼすべて埋まったた段階で、いくつかのテナントが入った「西武名店ストア」を開設しているのだろう。グリーンのオーナメントには、「鮮魚/精肉/青果/豆腐」と書かれているので、クリーニング店も含め少なくとも5店舗以上が入居していたと思われる。
わたしが学生時代、学校の帰り道で利用していたマーケットも、鮮魚・精肉・青果が中心だったので同じような店舗構成だったのがわかる。鮮魚店では注文に応じて魚をおろし、すぐに食べられるよう刺身にして売っていただろうし、精肉店では惣菜となるトンカツやコロッケ、メンチカツなどを揚げていただろう。北側の住宅から、大泉学園の駅前に形成された商店街へ出かけるには、片道でも600~700mは歩かなければならず、「西武名店ストア」の存在は周辺住民にしてみれば便利だったにちがいない。
さて、「西武名店ストア」から西へ白子川に架かる東西橋をわたると、わずか100mほどで牛乳を生産する小泉牧場に着く。1935年(昭和10)創業の、乳牛ホルスタインClick!を40頭ほど飼育する、いまや東京23区内で唯一残る「東京牧場」Click!だ。近年、ここで搾られた牛乳をもとに、さまざまな風味のアイスミルク(アイスクリーム)×6種類が作られて好評だったが、新型コロナウィルス禍の影響で製造を中止してしまったのが残念だ。2022年4月の時点でうかがったところ、製造再開のめどは立っていないという。
大手乳業メーカーと提携しているので、ほとんどの搾乳はそちらへまわしてしまうのだろうが、戦前は落合地域と同様に、大泉学園の住宅街にも殺菌消毒Click!した搾りたてのミルクを販売する牛乳店(ミルクスタンド)があったのではないだろうか。明治以降、膨大な軒数の「東京牧場」Click!が市街地近郊で操業していたし、練馬区だけでも戦前は20軒を超える牧場が存在したが、いまでは小泉牧場のみとなっている。
住宅街が押しよせてくると、「東京牧場」Click!は郊外へ郊外へと市街地から離れていった。関東大震災Click!のあとはもちろん、特に1932年(昭和7)に東京35区制が施行されて以降、郊外における宅地開発には拍車がかかり、牧場は周辺住民にとっては邪魔な存在となっていく。その様子を、1990年(平成2)に発行された『ミルク色の残像』(豊島区教育委員会)収録の、「消えゆく東京牧場」から引用してみよう。
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この背景には、東京市域そのものの住宅地化の進展が大きく作用している。東京の牧場ならではの光景である住宅地の中の牧場は、「臭い」「汚い」などと周辺の住民の不評を買うようになり、さらに郊外への移転を余儀なくされる。先に紹介した巣鴨の吉川牧場がその典型であり、西巣鴨→板橋→埼玉県戸田市と移転を繰り返し、牧場経営を続けた。また、一方では、後継者を得られずにそのまま経営にピリオドを打つ牧場も多かった。牧場はその形からも、非常によい住宅地の供給源になったとの話しも残されている。
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文中の「住宅地の供給源」となった牧場としては、牧草地がそのまま郊外住宅の「籾山分譲地」になった、籾山牧場Click!がもっとも知られていただろうか。
小泉牧場が、練馬区の住宅街に残ったのは、地域に密着した経営方針をとったからだ。先のアイスミルクの製造販売もそうだが、牧場を見たいという訪問者を拒まず、できるだけ牛舎を衛生的に整備して見学客を受け入れている。わたしが訪れたときも、アイスミルクが製造中止だったのは非常に残念だったが、「ご自由に見てください」と小泉さんにいわれた。
もうひとつ、周辺の小学校と連携して牛乳の生産現場を子どもたちに見せる、社会見学のコースに含めたことで、より親しみを感じる牧場として地域に根づいたのだろう。スーパーの牛乳パックしか知らない子どもたちには、とても印象的な搾乳体験だったにちがいない。
◆写真上:箱根土地が開発した大泉学園に残る、マーケット形式の「西武名店ストア」。
◆写真中上:上は、昭和初期(1935年前後)に撮影された古城のような意匠の目白市場(背後)。中は、1930年代に描かれた小熊秀雄『目白駅附近』(部分)。下は、昭和初期に撮影されたやはり古城のようなデザインの長崎市場(背後)。
◆写真中下:上は、1930年代に描かれた小熊秀雄『青果市場(上落合)』Click!。いわゆるマーケットではなく、上落合にあった青果専門の簡易市場だったようだ。中は、長崎バス通りに残る山政マーケットClick!。下は、1975年(昭和50)撮影の大泉学園。
◆写真下:上は、創業から6年目の1941年(昭和16)6月25日に撮影された空中写真にみる小泉牧場。下は、小泉牧場の外観と飼育されている乳牛ホルスタイン。
★おまけ
少し前に、家の玄関先へやってきた2m超のアオダイショウClick!をご紹介したが、上落合でも健在のようだ。上落合で育つ、アオダイショウの赤ちゃんの写真を送っていただいた。
下落合を描いた画家たち・有岡一郎。(2) [気になる下落合]
近衛町Click!の夏目利政Click!がプロデュースしたとみられる薬王院墓地Click!の西側、アトリエ建築が建ち並ぶ下落合のアトリエ村Click!とでもいうべき区画に住んでいた人物に、帝展の洋画家・有岡一郎Click!がいる。以前、1926年(大正15)に西坂Click!の徳川義恕邸Click!(旧邸)を描いたと思われる『初秋郊外』Click!をご紹介していた。
彼のアトリエがある同じ下落合800番地の住所には、中村彝Click!とのつながりで鈴木良三Click!と鈴木金平Click!が(関東大震災Click!直後の鈴木良三アトリエでは中村彝Click!も避難生活をしていた)、下落合803番地には柏原敬弘Click!が、下落合804番地には鶴田吾郎Click!と服部不二彦Click!がアトリエをかまえていた。また、同区画から100mと離れていないすぐ北側に位置する村山知義・籌子夫妻Click!が仮住まいしていた下落合735番地のアトリエClick!や、片多徳郎Click!が借りていた下落合596番地のアトリエClick!も、大正期の画家仲間つながりで夏目利政による仕事なのかもしれない。
洋画家・大澤海蔵Click!の証言によれば、下落合では親しかった同じ帝展仲間の松下春雄Click!とともに、西坂の徳川旧邸を描いたとみられる『初秋郊外』と同年、1926年(大正15)に有岡一郎は『或る外人の家』と題するタブローを、第1回聖徳太子奉賛会美術展に出品している。(冒頭写真) おそらく、下落合を散策して見つけた風景を写生している作品だとみられるが、大正末の当時、下落合でこれだけの敷地と広壮な西洋館をかまえていた外国人の屋敷は、たった1邸しか思い浮かばない。
六天坂Click!あるいは見晴坂Click!の両坂を上りきった丘上に、広大な屋敷地を占有していたドイツ人のギル(Gill)邸だ。西坂の徳川邸から、西へ400mほどのところに位置するオシャレな西洋館で、当時はギル夫人と呼ばれた日本びいきの女性が住んでいた。金髪をあえて黒髪に染め、着物姿で出歩いていたギル夫人について、竹田助雄Click!が書いた1966年(昭和41)9月10日発刊の「落合新聞」第40号の記事から引用してみよう。
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大原には大正末期から箱根土地が目白の文化村を造成、戦後の各所につくられる文化村とちがって高度の文化住宅がつくられ、東京の名所として一躍有名になった。この文化村の独逸人のギル夫人などは髪を黒く染め、和服にて、歩き方まで内股で大へんな親日家。わざわざ黒髪を赤くそめ、膝小僧のみえる短いスカートで闊歩する現代娘、四十年の流れはこんなに変るものかとつくづく感じ入る。
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竹田助雄は、ギル邸を「文化村」と表現しているが、目白文化村Click!の第二文化村から東南東へ400mほど離れたところにギル邸は位置している。
ギル邸は、1921年(大正10)ごろ下落合1751~1754番地に建てられたとみられ、当初は別荘として使われていたのかもしれない。少しあと、1923年(大正12)にはすぐ敷地の南側に接して、独特なスパニッシュ建築の中谷邸Click!が建設されている。中谷邸では、ギル夫人から譲ってもらった黄色いモッコウバラClick!をたいせつに栽培しており、5月のいまごろには花を咲かせているはずだ。
『或る外人の家』の画面を観察すると、ファサードを門や車寄せのある六天坂筋の西側に向け、南側に拡がる広大な庭園に面して建っていたギル邸を想定することができる。外壁は、下見板張りかモルタルなのかはハッキリしないが、南側にある大きな暖炉の煙突は、そのままのちの津軽邸へ引き継がれているとみられる。庭園の葉を落とした樹木や変色した草木、空の様子などから秋も深まった時期だろうか、ギル夫人が好きだった多種多様なバラは、季節外れのせいか画面には描かれていない。南側(右手)から強い陽光が射しこみ、澄んでやや冷ややかな空気を感じさせる清々しい画面だ。
手前右手には、六天坂側の低い塀沿いに庭園へ抜ける庭門が描かれ、植木職人によく手入れされていたとみられる、丸く刈りこまれた低木が見えている。有岡一郎は、六天坂を上がりきったあたりから東北東を向いてギル邸を描いており、画角の右手枠外には美しいスパニッシュ風のファサードを画家のほうに向けた中谷邸Click!が、六天坂に面して建っていると思われる。第1回聖徳太子奉賛会美術展は、1926年(大正15)5月の開催なので、『或る外人の家』は前年の1925年(大正14)の秋に描かれている公算が高い。
また、有岡一郎は松下春雄と連れだって『初秋郊外』を描いた可能性が高く(松下春雄は西坂の徳川旧邸を『赤い屋根の家』と題し水彩で制作している)、ひょっとすると松下春雄の作品にもギル邸を描いた画面が「赤い屋根」シリーズClick!の中に混じっているのかもしれない。ただし、松下の同シリーズはいまのところ図録や画集のモノクロ写真でしか見ることができず、ハッキリと邸の姿を確認できないのが残念だ。
さて、1935年(昭和10)ごろになると、ギル夫人は転居あるいは帰国したものか、ギル邸の敷地は屋敷ごと華族の津軽義孝が買収している。そして、築15年ほどの西洋館をリノベーションし、そのまま活用して住んでいたようだ。地元では、昭和初期にギル夫人の屋敷がいつの間にか津軽邸に変わっていたという証言が残っているので、外観はギル邸の面影を残しつつ内装を大きく変えていったのではないだろうか。もし、ギル邸を解体して新たに大きめな屋敷を建設していれば、地元に新邸建築の情景記憶がしっかりと残るはずだからだ。
ギル邸が、いつの間にか津軽邸に変わっていた様子を、1992年(平成4)に出版された名取義一『東京・目白文化村』(私家版)収録の証言から引用してみよう。
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“落合一小”の西側に谷があり、右側近くに「箱根土地」の建物が見えた。で、この校舎の西側奥に一入目立つ洋館があった。/星野邸や神田家辺からは、東方へ二、三分歩くと、当時、雑草だらけの空地が多く、子供の足では歩き悪く、その杜の中にこの洋館があった。/大人たちは「あれは外国人が、ギールさんが住んでいる」と言っていた。/それが知らぬ間に「津軽義孝伯爵が住んでる」ということになった。陸奥・津軽藩主は、代々のうちよく養子を迎えたが、この義孝氏も大垣・徳川家から入ったのである。氏は徳川義寛・侍従長の実弟、同義忠・元陸軍大尉、また北白川女官長の実兄に当る。
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この証言は、名取義一が落合第一尋常小学校Click!の生徒だった時代のことで、おそらく「ギールさん」の記憶は1927年(昭和2)から1929年(昭和4)にかけてのころ、小学校の高学年になってからのものだろう。ギル邸が津軽邸に入れ替わった時期はピンポイントで規定できないが、1933年(昭和8)出版の『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、いまだ津軽義孝の名前が見えないので、1935年(昭和10)前後の出来事ではないかと思われる。
大垣・徳川家とは姻戚関係にある津軽家だったので、西坂の徳川邸からほど近い場所に転居してきていると思われる。このとき、ギル邸の下落合1751~1754番地だった敷地だが、東京35区制Click!の施行により津軽邸は下落合3丁目1755番地の住所へと変わっていた。そして、1936年(昭和11)の空中写真を見ると、母家の東側にもうひとつ母家よりも小さめな建物が、新たに建設されているのがとらえられている。また、南の広大な庭園には、見晴坂に沿って独立した建造物が建てられている。
また、1938年(昭和13)に作成された「火保図」、および空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に米軍の偵察機F13によって撮影された空中写真を参照すると、東側の小さめな建物とは母家つづきに改築されており、さらに北側にも母家つづきの建物が大幅に増築されている様子が見てとれる。また、見晴坂沿いには南北に細長い建物(大温室Click!だろうか?)が確認できる。津軽邸は、1945年(昭和20)の山手大空襲Click!で焼失してしまうが、最後に確認できる邸の姿は、ギル邸の時代よりもはるかに巨大な大屋敷に変貌していたのがうかがえる。
昭和初期、六天坂を上ると右手の丘上には、中谷邸の鮮やかなオレンジの屋根が見えはじめ、丘を上りきると今度はその背後に、ギル邸のオシャレな西洋館と数々のバラが咲きほこる広大な庭園が姿を見せる……。一度、その時代へタイムスリップして見たいものだ。中谷邸は空襲からも焼け残ったにもかかわらず、津軽邸の全焼したのが残念でならない。
◆写真上:1926年(大正15)5月に開催の第1回聖徳太子奉賛会美術展に出品された、六天坂上のギル邸を描いたとみられる有岡一郎『或る外人の家』。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる大きなギル邸。中は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみるギル邸。下は、1930年代後半に撮影された斜めフカンの写真にみる津軽邸(旧・ギル邸)と描画ポイント。
◆写真中下:上は、『或る外人の家』の部分拡大。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる津軽邸。下は、津軽邸(旧・ギル邸)の南庭から母家跡を眺めたところ。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる津軽邸で、かなり増築が進んでいるのがわかる。中は、空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された津軽邸。周囲には、アマリリスジャムClick!で有名な見晴坂の相馬正胤邸や、演出家の浅利慶太邸Click!が見える。下は、スパニッシュ風の意匠が美しい津軽邸(旧・ギル邸)の南側に残る中谷邸。
★おまけ
有岡一郎が松下春雄とともに、盛んに下落合を散策して風景画を描いていた1925~1926年(大正14~15)ごろ、それを追いかけるように「下落合風景」シリーズを描きはじめた画家に佐伯祐三Click!がいる。下は、1926年(大正15)9月22日に制作された『下落合風景/墓のある風景』だが、薬王院墓地の大正期に造られたままの塀の道路をはさみ反対側(右手)が、まるで「アトリエ村」のような下落合800番台の区画だ。有岡一郎が、下落合に建つ大きめな西洋館や大屋敷を好んで描いているのに対し、佐伯祐三はまったく正反対の工事中・造成中・開発中だった「キタナイ」地域のモチーフが多い。
★ご参考
聖母坂沿いで空襲から焼け残った家々。 [気になる下落合]
戦後、爆撃効果の測定Click!用に米軍の偵察機F13Click!が住吉町あたり(現・東中野)の上空から撮影した空中写真を見ると、画面の右すみに下落合の聖母坂Click!沿いで焼け残った住宅街がとらえられている。空中写真のレンズ特性から、画面の端にあたる地上の風景にはひずみが生じるので、斜めフカンからとらえられたのと同じ見え方となって、当時の住宅群を立体で観察することができる。きょうは、かろうじて戦災をまぬがれた下落合の、聖母坂沿いの建物群を詳しく観察してみたい。
まず、最初に目につくのは、コンクリートの厚さが60cmと陸軍の要塞か、戦艦のバルジなみ(舷側の喫水線一帯に設置された対魚雷用の防御で、大和型戦艦Click!には厚さ60cm前後のコンクリートが充填されていた)の「装甲」Click!が施されていた国際聖母病院Click!だ。空襲の際に、同病院は焼夷弾の雨にみまわれたが、医師や職員たちによる必死の消火活動Click!が功を奏して、施設の一部を焼失するだけで済んでいる。また、敗戦の直前には特に同病院を意図的にねらった戦爆機が、250キロ爆弾をフィンデル本館の屋上めがけて投下しているが、先述の分厚いコンクリート構造のため、屋上のすみにコンクリートの凹みClick!をつくるだけではね返し、院内はほとんど無事だった。
国際聖母病院の周囲、特に東・西・北側は焼け野原だったが、南側は諏訪谷Click!と不動谷(西ノ谷)Click!で斜面の陰になっており、また樹林が豊富に残っていたため延焼をまぬがれている。聖母病院の北側が、一面の焼け野原だったにもかかわらず、佐伯祐三Click!のアトリエClick!がかろうじて焼け残ったのは、濃い屋敷林に囲まれていたからだろう。
さて、焼け残った住宅街でまず目につくのは、静観園Click!やバラ園Click!などの庭園が畑になっているとみられる西坂の徳川義恕邸Click!だ。写っている大きな西洋館は、昭和初期に位置を南へずらして建設された新邸で、旧邸Click!や旧・静観園のあった敷地にはすでに家々が建ち並んでいる。その北側には、「八島さんの前通り」Click!沿いに南原繁邸Click!や笠原吉太郎アトリエClick!、小川邸などが焼けずに残っているのが確認できる。
さらに、その上(北側)の第三文化村Click!に建つ屋敷群も無事で、斜めフカンからだと建物の形状までがわかり、その多くが西洋館だったことがわかる。目白通りに近い、第三文化村の家々や目白会館・文化アパートClick!は、隣接する落合第一および第二府営住宅Click!とともに空襲でほぼ全滅状態だったが、谷間につづく第三文化村の南部、および南へと傾斜して下っている緑の多い斜面は、ほとんど延焼をまぬがれている。
めずらしいところでは、不動谷(西ノ谷)にあった湧水の小流れ沿いに、1935年(昭和10)ごろから開業していたとみられる釣り堀Click!を確認することができる。また、徳川邸のバッケ(崖地)Click!下には、いまだ庭園池が残っていたのがとらえられている。その徳川邸の南側へ目を向けると、川村景敏邸Click!や安井邸Click!、日米開戦の直前に開業したホテル山楽Click!などは無事だが、佐々木久二邸Click!とその周辺は空襲で焼失している。
聖母坂の東側に目を移すと、関東バスClick!の聖母坂営業所(車庫)の北側に、下落合2丁目721~722番地の「火保図」(1938年)によれば「グリン・スタディオ・アパート」Click!が斜めフカンでとらえられている。ところが、またしても「火保図」は、このアパートの名前採取をまちがえていることが判明した。火災保険料の料率計算に直結する地図なので、建物の構造や意匠には注意をはらって採取しているようだが、住民名や施設名などにはいい加減なケースがまま見られる。
「グリン・スタディオ・アパート」(火保図)の名称は、「グリーンコート・スタヂオ・アパートメント」というのが正式名称だ。同アパートのネームプレートには、英文で「GREEN COURT STUDIO APARTMENTS」と書かれていたため、火保図の採取者は判読できる英文字だけをひろって記録したのではないか。戦前戦後を通じたフカン写真や、「火保図」などからではわからなかったが、同アパートの聖母坂の上部は地上2階建てで、聖母坂の下部が地上3階建てだったように見える。特に3階部分は、ペントハウス風の部屋が南西に向けて斜めに並んでおり、建築当時としてはオシャレでモダンなアパートだった様子がうかがえる。
今回は聖母坂に建っていた、当時としては最先端の設備を備えた同アパートに焦点を当ててみよう。1938年(昭和13)に発行された「アパート案内」(アパート案内社)の爽涼青空号から、グリーンコート・スタヂオ・アパートについて引用してみよう。
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本館は現代人の簡易生活の基本を尊敬し、同時に諸設備の完全を計つた本邦最初のスタヂオアパートメントで近代建築の粋を一堂に集中した観がある。/大東京の中心より約三十分の閑静なる高級住宅地の下落合高台に有り、世界的に有名なる徳川侯邸の牡丹園をながめ本邦随一の評ある聖母病院に相対して居る。附近一帯は四季を通じて緑の色深くグリンコートの名に相応しい。/本館前を通ずる、関東バスの便は新宿へ七分、省線高田馬場駅へ徒歩八分、目白駅へ十二分、西武電車下落合駅へ二分の交通網、丸ビル街へは小滝橋より早稲田を経て市営バスにて二十三分、尚又諸官庁、新橋方面へは日比谷バスの直行の便等あり。通学に目白学習院、日本女子大学、川村女学校、自由学園、早稲田大学等至便の地。
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不動産業者のコピーなのでオーバートーク気味だが、「近代建築の粋を一堂に集中」したのと、「四季を通じて緑の色深」かったのは事実だ。また、この時期には静観園は徳川邸の東側斜面に移動しており、同アパートの上階からはよく見えたのだろう。でも、東京駅から同アパートまで30分ではとても着かないし、関東バスで新宿駅へは現代の車両スピードでも10分以上はかかる。省線高田馬場駅までは、十三間通り(新目白通り)Click!が存在しなかった当時、走らないかぎり8分では絶対にたどり着けない。わたしの足でさえ、速足で10分以上はかかるだろう。目白駅まで12分も無理で、速めに歩いてもやはり15分はたっぷりかかる。下落合駅へ2分は、十三間通りでの信号待ちがない当時としては、下り坂を小走りでいけばリアルな数値だろうか。
「近代建築の粋を一堂に集中」しただけあって、館内は最新の設備が整えられている。設計は鷲塚誠一で、作りつけのモダンな家具調度やオーブンレンジ、ガスレンジ、給湯器、ダブルベッド、スチーム暖房などの設備があらかじめ装備されており、地下室は住民たちの倉庫(不使用品収納)が用意されていた。この地下室の廃墟は、1990年代の終わりごろまで残っていて、当時は廃材置き場に使われていたのを憶えている。
また、地上の構造物はとうに解体されていたが、わたしが初めて下落合に足を踏み入れた高校時代から、ずっと駐車場として使われていた。つまり、グリーンコート・スタヂオ・アパートの地下廃墟の上、本来ならアパートの1階部分にあたる平面(ひょっとすると坂の途中の建築なので中2階のフロアかもしれない)が駐車場にされていたわけで、聖母坂を歩くたびにその異様な光景に目をうばわれていた。
地下室はコンクリートと一部は大谷石で構築されており、同アパートの基礎も兼ねていたのだろう。1938年(昭和13)の「火保図」によれば、地上の建物はコンクリート建築ではなく、木造モルタル建築として採取されている。また、「火保図」にも描かれているとおり、中庭には睡蓮プール(蓮池)が設置され、ほとんどの部屋から見下ろすことができた。
同アパートは、大正末から昭和初期に多く見られた三角屋根(主棟)をかぶせた意匠ではなく、今日のコンクリート・アパートと同様に屋上も含めて四角い形状をしている。(ただし、北側は道路の関係から△状のデザイン) また、3階の部屋は建物の向きとは異なり、できるだけ窓を南側に向けようと斜めずらして構築されていたのが見てとれる。
「スタヂオ・アパート」とは、いまの用語でいうとワンルームのことだが、内部の居間+ダイニング+寝室も含めたワンルームなのでかなり広い。スタジオや工房を開業できるほどワンルームの面積が広いということから、「スタヂオ・アパート」と呼ばれたのだろう。同アパートで一番大きな部屋は、22畳サイズを上まわる洋間だった。このワンルームとは別にバスやトイレ、キッチンなどの設備が付属するわけで、今日のワンルームマンションのイメージとはまったく異なる。つづけて、「アパート案内」から引用してみよう。
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本館は専門家の建築士鷲塚誠一氏の設計監督によるもので、同氏の在米十七年間の生活及びアパート研究の結果が各所に容易に見られる。表玄関より水蓮プールのある中庭を通じて各スタヂオアパートの独立玄関に通じる。玄関入口の扉は北欧地方のダツチドアーを採用し、住居各位の保健上各室内は最大限度の大硝子窓フロワーマステイツク(ママ)床、防湿押入、タイル貼台所、便浴室、タイル浴槽、就中台所は現代主婦の誇にたるケツチン(ママ)で天火付ガスレンヂ、理研アルマイト洗濯、器具入ガラス戸棚等の諸設備。/温水暖房、水洗便所、メデイシンカビネツト、公衆洗濯室の湯、アイロン台、地階には住居各位の不用品保管室(保険付)等設備あり、二階には家具付ホテルサービスの短期貸室あり。
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設計師の鷲塚誠一は、米国で17年間も暮していたそうだが、関東大震災Click!を経験しているのかいないのかで、米国のアパートをマネたらしい22畳サイズを超える広さのワンルームの構造が気になる。すべてが地階と同じ鉄筋コンクリート構造ならともかく、木造モルタル造りではかなりの強度不足ではなかったろうか。
部屋数は20戸で、18畳サイズの洋間が55円から、22畳超の洋間が最高で70円とかなり高額な賃料だった。おそらく見晴らしのいい南西の部屋だろう、20畳サイズでダブルベッドが設置された部屋は75円もした。ちなみに、1937年(昭和12)における大卒公務員の初任給が75円という時代だった。数が少ないが和室(8~10畳)もあり、台所やベッドなどは付属していたが浴室がなかったので、館内には共同浴場も備わっていた。管理人による清掃サービスがあり、室内に敷かれたフローリングの定期的なワックスがけサービスも行われていた。
◆写真上:聖母坂に面した、グリーンコート・スタヂオ・アパート跡(中央のマンション)。
◆写真中上:上は、1948年(昭和23)の空中写真にみる聖母坂沿いの延焼をまぬがれた住宅街。この坂道の両側だけはなんとか延焼をまぬがれているが、周囲はいまだ焼け跡とバラックだらけだ。下は、写真にとらえられた住宅などの特定。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみるグリーンコート・スタヂオ・アパートだが、またしてもネームを誤採取している。中は、1979年(昭和54)の空中写真にみる同アパート跡。下は、1990年代に撮影した同アパートの地下廃墟。
◆写真下:上は、当時を思いだして描いたグリーンコート・スタヂオ・アパートの地下廃墟で上は駐車場になっていた。中は、聖母坂からの同アパートへと入るエントランス。下左は、同アパートの階段でロビーの一画には当時大流行していたバウハウス風のパイプ椅子が置かれている。下右は、全体が白いタイル貼りのトイレと洗面所、そして浴室。
★おまけ
第1次山手空襲の直前、1945年(昭和20)4月2日に撮影されたグリーンコート・スタヂオ・アパートと、同年5月17日に撮影された第2次山手空襲(5月25日)直前の同アパート。
上落合の幸山五左衛門の治療はダメだゾウ。 [気になるエトセトラ]
1972年(昭和47)に、中国から上野動物園へパンダがやってきたとき、いまからは想像もつかないほどの行列ができていた。ところが、何度かパンダを見にでかけると飽きるのか、5~6年もすぎれば行列は少なくなり、団体客がくれば少し混雑する動物舎ぐらいの光景になった。いまでは、人気のある他の動物舎と同じぐらいの混みぐあいだろうか。
同じことが、江戸中期に落合地域の南南西側にあたる中野村とその周辺域で起きていたと思われる。このとき、中野村にいためずらしい動物はアジアゾウ(種類は不明)で、同村をはじめ周辺の住民たちはいくばくかの文銭を払って見物していたのだろう。また、幕府が浜御殿(現・浜離宮公園)で飼育していた時期には、江戸各地の大名屋敷へも連れ歩かれて披露され、また浜御殿へゾウ見物にくる大名や幕臣たちも多かったようだ。
中野村へ移ってからは本所や両国広小路Click!、浅草など寺社の催事に合わせ見世物小屋Click!(今日の移動動物園に近い)にも出展されたので、江戸の街を歩くゾウの姿は武家や町人を問わず、大騒ぎをするほどにはめずらくなくなっていたかもしれない。ことに、幕府から払い下げられて中野村のゾウ小屋に移ってからは、少しでも飼料代を稼ぐために“入園料”をとって見物させていたとみられ、ゾウ小屋の周辺地域の住民はもちろん、遠方からもわざわざ見物人が訪れたのだろう。当時は、ゾウの糞を乾燥させて粉にすると「疱瘡除け」の薬になると信じられていたので、江戸の各地には専売薬局まで造られている。九州の長崎から、延々と陸路で江戸へやってきたのはオスのアジアゾウだったが、メスの個体は長崎へ上陸したあとほどなく病死している。
1728年(享保3)に長崎へ上陸した2頭のアジアゾウは、海外の情勢や文物に関心の高かった徳川吉宗Click!が、清国の商人に発注してベトナムから取り寄せたものだ。来日したゾウが江戸へくるまでの経緯については、詳細な書籍があるのでそちらを参照いただきたい。現在、入手あるいは図書館などで閲覧が可能なものは、 『江戸時代の古文書を読む<享保の改革>』(德川林政史研究所・徳川黎明会Click!/2002年)所収の太田尚宏『享保の渡来象始末記』、「歴博」第89号(国立歴史民俗博物館/1998年)収録の太田尚宏『渡来象の社会史』、和田実『享保十四年、象、江戸へ行く』(岩田書院/2015年)などがある。
ゾウ小屋があった地元の中野では、『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所/1916年)や『中野町誌』(中野町教育会/1933年)、地元の伝承を集めた『続/中野の昔話・伝説・世間話』(中野区教育委員会/1997年)などに詳しい。ただし、『続/中野の昔話・伝説・世間話』に収録された「昔話」は、口承伝承のためか事実誤認が多い。また、古いところでは神田白竜子『三獣演談』や植村藤三郎『象志』(以上1729年)、古川辰『四神地名録』(1794年)、昌平坂学問所地理局『新編武蔵風土記』(化政年間)、市古夏生『江戸名所図会』(天保年間)などにも享保のゾウに関する記載がある。
1729年(享保14)5月に江戸へ着いたゾウは、さっそく千代田城Click!に招かれて吉宗をはじめ幕臣たちが見物している。以来12年もの間、浜御殿で飼育されたあと膨大な維持・管理費がかかるため、柏木村の弥兵衛(ほどなく死去)と中野村の源助に払い下げられることになった。経費の多くはゾウの飼育料と人件費だったが、江戸でしばしば発生した大火事などの際に、ゾウが暴れて街中へ逃げだしては危険だとの指摘もあり、幕府では江戸市中から離れた民間の飼育請負人をかなり以前から募集していた。
浜御殿でゾウが食べていた、1日分のメニューが記録されている。天保年間に出版された、市古夏生『江戸名所図会』の「明王山宝仙寺」から引用してみよう。
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飼料(一日の間に、新菜二百斤、青草百斤、芭蕉二株<根を省く>。大唐米八升、その内四升ほどは粥に焚きて冷やし置きてこれを飼ひ、湯水<一度に二斗ばかり>、あんなし饅頭五十、橙五十、九年母三十。また折節大豆を煮冷やして飼ふことあり。/以下略)
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「青草」の中でも好んだのが、角力取草(すもとりぐさ)=スミレの一種だったようで、「大唐米」はインド原産の米粒が細長い外国米、「九年母(くねんぼ)」は東南アジアに自生しているミカンの原種のことだ。また、あんこを入れない饅頭が大好物だったらしい。飼育にはこれらを日々用意して、大唐米や大豆、饅頭はいちいち調理をしなければならず、その手配・手間に必要な人件費には多大な経費がかかっていたのだろう。
これらの飼料をまかなうために幕府から支給される金銭をごまかして、ゾウには粗末なものしか食べさせない「よろしからぬ者」がいたようで、その飼育人は怒ったゾウに投げ飛ばされて死亡している。ゾウは頭のいい動物なので、飼育人や調教師の性格を見抜くともいわれ、粗末な扱われ方によほど腹を立てていたのだろう。そのときの様子を、1794年(寛政6)に出版された古川辰(古松軒)『四神地名録』から引用してみよう。
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名主の物語を聞きしに、象の囲有し所はくるくると堀をほりまはし、象をば鉄の太鎖を以て四足を繋ぎ、外へ出ぬ様にして数多の象つかひ付添て飼置かれし事なり、象つかひの中によろしからぬ者ありて、象に与ふる食物を減じて私す、象かしこきものにして、是を知りて或時大にいかりて、四足の鎖縄を糸をきるよりも安くはねきりて、かの象つかひを鼻にてくるくると巻て投出せしに、十間余も投られし事故に即死す、夫よりあれちらして、眼にかゝる木にても石にても鼻に巻て飛すゆゑに、人々大に恐れて近付くものなし、
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中野村の名主が語った、後世の談話として採録されたものだが、1741年(寛保元)正月に浜御殿で起きた事故を、中野村のゾウ小屋での出来事と混同して記憶していたのではないだろうか。この事故のあと、急いでゾウに信頼されている飼育人を呼び寄せ、いつもどおりの好物飼料を与えたところ、ゾウはおとなしくなって再びいうことをきくようになったという。
1741年(寛保元)2月に中野村のゾウ小屋が完成し、4月には幕府からゾウが引き渡されている。ゾウ小屋は、幕府の経費で本郷村成願寺の北裏にあたる源助の地所(現・朝日が丘公園あたり)に建てられたというが、地元には朝日が丘公園より西北西へ300mのところ、桃園尋常小学校(現・中野第一小学校)が象小屋の跡地だとする伝承も残っている。ゾウが死んだあと皮は幕府に納められ、肉は樽に塩漬けで保存されたものの腐敗し、その樽を埋めた大塚が桃園尋常小学校あたりのゾウ小屋跡に残っていたという経緯のようだが、この大塚は古代に築造された古墳とゾウ小屋のエピソードとを混同した後世の付会ではないだろうか。もうひとつ、古くから忌み地=禁忌伝承Click!が残るエリアへ、腐敗したゾウの肉樽が埋葬されたという流れの解釈も可能かもしれない。
ゾウは、払い下げられてから1年8ヶ月後に病気になり、1742年(寛保2)12月に中野村で死亡している。このとき病気の治療にあたったのが、上落合村で馬医(獣医)をしていた幸山五左衛門という人物だが、落合村(町)の資料をひっくり返しても同人の記録は見つからない。もともと漢方を学んだらしく、ふだんは上落合村と周辺域の伝馬や農耕馬などの治療をしていた医師なのだろう。ゾウの治療には、「肩と尾の末に針を打ち、両足の爪の裏へ焼き鉄を当て、粉薬のなかに人参一匁を入れ、蜜柑を饅頭に包んで食べさせた」(『享保十四年、象、江戸へ行く』)とあるが、どれだけ効果があったのかは疑わしい。
化政年間に昌平坂学問所地理局から刊行された『新編武蔵風土記』によれば、先述のように皮は幕府へ、肉は塩漬けにして60樽を保存、頭と牙と鼻は飼育人の源助と中野村名主の卯右衛門に下賜された。だが、のちに頭と牙と鼻は同村の伊左衛門に譲渡され、さらに1779年(安永8)1月には地元の宝仙寺へと売却されている。
中野村の源助は、もともと現在の東中野駅近辺の高台に冠木門をかまえた掛茶屋「見はらしや」を経営しており、村内では通称「見はらし源助」と呼ばれていたが、ゾウ小屋を経営するようになると地元では「象の源助」と呼ばれるようになった。特に源助を有名にしたのは、ゾウの糞からつくる疱瘡除け薬「象洞」の製造・販売を、柏木村の弥兵衛と多摩郡押立村の平右衛門の3人ではじめたからだ。
この源助の子孫である中野町の関谷萬次郎という人物は、1933年(昭和8)現在でも東中野駅近くに在住しており、江戸期の薬局「象洞」の看板を保存していたというが、戦争をはさみ現在では行方不明になっている。江戸期に書かれた医師の加藤玄悦『我衣』によれば、「象洞十六文づゝ売る」とあるので、特別に高額な「薬」ではなく当初から民間療法薬のような位置づけだったのだろう。もちろん、ゾウの糞が疱瘡の予防に効果があるわけもないので、事業は遠からずいき詰まったにちがいない。
源助の子孫である関谷家は、1990年代まで東中野に店を開いていたようだ。『続/中野の昔話・伝説・世間話』収録の、「宝仙寺と象」の座談から引用してみよう。
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源助さんていう人がね、中野で象を飼ってたって、そういう話は年寄りから聞いた。/その源助って人は、関谷さんの家だよ。今、東中野銀座にいますよ。「みはらしや」って。
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源助の子孫が、ゾウ小屋を経営していたころの掛茶屋と同じ「みはらしや」という屋号を継いで、東中野銀座(東中野3丁目)で店舗を経営していたようだ。なんの店舗だったかは調べきれなかったが、いまの東中野銀座通りにある関谷ビルがその跡地にあたるのだろう。
◆写真上:源助が経営していた、掛茶屋「見はらしや」があったとみられる跡地。
◆写真中上:上は、1729年(享保14)に書かれた植村藤三郎『象志』の表紙(左)と挿画(右)。中は、『象志』の記述。下は、『享保十四年渡来象之図』(国会図書館蔵)。
◆写真中下:上は、ゾウ小屋があったといわれる成願寺裏の跡地(現・朝日が丘公園)。中・下は、神田白竜子『三獣演談』に挿入されたゾウとゾウつかいの絵。
◆写真下:上は、古川辰『四神地名録』の表紙(左)と、『新編武蔵風土記稿』第124巻の「象骨」ページ(右)。中上は、『四神地名録』に収録されたゾウが怒って「よろしからぬ者」を投げ飛ばして死亡させた記事。中下は、『新編武蔵風土記稿』掲載の「中野村桃園図」。大塚があちこちに記録されており、古墳の忌み地伝承エリアへゾウ肉60樽を埋葬した経緯があったのではないか。下は、1729年(享保14)に描かれた鳥居清培(2代)『象』。
下落合駅と野方駅を描く鳥居敏文。 [気になるエトセトラ]
5月10日(火)に、拙サイトへの訪問者がのべ2,200万人を超えました。いつも調査不足ぎみの拙い記事をご覧いただき、ほんとうにありがとうございます。
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敗戦から間もない1947年(昭和22)8月31日、鳥居敏文は西武新宿線の下落合駅Click!と野方駅をスケッチしに訪れている。当時は、空襲でもかろうじて焼けなかった長崎1丁目1番地にアトリエがあったころで、彼はアトリエから徒歩で下落合駅まできて写生し、電車に乗って野方駅で降りると再び写生しているとみられる。
鳥居敏文が暑いさなか、なぜ下落合や野方を訪れているのかは不明だが、このころに人が集散する「駅」をテーマに、モチーフ探しをしていた気配があり、同年の春に東京都美術館で開かれた第15回独立展には『駅の人々』を出品している。また、同時に毎日新聞社が主催する美術団体連合展にも作品を出展しており、戦後につづく旺盛な創作活動をスタートしはじめていた。ひょっとすると、独立美術協会Click!の画家仲間が同地域に住んでいたため、彼は訪問したついでに駅をスケッチしているのかもしれない。
野方駅の画面を観ると、戦災を受けていないため駅舎は戦前から変わっていないのがわかる。郵便ポストが駅舎の角に設置されているのも、売店が駅舎の横に付属するのも下落合駅と同じ仕様だが、下落合駅の駅舎が北向きなのに対し、野方駅は南向きなので売店に日除けの幕が下がっている。その売店では、子どもたちがなにかを買っており、駅舎の入口にはうしろ手にバックをもち、人待ちをしている女性が描かれている。
また、改札では駅員と話す女性がいて、構内の右手には時刻表を見ているらしい人物がとらえられている。駅のネームプレートは、「野方驛/NOGATA STATION」と書かれているが、戦後の簡略字だった「下落合駅」の「駅」とは異なり、戦前からつづく焼け残った駅なので旧字の「野方驛」としたものだろうか。戦後、突貫工事でこしらえたバラック風な下落合駅(まだ駅舎はなく改札施設と呼んだほうがふさわしいかもしれない)とは異なり、野方駅は戦後もコンパクトでモダンな姿をとどめていた。
1991年(平成3)に出版された『鳥居敏文画集』(鳥居敏文画集刊行会)の中で、新潟市美術館長の林紀一郎は「鳥居敏文の絵画」と題して次のように書いている。
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だが鳥居敏文の半世紀を超える歴程を跡づけてみて気付くのは、(特に近年その傾向が顕著に思われるのだが) 風景画だとか、人物画や静物画だとかいった表現のジャンルに拘泥しない、画家自身の自由な絵画的発言が大作の画面を借りて折々に行われていることである。この絵画のメッセージの大いなる特徴は、大画面の空間に人物も風景も静物もそれぞれの造形要素を共生させて、調和と秩序を保っている点にある。鳥居絵画のこの共生がもたらすものは、ロマンティシズムの無言劇である。そしてその舞台に展開する人間のドラマには寓意と象徴が主題化されるのである。
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わたしも、戦前戦後を通じた作品には、常になにかを語りたそうな表情をした人物たちが登場し、あえて黙して語らずのように感じていたが、特高Click!から徹底的に弾圧されたプロレタリア美術時代に起因するものかと想定していた。だが、戦後に制作された作品群を通してみると、確かに「無言劇」という言葉がいい得て妙でしっくりくるように思う。
1947年(昭和22)の『駅の人々』では、画面に20人前後の人物が登場しており、駅の雑踏を描いているにもかかわらず、どことなく静寂感がただよう。手前の人物たちは、それぞれの想いの中に沈潜し、自己の内面を見つめているような表情さえ感じとれる。駅とは、人がなにかを選択あるいは決心して向かう場所であり、人々がなにか目的や想いを抱きながら出かけてゆく、あるいは来訪する物語の交差点のような場所だ。
『野方驛』のなに気ないスケッチにしても、それぞれ人物の表情までは描かれていないものの、手前の人待ちポーズでたたずむ女性にしろ、改札で駅員と話しこむ女性にしろ、構内で時刻表をジッと見つめる人物にしろ、なにか深い事情がありそうな物語性を感じさせる。戦争前後のタブローでは、そのようなモノいいたげな無言の人物たちが登場しているが、1970年代以降の画面になると、文字どおりキャンバスを“舞台”に設定したような、「無言劇」を演じる人物たちが画面に配置されていく。
そんな視点から、改めて鳥居敏文の作品画面を観ていると、特に人物たちの背景になっている風景や建物、部屋などが、実は舞台の書割だったり映画のオープンセット、あるいはドラマのスタジオセットのように思えてくる。作品と向きあう観賞者に対して、描かれた人物たちの想いや願いなどの内面を想像させるように設(しつら)えられたのが、書割の風景や大道具としての建物あるいは部屋のように思えてくるのだ。これは、鳥居敏文という画家がもつ、表現上の大きな特徴であるのかもしれない。
さて、下落合駅から西へ4つ先の野方駅が登場したので、せっかくだからなにか野方地域に関する地元のエピソードなどをご紹介したいと思うのだが、残念ながら野方駅の周辺については詳しく調べていないので、すぐには思いつかない。現在の住所としての「野方」という地名は、もともとの野方町のほんのごく一部のエリアにすぎず、本来の野方町は中野区のおよそ北半分もの面積をもつ大きな町だった。
同町が成立した1924年(大正13)には野方をはじめ新井、江古田(えごた)、江原、鷺宮、上高田、大和、若宮、白鷺、沼袋、松が丘、丸山の各地域が同じ町内だった。そこで、野方駅のある狭義の野方エリアに限定して、地域の資料に当たってみた。
先日、江戸東京の民話のひとつ「小ザルの恩返し」Click!をご紹介したが、広い意味での野方町(落合地域の西隣りにあたる上高田地域)にある松源寺に伝えられた昔話だ。そこで、もうひとつ明治生まれで野方地域にお住まいの女性が語り伝えた昔話をご紹介したい。1987年(昭和62)に中野区教育委員会が出版した、『口承文芸調査報告書/中野の昔話・伝説・世間話』収録の「鼠の嫁入り」という昔話だ。
あるところに住んでいたネズミの一家は、娘が年ごろになったのでどこかに嫁入りさせたいと考えていた。どうせ嫁がせるなら、「世間でいちばん偉いとこにやろう」ということで、お天道様(太陽)のもとへ縁談を持ちこむと、お天道様は黒雲が出てくると光ることができないから、黒雲さんのほうが自分よりも偉いと答えた。そこで、今度は黒雲さんへ縁談を持ちこむと、風さんが出てくると吹き飛ばされてしまうから、自分よりも風さんのほうがよほど偉いのではないかと答えた。以下、同資料より引用してみよう。
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それで風さんのとこ行って、「家の娘をもらっていただきたい」って言ってお話したら、「どうもあたしはね、風でいばってるけれども、壁さんに当たられると、どうも壁さんがあると、壁のところを通ることができないから、壁にはかなわないから、壁さんに行きなさい」って。(中略) そしたら壁さんは、「あなたに似たそのしっぽのある、口のとがった、そのチュースケさんにね、突っつかれると、壁がみんな食われちゃう」って。/だから、やっぱり壁よりも、チューさんのほうが、ねっ、いちばん偉いんだから、やっぱり鼠さんは、鼠さんのところへおやりなさいってことなの。
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この太陽<雲<風<壁<ネズミは、どこかで聞いたことのある笑い話で、太陽<雲<風<樹木<キツツキとか、太陽<雲<風<大地<タヌキ(キツネ)とか、野方ばかりでなく類似の話が各地に散らばっているような気がする。
もうひとつ、野方地域に伝わる笑い話に「ニンジンを食べるやつはスケベだ」というのがある。1989年(平成元)に中野区教育委員会がつづけて出版した、『続/中野の昔話・伝説・世間話』収録の昭和ヒトケタ男性が語る同話を、短いので全文引用してみよう。
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「ニンジンを食べるやつはスケベだ」って言うんだけどね。それ、その語源、それは、理由はね、ニンジンを蒔いたりなんかするときは、忙しいらしいんですよね。で、近所で、手助けってことを「すけべえ」っていうんだけどね。「じゃあ、すけるべえや」って。まあ、それから来たんじゃねえかってことは、おやじが言ってましたがね。/よく、関東語っていうんですか。「手助けしべえ」とかなんかありますね。「じゃ、すけべえか」って。「手助けしようか」ってことを、「すけべえか」って言って、「そこから『スケベエ』ってきちゃったんじゃねえか」なんてこと、おやじが言ってましたがね。
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もちろん、「助ける」「助けられる」を「スケる」「スケられる」と省略するのは、江戸東京の市街地でも同様で、少なくとも安永年間(1772~1781年)の古文書から見ることができる。助太刀(スケだち)や「助人(スケっと)」など、いまでも江戸期からそのままつかわれている言葉も残っている。これに、関東南部(おもに海岸に近い地域に多い方言)の「べえ」がつくと、確かに「スケるべえ(助けよう)」になる。
ことに、相手に対して問いかける場合は「スケるべえか?」とはならず、より省略型の「スケべえか?(助けようか?)」になるのだろう。おそらく、神奈川県や千葉県でも、「ニンジンを食べるやつはスケベだ」なんて話が、どこかで語り継がれているのかもしれない。近郊の農村だった野方地域で、おそらく明治期からいわれていた「スケベ」話だろう。
◆写真上:1947年(昭和22)8月31日に描かれた、鳥居敏文のスケッチ『野方駅』。
◆写真中上:上は、スケッチと同年の1947年(昭和22)の空中写真にみる西武新宿線の野方駅。駅周辺の住宅街も、空襲を受けていないのがわかる。中は、戦後まもないころの野方駅。下は、『野方駅』に描かれた人物部分のクローズアップ。
◆写真中下:上は、野方駅周辺の宅地開発にともなう乗降客の急増から、左手にあった売店を撤去して改札口を増設した1965年(昭和40)撮影の野方駅。中は、1960年代の撮影と思われる改札の内側から駅前を眺めたところ。下は、野方駅の現状。
◆写真下:上は、1950年(昭和25)制作の鳥居敏文『私は二度と欲しない』。中は、1975年(昭和50)の同『ある群像』。下は、1980年(昭和55)の同『平和へのねがい』。
忘れられた江戸東京の昔話。 [気になるエトセトラ]
「むかしむかし、あるところに……」というような昔話が、江戸東京の各地にもたくさん伝わっているが、いまや住民の移動が頻繁になり地域性が稀薄化してきたせいか、それらを子どもたちに語り伝えるという習慣がなくなって久しい。
佐々木喜善Click!や森口多里Click!が明治末から昭和初期にかけて収集した、遠野をはじめとする東北地方などでは、それらの物語がいまでも活きいきと伝承されているようだが、江戸東京の(城)下町Click!とその周辺域で語られていた膨大な数の昔話は、もはや書籍や地域資料の中でしか、なかなかお目にかかれない状況ではないだろうか。
もちろん、地付きの方の家では子や孫へ、地元の昔話を語って聞かせる事例があるのかもしれないが、特に面白い説話でないかぎりは、時代とともに忘れ去られてしまうほうが多いのだろう。ずいぶん以前に、落合地域で語り継がれていた人間の女がキツネに化けてカネを騙しとる、詐欺事件の昔話Click!をご紹介したことがあったが、たまたま新宿区の民俗資料に記録されていたせいで“事件”を知ることができたけれど、戦後も日常的に落合地域で語り継がれてきたとは思えない。
(城)下町では急速に住民の移動や流入、核家族化が進むとともに、地元に残る昔話を知る人たちが別の地域へと散ってしまい、また語り継ぐ相手(多くは子どもや孫だが)の不在や減少とともに途絶えてしまうケースも多かったにちがいない。確かに、いまの子どもたちは祖父母や親から寝物語に昔話を聞くよりも、ポータブルゲームやタブレットを操作していたほうがよほど楽しいのだろう。下落合にある日本民話の会Click!が記録した語りべたちの出版物を、大人が楽しんでいたりするのがちょっとさびしい気がする。
そこで、きょうは江戸東京で語り継がれてきた昔話をひとつご紹介したいのだが、落合地域となんら関係のない話では面白くないので、350年の時を超えて結果的に落合地域のごく近くで、そのエピソードの建物や“証拠”を確認することができる昔話について書いてみたい。東京メトロ東西線・落合駅の出口から、早稲田通りを西へ約550mほど歩いたところに、この昔話の中心となった松源寺がある。上落合の西端からはおよそ350mほどの距離で、所在地は中野区上高田1丁目にある寺だ。
だが、別名「さる寺」と呼ばれている同寺は、もともと上高田の地にあったのではなく、1906年(明治39)に牛込神楽坂から上高田村へ移転してきたもので、それ以前は旗本の屋敷街が形成されていた麴町(当時は糀町)の四番町に建立されていた。この昔話は、同寺が牛込神楽坂にあった元禄年間の出来事だと伝えられている。当時の神楽坂は、千代田城Click!の外濠に面した牛込御門(牛込見附)Click!が近いにもかかわらず、昼間も薄暗い鬱蒼とした森林が連なる斜面だった。夏目漱石Click!の『硝子戸の中』Click!によれば、明治になってからも追いはぎが出るような人家の少ないさびしいところで、女子が外濠へ出るときは下男が必ず付き添っていったらしい。
『江戸名所図会』の記述より、松源寺の項目から引用してみよう。
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蒼龍山松源寺
同所向かふ側にあり。花洛妙心寺派の禅林にして、江戸の触頭四ヶ寺の一員たり。本尊に釈迦如来の像を安ず。開山は霊鑑普照禅師と号す。禅師、諱は宗丘、字を蓬山といへり。(俗に長刀蓬山といふ。昔境内に猿をつなぎて置きたりとて、いまも世に猿寺と号く。旧地は番町なりといへり。観音堂本尊は聖観音にて、弘法大師の作なり)。
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天正年間に創建された同寺なので、弘法大師(空海)Click!作の本尊はご愛嬌だが、元禄年間の当時、松源寺の住職は徳山(とくざん)といい、麹町四番町から移転して以降も、江戸の各地に檀家を抱える寺だったようだ。ある春の日、徳山は向島Click!の檀家から法事を頼まれ、小坊主をひとり連れて出かけていった。神楽坂の松源寺から、隅田川を向島へ渡る竹屋の渡しまで地図上の直接距離でも6.4kmほどあり、道を歩けば10km前後にはなったと思われるが、当時の人は往復20kmぐらいはなんでもなかっただろう。
花が見ごろ時節で、竹屋の渡しは墨田堤のサクラを見物する客でごったがえしていた。渡しの舟を待つ間、住職と小坊主は隅田川の土手に腰をおろして対岸の風景に見とれていた。やがて舟がもどり、ふたりが腰をあげて乗ろうとすると、背後から法衣を引っぱられた。見ると、1匹の小ザルが法衣の裾をつかんでいる。1979年(昭和54)に社会思想社から出版された、小池助雄・万代赫雄『東京の民話』から引用してみよう。
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「おかしなサルだ」――と、住職はそう思いながら岸の方に歩きはじめた。すると、また追ってきて裾を引っ張る。住職は不思議に思って、腰をかがめ手を差し出すと、小ザルは逃げようともせず、住職の膝にひょいと飛び乗った。/あまりに人なつっこい振舞いに住職はサルの頭をなでながら、「お前はどこのサルかな。なぜわしの着物を引っ張るのだ」と、ひとりごとをいっているところへ、サルに逃げられたといって、一人の男が駆けてきた。橋場(台東区)で酒屋をしている武蔵屋という檀家の主人だった。二人が立ち話をしているうちに、渡し船は住職をおいてきぼりにしてこぎ出してしまった。/ところが、舟が川の中ほどに差しかかったころ、舟は突然ひっくりかえり沈んでしまった。すぐ助け舟も出たがたくさんの人がおぼれ死んだ。
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住職が、岸に揚げられた水死者に向けて合掌していると、先ほど法衣の裾を引いたのは「サルの恩返し」だろうと、武蔵屋の主人がそばにきていった。そして、そのサルは1年前に松源寺からもらったものだとつけ加えた。住職は最初、なんのことをいわれているのかわからなかったが、ようやく1年前の出来事を思いだした。
神楽坂の深い森には、ときどきサルが出没しては松源寺の境内でいたずらをするので困っていた。ある日、住職が外出中に小坊主がしかけたワナに、1匹の小ザルがかかっていた。小坊主が町で売りとばそうとしているのを聞いて、住職は急に小ザルがかわいそうになり、小坊主へ代わりに小遣いをやるから放してやれといった。
ちょうどそこへ、武蔵屋の主人が寺を訪れて、かわいがって育てるから小ザルをゆずってくれと頼みこんだ。住職は、檀家の申し出に異存はなかったので、そのまま小ザルを武蔵屋の主人へまかせることにした。そして、それっきり住職は小ザルのことなど忘れていた。それから1年、小ザルは武蔵屋の花見に連れられて竹屋の渡しまできたところ、急に主人のもとから逃げだして住職の裾を引いたというわけだった。
『東京の民話』の「小ザルの恩返し」から、つづけて引用てみよう。
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住職はあらためて武蔵屋に「サルに助けられるという尊い体験をはじめてした。恩返しの意味でサルを大切に育てます。このサルをわたしに譲って下さらぬか」と、申し入れた。武蔵屋も心よく(ママ:快く)サルを住職に譲った。それ以来、サルは松源寺で住職の手厚い保護を受けながら暮らした。/近くの人々は、いつしかこの寺を「さる寺」と呼ぶようになった。サルはお参りに来る人たちからもかわいがられたが、数年後に死んだ。この物語はその後ながく語り伝えられていたという。
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1906年(明治39)に、松源寺が牛込神楽坂から上高田村へと移転する際、小ザルの昔話にちなんでサルの石像を彫らせ、サル像を載せた台座へ「さる寺」と彫刻した石碑を門前に建立した。このサル像は、いまでも同寺山門の右脇に置かれて見ることができる。落合地域には、ネコ寺で有名な自性院Click!があるが、すぐ隣り町に江戸の昔話に語られたサル寺があるのは、あまり知られていない。
さて、ここでちょっと余談だが、松源寺から北へ直線距離で950mほどのところにあった上高田小学校が、中野区の学校統廃合で消滅してしまった。上高田小学校跡の同所には、新井小学校と上高田小学校を統合した「令和小学校」が暫定的に創立されている。ゆくゆくは新井小学校の跡地に新校舎を建設して、令和小学校が入る予定だという。
わたしの世代からいえば、「鉄腕アトム」も「ビッグX」も、「マグマ大使」も、「スーパージェッター」も、「少年探偵団」も、「レインボー戦隊ロビン」も、「宇宙少年ソラン」も、「キャプテンウルトラ」も、アニメなど子供向け番組の主題歌は、みんな上高田小学校の生徒たちClick!(上高田少年合唱団)が唄っていたので、非常に親しみのあるネームだったのだ。それが少子化とはいえ消えてしまったのは、いかにも残念だ。
アトムが産まれた、山手線・高田馬場駅に流れる発車音のメロディーは「鉄腕アトム」だが、それらを唄っていたのが上高田小学校の児童たちだったというエピソードも、これからだんだん忘れられる昔話になるのかと思うと、少年時代が消えていくようでさびしい。
◆写真上:白銀公園の西側にあたる、牛込神楽坂通りに面した松源寺跡。
◆写真中上:上は、『江戸名所図会』の長谷川雪旦Click!が描く「松源寺」。中は、1851年(嘉永4)に作成された尾張屋清七版の切絵図「市ヶ谷牛込絵図」にみる牛込神楽坂の松源寺。下は、翌年の1852年(嘉永5)作成の同切絵図にみる松源寺。
◆写真中下:上高田にある現在の松源寺の山門(上)と門前のサル像(中)、本堂(下)。
◆写真下:上は、昔話ブームの1979年(昭和54)出版の小池助雄『東京の民話』(社会思想社/左)と、同年出版の中村博『東京の民話』(一声社/右)。中は、『東京の民話』に掲載の松下紀久雄「小ザルの恩返し」挿画。下は、浅草の人気者だったニホンザル。
タタリ話や呪い譚が盗掘を防いだ古墳。 [気になるエトセトラ]
少し前、古墳の盗掘にからんだタタリ譚Click!の記事をアップしたら、奈良にはもっと強烈なタタリ古墳があるよ……と、関西の知人が教えてくれた。その強烈な禁忌伝承Click!の継続により、近世に入って横行した盗掘の被害にも遭わず、密閉されたまま副葬品がほぼ完璧なかたちで保存されてきたのだという。同古墳で2006年(平成18)に作成された、発掘調査の報告資料もお送りいただいた。
その呪いやタタリが現代まで強烈に伝承されてきた古墳とは、奈良市高畑町にある奈良教育大学のキャンパス北端に残された吉備塚古墳のことだ。戦前は、平城京の公卿であり遣唐使の使節としても有名な吉備真備の墓だと規定されていたようだが、これもまた皇国史観Click!によるいい加減な規定だったものか、現在では否定されている。
事実、同古墳がある奈良教育大学による発掘調査では、5世紀後半から6世紀初頭の遺物が出土し、8世紀後半に死去している吉備真備とは、まったくなんの関係もない6世紀はじめの古墳であることが証明された。それでも、「吉備塚」の名称をそのまま採用し、「吉備塚古墳」と命名しているのは地元で根づいた呼称とはいえ、学術的にはいかがなものか。明らかに時代ちがいな大山古墳や誉田山古墳Click!のことを、もはや学術的には「仁徳天皇陵」とも「応仁天皇陵」とも呼ばないように、「吉備塚古墳」も高畑古墳とか奈良教育大学古墳と名称を変更すべきではないだろうか。
この吉備塚には、「触れた者は祟られる」「粗末にあつかえば呪われる」という伝承が、つい最近まで語られつづけてきたようだ。その伝説は、江戸時代にはすでに地元では口承されていたようで、周囲は田畑に囲まれた農村地帯だったにもかかわらず、それほど大きくはない同古墳は開墾で崩されもせず現代まで伝わった。おそらく、タタリの禁忌伝説Click!は江戸期以前から語り継がれてきたのではないだろうか。なんらかの屍家・死屋(シイヤ・シンヤ)伝説Click!が、延々とこの地で伝承されつづけてきた可能性が高い。
そのタタリの信憑性を決定的にしたのは、1909年(明治42)に陸軍歩兵第53連隊が駐屯地として高畑村の同地を開発した際、吉備塚を崩そうとした者が次々と病気になったため、「やはりタタリ話は本当だ」ということになり、手つかずのまま連隊内に保存されることになった。なにやら、大手町の旧・大蔵省跡地Click!にある柴崎古墳(将門首塚)Click!にまつわる伝説に近似している。
このタタリ話は、明治末の歩兵53連隊内ではなく、1925年(大正14)に駐屯していた歩兵38連隊内の出来事だとする説や、歩兵53連隊の時代に崩そうとして止めたにもかかわらず、歩兵38連隊内でも同様に崩そうとして病人が出たとする、繰り返されたタタリ話として語られるケースなど、いずれが事実だったのかは曖昧だ。
2002~2003年(平成14~15)にわたり、吉備塚のある奈良教育大学による発掘調査が行われ、穿たれた十文字のトレンチからは盗掘を受けていない貴重な副葬品が数多く見つかっている。これほど保存状態がよい理由を、同大学の調査報告書では「吉備真備の墓」と伝えられてきたことと、明治以降は官有地として買収され軍隊が駐留していたからだとし、江戸期から伝承されていたとみられるタタリ話には触れていない。
2006年(平成18)に発行された、同大の「吉備塚古墳の調査」から引用してみよう。
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明治41年に旧帝国陸軍歩兵第53連隊が高畑町に置かれたことによって、吉備塚は連隊の敷地内に取り込まれた。昭和20年に米軍に駐屯地(米軍キャンプC地区)として接収された後、昭和33年に奈良学芸大学(当時)が登大路町から移転した。大学校舎の建設によって旧陸軍の建造物は現在教育資料館として使用されている旧糧秣庫のみが残されたが、吉備塚古墳は西南角が削平されているものの、江戸時代の状態がほぼ現存していると推定される。吉備塚古墳周辺の若草山山頂から古市にかけては多くの古墳があるが、その多くは寺社の築造や土地利用によって改変され、墳丘の形を留めている例は少ない。吉備塚古墳が大きな改変を受けずに残されたのは、吉備真備の墓である伝承とともに、明治時代以降に官有地とされたことが幸いしたのだろう。
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あえて民俗学的な側面を無視した書き方をしているが、これはおそらく結果論的なとらえ方だろう。吉備真備の名前に、江戸期の古墳泥棒が盗掘をためらうほどのネームバリューがあったとはとても思えないし(事実、より権威のありそうな大型古墳が軒並み盗掘されている)、地元の農民に開墾を躊躇させるほど彼は畏れ多い“有名人”でもなかったはずだし、また開墾が困難なほど古墳のサイズは大きくない。そこには、現代にまで語り継がれる強烈な禁忌伝説がまつわりついていたからこそ、誰も「触れなかった」と考えるほうが自然だし事実に近いのではないか。
文中で興味深いのは、奈良市でも古墳がその形状を活用して寺社の境内にされたり、破壊されて住宅地の下になってしまったケースが、東京の市街地Click!と同様に多々ありそうなことだ。報告書の文面からも、早い時期から墳丘が崩されて寺社や住宅の下になってしまい、いまからでは調査が不可能になってしまった無念さがにじみ出ている。
発掘調査によれば、吉備塚古墳は直径25m余の円墳とみられていたが、北西方面に前方部が伸びる40mほどの前方後円墳になる可能性もあるようだ。墳墓からは2基の埋葬施設が発見され(一方は陪墳だろうか)、三累環刀大刀などの古墳刀類Click!や貝装雲珠、画文帯環状乳神獣鏡、挂甲(古代の鎧)、ガラス玉、埴輪片などが出土している。また、同古墳は羨道や玄室を設けずに、木棺を直葬する簡易な構造であることも判明した。特に、近世に横行した盗掘の目標になりそうな、金や銀をほどこした三累環頭太刀の刀装具が完璧なかたちで発見されたのは貴重な成果だろう。
さて、今世紀の初めに学術的(人文科学的)な発掘調査が行われたので、タタリ話や呪い譚はようやく消滅したのかといえば、相変わらず現代までそのまま地元の「怪談」として伝承されている。2010年(平成22)前後の出来事らしいが、男子学生が深夜、タバコを吸いながら自転車を押して吉備塚古墳の横を通りかかった際、吸い終えたタバコの吸い殻を道端の古墳があるあたりへポイ捨てしたところ、いきなり自転車ごと路上に弾き飛ばされたという「怪談」が記録されている。
奈良市に住む「宮地」という方の証言で、ファーストフード店でたまたま隣りあわせた奈良教育大の女子学生たちの会話を聞いていたようだ。2015年(平成27)にKADOKAWAから出版された黒木あるじ『全国怪談オトリヨセ』収録の「ガールズトーク」によれば、弾き飛ばされたのは「クサカベ君」という男子学生だったようだ。同書より引用してみよう。
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ほんで、クサカベ君のカノジョがな……ああ、そうそう二年のあの子、ちょっとケバい。あのコが先生から聞いたらしいんよ。/あそこの丘な、すごい昔の偉い人……名前忘れたわ。とにかく、偉い人のお墓なんやて。ワケ解らんでしょ。なんで学校の敷地に墓あんのって。ほんならな、先生が言うにはな、前もあそこを掘りかえそうとした人たちがおってんけど……全員、死んだんやて。/触ろうとした人はみんな、百パー死んでまうねんて。/せやから私な、タツヤに教えたんよ。/あそこの丘な、昔のお宝が埋まってるらしいよ、って。うん、もちろんウソ。/あいつ、私とミキと二股かけとんねん。気づいてないと本人は思ってるけど、こないだメール見てしもてん。私がバイト入っとる日に、アイツらヤッとんねん。/アホやから信じたんちゃうん。ここ数日、メールしても返信ないもん。
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今世紀初頭に同大学が発掘調査をして、6世紀はじめの古墳らしいという報告書まで出しているにもかかわらず、相変わらず地元の女子学生は「偉い人」(吉備真備)の墓だと信じているし、タタリや呪いも以前よりパワーアップしているようだ。
陸軍の兵営時代に、古墳を崩そうとして病人が出たという経緯だったものが、古墳に触れたら「百パー死んでまうねん」に、タタリのレベルが強化されている。この伝でいくと、発掘に参加し調査に関わった90名近い調査メンバーの全員が、「百パー死んで」ないとおかしなことになる。もっとも、同大学の「先生」が古墳にイタズラしないよう、かなりオーバーに話して学生たちを脅した……ということも十分に考えられるが。
民俗学的な視点から見ると、上記のケースは非常に興味深い。タタリ話や呪い譚というものは、時代の経過とともに伝承力が徐々に弱まって人々の記憶から薄れ、ついには忘れ去られていく事例も多々あるだろうが、逆に時代をへるにつれて恐怖が増幅され、なんら根拠がなくなった21世紀の今日まで語り継がれていくケースもある……ということだ。近世に入り、そのような記憶が薄れず反対に禁忌が増幅され、地元に伝承されてきた古墳が盗掘をまぬがれ、また農地化の開墾からも取り残されてきたと考えられる。ところで、彼女に隠れて浮気をする「アホ」な「タツヤ」君が、その後どうなったかはさだかでない。
◆写真上:奈良教育大学キャンパスの道路側から見た、吉備塚古墳の墳丘。
◆写真中上:上は、旧・陸軍の兵営のまま米軍が接収していた1946年(昭和21)撮影の空中写真にみる吉備塚古墳。中は、大正末か昭和初期の撮影とみられる東大寺の南に拡がる浅茅ヶ原を行進する陸軍歩兵第38連隊。下は、奈良学芸大学が奈良教育大学へと改称された翌年の1967年(昭和42)に撮影された空中写真にみる同古墳。
◆写真中下:上は、1975年(昭和50)に撮影された冬枯れの吉備塚古墳。下は、2008年(平成20)撮影の空中写真にみる緑がこんもり繁った夏の同古墳。
◆写真下:上は、吉備塚古墳の解説碑と墳丘。下左は、2006年(平成18)に奈良教育大学が作成した報告書「吉備塚古墳の調査」。下右は、女子学生たちの「ガールズトーク」を収録した2015年(平成27)出版の黒木あるじ『全国怪談オトリヨセ』(KADOKAWA)。
★おまけ1
ところで、宮内庁に属する皇国史観Click!の御用考古学・古代史学者たちが、大山古墳で発掘されたヨコハケメが入る円筒埴輪Click!を、ついに5世紀後半から6世紀初頭にかけて造られたものだと認めた。それはそうだ、さもなければ古墳期に関して戦後日本が積みあげてきた膨大な学術成果を否定することになってしまう。じゃあ、当然ながら大山古墳も同時代の築造だと想定するのかと思いきや、今度は「仁徳天皇陵」が荒廃してきたので、5世紀後半から6世紀にかけての人々が同古墳を「補修」するために、同時代に一般化していた円筒埴輪を改めて並べた……などといいだしている。人文科学という学術分野を、バカにしてるかおちょくっているとしか思えない、非科学的で非論理的なひどい妄言だ。
だとすれば、「あそこの古墳が荒廃してきたから、そろそろリフォームしよう」というような具体的な事例が、同時代の古墳期に他のケーススタディとして存在証明されていなければならないし、それが事実だということを学術的に証明(論証)しなければならないが、そんな考古学的事例はかつて見たことも聞いたこともない。これも毛松の『猿図』Click!と同様、源平の対立激化で国内が大混乱していた藤原時代の末期に、「そちらへニホンザルを船便で送るから、絵が描けたらお手数だけど送り返してちょうだい」などと、日本から中国にいる画家・毛松のもとに依頼したと解説する学者たちに対し、前・天皇と徳川義宣Click!が「ありえない」と認識していた妄言と同じレベルの、学術分野とは無縁な不マジメきわまりない空想物語だ。どこまで自国の歴史を歪めておとしめ、自ら墓穴を掘るような言動を繰り返せば薩長政府に由来する皇国史観を止揚できるのだろうか?
ちなみに、学習院の考古学チームが1923年(大正12)に発掘して持ち帰った、大阪羽曳野市の誉田山古墳Click!(宮内庁が「応仁天皇陵」と空想規定している墳墓)の5世紀に造られた水鳥埴輪などの副葬品は、「なかったこと」「見なかったこと」にされているようだ。
(▼大山古墳から出土した、5世紀後半以降に制作されたとみられる円筒埴輪群)
★おまけ2
先日のGWのさなかに、近所の主(ぬし)である2mをゆうに超える美しいアオダイショウが玄関先にきたので、しばらく撫でながら遊んであげた。人に馴れておとなしく、頭に近い部位を触らなければまったく警戒しない。掃除をしていた家とお隣りの女子たちは、「ヒェ~~~ッ!」と叫んでいたけれど……。さすが、楳図かずおのへび女Click!世代なのだ。w
「大温室」があるお屋敷の風景。 [気になる下落合]
落合地域やその周辺に建っていた大きな屋敷には、大型の温室を備えた邸が少なくない。たとえば、明治期から下落合700~714番地に邸をかまえていた西坂Click!の徳川義恕邸Click!には、南側の広大な庭園にいくつかの温室があったし、同じく明治から下落合に隣接する雑司ヶ谷旭出41番地(現・目白3丁目)の戸田康保邸Click!には、ことさら「大温室」と呼ばれた巨大な施設があった。
また、戸田邸が1930年(昭和5)の計画では下落合へ転居Click!するために、雑司ヶ谷旭出の敷地を引き払うと、そのあとに建った徳川義親邸Click!にもまた、同じような大温室があったかもしれない。戸田邸の名物だった大温室を、記憶が錯綜して徳川邸のものだと勘ちがいをしているのかもしれないが、確かに地元の資料には「徳川義親邸の大温室」という証言Click!が残されている。目白通り沿いの下落合で生まれた岩本通雄の、『江戸彼岸櫻』Click!(私家版/講談社出版サービスセンター)から引用してみよう。
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この戸田さんのお屋敷は後に、徳川義親公のお屋敷となり、(中略) 私、通雄などは小さかったので、温室にぶらさがっている網かけメロンに目を輝かせておりました。公はクロレラも世にさきがけて研究され、栽培されておりました。/駅通りにあった戸田子爵邸の鉄門の前を南に横丁を辿りますと、近衛篤麿公爵五万坪の広い森に突き当たります。
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この様子からすると、六天坂Click!の丘上にあった植物栽培が趣味のギル邸Click!跡に建てらた津軽義孝邸Click!にも、大きな温室があったのではないかと想定することができる。なぜなら、1936年(昭和11)に撮影された空中写真には、母家の南にひろがる広大な芝庭の東側に家屋のような大きめの建築物が見えており、以降の空中写真にも同建物がとらえられている。だが、1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、この建物が採取されていない。火災保険の料率算定基礎資料である「火保図」は、人のいる家屋や施設以外の建物は採取されないので、大型の温室だった可能性がある。
また、近衛篤麿邸(のち近衛文麿邸)Click!や相馬孟胤邸Click!に、大規模な温室があったかどうかはさだかでない。特に明治期からある近衛邸には、その時代背景から存在していたように思える。また相馬邸の場合、もし温室があれば「相馬家邸宅写真帖」Click!に掲載されそうだが、庭園(御留山Click!)のどこにも温室とおぼしき施設はとらえられていない。そのかわり、相馬邸母家の南東側には、全面ガラス張りのような2階建ての「居間」が建設されており、その中で熱帯・亜熱帯の植物や樹木が栽培されていた可能性がある。
明治後期から、華族やおカネもちの大邸宅には、競うように温室が建設されている。別に植物愛好家や、ガーデニングが趣味の人たちが急増したからではない。当時、南洋の植物を温室で育てる、ヨーロッパ由来のハイカラなブームがあったからだ。しかも、温室には「植物栽培」という目的ばかりでなく、邸宅の重要な応接室や社交場、ときには食堂としての役割が付与されていた。ヨーロッパの王室や貴族が、寒さに弱い樹木や草花を冬の間だけ避難させる、オランジェリー(避寒施設)を原型とする温室は、19世紀の半ばにイギリスで開発されている。鉄骨構造で全面ガラス張りという建築手法と、蒸気で室内を温めるスチーム暖房技術などが工業生産で可能になったのと、世界中の植民地、ことに南洋の島々からもたらされるめずらしい植物や樹木類を、枯らさずに育成しつづけるニーズがあったからだ。イギリスにいながらにして、南国の雰囲気を味わえる「人工楽園」ブームが起きている。
当時のイギリスで、王族や貴族の別なく大ブームとなった温室の様子を、恵泉女学園大学の園芸文化研究所が2004年(平成16)に発行した「園芸文化」第1号収録の、新妻昭夫『英国の温室の歴史と椰子のイメージ』から引用してみよう。
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結論だけをいえば、工業技術の発展が全面ガラス張り温室を可能にした。とくに鉄骨とガラスという工業製品が、大型ガラス温室の建築を可能にした。あとは材質の改良と安価に大量にという生産技術の問題であり、またそれをどう組み立てるかという建築学の問題である。そこにさまざまな人がさまざまな考案を競いあった。また暖房の手段として、温度むらのあるストーブに変(ママ:代)わって、水蒸気による暖房が考案され、熱帯植物の栽培に必要な温度だけでなく湿度をも供給した。(中略) オランジェリーから全面ガラス張り温室への転換にともなって、建造物の長軸が90度回転した。オランジェリーは南にガラス窓を向けるため長軸は東西方向だったが、全面ガラス張り温室は太陽が東から昇って西に沈むまで太陽光線を受けるよう長軸が南北にとられるようになったのである。
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現在でも、多くの温室は主棟(長軸)が南北を向いて建てられている。また、建築技術が進むと大型の温室を超え、「大温室」と呼ばれる巨大な温室が出現している。それは、南洋の島々に生えるヤシの木を育成するという、イギリス人に限らずヨーロッパ人があこがれた“ヤシの木蔭”を実現するための施設だった。
こうして王族や貴族の邸内には、大温室が次々と建設されていく。これらのケーススタディで蓄積された大型の温室技術は、1851年(嘉永4)のロンドン万国博の会場で、パクストン設計による「水晶宮=クリスタルパレス」にそのまま応用されている。
一方、ヨーロッパ各地では温室を自分や家族が楽しんだり、訪問者へ咲いためずらしい花々を見せて自慢するだけでなく、公共施設あるいは娯楽施設として建設し、一般の市民が楽しめるパレス(御殿)として開放しようとする動きが出はじめている。「ウィンター・ガーデン」思想と呼ばれるこの考え方は、徐々にヨーロッパ全体へと拡がり公設や私設の別なく、「ウィンター・パレス」あるいは「フローラ・アクアリウム」などと呼ばれている。
また、王族や貴族たちが市民からの社会的な圧力を受け、大邸宅の敷地を一般の市民に開放する、いわゆる“下賜公園”にも大温室が付属していたため、19世紀半ばには社会の階層を問わず“温室ブーム”ともいうべき流れがヨーロッパを席巻したらしい。そして、温室の大型化にともない、単に植物を育てるだけでなく、温室内にビリヤード場やコーヒーハウス、読書室、美術展示室などを設置する大温室も出現している。だが、さすがにタバコは植物に悪影響があるので、温室内は禁煙が原則だったようだ。
当時の大温室の様子を、先述の新妻昭夫論文から引用してみよう。
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1838年に完成したパリの植物園の温室は、社交場をそなえた最初のガラス温室のひとつだった。(参照頁略) 1847年にパリのシャンゼリゼに開設されたウィンター・ガーデンは、植物学ではなく商業的な動機から作られ(同略)、舞踏場、食堂、喫茶店、菓子店、読書室があって、パリのリゾートとして名物になったという。(中略) ここには大陸ヨーロッパで発展した貴族の社交の場であったオランジェリーが市民の憩いの場に変貌していく、また英国で発展した植物学の研究施設としての大型温室が市民の開かれた教養・娯楽施設に変貌していく、平行しつつ、ある一点に集約されていく過程が見られる。
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つまり、南国の植物を育てて観賞するはずの大温室が、徐々に社交場やレストラン、喫茶室など別の用途へと流用されていった様子がうかがえる。
ヨーロッパにおけるこの大流行を、明治以降の皇族や華族が見逃すはずはなく、東京にあった彼ら大邸宅の庭には、次々と大温室が建設されるようになった。そして、そこでは単にめずらしい植物や木々を育てるばかりでなく、ときに招待した客たちをもてなす応接室や食堂として使われたり、あるいは家族の健康を維持するためのサンルームとして用いられたりしている。特に日本では、結核の流行が猖獗をきわめていたため、緑に囲まれて暖かく、空気が清浄な温室は日光浴もかねて、健康維持を目的とした使われ方もされていたのだろう。
落合地域やその周辺域の、あちこちに建っていたとみられる大温室だが、特に下戸塚の大隈重信邸Click!にあった大温室は、招待客の接待や食事会・茶話会などによく使われ有名だった。「伯爵大隈家写真帳」には、晩餐会やパーティーなどが開かれた巨大な温室内の様子が掲載されているが、もはや温室というよりも草花を飾ったまるでホールのような意匠だ。
◆写真上:新宿御苑の旧・大温室で、現在は新しい大温室に建て替えられている。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)の松下春雄Click!『下落合男爵別邸』に描かれた西坂・徳川義恕邸の温室。中・下は、1919年(大正8)撮影の戸田康保邸大温室。
◆写真中下:上は、小石川植物園に残る大温室。中は、新宿御苑にあった旧・大温室。下は、戸塚町下戸塚稲荷前50番地の大隈重信邸に建っていた大温室。
◆写真下:いずれも、大隈邸にあった大温室の内部で撮影された人着写真。
★おまけ
目白にある温室で、中にいると冬でも汗ばむほど暖かい。