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寺院からの離脱現象が止まらない理由。 [気になるエトセトラ]

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 ショルダーに寺院住職実務情報誌と銘打つClick!、寺院向けの「月刊住職」Click!が面白い。坊主は戒名や卒塔婆、朱印を書くとき、あるいは写経をするときに、もちろん墨と毛筆を用いるけれど、その毛筆に使われている毛は動物を殺して得たものではないか? 殺生を禁ずる仏教僧が、殺した動物の毛を平然と使用しているのはマズイのではないか?……というような、問題提起の記事までが掲載されている。
 毛筆には馬やヤギ、タヌキ、イタチなどの毛が使われているけれど、ちょっと毛を少しだけ刈るからおとなしくしててね……などといって収集したものではないのは自明のことだろう。特に高級とされる、野生動物の毛を用いた毛筆ならなおさらだ。いまや文房具の筆ペンにさえ、殺したイタチの毛が使われている。そのような指摘に対する、坊主の答えがふるっている。SDGsや動物愛護の時代的な背景に触れたうえで、「要は地球環境や動物愛護の問題と、文化の問題とのバランスをどう取るかだと思うんです」だってさ。
 動物を殺して毛筆にするのは、仏教でも環境問題とか社会問題、SDGs、文化論のテーマなのだろうか? 「ちがうだろ、社会的な課題や文化がテーマの一般論ではなく、あんた自身の宗教の根幹にかかわる宗教としてのレゾンデートルと、宗教者としての主体性を正面から問われてる深刻で切実なテーマだろ?」と、つい突っこみを入れたくなる、あたかも第三者の評論家のような回答をしている。こういう宗教者らしからぬ欺瞞性やご都合主義が、生命の危機を目前に恐怖感や不安を抱える檀家と向きあうこともせず、東京からさっさと逃げだして帰郷していった坊主たちClick!を生みだす土壌となっているのだろう。
 近ごろ流行の「樹木葬」についても、同誌は鋭い指摘をしている。「生きた木を墓標とする樹木葬から木が消えた理由」という記事では、樹木葬をうたっている寺院が多いにもかかわらず、樹木が存在しない寺々について取材している。その理由を訊くと、樹木は手がかかるし管理がむずかしく、面倒でおカネもたいへんだから、芝庭や花壇にして「樹木葬」にしているところが多いようだ。既存の樹木をわざわざ伐採して、芝や花を植えたところは「看板に偽りはない」としているが、どういう意味だろうか?
 寺院のコンサルを請け負っている人物の、きびしいコメントが掲載されている。
  
 樹木がなく、その代わりに草花や芝、龍の髭などが植えてあるだけで樹木葬と名乗っているものも多く見受けられます。当初は土に直接埋葬するのが樹木葬でしたが、最近ではカロートのあるものが主流となっています。もはや、樹木葬を名乗ればどんな形態でも樹木葬である、といっても過言ではありません。最近では塩ビ管を縦に埋めただけのカロートなど、遺骨の尊厳という点で疑問を感じる樹木葬も増えてきました。
  
 また、樹木葬自体に疑問を感じており、「お寺の経済は潤うかもしれないが、信仰を伝える場がない」と嘆く坊主の談話も紹介している。樹木葬は、遺族と寺との接点は埋骨のときだけで、実質的には遺骨の捨て場になっていると指摘する。
 「看板に偽り」なく詐欺まがいではない、ほんとうに樹木の下へ埋骨している寺もある。その樹木に選ばれているのは、寺の置かれた周囲の環境や宗派によってさまざまだが、たとえば東京の某寺(浄土真宗)では武蔵野らしくケヤキが採用され、長野の某寺(曹洞宗)ではヒノキ、富山の某寺(真言宗)ではサクラ、和歌山の某寺(臨済宗)ではシナノキ、愛知の某寺(臨済宗)ではサクラと、寺ごとにまちまちなようだ。たまたま境内に生えていた樹木もあれば、近くの山の一画を買収し「樹木葬霊園」にしているところもあるのだろう。
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 東京での寺の存在は、一部の観光寺を除けば存在が希薄だと書く加門七海Click!は、同誌2022年2月号に寄稿した『門前でうろうろする』に、日本各地には仏教がらみの祭事や儀礼、民俗芸能、験かつぎなどは残っているが、都会ではそれらが形骸化し、また個人の行事としてまかされる「盆」や「彼岸」などの年中行事は廃れつつあると書いている。
 そして、地方との落差が大きくなるにつれ、「私は東京で生まれ育ったが、他府県の友達と話していると、時代や世界が違うのかと思うほどに意識が食い違う」と書いている。わたしも、まったく同様の感覚をもっていて、なぜそれほど宗教の(特に仏教の)行事や思想観・価値観に縛られなければならないのか、不可解に思うことが少なくない。
 盆で8月(東京では「藪入り」Click!=旧盆のこと)に実家へ帰り、墓参りをしてくるという友人に、「あれ、けっこう信心深いんだ」といったら「お盆が会社の夏休みと重なるから」と答えた。「じゃあ、2月1日に旧正月を祝うの?」と訊くと、「いや、正月は1月1日だよ」、「そんじゃ、仏教的に日暦がまったく合わないじゃん」、「親戚が集まって墓参りするのは盆のときぐらいだから、毎年恒例になってるんだよ」、「じゃあ、信心じゃないんだ」、「うん、習慣だね」……と、まったく無意識のうちに“仏教的慣習”が身体に沁みついているというわけなのだろう。
 墓参なら、思いたったときに休暇をとって家族や親族と出かければいいし、せっかくの夏休みに仏教へ義理立てして律儀に墓参しなくても……と思うのだが、この感覚からしてすでに「時代や世界が違う」と思うほどの、意識の食いちがいなのだろう。
 また、加門七海はなんらかの宗教的な背景を持たずに、「呪術」や「祓い」を行なうマンガに衝撃を受けている。つづけて、『門前でうろうろする』から再引用してみよう。
  
 最近ヒットしている『呪術廻戦』という漫画では、登場人物すべての能力に神仏は一切関与しない。ゆえに、それらの存在に訴えかける願文や祭文、呪文の類、祈禱も神事も出てこない。すべては個人の能力だ。少年漫画だからということもあろうけど、本来、高次の力なくしては成立しないはずの呪術がこのように描かれるのは、私にとっては衝撃だった。/もちろん、創作の世界では超能力を身につけた登場人物はいくらでもいる。ただ、元々は限定され、それゆえに扱いにくかった呪術という単語が、今までとは違うベクトルで正面に躍り出てきたのに驚いたのだ。/良い悪いという問題ではない。そうなってきた、ということだ。
  
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 従来なら、「呪術」や「祓い」を実行するときは、必ずなんらかの神仏に関する祝詞や経文めいた「呪文」が唱えられ、その力を基盤に「超能力」を発揮できていたはずなのだが、『呪術廻戦』ではそれらがまったく無視され、「呪術」や「祓い」はあらかじめ個人が備えた能力に過ぎないことになっているという。つまり、背景となる神仏の存在自体が抹消され、あくまでも個の力へと収斂されようとしている同漫画を見て、神仏から乖離したまったく別次元の世界に驚いたのだろう。
 「呪術」はもちろん、そのうちに「経文」や「念仏」、「祝詞」、「真言」、「九字」なども本来の宗教から切り離され、個々の人物が勝手に唱えはじめるのかもしれない。現に、修行僧でも山伏でも六部でもない人間が(つまり宗教的な基盤をもたない人物が)、真言に由来する「九字切り」をして「魔を祓う」のを平然と行うのを見ても、それを仏教の浸透ととるか形骸化ととるかは別にして、わたしの感覚からいえば基盤のない形骸化した乖離現象以外の何ものでもないように見える。
 「月刊住職」の、読者からの投稿ページもたいへん興味深い。匿名の投稿が多いようだが、寺をあずかる坊主たちの本音が聞けるコーナーとして貴重だ。以前は銀行に勤め、融資係の主任をまかされて行内の出世街道を歩いていた人物が、融資交渉でウソと知りつつ書類をつくり、保身や成績を上げるためにすごす日々に嫌気がさして、30代後半に退職して仏門に入ったという投稿が紹介されている。融資先の会社では自殺者も出たようで、仏教で懺悔と転身をはかることに決めたのだという。
 住職をつとめる投稿者の、「もう転職できぬプレッシャー」から引用してみよう。
  
 実際に住職になると、また銀行で悩んだ気分が蘇りました。ひたすら読経、限られた檀家の葬儀法事だけで、成果や成長とは無縁で過ごせると思ったのに、多くのお寺はラインを操り、様々なイベントや活動をしている姿は融資先と同じに見えます。そんなのが嫌で、交渉や人集めも苦手のままでいいと妄想したのは甘かった。いくらイベントで人気が出てもお布施が増えるより持ち出しの方が多いのに皆さん一生懸命なのにも感心です。それだけやらないと世間は寺や僧侶を評価、尊敬してくれない日本の貧しさも知りました。
  
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 はたして、「寺や僧侶を評価、尊敬してくれない」のは精神的な「日本の貧しさ」へ帰着させてもいいのだろうか? 少なくとも東京では、「寺や僧侶の評価」は戦争末期の77年前Click!に、(城)下町Click!の多くの人々の間ではすでに定まっている。「尊敬してくれ」そうもないことを、外来宗教の坊主たちが史的にこの街で平然としでかしているからだ。

◆写真:文中の「樹木葬」にからみ、下落合に生えている(生えていた)大樹や樹林いろいろ。「樹木葬」が人気のようだが、実際に樹木が存在する寺院はそれほど多くない

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