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「大温室」があるお屋敷の風景。 [気になる下落合]

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 落合地域やその周辺に建っていた大きな屋敷には、大型の温室を備えた邸が少なくない。たとえば、明治期から下落合700~714番地に邸をかまえていた西坂Click!徳川義恕邸Click!には、南側の広大な庭園にいくつかの温室があったし、同じく明治から下落合に隣接する雑司ヶ谷旭出41番地(現・目白3丁目)の戸田康保邸Click!には、ことさら「大温室」と呼ばれた巨大な施設があった。
 また、戸田邸が1930年(昭和5)の計画では下落合へ転居Click!するために、雑司ヶ谷旭出の敷地を引き払うと、そのあとに建った徳川義親邸Click!にもまた、同じような大温室があったかもしれない。戸田邸の名物だった大温室を、記憶が錯綜して徳川邸のものだと勘ちがいをしているのかもしれないが、確かに地元の資料には「徳川義親邸の大温室」という証言Click!が残されている。目白通り沿いの下落合で生まれた岩本通雄の、『江戸彼岸櫻』Click!(私家版/講談社出版サービスセンター)から引用してみよう。
  
 この戸田さんのお屋敷は後に、徳川義親公のお屋敷となり、(中略) 私、通雄などは小さかったので、温室にぶらさがっている網かけメロンに目を輝かせておりました。公はクロレラも世にさきがけて研究され、栽培されておりました。/駅通りにあった戸田子爵邸の鉄門の前を南に横丁を辿りますと、近衛篤麿公爵五万坪の広い森に突き当たります。
  
 この様子からすると、六天坂Click!の丘上にあった植物栽培が趣味のギル邸Click!跡に建てらた津軽義孝邸Click!にも、大きな温室があったのではないかと想定することができる。なぜなら、1936年(昭和11)に撮影された空中写真には、母家の南にひろがる広大な芝庭の東側に家屋のような大きめの建築物が見えており、以降の空中写真にも同建物がとらえられている。だが、1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、この建物が採取されていない。火災保険の料率算定基礎資料である「火保図」は、人のいる家屋や施設以外の建物は採取されないので、大型の温室だった可能性がある。
 また、近衛篤麿邸(のち近衛文麿邸)Click!相馬孟胤邸Click!に、大規模な温室があったかどうかはさだかでない。特に明治期からある近衛邸には、その時代背景から存在していたように思える。また相馬邸の場合、もし温室があれば「相馬家邸宅写真帖」Click!に掲載されそうだが、庭園(御留山Click!)のどこにも温室とおぼしき施設はとらえられていない。そのかわり、相馬邸母家の南東側には、全面ガラス張りのような2階建ての「居間」が建設されており、その中で熱帯・亜熱帯の植物や樹木が栽培されていた可能性がある。
 明治後期から、華族やおカネもちの大邸宅には、競うように温室が建設されている。別に植物愛好家や、ガーデニングが趣味の人たちが急増したからではない。当時、南洋の植物を温室で育てる、ヨーロッパ由来のハイカラなブームがあったからだ。しかも、温室には「植物栽培」という目的ばかりでなく、邸宅の重要な応接室や社交場、ときには食堂としての役割が付与されていた。ヨーロッパの王室や貴族が、寒さに弱い樹木や草花を冬の間だけ避難させる、オランジェリー(避寒施設)を原型とする温室は、19世紀の半ばにイギリスで開発されている。鉄骨構造で全面ガラス張りという建築手法と、蒸気で室内を温めるスチーム暖房技術などが工業生産で可能になったのと、世界中の植民地、ことに南洋の島々からもたらされるめずらしい植物や樹木類を、枯らさずに育成しつづけるニーズがあったからだ。イギリスにいながらにして、南国の雰囲気を味わえる「人工楽園」ブームが起きている。
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 当時のイギリスで、王族や貴族の別なく大ブームとなった温室の様子を、恵泉女学園大学の園芸文化研究所が2004年(平成16)に発行した「園芸文化」第1号収録の、新妻昭夫『英国の温室の歴史と椰子のイメージ』から引用してみよう。
  
 結論だけをいえば、工業技術の発展が全面ガラス張り温室を可能にした。とくに鉄骨とガラスという工業製品が、大型ガラス温室の建築を可能にした。あとは材質の改良と安価に大量にという生産技術の問題であり、またそれをどう組み立てるかという建築学の問題である。そこにさまざまな人がさまざまな考案を競いあった。また暖房の手段として、温度むらのあるストーブに変(ママ:代)わって、水蒸気による暖房が考案され、熱帯植物の栽培に必要な温度だけでなく湿度をも供給した。(中略) オランジェリーから全面ガラス張り温室への転換にともなって、建造物の長軸が90度回転した。オランジェリーは南にガラス窓を向けるため長軸は東西方向だったが、全面ガラス張り温室は太陽が東から昇って西に沈むまで太陽光線を受けるよう長軸が南北にとられるようになったのである。
  
 現在でも、多くの温室は主棟(長軸)が南北を向いて建てられている。また、建築技術が進むと大型の温室を超え、「大温室」と呼ばれる巨大な温室が出現している。それは、南洋の島々に生えるヤシの木を育成するという、イギリス人に限らずヨーロッパ人があこがれた“ヤシの木蔭”を実現するための施設だった。
 こうして王族や貴族の邸内には、大温室が次々と建設されていく。これらのケーススタディで蓄積された大型の温室技術は、1851年(嘉永4)のロンドン万国博の会場で、パクストン設計による「水晶宮=クリスタルパレス」にそのまま応用されている。
 一方、ヨーロッパ各地では温室を自分や家族が楽しんだり、訪問者へ咲いためずらしい花々を見せて自慢するだけでなく、公共施設あるいは娯楽施設として建設し、一般の市民が楽しめるパレス(御殿)として開放しようとする動きが出はじめている。「ウィンター・ガーデン」思想と呼ばれるこの考え方は、徐々にヨーロッパ全体へと拡がり公設や私設の別なく、「ウィンター・パレス」あるいは「フローラ・アクアリウム」などと呼ばれている。
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新宿御苑大温室2.JPG
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 また、王族や貴族たちが市民からの社会的な圧力を受け、大邸宅の敷地を一般の市民に開放する、いわゆる“下賜公園”にも大温室が付属していたため、19世紀半ばには社会の階層を問わず“温室ブーム”ともいうべき流れがヨーロッパを席巻したらしい。そして、温室の大型化にともない、単に植物を育てるだけでなく、温室内にビリヤード場やコーヒーハウス、読書室、美術展示室などを設置する大温室も出現している。だが、さすがにタバコは植物に悪影響があるので、温室内は禁煙が原則だったようだ。
 当時の大温室の様子を、先述の新妻昭夫論文から引用してみよう。
  
 1838年に完成したパリの植物園の温室は、社交場をそなえた最初のガラス温室のひとつだった。(参照頁略) 1847年にパリのシャンゼリゼに開設されたウィンター・ガーデンは、植物学ではなく商業的な動機から作られ(同略)、舞踏場、食堂、喫茶店、菓子店、読書室があって、パリのリゾートとして名物になったという。(中略) ここには大陸ヨーロッパで発展した貴族の社交の場であったオランジェリーが市民の憩いの場に変貌していく、また英国で発展した植物学の研究施設としての大型温室が市民の開かれた教養・娯楽施設に変貌していく、平行しつつ、ある一点に集約されていく過程が見られる。
  
 つまり、南国の植物を育てて観賞するはずの大温室が、徐々に社交場やレストラン、喫茶室など別の用途へと流用されていった様子がうかがえる。
 ヨーロッパにおけるこの大流行を、明治以降の皇族や華族が見逃すはずはなく、東京にあった彼ら大邸宅の庭には、次々と大温室が建設されるようになった。そして、そこでは単にめずらしい植物や木々を育てるばかりでなく、ときに招待した客たちをもてなす応接室や食堂として使われたり、あるいは家族の健康を維持するためのサンルームとして用いられたりしている。特に日本では、結核の流行が猖獗をきわめていたため、緑に囲まれて暖かく、空気が清浄な温室は日光浴もかねて、健康維持を目的とした使われ方もされていたのだろう。
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 落合地域やその周辺域の、あちこちに建っていたとみられる大温室だが、特に下戸塚の大隈重信邸Click!にあった大温室は、招待客の接待や食事会・茶話会などによく使われ有名だった。「伯爵大隈家写真帳」には、晩餐会やパーティーなどが開かれた巨大な温室内の様子が掲載されているが、もはや温室というよりも草花を飾ったまるでホールのような意匠だ。

◆写真上:新宿御苑の旧・大温室で、現在は新しい大温室に建て替えられている。
◆写真中上は、1926年(大正15)の松下春雄Click!『下落合男爵別邸』に描かれた西坂・徳川義恕邸の温室。は、1919年(大正8)撮影の戸田康保邸大温室。
◆写真中下は、小石川植物園に残る大温室。は、新宿御苑にあった旧・大温室。は、戸塚町下戸塚稲荷前50番地の大隈重信邸に建っていた大温室。
◆写真下:いずれも、大隈邸にあった大温室の内部で撮影された人着写真。
おまけ
 目白にある温室で、中にいると冬でも汗ばむほど暖かい。
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