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文学座アトリエの杉村春子。 [気になるエトセトラ]

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 わたしは長い間、勘ちがいをしていた。新宿区信濃町にある文学座のアトリエは、空襲からも焼け残った戦前から建つ大きな西洋館を、戦後になって内部を改築したものとばかり思っていた。近くにはカルピスClick!三島海雲邸Click!もあり、てっきり戦前からの近代建築だと思いこんでいた。でも、防空の目的から重要施設が黒く塗りつぶされた戦中の空中写真を参照していて、信濃町の北側にこの建物がないことに気がついた。
 戦前は、同所には和館とみられる大きな屋敷が建っていて、山手大空襲Click!により周囲の屋敷林ともども全焼している。現在の信濃町9~10番地のほぼ全体を占めるほどの広さで、誰の屋敷だったのかは不明だが、その広い敷地の北寄り、ちょうど母家があったあたりに、現在の文学座アトリエは建っていることになる。
 文学座アトリエは、同劇団のサイトによれば竣工が1950年(昭和25)で、伊藤義次の設計だそうだ。英国のチューダー様式を採用した意匠で、完成当時から「アトリエの会」の上演場所として利用されている。また、附属演劇研究所の発表会の舞台としても利用されていて、同研究所の研究生が卒業する際にはここで学んだ成果を表現するのだろう。おそらく連れ合いも、ここで発表会(舞台)をやっているにちがいない。
 文学座附属演劇研究所による卒業発表会のときに制作された冊子を見ると、この信濃町にある文学座アトリエで演技の学習や演劇の講義、舞台の練習などを行なっていた様子がとらえられている。卒業発表会のパンフレットは、学校でいえば卒業アルバムに相当するもので、同期に卒業した研究生全員のプロフィールとともに、集合写真やアトリエでの稽古、講師や先輩たちによる講義の様子などが掲載されている。
 連れ合いの卒業時には、36名の研究生がいたことがわかるが、現在の文学座附属研究所の研究生の募集人数は30名なので、当時は研究所への入学希望者がかなり多かったのだろう。あのころでいえば、東京芸大の人気学科を超える“狭き門”だったらしい。男女の比率は、男子が18名で女子が18名のちょうど半々で、中でも演劇の伝統Click!からか早大の劇研などの演劇グループや、文学部演劇科の学生が多かったと聞いている。
 これらの卒業生たちは、俳優や声優になったり、演劇の演出家や劇団の主催者など、現在でも演劇にかかわる仕事をしている人たちが多い。連れ合いのように、とりあえず演劇から離れ、まったくちがう方向へ進んでいった卒業生のほうが、むしろめずらしいのかもしれない。同期の仲間から、ときどき連絡があるようだが男子の卒業生は演劇人が多く、女子の場合はまったくちがう生活を送っている方が多いのは時代のせいもあるのだろう。
 また、卒業発表会の冊子には、同研究所で演劇を教えていた講師陣による寄せ書きが掲載されており、卒業生へたむけたひと言が手書きの文字で掲載されている。たとえば、以下のようなコメントだ。1975年(昭和50)に発行された「第十四期卒業発表会」(文学座附属研究所)から、その一部を引用してみよう。
  
 あれっ! もう卒業なの? 何もしないうちに終っちゃったね。まあ、残んなくても、街で会ったら、飲みましょう:楠本章介/あなた方の芝居観るの、ホント、勉強になるわ! アーラいやだ、私なんか鼻たれ小僧もいいとこよ、何年、やっても……。どう遊ぶかよ。遊んでる時が恐いのよ!:田代信子/う~ん……そうねえ、あん時のことは……今言う江戸弁は、曲がりなりにもよくやるけど、東京弁というのは難しいもんですよ。皆、なかなかうまくやった。実は僕、驚いてますよ。:龍岡普/才能の乏しい人は粘ること!……あの人を見よ!:藤原新平/早くうまくなってオレみたいな役者になれよ!:小林勝也/精一杯自分を出しなさいネ:南一恵/日常の色々な音をつかまえること 生きたセリフのいえる役者になれ:横田昌久(順不同:以下略)
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 演劇の世界はただ観るばかりで、その内情はほとんどまったく知らないが、まるで進路が決まった高校生を送りだす熱血教師のような言葉が並んでいて熱い。
 なんらかの表現や成果物を求められる仕事には、必ず才能の有無が常に問われてくることになる。それは、別に他者に問われるばかりでなく、自分自身への問いかけも折々何度でも発生してくるだろう。また、それは一生の仕事になるかならないか、人生を賭けてもいいのかどうか、どれぐらいつづければ仕事に自信がつくのか……、別に演劇に限らず、なんらかの専門分野で仕事をする人間なら、誰しも自問自答を繰り返すことになる。
 同じく講師のひとりだったと思われる、先年84歳で他界した演出家の岩村久雄は、冒頭に『雑感』と題してこんなことを書いている。同冊子より、つづけ引用してみよう。
  
 何年か続けて卒業生に送る言葉を書いてきたが今思いつくことがすべて何年か前に書いたような気がして筆がうまく運ばない。しかし、そう沢山のことを言っているわけではなく、芝居のむづかしさを、時には、俳優としての才能のない者は直ちに止めて転業せよとすすめたり、努力すれば何とかなるだろう等とわけしりだてにいっているにすぎないのだ。自分に才能あり、という幻想を抱きながら泥沼にづるづる(ママ)とのめりこんで行く悲劇を自覚せよと書いた年に何人かの生徒が自分にはそういう才能があるかどうか打割って話して欲しいと言われて困ったことを覚えている。あの時、しかし何と答えようと、決してその人達は止めることなく続けているだろう。
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 「自分には才能がなく、向かない世界かもしれない」と、早めに見切りをつけて転身した連れ合いのようなケースもあれば、せっかく文学座の演劇研究所を卒業したのだからと、演劇の世界をあきらめきれずに現在でも地道につづけている方もいるのだろう。好きで飛びこんだ世界なのだから、本人がとても満足しているならそれはそれでいいのではないかと思う。上記の文章で、「才能があるかどうか」を訊ねた卒業生がいたようだが、それはどこかで自分自身が見きわめることであって、あえて他者に訊くことではないだろう。
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 好きな演劇の世界にいる仲間ということで、なんとなく講師と研究生たちの和気あいあいとした雰囲気が伝わってくるが、アトリエにひときわ緊張が走る時間もあった。アトリエの裏に住んでいる杉村春子Click!が、演技指導で姿を見せるときだ。まず、アトリエ内を隅々まで掃除してきれいにし整理整頓しておかないと、汚れているところを見つけたら最後プイッと母家へ帰ってしまうので、まるで研究生たちは昔の「姑」のチェックを待つ「嫁」のような心境だったのではないだろうか。いかにも、歳をとった杉村春子Click!は佐々木すみ江と同様、ちょっと意地悪な「姑」役がピッタリ似合いそうだが……。w
 まあ、文学座の実質上のボスなのでしかたがないのだろうけれど、母家へ呼びにいくのは研究生たちが順番で(いやいや?w)かわりばんこに担当していたようだ。そして、彼女はそのときどきで多種多様な役どころを演じて見せると、アトリエから再び母家へ泰然ともどっていったらしい。要するに、細かな演技の指導や技術の講釈をするよりも、最初は見よう見マネでおぼえろという教育方針だったのだろう。
 杉村春子が若い子たちに向け、あまり教育熱心でなかったのには理由がある。彼女には、せっかく建設したアトリエで自由に稽古をすることができず、文学座の研究生たちに半ば“占領”されていまった……というような意識が強くあったのではないか。つまり、文学座の俳優たちが舞台稽古のため、いつでも自由に使えてこそ劇団のアトリエとしての意味があるのに、いつも駆けだしで右も左もわからないような若い子たちが占有して、自分の思うように稽古ができないという不満がくすぶっていたのだろう。
 2002年(平成14)に日本図書センターから出版された杉村春子『舞台女優』Click!では、こんな不満をチラッともらしている。
  
 それでもしばらく、私が芝居をすれば、古いの何のといわれ、いやな思いをしましたが、私がそれまで生きてきたのは芝居がしたかったからで、文学座のアトリエは私にとっては何にもかえ難いところでした。このアトリエで一つの芝居をはじめからああでもない、こうでもないとつくり上げることができます。その魅力です。/しかし、それもなかなか自由にはできませんでした。アトリエが若い人たちの道場のようになることは大いに結構なことでしたが、私たち古くからいる者はアトリエの椅子一脚でさえ、どれを使ってよいかわからなくて寂しい思いをした時もありました。
  
 どうやら、自分たちが稽古に使いたいのに、いついっても「若い人たちの道場」化してて、思いどおりにならないことにちょっとスネていたようなのだ。杉村春子のような女性が一度スネると、機嫌が直るまでに少し時間がかかりそうだけれど、「私のかけがえのないアトリエを汚さないでちょうだいな、ここは芝居が生まれるとても神聖なところなのよ」という、彼女の思いもなんとなくわかるような気がする。
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 文学座には、同劇団を応援する“友の会”のような「文学座パートナーズ倶楽部」というのがある。研究所を卒業した連れ合いは、当然この倶楽部に入っていると思いきや、劇団民藝を応援する「民藝の仲間」になってたりする。ご近所に住んでいた白石珠江さんClick!つながりで、民藝の芝居のほうが好きらしいのだが、これって慶應を卒業したOGが稲門会に入っているような、妙な具合なんじゃないだろうか。両劇団とも、ここ数年の新型コロナウィルス感染症禍ではリモート舞台へ積極的に取り組んでおり、生き残りを賭けて必死だ。

◆写真上:信濃町の文学座アトリエで、裏には生前の杉村春子が住んでいた。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大きな和館とみられる屋敷があった現・文学座敷地の一画。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる文学座アトリエ。は、1975年(昭和50)撮影のちょうど連れ合いが研究生として通っていたころの同アトリエで、西側にはテニスコートが見えている。
◆写真中下は、1974年(昭和49)撮影の文学座への入口あたり。は、「第十四期卒業発表会」に寄せられた講師陣のコメント。は、1975年(昭和50)に卒業した第14期生の集合写真(意図的にぼかしている)で、現在でもTVや映画で目にする方もいる。
◆写真下は、同発表会に掲載された講師陣コメント。中左は、「第十四期卒業発表会」の冊子表紙。中右は、なにかの仕事で取り寄せた写真入りの文学座「演技者名簿」。は、1994年(平成6)上演の文学座『ふるあめりかに袖はぬらさじ』で舞台上の杉村春子。

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髑髏に惹かれる晩年の今西中通。 [気になる下落合]

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 結核にかかり、晩年には髑髏(シャレコウベ)Click!のモチーフに惹かれて描いた画家に、下落合の中村彝Click!がいる。明らかに、晩年に髑髏を描くセザンヌの影響を受けているとみられるが、結核に罹患し晩年になると同様に髑髏のモチーフに惹かれていた画家に、上落合851番地に住んだ今西中通Click!がいる。もっとも、髑髏に惹かれる晩年をすごしたのは上落合ではなく、九州の福岡市にあるアトリエだった。
 今西中通が上落合に住んだのは、近くに赤堀佐兵や赤星孝、坂本善三など独立美術協会の画家仲間が住んでいたからだが、これらの画家たちについて拙サイトではほとんどご紹介していない。彼らもまた、今西中通と同様に上落合や下落合の風景を描いている可能性が高いが、落合地域で暮らす画家たちの数があまりにも多いのに気おされて、いまだ調べきれていないのが現状だ。
 今西中通は、隣接する上落合850番地に住んでいた画学生の手塚緑敏Click!や妻の林芙美子Click!とも交流があり、野見山暁治は近くに中村恒子Click!も住んでいたと証言している。当時、画家をめざしていた中村恒子は、少数のインテリゲンチャによる前衛党の確立を提唱する福本イズムで知られる福本和夫Click!の愛人であり、パリでいっしょだった同じ鳥取出身の前田寛治Click!からの紹介で知りあったのだろう。このあと、中村恒子は下落合630番地から井荻へ転居していた里見勝蔵Click!の愛人になるが、それをいさめようとした外山卯三郎Click!がひどい目に遭っているのは、すでに記事へ書いたとおりだ。
 1930年(昭和5)から1934年(昭和9)までの足かけ5年間に、今西中通は『落合風景』Click!(1932年)をはじめ、数多くの上落合や下落合の風景を描いているとみられるが、フォービズムによる荒々しい筆致や、実景にもとづかない画面の“構成”を多くとり入れている可能性があり、どこの風景をモチーフにしているのか具体的な描画ポイントの特定はむずかしい。1934年(昭和9)には西落合の隣り、井上哲学堂Click!野方配水搭Click!が見える低地の、江古田1丁目81番地に転居している。江古田の転居先は、ニワトリの飼育小屋を人が住めるよう改築しただけの、たいへん粗末な借家だったようだ。
 このあと、江古田から世田谷の赤堤へ転居し、日米戦がはじまる1941年(昭和16)には、結核療養のために香川県坂出市の姉のもとへ身を寄せている。今西中通は高知県の出身なので、同じ四国にもどれたことにホッとひと息ついていたころだろう。彼は坂出市で、小学校の美術講師や着物の柄の下絵などを描きながら、独立展に作品を出品しつづけている。そして、敗戦後は悪化する病状を押して福岡在住の画家・谷川歳夫の誘いから、絵画研究所を設立するために終焉の地となる福岡市へ転居している。
 そのときの様子を、1978年(昭和53)に河出書房新社から出版された、当時は福岡在住だった画家・野見山暁治の『四百字のデッサン』から引用してみよう。
  
 美術学校時代はアカデミックな画法に反抗して、当時新しい運動であったフォービズムに私は熱中していた。きみはフォービズムでも何でもない、アカデミックそのものじゃないか。戦争が終わり、戦火で焼けただれた福岡の街に、四国から引っ越してきた今西中通さんは、私の今までの仕事を無惨にやっつけた。今西さんはシュール・レアリズムの心情をキュービックな画法で作りあげていて、私にはおよそ無縁の、ワケの解らない絵であった。今西さんは暇さえあればスケッチブックを持って外を歩いた。デッサンは、セザンヌそっくりだった。今西さんのそれらの絵を通して、私はグレコに熱中するようになった。
  
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 今西中通が、晩年にことさら髑髏のモチーフに興味をもったのは、中村彝と同様にセザンヌによる髑髏の静物画シリーズを目にしていたからだと思われる。無理して九州に転居した今西中通は、アトリエで寝つく日々が多くなり、本来の目的であった絵画研究所の設立は予定地が米軍に接収されて、計画自体が流れてしまった。連日つづく下がらない熱と咳に悩まされながら、野見山暁治を相手に「あともう一年でもいい生かしてくれ、次の仕事が解りかけたんだ」と語っている。
 このころ、野見山暁治と今西中通は妙な約束を交わしている。どちらかが先に死んだら、自分の頭蓋骨を相手にプレゼントするという契約だ。今西が、たびたび頭蓋骨はあまりにも美しいというので、野見山は九州大学医学部にいる友人から、こっそり頭蓋骨の標本を借りうけている。少しあと、野見山暁治は頭蓋骨をモチーフに『卓上髑髏』(1947年)を仕上げているが、大学から借りた当初は気味が悪いのと恐怖感とで、とてもモチーフにする気にはならなかったようだ。
 今西中通は、独立美術協会の画家仲間が福岡へ訪ねてくるのを楽しみにしていたようだが、自身の作品やスケッチに対して厳しかったのと同様に、他人の絵についても容赦のない批評をあびせたので、しばらくするとほとんど誰も遊びにこなくなってしまった。福岡市に転居した当時、今西はセザンヌからピカソ、ブラックなどにつながるキュビズムの流れの制約から、さらにその先へ逃れでようとする制作の焦りと、頭の中には表現のいいアイデアがあるにもかかわらず、いつまで生きられるのかわかず仕事が思うようにはかどらないせいで、しじゅう焦燥感にかられていたという。
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 野見山暁治は自身の作品について、「画面というものを意識しない、たんなる気まぐれの遊び」であり、「エカキをやめたらどうだ」とさえ酷評されている。そんな日々に交わしたのが、先の骸骨交換の約束だった。つづいて、同書より引用してみよう。
  
 こんな美しいものはない、といいだしたのは、もともと今西さんの方だった。表情をもっている人間の顔は厭だ、その中にだよ、こんなすばらしいものが、かくされているのは不思議だと思わんか、そんな風に今西さんは私をそそのかした。おそらくセザンヌの描いた頭蓋骨に、人物や静物をのりこえた絵画というものを今西さんは見たのだろう。すべての物は立体であり球体だ、というキュービズムの論理は、今西さんをとらえて離さなかったようである。/私はそのとき二十五歳だった。
  
 急速に衰弱していく今西中通は、明らかに自分が先に死ぬことを確実に意識していたはずだが、なぜ「どちらかが先に死んだら……」などという頭蓋骨交換話を野見山暁治と交わしたのだろうか。今西は、髑髏に象徴的なキュビズムの魅力に気づけと彼に教えたかったのか、それとも人間は自分自身の中にとてつもない美がひそんでいると単純に気づかせたかっただけなのか、野見山暁治はその約束にとまどうばかりで、今西の意図をハッキリとは理解できなかったようだ。
 野見山暁治が、頭蓋骨をモチーフに制作している静物画のことを知ると、今西中通は頭蓋骨を自身のアトリエにもってこさせ、もう一度、念を入れて頭蓋骨交換の約束を野見山としている。福岡へ転居してきてからまだ1年ほどなのに、今西中通は急速に衰弱していった。1946年(昭和21)から翌年にかけ、今西中通の顔は髪と髭とにおおわれて、頭蓋骨のかたちを暗示するような表情になっていったと、野見山暁治は証言している。そして、野見山は頭蓋骨そのものではなく、その骸骨のようになった最晩年の表情が「ほんとうに美しい」と感じている。このあたり、中村彝の晩年について周囲の画家たちが「キリストのように神々しかった」と証言する、表情の美しさに通じるものがあるのかもしれない。
 今西中通は1947年6月に妻と5歳になる男の子、そして半年前に生れたばかりの女の子を残して、福岡市のアトリエでそのまま死去している。37歳だった。
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 1946年(昭和21)は、敗戦後の混乱した世相から独立美術協会の展覧会は開催されなかったが、翌1947年(昭和22)12月には独立展の第15回展が開かれている。今西中通は、同展に前年制作の『静物』と『人物』の2点を出品する予定でいた。だが皮肉なことに、独立美術協会が今西中通を会員として迎え入れたのは、彼が死去したあとのことだった。

◆写真上:1930年(昭和5)制作の今西中通『風景』で、「落合風景」の可能性が高い。
◆写真中上は、同じく「落合風景」とみられる1930~32年(昭和5~7)ごろに制作された今西中通『風景』。は、1931~33年(昭和6~8)ごろ制作の今西中通『牛と車』。上落合の鶏鳴坂Click!を通う、郊外野菜を市場まで運ぶ牛車を描いたものだろうか。下左は、1978年(昭和53)に河出書房新社から出版された野見山暁治『四百字のデッサン』。下右は、落合地域のエピソードへ頻繁に顔を見せる画家志望だった中村恒子。
◆写真中下は、今西中通()と野見山暁治()。は、1947年(昭和22)制作の野見山暁治『卓上髑髏』。は、P.セザンヌ『三つの髑髏』(1900年)。
◆写真下上左は、1923年(大正12)制作の中村彝『髑髏のある静物』。上右は、1945年(昭和20)制作の今西中通『自画像』。は、1944年(昭和19)ごろ制作の今西中通『室内』。は、タブローの遺作のひとつとなった1946年(昭和21)制作の今西中通『静物』。

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上落合では安静と静養つづきの今野大力。 [気になる下落合]

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 上落合504番地に住んだ今野大力Click!は、旭川から初めて東京にやってきたのは1927年(昭和2)3月のことだった。当初は四谷郵便局に勤務し、ほどなく本郷郵便局へ移っている。それまでは旭川郵便局に勤務していたが、地元では当初叙情詩人として知られていた。東京へやってきた年にも、旭川新聞の記者だった小熊秀雄Click!や鈴木正輝らとともに詩誌「円筒帽」(すぐに廃刊)を発行している。
 今野大力は、旭川新聞紙上で福本イズムClick!に感化された北村順次郎から公開論争を挑まれ、それに対し『哀れなる盲蛙に与へる―北村順次郎君に答へて―』を書いて、頭でっかちで理論優先の北村を「甚だ奇怪にして嗤ふべき愚痴を自ら暴露し、しやあしやあたる人間である」と痛烈に批判している。今野の立脚点、すなわち労農現場に密着せず大衆を置き去りにした、インテリゲンチャの地に足が着いていない「空論」に対して、彼は死ぬまで厳しい目を向けつづけていたように見える。ちなみに、小熊秀雄もこの公開論争に参加し、今野大力を擁護する文章を書いている。
 1928年(昭和3)の「戦旗」11月号Click!から連載された、小林多喜二Click!『一九二八年三月十五日』Click!についても今野は批判的だった。福本イズム臭のする作品に対しては、必要以上とも思えるほどの批判をあびせている。小林多喜二の同作については、「前衛分子のみによつて運動が出来ると思ふ大衆に対する甚だしき不信(無関心)のバクロは結局唯心的な理想主義的な傾向であつて、正しきプロレタリア文学ではない」(『小林多喜二君の作品』/1929年)とまでいいきっている。このあたり、自身は「文芸戦線」派であり、小林多喜二は「戦旗」派であるというような、どこか“セクト主義”的な狭量が透けて見えるが、まさか自身が「戦旗」「婦人戦旗」「少年戦旗」の3誌をその終刊号まで編集し面倒みることになるとは、当時の今野大力は思ってもみなかったろう。
 1928年(昭和3)6月、旭川から小熊秀雄一家が東京へとやってくることになり、在京の今野大力と鈴木正輝は巣鴨刑務所近くの巣鴨町向原(現・東池袋2丁目)に借家を見つけ、小熊一家とともに今野と鈴木も同居して共同生活をしている。ちょうどこのころ、今野は「文芸戦線」の黒島伝治と知りあった。だが、肋膜炎が悪化していた今野大力は、9月になると本郷郵便局を辞職し、静養のために旭川へ一時帰郷している。
 小熊秀雄は杉並町堀之内(現・杉並区堀ノ内)へ転居したあと、翌1929年(昭和4)春には落合地域の北隣り、長崎町西向(現・豊島区千早町2丁目)へと転居してくる。1990年(平成2)出版の宇佐美承『池袋モンパルナス』(集英社)では、「絵かきのなかに詩人がひとり、まぎれこんでいた。色白く、額ひろく頬はこけ、秀でた眉は横一文字……」という書きだしで登場する、小熊秀雄の“池袋モンパルナス時代”のはじまりだった。
 旭川にもどった今野大力は、肋膜炎がよくなると北都毎日新聞社に入社して編集記者をつとめている。小熊秀雄が長崎町に転居したころ、今野大力は旭川で四・一六事件に巻きこまれ検挙された友人たちの支援活動をつづけながら、病院で看護助手をしていた丸本久子と知りあい結婚している。だが、それもつかの間、黒島伝治からの強い要請で今野は再び東京へ単身やってきて、労農芸術家連盟へ参加している。このとき、杉並町高円寺にあった文芸戦線社の2階に、今村恒夫や長谷川進らと合宿している。そして、旭川の久子夫人を呼び寄せて、1930年(昭和5)6月から暮らしはじめたのが上落合504番地の家だった。
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 久子夫人はこのときまだ19歳で、丸本家から家出同然に東京へとやってきている。家出を手助けしたのは、文学好きな姉の丸本照子で、小熊秀雄とは旭川新聞社時代の同僚で旧知の文学仲間だった。久子夫人は非常に明朗な性格で、当時26歳になっていた今野大力はその「明るさ」にずいぶんと助けられることになる。宮本百合子Click!『小祝の一家』(1934年)には、こんな1シーンがある。
  
 いろいろ本をかりて読み、或るとき、何と思いちがいしたかマルクスの「資本論」をかしてくれと云った。五日ばかりすると、まだ下げ髪にしていた乙女が、小鼻に汗の粒を出してその本を患者の室へ返しに来た。/「――わかった?」/ 勉が、つい特長ある口元をゆるめ笑顔になって訊いた。そのとき乙女は、額からとび抜けそうに長い眉をつり上げ、二人とも小柄ながら、乙女よりは三四寸上にある勉の顔を見上げて、/「――わかんない!」/ 力をこめ首をふって、今云ったように云ったのであった。
  
 登場人物の「勉」が今野大力で、丸本久子が「乙女」という設定だが、旭川で似たようなことがあったのだろう。壺井栄Click!の作品に登場する彼女も、屈託なく非常に明るい性格に描かれているので、ほんとうにそのような女性だったのだろう。
 文芸戦線社の内紛と、今野大力が重傷を負った「焼ゴテ事件」が、この上落合時代に起きているのは前回の記事Click!で書いたとおりだ。1931年(昭和6)の春、今野大力は戦旗社へ入社し、以降「戦旗」が特高Click!の徹底した弾圧により発行できなくなるまで、同社雑誌の編集業務をつづけている。同年11月、上落合460番地の全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!本部のあとに日本プロレタリア文化連盟(コップ)Click!が結成され、今野大力も参加している。彼はそこで小林多喜二とも顔を合わせているはずだが、その様子は記録されていない。
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 翌1932年(昭和7)3月、コップへの弾圧がはじまり、3月26日には今野大力も検挙され駒込署へ連行されている。そして、殴打をつづける拷問で中耳炎となり、治療を受けさせず放置されたため意識不明の重体となって、特高はしかたなく陸軍軍医学校の下部組織で警察ともつながりが深い、戸山ヶ原Click!陸軍軍医学校Click!陸軍第一衛戍病院Click!に隣接する済生会病院Click!へ入院させた。
 もちろん、同病院では思想犯に満足な治療をほどこすはずもなく、軍医見習いに治療をまかせたため、退院後に病状が悪化し危篤状態に陥っている。中耳炎のいい加減な手術や治療から、乳嘴突起炎を起こし、脳膜炎を併発してついに瀕死の重症になった。宮本百合子の父親が設計したつながりと、蔵原惟人Click!の母親で北里柴三郎Click!(慶應義塾大学医学部の初代学部長)の妹だった蔵原しうClick!の働きかけから、慶應病院へ緊急入院することができたが、危篤状態を脱したのはおよそ11月になってからだった。4月に済生会病院へ入院してから、すでに半年が経過しており今野大力は一命をとりとめたものの聴覚を失った。
 そのときの様子を、1995年(平成7)に出版された『今野大力作品集』(新日本出版社)収録の、『奪われてなるものか―施療病院にて―』から引用してみよう。
  
 おれには君の唇の動くのが見えるだけだ/パクパクとただパクパクと忙しげな/静けさ、全くの静けさイライラする静けさ/扉の外に佇っていたパイの跫音も聞こえない/何と不自由な勝手のちがった静けさか/音響の全く失われたおれの世界/自分の言葉すら聞えず忘れてゆこうとしている/おれは君と筆談だ、(後略)
  
 今野大力が検挙されたあと、久子夫人と娘は淀橋町柏木の家を大家に追いだされ、上落合503番地の壺井栄・壺井繁治夫妻Click!宅(このとき壺井繁治Click!は検挙・拘留されていて不在だった)に身を寄せていた。済生会病院をいい加減な治療のまま退院したあと、一時的に今野大力も壺井宅へ寄宿していたが、危篤状態ののち慶應病院から退院したあとも、同様に壺井宅で静養していたとみられる。慶應病院で介護人として付き添ったのは、久子夫人をはじめ窪川稲子(佐多稲子)Click!壺井栄Click!たちだった。
 1933年(昭和8)2月、小林多喜二Click!が築地署で虐殺Click!される前後、今野大力は旭川から父母と弟妹ら一家全員を呼び寄せていっしょに暮らしはじめている。だが、今野大力に残された時間はもうあまりなかった。特高の拷問で受けたダメージ以来、健康がみるみる失われ結核の症状が日に日に進行し悪化していった。静寂な小金井の家に移って療養していた今野は、1935年(昭和10)4月、ついに東京市中野療養所(江古田結核療養所)Click!へ入所し、担当の医師から「余命1ヶ月」を宣告されている。
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 同年5月27日、小熊秀雄は東京市中野療養所に入院中の、今野大力の病床を見舞った。だが、高熱がつづく今野大力はあいにく就寝中で、小熊は出版されたばかりの『小熊秀雄詩集』(耕進社/1935年)の見返しに、ベッドの枕もとにあった赤青2色の色鉛筆でなにか書きとめると、本をそっと置いて立ち去った。旭川時代からの親友だった彼が見た、今野大力のやつれはてた最後の姿だった。だが、小熊秀雄もまた結核で長くは生きられなかった。

◆写真上:1930~31年(昭和5~6)に上落合504番地の今野大力宅跡(左手前)と、1937年(昭和7)に上落合503番地で静養した壺井栄・繁治夫妻宅跡(左手奥)。
◆写真中上は、「文芸戦線」に執筆した今野大力()と「戦旗」に書いた小林多喜二()。は、1929年(昭和4)に刊行された「文芸戦線」11月号と「戦旗」11月号。
◆写真中下は、戸山ヶ原の済生会病院と陸軍軍医学校。陸軍第一衛戍病院が建設中なので、おそらく1929年(昭和4)ごろの撮影とみられる。は、済生会病院の正面玄関。は、昭和初期の慶應義塾大学病院。二度にわたる上落合在住の今野大力を追いかけていると、「焼ゴテ事件」の治療や特高の拷問による静養生活ばかりなのに気づく。
◆写真下は、1941年(昭和16)に撮影された今野大力の終焉地となった中野区江古田の東京市中野療養所の全景。は、別人のようにやつれはてた死の床の今野大力。は、中野療養所跡の現状で現在は北端が中野区立江古田の森公園となっている。

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落合地域の周辺で設計された昭和初期住宅。 [気になるエトセトラ]

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 以前、落合地域で設計された昭和初期の住宅を「文化住宅を超える落合の次世代型住宅」シリーズClick!として、落合町の3邸Click!ほどをご紹介していた。朝日新聞社が主催したコンペに、建築設計士たちが500点ほど応募し、そのうちの上位85作品が1929年(昭和4)に『朝日住宅図案集』Click!(朝日新聞社)として出版されている。また、上位16案の住宅設計図が、当時は新興住宅地の成城学園Click!で実際に建設されている。
 さて、以前は落合地域に限定して住宅作品を紹介してきたが、隣接する周辺域では大正末から昭和初期にかけどのような住宅が設計され、建てられたとすればどのような意匠をしていたのだろうか。まずは、落合地域の東隣りにあたる高田町高田1497番地、建築士・吉田亨二事務所に所属していた松浦嘉市の作品(朝日住宅29号型)から見ていこう。ちなみに、1497番地は当時の高田町の高田エリアには存在せず、字名が高田町鶉山1497番地とならないとおかしいが、地番のほうがまちがっている可能性が高い。おそらく、高田町高田1417番地の誤植ではないだろうか。
 高田町高田1417番地には、“オール電気の家”Click!で有名な電気工学の早大教授・山本忠興邸Click!があり、同じ早大教授で建築学の吉田亨二邸(事務所)も近接して建っていたのではないか。同事務所の松浦嘉市は、設計図に添えて次のように書いている。
  
 屋根は銅板瓦棒葺にして、壁は外部をクリーム色「アサノマイト」内部を白色「アサノマイト」塗とす、玄関及びポーチ、テレス(テラス)、コンクリート打とし、外部腰は茶色スクラツチタイル貼りとす、玄関内部腰は泰山タイル貼りとす、外部に面せる出入口の扉はシユラーゲのボタンロツクを使用す、便所は特に内務省式改良便所とせり。(カッコ内引用者註)
  
 「アサノマイト」は、石灰を主原料とする燃えにくい壁材で、当時は外壁用と内壁用が売られていた。シュラーゲは米国のドア金具メーカーで、現在でも多くの製品が販売されている。また、「内務省式改良便所」とは、便槽の内部に上下からの隔壁を設置し汲取り口までの経路を長くして、寄生虫Click!の卵や菌の死滅率を高めた便所のことだ。以前、「大正便所」というような呼称が登場していたが、同様に寄生虫の卵や菌を死滅させるため、構造に工夫をほどこした汲取り便所のことだ。
 外観および内観は、一部の女中室(3畳)を除けば今日の住宅とほとんど大差なく、和室も6畳間が1室あるだけで残りはすべて洋間となっている。また、あらかじめ主寝室や子ども部屋には、ベッドが造りつけで設置されていて、押入れから蒲団を取りだし敷いて寝るという生活スタイルをやめている。応接間は書斎を兼ねており、また2階の和室6畳は来客を泊めたりする予備の部屋のような扱われ方だったようだ。
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 次に、同じ高田町の雑司ヶ谷472番地に住む、猪瀬靑葦による朝日住宅69号型の設計図をみていこう。この住所は、当時の高田第一小学校(現・雑司が谷公園)のすぐ北側あたりの地番だ。平家建てでコンパクトな木造住宅だが、内部はかなり凝った造りとなっている。玄関を入ると、ステンドグラスによるオリジナルの窓が目にとまる。客間(応接間)と書斎(図書室)とを分け、また台所(4畳半)と茶の間(=食堂/4畳半)がつながった今日のダイニングキッチンのような仕様が採用されている。すでに女中部屋はなく、家族が参加して家事を分担するような設計だ。
 また、ベランダの先にはテラスが設けられ、パーゴラにはブドウやヘチマ、フジなどの蔦植物を這わせることで日陰ができるようになっている。面白いのは、家族の茶の間と居間とが分かれており、この2室だけが7畳と4畳半の日本間だったことだ。
  
 居間――は家族のもの、常住する所たるは言を待ちません故に一番便利で而も衛生上最良の処を選びました、人数の少ない家ですから来客の場合を考へ、主婦の居り勝ちな台所と居間とを玄関に近くとり、しかも二室は寝室ともなり、又夏など浴衣一枚で横臥に涼をとることもある関係上、仕切り戸を解放のまゝでも直接玄関より見えぬやうに、三尺の廻し戸を以てこの目的を達せしめました。/茶の間――使用時間の短い室ですが一家の団欒する所です、うらゝかな朝陽のもとに、又月の夜の室として配置させました、花台も作り、ラヂオも置けばこの室とします、タンス入れはカーテンにて隠すだけ
  
 つまり、居間は主寝室として使用するが、家族が同時に寝るとは限らないので、誰かが起きているときは常に茶の間が使えるようにしている……ということなのだろう。「人数の少ない家」と書いているが、夫婦に子どもふたりの家族を想定している。
 建設費は3,000円なので、物価指数をもとに現代の貨幣価値に換算すると210万円ほどになり、設計費を入れても当時のサラリーマンには無理のないマイホームだったのだろう。ただし、これらの住宅はみなコンパクトで効率的にできているが、今日と大きく異なる点は庭が広めだということだ。庭園には、広めの芝生や花壇を設置してもまだ余るほどの広さで、のちに子どもが増えたりした際の増築を前提にしているのかもしれない。
 この住宅は、日本の気候に合わせて和室をできるだけ活かす設計をしているが、冬はかなり寒かったのではないだろうか。外観もどこか和風の雰囲気を残しているが、モダンな窓やテラスなどはともかく、これは当時の雑司ヶ谷に拡がる街並みや風情にフィットするようにとデザインされた設計者の意図をなんとなく感じる。
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 次に、落合地域の南東側に接する戸塚町諏訪172番地に住む、牧野正治と御田鋼男による共同設計の住宅だ。この地番は、高田馬場駅から早稲田通りを東へ200mほど歩いて右折した、ちょうど蒲焼き「愛川」Click!の斜向かいあたりの住所だ。
 朝日住宅76号型は和風の造りなのだが、同じく3,000円でできる住宅として設計されている。外観は一見洋風なのだが、室内は畳の部屋がメインで10畳の客間に6畳の居間、4畳半の子ども部屋という構成になっている。洋間は10畳大の書斎にキッチン、狭い化粧室の3部屋だが、すでにこの住宅にも女中部屋は存在しない。和風らしさは、南側に設けられた縁側廊下に表れているが、庭には積み石によるサークル状の噴水が設置されており、芝庭の拡がりとともに洋風な雰囲気を漂わせている。
 牧野正治と御田鋼男が書いた解説文、「設計に関する特長」から引用してみよう。
  
 家族本位とし間取りに変化を与へたり/便所は大正便所/盗難除けの為外部を洋風とせり/子供室を東南の最上の位置に配置せり
  
 西洋館には泥棒や強盗が入りにくいというのは、大正期からいわれていたことで、建物自体が堅牢な造りに加え、海外から輸入した頑丈なドアや窓などの部材・金具が使われていて、簡単には侵入できなかったからだ。確かに、大正末から昭和初期にかけて説教強盗Click!がねらった家々も、その多くが日本家屋か和館併設の和洋折衷住宅だった。
 大正期の落合地域には、それまでの日本家屋を否定するような西洋館が、東京土地住宅Click!箱根土地Click!、あるいはあめりか屋Click!などによって次々と建設されていったが、雑司ヶ谷や戸塚町は同じ郊外でも市街地により近く、落合地域よりも古い街並みなので、どちらかといえば従来の家々を……というか街並みに合うような住宅が設計され、建設されているように見える。
 昭和初期の新しい住宅は、和洋折衷の設計で女中部屋や書生部屋を排し、家族が積極的に家事へ参加できるような造りになっている。しかも、急増する勤め人=サラリーマンの核家族向けに、それほどコストがかからずコンパクトな設計が主流になっていく。『朝日住宅図案集』の編集に参画したらしい、上落合470番地Click!に住む東京朝日新聞社の記者・鈴木文四郎(文史郎)Click!は、同書の「和洋折衷に就いて」で次のように書いている。
  
 服装と同じく、住宅についても和洋折衷の可否についてはいろいろ議論があるやうで、何れか一方に決める可しといふ人も多いやうです。併し、私の観る所では、体裁や調和の上から和洋何れか一方にするのが望ましいやうですが、実用本位からは折衷少しも差支えないのみならずむしろ奨励すべしだと思ひます。総て西洋式の家に住むことは、寝室にしても食堂にしても他に流用が出来ず不便であります。少くとも建坪五十坪以上の家で、経済的にも可成り余裕のある家庭でないと、中途半端なものになるおそれがあります。純日本式の住宅は、一つの室が客間にも寝室にも利用され、その点では経済的であります。
  
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 鈴木文四郎Click!はこう書くが、戦後、建築資材の品質や建築技術が向上し住宅の密閉度が高くなるにつれ、事情は大きく変わってくる。日本の気候で、機密性が高い住宅の日本間(畳部屋)は、たちどころにカビやダニの温床となってしまう。わたしの家で唯一設置していた約7畳の和室を、先年のリフォームでついに洋間に変えてしまった。いくら殺虫剤で燻蒸Click!しても、機密性が高い現代住宅ではカビやダニの繁殖を防げないことがわかったからだ。

◆写真上:大正末に建てられた家の2階から、樹木が大きく育った庭先を眺める。
◆写真中上:高田町の松浦嘉市が設計した、朝日住宅29号型。
◆写真中下:高田町雑司ヶ谷の猪瀬靑葦が設計した、朝日住宅69号型。
◆写真下は、3葉とも戸塚町諏訪の牧野正治と御田鋼男の設計による朝日住宅76号型。
は、大正末から昭和初期の住宅で流行したステンドグラスを活用した窓。

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上落合時代の今野大力の暮らしが見えにくい。 [気になる下落合]

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 1935年(昭和10)5月27日、小熊秀雄Click!東京市中野療養所(江古田結核療養所)Click!に入院中の、今野大力(だいりき)Click!の病床を見舞った。だが、高熱がつづく今野大力はあいにく就寝中で、小熊は出版されたばかりの『小熊秀雄詩集』(耕進社/1935年)の見返しに、ベッドの枕もとにあった赤青2色の色鉛筆でなにか書きとめると、本をそっと置いて立ち去った。小熊秀雄が見た、今野大力のやつれはてた最後の姿だった。
 『小熊秀雄詩集』の見返しには、今野大力へあてた次のような献辞が書かれていた。
  
 僕は君の意志の一部分/を、この詩の仕事で果/し分担した、将来も/君の意志を継続することを誓ふ/一九三五・五・二七 著者/今野大力様/江古田の東京療養所にて
  
 北海道の旭川時代から、今野大力が江古田の結核療養所で死去するまで、ふたりがきわめて親密な関係にあったことをうかがわせるエピソードだ。小熊秀雄は寝ている病人を起こさず、枕もとに詩集を置いてそのまま立ち去ったが、その23日後に今野大力は力尽きている。これから創作活動が本格化する、まだ31歳の若さだった。
 たとえば、長崎町五郎窪から落合町葛ヶ谷640番地(のち西落合2丁目641)へ転居し、下落合1443番地の福田久道Click!が主宰する「木星社」Click!から長編叙事詩『昔の家』を刊行した千家元麿Click!は、いくつかの資料をあたれば同時代の社会的状況や当時の街並みとともに、落合地域で生活する姿が浮かびあがってくる。だが、同じ落合地域に住んだ上落合504番地の詩人・今野大力は、ぼんやりとした姿でしかとらえることができない。
 今野大力について書かれた本はけっこう多い。古いところでは1972年(昭和47)に地元の旭川で出版された佐藤喜一『詩人・今野大力』(創映出版)をはじめ、1995年(平成7)出版の『今野大力作品集』(新日本出版社)、1996年(平成8)出版の津田孝『宮本百合子と今野大力』(同)、新しい本では2014年(平成26)出版の金倉義慧『北の詩人・小熊秀雄と今野大力』(高文研)などがある。また、今野大力をモデルにした小説には、壺井栄『廊下』(1940年)や宮本百合子の『一九三二年の春』(1932年)、『小祝の一家』(1934年)、『刻々』(1933年)などいくつかの作品がある。
 だが、『廊下』は中野療養所へ入所した今野大力をモデルにしており、また『小祝の一家』は上落合を出て旭川から家族全員を呼び寄せた1933年(昭和8)以降の情景だし、『刻々』は特高に逮捕された1932年(昭和7)の留置所における今野大力を描いている。彼が再び上落合へもどり壺井栄・繁治宅Click!に寄宿するのは、『刻々』で受けた拷問のあとのことだ。そして、これらの作品は小説の形式で描かれており、事実に限りなく近いとしても作者の想像や創作が加わっている可能性を否定できない。
 なお、佐藤喜一『詩人・今野大力』は今野大力と小熊秀雄が論争のすえに訣別していると解釈しているが、その後、ふたりは最後まで緊密な関係にあったことが、のちの証言者たちによって明らかになっているので留意が必要だ。
 さて、これらの本や資料にいくら目を通しても、上落合に住みそこで生活をする今野大力のリアルな姿が浮かんでこない。このような例は、これまで落合地域にいたさまざまな分野の人物を取りあげてきた中ではめずらしいケースだ。旭川時代と、東京にやってくる前後の姿は鮮明で印象的だ。また、特高Click!の拷問で中耳炎から脳膜炎になり、それが治癒すると旭川から家族全員を呼び寄せてていっしょに暮らすが、やがて結核Click!が悪化して東京市中野療養所へ入院する経緯も、さまざまな資料からその情景が思い浮かぶ。だが、上落合時代の今野大力の姿が、まるで霞の向こうにいるようでハッキリしない。
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 今野大力が、友人たちと住んでいた高円寺の下宿から上落合504番地の借家に転居してきたのは、1930年(昭和5)のことだった。ちなみに、2年後には隣家の上落合503番地に壺井栄・繁治夫妻Click!が転居してくるので、壺井夫妻は今野から借家の大家を紹介されているのかもしれない。この年の6月、旭川から妻の久子を呼び寄せているので、おそらくそれに合わせての転居だったのだろう。同年の11月、今野大力は「文芸戦線」を発行していた労農芸術家連盟を黒島伝治Click!らとともに脱退し、文線打倒連盟を結成している。そして、11月24日には労芸に残ったメンバーの前田河広一郎と岩藤雪夫らから暴行を受け、耳の下に焼きゴテをあてられて重傷を負った。
 いわゆる「焼ゴテ事件」について、同年12月13日に上野自治会館で開かれた真相報告会に出席した、佐藤喜一の『詩人・今野大力』(創映出版)から引用してみよう。
  
 私はこの夜誰と誰とがバクロ演説をしたか記憶していない、ただ今野大力の話、それもさいごの一句だけが今もありありと残っている。焼ゴテ事件はその源を「文線」発表の代作、盗作問題に端を発していた。岩藤雪夫が(略)「工場労働者」「訓令工事」がいずれも井上健次という無名作家の代筆だとわかった。これを合理化した共同制作のテエゼが金子洋文、前田河広一郎らによって発表され、かねて不満を持っていた黒島伝治らを脱退に導き、伝治と親しかった今野も道連れをし、なぐりこみを掛けた文線側の暴力漢、宮本百合子によれば、岩藤に今野が焼ゴテをあてられたというのである。/私の見た今野は色の浅黒い、やせた小男に見えた。「この顔にベッタリ焼ゴテを……」と発言したトタン、「弁士中止」が傍の臨検からかかり彼は別室に退場した。
  
 ゴーストライターが書いたものを、自作だと称して発表するのは文学作品では忌避されるべき話だが、当時の「文芸戦線」では常態化していたらしい。それが批判されると、「共同制作」という「テエゼ」をデッチ上げたため、呆れた黒島や今野が反発して脱退したのだろう。また、佐藤喜一の文章ではハッキリしないが、今野大力が警官から「弁士中止」を命じられたのは、「焼ゴテ事件」が警察の拷問のようだと発言したからだ。
 1930年(昭和5)の上落合時代、今野大力はこの「文線」内部で起きた創作に関する対立の大混乱に巻きこまれていたせいで、上落合ですごす生活の様子、彼の“生(き)”の姿があまり見えてこない。このあと、今野大力は日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)Click!に参加して、機関紙「戦旗」Click!の編集にたずさわることになる。戦旗社において、地味で根気のいる編集の仕事をする今野についても、多くの資料ではあまり触れられていない。
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 たとえば、同じ詩人である壺井繁治の『激流の魚』(1966年)では、今野について「宮本百合子の下で」活動していたという程度の認識にすぎず、戦旗社のメンバーがほとんど逮捕されていく中で、「戦旗」「婦人戦旗」「少年戦旗」の3誌をひとりで最後まで編集しつづけたことには触れていない。他の資料もほぼ同様で、地味な仕事を引き受けた今野大力の印象は薄く、むしろ共産党の思想とは一線を画した小熊秀雄Click!が、折につけ今野大力の存在や作品に言及している。ただし、今野も小熊も早逝してしまったため、ふたりが再び注目を集めるのは戦後かなりたってからのことだ。
 1931年(昭和6)6月に、今野大力夫妻は落合地域の南側にあたる淀橋町柏木(現・東中野)へ転居し、このころに長女が生まれている。上落合時代から戦旗社の仕事をつづけていたが、当時の様子を、金倉義慧『北の詩人・小熊秀雄と今野大力』(高文研)に収録された、松居圭子「“婦人戦旗”のこと」より引用してみよう。
  
 <宮本>百合子さんのことはさておき、私には今野さんのイメージが、今もなおいきいきと記憶に残っている。健康そうでない青い顔や姿、ボソボソと語ることば、猫背、いつもガリ版を切っていた今野さんの姿。(中略) 一度こんなことがあった。百合子さんが洋装で印刷所にやってきた(といってももちろん彼女としてはできるだけ地味なものではあったが、昭和の初期にはまだ洋装はまれであった。しかも秘密を要する印刷所へ来る婦人としては)、今野さんにさっそくきびしく、といっても例のボソボソ声で、遠まわしに、しかし、いかにも迷惑そうに、目だたぬ服装で来てほしいとたしなめられた。次に会った彼女は、「母に貸してもらった」こまかい大島の絣を無造作に着て私たちの前にあらわれたことはいうまでもない。/このコンビで、「婦人戦旗」ははぐくまれていったのである。(< >内引用者註)
  
 小石川の裕福な家庭で育った宮本百合子と、酷寒のなか旭川の貧困家庭で苦学しながら育った今野大力とは、まったく対照的な性格のコンビだったが、それほど異なる境遇や性格のふたりだからこそ、どこかでウマがあったのかもしれない。
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 このあと、今野大力は特高に逮捕され、そのときの拷問がもとで中耳炎を発症し、意識不明の状態で釈放されて警察から戸山ヶ原Click!済生会病院Click!へ移された。ところが、陸軍軍医学校の系列組織だった同病院では、軍医見習いによるいい加減な治療がほどこされ、恢復していないにもかかわらず彼を放りだしている。1932年(昭和7)6月、今野大力は上落合503番地の壺井栄・繁治宅へ寄宿して、再び上落合で養生することになるが、このように上落合時代の今野は常に重大事件に巻きこまれていたため、生活の細かな様子や落ち着いた日々の姿が記録されにくかったのだろう。済生会病院の「治療」がお粗末だったせいで脳膜炎を併発し、今野大力はほどなく危篤状態におちいるが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:上落合504番地の、今野大力夫妻宅跡の現状(奥左手)。
◆写真中上は、今野大力()と小熊秀雄()で、旭川時代からの詩作をめぐる親友だった。は、1935年(昭和10)に今野大力が入院した東京市中野療養所。
◆写真中下上左は、1972年(昭和47)出版の佐藤喜一『詩人・今野大力』(創映出版)。上右は、1995年(平成7)出版の『今野大力作品集』(新日本出版社)。下左は、1996年(平成8)出版の津田孝『宮本百合子と今野大力』(新日本出版社)。下右は、2014年(平成26)出版の金倉義慧『北の詩人・小熊秀雄と今野大力』(高文研)。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる今野大力宅(上落合504)と壺井栄・繁治夫妻宅(上落合503)。は、上落合503番地の壺井栄・繁治夫妻宅跡の現状。

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石堂守久一派は赤坂から雑司ヶ谷に移ったか? [気になるエトセトラ]

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 少し前になるが、石堂八左衛門守久Click!の年紀入りの脇指が発見されて、刀剣界ではちょっとした話題になった。八左衛門は、滋賀県蒲生郡石堂を出自とする、備前伝を得意とする石堂派の刀鍛冶だが、江戸石堂の主流である石堂是一一派に比べ謎が多い刀工として知られている。石堂守久は、蒲生郡石堂を出たあと、初代・石堂是一(川上左近)のようにすぐに江戸へやってきてはおらず、美濃ないしは尾張(諸説ある)へ転居したあと、しばらくしてから出府していることが判明している。
 新たに見つかった脇指には、指し表に「武州豊嶋郡江戸庄石堂秦守久」と銘が切られ、裏には「慶安元年」の年紀が刻まれていた。ここで興味深いのは、「豊島郡江戸庄」という地域名だ。江戸時代の初期、江戸全域は「豊島郡」と呼ばれており、その中で「江戸庄」というのはおよそ江戸の旧市街地、すなわち東京15区Click!のエリア(それより少し狭いが)に相当する。当時、街並みが形成されていたのは、1600年代初めに描かれた「武州豊島郡江戸庄図」を参照すると、区域でいえば麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区ぐらいの範囲だろうか。
 つまり、石堂守久一派は江戸へ出府した当初、石堂是一一派が工房をかまえていた、すでに市街地(江戸庄)の赤坂に逗留して、鍛刀していた可能性が高いことがわかる。だが、「武州豊嶋郡江戸庄」と銘を切る彼の作品は、現在のところこの脇指のひと振りのみで、その後は「武州住石堂……」あるいは「武州石堂……」(すなわち江戸ないしは江戸近郊に在住しているという意味)と切るのみになっていく。すなわち、石堂是一一派から独立し、別の地へ工房をかまえたとみるのが自然だろう。
 事実、正保から慶安年間(1644~1652年)にかけ、石堂是一の赤坂工房からは筑前(福岡)石堂派が独立して九州におもむき、日置光平が分派して日置一派を形成している。一説には、石堂守久は日置光平の「兄」だとする史料もあるようだが、刀剣界では作風が似ているとすぐに「兄弟」や「親子」にされた時代があり、いまとなっては詳細は不明だ。もし、石堂守久が日置光平の兄であるのが事実だとすれば、石堂是一の赤坂工房へ弟を頼って、美濃ないしは尾張から出府したことになる。
 ちなみに、赤坂の石堂是一工房から筑前(福岡)石堂派が分派したのは、もともと同派の石堂是次が江戸で石堂是一に鍛刀を学んでいたからであり、その学費の面倒をみていた筑前福岡藩主の黒田光之の国許へ、藩工として迎えられ独立したからだ。また、日置光平が分派したのは、尾張徳川家の剣術指南・柳生厳知の指し料を鍛刀したのがきっかけで、柳生家御用の仕事を定期的に得ることができたからだといわれている。ただし、日置一派は工房を石堂是一の近く、同じ赤坂の地にかまえている。だが、石堂守久にはこのようなパトロンが現れず、石堂是一の赤坂工房から離れ(おそらくかなり早い時期だったのではないか)、「武州」のいずれかの土地に工房をかまえて独立しているとみられる。
 わたしは、石堂八左衛門守久Click!雑司ヶ谷金山Click!にいた「石堂派」ではないかと想定しているのだが、パトロンが存在しない刀工一派は生活が苦しくClick!、技術を長く子孫に伝え継承することができない。事実、石堂守久は2代までの作刀が確認できるものの、およそ3代までつづいたかつづかないかで消滅している。一方、赤坂工房の石堂是一一派は、明治期にいたるまで7代も継承され、特に7代目の石堂運寿是一Click!は幕府の抱え工に取り立てられ、備前伝を離れて相州伝を習得し「相伝備前」などと呼ばれる作品群を生みだしている。また、運寿是一は幕府からその高い作刀技術を認められ、赤坂ではなく現在の新橋駅前あたりに屋敷を拝領して工房をかまえていた。
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 ちょっと余談だけれど、初代・石堂是一が江戸へ出府した当初、赤坂へ居住する以前は市ヶ谷に工房をかまえていたとする説がある。『御府内備考』に市ヶ谷鍛冶坂の由来として、「昔武蔵大掾惟久といへる鍛冶此處に住せしゆへ名とすと砂子にいへり」と書かれているからだが、江戸の刀工で「武蔵大掾」を受領しているのは石堂是一の初代と2代しかおらず、2代目は赤坂で鍛刀しているので、初代が赤坂へ工房をかまえる前の出府当初、市ヶ谷の鍛冶坂あたりで一時的に作刀していたのではと想定されている。もちろん、「武蔵大掾惟久」は「武蔵大掾是一」の誤りだろう。この伝でいくと、江戸へ出府した当初の石堂守久は、赤坂ではなく市ヶ谷の石堂是一工房にいたのかもしれない。
 江戸(というか東日本)には、鎌倉の相州正宗Click!を頂点とする相州伝を規範・理想にすえた刀工が多いが、当然、江戸には西日本から出府した大名の藩邸があり、備前伝を好む藩士たちも存在していたにちがいない。だが、江戸期になると相州伝の人気が全国的に拡がり、備前伝のマーケットはますますニッチになっていった。
 赤坂の石堂是一一派のように、一文字派を理想とする備前伝にこだわらず、相州伝を学びなおして作刀すれば市場は拡がり、ついには幕府からも注目されて抱え工への道も拓けたのだろうが、石堂守久は備前伝の匂い本位で焼く丁子刃にこだわりつづけたようだ。このあたり、石堂守久は江戸のマーケティングを読み誤ったというか、無視していたというのか、備前伝に固執する頑固一徹な性格が透けて見えるようだ。
 初代・石堂守久は、1676年(延宝4)に入道して「秦東連(しんとうれん)」あるいは「東蓮」「東連」と改銘している。このころには、2代・石堂守久に工房を継がせ、自身は半分隠居したような身分で好きな作刀をつづけていたのだろう。この2代目ないしは3代目の守久の名前が、「石堂孫左衛門」ではなかったか?……というのが、雑司ヶ谷金山にいた「石堂派」について、わたしがいまのところ想定しているテーマだ。
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 さて、初代・石堂(八左衛門)守久のあとを追いかけていたら、またしても「石堂孫右衛門」Click!の誤記に出あった。刀剣界では、基本的な必読書といわれている川口陟の『定本・日本刀剣全集』(歴史図書社)で、戦前から戦後にかけて書き継がれた刀剣の教科書のような存在だ。1972年(昭和47)に同社から出版された『定本・日本刀剣全集』第7巻「江戸時代(1)」から、当該箇所を引用してみよう。
  
 『新編武蔵風土記稿』巻の十豊島郡の部に次のような記載がある。/〇雑司ヶ谷村 金山稲荷社/土人鐵液稲荷ととなふ、往古石堂孫右衛門と云刀鍛冶居住の地にて、守護神に勧請する所なり。今も社辺より鉄屑を掘出すことまゝあり、村民持。又この社の西の方なる崕元文の頃崩れしに大なる横穴あり、穴中二段となり上の段に骸骨及び国光の短刀あり、今名主平治左衛門が家蔵とす、下段には骸のみありしと云、何人の古墳なるや詳ならず。/右の石堂一派の系図(石堂是一の系図)及びその他にも、孫右衛門と名乗ったものは見当らない。しかし刀鍛冶が金山神を祭ることは、当然ありうべきことであるから、石堂一派の何人かがここにおいて鍛刀したことがあったであろう。古墳らしい横穴と石堂とはおそらく何の関係もないものと考えられる。(カッコ内引用者註)
  
 同巻が執筆された時期からみて、おそらく戦前の資料を参考にしていると思われるが、著者は『新編武蔵風土記稿』を直接参照しているのではなく、高田町あるいは豊島区で作成され石堂孫左衛門を「石堂孫右衛門」と誤記した、なんらかの戦前資料を見ていた可能性がある。『新編武蔵風土記稿』には、そうは書かれていない。
  
 〇金山稲荷社/土人鐵液(カナクソ)稲荷ととなふ、往古石堂孫左衛門と云ふ刀鍛冶居住の地にて、守護神に勧請する所なり、今も社邊より鐵屑を掘出すことまゝあり、村民持、又この社の西の方なる崕元文の頃崩れしに大なる横穴あり、穴中二段となり上の段に骸骨及ひ國光の短刀あり、今名主平治左衛門か家蔵とす、下段には骸のみありしと云、何人の古墳なるや詳ならず、
  
 川口陟が書くように、「古墳らしい横穴」と石堂派の刀鍛冶とはなんの関係もないととらえるのは、わたしもまったく同意見だが、「刀鍛冶が金山神を祭ることは、当然ありうべきことである」とするのはいかがなものだろう? 刀鍛冶が奉るのは火床の神である「荒神」=鋳成(いなり)神が主流で、だからこそ江戸期には刀鍛冶の工房で「荒神祭」Click!が栄えるのであって、「金山神」=産鉄神を祭るのは目白(鋼)Click!を製錬するタタラ集団=製鉄集団Click!だとするのが、今日的な史的解釈といえるのではないか。
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 石堂(八左衛門)守久の足跡について、少しずつ見えてきたような気がするが、いまだ雑司ヶ谷金山の「石堂孫左衛門」が、守久一派の2代目あるいは3代目だという確証は得られていない。このテーマについて、またなにか進展があったら記事にしてみたいと思う。

◆写真上:金山稲荷社があった、雑司ヶ谷の金山あたりに拡がる裾野。
◆写真中上:「武州住」や「石堂八左衛門」の銘を切る、石堂守久の茎(なかご)。
◆写真中下は、1909年(明治42)の1/3,000地形図にみる雑司ヶ谷村の金山稲荷社。は、典型的な備前伝の丁子刃を焼く刃文と、入道して「秦東連」の銘を切る茎(なかご)。は、雑司ヶ谷金山の裾野に築かれた大谷石の擁壁。
◆写真下は、7代・石堂運寿是一の茎銘。は、もはや備前伝の技法から離れ相州伝と見まごう銀粉・銀砂をまいたような石堂運寿是一による錵(にえ)本位の刃文。下左は、雄山閣版の『新編武蔵風土記稿』(1957年)にみる金山稲荷社の記述。下右は、1972年(昭和47)に歴史図書社から出版された川口陟『定本・日本刀剣全集』第7巻「江戸時代(1)」の「石堂是一一派」項にみる「石堂孫右衛門」の誤記。

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下落合を描いた画家たち・片多徳郎。(2) [気になる下落合]

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 以前、pinkichさんからいただいた『片多徳郎傑作画集』Click!の中に、もうひとつ「下落合風景」ではないかと想定できる作品がある。片多徳郎Click!が、下落合734番地へアトリエをかまえてから間もない時期、1929年(昭和4)10月に制作された『秋林半晴』だ。(冒頭写真) F4号の小さなキャンバスに、いかにも屋外でサッと書きあげたような表現の画面で、右下にはまるで日本画家か刀鍛冶Click!のように、干支を入れた「巳巳(昭和4年)十月」の年紀と署名が入れられている。
 片多徳郎が、『秋林半晴』を仕上げてから半年後の1930年(昭和5)5月、ようやく体調がよくなってベッドから離れ付近を散歩しはじめた下落合623番地の曾宮一念Click!は、すぐ近くの家に「片多徳郎」の表札を見つけて訪ねることになる。片多徳郎Click!は、曾宮一念が東京美術学校Click!へ入学した翌年に卒業しているので、「蒼白い小柄な飾気の無い」学生だったのは憶えていたが、つき合いはまったくなかった。そのときの様子を、1938年(昭和13)に出版された、『いはの群れ』(座右寶刊行会)から引用してみよう。
  
 昭和五年の春頃から私はポツポツ散歩をするやうになつてゐた、或る日のこと、今迄空いてゐたすぐ近くの家に「片多徳郎」の表札を見つけた。しかし半ば知つて半ば知らないこの先輩、酒飲みで気むづかしさうなこの人を私一流のコワガリからそつと訪ねもせずにゐたが其の前年の「秋果図」(帝展出品二十号長形)に引き付けられてゐたので其後小品を大分かいてゐられる噂をきいて思ひ切つて訪ねた。コワゴワあつてみると昔の青年はかなりに年をとつてはゐたが少しもコワクないのに安心した、その時思ひあたつたのは或る雑誌に「酔中自像」といふひどく怖ろしい顔をしたのが載つてゐたことである。
  
 このあと、曾宮一念と片多徳郎は互いのアトリエを往来するほど親しくなるが、曾宮の「あまり飲むなよ」という親身な忠告に対して、片多は弱音やグチばかりを吐いていたようだ。曾宮は、同書で自身のことを「小心者」と書いているが、片多徳郎はそれに劣らない「小心者」だったようで、いくら入院して断酒を繰り返しても、結局は酒に逃げ場を求めるという印象を曾宮に残している。
 さて、酒毒に苦しめられては入退院を繰り返していたころの、小品『秋林半晴』の画面を詳しく観ていこう。まず、太陽光線は明らかにやや右手の上方から射しており、おそらく片多徳郎は東または南に近い角度でこの作品を描いているのがわかる。画家がイーゼルをすえている位置から左手にかけ、ゆるやかな斜面のある地形をしており、描かれている樹々の多くは広葉樹(落葉樹)のようだ。右手の奥には、樹木が水面に反射しているような表現がみとめられ、ここにはそれほど大きくはない池があるのかもしれない。モノクロだと、残念ながらはっきりしないので、ぜひカラーで観てみたい作品だ。
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 緩斜面の上から、樹林を透かして池のある山か丘の裾野を見おろしている、そんな感慨を抱く画面構成となっている。手前の樹々はまばらだが、池のような表現の向こう側には、よりこんもりとした樹林が繁っているのがわかる。周囲の地形や見えている風景を考慮すると、1929年(昭和4)の時点でこの画面に相当する場所は、わたしには1ヶ所しか思い当たらない。1934年(昭和9)の自裁直前に描かれた『風景』Click!の画面左手の枠外、林泉園Click!からつづく谷戸の拡がり気味な出口にある弁天池と、その周辺の緩斜面だ。
 清水多嘉示Click!が、7年前の1922年(大正11)に描いた『下落合風景』Click!の、御留山Click!近衛町Click!の丘との間にある深い谷間の出口にあたる緩斜面には湧水池があり、池の真ん中には弁天の祠が奉られていた。この谷戸の出口、弁天池Click!の一帯は相馬孟胤邸Click!の敷地内だったにもかかわらず、清水多嘉示Click!が『下落合風景』を写生した小高い藤稲荷社Click!の境内があるためか、あるいは藤稲荷の源経基がらみの由来を忌避して結界をめぐらせたかったせいなのか、将門相馬家Click!では弁天池の西側に庭門と腰高の塀を設置して敷地を遮断(逆にいえば弁天池の周辺を開放)していた。同家が1915年(大正4)に制作した『相馬家邸宅写真帖』Click!(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)にも、庭門の写真はあるが同池は収録されていない。
 したがって、弁天池の弁天社には誰でも参詣することができ、また『秋林半晴』が描かれる前後には、近衛町から弁天池の畔へと出られる坂道が拓かれて、住民たちの憩いの場になっていた様子がうかがえる。さらに、1935年(昭和10)前後には自然のままの形状だった弁天池に手が入れられ、まるで公園の池のようにかたちが整えられるとともに、近衛町からつづく坂道の池の端には憩いの広場のような四角いスペースが設けられており、そこにはベンチがいくつか置かれていたのかもしれない。
 弁天池周辺の風致整備工事は、おそらくここの地主である相馬家が実施したものだろう。相馬家が、第一徴兵保険Click!(戦後は東邦生命保険Click!)に敷地を売却する以前、1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、同保険会社による宅地開発がスタートする直前の、郊外遊園地Click!のように整備された弁天池周辺の最終形を確認することができる。また、近衛町から池までつづく坂道は、東京土地住宅(1925年に経営破綻)から開発を引き継いだ箱根土地の仕事かもしれない。戦後になると、東邦生命は同池を養魚場として活用しており、ブームになったニシキゴイの養殖などしていたものだろうか。
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 この湧水池は、林泉園から湧きでる小流れ(画面でも左手から右手の池とみられる方角へ横切る、窪地のような淡い線状の表現が見られる)と、御留山に建つ相馬邸の南側に口を開けた庭園谷戸から湧きでる小流れが合流してできたもので、現在では当時の形状とはだいぶ異なっているものの、下落合のおとめ山公園で見ることができる。また、昭和初期であれば、いまだホタルが小流れや弁天池の周辺で見られたのかもしれないが、いまでも同公園では“落合ぼたる”の飼育がつづいている。
 下落合734番地のアトリエを、昼食を終えてからだろうか画道具を抱えて外出した片多徳郎は、七曲坂Click!相馬坂Click!を下ると雑司ヶ谷道(新井薬師道)Click!へと出て、東へ少し歩いたところで弁天池のある緩斜面を100mほど上っているのだろう。この時期、第一徴兵保険の住宅地開発とともに開拓された御留山の坂道Click!、すなわち現・おとめ山通りはいまだ存在していない。画家は、弁天池の北北西側の斜面にイーゼルをすえると、南南東の方角に向いて写生をしはじめている。
 絵の具はそれほど厚塗りではなく、筆運びも速かったように思われるので、おそらく陽光の角度がそれほど変わらないうちに描き終えているのではないだろうか。キャンバスをアトリエに持ち帰ったあと、いくらか加筆してサインを入れているのかもしれない。10月の終わりごろの情景だろうか、モノクロ画面なので想像するしかないが、樹々の葉は緑というよりも変色して茶色がかった表現が多いように感じる。人物の姿が見えないので、描かれたのは平日の昼間だろうか。
 1929年(昭和4)の片多徳郎作品を観ると、外出せずにアトリエで制作した果実や花などの静物画が多い。アルコールのせいで、体調が思わしくない日々がつづいていたのだろう。そんな中で小さいサイズながらも、久しぶりに描いた風景画『秋林半晴』は、翌年からつづくモデルを使った人物画や、新たな風景画に取り組むきっかけになったものだろうか。
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 片多徳郎アトリエの斜向かい、下落合604番地にアトリエをかまえていた牧野虎雄Click!は、片多について「風貌にしても心持にしても大分老境に入った画人かと見る人に想わせるものがあった」と書いているが、無類の酒好き同士ということでお互いのアトリエで飲む機会も多かったのだろう。片多徳郎が画業に、そして人生に疲れていた様子が垣間見える。

◆写真上:1929年(昭和4)10月に制作された、F4号の片多徳郎『秋林半晴』。
◆写真中上は、1936年(昭和36)6月11日に撮影された空中写真にみる弁天池と想定描画ポイント。は、2葉ともおとめやま公園に残る弁天池の現状。
◆写真中下は、『秋林半晴』のサインおよび樹木背後に水面反射のようなものが見える右下部分の拡大。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる遊園地として整備されたらしい弁天池。は、旧・相馬邸内の池に毎年飛来するマガモ(♂)。
◆写真下は、1944年(昭和19)12月13日に撮影された弁天池で、池の周囲はかなりの樹林が繁って覆われているのがわかる。は、空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された弁天池とその周辺域。第一徴兵保険の宅地開発で拓かれたばかりの、現・おとめ山通りがはっきりと確認できる。は、2葉とも旧・相馬邸内の谷戸からの湧水で形成された池と、いまも泉から枯れずに流れつづける湧水流。
おまけ
先日、神田神保町にあるギャラリー内田の内田久様より、片多徳郎が1913年(大正2)に制作した「少女像」を拝見した。当時の片多徳郎の表現としては、アカデミックでなんら違和感をおぼえないが、板のキャンバスに描かれた裏面の「コーヒーカップ」には少なからず驚いた。とても明治が終ったばかりのころの画面とは思えず、大正末から昭和初期のような表現で描かれた「コーヒーカップ」だった。画面の右下にサインが入れられているので、こちらが表面なのかもしれないが、片多徳郎はどこかでセザンヌの作品でも目にしたのだろうか?
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片多徳郎「コーヒーカップ」1913.jpg

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カラーで観る佐伯祐三「上落合の橋の附近」。 [気になる下落合]

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 「制作メモ」Click!によれば、佐伯祐三Click!が1926年(大正15)9月26日に制作した、「上落合の橋の附近」(20号)Click!とみられる作品のカラー画像を入手した。1927年(昭和2)の6月17日から30日まで、上野の日本美術協会で開催された1930年協会第2回展Click!で、記念に発行された出品作のカラー絵はがきの画面だ。
 描画ポイントは、以前に特定していた場所とあまり変わらないが、初めて観察するカラー画面でモノクロ画面ではわからなかった新たな発見がいくつかある。まず、左側の地形が大きく落ちこんでいることが判明した。樹木のアカマツも、幹の途中から下が隠れて見えなくなっている。したがって、ここには深めな溝があると考えるのが自然だろうか。画面の風景から考えるなら、この溝は上流からつづく妙正寺川の流れで、佐伯が描いている地点が特に大きく北へ蛇行している流筋だったことに改めて気づく。
 この蛇行する妙正寺川の流れは、南からほぼ真北に向いていた流れが、画面の右手すなわち北側で東南方向へと急角度で折り返し、再び東へ流れを向けたあと、少しゆるやかなもうひとつの蛇行を繰り返すという流域を形成している。以前に想定した描画ポイントは、この北へ突きでた半島のように蛇行する川筋の内側(上落合側)に設定したが、左手に深い溝のような地形があることを考慮すれば、蛇行する川筋の内側ではなく、すぐ外側(下落合側)の位置から西を向いて描いたものだと規定することができるだろう。
 そして、ここもまた妙正寺川の直線整流化へ向けた工事中の場所だったことが、翌1927年(昭和2)に陸軍士官学校の演習で作成された「1/8,000落合町地形図」Click!からもうかがえる。蛇行する川筋を修正するには、直線整流化の計画線に沿った分水流の掘削が不可欠となる。分水流を掘削して、川の水を逃がさなければ、蛇行する川筋を埋め立てることができないからだ。先の「陸軍士官学校演習地図」には、この蛇行を避けて東西につづく分水流が描きこまれているので、佐伯が同作を描いたころには、すでに掘削工事ははじまっていただろう。当該の分水流工事は、画面の左手枠外で開始されていたにちがいない。
 また、もうひとつ判明したのは描かれた橋が木製の橋脚をもつ木橋であり、その橋のたもと(東詰め)には橋名を記念したらしい石碑が建立されていることだ。このような形状の石材に、橋名と竣工年を彫刻して建てるのが当時の“慣習”だったらしく、同じ仕様の記念碑は1924年(大正13)に架橋された、上落合と上戸塚を結ぶ久保前橋のたもとに現存している。もっとも、久保前橋の記念碑は不安定さをなくしてかたちを整えるため、右手上方へ斜めに突きでた部分が削りとられているようだ。
 画面に描かれた記念碑には、いまだ「昭和橋」とは刻まれていなかっただろう。佐伯祐三は、1926年(大正15)9月に同作を描いているのであり、新元号が「昭和」になるなどまだ誰も知らなかった時点だ。したがって、この橋にどのような名称がつけられていたのか、さまざまな資料や地図を当たってみたが、「〇〇橋」のまま残念ながら不明のままだ。架橋されてから、それほど年数がたっていなかったとみられる「〇〇橋」だが、「上落合の橋の附近」からわずか3ヶ月後には元号が「昭和」と改まり、架橋から間もない同橋名を落合町の誰かが「昭和橋にしよう」といいだして変更されたとみられる。
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 当初の橋名がなんだったのか、佐伯祐三は確認して知っていたはずだ。だが、できて間もない時期に橋名が変更されているとみられ、その後「昭和橋」が定着・浸透してしまったために、おそらく現在では旧・橋名をご存じの方はいないのだろう。
 陽光は、明らかに南側と思われる左手の上空から射しており、雲が多めな空模様をしている。東京中央気象台の記録によれば、同年9月26日(日)は曇りとなっているが、下落合では昼近くに薄日が射していたようだ。下落合の描画場所と、当時の東京中央気象台があった一ツ橋とは6.5km以上も離れているので、当日の天候はかなり異なっていただろう。いつか、岸田劉生Click!日記Click!にある天気や「代々木風景」を例に、東京市街地と郊外との気象差Click!について書いたことがあるが、現代でも下落合が雨なのにわずか4.7km離れた飯田橋では薄日が射していたという経験を、わたし自身も何度かしている。
 画面を観ると、右手に向かって少しずつ地形が上がっており、緩傾斜がつづいていそうなことがわかる。また、描かれているのが妙正寺川に架かる橋であるにもかかわらず、下落合の目白崖線がどこにも見えない点にも留意したい。現在でも、右手へはダラダラ坂が十三間通り(新目白通り)Click!までつづいており、目白崖線の急斜面はその先(北側)からはじまっている。しかし、佐伯祐三がイーゼルをすえているのは緩斜面ではなく、もっと低い妙正寺川の川端に近い位置なのが、「〇〇橋」とほぼ同じ視線の高さなのを見るとわかる。すなわち、下落合1179番地あたりの妙正寺川の脇に佐伯はイーゼルを立てて制作している。
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 佐伯祐三が「上落合の橋の附近」を描いている地点は、ちょうど下落合1147番地の佐々木久二邸Click!の南端、のちに湧水を利用した「落合プール」Click!が造られるあたりの低地であり、画家の位置からは佐々木邸の広い庭と、少し高台にある大きな西洋館群が見えていただろう。また、佐々木邸の東隣りは、やはり庭先に広い庭園をもち大屋敷をかまえる、同地番の外山秋作邸Click!が望めただろうか。
 外山邸の庭先には、瀟洒なアトリエClick!が建設されていて、1930年協会と近しい外山卯三郎Click!が仕事場にしていたので、佐伯は外山卯三郎Click!を訪問したついでに、「上落合の橋の附近」のあたりに画因をおぼえイーゼルをすえているのかもしれない。ちなみに、フランスで死去した佐伯祐三の遺作一式が日本へ到着したとき、この妙正寺川の近くにある外山卯三郎アトリエにすべて集められ、しばらく保管されていた。
 さて、画面に描かれた建築物をできるだけ特定してみよう。まず、「制作メモ」の画題にもなっている描かれた妙正寺川の橋は、先述したようにいまだ「昭和橋」とは名づけられていなかっただろう。だが、なんらかの橋名が決められ、東詰めに記念碑が建立されたのは確実だと思われる。その「〇〇橋」の西詰めに見えている2階建ての家は不明だが、その右手のアカマツの枝の向こう側に見えている大きな屋敷は、おそらく下落合1808番地の山川邸だとみられる。その手前には、石神邸が建つはずだが、この時期にはまだ未建設なのか見えない。以前の記事をご記憶の方なら、日米戦がはじまる直前の1940年(昭和15)に、下落合679番地(のち680番地)の高良武久Click!がこの場所に、森田療法の高良興生院Click!を建設していることに気がつくだろう。
 いちばん右端に描かれている赤い屋根の家(手前)は、下落合1184番地ないしは1188番地に建つ家だが住民名は不明だ。その向こう側、遠めに見えている同じ意匠に見える赤い屋根の家々は、浜井邸をはじめとする下落合1867番地ないしは1820番地に建つ住宅群だろう。そのさらに奥にチラリと見えているのは、下落合1820番地にある大屋敷の篠原邸だろうか。中央に見えている家々は、妙正寺川の整流化工事が進むにつれて整理され、改めて埋め立てた旧・川筋の敷地も含めた宅地の再開発が行われている。
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 佐伯祐三が、なぜこの風景を描いたのかは不明だが、先述のように外山卯三郎を訪ねて同邸のアトリエがある南庭から垣間見たか、外山から妙正寺川の整流化工事に備えた分水流の掘削工事についてあらかじめ聞いていたか、または散歩していて偶然に見つけたモチーフなのかはハッキリしない。だが、「上落合の橋の附近」は9月26日の日曜日に制作されているので、付近に大勢の工事人夫たちのいない休日をねらって制作しているような気もする。

◆写真上:1926年(大正15)9月26日(日)に制作されたとみられる、佐伯祐三の『上落合の橋の附近』。同年作成の「下落合事情明細図」では、妙正寺川の両岸ともに上落合のエリアだが、大正末か昭和初期に下落合エリアへ編入されている。
◆写真中上は、同画面に描かれているモチーフの特定。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。は、「〇〇橋」跡の現状と現在のコンクリート製の昭和橋。
◆写真中下は、「〇〇橋」の橋脚や記念碑の拡大。は、新たに建立された半ば埋もれた昭和橋の記念碑。は、1924年(大正13)の竣工記念に建立された久保前橋の記念碑で、現在では向かって右側の石板が整形されていると思われる。
◆写真下は、1927年(昭和2)作成の「陸軍士官学校演習地図」に描きこまれた妙正寺川分水流の掘削工事。は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」の昭和橋界隈。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる整流化工事後の昭和橋界隈。
おまけ
佐伯祐三が、「上落合の橋の附近」でイーゼルを立てたあたりの現状。3棟つづくマンションが視界をさえぎり、昭和橋方面は見通せなくなっている。
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岡田首相と竹嶌中尉の二二六事件。(下) [気になる下落合]

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 2月28日の午前5時8分、天皇から奉勅命令が下令され、この時点から蹶起部隊は「反乱部隊」または「反乱軍」と呼ばれ、鎮圧されるべき敵対勢力となった。午前8時ごろ、陸軍首脳が戒厳司令部に集合し、用意された「昭和維新」を断行するかしないかの上奏文が検討されたが、杉山元参謀次長と安井藤治戒厳参謀の強力な反対で流れている。
 ちょうど同じころ、反乱部隊の香田大尉と村中(元・大尉)、対馬中尉の3人が麻布の第1師団を訪れ、師団長の堀丈夫中将と面会して奉勅命令の下達中止を要請しているが、ここにも竹嶌継夫中尉Click!の姿は見えない。おそらく、そのまま前夜から首相官邸にとどまっていたとみられ、もたらされる情報に一喜一憂していたと思われる。
 午前10時40分、いまだ奉勅命令を下達しない第1師団の堀中将に対し、戒厳司令部への出頭命令が出され、堀師団長は「昭和維新」をとなえる青年将校たちと、奉勅命令の下達を要請する戒厳司令部との板ばさみになった。どうしても「皇軍相撃」を避けたい、蹶起の事情を察知している皇道派に同情的な香椎戒厳司令官は、堀師団長が反乱軍の占拠している陸相官邸へ説得に向かうことを許認している。
 午前11時ごろ、杉山参謀次長が参内し本庄繁侍従武官長へ、戒厳司令部で反乱部隊の武力制圧が決定したことを報告した。直後の正午すぎ、戒厳司令部に反乱軍将校は全員自決し、下士官兵は原隊に復帰するという出どころ不明な情報がもたらされる。このあたりの動向は、二二六事件の中でもっともわかりにくい時間帯であり、すでに事件後を見すえた陸軍の首脳たちが、自身の立場が少しでも有利になるようさまざまな画策をしていたころだ。蹶起した青年将校たちを扇動し、彼らが頼りにしていた風見鶏の真崎大将や荒木大将は、手のひらを返したように「知らぬ存ぜぬ」といいはじめている。
 同日の午後、首相官邸や陸相官邸、山王ホテルなどを占拠している将校たちは、下士官兵に対して檄文を配布している。おそらく下士官兵たちにも動揺が拡がり、部隊から離脱して帰営する者たちが出はじめていたのだろう。この檄文は、誰が作成したのか不明だが、この時点で早朝に下令された鎮圧の奉勅命令の情報ももたらされ、頼みの真崎や荒木らの態度豹変を伝え聞いて、かなり動揺していたと思われる竹嶌中尉ではなさそうだ。
 一方、同日の午前中、迫水秘書官が宮内省におもむき、岡田内閣の元・閣僚たちと会見しているが、相変わらず「参内してくれるな」という意見が主流だった。時刻はハッキリしないが、そのあと吉田茂Click!調査局長官が下落合の佐々木久二邸Click!を訪問している。その時の様子を、前出の『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社/1977年)から引用してみよう。
  
 吉田調査局長官が佐々木邸へきて、わたしに「参内は思いとどまったほうがよろしいでしょう。辞表はお取次ぎいたします」というので、不本意ながら、とりあえず辞表をしたためて吉田に託したが、あとですぐに迫水を電話で呼び出して、今日の夕刻までに参内出来ないのであれば、もはや自分としては重大な決意をしなければならんと話した。
  
 このあと、迫水秘書官から「いらっしたらいいでしょう」との連絡を受け、岡田首相Click!は参内する用意をはじめたが、警視庁を占拠されている警察に連絡すると「護衛を全うする自信がない」との返事なので、憲兵隊司令部に護衛を依頼すると、岩佐禄郎憲兵隊司令官本人が「申しわけない」とクルマで下落合まで迎えにきている。こうして、岡田首相は午後4時30分ごろ宮内省に着き、ようやく参内して天皇への面会を済ませた。このあと、岡田首相は閣僚間の意見対立へと巻きこまれていく。
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 岡田首相が、天皇から“御学問所”で「よかった」と声をかけられているころ、第1師団の舞伝男参謀長は渋谷大佐らとともに、反乱部隊が占拠中の幸楽へ出かけて、安藤大尉と面談して説得を繰り返している。おそらく、第1師団では下士官からの信望がことさら厚く、また青年将校の中では思想的に堅牢だとみられていた安藤大尉を説得できれば、他の将校たちもそれに従うのではないかという読みがあったのかもしれない。だが、関係のない下士官兵を巻きこんだ大規模なテロに最後まで反対しつづけた安藤大尉は、蹶起後はもっとも強硬な姿勢を貫徹する将校に変貌していた。
 この第1師団の説得班が、首相官邸でも陸相官邸でもなく料亭幸楽へ向かった点に留意したい。首相官邸には、同じく第1師団歩兵1連隊の栗原中尉が、陸相官邸には丹生中尉がいるが、ことに栗原中尉は「昭和維新」の急進派であり、また丹生中尉は栗原と非常に近しい関係なので、ハナから説得は無理と判断していたのかもしれない。いずれにしても、栗原中尉といっしょにいた竹嶌中尉は、安藤大尉に対してどのような説得が行われたのかは知ることができなかった。
 午後6時、第1師団の堀師団長は小藤恵歩兵第1連隊長へ、占拠部隊の下士官兵(所属が第1歩兵連隊の者たち)を指揮下より除外するよう指示している。つづいて午後8時、軍人会館にいる香椎戒厳司令官は指揮下にある各部隊に、翌2月29日の午前5時以降にいつでも反乱軍を攻撃し、鎮圧できるよう攻撃準備命令を下達している。
 ちょうど同時刻の午後8時、福本亀治憲兵隊特高課長は中野区桃園町40番地(現・中野3丁目)に住んでいた北邸へ踏みこみ、北一輝Click!を検挙している。また、同邸にいた西田税らは憲兵隊をかわして逃走しているが、3月4日に警視庁特高課に逮捕されている。すでにご存じの方も多いと思うが、2月28日の午後8時に北一輝は憲兵隊に検挙されて拘束されているにもかかわらず、以前NHKのドキュメンタリー『戒厳司令「交信ヲ傍受セヨ」』では、翌29日に北一輝から安藤中尉へかけたとされる電話の録音盤が紹介されている。
 憲兵隊に拘束されている北一輝が、翌29日に電話することなどありえないので、明らかに何者かによる謀略電話だろう。また、北一輝のていねいな言葉づかいではなく、明らかに別人の声音だということも判明している。このあたりから、占拠中の将校たちに向け、それとなく占拠施設の兵員数や軍資金(マル)などを確認する謀略電話が増えていく。
 翌日の戦闘に備え、28日の午後10時すぎに幸楽にいた安藤大尉が、指揮下の下士官兵を堅牢な山王ホテルへ移動させ、午後11時には戒厳司令部が占拠施設付近の住民たちの避難を命じて、翌朝9時をもって攻撃開始を下令していたころ、2月29日の午前0時をまわってから、予備役陸軍少将だった斎藤瀏の自宅に1本の電話がかかってきた。1時間ほど前に、「奉勅命令が下ったことを知って居るか?」という、名乗らない相手の不審な電話を受けたあとだったので、斎藤は慎重に受話器をとっただろう。
 受話器からは、「徳川です……」という声が聞こえた。目白の徳川義親邸Click!からの電話だった。徳川義親は、蹶起将校の代表者ひとりとともに参内して、天皇に詫びるので人選をしてほしいという依頼だった。電話の様子を、2007年(平成19)に文藝春秋から出版された中田整一『盗聴二・二六事件』収録の、斎藤瀏『二・二六』(改造社)から引用してみよう。
  
 (前略)この際一行に代り、参内し、罪を闕下(天子の御前)に謝さんと思う。蹶起将校代表者一名同行したし。素より私は、爵位勲等を奉還する。代表者も亦予め自決の覚悟を願う。至急右代表者を私の許によこされたし……
  
 徳川義親Click!は、事件直後に殺害された閣僚たちへの弔意を表しつつ、反乱部隊の「調停」役を買って出ていたが、結果的にはまったく出る幕がなかったようだ。彼が皇道派に同情的なのは、その社会主義的な思想の側面に惹かれたものだろうか? 戦後、日本社会党の設立に参画・支援する徳川義親だが、当時も同様の思想をもっていたとは考えにくい。
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岡田首相生存会見福田秘書官19360229.jpg
 斎藤瀏は、首相官邸にいる栗原中尉を呼びだして徳川義親の申し出を伝えたが、「暫く待って下さい。此方から後刻返事をします」という答えだった。この徳川義親からの提案は、同じく首相官邸にいた竹嶌中尉らにも伝わっただろう。20分後に、栗原中尉から斎藤瀏あてに「御心は有難く、一同感銘致しましたが、最早や、事茲(ここ)に到っては、如何とも出来ぬと思います、どうか、その御厚志を以って将来をよろしくお願い致しますと回答願います」という、断りの電話が入っている。
 この20分間のどこかで、将校同士の打ち合わせが首相官邸でもたれたのではないかと思われるが、すでに奉勅命令が出て29日には一戦やむなしと考えはじめた将校たちには、空しい徳川義親の申し入れと感じられたかもしれない。この時点で、栗原中尉から徳川義親の電話を聞いた竹嶌中尉は、ハッキリと「こんなはずではなかった」と後悔していたにちがいない。あるいは、「真崎や荒木に騙された!」と怒りに燃えていただろうか。
 2月29日の午前1時15分、首相官邸の栗原中尉に斎藤瀏はもう一度電話をかけている。盗聴の録音盤では、栗原中尉が「これが最後でございます」と別れを告げる有名なやり取りだ。斎藤瀏の背後には、これ以上犠牲者を出さないよう二二六事件を解決しようと、ギリギリまで政治工作を懸命につづける人々がいた。同日の朝にでも、戒厳司令部の部隊が攻撃してくると予想している、栗原中尉との悲愴な最後の会話だ。
 2月29日の午前8時、立川飛行場を飛びたった陸軍機が、反乱軍の占拠する施設上空から「下士官兵ニ告グ」のビラをまいた。つづいて、8時55分には戒厳司令部に設置された放送局から、「兵ニ告グ」の放送が流れはじめている。占拠している下士官兵は動揺し、原隊へ復帰する部隊が相次ぎ、法廷で思想を堂々と述べ「絶対に自決するな」と戒めていた野中大尉が、なぜか拳銃で自決し(この不自然な自決には、面会していた井出宣時大佐らの関与が疑われている)、安藤大尉は自決未遂に終わっている。これらの情報を聞いた竹嶌中尉は、絶望とともに虚脱感で打ちひしがれていたのだろう。
 同日の昼すぎ、反乱部隊の将校たちは全員が免官となり、自殺した野中大尉と病院へ運ばれた安藤大尉ら3人を除き、残りの将校たちは拘束されて代々木の陸軍衛戍刑務所に収監された。午後3時、戒厳司令部は事件終結宣言を公表し、つづいて午後4時58分には福田秘書官が記者会見を開き、岡田啓介首相の生存を発表している。
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 元・中尉の竹嶌継夫が、獄中で「吾れ誤てり、噫、我れ誤てり」と書き、上落合の実家に向け「お母さん、継夫は馬鹿者でした」と書き残して、同年7月12日の午前7時に安藤大尉や栗原中尉らとともに銃殺されるまで、あとわずか134日しか残されていなかった。
                                 <了>

◆写真上:竹嶌中尉が栗原中尉の率いる下士官兵らととも首相官邸に向けて出発したとみられる、第1師団第1連隊(通称:麻布1連隊)の連隊本部。わたしの親父は高等学校時代、同連隊の購買部で軍事教練Click!用の装備品一式を購入している。
◆写真中上:事件の舞台となった、からへ陸相官邸、山王ホテル、料亭幸楽。陸相官邸の背後には、吉武東里Click!らの設計で竣工したばかりの帝國議会議事堂Click!が見えているが、その目の前で政党制の議会政治が陸軍の軍人たちにより踏みにじられた。
◆写真中下は、1951年(昭和26)に改造社から出版された斎藤瀏『二・二六』()と、2007年(平成19)に文藝春秋から刊行された中田整一『盗聴二・二六事件』()。は、岡田首相と迫水秘書官(右)。は、岡田首相の生存会見をする福田秘書官。
◆写真下は、1936年(昭和11)に陸軍航空隊によって撮影された空中写真にみる上落合514番地(のち上落合1丁目512番地)の竹嶌邸。は、竹嶌邸跡の現状。は、同じく1936年(昭和11)の空中写真にみる代々木練兵場の南側にあった陸軍衛戍刑務所。

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岡田首相と竹嶌中尉の二二六事件。(上) [気になる下落合]

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 以前、二二六事件Click!で首相官邸を脱出した岡田啓介首相Click!が、福田耕秘書官の手引きで下落合1146番地(のち下落合1丁目1146番地)の佐々木久二邸Click!に避難した記事を書いた。また、蹶起した将校のひとり、陸軍豊橋教導学校歩兵学生隊付きの竹嶌継夫中尉の実家が上落合514番地(のち上落合1丁目512番地)にあり、佐々木邸と竹嶌邸との間は直線距離でわずか600mしか離れていなかったことも記事にしている。
 今回は、このふたりが二二六事件の勃発から、2月29日午後3時の戒厳司令部による「事件終結」宣言まで、なにをしていたのかに焦点を当て、新たな資料も加えながらドキュメント風にたどってみたい。もっとも、二二六事件関連の書籍は世の中に山ほど流通しているので、事件の概要や主要な流れはそれらを参考にしていただくことにして、あくまでも同じ落合地域に深く関連したふたりの人物の動向を追いかけてみたい。
 まず、静岡県の興津にある「坐漁荘」にいた西園寺公望への襲撃が中止となり、勤務先の豊橋教導学校から東京へともどった竹嶋中尉は、第1師団歩兵第1連隊の栗原安秀中尉や林八郎少尉、池田俊彦少尉、そして同じ豊橋教導学校の同僚だった対馬勝雄中尉らと合流し、2月26日の午前5時に首相官邸の襲撃へ加わっている。そして、蹶起部隊が岡田首相とまちがえて義弟の松尾伝蔵予備役大佐を殺害したあと、そのまま首相官邸を占拠した。このとき、官邸警護の警官4名が射殺されている。
 同日の午後3時、上奏準備のために香田大尉や磯部浅一(元・陸軍一等主計)、村中孝次(元・陸軍大尉)らが陸軍大臣官邸に集合するが、この中に竹嶌中尉の姿はなさそうだ。午後3時30分に「陸軍大臣ヨリ」が告示され、蹶起将校たちへ同調するかのような文面が山下泰文少将によって読みあげられるが、将校たちは午前11時ごろに近衛師団に通達された同文面を、「真意」と「行動」の微妙な用語のちがいはともかく、すでに内容は知っていたとみられる。今日では、のちに戒厳司令官に任命される皇道派に同情的な香椎浩平中将と、山下少将の合作文ではないかと疑われている。そのとき、陸相官邸に竹嶌中尉がいたかどうかは曖昧だが、いたとしてもすぐに占拠中の首相官邸へもどっているのだろう。
 このあとの、さまざまな交渉の場でもそうだが竹嶌中尉の影が薄いのは、首相官邸において栗原中尉たち主導将校たちのアシストにまわっていたのと、皇道派の思想には少なからずシンパサイズしていたものの、もともと彼は穏和な性格だったとみられ、のちの裁判記録や手紙類などを参照すると、このような武力行使には必ずしも全面的に賛同しているとは思えず、累がおよぶからと妻は離縁したが家族へうしろ髪を引かれる思いで蹶起に参加していった様子が垣間見える。むしろ、豊橋教導学校で同僚の対馬勝雄中尉のほうが、よほど事件への強固な意志による積極的な参画姿勢を感じとれる。また、竹嶋中尉が目立った行動をしていないのは、豊橋が勤務先だったせいで東京の最新事情には疎かったせいもあるのかもしれない。2月26日午後7時、東京には戦時警備令が発令された。
 栗原中尉が指揮する、竹嶌中尉たちを含む歩兵第一連隊の300名以上の下士官兵が首相官邸を襲撃したとき、銃声を聞いた岡田首相はとりあえず大浴場に逃れた。義弟の松尾伝蔵予備役大佐が撃たれるのを遠い窓ごしに確認すると、大浴場から洗面所へ移動している。このとき、日本間玄関の裏にある非常口から非常用の脱出トンネルへ向かわなかったのは、廊下を頻繁に将兵が往来していたためのようだ。
 首相官邸の脱出トンネルについて、岡田啓介は次のように書いている。1977年(昭和52)に毎日新聞社から出版された、『岡田啓介回顧録』から引用してみよう。
  
 すでに首相官邸には庭の裏手から崖下へ抜ける道が出来ていた。五・一五事件で犬養毅首相が殺されたあと、なにかの際に役に立つだろうというので、つくったものらしい。崖っぷちのずっと手前から土をくり抜いて、段々の道になっており、そこを降りて行くと土のかぶさった門がある。土がかぶさった門と思ったのは実は小さいトンネルだったんだが……そこを通ってフロリダとかいうダンスホールの裏に出る。山王方面へ抜ける近道になっていたわけだ。話によると、永田町の官邸には秘書の通路があるとのうわさも世間にはあったそうだが、たぶんこの道のことだろう。
  
 だが、こういうときのためにせっかく用意されたひそかな脱出トンネルも、首相官邸の敷地内を300名以上の将校や下士官兵がかためる中では利用できず、岡田首相はやむなく女中部屋へ逃れて押入れに隠れることになった。
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 ところが、兵士たちの一隊が女中部屋にきて押入れの中まで点検し、岡田首相と目を合わせ存在を確認しているにもかかわらず、兵士たちはそのことを上官には報告していない。すでに岡田首相(と誤認した松尾伝蔵)を殺害したあとなので、襲撃を怖れた年寄りが隠れていると勘ちがいしたのだと長い間いわれていたが、のちに兵士たちは押入れの人物を岡田首相と認識していたことが、土肥竹次郎らの証言で明らかになっている。なぜ、岡田首相が健在なのを兵士たちが報告しなかったのかは不明だが、この残虐なテロ行為がまちがっているのを、彼らはどこかで本能的に感じていたのかもしれない。
 また、同日には首相官邸の職員保護や貴重品管理の名目で、憲兵隊が官邸にやってきていたが、午後2時ごろ小坂慶助憲兵曹長が押入れの岡田首相を発見し、急いで福田秘書官に連絡を入れている。この夜、福田秘書官と迫水久常秘書官、それに憲兵隊の小坂曹長らとともに、弔問客に化けた岡田首相の救出作戦が練られている。
 翌2月27日の午前1時30分、首相が「殺害された」ため後藤文夫が臨時首相代理となって、岡田内閣は総辞職している。午前3時50分、東京には戒厳令が公布され、つづいて午前6時には九段下にある軍人会館Click!(のち九段会館)に戒厳司令部が設置された。軍人会館は、つい1年3ヶ月前に竹嶌中尉が結婚式を挙げ、披露宴を開いた場所だった。戒厳令と同時に、のちに陸軍中野学校Click!を設立する陸軍憲兵隊特高課長の福本亀治Click!が中心となって、事件関係者や関連施設の電話盗聴がスタートする。
 それ以前から、憲兵隊では皇道派の中心とみられる真崎甚三郎および荒木貞夫(以上陸軍大将)や、シンパとみられる山下泰文(少将)ら軍人たち、思想的な中心人物とみられる北一輝Click!や西田税など自宅の電話盗聴は行なわれていたが、事件を機に首相官邸をはじめ、陸相官邸、山王ホテル、料亭幸楽、外務省、憲兵隊本部、参謀本部、宮内省、東京朝日新聞社、米国大使館、ドイツ大使館、皇道派に好意的な池田成彬Click!邸および徳川義親Click!邸などが盗聴の対象となった。2月27日の午前10時、西田税から首相官邸に電話が入り、北一輝の「霊告」を伝えている。
 このとき、竹嶌中尉は首相官邸にいて、西田税からの電話をとった磯部(元・陸軍一等主計)から、その内容を栗原中尉らとともに聞いているだろう。同日の午後2時、竹嶌中尉は蹶起に参加した他の将校たち(ただし栗原中尉と林少尉を除く)とともに陸相官邸に集合し、皇道派の中心人物だった真崎大将および荒木大将と会見している。だが、このとき真崎や荒木の反応は曖昧かつ消極的で煮えきらず、竹嶌中尉たちは少なからず失望して、蹶起の先ゆきに大きな不安を抱きはじめたのではないだろうか。
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 同日の午後1時27分、岡田首相は弔問客のひとりに化けて車寄せにつけた佐々木久二のクルマに乗り、首相官邸からの脱出している。このあとの経緯は、以前の記事Click!に書いたとおりだ。弔問に訪れていた佐々木久二は、首相の脱出に自身のクルマが使われたことを知らず、運転手とともに行方不明なのに憤慨しながら下落合へ帰宅している。
 一方、松尾伝蔵の遺体に付き添い、首相官邸に残った迫水秘書官は、遺体を第五高女Click!近くの角筈1丁目875番地(現・新宿歌舞伎町1丁目)にある岡田邸に運ぶ手はずを整えていた。納棺の際、弔問客に松尾の顔を見られれば、すぐに岡田首相ではないとわかってしまうので細心の注意が払われた。夕方の出棺には、蹶起部隊が首相官邸から帝国議会議事堂Click!のあたりまで整列して、岡田首相(松尾伝蔵)の遺体を見送ったという。この隊列の中には、もちろん竹嶌中尉もいて運ばれる遺体に敬礼をしていただろう。
 同日の午後4時、岡田首相は福田秘書官の馴染みがあった本郷区蓬莱町23番地(現・向丘2丁目)の真浄寺(住職・寺田慧眼)にいったん落ち着き、そこから電話で宮内省に参内の打診をするが、まだ待つようにといわれ岡田首相は途方に暮れている。辞表なら、誰かにとどけさせれば済むだろうと、閣僚たちのつれない応対だった。また、脱出をサポートした小坂憲兵曹長たちにも、憲兵隊から情報が漏れるのを怖れて居場所を知らせていないため、周囲には頼みの護衛がひとりもおらず、首相と福田秘書官、それに佐々木久二の運転手の3人だけが真浄寺に取り残されたようなかたちになった。
 夕暮れが迫り、門前に停めてあったクルマが目立つようになったので、とりあえず“憲政の神様”といわれ軍部を一貫して批判しつづけた尾崎行雄(咢堂)Click!の長女・清香Click!の嫁ぎ先で、運転手の勤務先でもある下落合3丁目1146番地の佐々木久二邸へ向かうことにした。佐々木邸の幅の狭い正門(冒頭写真)へクルマが入ると、岡田首相と福田秘書官は驚愕する佐々木家の人々に迎えられた。ラジオや新聞では、すでに岡田首相や高橋是清蔵相、斎藤実内相などが蹶起部隊に殺害されたことを盛んに報道していたからだ。
 佐々木邸に着いてからも、福田秘書官は宮内省やそこに集う閣僚らに連絡を取りつづけたが、同省からは「参内は待ってくれ」の一点ばりだった。岡田首相のあとを追い、蹶起部隊が宮内省へ押し寄せてくるのを、閣僚たちが怖れていたからだといわれている。
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 2月28日の午前0時すぎから、戒厳司令部の福本亀治Click!ら盗聴チームは、おもだった施設や関連者宅の盗聴を開始している。盗聴の録音盤で有名になった、歩兵第3連隊の高橋丑太郎中尉から、料亭幸楽を占拠している部下の上村盛満軍曹に対する、35分間の説得電話は午前1時15分に傍受されている。すでに蹶起した青年将校や部隊は、「行動部隊」から「蹶起部隊」、「騒擾部隊」、そして「反乱部隊」へと呼称が変わろうとしていた。
                                 <つづく>

◆写真上:岡田首相が官邸を脱出したあと、都内を転々としながらクルマでようやくたどり着いた、下落合3丁目1146番地の佐々木久二邸正門。
◆写真中上は、1936年(昭和11)6月に処刑された相沢三郎(元・中佐)の遺骨を手に上落合の落合火葬場を出る遺族。永田鉄山軍務局長を斬殺した「相沢事件」は、二二六事件の引き金になったといわれている。は、二二六事件後に憲兵隊が周囲を警戒する首相官邸。は、首相官邸を襲撃した指揮官・栗原安秀()と竹嶌継夫()。
◆写真中下は、岡田首相が隠れた女中部屋の押入れ。は、1950年(昭和25)に毎日新聞社が出版した『岡田啓介回顧録』()と、2003年(平成15)に河出書房新社が刊行した『図説/2・26事件』()。は、岡田啓介()と佐々木久二()。
◆写真下は、昭和初期に撮影された佐々木久二邸の母家。は、ちょうど事件が起きた1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる佐々木久二邸。は、佐々木久二邸跡の現状で敷地の大半が十三間通りClick!(新目白通り)の下になっている。

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