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石堂守久一派は赤坂から雑司ヶ谷に移ったか? [気になるエトセトラ]

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 少し前になるが、石堂八左衛門守久Click!の年紀入りの脇指が発見されて、刀剣界ではちょっとした話題になった。八左衛門は、滋賀県蒲生郡石堂を出自とする、備前伝を得意とする石堂派の刀鍛冶だが、江戸石堂の主流である石堂是一一派に比べ謎が多い刀工として知られている。石堂守久は、蒲生郡石堂を出たあと、初代・石堂是一(川上左近)のようにすぐに江戸へやってきてはおらず、美濃ないしは尾張(諸説ある)へ転居したあと、しばらくしてから出府していることが判明している。
 新たに見つかった脇指には、指し表に「武州豊嶋郡江戸庄石堂秦守久」と銘が切られ、裏には「慶安元年」の年紀が刻まれていた。ここで興味深いのは、「豊島郡江戸庄」という地域名だ。江戸時代の初期、江戸全域は「豊島郡」と呼ばれており、その中で「江戸庄」というのはおよそ江戸の旧市街地、すなわち東京15区Click!のエリア(それより少し狭いが)に相当する。当時、街並みが形成されていたのは、1600年代初めに描かれた「武州豊島郡江戸庄図」を参照すると、区域でいえば麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区ぐらいの範囲だろうか。
 つまり、石堂守久一派は江戸へ出府した当初、石堂是一一派が工房をかまえていた、すでに市街地(江戸庄)の赤坂に逗留して、鍛刀していた可能性が高いことがわかる。だが、「武州豊嶋郡江戸庄」と銘を切る彼の作品は、現在のところこの脇指のひと振りのみで、その後は「武州住石堂……」あるいは「武州石堂……」(すなわち江戸ないしは江戸近郊に在住しているという意味)と切るのみになっていく。すなわち、石堂是一一派から独立し、別の地へ工房をかまえたとみるのが自然だろう。
 事実、正保から慶安年間(1644~1652年)にかけ、石堂是一の赤坂工房からは筑前(福岡)石堂派が独立して九州におもむき、日置光平が分派して日置一派を形成している。一説には、石堂守久は日置光平の「兄」だとする史料もあるようだが、刀剣界では作風が似ているとすぐに「兄弟」や「親子」にされた時代があり、いまとなっては詳細は不明だ。もし、石堂守久が日置光平の兄であるのが事実だとすれば、石堂是一の赤坂工房へ弟を頼って、美濃ないしは尾張から出府したことになる。
 ちなみに、赤坂の石堂是一工房から筑前(福岡)石堂派が分派したのは、もともと同派の石堂是次が江戸で石堂是一に鍛刀を学んでいたからであり、その学費の面倒をみていた筑前福岡藩主の黒田光之の国許へ、藩工として迎えられ独立したからだ。また、日置光平が分派したのは、尾張徳川家の剣術指南・柳生厳知の指し料を鍛刀したのがきっかけで、柳生家御用の仕事を定期的に得ることができたからだといわれている。ただし、日置一派は工房を石堂是一の近く、同じ赤坂の地にかまえている。だが、石堂守久にはこのようなパトロンが現れず、石堂是一の赤坂工房から離れ(おそらくかなり早い時期だったのではないか)、「武州」のいずれかの土地に工房をかまえて独立しているとみられる。
 わたしは、石堂八左衛門守久Click!雑司ヶ谷金山Click!にいた「石堂派」ではないかと想定しているのだが、パトロンが存在しない刀工一派は生活が苦しくClick!、技術を長く子孫に伝え継承することができない。事実、石堂守久は2代までの作刀が確認できるものの、およそ3代までつづいたかつづかないかで消滅している。一方、赤坂工房の石堂是一一派は、明治期にいたるまで7代も継承され、特に7代目の石堂運寿是一Click!は幕府の抱え工に取り立てられ、備前伝を離れて相州伝を習得し「相伝備前」などと呼ばれる作品群を生みだしている。また、運寿是一は幕府からその高い作刀技術を認められ、赤坂ではなく現在の新橋駅前あたりに屋敷を拝領して工房をかまえていた。
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 ちょっと余談だけれど、初代・石堂是一が江戸へ出府した当初、赤坂へ居住する以前は市ヶ谷に工房をかまえていたとする説がある。『御府内備考』に市ヶ谷鍛冶坂の由来として、「昔武蔵大掾惟久といへる鍛冶此處に住せしゆへ名とすと砂子にいへり」と書かれているからだが、江戸の刀工で「武蔵大掾」を受領しているのは石堂是一の初代と2代しかおらず、2代目は赤坂で鍛刀しているので、初代が赤坂へ工房をかまえる前の出府当初、市ヶ谷の鍛冶坂あたりで一時的に作刀していたのではと想定されている。もちろん、「武蔵大掾惟久」は「武蔵大掾是一」の誤りだろう。この伝でいくと、江戸へ出府した当初の石堂守久は、赤坂ではなく市ヶ谷の石堂是一工房にいたのかもしれない。
 江戸(というか東日本)には、鎌倉の相州正宗Click!を頂点とする相州伝を規範・理想にすえた刀工が多いが、当然、江戸には西日本から出府した大名の藩邸があり、備前伝を好む藩士たちも存在していたにちがいない。だが、江戸期になると相州伝の人気が全国的に拡がり、備前伝のマーケットはますますニッチになっていった。
 赤坂の石堂是一一派のように、一文字派を理想とする備前伝にこだわらず、相州伝を学びなおして作刀すれば市場は拡がり、ついには幕府からも注目されて抱え工への道も拓けたのだろうが、石堂守久は備前伝の匂い本位で焼く丁子刃にこだわりつづけたようだ。このあたり、石堂守久は江戸のマーケティングを読み誤ったというか、無視していたというのか、備前伝に固執する頑固一徹な性格が透けて見えるようだ。
 初代・石堂守久は、1676年(延宝4)に入道して「秦東連(しんとうれん)」あるいは「東蓮」「東連」と改銘している。このころには、2代・石堂守久に工房を継がせ、自身は半分隠居したような身分で好きな作刀をつづけていたのだろう。この2代目ないしは3代目の守久の名前が、「石堂孫左衛門」ではなかったか?……というのが、雑司ヶ谷金山にいた「石堂派」について、わたしがいまのところ想定しているテーマだ。
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 さて、初代・石堂(八左衛門)守久のあとを追いかけていたら、またしても「石堂孫右衛門」Click!の誤記に出あった。刀剣界では、基本的な必読書といわれている川口陟の『定本・日本刀剣全集』(歴史図書社)で、戦前から戦後にかけて書き継がれた刀剣の教科書のような存在だ。1972年(昭和47)に同社から出版された『定本・日本刀剣全集』第7巻「江戸時代(1)」から、当該箇所を引用してみよう。
  
 『新編武蔵風土記稿』巻の十豊島郡の部に次のような記載がある。/〇雑司ヶ谷村 金山稲荷社/土人鐵液稲荷ととなふ、往古石堂孫右衛門と云刀鍛冶居住の地にて、守護神に勧請する所なり。今も社辺より鉄屑を掘出すことまゝあり、村民持。又この社の西の方なる崕元文の頃崩れしに大なる横穴あり、穴中二段となり上の段に骸骨及び国光の短刀あり、今名主平治左衛門が家蔵とす、下段には骸のみありしと云、何人の古墳なるや詳ならず。/右の石堂一派の系図(石堂是一の系図)及びその他にも、孫右衛門と名乗ったものは見当らない。しかし刀鍛冶が金山神を祭ることは、当然ありうべきことであるから、石堂一派の何人かがここにおいて鍛刀したことがあったであろう。古墳らしい横穴と石堂とはおそらく何の関係もないものと考えられる。(カッコ内引用者註)
  
 同巻が執筆された時期からみて、おそらく戦前の資料を参考にしていると思われるが、著者は『新編武蔵風土記稿』を直接参照しているのではなく、高田町あるいは豊島区で作成され石堂孫左衛門を「石堂孫右衛門」と誤記した、なんらかの戦前資料を見ていた可能性がある。『新編武蔵風土記稿』には、そうは書かれていない。
  
 〇金山稲荷社/土人鐵液(カナクソ)稲荷ととなふ、往古石堂孫左衛門と云ふ刀鍛冶居住の地にて、守護神に勧請する所なり、今も社邊より鐵屑を掘出すことまゝあり、村民持、又この社の西の方なる崕元文の頃崩れしに大なる横穴あり、穴中二段となり上の段に骸骨及ひ國光の短刀あり、今名主平治左衛門か家蔵とす、下段には骸のみありしと云、何人の古墳なるや詳ならず、
  
 川口陟が書くように、「古墳らしい横穴」と石堂派の刀鍛冶とはなんの関係もないととらえるのは、わたしもまったく同意見だが、「刀鍛冶が金山神を祭ることは、当然ありうべきことである」とするのはいかがなものだろう? 刀鍛冶が奉るのは火床の神である「荒神」=鋳成(いなり)神が主流で、だからこそ江戸期には刀鍛冶の工房で「荒神祭」Click!が栄えるのであって、「金山神」=産鉄神を祭るのは目白(鋼)Click!を製錬するタタラ集団=製鉄集団Click!だとするのが、今日的な史的解釈といえるのではないか。
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 石堂(八左衛門)守久の足跡について、少しずつ見えてきたような気がするが、いまだ雑司ヶ谷金山の「石堂孫左衛門」が、守久一派の2代目あるいは3代目だという確証は得られていない。このテーマについて、またなにか進展があったら記事にしてみたいと思う。

◆写真上:金山稲荷社があった、雑司ヶ谷の金山あたりに拡がる裾野。
◆写真中上:「武州住」や「石堂八左衛門」の銘を切る、石堂守久の茎(なかご)。
◆写真中下は、1909年(明治42)の1/3,000地形図にみる雑司ヶ谷村の金山稲荷社。は、典型的な備前伝の丁子刃を焼く刃文と、入道して「秦東連」の銘を切る茎(なかご)。は、雑司ヶ谷金山の裾野に築かれた大谷石の擁壁。
◆写真下は、7代・石堂運寿是一の茎銘。は、もはや備前伝の技法から離れ相州伝と見まごう銀粉・銀砂をまいたような石堂運寿是一による錵(にえ)本位の刃文。下左は、雄山閣版の『新編武蔵風土記稿』(1957年)にみる金山稲荷社の記述。下右は、1972年(昭和47)に歴史図書社から出版された川口陟『定本・日本刀剣全集』第7巻「江戸時代(1)」の「石堂是一一派」項にみる「石堂孫右衛門」の誤記。

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