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昭和初期に撮影された目白通りの2景。 [気になる下落合]

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 昭和初期に、目白通りを撮影した写真が2葉残っている。1枚は1932年(昭和7)に撮影され、同年に出版された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)のグラビア掲載のもの、もう1枚は1933年(昭和8)3月に撮影され、1973年(昭和48)に三交社から出版された芳賀善次郎『新宿の散歩道―その歴史を訪ねて―』に掲載されたものだ。
 まず、1932年(昭和7)撮影の『落合町誌』に掲載された街角写真から見ていこう。この撮影位置の特定は、案外たやすい。なぜなら、画面左手にとらえられた幟看板の「栄寿司」だが、現在でも営業中の店舗だからだ。(冒頭写真) もっとも、現在の栄寿司さんは目白通りの拡幅工事にともない、通りから20mほど南へ引っこんだ子安地蔵通りで営業しており、目白通りには面していない。目白通りは、右手(北側)へ向けてゆるくカーブしており、おそらくカメラマンは子安地蔵通りの出口あたり、すなわち下落合607番地(現・下落合4丁目)の路上あたりから西を向いて撮影したものだろう。
 「栄寿司」の幟の下に、電柱に貼られた医院の看板が見えている。「〇川醫院」と書かれているが、これは撮影場所からいって旧・箱根土地本社Click!南側の第一文化村Click!で開業していた、下落合1340番地の古川医院だろう。医師の古川浩は、内科・小児科が専門だった。そのほかに、「〇川」と名のったとみられる医院は1932年(昭和7)現在で下落合に2軒あるが、古川医院と同じ内科・小児科が専門だった下落合1794番地の平川直医院、および下落合1846番地で開業していた耳鼻咽喉科の満川友尚医院は、いずれも中井駅近くの医者だったので、目白通りからはだいぶ離れている。
 現代と比べれば、驚くほど狭い目白通りだが、簡易舗装された路上をダット乗合自動車Click!(のち東環乗合自動車Click!)が走っており、目白文化村方面から目白駅Click!へと向かう路線バスだ。両側に並ぶ電燈線や電力線Click!の柱、電信電話線を架けた電信柱Click!が、基盤がゆるい土の地面なので思いおもいの方角に傾いているのが面白い。佐伯祐三Click!が描いた『下落合風景』シリーズClick!の電柱が、あちこちに傾いているのは絵筆が走った誇張でないことがわかる。同じ路上には、おそらくさまざまな商店の御用聞きClick!だろうか、自転車の乗った人物が3人ほどとらえられている。
 写真の解像度が低く商店の看板が読みづらいが、栄寿司の手前の店は看板に細かな文字がタテに書かれており、蒲団寝具店かなにかだろうか。栄寿司の向かいにある店舗は、看板が「大石園」と読めるのでお茶屋だろうか。その1軒奥には、小さな子どもが集まっているので、おそらく駄菓子屋Click!か菓子屋だろう。商店は入れ替わりが激しいので参考にはならないが、1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!(「下落合及長崎一部案内図」Click!)によれば、この位置にあるのは「大黒屋菓子店」ということになる。
 同地図によれば、その手前が畳店とタバコ屋で奥が「小島商店」と記録されている。小島商店のある位置には、「塗料」と書かれた幟看板が下がっているが(ダット乗合自動車の右上)、ペンキやニス、クレオソートClick!など住宅用の塗料をあつかう店だったものだろうか。ちなみに「栄寿司」も「大石園」も、いまだ開業していないのか「出前地図」や「下落合事情明細図」(1926年)には採録されていない。
 興味深いのは、ダット乗合自動車Click!の屋根から突きでているように見えている、なんらかの工事用重機ないしは建機のようなモノだ。この位置から見た目白通りは、右へカーブしていくので、ひょっとすると路上の整備工事用の重機なのかもしれない。あるいは、新たに電力・電燈柱か電信柱を建てる設置工事に用いられていた建機だろうか。昭和初期ともなれば、建設工事用のさまざまな重機や建機が海外から輸入されており、東京電燈Click!が導入した電柱設置用のクレーンないしは掘削機かもしれない。
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 画面の左手前にとらえられた、街灯のデザインが面白い。これとよく似た街灯をモチーフにして、1916年(大正5)に下落合464番地へアトリエを建てたばかりの中村彝Click!は、同年に『新宿郊外』を制作している。ひょっとすると、中村彝も当時の目白通り沿いの街灯のひとつを描いているのかもしれない。裸電球が吊るされただけの、足もとが明るくなるとはとても思えない街灯だが、当時はモダンなデザインだったのだろう。ちなみに、目白文化村に設置された街灯Click!は、電球を白い球体状のガラスフードの中に収納したもので、目白通り沿いの街灯とは意匠が異なっていた。この仕様だと電球自体に直接雨風が当たらず、寿命も延びたのではないだろうか。
 さて、1933年(昭和8)3月に撮影された、『新宿の散歩道』収録の写真を見てみよう。この写真は、著者の芳賀善次郎が地元の住民から譲られたものだろうか、改正道路(山手通り)と目白通りとの交差点付近というキャプションが添えられている。もちろん、現在では目白通りの拡幅工事と山手通りの交差点工事で消えてしまった商店街だ。前掲写真の撮影位置から、西へ300mほど進んだ目白通りの路上で、同様に通りを西に向いて撮影している。また、以前ご紹介した1932年(昭和7)撮影の、長崎バス通りの出口にあたる商店街Click!の位置から、逆に東へやはり300mほどのところにあたる目白通りの情景だ。
 商店街の店舗は入れ替わりが頻繁なので、「出前地図」(1925年)や「下落合事情明細図」(1926年)を参照しても個々の店舗を特定するのは非常にむずかしいが、この中で目印になりそうなのが道路右手の、当時は長崎南町2丁目1904番地(現・目白5丁目)あたりに開業していた「畳表上敷」の看板をかかげる「姥貝(奥?)畳店」だろうか。同地図類によれば右側手前の店は「伊藤井戸掘りポンプ店」で、左奥のショーウィンドウがある店は看板の文字が読みとれず、さらに左奥の店には「氷」の幟に軒下にはオーニングが設置されているので氷店Click!だろうか。その先に見える町家の壁面には、カタカナの文字で薬名(〇タニン?)のような看板(薬局か?)が見えるが、写真の粒子が粗すぎて読みとれない。
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 左手の手前には、自然光をアピールした東京電気Click!マツダ電球Click!看板があるので、電気店あるいは日用品を扱う雑貨屋だろうか。1926年(大正15)現在では、ここは「三好野蕎麦店」となっているが、カメラマンは下落合2丁目645番地(現・中落合2丁目)の路上にいることになる。左手(南側)へ入る路地をはさんだ店舗は、明らかに新刊本と古書を扱う書店で、幟と看板には書店名が書かれているがすべてを読みとれない。「〇南堂書店」と判読できるのだが、1文字目がハレーションで不明だ。
 その向こう側に、「パロット」と書かれたシャレた看板が目にとまる。どうやらミミズクのかたちをした看板のようで、昭和初期に大ブームとなった鳥や鳥かごを売る小鳥屋だろうか。通りの右手に並ぶ大正期の面影を残した長崎側の商店に対し、左手の下落合側の商店のほうがモダンに感じるのは、建設されて間もないからだろう。この一画は、大正末まで「福室醤油醸造所」の大きな建屋があったところで、左側に並ぶ醸造所跡に建った「火保図」(1938年)によれば6軒の商店は、みんな新しい昭和建築ばかりだ。
 さて、路上のトンビClick!を着て歩く人物(チンドン屋さんか?)の向こうに、この地域では当時としては大きな3~4階建てほどありそうなビルディングが見えている。これは、長崎南町2丁目1952番地(現・南長崎1丁目)にあった公設市場(設置当初は「椎名町市場」だろうか?)で、のちに「椎名町百貨店」と呼ばれていた建物だ。以前、わたしが路線バスの停留所「椎名町百花店前」(ママ)という誤植から、「椎名町百花園」という遊園地があったのではないかと誤って想定していた場所だ。正式なバス停の名称は「椎名町百貨店前」Click!で、大きなビルの中にはさまざまなテナントが入居していた。
 この公設市場は、1940年(昭和15)ごろには財団法人市場協会または私設の経営に移行したものか、地図から公設市場の記号が消えている。市場のビルは、コンクリートとレンガで造られていたとみられ、1945年(昭和20)5月17日に米軍のF13Click!によって撮影された空中写真では、同年4月13日夜半の空襲で内部は丸焼けだったろうが、建物はなんとかかたちをとどめているのが確認できる。戦後、いち早く解体されたものか、1947年(昭和22)の空中写真にはすでに建物は存在していない。
 これら建物の位置関係から、カメラマンの背後左手には2年前に拓かれた聖母坂が、3年前に西へ移設された下落合駅Click!方面へ通じており、また背後右手には長崎の天祖社から長崎不動堂、さらに長崎氷川社Click!へと抜けられる参道筋の道が北へとつづいていた。そして、美術や『下落合風景』に興味のある方ならもうお気づきだろうか。
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 東京電気のマツダ電球看板と「〇南堂書店」の間にある路地を入れば、八島知邸Click!の前へと通じる「八島さんの前通り」Click!、すなわち大正時代は「西坂通り」と呼ばれていた三間道路へと抜けることができた。5年前の1928年(昭和3)、フランスで死去した佐伯祐三のアトリエClick!のごく近くに展開していた、1933年(昭和8)3月現在の目白通り風景だ。

◆写真上:1932年(昭和7)に撮影された、子安地蔵通りの出口あたりの目白通り。
◆写真中上は、『落合町誌』(1932年)に掲載された写真の全景。は、拡幅されたので撮影ポイントが道路上になってしまうためGoogleのStreet Viewを活用した撮影場所の現状。は、1916年(大正5)制作の中村彝『新宿郊外』に描かれた街灯。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された目白通りと山手通りの交差点あたりに開店していた商店街。は、GoogleのStreet Viewにみる撮影場所の現状。は、商店街の奥にとらえられた大きなコンクリート建築の椎名町百貨店の拡大。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる椎名町百貨店。は、1945年(昭和20)5月17日に撮影された同百貨店。周囲の木造住宅がほぼ全焼しているのに対し、内部は丸焼けだったと思われるが同百貨店の建物はかたちをとどめている。は、小川薫様のアルバムClick!からの1935年(昭和10)前後に撮影された1葉。長崎バス通りの出口にあった、ダット乗合自動車発着場に詰める整備技士たちをとらえた写真だとみられるが、背後に写っているビルが同発着所から東へ140mほどのところに建っていた椎名町百貨店ではないか。
おまけ
 1936年(昭和11)の空中写真で、カメラマンの撮影ポイントを規定してみた。ただし、すでに目白通りは拡幅され、通り沿いの商店街は南北に後退しているので、撮影ポイントは道路の中央寄りになってしまう。この空中写真から、椎名町百貨店が第三文化村に建っていた目白会館文化アパートClick!よりも、ひとまわり大きな建物だったことがわかる。
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