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開発中の「渋澤農園分譲地」を歩く佐伯祐三。 [気になる下落合]

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 佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作、目白通り(当時は葛ヶ谷街道と呼ばれることが多かった)を描いた1926年(大正15)ごろのカラー画面をようやく観ることができた。以前にも一度、朝日新聞社版の『佐伯祐三全画集』(1979年)に収録されたモノクロ画像Click!でご紹介していたが、カラー画像によって新たに判明した風景の様子を踏まえ、改めて描画ポイントを検証してみたい。
 本作品のカラー画像は、某オークションに出品されたカタログに掲載されていたものだが、モノクロ画像ではうかがい知れなかった詳細な情報を得ることができる。また、本作品に描かれた画面の風景は、該当しそうなタイトルが「制作メモ」Click!には見あたらず、変色(紅葉)あるいは落葉しはじめた並木の様子を考慮すれば、1926年(大正15)10月以降に制作された可能性の高いことがわかる。
 そして、モノクロ画面では幅広い道路(目白通り=葛ヶ谷街道)右手の緩斜面が、雑草や低木が繁る草原か空き地のように見えていたが、カラー画像を確認すると下が草とりのゆきとどいた地面で、樹木が一定の間隔をあけて植えられており、しかも枝葉には剪定の手入れがなされているように見える。すなわち、右手の一帯は開発されたばかりの造成地や新興住宅地に多い、新築住宅の庭木を生産・供給する植木農園Click!だったのではないだろうか。そうなると、話がちょっとちがってくる。なお、右手の緩斜面は葛ヶ谷へと落ち込む斜面を修正し、目白通りを水平に保つために盛られた人工的な斜面(法面)だろう。
 以前のモノクロ画面で試みた描画ポイントの特定では、目白通り沿いに空き地や草原が多く残る落合第三府営住宅Click!の一画を、通りから眺めた風景だと想定していたのだが、その位置には植木農園のような施設は存在していない。カラー画像を改めて細かく観察すると以前の描画位置の特定から、さらに目白通りを200mほど西へ進んだポイントから東を向いて描いた画面ではないかと思われる。なぜなら、目白通りの右手(南側)には大正前期から植木農園とみられる「渋澤農園」が開業しており、佐伯がこの作品を描いた当時は東側から徐々に農園をつぶし、「渋澤農園分譲地」として販売中だったからだ。
 この作品が描かれる3年前、1923年(大正12)の1/10,000地形図を参照すると、渋澤農園は目白通り沿いの南側に拡がる大きな農園だったことがわかる。地番でいうと、下落合1551~1559番地から葛ヶ谷(現・西落合)にまたがる広い一帯だ。農園の東寄りには、農園主の渋澤邸と思われる大きな建物が採取されている。ところが、翌年に発行された「出前地図」Click!(下落合及長崎一部案内図/西部版Click!)では、一部の敷地が販売されはじめていたものか、地域一帯が「渋澤農園分譲地」という名称で記録され、農園の東寄りにあった渋澤邸とみられる大きな建物は解体されたのか見あたらない。
 同図によれば、渋澤農園の東端がすでに宅地造成を終えており、目白通り沿いの東端には2軒の建物が採取されている。また、渋澤農園の南側や西側に接して、住宅が建てられはじめている様子が見てとれる。ただし、「出前地図」の表記は要注意で、その地域にある程度の土地勘がある人々(住民たち)を対象に制作された地図であるせいか、道路や土地の形状は大きく変形されていい加減であり、また家々や施設の表記には場合によって100m以上の誤差が生じている点にも留意する必要があるだろう。「出前地図」は街並みや地形、土地の形状や距離などの正確さよりも、地元の住民が目的の住宅ないしは商店を探しだす利便性を優先した地図だからだ。
 事実、1925年(大正14)の「出前地図」と、同年の1/10,000地形図(修正図)とを比較すると、渋澤邸はいまだ解体されずに残っており、また渋澤農園の東西や南側も「出前地図」に描かれたようには、それほど住宅は建てこんでいないのがわかる。「出前地図」(下落合及長崎一部案内図/西部版)に採取された渋澤農園分譲地は、同地図の右上隅に描かれており、少し離れた南側や西側に建ちはじめた住宅を、大胆に距離をちぢめて採取している可能性を否定できない。また、北側(「出前地図」では下)の長崎村側(1927年より長崎町)には商店街があるように描かれているが、1929年(昭和4)現在の1/10,000地形図でさえ、住宅らしい家がポツンと1軒採取されているだけだ。おそらく、東側(同地図では左側)に並んでいた長崎村側の商店をひろっているうちに、スペースが足りずに少しずつ西側(同地図では右側)へとずれ、押してきてしまったのではないか。
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 昭和初期の1/10,000地形図を参照すると、渋澤農園分譲地にはようやく家々が建ちはじめ、周囲にも住宅が増えているが、1929年(昭和4)現在でもまだまだ空き地が目立つような風景だった。このあたり一帯が家々で埋まるのは、1935年(昭和10)をすぎてからだが、1940年(昭和15)から1945年(昭和20)の敗戦時にかけ、再び空き地が増えていく。それは、放射7号線(現・十三間通りClick!=新目白通り)計画が具体化し、葛ヶ谷(西落合)と長崎町の境界線に沿うように、道路工事が進捗してきたからだ。
 さて、画面に描かれたモチーフを具体的に観ていこう。1926年(大正15)現在、道幅が三間を大きく超える街道なみの道路は、以前にも書いたように下落合には目白通りしか存在していない。通り沿いには、トチノキ(マロニエ近種)のような街路樹が植えられ、モノクロ画像ではわからなかった紅葉や、落葉が進んでいるのがわかる。道路の右手(南側)は、ゆるやかな斜面を形成していて、そこには住宅の庭木用と思われる低木が一定の間隔ごとに植えられており、見るからに当時の落合地域には多かった植木農園だ。目白通りから、同農園の関係者ではない人々が勝手に入りこまないよう、道路沿いに柵が設置されているのも、ここが単なる空き地ではなく植木農園だった名残りを示している。
 渋澤農園では、新築住宅には不可欠な庭木用の樹木ばかりでなく、庭園に造られる花壇のために草花の種や苗を生産・供給する種苗(しゅびょう)農園も事業化していたのかもしれない。なぜなら、1923年(大正12)作成の1/10,000地形図を参照すると、渋澤邸とその周辺には樹木の記号が描かれているが、葛ヶ谷にまたがる西側一帯はやはり周囲を柵に囲まれた草地表現になっている。そこには、さまざまな草花の種や苗が植えられ、育てられていたと考えても不自然ではないからだ。
 樹木の向こうに見えている赤い屋根の西洋館は、すでに農園主の渋澤邸ではない。分譲された敷地へ、新たに建設されたばかりの邸宅だ。すでに、1925年(大正14)の「出前地図」に渋澤邸が採取されていないのに加え、佐伯が描いた邸のかたちが、1/10,000地形図に採取された大きなL字型の渋澤邸と形状が一致しないからだ。佐伯が描いた邸は、凸字のような形状をしており、また樹木農園や種苗農園の関連建物とは思えない、屋根上に尖がりフィニアルを載せたように見えるモダンなデザインをしている。また、同邸の向こう側にも、赤い屋根の住宅が1軒見えている。
 さらに、パースのきいた目白通りの奥(東側)を見ると、樹木にさえぎられて見通しは悪いが、道路沿いに平家の建物が並んでいそうな気配がある。このあたりが、「出前地図」に採取された「溝口印刷所」や「加藤邸」だろうか。また、目白通りの左手には下水用の側溝Click!が設置されており、庭木を剪定した長崎村側の住宅が建っていそうだ。1929年(昭和4)の1/10,000地形図では、この位置には住宅が1軒しか採取されていないが、下水をわたる小さな石橋が見えるので、その邸の門へと通じる架け橋なのかもしれない。
赤屋根西洋館.jpg
空中写真1936.jpg
空中写真19450402.jpg
 描かれているのは、先述のように下落合1551~1559番地(のち下落合4丁目1551~1559番地)の一帯で、目白通りの左手は長崎村4142番地(のち椎名町6丁目4142番地)だ。そして、佐伯がイーゼルをすえているのは葛ヶ谷57番地(のち西落合1丁目105番地)と長崎村4142番地の境界あたり、目白通りの北側ということになる。現在の場所でいえば、佐伯祐三は目白通りと十三間通り(新目白通り)、そして新青梅街道がまじわる交差点の真ん中、やや北寄りの位置でほぼ真東を向いて制作していることになる。
 さて、画面に描かれた赤い屋根のモダンな西洋館は、写真などで特定が可能だろうか。下落合1559番地の一画に建てられたとみられる同邸は、1938年(昭和13)作成の「火保図」によれば、同地番の「奥田」邸(1926年現在は助産婦の奥田ノブが住んでいた)に相当する。1936年(昭和11)の空中写真では粒子が粗くてよくわからないが、1945年(昭和20)4月2日に撮影された第1次山手空襲Click!(4月13日)の直前、より鮮明な米軍偵察機F13Click!が撮影した空中写真には、渋澤農園跡の分譲地に奥田邸とみられる住宅がとらえられている。凸字のようなかたちと、佐伯が描いた邸のかたちとがよく一致している。だが、同年4月13日夜半あるいは5月25日夜半の空襲のどちらかは不明だが、幹線道路沿いにバラまかれた焼夷弾によって同邸は焼失しているようだ。戦後1947年(昭和22)の空中写真を参照すると、まったくちがう形状の住宅が新たに建設されている。
 佐伯祐三が、『下落合風景(葛ヶ谷街道)』(仮)を描いたころ、渋澤農園分譲地は東側から徐々に宅地造成が進んでいる真っ最中だったろう。奥田邸の西側(画面の手前)には、いまだ植木農園の風情が残り、東側に拡がる縁石が設置されたばかりの造成地には新しい道路が拓かれ、建てられたばかりの電柱群Click!が南へ向かってのびている。
 そして、1930年協会Click!画家たちClick!に興味のある方は、もうお気づきだろうか? 奥田邸のさらに奥(南東側)に見えている、赤い屋根を載せた家屋の右手(南側)あたり、地番でいうと下落合1560番地には1926年(大正15)の秋現在、前田寛治Click!がアトリエをかまえていたはずだ。佐伯祐三は、下落合の西北端にあたる前田寛治のアトリエClick!に立ち寄ったあと、あちこちが造成中で工事中の渋澤農園分譲地を眺めながら、画道具を抱えて歩いてきた。いまだ空き地の多い赤土がむき出しの造成地には、ポツンポツンと住宅が建設されはじめている。佐伯は目白通りを北へわたると、建てられたばかりの赤い屋根を載せた奥田邸をモチーフに入れて、さっそくパースをきかした画面の構図を決めにかかる。下落合661番地の佐伯アトリエClick!から、直線距離で900mほど西へ離れた下落合の風景だ。
奥田邸1938.jpg
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 ひとつ気になるのは、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、前年作成の「出前地図」(1925年)の表現とはかなり異なり、渋澤農園分譲地の目白通り(葛ヶ谷街道)に面したちょうど真ん中あたり、奥田邸のすぐ北側に「溝口印刷所」が描かれている点だ。また、「出前地図」には採取されている「加藤」邸が、「下落合事情明細図」では造成を終えた宅地(空き地)表現になっている。「下落合事情明細図」もフリーハンドの地図なので、実際の位置関係や距離感が曖昧で錯誤が多いのは「出前地図」と同様なのだが……。

◆写真上:1926年(大正15)秋に描かれた佐伯祐三『下落合風景(葛ヶ谷街道)』(仮)で、前田寛治のアトリエから直線距離で約100mしか離れていない。
◆写真中上は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる渋澤農園。は、宅地分譲がはじまった1925年(大正14)作成の「出前地図」。南北が逆の同地図だが、いまだ渋澤農園の周囲は家々が稠密ではないので、かなりデフォルメされているとみられる。は、1929年(昭和4)の1/10,000地形図にみる描画ポイントと画角。
◆写真中下は、下落合1559番地の奥田邸と比定できる西洋館の拡大。は、1936年(昭和11)と1945年(昭和20)4月2日の空中写真にみる同邸。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる奥田邸とその周辺。は、奥田邸のあったあたりの現状(左手)。は、佐伯祐三の描画ポイントから画角風景の現状。現在は、3本の幹線道路の交差点北寄りの位置にあたり、当時の面影はまったくなく佐伯祐三の描画位置に立てば数秒でクルマにはねられるだろう。さっそく同作のカラー画像と描画ポイントを『下落合風景画集』Click!に反映したが、この6月1日に第8版を出したばかりなのに、すでに第9版ということになるのだろうか?w

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平林彪吾と五木寛之の「売血」小説。 [気になる下落合]

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 いまの若い子は、「売血」などという商売があったことを知らないだろう。輸血用の血液製造が、1974年(昭和49)に売血由来から献血由来に切り替わってからは下火になったが、その後も自身の血を売っては金銭を得る売血は献血とともに存続し、「有償採漿」すなわち売血が法的に全面禁止されたのは1990年(平成2)になってからだ。
 そんな売血をテーマにした、あるいは売血が登場する小説が、戦前戦後を問わずに書かれている。戦前の代表的な作品は、1936年(昭和11)に「文藝」12月号に掲載された平林彪吾Click!の『輸血協会』だろう。妻と子どもを抱え、生活苦にあえいでいる上落合の作家「津曲三次」は、当時できたばかりの「日本輸血協会」へ、ついに血を売りにいく決心をする。生活費さえ稼げない夫を見かねた、それほど身体の丈夫でない妻が、銀座のカフェで女給として働きはじめたのも津曲三次を苦しめた。
 その様子を、1985年(昭和60)に三信図書から出版された平林彪吾『鶏飼ひのコムミユニスト』に収録の、『輸血協会』から引用してみよう。
  
 東中野駅から当時彼が住んでいた上落合の家まで、いくつかの「やきとん」の屋台店やおでん屋があった。津曲三次はそれらの前を通るたびに、このような人情の地を払った世の中では、自棄酒でも飲んで飲んで飲み呆け、咽喉仏も胃の腑もただれるばかり酔いつぶれたいと思うものの、ふと財布はその願いをかなえるにふさわしからぬと気づくとき、物を忘れることさえ金で左右されるのかと、妖気の如く人の社会にのさばり返っている金を呪い、心わびしく外套の襟を立て、急いで通りすぎるのであった
  
 本作に登場している「日本輸血協会」とは、輸血用血液の不足を解消するために、1936年(昭和11)に民間で設立された日本輸血普及会のことだろう。
 こうして、主人公の津曲三次は少しでも生活費の足しにしようと、「日本輸血協会」に血を売りにいくわけだが、1936年(昭和11)における売血の対価は100瓦(グラム)=100ccで10円、400ccほども採れば40円にはなったようだ。これを、今日の貨幣価値に換算すると、100ccで約10,000円ほど、400ccも採れば約40,000円ほどにもなった。また、当時の規則・規定では採血の上限が1,500ccまでと決められていたので、かなり無理をすれば1回の売血で150円=約150,000円ほどが稼げたわけだ。
 日本輸血協会へ出かけると、ワッセルマン反応など簡単な血液検査(ちなみに主人公の津曲三次はA型)とともに会員登録をうながされ、会員規定の書かれた「規則書」をわたされた。協会への入会金は5円で、病院への紹介手数料が2円、会員の規約貯金が1円、採血した病院から代金をもらって協会まで帰る円タク代(1円)も会員もちということで、初回に200ccを売血したとしても得た20円は、たちまち11円ほどになってしまう勘定だった。
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 会員規約には、会費のことや売血の心がまえのほか、公的機関ではなく民間企業のせいか血液型占いまでが掲載されていた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 派遣通知ヲ受ケタル場合は(ママ)一刻ヲ競ウ重病患者ノ救命ナルヲ以テ、派遣時刻ハ必ズ厳守スルコト、給血ニ際シ自己以外ノ者ヲ送ルハ法律上ノ罪悪ナルノミナラズ、タメニ患者ノ死ヲ招来スル重大ナル過失行為ナルコトヲ忘ルベカラズ。(中略) (A型血液の長所は)一、融和的デ円滑温順デアル。二、同情心ニ富ミ犠牲的ナルコト。三、事ヲナスニ慎重細心デアル。四、譲歩的デ人ト争ワヌ。/(短所は)一、感情ノタメニ自己ヲマゲ易イ。二、ツマラヌコトニ心配スル。三、優柔不断デ決断力ニ乏シ。四、貸シタルモノノ催促ニモ遠慮スル。(カッコ内引用者註)
  
 ……などと書かれており、津曲三次は「およそのところ当っている」と感じる。
 結局、初回の売血はすぐに連絡がきて20円-9円=11円が手に入ったものの、その後、1~2回ほどの連絡で協会からはなんの音沙汰もなくなり、彼は青白く不健康な顔色を化粧でごまかして協会まで出かけようとする。そこへ、協会は新人会員を増やせば増やすだけ入会金5円をタダどりできるから、既存の会員へは連絡を寄こさないようになり、血を吸う商人のインチキ商売に対して争議を起こすことに決めたので団結して参加せよという、古参会員たちの檄文が配達されてくる……というようなストーリー展開だ。
 『輸血協会』が発表された当時、高見順Click!は「悲惨をそのまゝ伝へたのでは未だ芸術とは言難いかもしれない。すると、そのまゝ伝へることさへしないこの小説は芸術からまた更に遠い所にある訳だろうか」と書き、本多顯彰も「現代純文学の作家たちは余りに貧乏」であり、生まれる創作は「貧乏な物語ばかり」だと批判した。彼らの批評は、平林彪吾が私生活をそのまま文章化した「私小説」だという前提で書かれているが、平林彪吾は売血の現場取材に二度ほど出かけただけで、当時の生活はそれほど困窮してはいなかったので「私小説」ではないと、のちに息子の松元眞が書いている。
 戦後、この売血商売をもう一度大きくクローズアップした作品は、1971~1972年(昭和46~47)にかけて書きつづけられ、講談社から出版された五木寛之『青春の門<自立篇>』だろうか。貧乏学生で主人公の伊吹信介は、生活費や学費を稼ぐために葛飾区立石にあった日本製薬の売血所(ニチヤク血液銀行)へ出かけてゆく。これは、五木寛之が学生時代に経験した実体験がもとになっているようだ。
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 故郷の福岡に残した、父親や弟妹の生活を気にしながら、日々の食費にも事欠いていた当時(1955年ごろ)の様子について、2008年(平成20)に角川書店から出版された五木寛之『わが人生の歌がたり―昭和の青春―』から引用してみよう。
  
 早稲田大学時代、私は血を売って命をつないでいました。そう言うと、今の人たちは、悲惨のどん底にいたように考えるのですが、血を売るのはそんなにびっくりするほどのことではなかったのです。平和になったとはいえ、日本人の生活はまだまだ貧しく、名前の通った私立大学でも、アルバイトをしながら通うのが当たり前という時代でした。/同世代の小沢昭一さんやフランキー堺さんもアルバイト学生で苦労した、という話を聞いたことがあります。(中略) 石原慎太郎さんは、昭和七年九月三十日生まれで、私と生年月日が同じなんです。この作品(『太陽の季節』)を読んだときに、本当に不思議な感じがしました。食うや食わずで、血を売ってその日をしのぐ私たちのような学生がいる一方で、湘南辺りでヨットに興じ、外車を飛ばして青春を謳歌する大学生もいる、世の中は不公平なものだと痛切に思いました。(カッコ内引用者註)
  
 ちなみに、1964年(昭和39)の400ccあたりの売血価格は1,200円、現在の貨幣価値に換算すると約34,000円ほどになる。また、現在の献血のみによる日本赤十字の血漿製剤の価格は400ccあたり17,234円とのことなので、人件費や加工費、保管費、輸送費などのコストを考慮すると、最初から大赤字なのが現状のようだ。
 五木寛之が売血していた戦後の時代は、戦前の平林彪吾が『輸血銀行』で書いた当時の「血漿」技術とは、まったく異なっていた。戦時中の1942年(昭和17)の秋、日本で捕虜になって抑留されている連合軍兵士のために、国際赤十字を通じてとどけられたのは輸血用の「乾燥血漿(フリーズドライ血漿)」だった。粉末状の乾燥血漿は、凍結乾燥されているために長期保存が可能で、かなり遠距離を輸送してもダメになることが少なく、生理食塩水で溶かせばすぐに患者へ使える状態になった。
 欧米の技術力の高さに、おそらく日本の医学者たちはいまさらながら舌をまいたのだろうが、当時の首相兼陸相の東條英機Click!は、休校を強制された救世軍士官学校の校舎を、欧米並みの乾燥血漿製造プラントに改造することを命令し、翌1943年(昭和18)から生産を開始している。これが、日本の軍産学コンプレックスによる「血液銀行」のはじまりであり、戦後の売血業界の出発点ともなる事業だった。
 関西では、1950年(昭和25)にその名も文字どおり日本ブラッドバンク(のちミドリ十字)が設立され、主要な株主には満州でペスト菌による人体実験を繰り返していた野口圭一(軍医少佐)や、炭疽菌で同様の実験をしていた大田澄(軍医大佐)、8,000枚の人体実験スライドを持ち帰った金沢医大の石川太刀雄(技師)など、731部隊Click!の主要な将校や技師たちが名を連ねていたのは、1980年代の初めに薬害エイズ問題でミドリ十字に関する詳細が報道されたから、ご記憶の方も多いのではないだろうか。
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 わたしは売血の経験はないけれど、献血の経験は何度かある。400ccを採血されてもフラフラにはならなかったが、冬などは風邪を引きやすくなったのを憶えている。きっと、採血によって体温が一時的に低下し、そのせいで免疫の防衛機能が脆弱になったからだろう。

◆写真上:1960年代に街の電柱に貼られていた、アルバイト給血者の募集広告。
◆写真中上は、1950年代とみられる港区芝海岸通りにあった日本製薬の「ニチヤク血液銀行」媒体広告。は、都内のあちこちで見かける献血検診車。
◆写真中下は、『輸血協会』が収録された1985年(昭和60)出版の平林彪吾『鶏飼ひのコムミユニスト』(三信図書/)と平林彪吾()。は、映画『警視庁物語・自供』(1964年/東映)の売血所を捜査する刑事たちのシーン。は、2008年(平成20)出版の五木寛之『わが人生の歌がたり―昭和の青春―』(角川書店/)と五木寛之()。
◆写真下は、1975年(昭和50)の空中写真にみる葛飾区立石にあった日本製薬の「ニチヤク血液銀行」。は、緊急輸血には欠かせない新鮮凍結血漿パック。(Wikipediaより)
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曾宮一念の「工場風景」をめぐって。 [気になる下落合]

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 1925年(大正14)に弘文社から出版された、第1次「どんたくの会」Click!での授業をベースにしたとみられる、鶴田吾郎・曾宮一念の共著『油絵・水彩画・素描の描き方』Click!のグラビアには、曾宮一念が工場を描いた『風景』が収録されている。
 このころの曾宮一念Click!は、春ごろからはじまる頭痛や不眠に苦しみ、夏を通じて症状が収まらず、秋になるとそれが回復するという不調のサイクルを毎年繰り返していた。その症状が、緑内障の前兆であることが判明するのは後年になってからのことだ。したがって、遠出の写生は控えたものか下落合の風景をモチーフにした作品が多い。
 同書が出版された1925年(大正14)9月には、アトリエの前に口を開けた諏訪谷Click!と付近の農民が利用する野菜の“洗い場”Click!を描いた『冬日』Click!を、第12回二科展に出品して樗牛賞Click!を受賞している。受賞とほぼ同時に、旧制・静岡高等学校に美術講師として赴任するが、すぐに体調不良で下落合にもどっている。
 鶴田吾郎Click!との共著『油絵・水彩画・素描の描き方』が出版されたのは、1925年(大正14)11月なので、おそらく曾宮の『風景』は静岡への赴任前に下落合で描かれた作品だと想定することができる。だが、この作品が下落合のどこの工場を描いたものか、いまひとつ解明できない。描かれた建屋は、工場にも見えるが酒や醤油、味噌などの醸造所のようにも見えるし、また一般企業でも焼却炉があるところは煙突があっただろう。当時は燃ゴミ・不燃ゴミを問わず、定期的な回収事業がめずらしかった時代だ。
 当時、落合地域の旧・神田上水の両岸や妙正寺川沿いは工場誘致が行なわれていたが、いまだそれほど多くの工場は進出していなかったはずだ。きれいな水を必要とする染物工場や製薬工場、製氷工場、衛生品工場、製紙工場、印刷工場などがポツポツと建っていただろうが、当時の工場の外観や様子まではほとんどわからない。また、敷地に煙突が描かれているからといって、たとえば1/10,000地形図の煙突記号をあてにしても、採取漏れがかなりありそうなので正確にはつかめないと思われる。
 では、曾宮一念が水彩で描いた『風景』の画面を見ていこう。空は雲が多く曇りがちだが、陽光は正面のほんの少し右寄りから射している、すなわち逆光で描かれているように見え、右手が南寄りだとすると画家は東、または東南を向いて工場の建屋を描いていることになる。また、陽光が午後のやや橙色を帯びた光だとすれば、冬季あるいは早春の時期に南西の方角を見て描けば、こんな感じになるだろうか。
 周囲には、下落合の目白崖線や上落合の段丘が見えないことから、旧・神田上水の沿岸か妙正寺川沿いの田畑が拡がる平地Click!だと仮定したいが、妙正寺川沿いには1925年(大正14)現在、これほどの規模の工場はいまだなかったと思われるので、旧・神田上水沿いが“怪しい”ということになる。なお、目白崖線の丘上も平地だが、大正期には工場が進出していない。強いて挙げるなら、家内制手工業のような目白通りの福室醤油醸造所Click!小野田製油所Click!ぐらいだろう。だが、目白通り沿いにはすでに家々が建てこんでおり、このような風情の場所は1925年(大正14)現在には存在していない。
 工場のコンクリートとみられる塀の前は、元・田畑で耕地整理が終った原っぱのように見え、画面を左右に横切っているのは畦道か用水の跡のようにも感じられる。工場の敷地界隈を見ると、塀の中の煙突の向こう側には南北に向いているとみられる建屋が重なって見え、敷地の両端には、切り妻が東西に向いているとみられる平家建ての作業場か、倉庫のような建築物が描かれている。
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 実は、建物まで採取された1/10,000地形図を参照すると、ほぼ建物どおりの配置が確認できる工場を、たった1ヶ所だが発見することができる。蛇行した神田川沿いに建設された、下落合71番地の池田化学工業株式会社Click!だが、それを東側から西側を向いて見るとこのような配置になるのだ。しかし、画面の工場は池田化学工業ではない。なぜなら、『風景』と同時期の1925年(大正14)に撮影された池田化学工業の写真が残っており、同工場はすべての建屋が2階建てだからだ。
 1903年(明治36)から1927年(昭和2)まで、24年間も町長(1924年以前は村長)をつとめた川村辰三郎Click!は、別荘や住宅以外の「排煙をともなう工場の進出と、墓地が付属する寺院の新たな転入はいっさい認めない」と公言Click!しているので、特に河岸段丘の丘上や斜面の住宅地には、このような風景は存在しなかったと思われる。やはり、旧・神田上水沿岸の風景だろうか。落合地域の河川沿いに、煙突があり排煙をともなう大小の工場が急増していくのは、川村町長が辞めたあと1928年(昭和3)以降のことだ。
 それでも、山手線・目白駅Click!には貨物駅Click!が併設されていたため、大正期から排煙のあまり出ない各種工場が進出していたが、昭和期になると下落合はもちろん上落合の前田地区Click!にも、各種工場がビッシリと建ち並んでいく。1932年(昭和7)現在の進出企業や工場の様子を、同年に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 旧神田川(ママ:神田上水)沿岸一帯は水質良好なる関係上晒染、製氷、衛生材料等、概して利水の工場多く設立せられて、工業地帯を形成す、商業は未だ振はず、日用食料の小売業者多きをS占む、昭和六年末町内に於ける会社の数は三十三社にして、其種別は株式会社十七、合資会社十四、合名会社二である。工場法を適用せらるゝ工場数は三十三を算し、其産額は経済界不況の影響により不振の状態にありと雖も、加工賃を含めば金五百三十余万円を挙げ、従業人員千二百名を置けり。
  
池田化学工業1924.jpg
山手線下落合池田化学工業1925.jpg
製綿所1925.jpg
 『落合町誌』の工場リストによれば、1925年(大正14)以前に設立された下落合の工場を挙げてみると、下落合971番地の極東商事(1917年)、同45番地の山本螺旋(1916年)、同895番地の発工舎(1912年)、同71番地の池田化学工業(1916年)、同69番地の三越染工場(1917年)、同77番地の東製紙工場(1918年)、同8番地の正久刃物製造(1923年)、同948番地の平石商店東京工場(1925年)、同909番地のアポロ鉄工所(1913年)、同35番地の指田製綿工場(1924年)、同67番地の市村紡績(1918年)、同986番地の豊菱製氷(1923年)、同921番地の城北製氷(1924年)、同923番地の青柳染工場(1921年)、同1529番地の小野田製油所(1877年)、同10番地の甲斐産商店(大黒葡萄酒)工場(1886年)、そして同20番地の石倉商店工場(1911年)の、合計17工場だ。
 また、上落合地域で1925年(大正14)以前から操業していた工場は、上落合119番地の東京護謨(ゴム)工場(1920年)、同85番地の二葉印刷所(1924年)、同305番地のローヤル莫大小(メリヤス)製造所(1923年)、同41番地の栗本護謨工業所(1925年)、同8番地の若松研究園電線所(1921年)、同39番地の青木電鍍工場(1913年)、そして同2番地の山手製氷(1922年)の合計7工場が数えられる。
 上掲の工場には、明らかに煙突がなかったとみられる施設もあるが、当時は工場から出た廃物を処理するための焼却場を設置しただけで、背の低い煙突が建てられることもありうるので、これらの工場リストから製造プロセスに燃焼や排煙をともなわない事業場だからといって、それらを除外することはできないだろう。
 また、一般企業の事業施設においても、書類などを燃やす焼却炉が設置される可能性もあるので、引用した『落合町誌』に書かれている企業33社の中にも、敷地内に焼却炉の煙突を設置した事業所があったかもしれない。ただし、一般の企業であれば、『風景』のように原っぱの中にポツンと建てられることは少なく、もっと便利な立地で開業することが通常なので、画面の建物はやはり旧・神田上水沿いで操業していた工場の建屋群だろうか。
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日本印刷インキ製造工場1911高田480.jpg
野田半三「神田上水」1912頃.jpg
 1925年(大正14)とその少し前の曾宮一念は、体調不良により遠くへ写生に出かけることも少なく、自身のアトリエ近辺を描いていた時期と重なる。上記の工場リストの中に、描かれた『風景』のモチーフがありそうに思うのだが、工場はその性格上、次々に建屋が改築・増築されたり生産設備の変更から建物が大幅にリニューアルされるので、昭和期に撮影された空中写真をいくら眺めても不明のままだ。あるいは、大正期に発行されたパンフレットや広告のどこかに、この風景に見あう工場建屋の写真が掲載されているのかもしれない。

◆写真上:1925年(大正14)ごろ、落合地域の工場を描いたとみられる曾宮一念『風景』。
◆写真中上は、同『風景』の煙突部分の拡大。は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる旧・神田上水沿いの工場群。
◆写真中下は、1924年(大正13)の1/10,000地形図にみる下落合東部の工場群。は、1925年(大正14)に撮影された池田化学工業の工場建屋。は、1925年(大正14)作成の「大日本職業別明細図」にみる落合地域と周辺の製綿工場。
◆写真下は、同年の「大日本職業別明細図」にみる落合地域と周辺の染物工場。は、1912年(大正元)に高田村高田480番地の旧・神田上水沿いに建設された日本印刷インキ製造工場。は、1912年(大正元)ごろに制作された野田半三『神田上水』Click!。日本印刷インキ製造工場はカーブする旧・神田上水の左手、画面左に描かれた建物の向こう側にある。

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銀座から目白文化村へ1円じゃ帰れない。 [気になる下落合]

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 下落合1470番地に住んだ龍膽寺雄Click!については、入居していた「目白会館」Click!をめぐってこれまで何度か記事Click!にしてきた。都新聞の記者が取材して書いた、1931年(昭和6)8月18日発刊の矢田津世子Click!に関する同紙の記事Click!で、ようやく彼が目白文化村Click!に住んでいた事実を突きとめ規定することができた。
 だが、第三文化村に建っていた目白会館・文化アパートと、龍膽寺雄が『人生遊戯派』Click!で述懐する「目白会館」とは、建物の意匠や内部が一致しないことにも触れた。当時の龍膽寺雄は、東京に建ちはじめていたモダンなアパートを転々としているので、約50年後に書かれた同書では暮らした各アパートの記憶(エピソードよりも、特に建物の構造や意匠について)が、ゴッチャになっている可能性を否定できない。
 龍膽寺雄がちょうど目白会館に住んでいたころ、目白文化村のネームが登場する作品がある。1930年(昭和5)に春陽堂から出版された、12人の作家によるオムニバス作品集『モダン・トウキョウ・ロンド(モダン東京円舞曲)/新興芸術派十二人』収録の『甃路(ペエヴメント)スナップ』だ。かなりキザっぽいタイトルで、内容もそれにあわせたように「きゃぼ(生野暮)」Click!ったらしいが、当時はそれがモダンでカッコよかったのだろう。
 執筆者は龍膽寺雄のほか、堀辰雄Click!阿部知二Click!井伏鱒二Click!川端康成Click!吉行エイスケClick!中河與一Click!らで、東京各地の街々に展開していた風情や風俗を描く、ルポルタージュとも体験小説ともつかないような作品がほとんどだ。龍膽寺雄は、『甃路(ペエヴメント)スナップ』の中で「銀座」や「丸ノ内」、「新宿」、「浅草」などの情景を活写しているが、街中で見かける風景の切片を並べたような、特に物語性や筋立ての大きな展開があるわけではないコラージュ風の作品だ。
 夜11時ごろの銀座通り、バーやカフェから出てきた酔客が円タクをひろう場面に、目白文化村が登場している。1989年(平成元)に平凡社から出版された『モダン都市文学Ⅰ/モダン東京案内』収録の、『甃路(ペエヴメント)スナップ』より引用してみよう。
  
 円タクの一聯が甃路(ペエヴメント)の両側を流れて、運転台の窓々から掏摸の様に光る眼が、行人を物色するんです。まさにこれ近代都市神経の尖端!/『目、目白の文化村? さア、……二、二円は戴かなくちゃ。え?……しかし郊外は帰りがありませんから。……じゃ、一円五十銭じゃ? 一円? 御冗談でしょう。とても。……』/『どちら? 目白の文化村?……よろしゅうござんす。一円で参りましょう!』/ゴム輪の車はゴムの様に伸縮自在。/と、――/凄じいサイレンに警鐘を乱打して、ものものしい真ッ赤な消防自動車が、砂塵を撒きたてて寝静まった街路を疾駆するんです。
  
 龍膽寺雄は、1928年(昭和3)6月から1930年(昭和5)の6月まで第三文化村の目白会館で暮らしていたので、書かれている銀座での情景は、おそらく自身の体験によるものだろう。当時は東京35区制Click!の以前なので、目白文化村のある下落合は東京府豊多摩郡落合町Click!の大字のままだった。円タクの運転手が、東京市内ではなく郊外へ走るのをためらっているのは、帰り道に乗客をひろえる可能性がほとんどないからだ。
 銀座4丁目の交差点から、下落合の第三文化村までは直線距離で8.6kmほどある。戦後は、ショートカットできる道路がいろいろ整備されたとはいえ、それでも千代田城Click!を北あるいは南へ大きく迂回しなければ、落合方面へは抜けられない。ましてや、大正期が終ったばかりの当時は、クルマが容易に走れる大道路あるいは街道筋の数は限られており、直線では8.6kmでもおそらく倍以上の距離を走らなければたどり着かなかっただろう。
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旧銀座アパートメント2.JPG
モダン東京円舞曲1930春陽堂.jpg モダン東京案内1989平凡社.jpg
 そして、道路が完全に舗装されているのは東京の市街地と呼べるエリアだけで、一歩郊外へ出れば未舗装で凸凹だらけの道を、スピードを落として注意深くゆっくり走らなければならなかった。ましてや、数日以内に雨が降ったりしていたら、いまだ未舗装の道路はあちこちがぬかっており、へたをすると車輪をぬかるみにとられ、街灯もまばらな路上でひと晩じゅう立往生してしまうことも稀ではなかった。
 今日のタクシーなら、銀座から下落合までは新宿をはさんでいるし、帰りがけには銀座よりも繁華な新宿を流せるので、願ってもない上客ということになり“乗車拒否”をする理由は見つからないが、昭和初期の円タクのドライバーが躊躇するのは、悪い道路事情に加え夜になると人がほとんど歩いていないので客がひろえず、帰路の時間がムダになるからだった。
 龍膽寺雄は銀座通りを外れてカフェ街へと向かい、いきつけの店内をうかがう。
  
 試みに扉の隙に耳を押付けて、中の気配を覗ってみたまえ。女給さんたちの忍び笑いがムズ痒く背すじを匍い廻るから。/が、ちょいとお待ち下さい。/あの聴き覚えのある声は?/冗談じゃない。モダン東京円舞曲のわが楽士の面々。吉行エイスケ、久野豊彦、それに楢崎勤君等の諸氏。――/『やア。……』/扉を開けると、色電燈の仄暗い衝立の蔭に、頬紅の鮮やかな女給さんたちと膝組み交わして、卓子を囲んだモダン派作家の一群。いずれも名だたる街の猟奇者の面々です。/『さア、どうぞ。……』/秀麗なおもてに仄々と桃色の酔いをのせて、吉行君が長椅子(デイヴアン)へ席を招じるんです。(中略) 『それよか、僕がもっと面白い街の猟奇談をきかせてやるよ。小便臭い女の子との逢引話なんぞ、面白くも糞もないじゃないか。そんなことは楢崎や龍膽寺に委せて、それよりは僕の話を聴きたまえ。円タク・ガアル、ステッキ・ガアル、お好み次第だよ。と云って、何も僕の実験談てわけじゃないがね。』/さア、大変な話になッちまったが、この居心地のいい長椅子は読者諸君にお譲りして、私はともあれ、睡った深夜の街々をもうひと廻り。
  
 なるほど、穏和な矢田津世子Click!がほんとうにめずらしく激怒したのは、吉行エイスケClick!らがこのような雰囲気を身にまといながら、周囲へ発散していたのもひとつの要因だと納得できるが、1935年(昭和10)以降は武田麟太郎Click!の文芸誌「人民文庫」Click!へ執筆するような彼女に対して、「商売女」に接するような態度をとったからなのかもしれない。それとも、ひっかけた女や買った女、カフェの女給、流行のファッション、ダンス、クルマ、オーデコロンなどの話しかしない男たちに嫌悪感をもよおしたものだろうか。龍膽寺雄が救われるとすれば、他の作家たちのように自身のことを「ボク」「僕」Click!などと書かず、ちゃんとオトナの一人称で「私」と書いている点だろうか。w
 文章の中で、「円タク・ガアル」と「ステッキ・ガアル」が登場しているが、円タクガールは今日ではさほどめずらしくない若い女性ドライバーのこと、あるいは助手席にフラッパー(女の子)の助手を乗せて走るタクシーのことで、夜間に多い男性客をあてこんだタクシー会社の集客用SPの一環だった。また、ステッキガールは時間を決めておカネを払うと、買い物や散歩、食事、お酒などに付きあってくれるフラッパーのことで、現代風にいえば「レンタル彼女」といった商売だ。ほかに、銀座には「ハンドバッグボーイ」というのもいたらしいが、これはステッキガールの男子版なのだろう。
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 ほぼ同時代の銀座について、二科の東郷青児は1933年(昭和8)にこんなことを書いている。同書に収録の、「東京新風景」から引用してみよう。
  
 私らの銀座頃は水曜日木曜日あたりの午前九時から昼ごろ美事(ママ:見事)だった。山の手の美しい女が、雑踏をさけてひそかに銀ブラする姿が多く、女学生にしても今ほど安手の洋服ではない。(ママ:、)和服姿であでやかなフラッパー振りを発揮していた。その頃はよく、真昼の明るい喫茶店の隅で、生れて始(ママ:初)めて買った口紅を、あやし気な手つきで唇に塗ったりする少女が大分あったようだ。(中略) 今ではどんな人間でもレディーメードのアメリカンスタイルを体につけることが出来る便利な世の中になったのだろう。大衆化した銀座、――銀座が新宿になるのも近い将来だろう。(カッコ内引用者註)
  
 東郷青児が「私らの銀座頃」と書くのは、関東大震災Click!の前、大正の前半期ごろのことだ。彼がこの文章を書いてから90年近い歳月が流れたが、銀座は「新宿になる」ことはなかった。確かに「大衆化」はしたけれど、独特な街のアイデンティティは保たれつづけている。また、東郷青児が目にしていたころのように、銀座の柳並木Click!や外濠、水路などを元どおりにしようという動きさえ、地元の企業や商店街、住民たちの間では起きている。
 また、新宿Click!は成立基盤が郊外の遊興地であり場末の繁華街だったにもかかわらず、これまた彼の予想に反して商業地としての新宿にとどまらず、いまや企業の集合地となり東京のビジネス中心地へと衣がえしようとしている。だが、丸の内や有楽町ほどオツにすましてはおらず、気軽に出かけられる大衆的な側面は失われていない。
 かつて、都市地理学者の服部銈二郎は、銀座の街のことを「都民にとおざかり、国民に近づく銀座」と書いたが、確かに東京では浅草とともに地域の住民ではなく、地方や海外からの観光客をよく集める繁華街として21世紀を迎えている。
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 今世紀に入り、閑静な住宅街だった西大久保や百人町が、韓流ブームで騒々しい街になったのは、ちょうど1970年代の前半ごろ、静寂な住宅街がなぜかファッションの街から出発してとんでもないことになってしまった乃手の原宿や表参道、六本木と同様で“お気の毒”なことなのかもしれないけれど、銀座にしろ大久保にしろ、それを「大衆化」ととらえるか「国際化」ととらえるかは別にして、利害がからむ商店街と昔から住む地元住民との間には、深くて超えることができそうもない“溝”が、大きな口をあけているのだろう。

◆写真上:1934年(昭和9)に竣工した、旧・銀座アパートメントの現役エレベーター。
◆写真中上は、ここに登場する作家たちのような人々が打ち上げ花火を持ちこんで天井を焦がしたといわれるビアホール「銀座ライオン」。は、旧・銀座アパートメントの上階内部。下左は、1930年(昭和5)に出版された『モダン・トウキョウ・ロンド(モダン東京円舞曲)―新興芸術派十二人―』(春陽堂)。下右は、1989年(平成元)に出版された「モダン都市文学」シリーズの『Ⅰ巻/モダン東京案内』(平凡社)。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された4丁目から5丁目あたりの銀座通り。は、昭和初期に街を闊歩するモガ(モダンガール)。いまこの格好で街を歩いても、それほど違和感を感じないようなファッションセンスだが、惜しむらくは現代の170cm前後の銀ブラフラッパーに比べて、タッパがあと20cmほど足りない点だろうか。
◆写真下は、1936年(昭和11)に竣工した九段の野々宮アパートメントClick!。同アパートメントが、従来のモダンアパートと決定的に異なるのは、住民共同の浴場ではなく各部屋に浴室が完備していた点だ。は、同アパートメントの1階ロビー。は、同アパートメントの室内。当時は大流行していた、バウハウス風デザインのテーブルやイスが目を惹く。

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ナルプ崩壊に居あわせた上落合の平林彪吾。 [気になる下落合]

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 ときに、落合地域は戦前戦後を通じて街角ごとに、洋画・日本画を問わず画家や彫刻家などの美術関係者が暮らし、街全体が「美術町」ではないかと思うことがある。ここで記事にしてきたのはほとんどが洋画家だが、落合地域に住んだ美術家たちの10分の1も取りあげていないのではないかと感じている。なぜなら、「下落合風景」Click!を描いていない画家たちは、拙サイトの趣旨としては基本的に取りあげにくいからだ。
 だが、それに輪をかけて多いのが小説や詩、短歌、俳句などを創作する文学関係者だ。特に上落合は、数軒おきに文学関係者が住んでおり、特にプロレタリア文学に関していえば昭和初期にはみんな「隣り同士」だったのではないかとさえ思えてくる。いや、プロレタリア文学に限らず、戦後も落合地域には文学の香りが強く漂っている。大正期の文士たちから、岩井俊二が『Last Letter』(2020年)で描く上落合の作家・乙坂鏡史郎(福山雅治Click!)にいたるまで、取りあげ出したらキリがないのだ。w
 たとえば、下落合の北隣りにあたる長崎地域にあった各種アトリエ村Click!に住む画家たちをモデルに描いた、『自由ヶ丘パルテノン』(1949年)を書いて戦後にベストセラー作家となった堀田昇一Click!は、1960年代の半ばに自費出版していた復刊文芸誌「槐(えんじゅ)」に、こんなことを書いている。2009年(平成21)に図書新聞から出版された、松本眞『父平林彪吾とその仲間たち』から孫引きしてみよう。
  
 路地の奥のつきあたりに山田清三郎Click!の家があった。その東隣りは最勝寺というちょっとしたお寺と、その墓地になっていた。(中略) 山田の家と同じ並びに「鶏飼ひのコムミユニスト」をかいた故平林彪吾Click!がいた。また近くに「貧農組合」の作者細野孝二郎Click!がいた。さらに三・四軒はなれたところに戦旗社関係の詩人野川隆と広沢一雄がいた。そしてかくいう堀田昇一もまた平林彪吾と隣合せていた。/僕のいた家の前のだらだら坂を下りて、中井駅の方へ曲る、崖の下の家に詩人の森山啓Click!がいた。漫画家の加藤悦郎Click!がいた。いまと違って、どこか鄙びた閑散たる田園的おもかげのあった中井駅のあたりには、黒島伝治Click!らと一しょに「文芸戦線」を脱退した宗十三郎がいた。……ジグザグの道を通って作家同盟へはいって来た那珂孝平がいた。また少しはなれたところには本庄陸男がいた。また詩集「南京虫はうたう」の詩人の新井徹がいた。その近くには、上野壮夫Click!小坂たき子Click!などもいた。
  
 上落合の街角の、ごく一画さえ切り取ってもこの密度なのだ。もちろん、最勝寺Click!界隈から中井駅へ出るまでの間には、堀田昇一が触れていない付きあいのなかった、プロレタリア文学以外の文学者たちも数多く住んでいたはずだ。
 いままで、これらの文学者たちをできるだけ登場させるように記事を書いてきてはいるが、まったく触れずにきた人々も少なくない。昭和初期の数年間だけ取りあげても、上記のような密度で文学関係者が住んでいたのだから、少しタイムスパンを長めに時代を拡げてとらえてみると、とんでもない人数になるのがおわかりいただけるだろうか。わたしが死ぬまで書きつづけたとしても、個々の画家や文学者たちひとりひとりの人物像や落合地域における軌跡を、いくつかの記事に分けてアップするのはとうてい不可能なことなのだ。
現代文学の発見第6巻「黒いユーモア」1969学藝書林.jpg 平林彪吾「鵜飼ひのコムミュニスト」1985三信図書.jpg
平林彪吾「月のある庭」1940改造社.jpg 平林彪吾.jpg
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 さて、今回は文中に登場している平林彪吾(松元實)について書いてみたい。学藝書林から出版された『現代文学の発見』Click!シリーズの第6巻「黒いユーモア」(1969年)を、1970年代後半に大学生協で買って読んでいたわたしは、平林彪吾の『鶏飼ひのコムミユニスト』は早くから接していた作品だ。平林彪吾が住んでいたのは上落合(2丁目)791番地、最勝寺Click!墓地の西側にあたる一画で、上落合(2丁目)783番地の「サンチョクラブ」の置かれた加藤悦郎宅Click!には、周辺に住む小説家や詩人、画家たちが参集していた。
 平林彪吾というと、1935年(昭和10)に改造社の「文藝」に入選した『鶏飼ひのコムミユニスト』をはじめ、武田麟太郎Click!が主宰し反戦・反ファシズムを掲げて民主主義を標榜する作家たちや、弾圧されつづけた左翼作家たちに誌面を提供した、まるでのちの人民戦線の作家版のような「人民文庫」での作品群が思い浮かぶ。彼の文学仲間には下落合の矢田津世子Click!をはじめ、細野考二郎、亀井勝一郎Click!、上落合の上野壮夫Click!小坂多喜子Click!、画家の飯野農夫也Click!などがいた。だが、筆名を「平林彪吾」にする以前、彼は松元實の本名などで作家活動をしており、上落合に転居してくる前年の1929年(昭和4)には日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)Click!に加入している。
 上落合への転居は、翌1930年(昭和5)10月で、上落合791番地の同じ地番には隣家の堀田昇一や、路地奥には山田清三郎が住んでいた。上落合の借家は、堀田昇一宅と似たような造りで、その家の様子を松本眞『父平林彪吾とその仲間たち』から引用してみよう。
  
 上落合時代、六畳に四畳半、三畳、殆ど同じ間取りの長屋であった。第三回プロレタリア作家同盟大会では、(堀田昇一は)父と共に執行部を糾弾、以後、同盟解散に至る混迷の四年間、志を共有した隣人として住む。常に、運動にはまともに取り組むが、いつしか組織の歪みに突き当たる。理論は正しくとも、組織は所詮、矛盾を抱えた人間の集まりであった。(カッコ内引用者註)
  ▲
 上落合時代の松元實(平林彪吾)は、日本プロレタリア作家同盟の「官僚化」した執行部をめぐる確執が激化した第3回の大会で、鹿地亘Click!や山田清三郎、川口浩Click!らが執行部から除外されたのに対し、堀田昇一や本庄陸男らとともに批判の先鋒として抗議の声をあげている。結局、小林多喜二Click!の仲裁的な提案により、新しい方針書を中野重治Click!が取りまとめることで大会は終了したが、特高Click!による激しい弾圧と執行部内の確執で、松元實(平林彪吾)はナルプの崩壊期に立ちあうことになった。
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 この間、松元實(平林彪吾)はナルプの「文学新聞」や、「プロレタリア文学」への執筆を中心に活躍するが、家庭には生活苦がついてまわり、信子夫人はついに絵画の勉強をあきらめて銀座のバーへ勤めにでている。そんな状況の中、「文藝」(改造社)の第1回懸賞小説に応募するが、彼の『南國踊り』は選外になってしまった。そして、ナルプ解散声明の直後、松元一家は上落合から下十条へと転居している。
 1930年(昭和5)10月から1934年(昭和9)6月まで、およそ4年間を上落合ですごした松元實(平林彪吾)だが、特高による弾圧激化や築地署における小林多喜二の虐殺Click!、そして家庭の生活苦などがつづき、よい思い出が少ない上落合時代だったのではないだろうか。上落合から離れた翌1935年(昭和10)、「文藝」の第2回懸賞小説に応募した『鶏飼ひのコムミユニスト』が入選し、本格的な作家活動をスタートすることになる。この間の詳細は、松本眞『父平林彪吾とその仲間たち』に詳しく、著者は実際に上落合にも足を運んでいるので、興味のある方はぜひ同書をお読みいただきたい。
 『鶏飼ひのコムミユニスト』は、ナルプの仲間だった詩人・大導寺浩一から勝手に自分をモデルにして書いたと抗議を受けたため、中野重治Click!に調停を依頼するが1年近くもゴタゴタがつづくことになった。だが、落合地域における同じようなシチュエーションはほかにもあり、『鶏飼ひのコムミユニスト』を「山羊飼ひのアナアキスト」に変換して、途中の「文学者同盟」での細かな出来事を別にすれば、ちょうど同時代に落合地域を転居していた詩人・秋山清Click!の生活に多くの面で当てはまるだろうか。
 秋山清は、下落合から葛ヶ湯(現・西落合)への転居をへて、上落合の落合火葬場Click!裏の丘(上高田の寺町)斜面にあった「乞食村」Click!に接する、功雲寺(萬晶院)の墓地裏でヤギ牧場を開業しており、「藪の入口には乞食たちが住んで」いたことになっている「小田切久次」(『鶏飼ひのコムミユニスト』の主人公)の生活環境と酷似している。「小田切久次」は、「乞食たち」と竹藪をめぐって緊張関係にあったが、アナーキスト詩人の秋山清は「乞食村」の子どもたちにヤギの乳を無償で配り、そのお礼として「裕福」な「乞食村」が設置した共同浴場を自由に利用させてもらっている。
 特高や憲兵隊の弾圧が苛烈さを増した1930年代前半、執筆だけではとても食べてはいけないので、家禽や家畜を飼って飢えをしのぐ秋山清や「小田切久次」のような人物は、落合地域に限らずほかにも大勢いただろう。上落合(1丁目)186番地に住んだ村山籌子Click!は、シェパードClick!を何頭が飼ってブリーダーのような仕事をしており、陸軍への寄付用として売りつけたのだろう、下落合(4丁目)2108番地の吉屋信子Click!に押し売りしてイヤな顔Click!をされている。大正末から昭和初期にかけては、ニワトリClick!ハトClick!、ウサギ、イヌなどを投資目的で飼育する事業が大ブームになっていたころだ。
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 平林彪吾は新聞や雑誌への執筆も増え、作家活動がようやく軌道にのってきた矢先に急死する。1939年(昭和14)3月末、武田麟太郎と浅草で飲み歩いている際、ドブに転倒して大腿部にケガをした。手当てをしなかったのが災いし、1ヶ月後の同年4月28日に敗血症で死亡している。作家としては本格的な活動がこれからという時期、まだ37歳の若さだった。

◆写真上:上落合(2丁目)791番地の、平林彪吾一家が住んでいたあたりの現状。妙正寺川へと下る北向きの河岸段丘斜面で、この坂道を下りて右へいくと、ほどなく落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)をへて中井駅に着く。
◆写真中上上左は、1969年(昭和44)出版の『現代文学の発見』第6巻「黒いユーモア」(学藝書林)。上右は、1985年(昭和60)出版の平林彪吾『鶏飼ひのコムミユニスト』(三信図書)。中左は、1940年(昭和15)出版の平林彪吾『月のある庭』(改造社)。中右は、平林彪吾。は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる上落合791番地界隈。
◆写真中下は、1928年(昭和3)に撮影された最勝寺の山門。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合791番地界隈。は、1940年(昭和15)ごろ斜めフカンの空中写真にみる同界隈で、すでに新たな住宅が建ち並んでいるのがわかる。
◆写真下上左は、1936年(昭和11)に発行された武田麟太郎主宰のファシズムに抗した「人民文庫」6月号(人民社)。平林彪吾をはじめ高見順Click!矢田津世子Click!円地文子Click!秋田雨雀Click!大谷藤子Click!上野壮夫Click!小坂多喜子Click!らが執筆している。やがて、特高の検閲により次々と発禁処分になっていくが、ちょうど現在の中国やロシアにおける作家やジャーナリストなど反戦・民主主義勢力を結集したような(半地下)文芸誌だった。上右は、2009年(平成21)に出版された松元眞『父平林彪吾とその仲間たち』(図書新聞)。は、平林彪吾(松元實)とまだ幼い『父平林彪吾ととの仲間たち』の著者・松元眞。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる上落合2丁目791番地界隈。


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近衛騎兵連隊の敷地を割譲させた石井機関。 [気になるエトセトラ]

防疫研究室.jpg
 下落合からおよそ南東へ1.8kmほどのところ、山手線をはさんだ広大な戸山ヶ原Click!の東側を見わたしていて、ひとつ不思議に思いひっかかっていたことがある。陸軍軍医学校Click!が、なぜ近衛騎兵連隊Click!の敷地まで削って、防疫研究室Click!(石井機関=731部隊の国内本部)を建設できたのか?……という不可解な疑問だ。
 日本の軍隊内では、前線で戦闘を行う将兵を擁する部隊=連隊・師団の立場や勢力が強く、その補助的な役割りをになう輜重や鉄道、諜報、医療などの部隊は、相対的に立場が弱い。軍医学校側が、近衛騎兵連隊の用地拡大のためにやむなく敷地を譲渡することはあり得ても、その逆は通常考えられないからだ。ましてや、相手は天皇を警衛する近衛師団なので、なおさら以前から不可解に感じていた。
 その疑問が解けたのは、今年(2022年)に高文研から出版された常石敬一『731部隊全史』を読んだからだ。そのキーマンは、陸軍軍医学校の軍医監であり近衛師団軍医部長を兼任していた小泉親彦だ。陸軍部内では、軍医学校の整理・縮小が検討されていたが、これに対し小泉は「軍医学校の満州移動」を提唱していた。1931年(昭和6)当時の小泉は、軍医学校教官で衛生学教室主幹だったが、翌1932年(昭和7)には上記のように軍医監と近衛師団の役職を兼任し、1933年(昭和8)には軍医学校校長に就任している。
 このトントン拍子の昇進には、そのバックにもっと上層の意向(軍務局長以上)が働いていたとみるのが自然だろう。「軍医学校の満州移動」の代わりに、小泉は満州国に関東軍防疫部(石井機関=731部隊)の設置に成功している。そして、小泉は1934年(昭和9)に軍医総監、1941年(昭和16)には厚生大臣へと昇りつめている。すなわち、満州で細菌戦の研究開発および実行を推進する石井機関=731部隊の背後には、陸軍の最上層部の思惑が反映されていたととらえるのが当然なのだろう。
 1932年(昭和7)に、近衛騎兵連隊の敷地5,000坪超を軍医学校に割譲させたのは、近衛師団の軍医部長だけの力では到底不可能なことであり、そのバックにいる強大な権力をもつ陸軍の最上層部を想定しなければ説明がつかない。このネゴシエーションには、もちろん小泉親彦だけでなく石井四郎が陰に陽に付き添い、バックアップしていたとみるのが自然だ。石井四郎の「根まわし上手」は、軍医学校でもよく知られており、中間の将官職や取次ぎをとばしていきなりトップと交渉することも稀ではなかった。
 石井四郎のプレゼンテーションは、敵から押収したと称する自ら捏造した「証拠」を見せ、上層部の危機感をあおるのが常套手段だった。戦後、GHQの尋問に答えた増田軍医大佐の供述調書では、「ソ連の密偵」が所持していたと称する「アムプレ(アンプル)」と「薬壜」を調べたところ、コレラ菌を検出したと供述しているが、その供述表現から石井の言質をまったく信用していない様子がうかがえる。つまり、敵が細菌戦をしかけてきているのだから、日本も細菌戦を準備し積極的に実行しなければならないというのが、石井四郎によるマッチポンプ式の大型予算獲得と組織拡大の手口だった。
 また、当時の陸軍には正規軍同士が戦って勝敗を決するのが軍隊の本領であり、石井四郎のような作戦は姑息で卑怯だとする見方の傾向が根強く残っていた。だからこそ、多くの組織を飛び越えた陸軍トップとの秘密交渉が必要だったのだ。
 近衛騎兵連隊に5,000坪余の土地を提供させ、石井機関の本部建物が建設される際、1932年(昭和7)7月から同年12月までの間に、施設名称が二転三転していることが『731部隊全史』で指摘されている。対外的にも、細菌戦の研究所を想起させるような名称を避けたかったのだろうが、逆に短期間における名称のたび重なる変更は、ジュネーブ条約違反の組織を強く臭わせる結果になっているように思える。すなわち「細菌研究室」→「戦疫研究室」→「戦疫研究所」→「戦疫研究施設」→「戦疫研究室」と推移し、最終的には「防疫研究室」となった。近衛騎兵連隊では、防疫研究室に敷地を提供するために、兵器庫と油脂庫などの敷地内移転を余儀なくされている。
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 石井四郎は、そのころ「東郷部隊」という秘密部隊名を使い、ハルビン南方80kmほどの背陰河で極秘の任務に就いていた。この間の詳細は、GHQによる731部隊員の供述調書ではなく、1948年(昭和23)に起きた帝銀事件Click!の取り調べに当たった、警視庁捜査一課の甲斐文助警部がまとめた詳細な捜査手記に記録されている。「東郷部隊」に参加しているスタッフは、発覚するのを怖れて全員が偽名をつかっており、石井四郎は「東郷一」と名のっていた。警視庁の捜査員たちは、石井機関の事業を緻密に記録していくことになる。
 もちろん、捜査対象は遅効性の青酸ニトリ―ル(アセトンシアンヒドリン)Click!などについてだったが、731部隊所属の元隊員たちへ片っ端から尋問していった結果、当時の「東郷部隊」=石井機関の行動が浮き彫りにされている。帝銀事件の容疑者にされてはたまらないためか、731部隊の元隊員たちは具体的な実験内容まで次々に供述している。
 石井四郎は背陰河で、すでに数々の人体実験を行っていた。付近には研究施設が建ち並び、これらの人体実験を誰が実施し誰が立ちあったのかまで、731部隊の関係者は詳しく供述している。用いられた細菌は、炭疽菌をはじめコレラ菌、赤痢菌、腸チフス菌、ペスト菌、馬鼻疽菌などだった。実験内容は、饅頭に指示どおりの病原菌を入れ、それを摂取した被験者がどうなるかを観察するもので、もちろん被験者の全員が死亡している。
 この人体実験中に、コレラ実験棟で20人前後による被験者の脱走事件が発生し、監視にあたっていた予備役看護長の2名が殺害されている。『陸軍軍医学校五十年史』(1936年)では「戦死」とされた、平岡看護長と大塚看護長のふたりだ。そのときの様子を、『731部隊全史』から栗原義雄予備看護兵の証言とともに引用してみよう。
  
 部隊の敷地は六〇〇米平方と広大でそこにいくつもの建物があり、炭疽やコレラそれにペストなどの研究課題毎に建物が割り当てられていた。各実験・研究棟には廊下をはさんで部屋が並んでおり、そのうちのいくつかには「ロツ」と呼ばれた檻がいくつも置かれ、被験者は二人一組で閉じ込められていた。ロツの広さは六畳ほどで、天井は人が立つと頭が着くかどうかという低さで、端にはトイレが付いていた。/栗原は一九三四年の戦死事件(図表番号略)を覚えており、これは被験者の脱走によるものだったという。コレラの実験棟から被験者二〇人近くが世話係の看守二人を殺害し、逃げおおせたのだった。(カッコ内引用者註)
  
 このあと、極秘の「東郷部隊」は解散して石井四郎は日本へもどり、関東軍防疫部(のち関東軍防疫給水部)の設置へ向けたプロジェクトに邁進していくことになる。「防疫給水」は名目で、実態は生物兵器と化学兵器の研究開発が事業の中心だった。そして、莫大な予算を手に入れた石井は、母校の京都帝大医学部を中心に各大学から研究者を募る“人集め”に奔走し、1936年(昭和11)8月には正式に関東軍防疫部=731部隊が発足している。
 なお、当初は満州へ出向するのを嫌がる医師が多かったが、のちには京都帝大と東京帝大、慶應大学などの各医学部から競いあうように医師たちが731部隊へ送りこまれるようになる。部隊へ着任した医師たちは、尉官・佐官レベルの将校として優遇された。
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 関東軍防疫給水部=731部隊の本部は、ハルビンの平房に置かれていたが、そこでどのような実験が行なわれていたのかは、あまたの書籍や資料が世の中に出まわっているので、そちらを参照していただきたい。ここでは、近衛騎兵連隊に敷地(現・戸山公園内の多目的運動広場とその周辺)を提供させ、防疫研究室を同部隊の国内本部にしていた石井四郎について、もう少し追いかけてみよう。
 1942年(昭和17)4月、ドーリットル隊Click!が日本本土を空襲Click!した直後、陸軍では同爆撃隊がめざした中国の飛行場を破壊するために、浙江省と江西省の拠点を攻撃する「浙贛作戦」を発動した。この作戦で、石井四郎の部隊は実証実験レベルではなく本格的な細菌戦を実施している。軍用機から水源地や貯水池に雨下(撒布)したのはコレラ菌や赤痢菌で、市街地にはペスト菌(PX)が撒布された。その結果、中国側では42人の罹患死者が出たと報告されている。だが、被害は中国側だけにとどまらなかった。
 陸軍部隊が占領したあとの惨状を、同書収録の米軍捕虜の尋問記録より引用しよう。
  
 一九四二年の浙贛作戦で細菌攻撃した地域を日本軍部隊が占領した時、非常に短時間で一〇,〇〇〇人以上が罹患した。病気は主にコレラだが、一部赤痢およびペストもあった。患者は通常後方の、だいたい杭州陸軍病院に急送されたが、コレラ患者は多くが手遅れとなり死亡した。捕虜(防疫給水部隊員)が南京の防疫給水本部で目にした統計では死者は主にコレラで一,七〇〇人を超えていた。捕虜は実際の死者数はもっと多いと考えている。それは、「不愉快な数字は低く見積もるのがいつものやり方だから」。(カッコ内引用者註)
  
 1万人以上の将兵がコレラなどに罹患し、少なくとも1,700人以上が死亡したということは、1個師団が全滅したに等しい数字だ。「中国大陸で戦死」という死亡公報のうち、いったいどれぐらいの将兵が石井機関による細菌戦の犠牲になったものだろうか。
 石井四郎は、この浙贛作戦の大失態がもとで1942年(昭和17)8月、関東軍防疫給水部を追われているが、もうひとつの更迭理由として本来の防疫給水の領域で「石井式無菌濾水機」の虚偽が明らかになったせいもあった。石井が無菌濾水機に採用したベルケフェルトⅤ型フィルターでは、菌がフィルターを通過してしまい無菌にはならなかったからだ。
 占領地の井戸や水源へ、コレラ菌や赤痢菌を撒かせて「敵が細菌戦を展開している」と扇動したり、「ソ連の密偵から奪った」アンプルや薬壜にはコレラ菌が仕組まれていたと、自ら捏造した「証拠」をもとに危機感をあおり、膨大な予算や人員を要求してくるほとんど詐欺師のような男に、陸軍部内でもさすがに「おかしい」と感じる将官か増えていく。
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 それでも、石井四郎は敗戦色が濃くなった1945年(昭和20)3月、関東軍防疫給水部へ復帰している。風船爆弾に細菌雨下(撒布)装置をつけて米国本土へ飛ばす計画(中止)や、ペスト菌(PX)の一斗缶を抱えて敵陣に突撃させる「夜桜特攻隊」計画(中止)と、731部隊員の供述によれば「やけくそ戦法、めちゃくちゃの戦法」の実現に奔走している。敗戦後、いちはやく満州から帰国した石井四郎は千葉の実家で自身の「葬式」を偽装するが、陸軍上層部とは異なり米軍のCICClick!G2Click!は稚拙なフェイクには騙されなかった。やがて、1943年(昭和18)に金沢医科大学の石川太刀雄教授が部隊から持ち帰っていた、8,000枚におよぶ人体実験のスライド標本が米軍に発見されるのは時間の問題だった。
 最後に余談だが、近衛騎兵連隊から敷地を提供された防疫研究室の西隣りには、陸軍兵務局分室Click!すなわち陸軍中野学校Click!工作室(通称:ヤマ)Click!が建設されている。その施設の存在を秘匿するために、近衛騎兵連隊の馬場との間には「防弾土塁」と称して、高い目隠し用の土手が築かれた。その土手は、現在でもそのまま見ることができる。

◆写真上:1980年代半ばまでそのまま建っていた、石井四郎の旧・軍医学校防疫研究室。
◆写真中上は、1923年(大正12)と1940年(昭和15)の1/10,000地形図にみる近衛騎兵連隊と軍医学校の敷地。中左は、1932年(昭和7)7月に陸軍大臣にあて「陸軍軍医学校細菌研究室新築工事ノ件」(のち「防疫研究室」)。中右は、1934年(昭和9)12月の「近衛騎兵連隊兵器庫其他移築工事ノ件」。下左は、2022年出版の常石敬一『731部隊全史』(高文研)。下右は、1936年(昭和11)出版の『陸軍軍医学校五十年史』の内扉。
◆写真中下は、1936年(昭和11)に撮影された陸軍軍医学校の校内だが、軍陣衛生学教室の左手(西側)にある防疫研究室は画角から外されている。は、同年撮影の防疫研究室。は、防疫研究室で細菌繁殖用の寒天を製造する同研究員。
◆写真下は、1946年(昭和21)11月の増田軍医大佐による供述書をはじめ、米軍による731部隊員たちへの尋問・供述調書。は、戸山公園内の防疫研究室跡の現状。は、さまざまな記録や資料、証言などから731部隊へ競争するように医師を送りこんだ各大学医学部と軍学コンプレックスの軌跡を追跡したNHKドキュメンタリー資料(2017年)。
おまけ
 国立公文書館に保存されている、1941年(昭和)6月10日付けの陸軍軍医学校長から当時の陸相・東條英機Click!あてに提出された、731部隊の国内本部にあたる防疫研究室に関するスタッフ増員要望書。「特殊研究」などで「将校」(軍医将校のこと)が81名必要なのに対し、現状はその4分の1しか確保できていないとしている。
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落合地域とご近所地域の怪談いろいろ。 [気になる下落合]

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 この春から、古墳にまつわる怪談Click!タタリ譚Click!、仏教雑誌に掲載された不思議譚Click!などをご紹介してきたので、なんだか怪談の当たり年のような雰囲気だが、夏もまっ盛りなので、恒例の地域にまつわる怪談について書いてみたい。
 以前、大久保百人町の岡本綺堂Click!が書いた『池袋の怪』Click!をご紹介しているが、この怪談は江戸中・後期に勘定奉行や南町奉行だった根岸鎮衛『耳嚢』Click!に収録された、「池尻村の女召使ふ間敷事」が元ネタになっている。江戸で聞かれた怪談や不思議話などを集めた『耳嚢』は、あまりにも有名で関連書籍なども数多く出ているので、今回はあまり知られていない1749年(寛延2)に出版された『新著聞集』の中から、落合地域やその周辺域に関係がありそうな怪談をご紹介してみよう。
 『新著聞集』は、俳人の椋梨一雪が著した『続著聞集』がベースになったといわれ、その説話集の中から恣意的に話を抜き出して構成しなおしたのが、徳川紀州藩の神谷養勇軒だとされている。つまり、既存の説話集の中から特に面白い話を選んで再編集されたものが、寛延年間のはじめにベストセレクション『新著聞集』として出版されたという経緯のようだ。中でも、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)Click!がチョイスして『怪談』Click!に収めた「茶碗の中の顔」が、同集でもっとも知られた怪奇エピソードだろうか。
 同書は18巻あるが、1巻につき近似したテーマの話を多く集めた1篇(章)のかたちをとって出版されており、ぜんぶで18篇(章)の構成となっている。中でも怪異や怪奇、不可解、不思議な話などを収録したのが、第10巻の「奇怪篇」、第11巻の「執心篇」、第12巻の「冤魂篇」となっている。まず、第10巻「奇怪篇」に収録された、落合地域の南東側に位置する牛込地域で起きた怪談「雲に乗った死骸」からご紹介してみよう。原文そのままだと読みにくいので、2010年(平成22)に河出書房新社から出版された、現代語訳の志村有弘『江戸の都市伝説』から引用することにした。
  
 寛文七年(一六六七)閠二月六日、にわかに雹(ひょう)が降り、雷が騒がしいおりふし、江戸牛込の者が死んで高田の貉霍(むじな)の焼き場に送られた。そのとき黒雲がひとむら舞い降りて龕(棺)の上に掛かったと思うと、死骸をその中に提げ入れた。両足が雲の中からぶらぶらと下がっていたのを、諸人が見たという。
  
 今日の眼から見ると、明らかに日光雷か大山雷Click!の雷雲とともに気圧が急激に不安定化し、強力なつむじ風か竜巻が起きて棺桶を舞いあげた自然現象のように思えるが、この中で不可解なのは「高田の貉霍(むじな)の焼き場」という箇所だ。江戸期の下高田村にも、また上高田村にも火葬場はないので、これは上落合村の焼き場(現・落合斎場)Click!のことではないか。同火葬場は、上高田村と上落合村の境界にあり、地元に不案内の人物が語ったとすれば、「高田の」と表現してしまった可能性がある。
 ただし、「貉霍の焼き場」という名称は初めて聞く。当時は、近郊の丘陵地帯に展開する森林の奥にあった焼き場なので、誰彼ともなくそのように呼ばれていたものだろうか。また、以前にご紹介した怪談「雷ヶ窪」Click!と同様に、特異な自然現象にはなんらかの神意や霊意がやどっていると、江戸期に生きた人々は受けとめたのだろう。
 さて、次は落合地域の東に位置する雑司ヶ谷村に伝わった怪談だ。『新著聞集』の第11巻「執心篇」に収録された1篇だが、雑司ヶ谷村の名主の子どもたちが登場してくる。江戸前期(寛文年間)のエピソードなので、この名主とは後藤家のことだろうか。江戸後期に記録された新倉家Click!や柳下家、戸張家ではないと思われる。
 当時、雑司ヶ谷村の名主には子どもが4人おり、嫡子(長男)は出家して真言宗の学匠(教師格の僧侶)になっていた。この僧がいる寺(寺名は不明)に、ある夜、強盗が押し入って住職が殺されてしまった。寺には多くの金銀財宝が残されており、寺社奉行所の出役(代官)が住職の兄弟にあたる名主の子どもたち3人へ公平に分配したところ、次々に怪異現象が起こりはじめた。同書より、再び引用してみよう。
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 ある朝、弟の馬屋の中が火事になっており、娘がそのことを親に知らせた。驚いて見に行くと、早くも軒に燃え移り、馬屋は焼失してしまった。その次の弟の家には昼夜火の玉が飛び回った。それを必死に防いだところ、次には壁のあいだから燃え出てきた。これを消す作業が夜のうちに八、九度となり、遂に燃え上がってまた焼けてしまった。また、次の弟の家にも火の玉が飛んだので、捉えてみると熱いことはまったくなかった。
  
 江戸前期から、すでに坊主Click!の蓄財や財宝への執着がとりざたされ、怪談として伝わっているのが面白い。財産が、弟たちに分配されてしまったことが気に入らないのか、殺された坊主が火の玉となって化けて出て弟たちに嫌がらせをするという経緯は、仏教や寺院への多大な皮肉や揶揄がこめられている怪談だ。
 その後、近隣の神社仏閣に願掛けして、殺された僧の供養をねんごろにしたところ、怪異現象は収まったとされている。人々は、「あの僧は財宝にひどく執着していたので、その一念が火災を起こし」たとウワサしあった。解脱(げだつ)しているはずの坊主が、蓄財となると血眼になるのは別に時代を問わないようだ。
 次は、少なくとも延宝年間(1673~1681年)から、下落合村の北側に接して下屋敷があった上州高崎の大名・安藤但馬守(のち江戸中・後期からは対馬守を受領)の家臣にまつわる、第12巻の「冤魂篇」に記録された怪談だ。安藤但馬守の下屋敷から、江戸市街地へと出るのに神田上水をわたる橋が必要だが、下落合の田島橋(但馬橋)Click!は安藤家にちなんでつけられた橋名だといわれている。
 『新著聞集』では「安藤対馬守」として語られているが、この怪異が起きたのは江戸前期から中期にかかるころ、元禄年間(1688~1704年)の出来事と記録されているので、いまだ安藤家の受領名は但馬守時代だったのではないだろうか。以下、安藤但馬守(対馬守)の下屋敷について、1852年(嘉永5)に作成された『御府内場末往還其外沿革圖書』の「雑司ヶ谷村/下落合村/高田村之図」に記された添書きから引用してみよう。
  
 右五拾七人屋舗の地所延宝年中は南手下落合村百姓地ニて其外当初より東手え続一円安藤但馬守下屋舗(此下屋舗の内当初より東手地続は前二部に有之。右二部の内前々一部の地所は天和三亥年中上ヶ地ニ成、右残地当所并前一部の地所共天保五午年中当所同様上ヶ地ニ成)に有之候処、天保五午年五月安藤対馬守(元但馬守)右下屋舗一円御用ニ付被召上(本所押上吉川四方之進屋敷の内被召上為代地被下)感応寺境内ニ成、
  
 安藤家の下屋敷は、江戸前期の但馬守時代から中・後期の対馬守時代へとつづく1834年(天保5)まで、下落合村の北に接して建っていたが、その敷地を感応寺Click!建設のため幕府に召し上げられ、代わりに本所押上に代地をもらって転居している。つまり、この怪談が人づてに広まったのは対馬守時代になった江戸中期以降のことなのだろう。
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 同家の家臣だった横田という人物は、かなり閑職だったものか自分の仕事にあきたらず、江戸で医師の修行をして横田保菴(ほあん)と名のるようになる。常勤の家臣からは外されているので、けっこう下落合村に接するさびしい下屋敷あたりが舞台だったのではあるまいか。向上心が強かったとみられる彼は、医師の修行が終るとそのまま安藤家の藩医になったようだ。国許の高崎に妻を残したまま、江戸勤務をつづけているうちに人から勧められるまま新しい妻をめとってしまった。
 それを伝え聞いた高崎の留守宅にいる妻は、嫉妬で怒り狂って江戸へと出てきたが、横田保菴は妻に三下り半(離縁状)をつきつけて高崎へすげなく追い帰している。やがて、江戸の新妻との間には3人の子どもが生まれたが、次々と育たずに死んでしまった。前後して、高崎の元妻が死んだことを知らされると、さすがに気がとがめたのだろう、保菴は元妻の執念深い怨念やタタリを怖れ、国許に一度もどって墓参りをしようと家中(かちゅう)の者を数人連れて出かけていった。高崎郊外にある墓前に立ち、保菴がていねいに供養をしていると、さっそく怪異現象が起こりはじめた。その様子を、同書より引用してみよう。
  
 すると不思議なことに確かに固めておいた石の卒塔婆が俄かに崩れ、大地が音を立てて二つに破れると思われた瞬間、保菴の顔色が変わって、/「やれ苦しや、助けてくれよ」/などと言って激しく狂ったので、連れの人たちは、(これは妻の怨霊だ)と心得、怨霊に向かって、/「いやいや、ここで保菴を殺しては、我々の一分が立たない。まず高崎に帰ってのことにされよ」/と道理を尽くしてなだめたので、霊の心も融和した。保菴もすぐに普通の状態になった。/高崎に連れ帰るとすぐに、またあの霊が取り憑いて、保菴は日夜狂い暴れた。このことが江戸にも聞こえてきたので、親しい者が高崎まで様子を見に行くと、その霊はその人たちに向かって、/「よくも保菴に同心し、新しい妻を迎える仲立ちをしたな。お前たちも生かしてはおくまい」/とののしった。
  
 保菴に付き添ってきた家中の者や、江戸から様子を見にきた友人たちは早々に江戸へ逃げ帰ったが、保菴はほどなく1697年(元禄10)に狂い死にしたと伝えられている。
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 この怪談で面白いのは、保菴に随行した家臣たちに元妻の怨霊が説得され、素直にいうことを聞いている点だろう。墓場で保菴が死んでは、随行した家臣たちが責任を問われかねないので、「われわれがあずかり知らぬところで祟ってくれ」という頼みを、もっともなことだと聞きとどけている。してみると、元妻は単に嫉妬にたけり狂って死んだのではなく、けっこう道理のわかる厳格でクールな女性だったのではないかと思えてくる。

◆写真上:盛夏を迎えるころから、なんとなく怪談が恋しくなってくる。
◆写真中上は、1749年(寛延2)出版の編集・神谷養勇軒『新著聞集』の扉と目次。下左は、『新著聞集』第1篇の表紙。下右は、『新著聞集』の現代語訳が掲載された2010年(平成22)出版の志村有弘『江戸の都市伝説』(河出書房新社)
◆写真中下:怪談には欠かせない、道具立てやグッズいろいろ。
◆写真下は、1852年(嘉永5)の『御府内場末往還其外沿革図書』にみる安藤但馬守下屋舗(敷)とその添書き。は、安藤家下屋舗(敷)の敷地だった一画の現状。
おまけ
 三鷹での展覧会「The Creation at JANUS 2022」(ジェーナスクリエイション公募展)で、いちばん気に入ったのがこれ、ami大久保美江氏Click!の『あなただったのね』。
 わたしに取り憑いてたのは「あなただったのね」、家の中でいろいろな音をさせたりモノを動かしていたのは「あなただったのね」、喫茶店で水のグラスがふたつ出される原因も「あなただったのね」、夜道を歩いているといつもあとを尾けてきてたのは「あなただったのね」、そして寝ているときに身体の上に乗っていたのも「あなただったのね」……。
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岸田劉生がベタ褒めの千家元麿。 [気になる下落合]

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 1929年(昭和4)から、落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)で暮らした詩人の千家元麿Click!は、同じ白樺派などからの影響を受けた歌人・土屋文明Click!とは異なり、自己の理想や思想性について現実社会の「矛盾」や「限界」にはほとんど頓着せず、どこまでも限りなく自身の世界へ引きこもる姿勢を保ちつづけた。
 そういう、“浮世離れ”した作品が本格的に評価されるのが、彼が生きた同時代ではなく戦後の危機的な(破滅的な)状況が去り、まがりなりにも平和な時代を迎えてからだったことも、彼の詩が人生や生活に“余裕”のある時代にこそ輝きを増して、読み継がれていくものだという気が強くする。千家元麿の作品は、その多くが理想を語り美を愛で愛情深い眼差しにあふれているが、昭和初期から1945年(昭和20)8月の敗戦まで、それらのテーマは軍靴に踏みにじられるか、表現することさえはばかられるような社会に陥っていた。
 落合に住んでいたころ、またはその少しあとの時代の作品に、『蒼海詩集』(文学案内社/1936年)の中に収められた「冬の日」と題する詩がある。一部を引用してみよう。
 (前略)群集の中にゐるのを嫌つて/市井を脱れて野へ来る時/孤独を見出したよろこび/野は蕭殺と変つた姿や/華やかに夏の日を憶ひ/花もなく放縦の趣きが消えて/素朴な冬となつた/閑寂に心惹かれる。
 この詩に対して、1969年(昭和44)に中央公論社から出版された、『日本の詩歌』第13巻の編集委員である伊藤信吉は、「冬の日」について次のように書いている。
  
 長らく自己の世界に安住してぬくぬくと惰眠をむさぼっていた形の詩人が、プロレタリア文学の勃興などで窮地に追いつめられて、ふるい立って荒涼とした冬景色に対し、われとわが身に鞭をあてている悲壮な姿が見える。こういう態度から新しい境地がひらけ、社会にも積極的に立ち向かうようになり、多くの意欲的な長い詩を書くことになったが、この方向では千家の特色は発揮されにくかった。彼は素朴な単純な、そして瞬時の感動に身をひたして直感的に歌い上げることに特色をもつ詩人だったからだ。
  
 千家元麿は、大正末から昭和初期にかけて、練馬や池袋、長崎、そして落合町葛ヶ谷と当時は東京近郊の田園地帯エリアを転々としているが、彼が住んだ当時の葛ヶ谷(現・西落合)の冬景色は、第二文化村Click!宮本恒平Click!が上高田の耳野卯三郎アトリエを描いた、『画兄のアトリエ』Click!に見られる雪景色のような風情だったろう。
 そもそも、千家元麿が最初の詩集『自分は見た』を出版したのは1918年(大正7)、第1次世界大戦のただ中で巷間ではスペイン風邪Click!が流行していたが、それまでの日本では経験したことのない大正デモクラシーと呼ばれた、自由で闊達な雰囲気が横溢しはじめていた時代だ。そのような時代の端緒に、千家元麿は処女詩集を発表しているのであり、やがて1928年(昭和3)の大規模な思想弾圧Click!にはじまり満州事変を経たあと、1932年(昭和7)の海軍将校による犬養毅首相暗殺による政党政治の実質的な終焉にいたる時代まで、千家元麿の主要な詩集は出版されている。
 『自分は見た』(玄文社)の出版に際し、その装丁をまかされた岸田劉生Click!は、持ち前の“感激屋”サービス精神を発揮して、序文に次のようなことを書いている。
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千家元麿「自分は見た」(玄文社)1918.jpg 千家元麿「自分は見た」内扉.jpg
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 (前略)自分は千家の最初の本の序文をかく喜びを与えてくれた本屋に感謝する。千家も喜んでくれた。自分は日本の今の詩壇からは門外漢かも知れない。しかし本当の詩には自分は門外漢ではない。自分はもう自分の確信を語るのに遠慮はしない。そして自分は千家の詩を褒めるのに躊躇はしない。自分は日本に真の詩人がいるかと聞かれた時に、自分は「いる」と答える光栄を有している。そして自分は今の日本の詩人で誰を一番尊敬しているかと云われても、自分は即座に答えることが出来る。そして今の日本で最もよき詩集はなんだと聞かれても自分はたちどころに答えることが出来る。その詩人は千家であって、その詩集はこの本である。
  
 かなりオーバートーク気味な岸田劉生Click!の文章だが、確かにそれまでの明治文学と白樺派に代表される大正期のそれとは、「私」「自分」「おれ」「ボク」と表現される一人称の主体、すなわち「近代人の自我」と呼ばれるものの深まりには隔世の感があった。千家元麿の出現は、単に白樺派の詩人としての範疇のみならず、限りなく内向的とはいえ深い自我を備えた新しい詩人群の登場の一端だったのだろう。
 千家元麿が死去したとき、武者小路実篤は追悼文で「彼はまた自然をいつも讃嘆していた。また哀れな者、貧しき者、よく働くものの味方だった。彼は或る時自分のことを楽園詩人と呼んでいたが、たしかに現代のどん底生活の内に楽園の夢を見ることが出来た稀有な男だ。僕は多くのよき友人を持つが、その内でも千家は思想的に僕に一番近かった」(1948年)と書いている。だが、彼の作品に登場する「哀れな者、貧しき者、よく働くもの」たちが抱える課題や矛盾に対して、それを解決し変革しようとする意志には向かわず、詩人の意識は自身の内側へ深くふかく沈潜していったようだ。
 同じ白樺派の仲間だった長与善郎Click!は、千家元麿について「時には野獣の如く脱線もする、が或る時には天使の涙をこぼす尊い人格。華族の子として生れながら半年以上を陋巷に過ごし貧窮の中に暮して常に天楽を改めなかった彼」と書いている。千家の「野獣の如く脱線」は、あくまでも生活上におけるハメを外したエピソードであって、その思想性から「野獣の如く脱線」することはなかった。
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 千家元麿は、1888年(明治21)に麹町区三番町で生まれている。彼の父親は、以前こちらでも東京府知事をつとめたときのエピソードとともにご紹介Click!しているが、出雲王朝Click!の末裔である千家尊福(たかとみ)だ。彼は長男として生まれたが、早くから「不良少年」化して家出事件を繰り返し、実家との関係はほぼ絶縁同然だったようだ。武者小路実篤とは、フュウザン会の岸田劉生Click!木村荘八Click!の紹介で知り合っている。
 処女詩集『自分は見た』には、生れたばかりの子どもを題材にした詩作が多い。だが、その慈しみ大事に育てた長男は戦争にとられ、あえなく戦死している。晩年の『遺稿から』収録の「小感」で、千家元麿は人生に開き直るような作品を残している。
 私が社会国家のために/何も貢献せず/安逸に自然の中を美し快感に飽腹して/空しく時間を費したとて/わるい事ではあるまい/私はこの大地を愛し/自ら畑は作らないでも見て歩いて/感激して暮らしたとて/空しい事とは思はないのだ
 確かに「わるい事ではあるまい」で、白樺派的な個人主義により自由かつ勝手だとは思うが、わたしが自分の息子を無理やり戦争にとられて喪ったりしたら、とてもその怒りから社会的・国家的に無関心でいられることなどありえないだろう。
 『日本の詩歌』第13巻の「解説」で、伊藤信吉はこう書いて結んでいる。
  
 千家元麿の人間的な愛や生活者に寄せる愛は、一転して認識の弱さ狭さに転化する。「おお」の感嘆詞は千家元麿の精神と肉体が、一種純粋な「感動体」であったことをしめすと同時に、その感動によって、認識の弱さ脆さをしばしば招来した。/感動は平凡な対象に虹の光彩を投げかけ、平凡な対象にいきいきとした生命を吹きこむ。千家元麿は感動で対象を包むことのできる詩人だったが、同時に感動によって認識を遮断した。人間性の文学、人生的・人道的詩人としての積極性と限界性がそこにあった。
  
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千家元麿詩集(一燈書房)1949.jpg 千家元麿詩集(岩波)1951.jpg
 落合に住んでいた1929年(昭和4)ごろ、千家元麿は九州を周遊している。全集本ブームClick!だった当時の出版界では、改造社版の現代日本文学全集『現代日本詩集』と新潮社版『現代詩人全集』、そして金星堂版『現代詩高座』に彼の作品が収録されている。

◆写真上:落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)の千家元麿邸跡。
◆写真中上は、若き日の千家元麿()と岸田劉生()。は、1918年(大正7)出版の岸田劉生装丁による詩集『自分は見た』(玄文社/復刻版)の表紙・内扉・見返し。
◆写真中下は、晩年の千家元麿()と父親の千家尊福()。は、島根県出雲市大社町の出雲大社の境内にある千家邸(現・千家国造館)。
◆写真下は、岸田劉生『劉生日記』Click!に描かれた“劉生漫画”の長与善郎()と千家元麿()。長与善郎のいい加減な描き方が、あまりといえばあんまりだ。は、戦後に出版された千家元麿の代表的な詩集で、1949年(昭和24)に出版された一燈書房版の『千家元麿詩集』()と、1951年(昭和26)に出版された岩波文庫版の『千家元麿詩集』()。

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下落合を描いた画家たち・長野新一。(3) [気になる下落合]

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 画家の眼は、広角から望遠まで自由自在だ。拙サイトでもっとも取り上げている、佐伯祐三Click!が描く「下落合風景」シリーズClick!の画面は、ほぼ見たとおりそのままの画角で情景をとらえているので50~55mmの標準レンズといったところだろう。
 これまでご紹介してきた長野新一の作品は、『養魚場』Click!(1924年)や『落合村』Click!(1926年)はほぼ標準レンズのような画角だが(『落合村』はやや広角気味か?)、1925年(大正14)に発表された『郊外の或る新開地』は同じ下落合の風景を描いてはいても、かなり広い画角をしている。レンズでいえば、28mmの広角レンズといったところだろうか。また、モチーフのとらえ方もややデフォルメしているようで、稲葉の水車Click!の『養魚場』のようなリアルな描き方とは、少なからず異なるような趣きだ。
 『郊外の或る新開地』が、1925年(大正14)の2月から3月まで開催の第6回帝展に出品されているとすれば、実際に制作されたのは前年の1924年(大正13)の秋から暮れにかけてかもしれない。画面を観察すると、常緑樹とは別に落葉した樹々が描かれており、そのぶん建物の多くが遠くまで見通せている。1924年(大正13)の、晩秋あたりの風景だろうか。同作は、以前にも一度ご紹介しているが通りいっぺんの解説だったので、より史的な土地勘が獲得できた現在の視点から、改めて同作を取りあげてみたい。
 『或る郊外の新開地』の画面は、陽光が画家の背後から射しており、南側から北側を向いて描かれているのが明らかだ。長野新一がイーゼルを立てている場所は、以前の規定とあまり変わらないけれど、前の記述では手前の窪地を妙正寺川北岸の道路と想定していた。だが、風景や家々の見え方からいって、この窪地は妙正寺川の流れの可能性が高い。当時は小川だった妙正寺川の南岸から、北側の目白崖線に連なる丘陵を向いて描いており、画家のすぐ左手(西側)には地元で「どんね渕」Click!と呼ばれた、妙正寺川の特徴的な流域があった。また、画家の右手(東側)には、江戸期からつづく小さな西ノ橋(比丘尼橋)Click!が妙正寺川に架かっており、さらにその向こう側には、地名の由来となった妙正寺川と旧・神田上水(1966年より神田川)が落ちあう合流点があるはずだ。
 長野新一は、一面に田圃(稲の収穫は終わっていただろう)が拡がる下落合の向田と呼ばれた字名の区域、水田を横切る畦道の傍らにイーゼルをすえていると思われる。この一帯は、やがて妙正寺川の直線整流化工事とともに、西武線の下落合駅前を形成する一画だ。画家の背後には、目白変電所Click!へとつづく東京電燈谷村線Click!高圧線鉄塔Click!が並び、さらにその向こうには堤康次郎Click!らが創立したばかりの、上落合の前田地区にあった東京護謨工場Click!の建屋が見えていただろう。
 1924~1925年(大正13~14)の時点で、左手の丘上に見えている大きな建築物は、徳川義恕邸Click!の旧邸とその建物群で、昭和期に入って建設されるより大きな新邸よりも、やや北寄りの位置に建っていた。また、この時代の「静観園」(ボタン園)Click!は建物の北側にあり、いまだ東側の斜面には移動していない。徳川邸のすぐ右側、丘下の手前に見えている大きな屋根の日本家屋は、「一年の計は春(元旦)にあり」で有名な安井息軒の孫にあたる人物が住んでいた安井小太郎邸(三計塾)Click!だ。安井邸の向こう側には、不動谷(西ノ谷)Click!諏訪谷Click!が合流する湧水池が形成された谷間があり、その北側の高台には1931年(昭和6)に国際聖母病院Click!が建設される青柳ヶ原Click!が拡がっている。
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 その右手に白っぽく描かれているのは、諏訪谷の出口へ急斜面の崩落を防ぐために築かれた、コンクリートの大規模な擁壁だとみられる。この擁壁は、徳川義恕邸の庭からバラ園Click!のある東側を向いて1926年(大正15)ごろに描かれた松下春雄Click!『徳川別邸内』Click!でも、諏訪谷の出口に高く築かれているのが確認できる。昭和期に入ると、聖母坂の開拓とともに擁壁は撤去され、改めて雛壇状の宅地開発が進むことになる。
 また、下落合にお住まいの方ならもうおわかりだと思うが、擁壁の右手にある丘には急峻な久七坂Click!が通い、その急斜面には佐伯祐三が「下落合風景」の1作として描いた、丘上から見下ろす大きな赤い屋根をもつ池田邸Click!が、樹間からチラリとのぞいている。そして、丘の切れ目の右手(東側)、画面の右端に電柱へ隠れるように描かれている建物が、現在はコンクリート造りに建て替えられてしまったが、明治初年からつづく薬王院Click!(明治初年に藤稲荷Click!の界隈から現在地へ移転)の丘上にあった旧・本堂だ。
 大きな安井邸の屋根や、その前に並ぶ建てられたばかりらしい住宅群(現在、これらの家屋敷地はすべて十三間通り=新目白通りClick!の下になっている)の手前には、葉を落とした樹々に沿って半円を描く道筋が通っている。その中央やや右側に、淡い色合いで描かれたとみられる葉が変色しているらしい大きな樹木は、旧・ホテル山楽Click!の敷地に相当し現在でも目にすることができる、黄色に変色したイチョウの大木ではないか。すなわち、1924~1925年(大正13~14)に描かれた同作は、少なくとも鎌倉時代から村落が形成されていた下落合(字)本村Click!と呼ばれる一帯だ。関東大震災Click!の影響から、このあと下落合の東部から中部にかけ住宅が爆発的に急増する直前の情景を描いている。
 長野新一が立っているのは、当時の住所でいえば下落合(字)向田2350~2356番地と上落合(字)前田289~292番地の境界あたりに拡がる田圃の畦道上、のちの上落合1丁目275番地界隈で、現在の上落合1丁目17番地の西武新宿線の線路寄りないしは線路内の地点だろう。
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 さて、長野新一は以前にも書いたように下落合1542番地の落合第三府営住宅(落合府営住宅3-11号)にアトリエをかまえていた。すぐ近くの同じ落合第三府営住宅には、帝展仲間で転居前の西ヶ原でも近所同士だった、同じ東京美術学校卒で岡田三郎助に師事した江藤純平Click!(下落合1599番地=落合府営住宅3-24号)のアトリエがあった。長野新一は江藤純平よりも4歳年上だが、おそらく仲がよかったふたりは相談して、下落合の落合府営住宅Click!に転居してきているのだろう。
 ふたりのアトリエの東側、下落合1385番地Click!の落合第二府営住宅のエリアには、帝展仲間の松下春雄Click!がアトリエをかまえていた。また昭和期に入るとほどなく、同じ西ヶ原で画家グループのひとりだった、長野新一よりも5歳年上の片多徳郎Click!が、曾宮一念アトリエClick!の斜向かいにあたる下落合734番地へ転居してくることになる。3人の出身地は大分県であり、長野新一は同県速見郡日出町、江藤純平は同県臼杵市、片多徳郎は同県国東郡高田町でみんな同郷人だった。ただし、長野新一が江藤純平のように、片多徳郎Click!とも親密に交流していたかどうかはさだかでない。
 さて、長野新一のご遺族より先日、作品画像を2点お送りいただいた。1点は、1926年(大正15)に描かれた第7回帝展出品作の『赤き蒲団と裸女』で、もう1点が1931年(昭和6)に制作された『本を読む人』(大分県立芸術館では仮題『人物』)だ。2作とも下落合のアトリエでの制作だと思われるが、このうち『本を読む人』の背景に描かれている庭先が、落合第三府営住宅にあったアトリエの庭である可能性が高い。
 庭にはユリの花が咲き乱れ、おそらく6~7月ごろの情景だろう、右端の柵の向こう側にはアジサイとみられる青色の花も咲いている。洋間の床は、なんらかの敷物か薄い板のようなもので覆われており、その表面が絵の具で汚れているように見えるので、長野新一のアトリエに遊びにきた人物をモデルに描いたものだろうか。陽光の射し方から、落合第三府営住宅の南側に面した1室なのかもしれない。
 1936年(昭和11)の空中写真を参照すると、落合府営住宅3-11号の住宅(長野新一アトリエ)は主棟(大棟)がふたつに分かれた屋根のかたちをしている。空中写真が撮影された当時、長野新一が死去してから3年が経過しており、すでに当時は酒井邸となっていた。また、同区画は二度にわたる山手空襲からも焼け残り、戦後の1947年(昭和22)に撮影された空中写真を参照すると、より鮮明に建物の様子を観察することができる。
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 『本を読む人』が制作された当時、長野新一は東京美術学校の助教授に就任していたが、おそらく健康上の理由から1932年(昭和7)に美校を辞職し、翌1933年(昭和8)に死去している。画家の仕事としては、これから本格的に脂がのる時期を目前にしての急死だった。

◆写真上:1924年(大正13)晩秋の制作とみられる、長野新一『郊外の或る新開地』。
◆写真中上は、1924年(大正13)の1/10,000地形図にみる描画ポイントと画角。は、地形がよくわかる1909年(明治42)の同所。は、大正期の撮影とみられる妙正寺川の「どんね渕」で、写生する画家のすぐ左手に見えていただろう。
◆写真中下は、『郊外の或る新開地』に描かれたモチーフの特定。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合1542番地の落合第三府営住宅(落合府営住宅3-11号)にあった長野新一アトリエ。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる元・長野新一アトリエと、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる同所。
◆写真下は、1926年(大正15)に制作された長野新一『赤き蒲団と裸女』。は、1931年(昭和6)に制作された同『本を読む人』。は、長野新一アトリエ跡の現状(右手)。
★掲載している『赤き蒲団の裸女』と『本を読む人』の2作品の画像は、長野新一の孫娘にあたられる大塚邦子様からのご提供による。
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「首塚」や「馬塚」の下には古墳がある。 [気になる下落合]

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 千代田区の大手町にある将門首塚古墳(柴崎古墳)Click!のほかに、関東には怪談が付随する有名な「首塚」がもうひとつある。群馬県の安中市にある、碓氷川の河岸段丘上に広がる“古墳の巣”のようなエリアで発見された、簗瀬(やなせ)八幡平の「首塚」、考古学的には「梁瀬首塚古墳」または古くから「原市町12号墳」と呼ばれる古墳時代の遺構だ。北東側には、釣り鐘型の周壕域まで含めると全長130mを超える、前方後円墳「梁瀬二子塚古墳」(旧・原市町13号墳)に隣接している。
 大手町の将門首塚Click!は、古墳時代に造営された小型の前方後円墳にちなみ、なんらかの禁忌譚Click!が語られつづけ、後世に「将門の首が飛んできて落ちたので葬った」という怪異譚が付会されたとみられるが、同古墳のあった柴崎村の敷地には730年(天平2)ごろ、すでに出雲神のオオナムチ=オオクニヌシを奉った神田明神Click!が造営されており、のちに「首塚」伝説とともに平将門Click!も主柱に祀られることになる。これに対し、梁瀬の首塚はその名のとおり室町期に埋葬されたとみられる、刀傷のある頭蓋骨が墳丘の東側斜面(玄室の外郭地中)から150体分も出土している。
 この150体分の頭蓋骨は下顎の骨がないため、以前にどこかに葬られていた遺体の頭骨だけを掘りだし、梁瀬首塚古墳(原市町12号墳)の墳丘東側へ改葬されたものとみられている。頭骨が埋められた上には、1783年(天明3)に噴火した浅間山の火山灰の混じる覆土がのっており、田畑の開墾かなにかにともない江戸時代に改葬されたのが明らかだ。
 江戸期以前の改葬(墓地の移転)では、頭骨のみを掘りだして別の場所へ埋葬するのは、特にめずらしくない習慣だった。これらの頭骨は、室町時代に生きた日本人の形質を備えており、なんらかの戦乱による犠牲者ではないかと推測されている。古墳のある場所は、甲斐の武田氏と群馬の安中氏とが激しく争った地域であり、梁瀬首塚古墳の北西側は武田信玄が築いた八幡平陣城跡とされている。
 また、墳丘の両側からは中世の板碑Click!が7基がまとめて発掘されており、そのひとつには「建武四年」(1337年)の年紀が刻まれていることから、中世から近世にかけてまで、梁瀬首塚古墳の墳丘が「特別な祭祀場所」であったことがわかる。つまり、拙ブログでは以前から書いてきている「屍家(しんや・しいや)」伝承Click!、あるいは禁忌伝承Click!が語られてきた忌み地Click!であり、そのため隣接する梁瀬二子塚古墳とともに開墾や開拓がなされず、現在まで良好な状態のまま保存が可能だったのだろう。
 2003年(平成15)に安中市教育委員会から発行された、『梁瀬二子塚古墳/梁瀬首塚古墳/市史編さん事業及び都市計画道路建設事業に伴う範囲確認調査及び埋蔵文化財発掘調査報告書』(もう少しタイトルの長さがなんとかならなかったものだろうか?)より、直径23m余の円墳・梁瀬首塚古墳についての発掘状況について引用してみよう。ちなみに、同古墳は過去に何度か発掘されており、1931年(昭和6)に近所の小学生が発見した150体分の頭蓋骨は、1952年(昭和27)の東京大学による発掘調査ですでに取り除かれている。
  
 首塚関連 首塚に関連する遺構・遺物は全く検出されなかった。したがって、首塚は古墳東側(石室の裏込めの外側)のごく限定された部分に頭骨が並べられていたのみであった可能性が高い。近現代馬墓 埋葬馬の検出された墓壙が墳丘北側トレンチで確認された。馬骨の遺存状態は良好であり、生後半年ほどの子馬であることが宮崎重雄氏の鑑定により明らかとなった。覆土には浅間A軽石が混入しており、近現代の馬が埋葬されていた場所と判断される。
  
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 梁瀬首塚古墳には、人間の遺体(古墳の被葬者)ばかりでなく、それが墳墓あるいは屍家と伝えられていた近世にも150体分もの「首」が改葬され、さらに近現代にかけては動物(家畜)の死体までが埋葬されていた。
 この事実にピンとこられた方は、拙ブログをていねいに読まれている方だろうか。そう、落合地域にも「馬塚」Click!と呼ばれる墳墓が存在していた。従来は、江戸期に農耕馬や伝馬などの家畜が死ぬと葬られた動物墓と解釈されがちだったが、なぜその場所があえて「墳墓」として選ばれているのかという、より深いベースとなる史的テーマだ。
 落合地域の「馬塚」は、1932年(昭和7)に出版された『自性院縁起と葵陰夜話』(自性院)によれば、葛ヶ谷448~449番地(現・西落合1丁目と同2丁目の境界)あたり、いまでは新青梅街道(旧・江戸道)の下になってしまった地点に存在していた。これだけ見るなら、街道(江戸道)を往来する伝馬や荷運馬が倒れて死んだので、街道沿いに葬ったようにとらえられがちだが、「馬塚」の周辺には「丸塚」や「天神山」Click!「四ツ塚」Click!、「塚田」など古墳地名が随所に散在しているエリアだということに留意したい。
 すなわち、もともとは屍家あるいは禁忌地として伝承されてきた場所、つまり田畑に開墾もされず忌み地として放置されていたエリアに、動物の死骸も埋葬しているのではないかという想定が成り立つ。少し前に記事にした、徳川吉宗Click!が輸入したアジアゾウClick!が中野村で病死し、60樽ほどに塩漬けした死骸の肉が腐敗したため、大きな塚が数多く見られた近くの桃園地域に埋葬したのではないか……というエピソードにも直結する課題だ。梁瀬首塚古墳のケースは、まさに古墳をベースにして造られた「首塚」であり「馬塚」だったのだ。
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 大正期、月見岡八幡社Click!の宮司・守谷源次郎Click!は、鳥居龍蔵Click!の考古学チームをわざわざ落合地域に招聘して、つごう37基の古墳Click!を確認(一部は発掘調査)している。しかし、このとき調査・発掘してまわったのは上落合のほぼ全域と、下落合の東西につづく目白崖線の急斜面(バッケClick!沿い)が主体であり、下落合の丘上(地形図に採取された正円のニキビ状突起物Click!についても記事にしているが)、および葛ヶ谷(西落合)の全域はまったくの手つかずだったと思われる。
 したがって、下落合や葛ヶ谷に伝えられていた丸塚や天神山、四ツ塚、塚田などの地点は、なんの調査や確認・観察もされずに開拓(耕地整理Click!)や道路工事、住宅地造成で消滅してしまった……ということなのだろう。もし、「馬塚」のエリアが中世に入ってなんらかの墓地や改葬場所として利用されていたなら、より強烈かつ印象的な名称がつけられて、梁瀬首塚古墳のように道路計画からも外されて現存していたかもしれない。
 梁瀬首塚古墳からの出土品について、同報告書からつづけて引用してみよう。
  
 (前略) 墳丘・周溝から普通円筒埴輪・朝顔形埴輪・人物・馬・盾・靫が出土している。埴輪の大半は藤岡産埴輪で、特記すべきことは全身立像の部品が出土している。全トレンチから形象・器材形埴輪が出土している。特に石室西側の3・4トレンチから馬が出土している。6世紀後半に造られた古墳である。
  
 梁瀬首塚古墳からは、形象埴輪や土器片などが発見されたが、それ以前に改変あるいは盗掘されたのか豪華な副葬品は発掘されなかった。だが、隣接する梁瀬二子塚古墳(6世紀初頭の前方後円墳)からは、明治以降に環頭太刀をはじめとする鉄刀類Click!や甲冑類、出雲の碧玉Click!や糸魚川の翡翠Click!、水晶、琥珀、ガラス、金銅など数々の宝玉・宝飾品、土器・須恵器などの豪華で膨大な副葬品が発見され、地主の小森谷家に代々保存されてきている。南武蔵勢力と密接に同盟していたとみられる上毛野(かみつけぬ)勢力が、ヤマトに対抗するためか日本海側の北陸(越:こし)や出雲とも連携していた痕跡が見えてたいへん興味深い。
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 梁瀬首塚古墳で語られている怪談は、将門首塚古墳で語られつづけ各地に類似伝承が残る、まわりくどいタタリ譚Click!などよりも、もっと直截的であからさまだ。「甲冑を着た落ち武者たちの亡霊を見た」とか、「首のない鎧姿の武士の幽霊を見た」とか、「どの道を選んで走っても、なぜか呼ばれるように首塚の前に出てしまう」とかのありがちな怪異だ。後世に「首塚」と名づけられたがゆえ、「心霊スポット」にされてしまった古墳本来の被葬者にしてみれば、「おまえら、いい加減にしてくれろ」と地下で迷惑がっているだろう。

◆写真上:整備されすぎてしまった、大手町の将門首塚古墳(柴崎古墳)跡。
◆写真中上は、1968年(昭和43)に将門塚保存会から出版された『史蹟将門塚の記』の表紙()と裏表紙()。わが家には初版と4刷(1982年)があるので、初版は神田明神の氏子150万人の家庭へ配布され、4刷は親父が家にあるのを忘れ神田明神で新たに買い求めたものだろうか。は、柴崎古墳(将門首塚古墳)の後円部前に安置された神田明神の神輿2基で、緑の繁る墳丘が残っていることから関東大震災以前に撮影されたもの。は、明治初期に描かれた将門首塚古墳(柴崎古墳)の後円部。
◆写真中下は、鳥居龍蔵の考古学チームが撮影した関東大震災直後の将門首塚古墳(柴崎古墳)。は、整備される以前の風情があった将門首塚古墳跡。は、群馬県安中市の旧・原市町にある梁瀬首塚古墳(八幡平の首塚)。
◆写真下は、1932年(昭和7)出版の『自性院縁起と葵陰夜話』に掲載された絵図。は、梁瀬首塚古墳に隣接する6世紀初頭の梁瀬二子塚古墳。は、梁瀬首塚古墳と梁瀬二子塚古墳の位置関係で、縦横に描かれた筋は発掘調査(2003年)のトレンチ。
おまけ
 2003年(平成15)に安中市教育委員会が実施した、梁瀬首塚古墳(原市町12号墳)の発掘調査の様子。墳丘へ向けて、5本のトレンチ(調査溝)の掘られている様子がわかる。は、近代に埋葬されたとみられる出土した仔馬の全身骨格。
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