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銀座から目白文化村へ1円じゃ帰れない。 [気になる下落合]

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 下落合1470番地に住んだ龍膽寺雄Click!については、入居していた「目白会館」Click!をめぐってこれまで何度か記事Click!にしてきた。都新聞の記者が取材して書いた、1931年(昭和6)8月18日発刊の矢田津世子Click!に関する同紙の記事Click!で、ようやく彼が目白文化村Click!に住んでいた事実を突きとめ規定することができた。
 だが、第三文化村に建っていた目白会館・文化アパートと、龍膽寺雄が『人生遊戯派』Click!で述懐する「目白会館」とは、建物の意匠や内部が一致しないことにも触れた。当時の龍膽寺雄は、東京に建ちはじめていたモダンなアパートを転々としているので、約50年後に書かれた同書では暮らした各アパートの記憶(エピソードよりも、特に建物の構造や意匠について)が、ゴッチャになっている可能性を否定できない。
 龍膽寺雄がちょうど目白会館に住んでいたころ、目白文化村のネームが登場する作品がある。1930年(昭和5)に春陽堂から出版された、12人の作家によるオムニバス作品集『モダン・トウキョウ・ロンド(モダン東京円舞曲)/新興芸術派十二人』収録の『甃路(ペエヴメント)スナップ』だ。かなりキザっぽいタイトルで、内容もそれにあわせたように「きゃぼ(生野暮)」Click!ったらしいが、当時はそれがモダンでカッコよかったのだろう。
 執筆者は龍膽寺雄のほか、堀辰雄Click!阿部知二Click!井伏鱒二Click!川端康成Click!吉行エイスケClick!中河與一Click!らで、東京各地の街々に展開していた風情や風俗を描く、ルポルタージュとも体験小説ともつかないような作品がほとんどだ。龍膽寺雄は、『甃路(ペエヴメント)スナップ』の中で「銀座」や「丸ノ内」、「新宿」、「浅草」などの情景を活写しているが、街中で見かける風景の切片を並べたような、特に物語性や筋立ての大きな展開があるわけではないコラージュ風の作品だ。
 夜11時ごろの銀座通り、バーやカフェから出てきた酔客が円タクをひろう場面に、目白文化村が登場している。1989年(平成元)に平凡社から出版された『モダン都市文学Ⅰ/モダン東京案内』収録の、『甃路(ペエヴメント)スナップ』より引用してみよう。
  
 円タクの一聯が甃路(ペエヴメント)の両側を流れて、運転台の窓々から掏摸の様に光る眼が、行人を物色するんです。まさにこれ近代都市神経の尖端!/『目、目白の文化村? さア、……二、二円は戴かなくちゃ。え?……しかし郊外は帰りがありませんから。……じゃ、一円五十銭じゃ? 一円? 御冗談でしょう。とても。……』/『どちら? 目白の文化村?……よろしゅうござんす。一円で参りましょう!』/ゴム輪の車はゴムの様に伸縮自在。/と、――/凄じいサイレンに警鐘を乱打して、ものものしい真ッ赤な消防自動車が、砂塵を撒きたてて寝静まった街路を疾駆するんです。
  
 龍膽寺雄は、1928年(昭和3)6月から1930年(昭和5)の6月まで第三文化村の目白会館で暮らしていたので、書かれている銀座での情景は、おそらく自身の体験によるものだろう。当時は東京35区制Click!の以前なので、目白文化村のある下落合は東京府豊多摩郡落合町Click!の大字のままだった。円タクの運転手が、東京市内ではなく郊外へ走るのをためらっているのは、帰り道に乗客をひろえる可能性がほとんどないからだ。
 銀座4丁目の交差点から、下落合の第三文化村までは直線距離で8.6kmほどある。戦後は、ショートカットできる道路がいろいろ整備されたとはいえ、それでも千代田城Click!を北あるいは南へ大きく迂回しなければ、落合方面へは抜けられない。ましてや、大正期が終ったばかりの当時は、クルマが容易に走れる大道路あるいは街道筋の数は限られており、直線では8.6kmでもおそらく倍以上の距離を走らなければたどり着かなかっただろう。
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 そして、道路が完全に舗装されているのは東京の市街地と呼べるエリアだけで、一歩郊外へ出れば未舗装で凸凹だらけの道を、スピードを落として注意深くゆっくり走らなければならなかった。ましてや、数日以内に雨が降ったりしていたら、いまだ未舗装の道路はあちこちがぬかっており、へたをすると車輪をぬかるみにとられ、街灯もまばらな路上でひと晩じゅう立往生してしまうことも稀ではなかった。
 今日のタクシーなら、銀座から下落合までは新宿をはさんでいるし、帰りがけには銀座よりも繁華な新宿を流せるので、願ってもない上客ということになり“乗車拒否”をする理由は見つからないが、昭和初期の円タクのドライバーが躊躇するのは、悪い道路事情に加え夜になると人がほとんど歩いていないので客がひろえず、帰路の時間がムダになるからだった。
 龍膽寺雄は銀座通りを外れてカフェ街へと向かい、いきつけの店内をうかがう。
  
 試みに扉の隙に耳を押付けて、中の気配を覗ってみたまえ。女給さんたちの忍び笑いがムズ痒く背すじを匍い廻るから。/が、ちょいとお待ち下さい。/あの聴き覚えのある声は?/冗談じゃない。モダン東京円舞曲のわが楽士の面々。吉行エイスケ、久野豊彦、それに楢崎勤君等の諸氏。――/『やア。……』/扉を開けると、色電燈の仄暗い衝立の蔭に、頬紅の鮮やかな女給さんたちと膝組み交わして、卓子を囲んだモダン派作家の一群。いずれも名だたる街の猟奇者の面々です。/『さア、どうぞ。……』/秀麗なおもてに仄々と桃色の酔いをのせて、吉行君が長椅子(デイヴアン)へ席を招じるんです。(中略) 『それよか、僕がもっと面白い街の猟奇談をきかせてやるよ。小便臭い女の子との逢引話なんぞ、面白くも糞もないじゃないか。そんなことは楢崎や龍膽寺に委せて、それよりは僕の話を聴きたまえ。円タク・ガアル、ステッキ・ガアル、お好み次第だよ。と云って、何も僕の実験談てわけじゃないがね。』/さア、大変な話になッちまったが、この居心地のいい長椅子は読者諸君にお譲りして、私はともあれ、睡った深夜の街々をもうひと廻り。
  
 なるほど、穏和な矢田津世子Click!がほんとうにめずらしく激怒したのは、吉行エイスケClick!らがこのような雰囲気を身にまといながら、周囲へ発散していたのもひとつの要因だと納得できるが、1935年(昭和10)以降は武田麟太郎Click!の文芸誌「人民文庫」Click!へ執筆するような彼女に対して、「商売女」に接するような態度をとったからなのかもしれない。それとも、ひっかけた女や買った女、カフェの女給、流行のファッション、ダンス、クルマ、オーデコロンなどの話しかしない男たちに嫌悪感をもよおしたものだろうか。龍膽寺雄が救われるとすれば、他の作家たちのように自身のことを「ボク」「僕」Click!などと書かず、ちゃんとオトナの一人称で「私」と書いている点だろうか。w
 文章の中で、「円タク・ガアル」と「ステッキ・ガアル」が登場しているが、円タクガールは今日ではさほどめずらしくない若い女性ドライバーのこと、あるいは助手席にフラッパー(女の子)の助手を乗せて走るタクシーのことで、夜間に多い男性客をあてこんだタクシー会社の集客用SPの一環だった。また、ステッキガールは時間を決めておカネを払うと、買い物や散歩、食事、お酒などに付きあってくれるフラッパーのことで、現代風にいえば「レンタル彼女」といった商売だ。ほかに、銀座には「ハンドバッグボーイ」というのもいたらしいが、これはステッキガールの男子版なのだろう。
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 ほぼ同時代の銀座について、二科の東郷青児は1933年(昭和8)にこんなことを書いている。同書に収録の、「東京新風景」から引用してみよう。
  
 私らの銀座頃は水曜日木曜日あたりの午前九時から昼ごろ美事(ママ:見事)だった。山の手の美しい女が、雑踏をさけてひそかに銀ブラする姿が多く、女学生にしても今ほど安手の洋服ではない。(ママ:、)和服姿であでやかなフラッパー振りを発揮していた。その頃はよく、真昼の明るい喫茶店の隅で、生れて始(ママ:初)めて買った口紅を、あやし気な手つきで唇に塗ったりする少女が大分あったようだ。(中略) 今ではどんな人間でもレディーメードのアメリカンスタイルを体につけることが出来る便利な世の中になったのだろう。大衆化した銀座、――銀座が新宿になるのも近い将来だろう。(カッコ内引用者註)
  
 東郷青児が「私らの銀座頃」と書くのは、関東大震災Click!の前、大正の前半期ごろのことだ。彼がこの文章を書いてから90年近い歳月が流れたが、銀座は「新宿になる」ことはなかった。確かに「大衆化」はしたけれど、独特な街のアイデンティティは保たれつづけている。また、東郷青児が目にしていたころのように、銀座の柳並木Click!や外濠、水路などを元どおりにしようという動きさえ、地元の企業や商店街、住民たちの間では起きている。
 また、新宿Click!は成立基盤が郊外の遊興地であり場末の繁華街だったにもかかわらず、これまた彼の予想に反して商業地としての新宿にとどまらず、いまや企業の集合地となり東京のビジネス中心地へと衣がえしようとしている。だが、丸の内や有楽町ほどオツにすましてはおらず、気軽に出かけられる大衆的な側面は失われていない。
 かつて、都市地理学者の服部銈二郎は、銀座の街のことを「都民にとおざかり、国民に近づく銀座」と書いたが、確かに東京では浅草とともに地域の住民ではなく、地方や海外からの観光客をよく集める繁華街として21世紀を迎えている。
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 今世紀に入り、閑静な住宅街だった西大久保や百人町が、韓流ブームで騒々しい街になったのは、ちょうど1970年代の前半ごろ、静寂な住宅街がなぜかファッションの街から出発してとんでもないことになってしまった乃手の原宿や表参道、六本木と同様で“お気の毒”なことなのかもしれないけれど、銀座にしろ大久保にしろ、それを「大衆化」ととらえるか「国際化」ととらえるかは別にして、利害がからむ商店街と昔から住む地元住民との間には、深くて超えることができそうもない“溝”が、大きな口をあけているのだろう。

◆写真上:1934年(昭和9)に竣工した、旧・銀座アパートメントの現役エレベーター。
◆写真中上は、ここに登場する作家たちのような人々が打ち上げ花火を持ちこんで天井を焦がしたといわれるビアホール「銀座ライオン」。は、旧・銀座アパートメントの上階内部。下左は、1930年(昭和5)に出版された『モダン・トウキョウ・ロンド(モダン東京円舞曲)―新興芸術派十二人―』(春陽堂)。下右は、1989年(平成元)に出版された「モダン都市文学」シリーズの『Ⅰ巻/モダン東京案内』(平凡社)。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された4丁目から5丁目あたりの銀座通り。は、昭和初期に街を闊歩するモガ(モダンガール)。いまこの格好で街を歩いても、それほど違和感を感じないようなファッションセンスだが、惜しむらくは現代の170cm前後の銀ブラフラッパーに比べて、タッパがあと20cmほど足りない点だろうか。
◆写真下は、1936年(昭和11)に竣工した九段の野々宮アパートメントClick!。同アパートメントが、従来のモダンアパートと決定的に異なるのは、住民共同の浴場ではなく各部屋に浴室が完備していた点だ。は、同アパートメントの1階ロビー。は、同アパートメントの室内。当時は大流行していた、バウハウス風デザインのテーブルやイスが目を惹く。

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