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平林彪吾と五木寛之の「売血」小説。 [気になる下落合]

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 いまの若い子は、「売血」などという商売があったことを知らないだろう。輸血用の血液製造が、1974年(昭和49)に売血由来から献血由来に切り替わってからは下火になったが、その後も自身の血を売っては金銭を得る売血は献血とともに存続し、「有償採漿」すなわち売血が法的に全面禁止されたのは1990年(平成2)になってからだ。
 そんな売血をテーマにした、あるいは売血が登場する小説が、戦前戦後を問わずに書かれている。戦前の代表的な作品は、1936年(昭和11)に「文藝」12月号に掲載された平林彪吾Click!の『輸血協会』だろう。妻と子どもを抱え、生活苦にあえいでいる上落合の作家「津曲三次」は、当時できたばかりの「日本輸血協会」へ、ついに血を売りにいく決心をする。生活費さえ稼げない夫を見かねた、それほど身体の丈夫でない妻が、銀座のカフェで女給として働きはじめたのも津曲三次を苦しめた。
 その様子を、1985年(昭和60)に三信図書から出版された平林彪吾『鶏飼ひのコムミユニスト』に収録の、『輸血協会』から引用してみよう。
  
 東中野駅から当時彼が住んでいた上落合の家まで、いくつかの「やきとん」の屋台店やおでん屋があった。津曲三次はそれらの前を通るたびに、このような人情の地を払った世の中では、自棄酒でも飲んで飲んで飲み呆け、咽喉仏も胃の腑もただれるばかり酔いつぶれたいと思うものの、ふと財布はその願いをかなえるにふさわしからぬと気づくとき、物を忘れることさえ金で左右されるのかと、妖気の如く人の社会にのさばり返っている金を呪い、心わびしく外套の襟を立て、急いで通りすぎるのであった
  
 本作に登場している「日本輸血協会」とは、輸血用血液の不足を解消するために、1936年(昭和11)に民間で設立された日本輸血普及会のことだろう。
 こうして、主人公の津曲三次は少しでも生活費の足しにしようと、「日本輸血協会」に血を売りにいくわけだが、1936年(昭和11)における売血の対価は100瓦(グラム)=100ccで10円、400ccほども採れば40円にはなったようだ。これを、今日の貨幣価値に換算すると、100ccで約10,000円ほど、400ccも採れば約40,000円ほどにもなった。また、当時の規則・規定では採血の上限が1,500ccまでと決められていたので、かなり無理をすれば1回の売血で150円=約150,000円ほどが稼げたわけだ。
 日本輸血協会へ出かけると、ワッセルマン反応など簡単な血液検査(ちなみに主人公の津曲三次はA型)とともに会員登録をうながされ、会員規定の書かれた「規則書」をわたされた。協会への入会金は5円で、病院への紹介手数料が2円、会員の規約貯金が1円、採血した病院から代金をもらって協会まで帰る円タク代(1円)も会員もちということで、初回に200ccを売血したとしても得た20円は、たちまち11円ほどになってしまう勘定だった。
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 会員規約には、会費のことや売血の心がまえのほか、公的機関ではなく民間企業のせいか血液型占いまでが掲載されていた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 派遣通知ヲ受ケタル場合は(ママ)一刻ヲ競ウ重病患者ノ救命ナルヲ以テ、派遣時刻ハ必ズ厳守スルコト、給血ニ際シ自己以外ノ者ヲ送ルハ法律上ノ罪悪ナルノミナラズ、タメニ患者ノ死ヲ招来スル重大ナル過失行為ナルコトヲ忘ルベカラズ。(中略) (A型血液の長所は)一、融和的デ円滑温順デアル。二、同情心ニ富ミ犠牲的ナルコト。三、事ヲナスニ慎重細心デアル。四、譲歩的デ人ト争ワヌ。/(短所は)一、感情ノタメニ自己ヲマゲ易イ。二、ツマラヌコトニ心配スル。三、優柔不断デ決断力ニ乏シ。四、貸シタルモノノ催促ニモ遠慮スル。(カッコ内引用者註)
  
 ……などと書かれており、津曲三次は「およそのところ当っている」と感じる。
 結局、初回の売血はすぐに連絡がきて20円-9円=11円が手に入ったものの、その後、1~2回ほどの連絡で協会からはなんの音沙汰もなくなり、彼は青白く不健康な顔色を化粧でごまかして協会まで出かけようとする。そこへ、協会は新人会員を増やせば増やすだけ入会金5円をタダどりできるから、既存の会員へは連絡を寄こさないようになり、血を吸う商人のインチキ商売に対して争議を起こすことに決めたので団結して参加せよという、古参会員たちの檄文が配達されてくる……というようなストーリー展開だ。
 『輸血協会』が発表された当時、高見順Click!は「悲惨をそのまゝ伝へたのでは未だ芸術とは言難いかもしれない。すると、そのまゝ伝へることさへしないこの小説は芸術からまた更に遠い所にある訳だろうか」と書き、本多顯彰も「現代純文学の作家たちは余りに貧乏」であり、生まれる創作は「貧乏な物語ばかり」だと批判した。彼らの批評は、平林彪吾が私生活をそのまま文章化した「私小説」だという前提で書かれているが、平林彪吾は売血の現場取材に二度ほど出かけただけで、当時の生活はそれほど困窮してはいなかったので「私小説」ではないと、のちに息子の松元眞が書いている。
 戦後、この売血商売をもう一度大きくクローズアップした作品は、1971~1972年(昭和46~47)にかけて書きつづけられ、講談社から出版された五木寛之『青春の門<自立篇>』だろうか。貧乏学生で主人公の伊吹信介は、生活費や学費を稼ぐために葛飾区立石にあった日本製薬の売血所(ニチヤク血液銀行)へ出かけてゆく。これは、五木寛之が学生時代に経験した実体験がもとになっているようだ。
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 故郷の福岡に残した、父親や弟妹の生活を気にしながら、日々の食費にも事欠いていた当時(1955年ごろ)の様子について、2008年(平成20)に角川書店から出版された五木寛之『わが人生の歌がたり―昭和の青春―』から引用してみよう。
  
 早稲田大学時代、私は血を売って命をつないでいました。そう言うと、今の人たちは、悲惨のどん底にいたように考えるのですが、血を売るのはそんなにびっくりするほどのことではなかったのです。平和になったとはいえ、日本人の生活はまだまだ貧しく、名前の通った私立大学でも、アルバイトをしながら通うのが当たり前という時代でした。/同世代の小沢昭一さんやフランキー堺さんもアルバイト学生で苦労した、という話を聞いたことがあります。(中略) 石原慎太郎さんは、昭和七年九月三十日生まれで、私と生年月日が同じなんです。この作品(『太陽の季節』)を読んだときに、本当に不思議な感じがしました。食うや食わずで、血を売ってその日をしのぐ私たちのような学生がいる一方で、湘南辺りでヨットに興じ、外車を飛ばして青春を謳歌する大学生もいる、世の中は不公平なものだと痛切に思いました。(カッコ内引用者註)
  
 ちなみに、1964年(昭和39)の400ccあたりの売血価格は1,200円、現在の貨幣価値に換算すると約34,000円ほどになる。また、現在の献血のみによる日本赤十字の血漿製剤の価格は400ccあたり17,234円とのことなので、人件費や加工費、保管費、輸送費などのコストを考慮すると、最初から大赤字なのが現状のようだ。
 五木寛之が売血していた戦後の時代は、戦前の平林彪吾が『輸血銀行』で書いた当時の「血漿」技術とは、まったく異なっていた。戦時中の1942年(昭和17)の秋、日本で捕虜になって抑留されている連合軍兵士のために、国際赤十字を通じてとどけられたのは輸血用の「乾燥血漿(フリーズドライ血漿)」だった。粉末状の乾燥血漿は、凍結乾燥されているために長期保存が可能で、かなり遠距離を輸送してもダメになることが少なく、生理食塩水で溶かせばすぐに患者へ使える状態になった。
 欧米の技術力の高さに、おそらく日本の医学者たちはいまさらながら舌をまいたのだろうが、当時の首相兼陸相の東條英機Click!は、休校を強制された救世軍士官学校の校舎を、欧米並みの乾燥血漿製造プラントに改造することを命令し、翌1943年(昭和18)から生産を開始している。これが、日本の軍産学コンプレックスによる「血液銀行」のはじまりであり、戦後の売血業界の出発点ともなる事業だった。
 関西では、1950年(昭和25)にその名も文字どおり日本ブラッドバンク(のちミドリ十字)が設立され、主要な株主には満州でペスト菌による人体実験を繰り返していた野口圭一(軍医少佐)や、炭疽菌で同様の実験をしていた大田澄(軍医大佐)、8,000枚の人体実験スライドを持ち帰った金沢医大の石川太刀雄(技師)など、731部隊Click!の主要な将校や技師たちが名を連ねていたのは、1980年代の初めに薬害エイズ問題でミドリ十字に関する詳細が報道されたから、ご記憶の方も多いのではないだろうか。
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 わたしは売血の経験はないけれど、献血の経験は何度かある。400ccを採血されてもフラフラにはならなかったが、冬などは風邪を引きやすくなったのを憶えている。きっと、採血によって体温が一時的に低下し、そのせいで免疫の防衛機能が脆弱になったからだろう。

◆写真上:1960年代に街の電柱に貼られていた、アルバイト給血者の募集広告。
◆写真中上は、1950年代とみられる港区芝海岸通りにあった日本製薬の「ニチヤク血液銀行」媒体広告。は、都内のあちこちで見かける献血検診車。
◆写真中下は、『輸血協会』が収録された1985年(昭和60)出版の平林彪吾『鶏飼ひのコムミユニスト』(三信図書/)と平林彪吾()。は、映画『警視庁物語・自供』(1964年/東映)の売血所を捜査する刑事たちのシーン。は、2008年(平成20)出版の五木寛之『わが人生の歌がたり―昭和の青春―』(角川書店/)と五木寛之()。
◆写真下は、1975年(昭和50)の空中写真にみる葛飾区立石にあった日本製薬の「ニチヤク血液銀行」。は、緊急輸血には欠かせない新鮮凍結血漿パック。(Wikipediaより)
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