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I Love Shimo-Ochiai in the Summertime。 [気になる下落合]

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 拙ブログがスタートして18年、初めて横文字でタイトルを書いてしまった。実は、下落合を散歩していると、ときどき子どもじみた夢想をすることがある。それは何年も、いや何十年何百年も前に消えてしまった風景が、とある街角を歩いているときにフッと脳裡をよぎるからだと感じている。以前の記事でも書いたが、六天坂Click!を上っていくとオレンジの鮮やかな屋根の中谷邸が見えはじめ、丘上にたどり着くと黄色いモッコウバラが咲き乱れる赤い屋根のギル邸Click!が姿を現す……というような幻想・幻視のたぐいだ。
 こういう幻(まぼろし)は、親父Click!アルバムClick!にある写真類、地元の写真集、地誌本、地図や絵図、江戸期の浮世絵Click!などを見つづけてきたせいか、「おや、あすこの女連としゃべりながら蒲焼き屋Click!を出て水菓子の千疋屋Click!に入るのは、文紗のうす物を着た芝居帰りのうちの祖母(ばあ)さんじゃないか?」……というように、故郷の日本橋地域ではよく起きていたが、どうやら下落合に住み、やがて拙ブログを長期間つづけているうちに落合地域の古写真や昔の空中写真、さまざまな画家たちが描いた風景などを見つづけてきたせいか、この地域でもそのような幻覚や幻視が起きるようになったらしい。
 ちょっと余談だけれど、拙ブログでは落合地域あるいは落合町と書いて、ときに「新宿区の片隅にある離れのような地域」と表現しているので、落合町をかなり狭い街だと勘ちがいされている、特に東京地方以外の方が多いようだ。「小さな町内に、ずいぶんいろいろな人が住んでいたのですね」は、いつも聞かされる言葉のひとつだけれど、確かに新宿区全体からみればわずか15%余の面積であり、東京全体から見ても他の大きな街に比べれば相対的に小さな街にすぎないのだが、別の地方の方々にもわかりやすく書くとすれば、たとえば落合町(落合地域)は横浜駅のある西区の面積の38%ほどに相当する。たいがいの方が訪れている京都を例にとれば、京都駅のある下京区の40%ほどの広さだ。大阪市でいえば、通天閣に隣接した天王寺区の約56%ほどが落合町の面積だと比定すれば、およそ感覚的におわかりいただけるだろうか。だから、「新宿区の片隅」といってもけっこう範囲が広く、隅々までていねいに見て歩くとすればとても1~2日ではまわりきれない。
 さて、そんな落合地域で近道をしようと林泉園Click!の谷間を歩いていて、晴天の日がつづくにもかかわらず、マンホールの中からいまだ枯れない激しい水流の音が聞こえたりすると、たちどころに豊かな湧水源だった当時の様子を、清水多嘉示Click!『風景(仮)』(OP595)Click!とともに思い浮かべたりする。すると、東邦電力が建てた赤い屋根のシャレた社宅群やテラスハウスに囲まれているような、あるいは中村彝Click!のスケッチ『林泉園風景』Click!と同様に、林泉園住宅地の中に足を踏み入れているような、どこからか目白林泉園庭球部Click!の練習音が聞こえてきそうな錯覚におちいることがある。
 薬王院の旧・墓地前Click!久七坂Click!筋を歩いていて、背後から急に足音が聞こえたりすると、キャンバスと画道具を抱えた汚らしい身なりの佐伯祐三Click!がフラフラとついてきて、「きょうも制作ですか?」と声をかけると「あのな~、ここな~、わしの散歩道Click!でんね、……そやねん」とつぶやいて通りすぎるような気がする。山手通りの工事で、現在は一ノ坂に面した2階家の窓からニコッと笑いかけ、ガラス越しに「ヤ・タ・サ・カ」(矢田坂Click!)と口唇のかたちがいってる矢田津世子Click!が見えたり、林芙美子Click!の自宅前を通ったりすると、血相を変えた彼女が門の格子戸をガラガラと開け勢いよく飛びだしてきて、「ちょっと、待ちなさいよ! あんた、またあたしの悪口を書いてるじゃないのさ!」といきなり怒鳴られそうなので、そそくさと通りすぎたりする。
 上落合郵便局の近くにいけば、大江賢次Click!の借家に潜伏した小林多喜二Click!が変装しながら出てきて、特高Click!が張りこんでいそうな中井駅ではなく、また特高が駅前の交番に大きな鏡をすえつけていつも改札口を見張っている東中野駅でもなく、東の高田馬場駅Click!方面へ抜けようとするので、「あなたも西武線の新井薬師前駅のことを、つい笙野頼子Click!と同様に新井薬師駅Click!といっちゃったりするんですね」と訊くと、シーーッと指を鼻にあてながら細い路地を選んで消えていく、うしろ姿が見えたりする。近くの中野重治Click!宅に寄れば、連れ合いの原泉Click!白装束Click!に榊の枝葉をふりまわしながら、「あだぁん!(うわっ!) こらまたなんだら、おみゃなにかに憑かれとる。明神様の祟りじゃ~!」と出雲弁で飛びだしてきそうでおっかない。
 下落合にもどると、目白中学校Click!の跡地あたりで伊藤ふじ子Click!を見かけたので、急いで追いついて「ぜひ、“彼は”のあとの手記を完成させてください」とお願いする。夏の七曲坂を下っていると、夕闇にまぎれて乱れた浴衣姿で駈け上がってくるのは、奥さんをうまくまいて上落合の自宅から下落合の旧宅方面へ逃げてきた、原稿用紙が入っているらしい封筒とカバンを重そうに抱えて息切れしている吉川英治Click!だ。
 八幡公園Click!の近くで大型家電店のトラックを見かければ、家電マニアの村山籌子Click!がまたなにか高価な製品を注文し、どこかで「もう、しようがねえな、しようがねえな」とぼやく村山和義Click!の声が聞こえてくる。落合第二小学校のあたりを歩けば、大きな野々村邸に臨時の憲兵隊分署が置かれたのは、やはり上落合にプロレタリア作家や美術家が多く住んでいたからだろうなと想像し、北隣りの吉武東里邸Click!の前を通れば、関東大震災Click!のとき帝国議会議事堂Click!大蔵省の設計プロジェクトClick!は、ここでなんとか事業が継承できたんだと、霞が関の国会議事堂の姿が浮かんでくる。
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 寺斉橋をわたって下落合側へ帰ろうとすると、橋の手前で白いミグレニンの錠剤をラムネのようにポリポリかじりながら、着物姿の尾崎翠Click!がフラつく足どりで前を横切ったりするし、寺斉橋北詰めの喫茶店の前を通ると、「ワゴン」Click!萩原稲子Click!が色っぽい流し目をしながらドアの前でタバコを吸っていて、背後のドアが急に開くと安ウヰスキーで酔っぱらった檀一雄Click!太宰治Click!が、なにかヘラヘラ笑いながら肩を組んで出てきて、稲子ママに手をふったりする。中ノ道(下の道)Click!に出ると、もぐら横丁から辻山医院Click!へ寄ろうと歩いてきた尾崎一雄Click!と、第二文化村から振り子坂Click!を下りてきた片岡鉄兵Click!とがバッタリ、一瞬足を止めてにらみ合いをしている。
 坂道をのぼって目白文化村Click!に出ると、近衛町Click!もそうだけれど、どこにどのような意匠の邸が建っていたのか、古写真や絵画、空中写真などからかなり見えてきているので、すぐに「誰々さんち」といい当てられそうだ。変なじいちゃんClick!社交ダンス教室Click!を開いていた、アビラ村Click!にある赤い屋根のアトリエClick!が跡形もなく消えても、どこからか蓄音機が奏でる佐渡おけさClick!が風にのってかすかに響いてくる。六天坂Click!を下っていると、右手のバッケ(崖地)Click!から「この玄室には、玉砂利の上に碧玉の勾玉Click!鉄刀Click!が残ってるぞ!」という声が聞こえてくる。のぞくと、守谷源次郎Click!鳥居龍蔵Click!の考古学チームが、古墳のひとつを発掘しているようだ。
 これらの幻視や幻想は、酔っぱらっているからでも、別に変なクスリをやっているからでもない。先年、吉屋信子Click!の姪にあたる吉屋敬様と、甲斐仁代Click!の甥にあたる甲斐文男様と楽しくおしゃべりしていて、COVID-19禍が収まったら下落合2108番地(現・中井2丁目)の吉屋信子邸Click!跡から、彼女が作品のファンだった下落合1385番地(現・中落合3丁目)の甲斐仁代・中出三也アトリエClick!まで、当時の目白文化村コースどおりに散歩しましょうとお約束したが、作家の吉屋敬様は吉屋信子に髪型から雰囲気まで似ているので、シェパードClick!でも連れ歩いたらめまいを起こしそうな錯覚におちいるだろう。
 いや、落合地域を往来する“有名人”ばかりでなく、もう一歩踏みこんだ幻視・幻想を見ることもある。妙正寺川の谷間を通れば、低空をドーリットル中佐が搭乗するB24の<2344機>Click!がフルスピードで飛んでゆく爆音が聞こえ、「日本の戦闘機はどうした、対空砲火はどうした!?」と叫ぶ防護団員Click!の男が、ムダとは知りつつ爆撃機を追って走っていく。聖母坂の下を歩けば、大正期のハイカーによるタバコの火の不始末Click!で、西坂・徳川邸Click!斜面の林から青柳ヶ原Click!の草原一帯まで燃え拡がり、落合消防組Click!が小型の蒸気ポンプを重そうに引きずりながら、手に手に鳶口を持って駆けつけてくるのが見える。
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 箱根土地Click!堤康次郎邸Click!の斜向かいで強盗傷害事件Click!が発生し、若妻がひとりで留守番をする家へ隣家の資産家のドラ息子が強盗に入り、ナイフを突きつけてカネを出せと脅したところ、逆に若妻にナイフを奪われ顔や手をむやみに切りつけられて逃げだし、駆けつけた警視庁の等々力警部が「よしっ、わかった! 犯人はおまえだ」と血濡れのナイフを手にした若妻を逮捕しようとしたら、「あんた、バッカじゃないの? 強盗に入られたのはわたしのほうだってば!」といわれ、「よし、わかった! 犯人は隣りの息子だ」と隣家へドカドカと踏みこんでいく、そんなおかしな情景が浮かんだりする。
 中村彝アトリエの近くを夜に歩けば、戦争を終結に導くために、ひそかに画策をつづける米内光政Click!が、夜目にも白い着流しのままとある屋敷から散歩にでたところを、陸軍の徹底抗戦・一億玉砕を叫ぶアタマのおかしい「亡国士官」たちに雇われたスパイの尾行が明らかなので、「そろそろ隠れ家を、別の場所に変えたほうがいいですよ」と、すれちがいざま囁いたりする。高田馬場2号踏み切りClick!をわたれば、特別編成の軍用列車の通過を見送りに、指田製綿工場Click!を中心とした軍国少年・少女たちClick!が線路土手に集まっている光景が浮かび、警備する在郷軍人会の男に「軍用列車が通りすぎたあと、すぐに品川方面からやってくる貨物列車が向こう側の貨物線を通過するので、絶対に子どもたちを線路内に入れちゃダメだ」と、しつこく念を押したりする……。
 そう、文学好きならお気づきかと思うが、このような幻視・幻想は米国のジャック・フィニイが見ていた幻視・幻想とそっくりなのだ。フィニイが見ていたのは、イリノイ州のゲイルズバーグやニューヨークのブルックリンの街並みだが、それと同じようなことが東京の落合町の街角でわたしにも起きているようだ。米国のたいへん有名な小説なので、読んだ方も多いのではないだろうか、『I Love Galesburg in the Springtime』(Jack Finney/1963年)で、邦訳は福島正実・訳『ゲイルズバーグの春を愛す』(早川書房/1980年)だ。ちょっと、英国のR.ウェストールに似た作家の米国タイプで、こういう表現やテーマをもつ作品を描く小説家は、きっと各国にひとりやふたりは存在しているのだろう。
 街角を歩いていると突然、過去の情景とつながってしまったり、ゲイルズバーグらしい街並みや自然が破壊されたり消滅しそうになると、どこからともなく過去から“復元力”のようなものが働いて、もとの姿や風景にもどそうとする……というような、少なからずノスタルジーを含んだ妄想のたぐいの作品だ。もちろん、現実には妄想がそのまま実現することなどありえないが、そんな妄想を抱く人物がひとりでも多く街中に増えれば、すなわちその街の歴史やアイデンティティをよく知る住民が増えれば、主体的に取り組むなんらかの活動を通じて現実的な力となり、無秩序な破壊や消滅を止められるかもしれない。そう、従来は単なる世迷言などといわれてたはずなのに、日本橋の上に架かるぶざまな高速道路を取っぱらう事業Click!が、今年からようやく始動したように……。
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 そんな他愛ない妄想を抱くようになったのは、わたしが高校生Click!のころから眺めていた落合地域の風景と、現在のそれとが大きく異なってきているからだろう。わたしの記憶に残る緑豊かで落ち着いた、静かな家々が建ち並ぶ街並みと、現在の個性や風情がどんどん失われてゆく街並みとの乖離が大きくなればなるほど、近くの氷川明神社Click!のクシナダヒメか、氏神である神田明神社Click!のオオクニヌシあるいは将門Click!かは知らないけれど、どこからかゲニウス・ロキ(地霊)Click!が耳もとに囁きかけ、妄想のたぐいをどこまでも際限なくふくらませるのかもしれない。
 今年の夏は、落合地域にある小中学校の生徒たちの自由研究や、このあたりにある大学の課題レポートなどに拙サイトが活用・引用されていたようなので、とっても嬉しい。

◆写真上:いまや、下落合(現・中落合/中井含む)らしい風景を探すのもたいへんだ。
◆写真中上:3葉とも、わたしの学生時代からあまり変わらない下落合の街角風景。
◆写真中下上左は、1963年出版のJack Finney『I Love Galesburg in the Springtime』。上右は、1980年に邦訳が出た『ゲイルズバーグの春を愛す』(早川書房)。は、同小説の米国版挿画。は、1913年撮影のゲイルズバーグの大通り。
◆写真下は、イリノイ州ゲイルズバーグにある大通りの現状。(Google Street Viewより) は、雪が降るとよけいなものを隠してくれるので昔の下落合風景らしくなる。は、久しぶりに手塚緑敏Click!・林芙美子アトリエを裏のバッケ(崖地)Click!斜面から。
おまけ1
 わたしが小学生になり、世間で流れる音楽が耳に入りはじめたころ、ことさら強く印象に残っている歌謡曲がこれ。別にモスラClick!にちなんでいるわけでなく、さまざまな音楽を聴いてきたいまでも、同時代の歌謡曲の中では感覚が新しく秀逸な作品だと思う。ザ・ピーナッツ『ウナ・セラ・ディ東京』は、日本につづき各国でもヒットし、次の『恋のバカンス』はほぼリアルタイムでソ連(現・ロシア)でも大ヒットを記録したと聞いている。半世紀を超える昔の曲だが、きょうの記事や拙サイトのテーマらしきものに無理やりこじつけて、歴史は教科書のように時代ごとや章ごとに都合よく区切られているのでも他所(よそ)事でもなく、きょうもまた連綿とこの地方やこの街でつづいているのであり、人々の喜怒哀楽の生を日々重ねているのだ……という意味をこめて。この曲を聴くと、かつて記事に登場した人々にからめ「(あなたたちのこたぁ)忘れちゃいないよ」と、つい返したくなるのだ。
ウナ・セラ・ディ東京.jpgClick!♬
おまけ2
 先の9月1日、岸田劉生日記をめぐる関東大震災の記事Click!を書いたが、震災の2年前、1921年(大正10)に片瀬海岸の御休み処(喫茶店)で撮影された記念写真を、熊谷明子様よりお送りいただいた。左が劉生に頼まれ、岸田一家の罹災記念写真を撮影した片瀬写真館の熊谷治純で、中央が岩手から東京へやってきたばかりの熊谷登久平、右側の前掛けをしている人物は御休み処の主人だろうか。「江ノ島やさして汐路に跡たるる 神はちかひの深きなるべし」と、鎌倉期の『海道記』に由来する短歌スタンプが押されているので、片瀬写真館のカメラマンのひとりが撮影したものかもしれない。なお、岸田一家の被災写真を撮影した熊谷治純は、『勝海舟日記』に登場する横浜の豪商・熊谷伊助の孫にあたる。
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熊谷治純と熊谷登久平.jpg
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明治の近衛旧邸と昭和の近衛新邸との間に。 [気になる下落合]

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 下落合に建っていた近衛邸の推移としては、まず近衛篤麿Click!が1895年(明治28)に学習院の院長へ就任するのとほぼ同時期に、下落合417番地の広大な敷地へ自邸(近衛旧邸Click!)を建てて住んでいる。次いで1904年(明治37)に近衛篤麿が死去すると、跡を継いだ12歳の近衛文麿Click!が同邸に家族とともに住み(京都帝大の学生時代を除く)、1922年(大正11)に学習院の学友だった三宅勘一Click!が常務取締役をつとめる東京土地住宅Click!へ依頼して、近衛旧邸の広大な敷地で近衛町Click!の開発を推進している。
 つづいて、近衛文麿は1924年(大正13)の暮れに、麹町へ250坪ほどの新たな邸を建設して転居するが、数年でイヤになり下落合へともどってくる。近衛文麿の次男である近衛通隆様Click!(藤田孝様Click!による)の証言によれば、市街地の麹町では交通の便がよすぎて日々訪問客が絶えず、家族全員が応接に疲れてウンザリしてしまったとのことだ。こうして、麹町へ転居してからほどなく下落合436番地へ改めて新邸建設を計画し、1929年(昭和4)11月に竣工(近衛新邸Click!)すると同時に、再び下落合へともどってきている。
 だが、上記の転居の推移には、わずかながら“すき間”があることにお気づきだろう。1922年(大正11)に、近衛町の開発がスタートすると同時に近衛篤麿が建てた大きな近衛旧邸は解体されている。そして、1924年(大正13)に麹町の新居へ移るまでの2年間余、近衛一家は下落合のどこに住んでいたのかというテーマだ。そしてもうひとつ、近衛文麿が転居した麹町時代の期間でも、下落合には近衛邸がなくなることなく継続して存在している。おそらく、篤麿の後妻である貞子夫人をはじめ、文麿の姉・武子や秀麿Click!、直麿、忠麿ら兄弟たちが暮らしつづけていたものだろう。
 たとえば、1925年(大正14)に作成された「豊多摩郡落合町」の地図では、目白中学校Click!の南側に広い「近衛邸」の敷地が採取されている。また、目白中学校Click!練馬Click!へと移転したあと、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、目白中学校の跡地を含めた区画全体が「近衛邸」として記載されている。
 さらに、近衛新邸が竣工する直前の1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」では、北の目白通りから目白中学校跡地を南へ下る道筋と、東側の近衛町通りから西へと入る道筋とが描かれた「近衛邸」が採取されている。地番でいうと下落合432~456番地にまたがる広い敷地だが、これは同年11月に下落合436番地に竣工する近衛新邸ではなく、それ以前の近衛邸が建っていた敷地および地番を採取しているものだ。
 そして、1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、下落合1丁目436番地(現・下落合3丁目)の近衛新邸が採取されているが、1929年(昭和4)の「落合町全図」よりもかなり東寄りの敷地であり、ちょうど舟橋了助邸Click!夏目利政アトリエClick!の北側一帯にあたる。ネームも「近衛別邸」として記録されており、これは前年の1937年(昭和12)に文麿が荻窪の「荻外荘」Click!を手に入れて住むようになっていたからだが、当初は下落合が本邸であり、より郊外の荻外荘は別邸(別荘)だったはずだ。ひょっとすると、交通の便がよくなった昭和初期には、麹町時代と同様に下落合への訪問客が急増したため、荻窪に引っこんですごす時間が急激に増え、ほどなく荻外荘が“本邸”になってしまったのかもしれない。
 さて、近衛篤麿が1895年(明治28)ごろに建設した近衛旧邸(和館)と、近衛文麿が1929年(昭和4)に麹町邸から避難するように建てた近衛新邸(西洋館)とは、地図類に邸の形状が具体的に描かれ、また写真類も撮影されて残っている。特に近衛新邸は、昭和期に入って清水組(現・清水建設)により建設されているので、邸の外観や内観、平面図などの図面類もよく保存されている。だが、近衛旧邸が解体された直後から近衛新邸が竣工するまでの期間、年代的にいえば1922年(大正11)から1929年(昭和4)までの約7年間、目白中学校とその跡地の南側にあった“過渡的”な近衛邸の様子が、これまでまったくわからなかった。
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 ところが、わたしの手もとにある地図類では唯一、1922年(大正11)9月に都市計画東京地方委員会によって測量・作成された1/3,000地形図をベースにしているとみられるが、その補修版を戦後になって出版した日本地形社の地図の1枚に、目白中学校の南側に建っていた広い近衛邸の建物群が採取されているのに気がついた。従来は、近衛文麿が建てた近衛新邸だと思いこみ見すごしていたのだが、よくよく観察すると下落合432~456番地にまたがる敷地に、母家を中心とした建物群が採取されている。
 都市計画東京地方委員会による1/3,000地形図は、その後1926年(大正15)9月をはじめ何度か補修をされているが、戦後になると先述の日本地形社が補修を引き継いでいるようだ。近衛旧邸の解体から近衛新邸の建設までの期間、わずか7年ほどしか存在しなかった幻の近衛邸だが、採取されていたのは戦後の1947年(昭和22)に日本地形社が補修した1/3,000地形図だった。ただし、1926年(大正15)時点での1/3,000地形図には、下落合432~456番地はすでに斜線表現(住宅街)で描かれているのに、なぜか1947年(昭和22)の同図では、大正中期から同地番にあった近衛邸が“復活”している。
 さらに、同地形図は不可思議な特徴を備えており、1929年(昭和4)に近衛新邸が竣工するとともに、邸は解体され敷地も分譲されてしまったはずの、上記の“過渡的”な近衛邸がそのままなのをはじめ、1925年(大正14)には中野広町へ転居してしまったはずの相馬邸Click!(大正中期の姿)が克明に描かれていたり、近衛町Click!がいまだ開発直後(1922年)のように描かれていて、住宅がほとんど採取されていないなどおかしな点がたくさんある。
 では、1922年(大正11)現在の家々や施設はそのままに、鉄道や道路の表現だけ最新のものに変えているだけかと思いきや、目白通りはいまだ拡幅前の状態だし、下落合の北側に接した戸田康保邸Click!が1934年(昭和9)に転居してくる徳川義親邸Click!になっていたりする。神田川は、直線整流化工事(1935年前後に実施)が行われる以前の蛇行したままの姿で、1927年(昭和2)に開業する西武電鉄Click!は描きこまれている。
 そうかと思えば、下落合の北側に拡がる街は目白町ではなく、大正期の雑司ヶ谷旭出や長崎村、西巣鴨町のままであり、敗戦直前に廃止された武蔵野鉄道Click!上屋敷駅Click!がそのまま描かれている。目白福音教会Click!の周囲は草原や空き地だらけでほとんどの住宅が未採取だが、東邦電力による林泉園住宅Click!は細かく描かれれており、1932年(昭和7)に開校した落合第四小学校Click!も採取されている。
 要するに、大正の中期から後期と昭和の最初期、昭和10年代から戦時中、そして一部は敗戦後の情報までが混在し、メチャクチャな表現になっているのが1947年(昭和22)に補修された(?)1/3,000地形図ということになる。換言すれば、大正後期から昭和の最初期にかけ、いずれかの時点で記録された約7年間しか存在しなかった“過渡的”な近衛邸をそのまま残して、戦後に“先祖返り”表現になってしまっているのが同地形図の特異性なのだろう。
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 さて、当の近衛邸の様子を仔細に観察してみよう。まず、下落合432~456番地の敷地には北側と西側、そして南側には塀がめぐらせてあったようで、正門は目白通りから南へと下る突きあたりに設置されている。ただし、目白中学校が練馬へ移転する以前は、近衛邸の北側は同中学校のキャンパスになっており、このような道路や正門は存在しなかったはずだ。したがって、同地図の表現は移転後の1926年(大正15)から、近衛新邸が竣工する1929年(昭和4)までの姿をとらえたものだろう。それまでの正門は、近衛町通りに面した東側に設置されていたとみられ、実際に東側にも旧・正門らしき門が描かれている。
 敷地内には、大きな母家の建物が採取されているが、目白通りをはさんだ徳川義親邸の母家とそれほど変わらないサイズだが、御留山Click!に建っていた相馬邸の母家に比べると半分ほどの規模だろうか。西洋館か和館かは不明だが、広大な近衛旧邸の家族や家令たちのことを考慮すると、2階建ての西洋館ないしは和洋折衷館だったのではないだろうか。母家の東側、正門のすぐ右手には大きな蔵があり、母家の南東側には家令たちの住居だろうか、東西に細長い建物が建っている。また、母家の西北側にも小さな(といっても通常の住宅1軒分ぐらいはある)物置きのような建造物が確認できる。
 近衛邸の西南北側が塀で囲まれているのに対し、東側に連続する塀が存在しないのは、当初は東側にも塀が設置されていたものの、近衛文麿一家が麹町から再び下落合へともどる近衛新邸の建設計画が具体化しており、その工事計画が進捗していたために取り払われていた……とも解釈できる。すなわち、描かれている約7年間しか存在しなかった近衛邸は、1929年(昭和4)11月の近衛新邸が竣工する直前、1928年(昭和3)ごろの姿ではないかと想定することができそうだ。わたしの手もとにある地図を観察する限り、この幻の近衛邸の具体的な姿をとらえた地図は、日本地形社の1/3,000地形図(1947年補修版)のみとなっている。
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 固定観念とは怖しいもので、戦後1947年(昭和22)補修の1/3,000地形図には「空襲で焼けたはずの近衛新邸が、削除・修正されないまま残っている」と思いこんで疑わなかった。何気なく地図類をひっくりかえして眺めていたら、松本清張の『Dの複合』の主人公のように「あれっ?」と気がつき、描かれている近衛邸が明らかに近衛新邸の形状とは異なるのを発見したしだいだ。こういう思いこみがないかどうか、先入観によりフィルタリングされた観察をしていないかどうか、さまざまな資料を改めて見直してみる必要がありそうだ。

◆写真上:1929年(昭和4)11月に竣工した、下落合436番地の近衛新邸の正門跡。この門は、約7年間しか存在しなかった“過渡的”な近衛邸の門跡でもある。
◆写真中上は、下落合417番地の近衛旧邸で撮影された近衛篤麿の家族。左から近衛直麿、近衛貞子(近衛篤麿夫人)、武子、文麿、秀麿、忠麿(手前)。は、1929年(昭和4)に竣工した下落合436番地の近衛新邸。は、1934年(昭和9)に近衛新邸の応接間で撮影された近衛家の娘たち。左から右へ近衛温子、近衛昭子Click!、近衛秀麿。
◆写真中下からへ、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる近衛旧邸、1925年(大正14)の「豊多摩郡落合町」にみる約7年間しか存在しなかった近衛邸、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる目白中学校移転後の同邸表現、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる同邸、そして1938年(昭和13)の「火保図」にみる近衛新邸。
◆写真下:いずれも1922年(大正11)測図1947年(昭和22)補修の、1/3,000地形図(日本地形社)の記載表現。からへ、約7年間しかなかった近衛邸とその建物群の拡大、ほぼ開発当初と変わらない姿のままの近衛町、1925年(大正14)に転居したはずの御留山の相馬孟胤邸、そして下落合に接して建つ徳川義親邸。いちばんは、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合436~437番地の近衛新邸と下落合432~456番地の“過渡的”な近衛邸跡。

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短編のうまさを感じる文化村の池谷信三郎。 [気になる下落合]

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 目白文化村の第二文化村Click!に住んだ作家に、ドイツ留学の学生同士であり一高Click!の先輩だった村山知義Click!と親密な関係だった池谷信三郎がいる。ふたりは、一高時代から知りあっていたとみられるが、お互いの留学先がベルリン大学だったのでより親しくなったのだろう。池谷新三郎は、東京帝大を休学してベルリンにいったがのちに帝大を退学し、村山知義は東京帝大を中退してからベルリンへと向かっている。
 1923年(大正12)の関東大震災で、池谷の実家が被害を受けたためにベルリンから帰国したあと、ヨーロッパの新進芸術運動から影響を受けた戯曲や小説を次々と発表するようになる。特に1925年(大正14)には、ベルリンでの滞在経験をテーマにした『望郷』が、時事新報社の募集した懸賞小説に入選している。また、同年に村山知義たちと結成した演劇集団「心座」に参画し、戯曲『三月三十二日』を築地小劇場で上演した。翌1926年(大正15)には、戯曲の代表作ともいえる『おらんだ人形』を発表している。
 なお、時事新報社に連載された『望郷』の挿画は村山知義Click!が担当したが、あまりにも絵が斬新すぎて読者の不興をかい、連載の途中で降板させられている。だが、その後に出される池谷信三郎の『望郷』(時事新報社/1925年)や『橋・おらんだ人形』(改造社/1927年)などの著作は、村山知義による装丁で出版された。
 戯曲『おらんだ人形』は、当時のモダンなアパートメントClick!ですごす青年たちの、「恋愛の機微」を描いた1幕ものの会話劇なのだが、アメ車の「パツカアド」や女が会話するとき口にする小粒の「チヨコレイト」、卓上でナイトがすべるチェス盤、ボールによるテーブルマジック、会話に登場する銀座の喫茶店資生堂Click!など演出の道具立てはモダンで、当時としては斬新でカッコよかったのかもしれないが、これらの道具立てや書割(おそらくモダンな)を差し引いて舞台を眺めたら、伝統的でありがちな男女の「惚れた腫れた」劇をクールな感覚の会話で再現しただけ……のようにも思える。
 『おらんだ人形』の前年、1926年(大正15)にはベルリンを舞台にした主人公が外国人の小説『街に笑ふ』を逗子の海辺で執筆し、また翌1927年(昭和2)には同じくベルリンの外国人(おそらくドイツ人)を主人公にした小説『橋』を鎌倉で執筆している。特に後者の『橋』は、池谷信三郎が創作した代表的な短編といわれているが、『街に笑ふ』も含めて今日的な目から見ると、あまり出来がいいとも思えず内容が面白くない。主人公に外国人をすえて、異国の幻想的な街の風景を背景にしながら、不思議でつかみどころのないな味わいのする小説に仕上げているので、当時としては新鮮でめずらしく評判になった作品なのかもしれないが、現代からみると印象が散漫で読後の印象が希薄だ。
 たとえば滞日経験が数年のドイツ人作家が、日本人を主人公にして東京の街中をさまよわせたとしても、おそらくリアルで的確、深くて面白い物語が創造できるとは思えないのと同様に、どこかウソ臭さが鼻についてしまうのだ。ちょうど、昔日の米国やイタリア映画に登場する「日本人」たちのように、いったいどこの国に育ちどのようなアイデンティティを備えた人間なのか、“国籍不明”感が濃厚に漂うのにも似ているだろうか。
 少し横道にそれるが、観光客の外国人(特に欧米人が多いだろうか)が感謝して礼をいうとき、なぜか両手を合わせて拝む仕草をすることがある。東南アジア諸国などの宗教的な生活習慣とは異なり、日本では両手を合わせて人物を拝む慣習はおしなべて死者(ホトケ)に対してであり、「オレは仏教徒Click!でもないし、まだ死んじゃいねえぞ。無礼なことするな!」と、誰も彼らを注意しないのだろうか?
 社会観や生活観がまったく異なる、外国人を主人公にすえるのであれば、おそらくはその国や街、地域に根づいて文化や風俗、習慣と密に同化しなければ、いくら幻想的な場面を多用したとしても、リアルな情景の創造や心理の描写はむずかしいのではないだろうか。
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 これは別に外国と日本に限らず、国内の地方・地域においても同様だろう。以前の記事Click!にも書いたけれど、いくら自身の出自とは異なる地方・地域で長期間暮らしたとしても、その地方・地域の根にあるアイデンティティに同化していなければ(あるいは同化をどこかで拒否していれば)、当の地方・地域の住民から見ればトンチンカンClick!なことをいったり書いたりしているのに気がつかない。
 一所懸命に図書館や資料室に通って勉強しても、そこに記録されているのは粗いザルの目にひっかかったほんのわずかばかりな史的事実のみで、多くの文化や風俗、習慣、出来事は地方・地域ごとの家庭など生活の中で日々伝承され後世に残されていく。それに気づかず、すべてわかったような顔をして“お勉強発表会”のようなことをしても、その現場・地場の住民にしてみれば「??」となるのは当然のことではないだろうか。出来事は図書室や資料室で起きているのではなく、地方・地域のその現場で起きていることなのだというのは、拙サイトへ記事を書いていて痛感しつづけているテーマのひとつだ。
 池谷信三郎の小説には、むしろ故郷の東京を舞台にした作品に、今日的な目から見ても光る作品が多い。たとえば、エンディングが唐突で安易な尻きれトンボ感が強く、少し長くなっても登場人物たちの言動をていねいにすくいとり熟成させたほうがいいのではないかと思うのだが、下落合時代に書かれた中編の『花はくれなゐ』は、けっこう飽きずに最後まで読ませる作品だ。また、同年の短編『縁』や『郵便』も、途中から先が読めるような流れで最後はやはり安易な予定調和へと落としこんではいるが、物語のテンポや展開がH.モーパッサンやO.ヘンリーを彷彿とさせるような味わいを見せている。
 池谷信三郎は、村山知義Click!の「心座」が解散したあと、舟橋聖一Click!らとともに「蝙蝠座」へ参画するが、そのわずか3年後の1933年(昭和8)に結核が悪化し、若干33歳で死去している。残された彼の作品を読むかぎり、戯曲よりも小説のほうが面白く(ただし外国人が主人公の小説=ベルリンものは除く)、その後も活躍していたら短編の名手になっていそうな「未完の器」的な作家ではないだろうか。残念ながら、現代では池谷信三郎の作品に触れられる機会は非常に少なく、昭和初期に刊行された古書を手に入れるか、オムニバス全集の中にちらほら収録された代表作といわれる作品を参照するしかなさそうだ。
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 池谷信三郎は下落合1639番地、すなわち目白文化村の第二文化村(いまの感覚だと第一文化村か?)に、1927年(昭和2)9月から1929年(昭和4)まで住んでいる。下落合1639番地は広くない区画で、大きめな屋敷が2棟並んで建っていた。第一文化村から第二文化村へと、南西方面に抜ける広めの三間道路(センター通り)に面しており、同地番の角から西側の細い道をまがると、地元の住民たちが「オバケ道」と呼んでいた細い路地が、落合第四府営住宅Click!の境界に沿ってカーブをしながらつづいている。
 第二文化村が売りだされた当初、1923年(大正12)にこの敷地は早々に売れたとみられ、1925年(大正14)に作成された「目白文化村分譲地地割図」では、吉田義継邸(北側)と吉村佐平邸(南側)になっている。ただし、実際に住宅を建設していたか建設予定地のままだったかどうかは不明で、いまだ土地の購入者名を記載しただけだったのかもしれない。
 1926年(大正15)になると、「下落合事情明細図」によれば北側の吉田邸の敷地は空き地ないしは空き家だが、南側の吉村邸の敷地は石田義雄邸になっている。ちょうどこの時期に、池谷信三郎は郊外に家を探していたとみられ、下落合1639番地の北側の空き地に家を建てたか、あるいは空き家を借りるかして入居している可能性が高い。
 ちなみに、池谷信三郎が1929年(昭和4)に目白文化村から転居してしまうと、そのあとは「火保図」(1938年現在)によれば佐藤邸(北側)および松田邸(南側)に住民が変わっている。目白文化村は、長く住みつづける住民がいる一方で、大家が屋敷を賃貸ししていたところなどは住民名がコロコロと変わるため追いかけるのがむずかしい。また、池谷信三郎が目白文化村にいた時期は、金融恐慌から大恐慌へと世界経済が大混乱していた時代と重なるので、住民の移動や入れ替わりが激しかったのだろう。「東京都全住宅案内帳」(1960年現在)によれば、戦後は竹内邸(北側)と杉本邸(南側)に変わっていた。
 なお、池谷信三郎が目白文化村に住んでいた1929年(昭和4)、おりからの円本ブームClick!から平凡社がシリーズで出版していた「新進傑作小説全集」の第2巻が、『池谷信三郎集』として世にでている。ちなみに、第1巻は『犬養健集』で第3巻が『佐々木茂索集』、第4巻が『横光利一集』、第5巻が以前にもご紹介した『片岡鉄兵集』Click!だった。
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 昭和に入ると、池谷信三郎は文芸誌へ作品を次々と発表していき、中河與一Click!や石浜金作、菅忠雄、川端康成Click!などと懇意になる。だが宿痾の結核は、おそらく自身が満足する作品を残す時間を与えてはくれなかった。なお、文藝春秋Click!菊池寛Click!は、1936年(昭和11)より早逝した彼を記念して、文芸誌「文学界」に池谷信三郎賞を設置している。

◆写真上:下落合1639番地にあった、第二文化村の池谷信三郎邸跡(道路左手)。
◆写真中上は、1925年(大正14)出版の池谷信三郎『望郷』(新潮社/)と、1927年(昭和2)出版の同『橋・おらんだ人形』(改造社/)。ともに、村山知義の装丁・挿画による。は、1931年(昭和6)出版の同『遥かなる風』(新潮社/)と、著者の池谷信三郎()。は、1927年(昭和2)上演の心座『スカートをはいたネロ』の舞台。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に平凡社から出版された「新進傑作小説全集」シリーズの『池谷信三郎集』()と著者のサイン()。中左は、1925年(大正14)作成の「目白文化村分譲地地割図」にみる下落合1639番地。中右は、ちょうど池谷信三郎が住んでいた1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる同番地。は、西洋館とみられる住宅の形状がよくわかる1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同地番。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合1639番地界隈。は、『池谷信三郎集』(平凡社)収録の著者プロフィール。は、死去する少し前に文学仲間と撮影した記念写真で、左から池谷信三郎、中河與一、石浜金作、川端康成、菅忠雄。

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劉生日記にみる体調と地震の気になる関係。 [気になるエトセトラ]

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 かなり以前、岸田劉生Click!日記Click!をベースに、関東大震災Click!の予兆とみられる現象が起きていたかどうかの記事Click!を書いた。相模トラフのプレートがズレたとみられる同大震災だが、1923年(大正12)9月1日に起きた本震の前に、その前兆と思われる地震が記録されていないかどうかを、劉生日記の記述に求めたものだった。
 あんのじょう、同年1月14日に鵠沼の松本別荘13号から東京へ出かけた劉生は、銀座で大きな揺れに遭遇している。この日は、春陽会の例会と改造社の編集者との打ち合わせがあり、木村荘八Click!と銀ブラしていて「ひどい地震」に遭遇していた。また、6月3日にも「今朝方か又地震ありよく地震あり」と記録されているので、このころには日記にはあえて書かないものの、頻繁に地震が発生していた様子がわかる。
 一般的なプレートテクトニクス理論にしたがえば、おそらくプレートが反作用で少しずつズレはじめたために起きる「予震」現象なのだろう。以前の記事では、このような大地震の前ぶれである前兆地震について日記からひろってみたが、今回はまったく別の切り口から関東大震災の「予兆現象」を探ってみたい。それは、人間の体調と地震に関する医学あるいは物理学分野のテーマだが、その前に岸田劉生の鵠沼時代における1923年(大正12)という年の出来事について、簡単にまとめておきたい。
 同年は、岸田劉生が自身のアトリエを建設しようと、東京の荻窪と目黒の宅地を物色していた時期と重なる。結核を疑われて海辺で療養していた劉生だが、6年以上の鵠沼生活ですっかり体調が恢復したため、東京へもどる計画を立てている。そして、4月28日には「やはり目黒にしておこうと思ふ」と、目黒でのアトリエ建設に決定していた。5月14日には、建設予定地を下見するために目黒駅で待ち合わせをし、蓁(しげる)夫人と土地の紹介者とみられる「沢田さん」(鵠沼の沢田竹治郎?)、設計士の「ダザイさん」とともに現地を見学したあと、その場でアトリエの設計を「ダザイさん」に依頼している。
 アトリエ建設の資金が必要だったのか、同年の劉生は広告の仕事も引き受けている。中央商会が発売していた「第一クレイヨン」広告Click!のコピーを書いたり、子どもたちが描いた絵の審査会に出席したりと、制作ばかりではない忙しい日々を送っていた。以前、こちらでもご紹介したが、2月25日に黒田清輝Click!と高田早苗から手紙をもらい、神宮外苑に建設予定の聖徳記念絵画館に納める作品の依頼かと思い、ウキウキして上野精養軒へ出かけたが、会場にいた山本鼎Click!から早稲田大学の大隈記念講堂建設Click!のための寄付依頼集会Click!だと聞かされ、プンプン怒って鵠沼へ帰ってきたのも同年3月3日だ。
 目黒でのアトリエ建設計画もあったのだろうが、同年の劉生はほとんど毎日のように東京へと出かけている。鵠沼のアトリエへ俥(じんりき)を呼び、藤沢駅まで走らせることが多かったようで、江ノ電の利用は鎌倉へ出かけるとき以外にはほとんど書かれていない。また、藤沢駅前からめずらしいタクシーで帰ることもあったようだ。東京での用事は、画会の相談や骨董店まわりもあったが、草土社以来の友人たちを訪問することが多かった。当時は、落合地域のすぐ北側に住んでいた長崎の河野通勢Click!や、下落合の南隣りの上戸塚に住んでいた椿貞雄Click!を訪ねるため、よく目白駅や高田馬場駅で下車している。
 1923年(大正12)という年は天候が不順つづきだったようで、1月25日には鵠沼に大雪が降っている。東京や横浜が「雪」でも、相模湾沿いの街々は気温が高めなため「雨」が多いのはいまも昔も変わらないが、同日に大磯Click!へ出かけた劉生は「大磯は又ひどく雪がふつてゐた」とことさら驚いている。江戸期からつづく銀座凮月堂の息子が、大磯に建てた住宅(別荘か?)を見学しに出かけたらしい。相模湾沿いの海街Click!で雪が降るのは、わたしが子どものころも含めてめずらしいのだ。ちなみに、東京中央気象台の記録によれば、東京は1月22・23日が「雨」、1月24・25日が「雪」と記録されているが、劉生日記では1月22日が「晴」、23日が「雨」、24日が「曇小雨」、そして25日が「大雪」と記されている。
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 また、同年7月6日には夏にもかかわらず冷たい北風が吹きつけて、劉生は「寒い」と記録している。どうやら、1923年(大正12)は年間を通じて異常気象だったようだ。そんな中、4月25日の劉生日記には「この頃の気候はわるい」と書いたあと、「新聞に、人面の小牛が生れて『今年は雨多く天然痘がはやる』と予言して死んだとか出てゐた」と記録している。大きな災害が起きる前に現れるといわれる、いわゆる「件(くだん)」伝説のたぐいを記したものだが、劉生は迷信だとほとんど信じていない。
 さて、関東大震災を前にして、岸田劉生とその家族たちの体調はどうだったのだろうか? なぜ人間の身体と大地震がつながるのかというと、大きな地震が起きる直前には頭痛や吐き気、めまい、発熱など体調不良を訴えて医療機関を訪れる患者が、昔もいまも急増することが報告されているからだ。通常は「風邪」か「偏頭痛」として見すごされてしまう現象だが、「頭痛と地震」という医学分野や物理学分野のテーマさえ存在し、「プレートの強い圧力で大気中の陽イオンが急増し、セロトニンという脳内物質の低下が原因で起きるからではないか?」とか、「大地震の前に流れる、微弱な電流や磁力に人体が感応しているのではないか?」などなど、かなり以前から仮説が立てられ疑われているからだ。
 岸田劉生は1923年(大正12)早々から「風邪」を引き、以降、震災が起きる9月まで頻繁に頭痛で悩まされることになる。たとえば、こんな具合だ。1979年(昭和54)に岩波書店から出版された、『岸田劉生全集/第8巻/日記』の代表的な記述から引用してみよう。
  
 四月三日(火) 雨後曇/今日は雨、写生はそれで駄目。眼がさめた時、頭痛があつたが起きてミグレニンなどのんだらなほつてしまふ。少し風邪気なのだ。(後略)
  
 こんな記述が随所に見られ、劉生はミグレニンClick!を常用していたようだ。また、岸田麗子Click!の体調も、早春から発熱を繰り返して思わしくない。さらに、同居していた劉生の妹である岸田照子も、関東大震災の直前(8月26日)に「風邪」をひいて体調を崩しているが、蓁夫人は元気で特に不調の記述は見られない。換言すれば、岸田家の血を引く人々に、頭痛や発熱などの体調不良が頻繁に表れていることになる。地震と身体の不調には、大気中の異変を感じる遺伝的な体質のちがいでもあるのだろうか。
 関東大震災が起きる半月前、8月16日には健康を気にする劉生が近所の沢田竹治郎宅を訪れ、主人が実演する自彊術Click!を見学している。ちなみに、岩波書店版『岸田劉生全集』でも岸田麗子『父 岸田劉生』(中央公論社)でも、自彊術を「自強術」と誤記している。そして、岸田一家の体調がなんとなく思わしくない中で、9月1日午前11時58分を迎えることになる。このとき、岸田麗子は「夏休みの宿題の勉強をおわって」、近所の友だちの家に遊びにいこうと自宅を出た直後だったと、『父 岸田劉生』(1979年)で回想している。
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 大地震の直後、劉生が真っ先に「つなみの不安」を感じたのは、祖父母や親の世代から1855年(安政2)の江戸安政大地震で江戸湾(東京湾)に来襲した津波について聞いていたからだろう。同地震は、活断層に起因する江戸直下型地震と想定されているが、湾内の海底で活断層が大きくズレたか、あるいは大規模な海底崩落(海底地すべり)が起きたかで、江戸湾岸一帯に津波が短時間で押し寄せている。また、津波は江戸の主要河川をさかのぼり、かなりの内陸部Click!にまで被害が及んでいたと伝承されている。
 劉生が家族を連れ、境川を越えたすぐ東側にある近めな丘陵地ではなく、アトリエからかなり距離のある北側の藤沢駅方面の石上(当初は東海道線の北側にある遊行寺の丘陵地帯が目的地だった)まで避難した際、境川には近寄らなかったのも江戸安政大地震の教訓を誰かから聞いて、劉生あるいは蓁夫人が知っていた可能性が高い。
 岸田一家は、石上の農家兼米店を経営していた親切な鈴木家に呼びこまれ、ここで震災が落ち着くまで避難生活を送ることになる。自宅の松本別荘13号は、和館だった母家はその後の余震で潰れたが、アトリエのある2階建ての洋館部分は倒壊をまぬがれている。そして、一家であと片づけをしている最中に、片瀬の写真館の主人が通りかかったため、倒壊した母家を背景に記念撮影をしてもらっている。同書より、9月7日の日記を引用してみよう。
  
 夕方鵠沼の町の方へ歩いてみた。兵隊が来てゐて米みそしよう油等売つてゐた。〇朝の中片瀬の写真屋が通つて購買組合を聞いたのでそれと分り、こわれた宅の前と二宮さんの仮居の前と、写真二枚づゝ写してもらつた。
  
 岸田劉生は、家族を連れてよく写真館に通っている。たいていは故郷の銀座7丁目にある子どものころから通いなれた、佐伯米子Click!の実家である池田象牙店Click!の向かい、土橋をはさんだ東詰めにある馴染みの江木写真館Click!だった。
 1923年(大正12)の劉生日記には、写真屋(写真館)が3店舗ほど登場している。1店めは、春陽会の図録ないしは絵はがき用の写真撮影のために、鵠沼のアトリエに通ってきていた東京の清和堂専属のカメラマンだ。2店めが、鵠沼の近所に開店していた神田写真館(戦後のカンダスタジオだろうか?)で、ときどき家族写真を撮らせていたようだ。なお、神田写真館は関東大震災のとき藤沢市街地の惨状を撮影しているのでも有名だ。そして3店めが、9月7日の日記に登場している片瀬写真館だ。
 片瀬写真館Click!については、同年の劉生日記にはもう1ヶ所登場している。東京へ出かけた同年7月8日の日記には、「新橋を十時三十八分の汽車で帰つたが汽車の中で酔つた奴が同車の片瀬の写真屋に怒つて少し乱暴などして気の毒であつた。不快な奴也。」と書きとめている。どうやら、酔っ払いにからまれている片瀬写真館の主人を見かけたらしい。したがって、少なくとも7月以前から片瀬写真館の創業者・熊谷治純Click!のことを劉生は見知っていたようで、だからこそ倒壊した母家の前を通りかかった彼に撮影を依頼したのだろう。
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 片瀬写真館は1913年(大正2)の創業で、現在も片瀬の洲鼻通りで営業をつづけているが、創業者の熊谷治純が独立美術協会Click!熊谷登久平Click!の姻戚であり、岩手から東京へとやってきた熊谷登久平が同写真館を訪ねていることを、熊谷明子様よりうかがっている。

◆写真上:鵠沼の神田写真館が撮影した、関東大震災により倒壊した藤沢駅。
◆写真中上は、1948年(昭和23)に建設社から出版された『鵠沼日記』<大正九年>の表紙()と中扉()。中左は、1979年(昭和54)に岩波書店から出版された『岸田劉生全集/第8巻/日記』。中右は、最晩年の岸田劉生。は、1923年(大正12)の春に制作された岸田劉生『竹籠含春』。数ヶ月にわたり劉生は「椿」をモチーフに制作しているが、同時期には鵠沼に椿貞雄が訪れたり劉生が上戸塚(現・高田馬場3~4丁目)のアトリエへ遊びに寄ったりしているので、日記では「椿」の文字が氾濫していて面白い。
◆写真中下は、関東大震災の直前1923年(大正12)8月に鵠沼で撮影された岸田劉生と岸田麗子。は、岸田一家が目にしていた大正期の鵠沼の商店街風景。は、1923年(大正12)9月7日に片瀬写真館の熊谷治純が撮影した被災直後の岸田一家。
◆写真下は、関東大震災で倒壊した境川に架かる西浜橋。は、津波で全滅した海岸沿いの住宅街。は、地震による津波と隆起で壊滅した片瀬海岸通り。
おまけ
 岸田劉生一家の、松本別荘13号から石上までの想定避難コース。1946年(昭和21)の空中写真だが、劉生日記には「田の中に腹迄つかつて、逃れくる。」(9月1日)とあり、おぶられた小林さん(書生)の「股まで泥田につかりながら」避難したと岸田麗子『父 岸田劉生』にあるように、当時の石上周辺は家が少なく田圃だらけだったと思われる。また、同年撮影の空中写真にみる岸田邸の松本別荘13号跡地には、やはり同じような雰囲気の戦災をまぬがれた家屋が見えているので、昭和初期にも貸し別荘として建て直されていたのかもしれない。
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