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劉生日記にみる体調と地震の気になる関係。 [気になるエトセトラ]

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 かなり以前、岸田劉生Click!日記Click!をベースに、関東大震災Click!の予兆とみられる現象が起きていたかどうかの記事Click!を書いた。相模トラフのプレートがズレたとみられる同大震災だが、1923年(大正12)9月1日に起きた本震の前に、その前兆と思われる地震が記録されていないかどうかを、劉生日記の記述に求めたものだった。
 あんのじょう、同年1月14日に鵠沼の松本別荘13号から東京へ出かけた劉生は、銀座で大きな揺れに遭遇している。この日は、春陽会の例会と改造社の編集者との打ち合わせがあり、木村荘八Click!と銀ブラしていて「ひどい地震」に遭遇していた。また、6月3日にも「今朝方か又地震ありよく地震あり」と記録されているので、このころには日記にはあえて書かないものの、頻繁に地震が発生していた様子がわかる。
 一般的なプレートテクトニクス理論にしたがえば、おそらくプレートが反作用で少しずつズレはじめたために起きる「予震」現象なのだろう。以前の記事では、このような大地震の前ぶれである前兆地震について日記からひろってみたが、今回はまったく別の切り口から関東大震災の「予兆現象」を探ってみたい。それは、人間の体調と地震に関する医学あるいは物理学分野のテーマだが、その前に岸田劉生の鵠沼時代における1923年(大正12)という年の出来事について、簡単にまとめておきたい。
 同年は、岸田劉生が自身のアトリエを建設しようと、東京の荻窪と目黒の宅地を物色していた時期と重なる。結核を疑われて海辺で療養していた劉生だが、6年以上の鵠沼生活ですっかり体調が恢復したため、東京へもどる計画を立てている。そして、4月28日には「やはり目黒にしておこうと思ふ」と、目黒でのアトリエ建設に決定していた。5月14日には、建設予定地を下見するために目黒駅で待ち合わせをし、蓁(しげる)夫人と土地の紹介者とみられる「沢田さん」(鵠沼の沢田竹治郎?)、設計士の「ダザイさん」とともに現地を見学したあと、その場でアトリエの設計を「ダザイさん」に依頼している。
 アトリエ建設の資金が必要だったのか、同年の劉生は広告の仕事も引き受けている。中央商会が発売していた「第一クレイヨン」広告Click!のコピーを書いたり、子どもたちが描いた絵の審査会に出席したりと、制作ばかりではない忙しい日々を送っていた。以前、こちらでもご紹介したが、2月25日に黒田清輝Click!と高田早苗から手紙をもらい、神宮外苑に建設予定の聖徳記念絵画館に納める作品の依頼かと思い、ウキウキして上野精養軒へ出かけたが、会場にいた山本鼎Click!から早稲田大学の大隈記念講堂建設Click!のための寄付依頼集会Click!だと聞かされ、プンプン怒って鵠沼へ帰ってきたのも同年3月3日だ。
 目黒でのアトリエ建設計画もあったのだろうが、同年の劉生はほとんど毎日のように東京へと出かけている。鵠沼のアトリエへ俥(じんりき)を呼び、藤沢駅まで走らせることが多かったようで、江ノ電の利用は鎌倉へ出かけるとき以外にはほとんど書かれていない。また、藤沢駅前からめずらしいタクシーで帰ることもあったようだ。東京での用事は、画会の相談や骨董店まわりもあったが、草土社以来の友人たちを訪問することが多かった。当時は、落合地域のすぐ北側に住んでいた長崎の河野通勢Click!や、下落合の南隣りの上戸塚に住んでいた椿貞雄Click!を訪ねるため、よく目白駅や高田馬場駅で下車している。
 1923年(大正12)という年は天候が不順つづきだったようで、1月25日には鵠沼に大雪が降っている。東京や横浜が「雪」でも、相模湾沿いの街々は気温が高めなため「雨」が多いのはいまも昔も変わらないが、同日に大磯Click!へ出かけた劉生は「大磯は又ひどく雪がふつてゐた」とことさら驚いている。江戸期からつづく銀座凮月堂の息子が、大磯に建てた住宅(別荘か?)を見学しに出かけたらしい。相模湾沿いの海街Click!で雪が降るのは、わたしが子どものころも含めてめずらしいのだ。ちなみに、東京中央気象台の記録によれば、東京は1月22・23日が「雨」、1月24・25日が「雪」と記録されているが、劉生日記では1月22日が「晴」、23日が「雨」、24日が「曇小雨」、そして25日が「大雪」と記されている。
鵠沼日記1948建設社.jpg 鵠沼日記中扉.jpg
岸田劉生全集第8巻1979岩波.jpg 岸田劉生(晩年).jpg
岸田劉生「竹籠含春」192304.jpg
 また、同年7月6日には夏にもかかわらず冷たい北風が吹きつけて、劉生は「寒い」と記録している。どうやら、1923年(大正12)は年間を通じて異常気象だったようだ。そんな中、4月25日の劉生日記には「この頃の気候はわるい」と書いたあと、「新聞に、人面の小牛が生れて『今年は雨多く天然痘がはやる』と予言して死んだとか出てゐた」と記録している。大きな災害が起きる前に現れるといわれる、いわゆる「件(くだん)」伝説のたぐいを記したものだが、劉生は迷信だとほとんど信じていない。
 さて、関東大震災を前にして、岸田劉生とその家族たちの体調はどうだったのだろうか? なぜ人間の身体と大地震がつながるのかというと、大きな地震が起きる直前には頭痛や吐き気、めまい、発熱など体調不良を訴えて医療機関を訪れる患者が、昔もいまも急増することが報告されているからだ。通常は「風邪」か「偏頭痛」として見すごされてしまう現象だが、「頭痛と地震」という医学分野や物理学分野のテーマさえ存在し、「プレートの強い圧力で大気中の陽イオンが急増し、セロトニンという脳内物質の低下が原因で起きるからではないか?」とか、「大地震の前に流れる、微弱な電流や磁力に人体が感応しているのではないか?」などなど、かなり以前から仮説が立てられ疑われているからだ。
 岸田劉生は1923年(大正12)早々から「風邪」を引き、以降、震災が起きる9月まで頻繁に頭痛で悩まされることになる。たとえば、こんな具合だ。1979年(昭和54)に岩波書店から出版された、『岸田劉生全集/第8巻/日記』の代表的な記述から引用してみよう。
  
 四月三日(火) 雨後曇/今日は雨、写生はそれで駄目。眼がさめた時、頭痛があつたが起きてミグレニンなどのんだらなほつてしまふ。少し風邪気なのだ。(後略)
  
 こんな記述が随所に見られ、劉生はミグレニンClick!を常用していたようだ。また、岸田麗子Click!の体調も、早春から発熱を繰り返して思わしくない。さらに、同居していた劉生の妹である岸田照子も、関東大震災の直前(8月26日)に「風邪」をひいて体調を崩しているが、蓁夫人は元気で特に不調の記述は見られない。換言すれば、岸田家の血を引く人々に、頭痛や発熱などの体調不良が頻繁に表れていることになる。地震と身体の不調には、大気中の異変を感じる遺伝的な体質のちがいでもあるのだろうか。
 関東大震災が起きる半月前、8月16日には健康を気にする劉生が近所の沢田竹治郎宅を訪れ、主人が実演する自彊術Click!を見学している。ちなみに、岩波書店版『岸田劉生全集』でも岸田麗子『父 岸田劉生』(中央公論社)でも、自彊術を「自強術」と誤記している。そして、岸田一家の体調がなんとなく思わしくない中で、9月1日午前11時58分を迎えることになる。このとき、岸田麗子は「夏休みの宿題の勉強をおわって」、近所の友だちの家に遊びにいこうと自宅を出た直後だったと、『父 岸田劉生』(1979年)で回想している。
岸田劉生・麗子192308.jpg
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被災岸田劉生一家19230907.jpg
 大地震の直後、劉生が真っ先に「つなみの不安」を感じたのは、祖父母や親の世代から1855年(安政2)の江戸安政大地震で江戸湾(東京湾)に来襲した津波について聞いていたからだろう。同地震は、活断層に起因する江戸直下型地震と想定されているが、湾内の海底で活断層が大きくズレたか、あるいは大規模な海底崩落(海底地すべり)が起きたかで、江戸湾岸一帯に津波が短時間で押し寄せている。また、津波は江戸の主要河川をさかのぼり、かなりの内陸部Click!にまで被害が及んでいたと伝承されている。
 劉生が家族を連れ、境川を越えたすぐ東側にある近めな丘陵地ではなく、アトリエからかなり距離のある北側の藤沢駅方面の石上(当初は東海道線の北側にある遊行寺の丘陵地帯が目的地だった)まで避難した際、境川には近寄らなかったのも江戸安政大地震の教訓を誰かから聞いて、劉生あるいは蓁夫人が知っていた可能性が高い。
 岸田一家は、石上の農家兼米店を経営していた親切な鈴木家に呼びこまれ、ここで震災が落ち着くまで避難生活を送ることになる。自宅の松本別荘13号は、和館だった母家はその後の余震で潰れたが、アトリエのある2階建ての洋館部分は倒壊をまぬがれている。そして、一家であと片づけをしている最中に、片瀬の写真館の主人が通りかかったため、倒壊した母家を背景に記念撮影をしてもらっている。同書より、9月7日の日記を引用してみよう。
  
 夕方鵠沼の町の方へ歩いてみた。兵隊が来てゐて米みそしよう油等売つてゐた。〇朝の中片瀬の写真屋が通つて購買組合を聞いたのでそれと分り、こわれた宅の前と二宮さんの仮居の前と、写真二枚づゝ写してもらつた。
  
 岸田劉生は、家族を連れてよく写真館に通っている。たいていは故郷の銀座7丁目にある子どものころから通いなれた、佐伯米子Click!の実家である池田象牙店Click!の向かい、土橋をはさんだ東詰めにある馴染みの江木写真館Click!だった。
 1923年(大正12)の劉生日記には、写真屋(写真館)が3店舗ほど登場している。1店めは、春陽会の図録ないしは絵はがき用の写真撮影のために、鵠沼のアトリエに通ってきていた東京の清和堂専属のカメラマンだ。2店めが、鵠沼の近所に開店していた神田写真館(戦後のカンダスタジオだろうか?)で、ときどき家族写真を撮らせていたようだ。なお、神田写真館は関東大震災のとき藤沢市街地の惨状を撮影しているのでも有名だ。そして3店めが、9月7日の日記に登場している片瀬写真館だ。
 片瀬写真館Click!については、同年の劉生日記にはもう1ヶ所登場している。東京へ出かけた同年7月8日の日記には、「新橋を十時三十八分の汽車で帰つたが汽車の中で酔つた奴が同車の片瀬の写真屋に怒つて少し乱暴などして気の毒であつた。不快な奴也。」と書きとめている。どうやら、酔っ払いにからまれている片瀬写真館の主人を見かけたらしい。したがって、少なくとも7月以前から片瀬写真館の創業者・熊谷治純Click!のことを劉生は見知っていたようで、だからこそ倒壊した母家の前を通りかかった彼に撮影を依頼したのだろう。
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 片瀬写真館は1913年(大正2)の創業で、現在も片瀬の洲鼻通りで営業をつづけているが、創業者の熊谷治純が独立美術協会Click!熊谷登久平Click!の姻戚であり、岩手から東京へとやってきた熊谷登久平が同写真館を訪ねていることを、熊谷明子様よりうかがっている。

◆写真上:鵠沼の神田写真館が撮影した、関東大震災により倒壊した藤沢駅。
◆写真中上は、1948年(昭和23)に建設社から出版された『鵠沼日記』<大正九年>の表紙()と中扉()。中左は、1979年(昭和54)に岩波書店から出版された『岸田劉生全集/第8巻/日記』。中右は、最晩年の岸田劉生。は、1923年(大正12)の春に制作された岸田劉生『竹籠含春』。数ヶ月にわたり劉生は「椿」をモチーフに制作しているが、同時期には鵠沼に椿貞雄が訪れたり劉生が上戸塚(現・高田馬場3~4丁目)のアトリエへ遊びに寄ったりしているので、日記では「椿」の文字が氾濫していて面白い。
◆写真中下は、関東大震災の直前1923年(大正12)8月に鵠沼で撮影された岸田劉生と岸田麗子。は、岸田一家が目にしていた大正期の鵠沼の商店街風景。は、1923年(大正12)9月7日に片瀬写真館の熊谷治純が撮影した被災直後の岸田一家。
◆写真下は、関東大震災で倒壊した境川に架かる西浜橋。は、津波で全滅した海岸沿いの住宅街。は、地震による津波と隆起で壊滅した片瀬海岸通り。
おまけ
 岸田劉生一家の、松本別荘13号から石上までの想定避難コース。1946年(昭和21)の空中写真だが、劉生日記には「田の中に腹迄つかつて、逃れくる。」(9月1日)とあり、おぶられた小林さん(書生)の「股まで泥田につかりながら」避難したと岸田麗子『父 岸田劉生』にあるように、当時の石上周辺は家が少なく田圃だらけだったと思われる。また、同年撮影の空中写真にみる岸田邸の松本別荘13号跡地には、やはり同じような雰囲気の戦災をまぬがれた家屋が見えているので、昭和初期にも貸し別荘として建て直されていたのかもしれない。
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