丸ごとウソだった三角寛の「サンカ」研究。 [気になる下落合]
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以前、高田(現・目白)や雑司ヶ谷、落合、長崎地域などを荒らしまわった説教強盗の記事Click!で、東京朝日新聞のサツまわり記者だった三浦守(三角寛)Click!について触れたことがある。彼は、のちに「サンカ(山窩)」の研究家・小説家として広く知られるようになるが、そのスタートラインは記者時代の警察資料や、実際のミナオシ(箕直し)あるいはミブチ(箕打ち)と称された人々への取材によって得られたものだ……とされてきた。
ところが、この「サンカ(山窩)」という呼称は、そもそも西日本で使われていた用語であり、東日本ではおもに警察がその呼称を採用していたにすぎないことが判明している。西日本でいう「サンカ」は、東日本では上記の「ミナオシ」「ミブチ」「ミーヤ(箕屋)」などと呼ばれるのがほとんどで、例外的に「ミツクリ(箕作り)」や「テンバ(転場)」という呼称も残ってはいたが、西日本のように農村で「サンカ(山窩)」とは呼ばれていない。三浦守は、新聞記者時代から知っていた警察採用の「サンカ」という呼称を踏襲して、「サンカ」作品(三角寛)なるフィクションを次々に創作していった。
ここでは記述がややこしいので、本来は西日本の呼称であり、三角寛だけがことさら用いた警察用語の「サンカ」を踏襲し、関東の「ミナオシ」あるいは「ミブチ」「ミーヤ」という呼称は用いないことにする。これらの呼称は、江戸期から明治末ぐらいまでにかけ、藤や竹を素材にした農器具を生産したり、その修繕のために各地を移動する職人たちに付与された蔑称であることにも留意したい。鎌や鋤、鍬などを鍛錬して供給し農村を移動する鍛冶たちを、刀鍛冶Click!に対して「野鍛冶」Click!と蔑んだのと同じ感覚だ。
国の経済基盤だった、農業を支える重要な農機具や農器具を製造する彼らが、ことさら差別的に扱われたのは、定住せず常に移動をつづけて営業する「漂泊民」だったことから生じたと思われる。実は「漂泊」しているのではなく、地域ごとに一定のマーケットを巡回する営業サイクルがあったわけだが……。クニや藩の経済基盤であり軍備や軍事力の大きなカナメでもあった、各地を移動して川や山の砂鉄を採取し、カンナ(神奈・神流・鉋)流しClick!の技術により目白(鋼)Click!を製錬するタタラ集団が、定住者の農民からすればいかがわしい集団に見えたのと同様の視座からだろう。
定住者から見れば、彼らは常に「よそ者」であり、その排他的な視点から通りすがりの者はなにをするかわからない連中として警戒され、蔑視されていたにちがいない。事実、全国の警察に「サンカ(山窩)」の呼称が残っているのは、近代に入ってもそのような事例があったか、あるいはすべて通りすがりの「よそ者」である「サンカ」の仕業にしておけば、村や町の秩序や平和(=ミクロコスモス)が保たれたせいもあるのだろう。
さて、三浦守のペンネームである三角寛が書いた著作に、「サンカ」の実情・実態を記録したとされる『山窩物語』(1966年)という、一種の随筆ないしはルポルタージュがある。同書には、三角寛が東洋大学Click!へ提出した、1962年(昭和37)執筆の博士号論文「サンカ社会の研究」の概要をまとめた「山窩の社会構成」も掲載されている。
同書には、次のような一文も掲載されている。2000年(平成12)に現代書館から出版された、「三角寛サンカ選集」の『第一巻・山窩物語』から引用してみよう。
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私が、彼らが山窩であることを知ったのは、それから四年後であった。この間に、私は、彼らをそれとは知らずに、東京の随所で見かけていた。今の目白の千歳橋(ママ:千登世橋)の下でも見た。江戸川(現・神田川Click!)流域のタンボの中でも見かけた。また落合の、近衛公爵邸Click!の下がわや、最近では盛り場に一変した池袋の東口(根津山Click!)などでは、何回彼らのセブリ(天幕=野営地)を見かけたかわからない。(カッコ内引用者註)
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昭和初期の落合地域やその周辺域には、彼のいう「サンカ」が数多く出没していたことになっているが、これがすべて丸ごと絵空事のウソ八百だったとしたらどうなるだろうか? バッケ(崖線)Click!の下や橋の下にいるホームレスを、「サンカ」に仕立てあげてたとしたらどうだろうか? ほんのわずかな事実(関東における「ミナオシ」「ミーヤ」の存在)の断片から、はてしのない妄想や夢想をふくらませてリアリティあふれる小説(フィクション)を書ける筆力を備えた稀代の作家……ということになるのだろうか。
ところが、三角寛は小説家では飽きたらなくなり、学術的な名誉や権威が欲しくなったものか「サンカ」随筆を書くうちに、底の深いとんでもない仕掛けやカラクリを早くから準備しはじめている。新聞記者時代に、たまたま取材できた埼玉県の「サンカ」をもとに、とうに定住して自宅をもち別の仕事をしている元「サンカ」や、元来は「サンカ」ではないエキストラに高額なギャラを支払って依頼し、テント(天幕)や箕などの農器具、それらしいコスチューム(衣裳)、ウメガイ(「サンカ」の両刃の家宝刀=もちろんウソ)、風呂用のビニールないしはゴムシート、女性用の竹簪(かんざし=もちろんウソ)、各種の生活小道具などを三角寛がすべて制作・用意してクルマで運んで支給し、おもに埼玉県の河川でセブリ(「サンカ」の野営地)をデッチ上げて「貴重」な写真類を撮影したことが明らかになっている。エキストラには、三角寛が経営していた映画館「人生坐」の社員も含まれていた。
これらの写真を仔細に検証すると、丹波や九州、広島、埼玉、山梨、千葉など「全国」規模で撮影されたセブリに、同一人物や同一のテント(天幕)が写っていたり、「出演者」の子どもたちがまったく別の地方とされるセブリに出現したりと、すぐにも見透かされてしまうような幼稚なトリックを用いていた。また、「サンカ」だけが使っていた古代からつづく「サンカ文字」や「隠語」、「サンカ」の社会で築き上げられた全国的な組織とヒエラルキー、あるいは戦前の「全国箕組合」などもすべて荒唐無稽な三角寛の創作であることが判明している。それは今日、三角寛(三浦守)の遺族をはじめ、「サンカ」のセブリへモデルとして出演した人々、あるいは知人たちの証言などによってもほぼ裏づけられた。
傑作なのは、積み重ねてきた作り話やウソがしだいに複雑になり、三角寛自身も混乱しはじめていたものか、最後には虚構のほころびが随所で見られるようになる。三角寛が経営する池袋の映画館「人生坐」がオープンした1948年(昭和23)2月17日~18日、開館イベントが盛大に行われ同館の中心にいたはずの三角寛が、同日時に丹波福知山(現・京都府福知山市)の山中、下六人部の由良川に設営されたセブリに数日滞在して、「サンカ」の「貴重」な写真を撮影していた(とされている)ことも判明している。これが虚構でないとすれば三角寛は、どうやら「どこでもドア」をもっていたようなのだ。三角寛が撮影した写真は、関東から以西のほぼ全国的にわたっているとされてきたが、現在ではそのほとんどのロケ地が、埼玉県を流れる決められた河川の流域と特定されている。
また、東洋大学へ提出した博士論文「サンカ社会の研究」(1962年)では、論文らしく装うためにどこにも存在しない「サンカ」の全国的な各種統計資料や、より大規模なエセ資料を「引用」しながら「論旨」を展開していくことになる。それは、戦前から執筆してきた随筆やルポルタージュのウソとはケタちがいの内容だった。当時の様子を、2006年(平成18)に文藝春秋から出版された筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』から引用してみよう。
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三角寛の虚言は、これまで述べてきたように、戦前の著作にも、すでに見えている。(中略) しかし、サンカ論についていえば、のちの『研究』(博士論文のこと)や『資料集』に述べられているような、けたはずれの虚構は、戦前のものにはあまりうかがえない。/そのころの嘘は荒唐無稽、猟奇的ではあっても、たぶんに観念的、抽象的で全体におとなしい。『研究』にあるような、具体的な地名、人名を次々と並べ、精密すぎる数字を列挙するといった、大がかりな仕掛けは、まだ使っていないのである。それは論文執筆に際して初めて採用した壮大なからくりであった。(カッコ内引用者註)
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文中の『資料集』は、博士論文執筆のために「参照」した資料を集大成して出版した、いわば「原典」資料のことだ。論文を審査するために、審査委員長の斎藤清衛をはじめ、東洋大学の学長・佐久間鼎、助教授の恩田彰、校友会長の尾張真之介らが、埼玉県川越市の越辺川にセブリ(野営)する「サンカ」家族や、同県東松山市の都幾川のセブリを訪問して、論文の検証(ウラ取り=ファクトチェック)をしたとされている。
このとき、天幕や箕をはじめセブリの大道具小道具一式は、三角寛がすべて用意しクルマに積んで現地へ運んだものであり、雇用された「サンカ」役の出演者たちの証言も残っているので、もはや多言を要しないだろう。東洋大学の論文審査会は、三角寛の虚言癖と芝居にまんまと騙されたことになる。いや、騙されたのは学術分野だけでなく、名だたる文学者たちも「サンカ」について同論文を参考にし、ありもしない「サンカ文字」や「隠語」、丹波を中心とした「全国組織」について言及した作品を残している。
ちょうど、三角寛の虚構が次々とあばかれていたころ、旧石器Click!の捏造事件が起きたのは記憶に新しい。「God Hand」と呼ばれた考古学者・藤村新一は、日本の旧石器時代Click!が50万年前後もさかのぼる地層から旧石器を次々に「発見」したが、ほぼすべてがあらかじめ自身で埋めて「発掘」する、あるいは「発掘」させるマッチポンプ式の捏造だったことが、毎日新聞記者の張りこみ取材で明らかになった事件だ。これも三角寛の「サンカ」と同様に、“学会での名誉欲”(+金銭)がからんだ出来事だった。
わたしと同時代の偽書・捏造事件には、有名な『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』と、地味だが教科書にも採用された『江戸しぐさ』があった。前者は、とある「旧家」和田家の天井から、屋根の太い梁に吊るされた古文書入りの行李が天井板を破って落下し、その中から記紀と対峙する江戸期に書かれた超古代史の古文書『東日流外三郡誌』の、明治以降とみられる写本が「発見」されたというふれこみだった。
それぞれ時代の異なる古文書なのに、なぜか筆跡がすべて同じで書かれた「墨」は筆ペンのもの、紙の繊維は戦後の障子紙であり、欠落した文書が指摘されて問題化すると、次々に後追いで文書が「発見」され、それらもすべて同一の筆跡だった……という、ふり返ればまことにお粗末な偽史・偽書事件だ。最後には、和田家の家屋は古い建築ではなく、天井には太い梁など存在しないことまでが明らかになっている。
それでも、当初は歴史家や自治体が『東日流外三郡誌』に飛びつき、多種多様な論文やエッセイ、記事などを通じて「著者」である和田喜八郎は有名になり、同古文書の引用料や地域イベントへの流用などで「著者」には莫大な金銭が流れたとされている。同書は、規模からしても戦後最大の偽書事件だが、「なんでこんな作りものにだまされるんだろ」という、和田喜八郎の隣家に住む肉親(従妹)の言葉が印象的だった。
後者の『江戸しぐさ』に関しては、明治期に「江戸っ子」のジェノサイド(大量虐殺)が行なわれたため(ってこたぁ100万人以上が虐殺されたんだね)、江戸の習慣や風俗・文化を受けつぐ人間が途絶え、記憶による口承でしかそれらをうかがい知ることができない……というふれこみで、戦前の「修身」まがいのさまざまな「道徳」や、まるでヨーロッパ諸国の“マナー”のような「規範」を紹介したものだが、あまりにも荒唐無稽なウソ八百かつお話んならないバカバカしさなので、これ以上は触れない。
三角寛の遺族にすれば、「なんでこんな荒唐無稽な話にだまされるの?」と不思議だったにちがいない。むしろ博士論文などに手をださず、人生最後の瞬間「み~んなぜんぶ、ウソピョ~ン!」と舌をだして逝けば、一貫して高度なリアリズムを追求した特異な「サンカ」小説を書く、日本では稀代なファンタジー作家の地位は揺るがなかったはずなのに……。
◆写真上:料亭「寛」の時代に撮影した高田町時代は雑司ヶ谷金山368番地で、1932年(昭和7)以降は豊島区雑司ヶ谷町1丁目368番地になる旧・三角寛邸。
◆写真中上:上は、2000年(平成12)出版の三角寛サンカ選集『第一巻・山窩物語』(現代書館/左)と三角寛(右)。中左は、娘の三浦寛子が1998年(平成10)に書いた「奇々怪々」な『父・三角寛-サンカ小説家の素顔』(現代書館)。中右は、「サンカ」研究の虚構を全的に検証した筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』(文藝春秋)。下は、昭和初期に「サンカ」のセブリがあったとされる下落合は近衛邸の崖下(1932年撮影)と千登世橋の下。
◆写真中下:上は、三角寛が創作した「サンカ文字」。中は、その「サンカ文字」の入った祝儀袋を手にした「サンカ」役を演じる出演者のひとり。下は、「命よりも大切」とされるウメガイ(両刃の短刀)をかざすセブリにいた「サンカ」の「武蔵太刀平」(実は日当でモデル出演を依頼された久保田辰三郎)。丸ごとすべてが創作・虚構で、ウメガイは随筆に登場する「椎名町の鍛冶屋」で三角寛が注文した品なのかもしれない。
◆写真下:上は、埼玉県東松山市の都幾川にいた「サンカ」のセブリを視察する東洋大学の調査団。立っている人物の左から博士論文提出者の三浦守(三角寛)、東洋大学学長・佐久間鼎、同大学助教授・恩田彰、同大学交友会長・尾張真之介の面々。写っている天幕(テント)や箕、「サンカ」衣裳などの大小道具は、すべて三角寛があらかじめ舞台のセブリへ運んだもので、日当をもらって出演している「サンカ」の演者は、左端が大島太郎で左から3番目の人物が久保田辰三郎ということまで判明している。中は、「サンカの娘」が頭に指す青竹の簪(かんざし)について解説する三角寛と、説明を聞く東洋大学長の佐久間鼎。もちろん、「サンカの娘」が青竹の簪を指すのもウソで、簪は三角寛が手づくりしたもの。「サンカの娘」役を演じているのは、池袋の映画館「人生坐」の社員だった久保田初子。下は、集英社から刊行された斎藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』(2019年/左)と、山川出版社から刊行された原田実『偽書が揺るがせた日本史』(2020年/右)。
★おまけ
農器具である箕とは異なるが、農家の台所などでときどき見かける藤の蔓と竹で編んだ柄付きのザル。蕎麦や野菜類などを茹でるときに使うのだろうが、これも関東でいうミツクリ(箕作り)・ミナオシ(箕直し)の仕事だったのだろうか? 世田谷区喜多見にて。