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大倉山の伊藤博文別荘は誤伝ではないか。 [気になる下落合]

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 全国には、大倉喜八郎Click!あるいは大倉財閥が関係する「大倉山」と名づけられた丘や山がある。本来は異なる名称だった丘や山が、大倉家の別荘が建設されたり、なんらかの事業やイベントが行われたのちに山名が変更されているケースが多い。
 たとえば、1972年(昭和47)に札幌で開催された冬季オリンピックの競技場として使われた、1931年(昭和6)建設のシャンツェのある山が「大倉山」だし、南アルプスの赤石東尾根は“大名登山”をした大倉喜八郎にちなんで「大倉尾根」などと呼ばれ、神戸の安養寺山に大倉喜八郎が別荘を建てたため、それ以降は「大倉山」(現・大倉山公園で伊藤博文の銅像台座が残されている)と呼ばれるようになった。そのほか、静岡県などにも通称「大倉山」があるそうで、探せば日本各地にまだまだあるのだろう。
 下落合にも、権兵衛坂Click!が通い昔から権兵衛山Click!と呼ばれている丘が、通称「大倉山」Click!とも呼ばれている。そして、そこには明治期に伊藤博文の別荘が建っていたという伝説Click!が残っている。わたしも何度か耳にしており、権兵衛山(大倉山)を「買収」した「大倉喜八郎(大倉財閥)」との関連で語られることが多い。口承による伝承ばかりでなく、地域資料にまでそのような記述がハッキリと見えている。1998年(平成10)に落合第一特別出張所(新宿区)から発行された『新宿おちあい―歩く、見る、知る―』収録の、長谷部進之丞『古事随想』から引用してみよう。
  
 三輪邸から細い道を右へ曲がり左側に伊藤伯爵邸(現在の落合中学) 右側に落合第四小学校(創立七〇年)があり、当時の第四小学校はまだ新しい校舎で綺麗で高台の校庭からは、新宿百人町、戸山町全景が一望に、戸山が原の三角山(今は無い)も目の前に見えました。今では高い建物が建って眺望を遮ってしまった事は寂しい限りです。
  
 この文章を読むかぎり、大倉山の丘上にあたる場所(現・落合中学校の敷地内)には、明治期に伊藤博文の別荘が建っていたことになっている。つまり、伊藤博文が土地を借りるか購入して自ら別荘を建てたか、神戸にある安養寺山(標高55m:のち大倉山)と同様の由来で、大倉喜八郎が所有していた土地に大倉別荘を建て、それを伊藤博文(ときに松方正義)がまるで自分の別荘のように利用していたため、地元では伊藤博文の別荘として認知されやすかった……というような経緯が想定できる。
 確かに、目白崖線沿いには明治期から華族やおカネ持ちの別荘や本邸が建ち並び、崖線沿いの東から西へ椿山(目白山)の山県邸Click!や目白台の細川邸Click!、稲荷前(現・戸塚町)の大隈邸Click!、三島山(現・甘泉園)の清水徳川邸Click!、雑司谷旭出(現・目白)の戸田邸Click!あるいは徳川義親邸Click!、下落合の徳川邸×3邸(好敏邸Click!義恕邸Click!義忠邸Click!)、近衛邸(篤麿邸Click!文麿邸Click!)、相馬邸Click!箕作邸Click!大島邸Click!谷邸Click!川村邸Click!津軽邸Click!武藤邸Click!などなどが散見される。だから、伊藤博文邸があったという伝承を聞いても、それほどの不自然さは感じられない。
 だが、伊藤博文の邸といえば、わたしが子どものころから遊びにいっていた大磯Click!の本邸「滄浪閣」Click!(当時は中華料理レストランだった)のほか、このあたりでは小田原や夏島(横須賀)など神奈川県の別荘群が知られるが、下落合の別荘はついぞ聞いたことがなかった。また、大倉喜八郎が向島(本所区小梅町)に建てた別荘「蔵春閣」や、先述した神戸・大倉山の大倉別荘を伊藤博文が利用していたという経緯は聞いても、下落合という地名はまったく目にしたことがない。
 大倉喜八郎が、伊藤博文と初めて会ったのは、1872年(明治5)に岩倉使節団がヨーロッパをまわった際、同じく視察旅行にきていた大倉喜八郎とロンドンやローマなどで邂逅したということになっている。しかし、当初はそれほど親しくはなく、帰国後の大倉喜八郎が急接近していったのは大久保利通だった。1878年(明治11)に大久保利通が紀尾井坂で暗殺され、伊藤博文が内務卿に就任したあたりから、全国の集治監(刑務所)の建設でふたりの関係は緊密になっていく。だから、政商・大倉喜八郎が伊藤博文に別荘建設の便宜をはかったり、自身の別荘を自由に使わせたりしていたのは、1878年(明治11)から伊藤が暗殺される1909年(明治42)までの間と想定することができる。
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 さて、下落合の権兵衛山(大倉山)にあったとされている伊藤博文別荘だが、1880年(明治13)に作成された日本初の本格的なフランス式カラー地形図Click!(縮尺1/20,000)から、伊藤博文が朝鮮で暗殺される1909年(明治42)に作成された1/5,000地形図にいたるまで、さまざまな地図類をあれこれ参照しても、下落合の権兵衛山(大倉山)には建物が1棟も採取されていない。同所に建築物が記載されはじめるのは、伊藤博文の死後、大正期に入ってからのことだ。つまり、参謀本部の陸地測量部Click!が作成した地図類の信憑性を優先するとすれば、大正期に入るまで権兵衛山(大倉山)には建物らしい建物は存在しておらず、旧・土地台帳の地目どおり「山林」だったことになる。
 では、大倉喜八郎ないしは大倉財閥の所有地だったから、権兵衛山は「大倉山」と呼ばれるようになった……という伝承は、はたして事実なのだろうか? 大倉山の由来について、詳しく記述した地元の資料がいつまで探しても見つからないので、わたしはついにじれったくなり、法務局で一般公開されている旧・土地台帳を総ざらえすることにした。地元で「大倉山」と認識されている、権兵衛山のいくつかのポイントとなる地番をピックアップして、旧・土地台帳の登録者名を次々と確認していく非常にめんどくさい作業だ。
 現在は権兵衛坂が通う、権兵衛山(大倉山)の斜面両側あるいは丘上の敷地は、旧・土地台帳に掲載された古い地番でいうと、下落合(字)丸山280~320番地ということになる。実際の台帳表記では、さらに地番の土地が細分化されているから、たとえば「二百八十九-七」とか「二百七十五番地-十」などの表記で分筆されていく。
 旧・土地台帳を参照すると、権兵衛山は江戸期から明治期にかけて、そのほとんどが一貫して薬王院Click!の所有地だったことがわかる。同院の伽藍(元文年間に焼失)や境内が、現在の藤稲荷Click!(御留山)近くにあったころの名残りなのかもしれない。いまの薬王院の堂宇や境内は、1878年(明治11)に御留山Click!の西側から移転したあとのものだ。だが、同院が移転したあとも権兵衛山は薬王院の所有地であり、その土地が販売されはじめるのは、1890年(明治23)の高田家への譲渡、1902年(明治35)の衆議院議員だった堀部家への売却など、明治期も後半になってからのことだ。そして、これらの経緯が明治期の大倉喜八郎あるいは大倉財閥、さらには伊藤博文とはなんら関係がない点にも留意したい。
 旧・土地台帳に、初めて「大倉」の名前が登場するのは1914年(大正3)11月3日だ。つづけて1917年(大正6)12月3日にも、追加で土地を取得しているのがわかる。1914年(大正3)に、権兵衛山の土地(下落合丸山288~289番地)を購入したのは、当時は小石川区関口台町72番地に住んでいた大倉発身で、大倉喜八郎の妹の養子、つまり喜八郎の甥にあたる人物だ。ちなみに、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、同人の名前は掲載されておらず、1938年(昭和13)の「火保図」にも権兵衛山に同邸が収録されていないので、権兵衛山へ実際に大倉邸が建ったのはそれ以降ということになる。
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 大倉みち(道子)は喜八郎のすぐ下の妹で、養子に迎えたのが石沢発身(大倉発身)と溝口直介(大倉直介)のふたりの男子だった。大倉発身は1874年(明治7)生まれなので、下落合の権兵衛山を購入したときは40歳ということになる。彼は、つづけて所有地を拡張していったのか、のちに下落合(丸山)275番地の土地も手に入れている。このころから、下落合では「大倉組の大倉さん」が権兵衛山の土地を購入したということで、地元の住民は権兵衛山のことを通称「大倉山」と呼ぶようになったとみられる。
 大倉発身(1874~1954年)は、大倉組へ入社のあと東海紙料の重役から日本ミシン製造の社長に就いた人で、ほかに大倉組や大倉商事、月島機械の取締役に就任している。また、1954年(昭和29)に大倉発身が死去すると、相続による書き換えだろう、1955年(昭和30)10月2日には子息の大倉昌(1912~1988年)名義に変更されている。わたしが見つけた、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内図帳」に掲載の「大倉」家は、大倉昌邸ということになる。大倉昌は、日産自動車から月島機械の取締役に就任した人物だ。
 さて、この記事を読まれた方は、もうお気づきではないだろうか。大倉喜八郎が伊藤博文と緊密な関係にあった時代に、下落合の権兵衛山には両者に関連するなにものをも見いだすことができない。また、大倉喜八郎の甥にあたる大倉発身が、権兵衛山に土地を購入して下落合に転居してくるのは、伊藤博文がとうに死去したあとのことであり、下落合の大倉家(大倉敷地)と伊藤博文には直接的な接点はない。そして、下落合の権兵衛山は大倉喜八郎でも大倉財閥でもなく、大正期に大倉発身の個人名義で購入された、自邸を建設するための土地取得であったことも重要なポイントだ。
 いつのころからだろうか、大倉発身が自邸用に購入した土地のウワサが、「大倉喜八郎または大倉財閥の権兵衛山買収」という大きな話へとすりかわり、おそらく権兵衛山が「大倉山」と呼ばれるようになった大正期のころから、神戸の大倉山(安養寺山)の伊藤博文別荘(実は大倉喜八郎別荘)のエピソードと混交してしまい、「下落合の大倉山には伊藤博文の別荘があった」という、まことしやかな伝説が語られるようになったのではないか。
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 長谷部進之丞『古事随想』では、落合中学校の敷地あたりに別荘があったとされているが、そのころにはかなり尾ヒレがついた伝説が語られていたのではないだろうか。明治期の権兵衛山(大倉山)に、伊藤博文や大倉喜八郎=大倉財閥に関連する痕跡は、少なくとも各種地図類や旧・土地台帳を参照するかぎり、どこにも存在していない。そこには、大倉千之助(大倉喜八郎の父親)の娘・大倉みち(道子)の子孫が、大正期に権兵衛山の広い土地を購入し、同じ目白崖線つづきの関口台町から下落合へ転居してきているという事実だけだ。

◆写真上:下落合にある権兵衛山(大倉山)の、ピーク(頂上)あたりの現状。
◆写真中上は、1880年(明治13)作成のフランス式1/20,000カラー地形図にみる権兵衛山。は、1909年(明治42)に伊藤博文が暗殺された同年作成の1/5,000地形図。この間の地図には、家屋が採取されていない。は、本所区小梅町にあった大倉喜八郎の向島別荘で、喜八郎が死去するまで久保井ゆう・大倉雄二母子が住んでいた。
◆写真中下は、わたしにもおなじみの大磯にある伊藤博文本邸「滄浪閣」。ここの中華料理を食べ、こゆるぎの浜Click!北浜Click!で泳ぐことが多かった。は、小田原にある大倉喜八郎の別荘「共壽亭」。喜八郎は、1890年(明治23)から1907年(明治40)まで大磯の東小磯に別荘をもっており、小田原の「共壽亭」はその移築建築かもしれない。は、神戸の大倉山(安養寺山)に建っていた大倉喜八郎の別荘(左)と伊藤博文の銅像(右)。
◆写真下は、大倉千之助の子どもである大倉みち<道子>()と大倉喜八郎()。は、法務局で公開されている旧・土地台帳の権兵衛山(大倉山)界隈の記録の一部。同地域の大半が、江戸期から大正の初めまで薬王院もちの地所だったことがわかる。
おまけ1
 そういえば、目白台の広大な細川家の敷地内に残る、細川護立邸はあまりご紹介してこなかったので改めて最新の現状写真をピックアップ。
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おまけ2
 大倉喜八郎の別荘があった、神戸の大倉山に残る伊藤博文の銅像台座。伊藤博文が頻繁に同別荘を利用していたため、彼の別荘だと認識していた神戸市民も多かった。
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紀ノ川沿岸と浅草の地名相似。 [気になるエトセトラ]

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 世界各地には、ある地方の地名と別の地方の地名がそっくりな、あるいはよく似ている「地名相似」Click!という現象がみられる。たとえば、英国のジャージー島に由来するのが米国のニュージャージ州だし、英国のヨーク市にちなんだ名称がニューヨーク市だ。近代における日本の例をあげると、本州から南に位置する地方や地域、町などの名称が、北海道に点在するのにも似ている。これらは、おもに入植や移住、開拓といった人々の「民団」移動から生まれた近代の現象だ。
 ところが、古代からつづいているとみられる地名相似は、単なる入植や移住、開拓といった人々の“移動”だけでなく、大規模なものはなんらかの政治的な変動や侵略的な動乱と、それにともなう避難や亡命Click!といった史実が疑われる。古代における地名相似で、もっとも著名なものは、九州北部(福岡~熊本)と大和(奈良周辺)の地名相似と、日向地方(宮崎)と熊野地方(和歌山)との地名相似がある。
 これらの地名相似は、北九州に上陸してきた勢力(おそらく古代ヤマト勢力)が、なんらかの理由から日向(ひむか)の地へと移動し(阿蘇の大噴火による経済基盤の壊滅被害が疑われている)、やがて記紀に描かれた神話的故事Click!のように瀬戸内海を軍船で東進して、浪速(なみはや)地方(現在の大阪湾あたりの旧・湿地帯)に上陸したが、そこで先住の「原日本」のクニグニに迎撃され大敗したため、大きく迂回して熊野地方(和歌山)へと再上陸し、最終的には奈良盆地へと侵入してナラ(古朝鮮語でも現代朝鮮語でも「国」「国家」の意)を打ち立てた……というような侵略の経路を想像することができる。
 上記の想定(仮説)だと、日向地方から熊野へと上陸した勢力は、熊野の地が日向と同様に過渡的な侵略地(居留地)であり入植地だと規定して、日向地方で用いていた地名と同様のものを周辺の土地や山河に付加し、やがて奈良盆地へと侵入し古代ヤマトを名乗るようになってから、改めて故地である北九州に残してきた由緒・由来のある地名を、再び周辺の土地や山河にふり分けているということになる。記紀の故事によれば、日向から浪速へと向かった軍勢(「神武」とされている侵入勢力)は、瀬戸内海を東進する直前に、わざわざ迂回して九州北部へと立ち寄っているのも、彼らが最初に居住していた故地へのこだわり(思い入れ)がどこかに感じられる。
 記紀に描かれた、やたらにリアルな侵略ルートの記述は、なんらかの史的事実をより古い時代の故事に見せかけようと、千子二運(あるいはもっと上代まで)さかのぼらせた、大昔の出来事として記述されているように見える。今日の科学的な考古学や歴史学の視点から見れば、明らかに「偽史」「神話」の部分や、北九州生まれとされる「応仁」=「神武」のダブルイメージなのでは?……といった、「神話」上の創作・捏造・改変などを差し引いて解釈したとしても、なんらかの史的事実や経緯を神話に託して記録したものではないか?……と解釈するのが、現代の「文献史学」の方向性を位置づけているようだ。
 事実、熊野地域(和歌山)では、従来はひそかに語り継がれてきた、「神武」を迎撃したとみられる「日本」側の女王ナグサトベやミナカタ(南方)氏などの伝承が、1945年(昭和20)の敗戦以降に次々と明らかにされてきている。もっとも、それらの伝承は紀元前の出来事(縄文時代)とされたままであり、「神武」の記紀年代に合わせて“都合”よく神話レベルで語られているのが現状のようだが、「文献史学」だけでなく自然科学を含めた学術的な視座による将来的な発見・発掘で、大きな展開や成果がありそうな気配がしている。
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 さて、同じ紀国(木国)と南関東でよく似た地名が、たとえば都内に散在している。古代からの地名相似とみられ、紀国(和歌山)の紀ノ川沿いの古地名と、隅田川沿いを中心に江戸東京地方の古地名がよく似ているのは、あまり知られていない事実だろう。紀ノ川沿いには、隅田(隅田村を流れる紀ノ川は「隅田川」と呼ばれていた)や真土山(まつちやま)、庵崎(芋生)、安楽川(荒川とも)、千寿(せんじゅ)、上野、神田、愛宕山などの地名が点在している。一方、江戸東京にも浅草地域を中心に、現代にいたるまで隅田(墨田)、隅田川、真土山(江戸期以降は待乳山Click!)、庵崎(芋生:近代に消滅)、荒川、千住、上野、神田、愛宕山などなど、紀ノ川沿いと隅田川沿いで一致する地名が少なくないのだ。
 35年ほど前に、紀ノ川沿いの地名と隅田川Click!沿いに展開する地名の相似について、折口信夫Click!の「古代における民団の移動」に触れつつ記した、地元の地域本が存在している。1987年(昭和62)に三弥井書店から出版された、中尾達郎『色町俗謡抄』から引用しよう。
  
 こうして見ると、江戸の隅田川の流域の待乳山、庵崎、隅田村は、それぞれ紀伊の隅田川沿いの真土山(待乳山)、庵崎(芋生)、隅田村の地形に似ているために名付けられた名称と考えられる。更に、紀伊の安楽川(荒川とも表記する)があり、北上して紀ノ川に注ぐが、これは荒川郷を流れる流域の部分名のようである。これも江戸の荒川と隅田川との関係に似ている。また、浅草の三社権現と紀伊の日前神宮とは、それぞれ隅田川、紀ノ川の川口に近い流域にある。因みにわたしは三社権現と日前神宮とは関係が深いと考えている。(註釈略) 更に『紀伊名所図会』によると、この日前神宮に関連して千寿河原の名を挙げているが、これも江戸の千住と対応していると看做すことができる。
  
 古代の浅草は、江戸湾の突きあたりの奥にある天然の良港だったらしく、早期から浅草湊Click!が拓かれ、関東地方の物流拠点として機能していた。房総半島で切りだされた房州石Click!が、南関東に展開する数多くの大小古墳の、玄室や羨道の石材Click!として用いられているが、同じ江戸湾の三浦半島にある六浦湊Click!(現・金沢八景あたり)とともに、当時は地方からのさまざまな物資を陸揚げする物流の一大拠点だったのだろう。
 その浅草湊の周辺に展開する地名が、紀ノ川沿いの地名と相似しているのがとても興味深い。先のヤマトの紀国への侵略にともない、女王ナグサトベの国が滅亡するとともに、紀ノ川沿いに先住していた「日本」人たちが、ヤマトの圧力に耐えかねたか戦いに敗れるかして、関東のクニグニへ亡命または避難してきているのではないか?……と想定するのは、それほど困難なことではないだろう。
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 このような視点で見ると、関東から中部地方に展開する諏訪社Click!の祭神で、従来は出雲のオオクニヌシがらみとされてきた勇猛なタケミナカタ(建御名方)と、紀国の熊野地方で「神武」を迎撃した女王ナグサトベに仕えた南方(みなかた)氏とのかかわりが必然的に気になる。タケミナカタは、頑強に侵略者のヤマトへ抵抗をつづけて奉られた「猛(タケル)南方」、あるいは「武南方」ではないかという想定が成り立つのだ。
 ちょっと余談になるが、江戸期になると紀国は「紀伊国」と母音の“黙字”である「伊」を補って書かれることが多いが、本来は紀ノ国(木ノ国)であって紀伊は「き」と発音される地名であり、「きい」とは読まない。黙字はスルーし、発音しないのが江戸期の“お約束”のはずだった。出雲の地域名である斐川(氷川)が、「斐伊川」と書かれていても本来は「ひいかわ」と読まず、母音黙字を無視して「ひかわ」と読むのと同様だ。
 紀ノ川沿いと江戸東京の地名相似は、以前にも出雲の事例で書いたけれど、出雲にしか産出しない碧玉製の勾玉Click!が関東各地の古墳から出土したり、関東南部に氷川明神(斐川明神)Click!の社(やしろ)が数多く展開したりと、明らかに出雲を故地とする人々(ヤマトへの「国譲り」を許容できなかった少なからぬ集団)が、おそらく海路で関東のクニグニへとやってきている痕跡を感じるのと同様に、ヤマトの侵略へ容易に同調できない紀国の人々が、黒潮にのって関東南部へと亡命あるいは避難してきた証跡を感じるのだ。
 彼らは、江戸湾のもっとも奥地にあたる浅草地域へと上陸して居留地としたか、あるいは既存のクニグニから土地を分けてもらって新たな入植地としたものか、のちに浅草湊を開拓した川筋から海へとルートを拡げる、物流や貿易を得意とした人々だったかもしれない。ちょうど、タタラ製鉄Click!に関する専門知識やスキルが豊富だったとみられる出雲の人々が、砂鉄から目白(鋼)Click!を製錬するために南関東の河川をさかのぼり、バッケ(崖地)Click!や段丘に沿ってカンナ(神奈)流しClick!を行いながら、各地に氷川(斐川)あるいは鋳成神(近世に「稲荷」と習合されたものも多い)のメルクマールをしるしていったのと同様に、紀国の特殊技能や専門の職能・知見を身につけた人々は、関東のクニグニ(南武蔵勢力圏や北武蔵勢力圏)では特殊な技能に優れた人々として優遇されたかもしれない。だからこそ、故地の地名やメルクマールとなる神を奉る社(やしろ)について、周辺の似たような地形に付与することを、あえて許されていたのかもしれないのだ。
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 浅草や真土山(待乳山)は、わたしもたまに出かけて散歩をするが、三社権現Click!浅草寺Click!ばかりでなく、古くからの地名をたどりながら周辺の地形を観察するのも楽しいかもしれない。もちろん、江戸幕府によって大規模な土木工事が行われ、河川の改修や埋め立てが実施される中世以前の、浅草湊が江戸湾の奥入り江に面する貿易港だった時代の復元地図を片手に、奥東京湾の名残り池Click!などを避けながら古代散策してみるのも面白いだろう。

◆写真上:現在はかなり南へ移動したが、古代には浅草あたりが河口だった隅田川。
◆写真中上上左は、1987年(昭和62)出版の中尾達郎『色町俗謡抄』(三弥井書店)。上右は、親父が愛読した1964年(昭和39)出版の今井栄『隅田川散歩』(非売品)。は、三社権現社(明治以降は「浅草神社」)。は、金龍山浅草寺(浅草観音)。
◆写真中下は、鳥居龍蔵Click!の調査時からあまり変わらず前方後円墳の形状をよく残した待乳山(真土山)聖天。は、台東区立下町風俗資料館が出版した『下谷・浅草の歴史散歩』(1997年/)と、同資料館出版の明治から現代まだの古老による証言を詳細に収集・記録した『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和<総集編I>』(1999年/)。は、紀ノ川沿いの隅田地区を流れる隅田川(紀ノ川の一部)。
◆写真下は、『港区史』(2020年)に掲載された「東京低地地形分類図」。は、紀国と同地名の上野東照宮の金色殿から撮影した唐門と寛永寺五重塔。は、同東照宮の灯籠群。

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上落合にあった今西中通のアトリエ風景。 [気になる下落合]

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 今西中通Click!が上落合851番地(のち上落合2丁目851番地)にアトリエをかまえていた時期、1930~1934年(昭和5~9)の4年間にはアトリエの内部で描かれたとみられる、何点かの静物画やモデル画が残されている。本格的な仕事場をもてたことがうれしかったのか、転居したばかりのころ、1931~1932年(昭和6~7)にかけてアトリエで描いたとみられる静物画が数多く残されている。
 また、モデル画は近くに開店していた喫茶店の娘で「フサ」という年若い女子を描いたもので、当時の人物像では「フサ」像がもっとも多く、よほど彼女が気に入って魅せられていたのだろう。この喫茶店の店名は残念ながら不明だが、「フサ像」あるいは「FUSA像」とタイトルされて残る肖像画が数多く存在するので、喫茶店に通いつめては描き、また彼女をアトリエに連れてきては制作していたのだろう。「フサ」の肖像は、ときに面長だったり丸顔だったりと一定していないので、おそらく今西の理想の女性像(面立ち)が、「フサ」の面影にこめられた作品ではなかったろうか。
 「フサ」は、今西中通が好みの面立ちをしていたとみられるが、上落合時代が終わると「フサ」との縁も切れてしまったか、彼女が結婚して喫茶店にいなくなってしまったか、あるいは喫茶店がほどなくつぶれてしまったのかもしれない。この喫茶店が、萩原稲子Click!「ワゴン」Click!のように中井駅の近くにあったものか、上落合の南側を貫通する早稲田通り沿いClick!ないしは八幡通り沿いClick!の商店街に開店していたものか、あるいは東中野駅へと向かう道すがら(住吉通り=プロレタリア通りClick!)にあったのかは不明だが、今西中通が「フサ」のいる喫茶店へ頻繁に入り浸っていたのはまちがいないだろう。
 上落合851番地にあった、今西中通Click!のアトリエ内部を描いためずらしいタブローも残されている。1931~1932年(昭和6~7)に制作された、今西の『画室の一隅』(冒頭写真)という画面だ。赤錆で腐食していきそうな、あるいはカビ臭さが漂いそうな壁面を背景に、手前にはいまにもくずおれそうな頼りないイスが置かれている。背後には、細長いハンガーラックか帽子かけでも置かれているのだろうか、その一角に今西の仕事着らしいルバシカのような衣服がかけられている。部屋全体が薄暗くて重苦しく、どこか画家の生活苦を想起させる画面だが、この時期の今西中通ははたして明日の食費を懸念するような、かなり苦しい生活を送っていたと思われる。
 だが、今西の友人たちも頻繁に画室を訪れ、たびたび酒が入っては大さわぎをしていたようなので、この画面から受けるアトリエの静謐で暗い印象とはかなり異なる、“青春”を謳歌するような雰囲気ではなかったろうか。このころの今西について、同年輩で1930年協会洋画研究所Click!時代からの友人だった中間冊夫の証言が残っている。pinkichさんからいただいた『今西中通画集』の巻末に収録の、中間冊夫「今西君との交友」から引用してみよう。
  
 その頃の今西君は下落合に住んでいた。空地を前にした古い二階屋で、北側に線路をへだてて下落合の文化村が高く眺められた。すぐ近くに有名になる前の林芙美子が世帯を持って小さな二階屋にすんでいて今西君とつきあっていた。彼の家は往来に面した店屋の感じで入口が硝子戸のはまった十畳位の土間で、その奥が六畳位の部屋になっており、今西君の部屋であった。二階には早稲田の学生が二、三人いて今西君と共同炊事をやっていた。訪ねて行くと誰かしら人が来ており、又やって来た。へい衣粗食を意に介せず痛飲しては良く画論をやり、卓をたたいて蛮声を張り上げるさまはまことに溌溂たるものだった。部屋から土間へと青黒い絵が大小壁にぶらさがり、絵具と食器が乱雑を極めた中でいつも明るい顔で楽しそうであった。
  
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 文中「下落合に住んでいた」は、もちろん上落合の誤りだ。中間冊夫は、「フサ」が今西アトリエへきてモデルになっていたのを頻繁に目撃しているようで、彼は「今西中通の純情な面がいたるところに表れてほほえましい」と書き残している。
 「下落合の文化村」が眺められたと書いているが、上落合851番地から丘上の北東の方角にあたる奥まった位置の目白文化村Click!は望めない。今西アトリエから丘上に見えていたのは、下落合西部に東京土地住宅Click!が開発を予定し、同社の経営破綻により途中でストップしたアビラ村(芸術村)Click!の西洋館群だ。おそらく彼のアトリエからは、島津源吉邸Click!金山平三アトリエClick!などのモダンな建築群が見えていたのだろう。
 林芙美子Click!が「今西君とつきあっていた」には、彼女の性格Click!やふだんの素行Click!を考慮すると一瞬ドキッとするのだがww、いまだ彼女の小説が売れずに洋画家志望の夫・手塚緑敏Click!とつましく暮らしていた当時としては、また純情で曲がったことがキライな土佐育ちの“いごっそう”である今西中通の性格を考慮すれば、手塚緑敏Click!との美術や将棋好きの共通項と、北隣りに住む近所同士ということで夫妻と親しく「つきあいがあった」というのが正しい表現なのだろう。
 今西中通が暮らしていたアトリエの風情は、「彼の家は往来に面した店屋の感じ」と書いているので、尾崎翠Click!が住んでいた上落合842番地の2階家や銭湯「三輪湯」Click!などが建っていた、最勝寺Click!境内の北面を東西に貫く三輪(みのわ)通りに面していたのはまちがいない。1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、三輪通りに面して長屋か商店建築のような建物が3棟建っている。その背後の北側は、蛇行する妙正寺川までが空き地であり、林芙美子・手塚緑敏たちが住んでいた上落合850番地の家々は、すでに妙正寺川の直線整流化工事に備えて解体されたのか採取されていない。
 中間冊夫は、代々幡町代々木山谷160番地にあった1930年協会洋画研究所時代の想い出についても証言している。彼の「今西君との交友」から、再び引用してみよう。
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 今西君と私との交友は代々木山谷にあった一九三〇年協会の研究所に始まる。一九二八年か二九年である。ちょうど一九三〇年協会展がフォービズムの運動で盛んだった頃である。代々木山谷の住宅地の中で小さな画室であったがフォービズムに共鳴する若い研究生がしっくりした気持でまとまり、家庭的なふんいきを持っていた。[中略] 絵具の安い時代で和製の絵具を使う者などなく、(今西中通は)ルフランの絵具を大胆にしぼり出して描いていた。合評会があり講演会が盛んに開かれた。そして前田寛治がリアリズムを話し、里見勝蔵がセザンヌのコンポジションについて語り、新帰朝の中山巍がフランスの画壇の状勢(ママ)を知らせた。小島善太郎・林武・中野和高・宮坂勝・野口弥太郎そういった人たちに指導されてがむしゃらな勉強をしていた。(カッコ内引用者註)
  
 この1930年協会洋画研究所は、同所にあった工藤信太郎Click!のアトリエを借用していたもので、彼の困窮する生活を救済する目的があったともいわれている。
 同洋画研究所の講演会を記録した貴重な写真が、1949年(昭和24)に建設社から出版された外山卯三郎Click!『前田寛治研究』Click!に掲載されている。1928年(昭和3)5月19日(土)に行われた同研究所の第1回講演会における記念写真で、会場は代々木山谷小学校(現在ある同名の小学校とは別)だった。この写真には、文中に登場する前田寛治Click!里見勝蔵Click!木下孝則Click!小島善太郎Click!野口彌太郎Click!外山卯三郎Click!林武Click!藤川栄子Click!(写っているのはおそらく本人)、笠原吉太郎Click!(?)、鈴木亜夫Click!清水登之Click!など、拙サイトでもおなじみの人々が写っている。
 この講演会には上記の中間冊夫はもちろん、小石川の川端画学校Click!に通っていた若き日の今西中通も参加していただろう。それを前提に記念写真を改めて見なおすと、最上段=最後列の右からふたりめに、画学生時代の明らかに中間冊夫とみられる学生服の男子がとらえられている。そして、その左横、右から3人めに口もとを引き結んで帽子をかぶった、やはり学生服姿の今西中通とみられる人物が写っている。この講演会が開かれた当時、ふたりはまだそれほど親しくはなかったかもしれないが、お互い学生服を着ている受講者同士ということで、隣りあって記念写真に納まったのかもしれない。
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 今西中通は、1934年(昭和9)に上落合から西隣りの江古田1丁目81番地へと転居している。おそらく上落合の借家の家賃が払いきれず、より家賃の安い井上哲学堂Click!近くの鶏舎を改造した長屋へと引っ越しているが、雨が降るといまだ鶏臭が鼻をついたという。

◆写真上:三輪通りに面した上落合851番地のアトリエ内を描いた、1931~1932年(昭和6~7)ごろ制作された今西中通『画室の一隅』。
◆写真中上は、近くの喫茶店の娘を描いた1931年(昭和6)制作の今西中通『フサ像』。は、同年にアトリエ内で制作されたとみられる同『サザエ』。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる三輪通りに面した下落合851番地の今西中通アトリエ。は、アトリエで描かれたとみられる1931年(昭和6)制作の今西中通『花など』。は、同じく1931年(昭和6)制作の同『花』。
◆写真下は、1933年(昭和8)に制作された今西中通『卓上静物(小鳥)』。は、妙正寺川沿いの住宅街を描いたとみられる1930年(昭和5)ごろ制作された連作の『雪景色』Click!は、1928年(昭和3)5月19日に開かれた第1回講演会の講師と参加者の記念写真。
おまけ
 今西中通の素描に、連作「ティールーム」というのがある。その中の1枚、1933年(昭和8)に描かれた『TEAROOM』に店名らしい「BRANKAI(ブランカイ)」という名称が見える。これが、フサのいた喫茶店の名前なのだろうか? 恐竜ブームの中、店主がマニアで1914年(大正3)に公表された、当時は世界最大の竜脚類だったタンザニアのブラキオサウルス(ブランカイ)にあやかり、大きな店に成長するよう名づけたものだろうか。
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大正末に連続した高田町の大火。 [気になるエトセトラ]

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 落合地域とその周辺域で、火災事件の史料を調べていると二度にわたる山手空襲Click!関東大震災Click!、落合第二小学校の失火による校舎焼失Click!、ピクニックにやってきたハイカーたちの火の不始末による西坂・徳川邸Click!周辺の草木火災Click!相馬孟胤邸Click!神楽殿炎上事件Click!などが印象に残る。戦争や大地震による大規模な火災はともかく、なにごともない平常時に町内の一画がすべて延焼してしまうような大火事は、少なくとも落合地域では確認できない。
 ところが、下落合の北東側に隣接している豊島郡高田町Click!では、地域全体が焼失してしまう大火事が連続して二度、大正末に記録されている。この大火事については、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)の記述で読んでいたはずだが、それほど印象には残らなかった。それが、想像以上の大きな火事だったのに改めて気づいたのは、まったく地域ちがいの資料に高田町大火について触れている記録を、何度か目にしてからだ。同大火は、どうやら東京市街の各地から遠望されていたようだ。
 特に、1926年(大正15)3月15日夜間の火災はことさら大きかったらしく、わたしがまったく地域の異なる浅草や向島の地域資料に目をとおしていたときにも、高田町大火の記述を見つけて驚いた。その記述では、著者が眺めていたのは麻布区(現・港区)の永坂町からだったが、郊外の高田町とは8km近くも離れている。それが麻布区からはっきり視認できるほど、ひとつの町内域が全焼してしまうほどの大火だったようだ。
 この大火を眺めていたのは、もともと向島の長命寺桜餅Click!言問団子Click!の少し北側、大学対抗レガッタのゴール近くに建っていた、大倉喜八郎Click!の別邸に住んだ息子の大倉雄二だ。大火の当時は、向島から麻布へ一時的に転居して住んでいたことから、たまたま目撃することになった。1985年(昭和60)に文藝春秋から出版された大倉雄二『逆光家族―父・大倉喜八郎と私―』から、麻布時代の証言の一部を引用してみよう。
  
 永坂上という芝、赤羽から品川の方まで見渡せる場所がら、そのころ多かった仮建築の火災をいくつか見ていたのだろう。ある寒い夜、北の空がほんのり小さく紅く、それがだんだん拡がって来ると暗い坂の下から野次馬が登って来て騒いでいる。/間もなく町会の老人が火事を知らせる太鼓を打ちながら、「火事は巣鴨」とわざわざ闇を選んでくぐもった声で触れて歩き、濃い闇の中へ消えてゆく。そのころの新聞を調べてみると、豊島郡高田町(当時巣鴨に接していた)で六百戸焼ける大火の記事が見えている。それならば大正十五年三月ということになるはずである。だから寒いと云っても外に出て見ていることが出来たのであろう。
  
 文中の「仮建築」とは、関東大震災で倒壊あるいは延焼してしまった建物のうち、本格的な復興建築を建てる前に、過渡的な用途として建設された建物=バラック建築のことだ。このときの大火では、豊島郡高田町(大字)雑司ヶ谷(字)水久保(のち日出町2丁目)の一帯を焼きつくしており、焼失家屋は600戸以上で罹災者は2,000人を超えていた。しかし、幸運にも死傷者はでておらず、罹災者は近くの高田第四尋常小学校へ避難している。
 1978年(昭和53)に豊島区立図書館から発行された『豊島の歳時記』(豊島区郷土シリーズ/第3集)によれば、1926年(大正15)3月15日の夜間に雑司ヶ谷水久保地域から出火し、最終的に鎮火したのは翌16日の昼ごろになってからのことだった。したがって、翌朝になってからも麻布の永坂町にある坂上からは、高田町方面から上がる濃い煙が見えていたのではないだろうか。この大火を契機として、高田町では消防車両としてポンプ自動車を消防第一部に配置し、消火用の貯水池を新たにいくつか町内に設置している。
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 だが、上記の高田町雑司ヶ谷水久保で起きた大火は二度めであり、前々年の1924年(大正13)3月26日にも同じような大火が発生している。1933年(昭和8)の『高田町史』(高田町教育会)から、火災の様子を引用してみよう。ただし、『高田町史』Click!では二度めの火災と消防ポンプ車の配置の年度を1年ズレて誤記しており、『豊島の歳時記』(豊島区立図書館)や大倉雄二(『逆光家族』)の記憶と当時の新聞記事、あるいはのちに高田町町長へ就任する海老澤了之介Click!の記憶のほうが正しいと思われる。
  
 同十三年(大正13年)一月十七日、警視庁令丙第五号を以て、組織を部制に改められたので、従来の公設消防組を第一部とし、更に私設消防組砂楽連を第二部、保久会消防部を第三部、高田町青年団第六分団消防部を第四部とし、定員百五十四名となつた。折りから同年三月二十六日、水久保二百三番地の火災にて六百三十四戸を焼失し、其の損害七十九万四百円に及び、翌年(ママ:翌々年)三月同地に六百余戸の火災あり引続き火災多き故、施設の完全を期するの必要を痛感し、大正十四年(ママ:大正15年)十二月、第一部に自動車ポンプを備へ且貯水池数ケ所新設 (カッコ内引用者註)
  
 この記述によれば、1926年(大正15)の大火よりも、2年前の1924年(大正13)のほうが規模や被害が大きかったような印象を受ける。二度の大火とも3月に起きているのは、春先に多い強風が吹いていたせいで、新設の消防部隊が消火に手間どったものだろうか。春先は、西南から吹きつける風が多いので、ひょっとすると水久保から水久保新田(のち日出町1丁目)のほうまで延焼しているのかもしれない。
 水久保地域には大地主が数人おり、お互いが競いあうように棟割長屋を建てては住民に貸していた。関東大震災の被害で、家を失った市街地の住民が大挙して東京郊外へ押し寄せており、高田町も新住民の急増で住宅不足が深刻だった。そのニーズに目をつけた地主たちが、数多くの棟割長屋を建てては低賃料で貸しだしていた。
 棟割長屋同士の間隔は、わずか1~2mほどの路地空間しか設けず、できるだけ多くの家族を収容できるよう密に設計した建築だった。だから、ひとたび出火すればすぐに隣りの棟へと燃え移るような環境で、またたく間に大火となったものだろう。
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 水久保地域に多かった棟割長屋について、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』(私家版/非売品)から引用してみよう。
  
 水久保一帯は小さな、余り上等でない長屋が沢山立ち(ママ:建ち)並んで居た。この長屋を人々は呼んで、汽車長屋と云つた。間口二間位の家が、一棟五戸七戸続いて居つて、丁度汽車がつながつて居る様に見える。又人呼んで烏長屋とも云つた。屋根は古トタンで、その上にコールター(ママ:コールタール)が塗られてある。見るからに真つ黒であるから、烏長屋と云はれたのであらう。この町の開発者は木村栄太郎氏で、氏はどこからか古家を買つて来ては長屋を作る。こうして幾十幾百の長屋を所有した。西巣鴨の原定良君等もこうした長屋を所有して居た。(カッコ内引用者註)
  
 また、同地域は「久保」Click!という地名が示すとおり谷状の地形をしており、1913年(大正2)と1919年(大正8)の二度にわたり、大雨による床上浸水や洪水の被害にもみまわれている。海老澤了之介の記憶によれば、上記の洪水被害のときは水久保地域に舟を浮かべて、高田町役場が用意した炊きだしの握り飯を各戸に配ったという。
 このような街並みだったので、1軒が火をだせばたちまち街全体に拡がり、ひとたまりもなかったのだろう。現在の地下鉄や高速道路が走り、サンシャインシティの南側に展開する豊島区役所をはじめ高層ビルが林立する同地域(現・東池袋)の風情からは、まったく想像もできない当時の光景だ。ただ、丹念に街を歩いていると、昔の細い路地が残り大谷石の築垣や階段、古い黒ずんだコンクリートの縁石や塀を発見することができるが、洪水や大火の痕跡はもはやどこにも存在しない。
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 目白中学校Click!の美術教師だった清水七太郎Click!は、高田町雑司ヶ谷の水久保245番地に自邸Click!があった。ときどき、同僚の英語教師で親しかった金田一京助Click!を誘い、雑司ヶ谷墓地Click!を抜けて水久保の家までいっしょに帰っている。清水七太郎が日記を残していれば、大正末の二度にわたる大火について、なにか書き残している可能性が高い。ひょっとすると、雑司ヶ谷墓地が近かった自邸も、なんらかの被害を受けているのかもしれない。

◆写真上:東池袋に残る、昭和初期ごろと思われる狭い路地のひとつ。
◆写真中上は、1921年(大正10)と1932年(昭和7)の1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷水久保地域。後者の地形図は、豊島区の成立とともに町名変更が行われている最中のもの。は、同地域に残る大谷石の古い築垣と階段。
◆写真中下上左は、1985年(昭和60)に出版された大倉雄二『逆光家族―父・大倉喜八郎と私―』(文藝春秋)。上右は、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)。は、清水七太郎の旧邸跡(旧・水久保245番地)あたりから眺めた水久保地域の現状。は、首都高速道路や都電、地下鉄などが走る現在の同地域。
◆写真下は、同地域に建つ豊島区役所(としまエコミューゼタウン)が入ったブリリアタワー池袋。は、1924年(大正13)3月26日の大火で火元となった水久保203番地の現状。は、水久保203番地の跡地へ立とうとすると高層ビルの谷間になってしまう。

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雑音や音楽で読書がはかどる喫茶店。 [気になるエトセトラ]

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 初めて喫茶店に入ったのは、いつごろのことだろうか? もの心つくころから数えれば、膨大な軒数になるのだろう。デパートの喫茶部はもちろん、親に連れられて入った日本橋や銀座あたりの喫茶店もあったのだろうが、おぼろげな資生堂パーラーClick!を除けばほとんど憶えていない。むしろ、デパートの食堂Click!のほうが印象的だった。
 高校時代は、学校帰りに制服のまま喫茶店へ入り、悪友がいたりするとタバコをくゆらしたりしていた。当時は、いまとちがって鷹揚なもので、喫茶店のマスターもコーヒーClick!を運んできたときに「こらっ、ダメだぞ」ぐらいの注意はするが、たいていは「オトナ」のすることに興味がある年齢なのがわかっているので、「しょうがねえなぁ」ぐらいで見逃してくれた。いのまように、いつまでも親がかりが抜けないまま、杓子定規に子どもを一定のワクや規格へ無理やりはめこもうとするような時代ではなかったのだ。
 主要駅の駅前や公園には、ベトナム戦争に忌避感や嫌悪感を抱いた米国のヒッピーをマネて、和製ヒッピーがシンナーのビニール袋かなにかをふくらませているような時代だった。また、日本じゅうをさすらうフーテンが出現し、あちこちの路上や橋下、公園のベンチなどで寝泊まりしていた。彼らはホームレスとはまた異なり、国内外を問わずあちこちを彷徨する、多くは管理を嫌う“現実逃避”の鋭敏な若者たちだったろう。
 いや、別にヒッピーやフーテンでなくても、若い子たちの間では「どこか遠くへいきたい」「知らない街へいってみたい」と、からめとられた日常生活から脱出する低コストな国内旅行が大ブームとなり、特に多くの若い子たちが方角でいえば寂寥感のある「北国」Click!をめざしては、“さすらい”のマネゴトをしに出かけていった。そんな、落ち着かず尻のすわらない漂泊時代(あくまでもマネゴトなのだが)の中にあってみれば、高校生がたかがタバコを吸ったぐらいで目くじらを立てなくともいいだろうと、喫茶店のマスターが「しょうがねえなぁ」で済ませてくれたのもわかるような気がする。クルマのハンドルと同じで、“遊び”や余裕のない人間あるいは社会は、どこかで大きな“事故”を起こす。
 余談だが、最近、人が寝っ転がるのを拒絶するベンチを、公園や街のあちこちでよく見かける。いまやヒッピーやフーテンはいないので、おもにホームレスなどの路上生活者や泥酔者をベンチで寝させないようにするデザインなのだろうが、どこかとても非人間的な臭いがする。ベンチに、ほぼひとりがけの間隔でアームや仕切りを設置して、ひとりずつ座る以外に姿勢がとれないような設計になっている。
 少し前までは、街中や公園のベンチで飲みすぎか徹夜マージャンなのか、寝不足のサラリーマンが横になったり、子どもたちが寝そべってマンガを読んだりしていたのだが、いまではそれも許容されない時代なのだろうか。店舗前の私有ベンチならともかく、公共の場所に置かれたそのような寝そべり拒絶ベンチを見かけると、ベンチぐらいどのような使い方をしてもいいじゃん、それほどのささいな自由も奪われていくのかと、昨今の窮屈で狭量な社会環境に嫌気がさす。また、そのような管理に馴れてしまい、「おかしい」「なんか変だぜ」と感じない人間が増えているのにも愕然とする。
 さて、そうそう、喫茶店の話だった。学生時代になると、がぜん喫茶店の利用率は大幅にアップする。議論にしろ読書にしろ、講義サボリにしろ、あるいは“彼女”にしろ、とにかく喫茶店がなければはじまらないのだ。それを考えると、いまの学生たちはどこへシケこんでいるのだろうと不思議になるが、いつか子どもたちに訊いたら大学が用意したラウンジや喫茶室、学食兼喫茶店のようなところを利用しており、キャンパスからはほとんど出なくてもすべて用が足りるような環境らしい。なるほど、大学が管理運営する「安全」な「喫茶店」なのか。これでは、学生街の喫茶店はつぶれるばかりだったろう。
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 わたしの場合は、ひとりだとJAZZ喫茶Click!が多かったが、友だちと一緒のときはそうもいかず、ふつうの喫茶店を利用していた。いまでは思い出せないほどの、他愛ない議論や無駄話、世間話、恋愛話などをしていたように思うが、相手が“彼女”だとけっこういろいろ憶えているものだ。JAZZ喫茶では、おもに本を読んでいた憶えがあるのだが、それがなんの本だったかまでは憶えていない。あのとき、コーヒーClick!をすすりながらあの本を読んでいた……というような情景は、あとからの都合のいい追憶であって、実際は大型スピーカーから流れるサウンドにボーッと耳を傾けていただけだったのかもしれない。
 わたしより、ひとまわり以上も年上の大空望という人は、街の喫茶店で読書三昧をしていたようで、当時のわたしなどとても足もとにも及ばないような量の本をたくさん読んで、そして記憶している。彼は、わたしと同じ東日本橋が故郷の人なのだが、通っていた喫茶店も日本橋を中心としたエリアに多いようだ。文藝春秋企画出版部から刊行された、大空望『東京下町 あの日・あのとき』(2015年)から少し引用してみよう。
  
 私が一人店に入ったのは、人形町地下鉄出口横にあった「人形」という店である。私はそこで井伏の『鯉』を読んだ。大きなものに従う魚の習性を捉えたものだ。この年はこのようなものだったが、翌年から俄然はまり出す。/まず両国緑町、相撲用品店二階にあった「阿亀堂」、ここは一方が一面硝子張りになっているので街路を見下ろす形となる。街路樹は楓だから秋ともなれば赤く色づく。言ってみればA・シガ―の『街路』の詩人の夢想を思わせる風景である。駅の北側には昔野菜を扱う市場があったから正に『ヴァニティ・フェア(虚栄の市)』と言って良かろう。ここで私はニーチェの『ツァラトゥストラ』と小松左京の『果しなき流れの果てに』(ママ:『果しなき流れの果に』)を読んだ。清澄通りの「コロニア」で『旧約聖書』、京葉道に戻って緑町の「ピース」ではサドの『悪徳の栄え』とドストエフスキーの『白痴』を、更に「コロニア」前の「嶋根」では芥川の『三つの窓』『河童』『蜃気楼』『枯野抄』、漱石の『猫』、ゴーゴリの『タラスブリバ』『ディカーニカ近郷夜話』『死せる魂』等を読んだ。(カッコ内引用者註)
  
 この方はすごい人で、学生時代にそれぞれ喫茶店で読んだ本を、店別でみんな記憶しているらしい。喫茶店で本を読んでいて、なにか印象的なエピソードでもあれば、あるいはJAZZ喫茶で好きなアルバムをリクエストして、それをBGMに心地よい読書をしていれば、なんとなく読んでいた本の印象が薄っすらと浮かんだりするけれど、ふつうの喫茶店でよんでいた学生時代の本を何十年もたってから思いだそうにも、わたしの場合はどだい無理だ。
 それでも印象に残っているのは、学生時代にアルバイトから早めにアパートへ帰れた日、目白通り沿いにあった喫茶店でコーヒーを飲みながら、古本屋で手に入れた野間宏Click!『青年の環』Click!(河出書房新社版)の第3巻ないしは第4巻を読んでいて、強烈にのどが渇きアイスコーヒーを追加注文した憶えがあることぐらいだろうか。
 同長編小説は、焼けつくような真夏の大阪を舞台に、100人をゆうに超える登場人物たちが物語を往来(いわゆる「全体小説」)し、特に陰謀をめぐらす「田口」の企図が、主人公の視点からはなかなか見えてこない……というような、読み手にジリジリとした焦燥感を抱かせるような展開なので、読み進めていくうちにのどが冷たいものを欲するようになるようだ。ちなみに、この喫茶店はすでになく、どのような店名だったかも憶えていない。
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 店名は憶えているけれど、読んだ本はすっかり忘れているのが、横浜の野毛にあったJAZZ喫茶「ちぐさ」Click!「ダウンビート」Click!だ。特にダウンビートはイスの座り心地がよく、読書を長時間つづけてもお尻が痛くなった記憶がない。「ちぐさ」は、確かスピーカーも近めな木のイスで、長い間座って本を読んでいると尾骶骨あたりが痛くなって疲れたが、「ダウンビート」ではそんなことはなかった。確か、誰かの小説かエッセイを読んでいたと思うのだが、時間がたちすぎて作者の名前や書名は出てこない。
 JAZZ喫茶の大きな音量の中で、あるいは喫茶店のお客たちがざわめく中でも、不思議と読書には集中できた。なぜか、静かなシーンとした空間での読書よりも、けっこう大きめな音楽ないしは「雑音」があったほうが、集中力が増してページ数を稼げていたような気がする。前掲の大空望も、『東京下町 あの日・あのとき』の中で同じようなことを書いている。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 読書するフィールドとしての茶店は奥が深い。まず静か過ぎない。必ず人の話し声や音楽が響く。これが無音より活字に集中できる因子となるのだ。たいがいの本は図書館からの借り物だ。だったら閲覧室で読めば宣ろうと言うだろうが図書館は静か過ぎて逆に活字に集中できない。時には頁から視線を離して窓の外の人通りを見送ったりする余裕がないと読んでいて面白くない。また喉が渇けばコーヒーやお茶が欲しくもなろう。さて緑町はこれくらいにして次は人形町だ。商品取引所近くの「快生軒」は大正の昔から続く老舗で年代を利かせた味のコーヒーが旨い。
  
 少し前に、アトリエClick!に集まったマヴォイスト仲間の雑音の中で、村山知義Click!がものすごいスピードで読書をしていたという住谷磐根Click!の証言をご紹介したが、同じように雑音があるからこそ集中力が増して、かえって読書がはかどるような気もするのだ。
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 大空望の文中に登場している、日本橋人形町の「快生軒」Click!(1919年創業)は、104周年を迎える喫茶店の老舗だが、おそらく曽祖父母の世代から家族で立ち寄っていた店なのだろう。少し前まで、このご時世に逆らって「全席喫煙」可を押しとおしていたのだが、さすがに新型コロナウィルス感染症禍のさなかの2020年には、「全席禁煙」に変わってしまった。今回のパンデミックがひとまず終息したら、再び「全席喫煙」可にもどるだろうか。

◆写真上:こういう空間には、たいてい東郷青児の絵が架かりクラシックが流れている。
◆写真中上は、街で見かけた寝そべりをあらかじめ拒絶するベンチ。は、少なからずおしゃべりなどの雑音があったほうが読書に集中できる喫茶店。
◆写真中下:喫茶店でも、あんまりオシャレすぎるところはどこか落ち着かない。
◆写真下は、文藝春秋企画出版部から刊行された大空望『東京下町 あの日・あのとき』(2015年/)と、同『昭和あのころ』(2017年/)。は、わたしもたまに出かける日本橋人形町の「快生軒」だが、2020年から「全席喫煙」をやめたのがどこかさびしい。

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逆さまで「踊る」上落合のマヴォな住谷磐根。 [気になる下落合]

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 上落合186番地の村山知義アトリエClick!で、岡田龍夫や高見沢路直(本名:高見沢忠太郎=田河水泡Click!)らとともに、逆さまで踊っていたマヴォな画家のひとりに住谷磐根がいる。彼もまた、マヴォや三科が盛んなころ上落合に住んでいた。
 住谷磐根は群馬県の出身だが、同じマヴォ仲間で画家志望の戸田達雄もまた同県出身だ。住谷は、石井柏亭Click!らが結成した日本水彩画会で1921年(大正10)に作品が入選すると、東京へやってきて小石川の川端画学校Click!へ入学している。戸田は東京へ出ると、一時は丸ノ内にあったライオン歯磨広告部の画室へ入社するが、のちに独立して絵本やグラフィックデザインの領域でも活躍している。
 住谷磐根は、上落合のどこに住んでいたのかは不明だが、佐伯祐三Click!の「親友」を自称する阪本勝Click!と上落合で一時期同居していたらしい。その様子を、1970年(昭和45)に日動出版から刊行された『佐伯祐三』(1983年改訂9版)から引用してみよう。
  
 私は東大在学中、転々と下宿をかえたが、一時上落合で自炊生活をしていた。自炊生活といっても男一人でできるものではなく、だれかとの共同生活を必要とした。その相手は、仙台二高の先輩で、現在同志社大学総長の住谷悦治君の実弟、住谷磐根だった。彼は私よりもっと若い画家だったが、人柄のよい人物だったから、仲よく自炊生活をしたものである。
  
 これは、同書が出版された当時、生存していた人物の実名をあげて書かれているので、おそらく佐伯のエピソードClick!とは異なりウソではないのだろう。早逝したマヴォの三浦束三が、上落合742番地に住んでいた尾形亀之助Click!の隣家で暮らしていたのと同様に、マヴォの仲間たちは上落合東部のあちこちに散って住んでいたとみられる。
 住谷磐根は、初めて村山知義Click!の作品に接したときの衝撃を次のように語っている。2012年(平成24)に神奈川県立近代美術館葉山分館で開催された、「すべての僕が沸騰する/村山知義の宇宙」展図録に収録の、やまさきさとし「芸術は空間のクリエイションである―童画家TOMと童謡童話作家籌子―」の証言部分から引用してみよう。
  
 「画家矢橋公麿(丈吉)に連れてゆかれ、文房堂の意識的構成主義の展覧会をみた。その力づよいテーマと画風にぼくは驚倒、仰天した。そのエネルギーのすごさ、その構成と絵ともいえぬ材料とほとばしる力にびっくりしたし、また、矢橋にさそわれて三角の家にも行き、これまた驚愕した。そこには一味もちがう絵が掲げてあり、描写風の写実の絵もあって、こんな絵を画く人があんな絵も画くという所に感動したのです。」/「三角の家には絵も沢山あるが、本が天井までぎっしり積み上げられ、感動した。村山という人はみんながそこら辺で雑談したり、タムロしてお茶をのんでいる傍で、そんな脇で、静かに本を読んでいるのだが、ワイワイ騒いでいる連中に静かにせよ、とは一言もいわないで、いつのまにか外国語や日本語の500ページ、800ページの本を読み了えるという所があり、その読書量、その時間の無駄のなさにぼくはびっくりして、世の中にこんな人がいるのかとたまげてしまった。」
  
 神田文房堂Click!の展覧会場で村山知義の作品に感激していたころ、住谷磐根は「三角の家」で逆さまになって「踊る」ことになるなど思ってもいなかっただろう。
住谷磐根「唯物弁証法的イワノフ・スミヤヴヰッチ」1923.jpg
住谷磐根「工場に於ける愛の日課」1923.jpg
住谷磐根「連動と機械の構成」1924.jpg
 1923年(大正12)になると、住谷磐根は村山知義Click!柳瀬正夢Click!尾形亀之助Click!、門脇晋郎、大浦周蔵らが結成したマヴォ(Mavo)へ急接近する。“マヴォ宣言”とともに、同年7月にはマヴォ第1回展覧会が浅草の伝法院Click!で開催されている。明治期には、伝法院屯所=警視庁が置かれ市中取り締まりの中心だった同院で「人騒がせ」な展覧会をやるのも、おそらく神田っ子の村山あたりが思いついたアイデアではなかったろうか。
 住谷磐根は、同年の第10回二科展にイワノフ・スミヤヴィッチの筆名で『唯物弁証法的イワノフ・スミヤヴヰッチ』を出品して入選するが、マヴォ仲間から抗議を受けて出品をとり下げている。ちなみに、上掲の「村山知義の宇宙」図録では住谷の『工場における愛の日課』が入選したと書かれているが、はたしてどちらが事実だろうか?
 村山知義らマブォグループは、二科展の落選作を集め展覧会会場付近の通りを練り歩くデモンストレーションを行なった。住谷と村山は、より大々的に「二科落選歓迎移動展覧会」を企画するが、直前に警察から中止命令を受けている。この年の11月には、東京の寺院やカフェなど20ヶ所に作品を分散して展示する、マヴォ第2回展覧会を開催している。
 このころの住谷は、すでに髪を伸ばしておかっぱにし、ルバシカを着ながら上落合やその周辺を闊歩していただろう。当時の様子を、同図録に収録された滝沢恭司「小英雄はスタイリッシュ―ファッションに見るマヴォイスト村山知義の近代性―」から引用してみよう。
  
 ルバシカはまた、マヴォのメンバーが常用した衣服でもあった。岡田龍夫は「マヴォの思ひ出」の中で、当時流行のルバシカを着て下落合から中野、外山ヶ原(ママ)あたりを練り歩いたと回想しているし、戸田達雄に至っては、当時ルバシカや毛糸のセーターしかもっていなかったというのだ。また高見沢路直は、『マヴォ』6号(1925年7月)に出した「求婚広告」で、「容頗る美長髪にしてルバシカを着す」などと記して自己紹介した。(註釈記号略)
  
 「外山ヶ原」は、もちろん戸山ヶ原Click!の誤りだが、長髪にルバシカが彼らのユニフォームになっていた様子がうかがえる。また、高見沢路直(田河水泡)が周囲の女子たちから気味悪がられたものか、「求婚広告」Click!を出しているのが面白い。
村山知義アトリエ1923.jpg
マヴォ「踊り」1924.jpg
マヴォ「死と悪魔」「死の舞踏」第3幕舞台面1924.jpg
 1924年(昭和13)になると、住谷磐根は三科造形美術協会の結成に参加し、また関東大震災Click!によって壊滅的な被害を受けた東京の、「帝都復興創案展」へ“マヴォ理髪店”の建築デザインを出品している。また、住谷を含むマヴォイストたち6人が、自由学園Click!で行われた村山知義Click!村山籌子Click!の結婚式に参列し、マヴォの愛唱歌「サイヤンカネ」を合唱している。このころから、住谷は自由学園でほかのマヴォイストたちとともに、「踊り」の練習をしてやしなかっただろうか。
 このあと三科造形美術協会は解散し、村山知義がマヴォを脱退するころから、住谷磐根も同グループから離れていったようだ。住谷は、1926年(大正15)3月に西巣鴨町池袋993番地へ引っ越している。池袋御嶽社や子育稲荷社の近くだが、下落合2076番地Click!へ転居してくる前に刑部人Click!がアトリエをかまえていた池袋966番地と、道路をはさんで隣接していたと思われる位置だ。村山は、柳瀬正夢Click!らとともにプロレタリア文化運動に軸足を移していくが、住谷は数年後になぜか牧野虎雄Click!に師事するようになる。戦前は下落合604番地にあった牧野虎雄アトリエClick!へ、住谷は頻繁に訪ねてきているのではないだろうか。やがて、住谷は槐樹社が開催する展覧会や独立展に作品を出品しているが、マヴォ時代の表現とは似ても似つかない画面になっていた。
 1932年(昭和7)に、住谷は村山知義から肖像画の依頼を受けている。住谷の窮状を見かねた、義理がたい村山の配慮だったようだ。同画集に収録の、やまさきさとし「芸術は空間のクリエイションである―童画家TOMと童謡童話作家籌子―」から再び引用してみよう。
  
 (村山)籌子さんといえば、そう昭和7年に、知義から籌子さんのお母さんの肖像画を描いてくれといわれ、写真を借りて、それをみながら描いたのですが、絵は気に入ってもらえず、未完におわりました。今思うと、それは知義がぼくへの経済援助のつもりで依頼されたんですね。」この年に籌子の母、寛(ゆたか)は病死している。知義は岡内家の礼金を期待して依頼したのであろう。(カッコ内引用者註)
  
 住谷磐根は戦後、挿画に興味をもったのか童話や絵本も手がけている。そのあたりにも、童話絵本作家の村山籌子Click!村山知義Click!の影響があるかもしれない。
村山知義の宇宙展図録2012.jpg 高見沢路直(田河水泡).jpg
住谷磐根「丸ノ内風景」1936.jpg
住谷磐根「無錫場外」1938.jpg
 住谷磐根には、1974年(昭和49)に武蔵野新聞社から出版された『点描 武蔵野』という著作がある。ちょうど、わたしが高校生のころ小金井や国分寺をはじめ国分寺崖線Click!沿いのハケを、あちこち歩きまわっていた時期と重なるため、どこか懐かしい雰囲気のする本だ。描かれている挿画も同時代のものなので、いつか機会があったらご紹介したい。

◆写真上:おかっぱ長髪にルバシカ姿ではない、スーツを着た若き日の住谷磐根。
◆写真中上は、1923年(大正12)に制作された住谷磐根『唯物弁証法的イワノフ・スミヤヴヰッチ』。は、同年に制作された住谷『工場に於ける愛の日課』。は、1924年(大正13)に制作された住谷『連動と機械の構成』。
◆写真中下は、1923年(大正12)撮影の村山知義アトリエの内部。は、1924年(大正13)に村山アトリエで演じられたパフォーマンス「踊り」。下左が住谷磐根で、下右が岡田龍夫と上が高見沢路直(田河水泡)。は、同年のパフォーマンスで「死と悪魔」「死の舞踏」。いちばん上が村山知義だが、下にいる住谷磐根がどれなのかが不明。
◆写真下上左は、2012年(平成24)に開催された「すべての僕が沸騰する/村山知義の宇宙」展図録(神奈川県立近代美術館)。上右は、おかっぱにルバシカの高見沢路直。彼は、のちにのらくろClick!を主人公にした戦争漫画家になる。は、1936年(昭和11)に制作された住谷磐根『丸ノ内風景』。は、1938年(昭和13)に制作された同『無錫場外』。

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高圧線の鉄塔や鉄道を描く今西中通。 [気になる下落合]

今西中通「風景」1935①.jpg
 Pinkichさんよりいただいた、1985年(昭和60)に三彩社から出版された『今西中通画集』(限定500部)をていねいに見ていると、「これは落合風景ではないか?」と思えるような画面がいくつかある。それらは、だいたい今西中通Click!が上落合851番地に住んでいた1930~1934(昭和5~9)の間に制作されたタブローや素描だ。
 以前にもご紹介している、『落合風景』Click!というような明確なタイトルがふられておらず、暫定的につけられたものだろうか、『風景』Click!というようなタイトルの画面にも、落合地域を連想させる光景が拡がっていたりする。今回は、これまでご紹介してこなかった作品を中心に、今西中通の風景画を改めて観察・検証してみたい。まず、1935年(昭和10)に制作された『風景』(冒頭写真)から眺めてみよう。
 この前年、今西中通は上落合851番地(1932年より上落合2丁目851番地)から、すぐ隣りの中野区江古田1丁目81番地へと転居している。だが、井上哲学堂Click!のすぐ北側に位置する転居先から上落合の旧居までは、直線距離で1.4kmほどしか離れていない。江古田1丁目から上高田の耕地整理が終わったバッケが原Click!を突っきり、妙正寺川沿いをぶらぶら歩いてくれば、おそらく15~20分ほどで旧宅界隈にたどり着けただろう。つまり、江古田1丁目の鶏舎を改造した借家に転居後も、上落合に気になる風景モチーフがあって心残りだったとすれば、いつでも画道具を下げ徒歩ですぐにやってこられたわけだ。
 なぜ、1935年(昭和10)1月制作(サインの横に「1・35」の記載がある)の『風景』が気になるのかといえば、そこに西武電鉄Click!の線路沿いに並んで建てられていた、東京電燈谷村線Click!高圧線鉄塔Click!とみられる建造物が描かれているからだ。いまだ同線が敷設されていなかった大正期、この鉄塔は通常の尖塔型をしており、その姿は上落合725番地に住んでいた林武Click!『下落合風景(仮)』Click!(1924年)に記録している。だが、西武線が敷設されるのとほぼ同時期に、これらの鉄塔は沼袋駅あたりから東京電燈目白変電所Click!へと向かう下落合駅の西武線変電所Click!あたりまで、線路をまたぐ「円」の字のような形状の鉄塔に建てなおされている。
 の画面左上に黒々と描かれているのが、東京電燈谷村線の高圧線が張られた鉄塔だが、この画面全体が実景を写したというよりも、さまざまな建築物を“構成”したコラージュ風の作品のように見えるので、おそらく場所の特定は不可能だろう。同じフォービズムの画家でも、佐伯祐三Click!は非常に実景を尊重したリアルな描き方を、「下落合風景」シリーズClick!では一貫して採用しているので場所の特定は比較的容易だが、今西中通は“構成”に加えてより“暴れる”筆致で情景を捉えているため、ピンポイントで描画位置を特定するのが非常にむずかしい。高圧線鉄塔が描かれた『風景』は、上落合の各所で写生してまわったスケッチブックに残る風景のコラージュなのかもしれない。
 同画集の巻末で、林武は「今西君を憶う」(1948年)と題してこんなことを書いている。
  
 宵闇が迫る街はずれ、鉄道線路が冷く走っている。赤と青のシグナルが神秘なまでに蒼い薄闇の中に怪しく光って居る。赤と青の電気以外は蒼黒く混沌とした灰色で、タッチが惨憺と画面をのたうち廻っていた。/青年今西君は此の頃から人知れず大きな悩みを抱いていたであろう。宵闇の赤・青のシグナルこそ今西君の人生の未解決に対するシンボルであったであろう。彼は考えては考えあぐんで幾度か街のさすらいに、この街はずれの線路にさしかかってはシグナルの先に印象づけられたであろう。/或いは今一歩進んでこの冷い鉄路に頬をあてて見たかも知れない。今西君の仕事はその後色々に進展したが、彼は他の作家の様に器用には進まなかった。
  
林武「下落合風景(仮)」1924頃.jpg
高圧線鉄塔妙正寺川1938.jpg
高圧線中井駅.JPG
 林武が書いた上記の画面描写が、の『風景』(1935年)と同一のものではないが、翌1931年(昭和6)に制作されたタブローには『シグナル』()と題する作品がある。かつて上落合で暮らしていた林武は、その思い出のなかで「街はずれ」の情景がリアルに浮かんでいたのかもしれない。の『シグナル』にも、高圧線の鉄塔らしきものが描かれ、シグナルはその傍らに建っている。複線と思われる線路の向こうには、倉庫か商店、あるいは住宅街が拡がっている、当時の上落合界隈にはありがちな風情だ。
 もうひとつ、1931年(昭和6)の上落合時代に描いた『線路風景』()と題された素描作品も残っている。複線の軌道なのか、これから電車がホームへと入る手前の分岐なのか、線路が手前に2本描かれていて、そこを横断する踏切を描いた情景のようだ。踏切には、トラック(左端)や連なる荷車のようなものが、まるで子どもの絵のようにプリミティブに描かれており、周囲にはやはり高圧線の鉄塔や電柱、背景には住宅街などが描かれている。視点がかなり高いので、駅の階段か跨線橋からでも眺めた風景だろうか。
 このころの画家について、林武と同様に独立美術協会の会員のひとり高畠達四郎が思い出を語っている。同画集に収録された、「今西中通君の事」から引用してみよう。
  
 独立美術協会の初期の会員は、今こそ皆年とっておとなしくなっているが、会合すれば会の事や絵画論で喧嘩が始まり、勇ましいものであった。初期の審査は非常に厳しく、殴り合いの見られるのも珍しくなかった。これを見ていた記者の諸氏は驚いたと今でも語っているが、そうした雰囲気の中で今西や、森有材、熊谷登久平等は育っていった。/その頃擡頭したシュールレアリズムも会の中で尚だんだん盛んになり、会員福沢氏やこの派を守る若い連中がなかなか良い絵を画いていた。今西は何故かシュールを否定していた。今西の見た新興絵画の一部には美の中に入らない物があったにちがいない。独立もシュールが多くなった或る時、それに憤慨した今西や熊谷が、我々が会合していた「そば屋」の二階に酒気を帯びて大声をあげ跳び上って来た。皆びっくりして外に逃げたのを覚えている。
  
今西中通「シグナル」1931②.jpg
今西中通「線路風景」1931頃③.jpg
高圧線鉄塔下落合駅.jpg
 高畠達四郎が証言しているのは、今西中通が上落合で暮らしていた最後の年、1934年(昭和9)に起きた「なぐりこみ事件」のことだ。当時、シュルレアリズムに否定的な今西中通や熊谷登久平Click!たち「独立展改革論者」が、蕎麦屋の2階座敷で開かれていた独立美術協会の幹部会へ、かなり酔っぱらいながら乱入して暴れまわった出来事だ。それが影響していたのかどうかは不明だが、同年に開催された独立展では会員作品のみが展示されただけで、一般公募からの入選作は展示されていない。
 もうひとつ、“乗りもの”ではないが、1930~1932年(昭和5~7)ごろ今西中通の上落合時代に描かれた、『牛』()と題するタブローがあるのだが、これがどうしても牛には見えない。どう見ても馬の体型・骨格であり、上落合周辺に残っていた畑地の農耕馬か荷運び馬を描いたもののように見える。牛と馬の骨格はまったく異なっているので、今西のフォーブの筆でもここまでのデフォルマシオンはありえないのではないか。
 タイトルの『牛』だが、「午(うま)」=Click!と書かれていたものが、いつの間にかタテ棒が上へ突き抜けてしまい、「牛」に化けてしまったのではないだろうか。同時期の1931~1933年(昭和6~8)ごろに描かれた、今西中通の作品に『牛と車』()があるが、こちらは確かに牛の体型・骨格を写しているのが明らかだ。しかし、の『牛』はタイトル文字の読みちがいか、あるいはの作品が残っていたため、それに引きずられて付与された暫定的なタイトルのひとつではないだろうか。
 上落合851番地のあたりは、区画整理が行われ宅地開発が進んでいたとはいえ、いまだ農村の面影が色濃く残っていただろう。田畑を耕す家畜や、街道筋をいく荷運びの牛馬がそれほどめずらしくはなかった時代だ。今西中通のアトリエから南西へ150mほど歩けば、キングミルクClick!の原乳を採取していた牧成社牧場Click!があり、数多くの乳牛が飼われていた。もっとも、当時の牧場の乳牛はホルスタインClick!が主体であり、今西中通がの『牛と車』で描く牛は、より大型の品種である荷運び用の牛だろう。
今西中通「牛」1930-32④.jpg
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今西中通「牛と車」1931-33⑤.jpg
 さて、今西中通は代々幡町代々木山谷160番地にあった、1930年協会研究所Click!に通っていた時代がある。1928年(昭和3)から、上落合851番地へと転居してくる直前までの時期で、同研究所では林武Click!や死去寸前の前田寛治Click!などとも交流があったとみられる。当時の様子や、上落合のアトリエ内の様子などを、また機会があればご紹介したい。

◆写真上:上落合から転居後の、江古田時代に制作された今西中通『風景』()。
◆写真中上は、1924年(昭和13)に妙正寺川沿いに建つ東京電燈谷村線の高圧線鉄塔を描いた林武『下落合風景(仮)』。は、1938年(昭和13)の妙正寺川の氾濫時に撮影された同鉄塔。は、目白変電所の廃止まで残っていた中井駅の鉄塔。
◆写真中下は、1931年(昭和6)の上落合時代に制作された今西中通『シグナル』()。は、1931年(昭和6)ごろに制作された同『線路風景』()。は、西武線の線路を跨ぎ下落合駅まで延々とつづいていた「円」字型の高圧線鉄塔群。
◆写真下は、1930~1932年(昭和5~7)ごろに制作された今西中通『牛』()。どうしても牛の体型・骨格には見えず、わたしには午(馬)のように見えてしまうのだが……。は、昭和初期には落合地域でもよく見られた荷運び用の牛(提供:小川薫様Click!) は、同じく1931~1933年(昭和6~8)の上落合時代に制作された同『牛と車』()。
おまけ
小野田製油所Click!が面する目白通り(葛ヶ谷街道Click!)に停車する、ごま油を運ぶ大きな牛と頑丈な荷車(写真上)。目白通りに歩道が設置された、昭和初期ごろの撮影とみられる。また、大正末に撮影された荷馬車(写真下)で、当時は牛馬による輸送がめずらしくなかった。
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NGでも進めるしかない生放送の下落合ドラマ。 [気になる下落合]

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 あけまして、おめでとうございます。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
  
 草創期のTV番組は、何からなにまでが生放送だった。そのうち、フィルムで撮影された番組やCMが流れはじめ、映画もTVで放送されるようになると、生放送の番組は減っていった。やがて、フィルムではなくTV専用の記憶媒体であるビデオが開発・導入されると、生放送は一部のニュースやスポーツ番組などを除き、ほとんどが消滅した。
 すべてが生放送だったTVの時代を、もちろんわたしは知らないが、それでも子どものころにはニュースやスポーツをはじめ、舞台中継、バラエティ、歌番組、CMなどで生放送がずいぶん残っていたように思う。だから、録画と生放送とのスイッチングがうまくいかなかったり、放送機材の人為的な操作ミスも多く発生し、放送が途切れて「しばらくお待ちください」という画面表示をエンエンと見せられることも少なくなかった。
 いま風にいえば「放送事故」ということになるが、昔のTV番組は現在からみれば「放送事故」だらけだった。わたしが子どものころ、よく憶えている「放送事故」は、舞台中継(新派Click!だったと思う)で書割Click!の前に置かれた大道具の灯籠(もちろん板でこしらえた平面の)が、なにかの拍子にバタンと倒れて客席の失笑をかっていた場面とか、芝居で尾上梅幸だったか松緑だったかは忘れたが、台詞を忘れて一同ダンマリ状態になってしまい客席がザワついた舞台中継などがあった。これらは、舞台の上演事故であるとともに、同時中継していたTV局の責任を問われない「放送事故」でもあったろう。
 生放送の番組CMで、確かインスタントカレーだかビスケットの宣伝だったろうか、なにかの拍子にお姉さんの手か腕が、テーブルへ山のように積まれた商品パッケージに触れてしまい、それがバラバラに崩れ落ちてしまった場面や、CM中のお姉さんの前を汚いカーキ色のジャンバーを着た、イヤホンマイクのおじさんが平然と横切ったりと、いまでは考えられないような「放送事故」が、子ども心にも面白かったのを憶えている。
 TV草創期のドラマは、それこそ客席を前に舞台で演じるのとまったく同様、撮りなおし(取り返し)のきかない出たとこ勝負で一発勝負の世界だった。だから、セリフをまちがえようが忘れようが、「NG」でテイク2→テイク3など存在しない時代なので、俳優たちは極度に緊張していたにちがいない。また、もしセリフをまちがえたりキッカケをしくじったりしても、そこで「はい、カット!」などありえないので、それをなんとか「NG」や「放送事故」にせず、台本の中へうまく溶けこませて、ドラマの展開を損ねないようにやりすごさなければならなかったろう。もっとも、わたしはすべてが生放送で放映されていた時代のドラマは、さすがに知らないけれど……。
 TVにビデオという、何度でも撮りなおしがきく記憶媒体が一般化し、編集作業があたりまえの時代になると、このような「放送事故」は激減することになるが、あらかじめ編集されたビデオ番組は安心して観ていられる反面、本来は出たとこ勝負でリアルタイムの緊張感がともなう生放送が得意だったTVというメディアの特徴が、どんどん薄れていったと感じるのはわたしだけではないだろう。しかも、同じようなことを論じるTV関係者の声も聞こえてくる。同時に、ビデオの編集段階ではさまざまな人間の意見や思惑が入りこみ、ときにはNHKのケーススタディのように、番組へ放映前に政治的な圧力さえかかるようになった。つまり、制作者ではなく第三者の“検閲”や“自主規制”が可能になったのだ。
 最近は、TVを観ることが少なくなったが、そのかわりネットの「放送」を観ることが増えた。それもリアルタイムで上演される芝居やライブコンサート、演劇(すべて新劇)、スポーツ、ウェビナー、ネットシンポジウム、各種イベントや講演会などが多い。つまり、TV用語でいえばライブの生中継番組というところだろうか。TVの「生放送」が減るぶん、それを補うようにネットのライブが増えているのが面白い。近ごろのTVは、丸ごとがメーカーや観光業界、店舗などスポンサーによるPR番組だったり、ただうるさいだけで内容のない“楽屋落ち”のバラエティ番組だったり、コスト削減のためか地元ではなく別の地方局へ丸投げの番組だったりと、まったく面白くなくて興味が湧かないのだ。
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 さて、TV草創期の「舞台中継」ならぬ「スタジオドラマ中継」の生放送(ライブドラマとでもいうのだろうか?)を、TV全盛期の1970年代になって一度だけ挑戦したとみられる番組があった。日本テレビの開局20周年を記念して制作された、下落合が舞台のグランド劇場『さよなら・今日は』Click!だ。1974年(昭和49)1月5日(土)の午後9時から放映された第14回「正月の結婚式」Click!は、ほかの回とは異なり下落合でのロケシーンは登場せず、すべてのシーンがスタジオのセットで演じられている内容だ。
 しかも、同作品のシナリオClick!と実際に放映されたドラマの内容を照らし合わせてみると、セリフやキッカケに「NG」が多く、それを繕うためにアドリブのセリフも少なくない。通常なら、「NG」の撮りなおしでテイク2となるはずが、そのままなんとかつづけて流してしまっている。ほかの回では考えられないような「NG」が、同回では頻発していることからも生放送ドラマの緊張感が漂ってくる。「NG」は俳優のセリフミスばかりでなく、放送室で操作するマイクのスイッチングミスや、演出・進行のセッティングミスなども加わり、26回つづいた同ドラマの中でも異色・異例の放送回となっている。
 出演者は、山村聰Click!浅丘ルリ子Click!、中野良子、原田大二郎、小鹿ミキ、栗田ひろみ、山口崇、緒形拳Click!、藤村俊二、山田五十鈴Click!森繁久彌Click!の11人にしぼられ、正月休みなのか原田芳雄Click!や大原麗子、林隆三、森光子Click!水野久美Click!など、その他の俳優陣は同回には登場していない。舞台なれしている森繁久彌に山田五十鈴がいて、撮影の場なれしている山村聰や浅丘ルリ子、緒形拳、山口崇がいれば、あとは何とかなるだろう……というような“読み”から、思いきって企画された生放送ドラマではなかったか。
 シナリオと照らし合わせて、具体的に「NG」の箇所をいくつか見てみよう。そもそも出演者たちは、台本どおりにセリフをしゃべってはいない。みんな好き勝手にセリフを改変して話しており、特に森繁久彌と山田五十鈴、山村聰はまったくセリフにないことまで話している。最初の「NG」は、アトリエの一部に増築した長男夫婦の部屋で、緒形拳がセリフをしゃべっているのに、途中でマイクが母家の居間に切り替わってしまうという、技術スタッフのスイッチングミスだ。シーン12で起きており、急いで元のマイクをONにもどしているが、緒形拳のセリフが数秒間ほど聞きづらくなってしまう。
 次もスイッチングミスで、緒形拳と小鹿ミキがアトリエ裏の庭でまだ演技をつづけているのに、アトリエの増築部屋にいる森繁久彌と山田五十鈴が酒を酌み交わすシーンへ突然切り替わってしまう。(正月の生放送なので、酒はホンモノが使われていたかもしれない) しかも、その場面に演技をつづける緒形の笑い声がまぎれこんでしまうので、俳優たちはすばやく移動しやすいよう近接したセットで演技をしていたことがわかる。
 このあと、森繁久彌と山村聰が座敷で会話するシーン17になるのだが、同シーンの後半は丸ごと台本には書かれていないアドリブらしく、森繁久彌の戦艦「陸奥」Click!に乗って「ハワイマレー沖海戦」に出撃したなどといういい加減なホラに対し、山村聰が「陸奥」は瀬戸内海にいてハワイにいったのは航空母艦Click!……などと、大ボケのやりとりが展開される。いまだ、戦争体験者がごく身近にいて、29年前の戦争がリアルに感じられていた時代だ。
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 つづけて、シーン22では山口崇がセリフをまちがえ、遺伝子の「優生学的」というところを「ユウソウ学的」といってしまい急いで訂正している。山口崇は医者の役なので、通常ならこのミスはありえず即座に「NG」となるはずだが、生放送では取り返しがつかないので、傍らの中野良子がすかさずセリフをかぶせてフォローしている。山口崇と中野良子は、2年前まで放映されていた平賀源内を主人公にしたNHKのドラマ『天下御免』では、林隆三とともに出演仲間だったので息があっていたのだろう。『さよなら・今日は』でも、この3者がそろうとセリフではなくアドリブっぽいやり取りが多く見られた。
 シーン27では、緒形拳がシーンを丸ごと勘ちがいしてセリフの入りをまちがえている。母家の居間で、2階から降りてきた中野良子と小鹿ミキが会話するのがシーン27だが、シーン29で話しはじめるはずだった緒形拳がセリフをしゃべりはじめてしまう。これは俳優の勘ちがいばかりでなく、シーン設定をまちがえた演出家や進行係のミスの可能性もありそうだ。緒形拳は、シーン29のつもりなので「なあ、路子~」としゃべりはじめたところに、2階から中野良子が「路子さん!」と降りてきてセリフがバッティングしてしまう。そして、ふたりの会話が終わると、なにもいわないのは明らかに不自然だと感じた緒形拳が、急いで「おおきに」と台本にはないセリフをつけ足している。
 最後はシーン33の「NG」で、山村聰がセリフの入りをまちがえている。居間に残った3人が、家族のゆくすえについてしんみりと語りあうシーンなのだが、中野良子のセリフがまだ残っているのに、山村聰が「ねえ……」と浅丘ルリ子に呼びかけてしまうミスだ。さすがに、山村聰は同じセリフを二度と繰り返さず、中野良子のセリフが終わるとわずかに間をとってから、何ごともなかったかのように次のセリフへと自然に移行している。自身が登場する最後のシーンなので、ホッとして少し気がぬけたものだろうか。
 第14回「正月の結婚式」のシナリオには、どこにCMをはさむかまで細かく規定・指示されている。CMが流れている間、俳優たちは次のシーンのセリフを再確認したり、セットの場所を急いで移動したりと、あわただしい時間をすごしていたのだろう。また、この回は朝から深夜まで正月の1日を描いているので、技術スタッフたちは照明の変更やカメラの調整、小道具や消えもの(正月料理)のセッティングなどで、ストップウォッチ片手にあたふたとスタジオを駆けまわっていたにちがいない。
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 いま、生ドラマをやろうとしても技術陣はともかく、撮りなおし自在の中で育った俳優たちの力量からして、とても無理ではないだろうか。そういう意味では、いかようにでも融通がきく芸達者な舞台俳優たちの演技が光った、記念的な昭和ドラマの代表作といえそうだ。

◆写真上:新宿の歌舞伎町Click!あたりから、1975年(昭和50)に撮影された西新宿一帯の風景。同ドラマが放映されていた1974年(昭和49)ごろ、下落合から遠望する淀橋浄水場Click!の跡地には、西新宿の高層ビルがいまだ4本しか建設されていなかった。
◆写真中上は、2002年(平成14)5月に森繁久彌が早大演劇博物館Click!へ寄贈した、『さよなら・今日は』第14回「正月の結婚式」の台本表紙()と寄贈印()。は、第14回の配役。は、シーン12のマイクミスがあった緒形拳のセリフ。
◆写真中下は、時間の関係からかカットされたシーンにかぶせ、緒形拳と小鹿ミキの会話でマイクの切り替えミスがあったシーン16。は、山口崇が「優生学」をつい「ユウソウ学」といってしまったシーン22。は、緒形拳がシーン29のセリフをいいはじめてしまい、なんとかアドリブで切りぬけた通常ではありえないシーン27。
◆写真下は、山村聰がセリフのキッカケをまちがえたシーン33の箇所。は、いちばん長尺の場面である居間での結婚式のシーン25で森繁久彌がアドリブで歌う場面のシナリオ。脚本では「陽気な歌」と指示しているが、森繁が歌いだしたのは「じゃりんこ(子ども)の歌」の『雨降りお月さん』(作詞・野口雨情/作曲・中山晋平)で、一同は“森繁節”で少ししんみりしてしまう。なお、台本への書きこみはすべて森繁久彌の手によるもの。は、同ドラマのロケーションがよく行われた御留山Click!(現・おとめ山公園)の西に接する相馬坂Click!と、1973年(昭和48)10月6日に放映された相馬坂での初回冒頭シーン。

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