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甘い落合柿を食べていて想うこと。 [気になる下落合]

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 昨年の晩秋、近所の方から美味しい落合柿Click!をいただいた。以前、聖母坂Click!に住んでいたころは、段ボールひと箱ほどの落合柿をいただいたこともあるが、最近では柿の木が減少したせいか、いただくのはめずらしい。
 落合柿は、土壌のせいだろうか甘くて舌になめらかで、スーパーなどで買う柿よりもかなり美味しい。そう感じるのは、ことさら富士山などによる火山灰土壌の関東ロームClick!に植えられ、その水で育ったせいか果肉や果汁などに味覚がフィットし、違和感をおぼえないせいなのかもしれない。江戸期から大正期にかけ落合柿の人気は高く、市場へ出荷される前に池上本門寺の「お会式」Click!用などの行事に使われるため、江戸東京市街の水菓子屋(果物商)Click!が収穫前に買い占めにやってきたという記録が残っている。
 わたしは、子どものころによその家の庭になる柿を採って食べたことはないが(近所の家の庭へドッジボールや軟式野球ボールを投げこみ、ご主人の大切な盆栽をメチャクチャにした憶えは一度や二度ではないが/爆!)、山に登ると生えている柿を見つけてはよく採って食べていた。人里の近くに通う登山道などには、鳥や獣が種を運んだものだろうか、みごとな柿が実をつけていることが少なくない。
 そんな、いかにも美味しそうなだいだい色に実った山道の柿を、何度食べたかは憶えていないが、たいがい口じゅうが痛くなるほどのひどい渋柿で、即座に道端へ吐きだすことになる。どれもこれも渋柿ばかりで、わたしは里山や登山道で甘柿に出あえたためしがない。きっと多くの里人たちは、実った柿の実を干し柿にして渋みを抜き、甘味を増してから保存するのが常識だったのだろう。
 うちの母親は、やや渋みが残る柿をいただくと、米びつに入れては渋みを抜いていた。米の中に埋めておけば、どれぐらいの期間で渋が抜けるのかは、子どものころのことで憶えていないが、まるで魔法のように甘くなるのには驚いた。やったことはないが、リンゴやバナナも米びつに入れておくと、甘味が増して美味しく食べられるそうだ。
 ちょっと余談だけれど、米びつへ無農薬あるいは低農薬の米を入れておくと、ときどき灰黒色のコクゾウムシが発生する。身体の表面が硬い虫なので、爪を立てて力を入れないとつぶせなくて厄介だ。しかも、1匹や2匹でなければ米びつをひっくり返して探さなければならず、手間がかかってたいへん面倒だ。これを短時間で取り除くには、ベランダや庭など陽の当たるところへ紙などを拡げ、米を薄く平らにならしておけばアッという間にコクゾウムシたちは逃げだしていく。この方法を教わったのも、下落合のご近所からだったろうか。米びつの米は、人間やコクゾウムシが食べるだけでなく、モノを熟成させて甘く美味しくする、なにか特別な“力”も備えているようだ。
 下落合に柿が少なくなったのは、なにもきのうやきょうの話ではないだろう。おそらく、関東大震災Click!の影響から宅地開発が活発化した、大正中・後期からだと思われる。下落合には、開発当初から西洋館や和洋折衷住宅が多く、その庭園に既存の柿の木はあまり似あわなかったろう。また、箱根土地Click!のように、従来から生えていた樹木をすべて伐採して宅地全体を整地し、改めて植木農園Click!で育てられた庭木(たいがいオシャレなカタカナ名の樹木)が植えられるような宅地販売で、柿の木が選ばれることはまずなかったにちがいない。目白文化村Click!のオシャレな屋敷街に、柿の木はあまり似あわない。
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旧タヌキの森.JPG タヌキの森跡.jpg
 耕地整理が行われ、宅地化が急速に進むにつれ、落合地域の特色のひとつだった落合柿の木も伐られつづけ、おそらく二度の山手空襲Click!で焼け死んでしまった木々もあったにちがいない。それでも、戦後しばらくの間、特に1970年代ぐらいまでは落合地域を散歩すると、あちらの家にもこちらの庭にも柿の木が見られた。ところが、21世紀に入るやいなや柿の木を見かけることが急減している。
 つい近ごろも、佐伯祐三アトリエClick!の近くにあったお宅の柿の木が、邸の建て替えとともに伐られてしまったし(このお宅からは毎年、美味しい落合柿をたくさんいただいた)、十三間通り(新目白通り)Click!沿いに残っていた、毎年軒下に干し柿を吊るしていた大正時代の、いかにも下落合らしい風情のある邸も、3~4年ほど前に建て替えられて柿の木が伐採された。いまや、わたしの家の近所では、大正期に建てられたままの和館の庭と、近くの畑の裏に植えられている柿の木、二瓶等アトリエClick!跡にある南側の柿の木、そして佐伯祐三Click!「下落合風景」Click!にも描かれた、庭木をほとんど残しながらみごとなリニューアルを実現した、例外的な高嶺邸Click!ぐらいでしか目にすることができない。
 それでも、もともとの一戸建てだった家屋が、新たな一戸建てとして建てかえられる際は、庭木の1本として柿の木が残される可能性もあるのだが、最近の住宅は建蔽率ギリギリの敷地いっぱいに建てられるケースがほとんどで、樹木を残すほどの庭木スペースさえ十分に確保できないことが多い。
 ましてや、大手ディベロッパーによる低層マンションの建設では、そんな期待をするだけムダだ。マンションの開発では、たいがい既存の樹木は根こそぎ斬られてしまい、跡にはなにも残らない。それでも、新たな樹木を植えてくれればいいのだが、利益率をできるだけ高めるために敷地いっぱいで、緑がほとんどゼロの低層マンションのほうが多いのが現状だ。新宿区の緑地減少では、落合地域がいつもトップなのが生活実感として腑に落ちる。
旧学習院昭和寮.jpg 学習院昭和寮.jpg
旧小川邸.JPG 小川邸.jpg
旧谷千城邸.jpg 谷千城邸跡.jpg
 21世紀に入り、落合地域の緑は減少しつづけてきた。たとえば、下落合(現・中落合/中井含む)の東部でもっともショックだったのは、オバケ坂Click!の上のタヌキの森Click!はもちろんだが、国際聖母病院Click!の裏に建っていた小川邸Click!が解体され、邸を囲むように生えていた濃い屋敷林が伐採されたときだ。いかにも昔日の文化村を思わせる風情の西洋館だったが、同邸は第三文化村の南外れへ大正時代に建設されている。また、近衛町の杉邸Click!学習院昭和寮Click!が解体され、南側に繁っていた樹木がなくなったのも非常に残念だった。特に後者は、バッケ(崖地)Click!自体を大きくえぐり取って崩してしまい、自然の地形まで大きく変えてしまうほどの大規模なマンション建設だった。
 また、下落合中部では西坂下の旧・谷千城Click!邸だった敷地の森がすべて伐採され、全体が整地されて大型マンションになったのが記憶に新しい。さらに、目白文化村では振り子坂Click!の途中に建っていた第二文化村の嶺田邸Click!が解体され、樹木を1本も残さずに再開発されたのが残念だった。近々、同所の安東邸Click!も解体されるとうかがっているので、目白文化村の緑は今後ますます減少しつづけるのだろう。
 下落合の西部に目を移すと、なんといっても刑部人アトリエClick!の屋敷林と、金山平三アトリエClick!の庭に繁っていた樹木の伐採が記憶に残っている。特に両アトリエとも、目白崖線のバッケ(崖地)に沿って建てられていたため、地下水が豊富で濃い樹林が帯状に形成されていた。その名残は、いまでも林芙美子記念館Click!でかろうじて目にすることができる。また、旧・刑部人アトリエ裏のバッケに繁っている樹林帯も、近々伐採されて低層マンション建設を前提に、再開発される計画があるとうかがっている。
 わたしが1970年代半ばに散策した当時の下落合に比べると、おそらく80%を超える樹木が失われていると感じている。緑だらけだった当時の風景が、まるで夢かウソのようだ。緑豊かな住環境を求めるには、もはや落合地域では追いつかず新宿区のはるか西、たとえば世田谷区の国分寺崖線Click!沿いの街あたりClick!まで転居しないと無理なのだろうか。
旧嶺田邸.jpg 嶺田邸跡.jpg
旧金山アトリエ.jpg 金山アトリエ跡.jpg
旧刑部邸.JPG 刑部人邸跡.jpg
 落合柿について書いていたのに、いつの間にかややグチッぽい記事になってしまったが、20年後(2040年すぎ)の都市部では、マラリアとデング熱が風邪と同様の扱いになるなどという怖い予測がある。すぐにも「地球の温暖化」や「気象変動」など一般論のせいにしがちだが、都市部の「温暖化」をもたらしいてる主因は、まちがいなく樹林の減少であり、東京じゅうの“近所”の再開発で根こそぎ伐採されつづけている樹々のせいだということを、改めて深く意識したい。もっとも、わたしは20年後に生きているとは思えないけれど……。

◆写真上:久しぶりにいただいた甘くて美味しい、わたしの舌によくあう落合柿。
◆写真中上は、リニューアル前の高嶺邸の柿だがいまも変わらず実をならせている。は、十三間通り(新目白通り)沿いにあった干し柿を毎年作っていた大正期の住宅。は、開発前のオバケ坂上のタヌキの森()と開発後の現状()。
◆写真中下:いずれも再開発のBefore&Afterでは、旧・学習院昭和寮Click!(日立目白クラブClick!)とその現状()。は、「八島さんの前通り」Click!に建っていた旧小川邸()とその現状()。は、旧・谷千城邸跡の敷地()とその現状()。
◆写真下は、第二文化村の旧・嶺田邸()とその現状()。は、旧・金山平三アトリエ()とその現状()。は、刑部人アトリエ()とその現状()。刑部人アトリエの再開発はテラスハウス形式の建物で、周辺の樹木がよく残されているほうだ。
おまけ1
 わたしが子どものころ、両親によく連れ歩いてもらった斑鳩(いかるが)の里には柿の木が随所にあり、特に法起寺Click!の遠景と柿のイメージは、切っても切れない印象として脳裡に焼きついている。だが、下落合に建つ大正建築の和館と柿の木も、とてもよく似あう。
大正建築と落合柿.jpg
おまけ2
 は、先年に解体された「清風園」だが、周囲の緑地はなんとか残されている。ただし、タヌキの森と同様に裁判沙汰になっているので、今後はどうなるかわからない。は、2葉とも四ノ坂の低層マンション建設現場で、樹木伐採前の屋敷林の様子(上)とその現状(下)。は、2葉とも解体直前の第二文化村の安東邸。(空中写真はGoogleより)
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低層マンション1.jpg
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安東邸(解体直前).jpg

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