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桜餅めざして隅田川を芝居散歩。 [気になるエトセトラ]

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 ずいぶん前だが、長命寺の桜餅を食べに出かけ、美味そうなので写真を撮るのをすっかり忘れてついペロッと食べてしまい、もぬけのからの容器Click!だけ写した憶えがある。それが魚の小骨のように、どこかにひっかかっていたので久しぶりに元祖・桜餅Click!を食べに……いや、撮影しに長明寺の桜餅(山本屋)界隈を散歩することにした。
 でも、長明寺の桜餅だけでは面白くないし、いまでは記事をひとつ書きあげるには明らかにテーマ不足なので、ここは芝居のエピソードだらけの界隈もついでに散歩することにし、ひとつ大川沿いの芝居めぐり散策という趣向で少し書いてみたい。歌舞伎座がガラガラで閑古鳥というニュースも流れるし、ここ数年は外出が少なく芝居がらみの記事をまったく書いてないので、久しぶりにまとめてウサ晴らしといきたい。
 ところで、「大川沿い」と書いたけれど、江戸期に大川と呼ばれていたのは、おもに両国橋(大橋)Click!あたりから下流だが、江戸後期になって「大川橋」が新たに架けられ、それが周囲から通称「吾妻橋」と呼ばれるようになってからは、浅草の大川橋から下流のことを大川と呼んでいる。明治以降は正式な名称の大川橋ではなく、なぜか通称だった吾妻橋(まぎらわしかったからだろう)が橋名になっているが、それまでは浅草界隈を流れる隅田川の流域は、「浅草川」ないしは「宮戸川」と呼ばれていた。
 さっそく、大川橋(吾妻橋)の西詰めから浅草寺Click!の横を通って川沿いを北上すると、すぐにも花川戸の街並みだ。江戸前期には、この街に幡随院長兵衛(本名:塚本伊太郎→塚本長兵衛)が住んでいたけれど、これもかなり以前になるが、拙記事では『浮世柄比翼稲妻(うきよがら・ひよくのいなづま)』(一幕物は「鈴ヶ森」Click!)の舞台に登場していた。もともとは、肥前唐津藩の藩士の家に生まれたが同僚と喧嘩をして斬り、上州へ逃れたあと江戸へもどってくる実在の人物だ。幡随院と呼ばれるのは、下谷神吉町の幡随院長屋にしばらく身を隠していたからだといわれる。
 花川戸を舞台にした芝居では、河竹黙阿弥Click!の『極附幡随長兵衛(きわめつき・ばんずいちょうべえ)』がいちばん知られているだろうか。浅草の顔役になってからの彼は、小頭36人を筆頭に町奴(まちやっこ)3,000人余を抱えていたといわれているが、旗本のドラ息子(旗本奴)たちが結成した「白柄組」と対立し、組の頭領だった牛込見附の水野十郎左衛門に殺され、江戸川(1966年より神田川)に架かる隆慶橋Click!のたもとで死体が発見されたと伝えられている。1650年(慶安3)のことで、長兵衛はまだ38歳の若さだったが、浅草清島町(現・東上野6丁目)にある源空寺の墓所で眠っている。
 もうひとつ、「鈴ヶ森」の後日譚として書かれた芝居に、鶴屋南北Click!の一幕物『俎板乃長兵衛(まないたのちょうべえ)』がある。これに対し、黙阿弥の『極附幡随長兵衛』は風呂場で水野のだまし討ちにあうので、以前から通称「湯殿の長兵衛」と呼ばれることが多い。ちなみに、最近は幡随院長兵衛は「ばんずいいんちょうべえ」などと発音あるいは表記する人がいるが、「い」が重なって発音しにくいため、昔から東京の(城)下町Click!では「い」をひとつ省略して「ばんずいんちょうべえ」と発音するのが一般的だ。
 少し時代が下った花川戸には、もうひとり有名な侠客がいた。もちろん、みなさんもよく“御存知”の助六だ。歌舞伎十八番の『助六』は通称で、芝居の筋立てによって外題はいろいろに変わる。助六は、浅草で開業していた義侠の米問屋助八がモデルだといわれるが、死後いつの間にか助六に変わったともいわれており、実像はハッキリしない。寛文年間(1661~1673年)ごろ、殺人事件に連座して小伝馬町Click!に入牢したあと、刑期を終えて釈放されたが、ほどなく病死したと伝えられている。山谷の易行院に伝承されている墓の塚名は、実在の「助八」ではなく「助六」とされている。
 江戸の元祖・桜餅が目的なので、今回は新吉原Click!(現・千束3~4丁目界隈)には寄らないが、助六が見栄をきる「三浦屋」は、有名な五大楼には含まれていない。五大楼(大籬=おおまがき)は「角海老」「稲本」「尾彦」「品川」「大文字」の五楼なので、三浦屋はもう少しランクが下の楼閣なのだろう。ただし、11代までつづいたとされる高尾太夫も、何代目かは不明な白井権八の恋人・小紫も三浦屋にいたので、主人の三浦四郎左衛門は「絶世の美女」宣伝や、「傾城」プロモーションがうまかったのかもしれない。
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 東京大空襲Click!のとき、多大な犠牲者がでた言問橋Click!をわたると、桜並木が美しい江戸名所のいわゆる隅田堤がつづき……じゃなくて、現在は無様な高速道路がのしかかっているが、すぐに「お染久松」の三圍稲荷(三囲稲荷:みめぐりいなり)が見えてくる。南北の『道行浮塒鴎(みちゆき・うきねのともどり)』については、すでに記事Click!にしているので詳しくは触れないが、COVID-19禍がつづいたこの3年間、これが大江戸の街ならば町家だけでなく旗本や御家人の武家屋敷も含め、ほぼ全戸に「久松るす」あるいは「お染御免」の札が貼られていたかもしれない。なお、三圍稲荷が登場する演目には、上記の芝居だけでなく白藤源太が登場する『昔形松白藤(むかしがた・まつにしらふじ)』(「身代わりお俊」)があるが、わたしは残念ながら一度も観たことがない。
 三圍稲荷のあるあたりの濹東一帯は、かつては小梅町(江戸期は向島・小梅村)といって、江戸の商家や武家の寮(別荘)が建ち並んでいた閑静な街並みだった。いわゆる「向島に寮(亭・別荘)がある」といえば、この界隈がその南端だったろう。明治になってからも、このあたりは閑静なままで別荘や別邸が建ちつづけたが、中でも言問団子Click!のやや北側、隅田川に面した大倉喜八郎の向島別邸Click!は、その目立つ派手な外観からも有名だった。いまでは埋め立てられてしまったが、曳舟のほうから十間川までつながっていた運河があり、その出口あたりは源兵衛堀と呼ばれていた。並木五瓶が書いた『隅田春妓女容性』(すだのはる・げいしゃかたぎ)は、このあたりが舞台だ。
 主人公は「梅の由兵衛(よしべえ)」で、女房が小梅、源兵衛堀の源兵衛などが登場するが、この作品もいまや上演される機会が少なく、わたしは芝居本でしか知らず一度も観たことがない。梅の由兵衛は、遊郭に身を沈めている主家筋の娘・小さんと、彼女の恋人である金五郎のためにひと肌ぬぐという筋立てで、原型が大坂(阪)の並木宗輔が書いた浄瑠璃『茜染野中隠井(あかねぞめ・のなかのかくれい)』にあるという。それが要因なのかは知らないが、こちらで舞台にかけられる機会が少ない。
 舞台の場面は、序幕が三圍稲荷の土手、そのかえしが向島の大黒屋、二幕目が蔵前の米屋、つづいて大川端、三幕目が小梅町(村)の由兵衛の家、そして隅田川沿いにつづく墨田堤の土手というような展開になっている。作者の並木五瓶は、周囲の名所や風景を書割として芝居の中へたくみに取り入れてうまく活かすのが特徴で、世話物を数多く手がけている。大坂を舞台にした、彼の『五大力恋緘(ごだいりき・こいのふうじめ)』はたいへん有名だが、わたしはこの作品も観ていない。
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 さて、ようやく長命寺の桜餅「山本屋」にたどり着いた。享保年間からつづく桜餅を、今度はがっつかないで忘れないうちに、ちゃんと写真撮影(冒頭写真)をして……。桜餅(長命寺)は、1717年(享保2)にここで発明された江戸菓子だが、それ以前に開店していた山本屋は柏餅の菓子店(だな)だったというから、創業はさらに古く実際にはゆうに400年近いのかもしれない。柏の葉のかわりに、樽に塩漬けした香りの高いオオシマザクラの葉を使い、餡をくるむ皮を工夫してオリジナルの桜餅が生れた。この長命寺界隈を舞台にした、芝居の通称「桜餅」=『都鳥廓白波(みやこどり・くるわのしらなみ)』は、以前の桜餅記事で取りあげているので省略するが、河竹黙阿弥Click!の出世作となった作品だ。
 長命寺の境内には、芭蕉の「いざさらば雪見にころぶところまで」の句碑が建っている。芭蕉の門人だった夕道(せきどう:風月堂孫助)の亭(邸)で詠まれた一句だが、これは向島雪景ではなく名古屋雪景の句だろう。ただし、向島の雪景(雪見の名所)は江戸期からつづく風流で、多くの浮世絵師も描いているモチーフだ。ほかに、境内には幕府の外国奉行をつとめ、明治以降は新聞界で活躍し随筆家としても知られる成島柳北の記念碑や、ネズミを捕るネコならぬイヌの六助塚、古い筆を供養する筆塚などが建っている。
 長命寺までくると、上流の白鬚橋(しらひげばし)はもうすぐだが、今回は旧・赤線地帯だった「鳩の街」や永井荷風Click!あるいは高見順Click!の「玉の井」(現・東向島界隈)へ寄りたいので、これ以上の北上はしないことにする。白髭橋の周辺も木母寺(もくぼじ)や梅若公園など、舞台に関連する名所は多い。もっとも、その中心は梅若伝説の謡曲「隅田川」Click!だろうか。梅若公園には、榎本武揚Click!の銅像や移転した梅若塚(跡)があるが、この塚とされる土饅頭は柴崎村(現・大手町)の柴崎古墳Click!(将門首塚伝説Click!)と同様に、既存の小型古墳の上へ梅若伝説をかぶせたものではないか。
 梅若伝説は、いわゆる芝居の「隅田川物」と呼ばれる作品群の中核となる物語だが、先の『都鳥廓白波』や奈河七五三助の『隅田川続俤(すみだがわ・ごにちのおもかげ)』(通称:法界坊)が知られている。面白いのは、梅若伝説は江戸芝居のネタによく取りあげられるが、『伊勢物語』の在原業平伝説は、まったくといっていいほど芝居には採用されていない。主人公が京の公家Click!では、おそらく大江戸(おえど)の観客は興味がまったく湧かず、芝居連をほとんど呼べないという、芝居小屋のマーケティングによる“読み”もあったのだろう。
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 梅若伝説は、清元の『すみだ川』や長唄の『賤機帯』でも知られている。線道Click!をつけられた親父は、『すみだ川』を習っていた可能性が高そうだ。また、木村荘八Click!「和田堀小唄学校」Click!でも、『すみだ川』や『賤機帯』が唄われていたのかもしれない。それにしても、長命寺の桜餅を食べたあと、そこから50mほどの言問団子は、もう入らない。

◆写真上:桜餅ファンの滝沢馬琴が1824年(文政7)に実施した統計によれば、1年間で売れた桜餅は377,501個、1日平均で1,034個余が売れたことになる。消費された塩漬けのオオシマザクラの葉は、775,000枚(31樽)という膨大な量だった。COVID-19禍対策だろうか伝統的な木箱での提供はやめ、紙にくるむ仕様になっていた桜餅(長命寺)。
◆写真中上は、1953年(昭和28)に撮影された花川戸()と、整備された助六夢通り側から撮影した花川戸の現状()。は、『俎板の長兵衛』で2代目・市川左団次Click!(左)の幡随長兵衛と7代目・市川中車Click!(右)の寺西閑心。ちなみに9代目・市川中車(TV名:香川照之)は、つまらないTVや芸能マスコミには懲りたろうから、そろそろ“本業”にもどるころだろう。は、『助六』の舞台で15代目・市村羽左衛門Click!(中央)の助六に初代・中村吉右衛門Click!(右)の門兵衛と7代目・坂東彦三郎Click!(左)の仙平。
◆写真中下は、墨田堤側から眺めた三圍稲荷の鳥居だが現在はこちら側からは入れない。は、1953年(昭和28)に墨田堤から隅田川をはさんで撮影された待乳山Click!(上)と同所の現状(下)。は、同年に撮影された向島・小梅町の大通り。
◆写真下は、『隅田春妓女容性』で梅の由兵衛を演じる初代・中村吉右衛門Click!は、1953年(昭和28)に撮影された桜餅・山本屋(上)と現在もあまり変わらない同店(下)。COVID-19禍で、店内はずいぶん模様がえされていた。は、「すみだ川」の舞台で6代目・中村歌右衛門Click!(右)の狂女と17代目・中村勘三郎Click!の舟人(左)。

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