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家を外国に貸す人、家を外国に接収される人。 [気になる下落合]

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 下落合330番地の男爵だった箕作俊夫Click!邸は、その南に拡がる広い敷地も所有していた。現在の落合中学校のグラウンド西側一帯だ。この敷地に、大正末になると中華民国公使館官舎Click!が建設されているのは、少し前に記事にしたばかりだ。
 その記事の中で、同公使館官舎は当初、大きな箕作邸をそっくりそのまま借りうけて官舎にしていた時期があったのではないかと書いていた。なぜなら、箕作俊夫は1923年(大正12)1月8日に下落合で死去しており、そのあと一家がどこか別の地域へ転居しているとすれば、家屋敷や敷地が丸ごと空いていたからだ。この予測は、国立公文書館に残された中華民国特命全権公使による、外務次官あての文書で裏づけられた。
 また、箕作俊夫は1915年(大正4)ごろまで、北豊島郡巣鴨村宮中北2230番地(現・東池袋2丁目)に住んでおり、下落合330番地へ転居してきてから10年とたたずに死去していることが、1915年(大正4)に人事興信所から出版された『人事興信録』(第4版)から判明した。箕作俊夫について、『人事興信録』(1915年)から引用してみよう。
  
 箕作俊夫  従五位、男爵/東京府華族
 當家は先々代從二位勳一等箕作麟祥より家名を揚く麟祥は舊津山藩士にして夙に法律學を修め後佛國に留學し明治元年歸朝外務省飜譯官となり轉して大學中博士となり尋て判事に任せらる後大博士に進み爾來文科大學教授元老院議官貴族院議員行政裁判所長官等に歷任し同三十年華族に列し男爵を授けらる/君は先々代麟祥の四男にして男爵菊池大麓文學博士箕作元八は其の叔父なり明治二十二年三月二十八日を以て生れ同三十二年亡兄祥三の後を享け家督を相續し襲爵仰付らる/姉さた(明二、六生)は理學博士石川千代松に叔母直(同五、五生)は故理學博士坪井正五郞に嫁せり
  
 東京郊外を転居しているのは、おそらく体調を崩しており安静を必要としたからだろう。だが、その静養の甲斐もなく、箕作俊夫はわずか34歳になる誕生日を目前に下落合で死去している。大磯Click!で新島襄が死去したあと、新島八重Click!が所有していた大磯町神明前906番地外の敷地を譲り受け別荘を建てたのも、箕作俊夫が潮風に吹かれて安静にすごすためのものだったのだろう。また、もうひとつのテーマとして、落合中学校グラウンドの南西端に残されているふたつの門柱は、公使館官舎の正門にも使われただろうが、それ以前に当初から箕作俊夫邸のもの(裏門?)だった可能性もありそうだ。
 箕作俊夫が死去してから約1年後、中華民国特命全権公使の汪栄宝から外務省の次官あてに、箕作男爵邸への電話架設申請書が作成され、1924年(大正13)2月4日に起草された申請書は2日後の2月6日にに提出されている。中国語の同申請書は和訳され、さっそく同年2月12日に外務次官から逓信次官あてに通達された。そして、同年2月15日にはすでに電話架設の手続きに入っているという報告を、外務次官から汪栄宝特命全権公使へ返信している。
 同年2月12日の、外務次官から逓信次官への申請書を引用してみよう。
  
 在京支那公使住宅ニ電話架設ノ件/在本邦支那公使住宅(府下目白下落合村箕作男爵邸)ニ対シ電話架設方同国公使汪栄宝氏ヨリ依頼越ノ次第有之候条 右可然御取計相成度此段申進候也/話第八二号/大正十三年二月十二日
  
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 「府下目白下落合村」の箕作男爵邸などと書いているが、これは公使からの申請書をそのまま修正せずに写したもので、正確には府下豊多摩郡落合町下落合が正しい。公使の汪栄宝が、関東大震災Click!から5ヶ月後に同申請書を起草していることにも留意したい。それまでの公使館官舎は、東京の市街地にあったものの大震災で大きな被害を受け、そのために改めて安全な東京郊外に公使館官舎を建てる必要性を感じたものかもしれない。
 箕作邸には、電話が引けていなかったようだが、外務省から逓信省への稟議スピードからすると、大震災の影響を考慮しても数週間から1ヶ月程度で電話が引けたのではないだろうか。東隣りの相馬孟胤邸Click!には、すでに電話が引かれていたので、箕作邸まで電信柱を建てケーブルを延長するだけで済んだはずだ。このあと、大正末から昭和初期にかけ、のちの空中写真にみる大規模な公使館官舎が建設されたものだろう。
 上記の事例は、外国の公使館に家屋敷や敷地を貸与した箕作邸の様子だが、逆に家屋敷を外国に接収されてしまったケースを、下落合ではあちこちで耳にする。もちろん、1945年(昭和20)8月15日の敗戦により、米軍を中心とした連合軍に家屋敷はおろか家具調度類まで、すべて「居ぬき」で無理やり取りあげられた事例だ。米軍による住宅接収が決まると、そこに人が住んでいた場合はただちに出ていかなければならなかった。
 下落合には、空襲による延焼をまぬがれた屋敷があちこちに残っていたが、特に大きめなめぼしい西洋館は、さっそく米軍に軒並み接収されている。戦後のどさくさの中であり、家賃も満足に支払われなかったケースが多いようだ。
 ただし、接収した家屋や家具調度の記録(動産目録)は、総務省外国財産課によって綿密に行われたようで、のちに接収家屋に住んでいる外国人(米軍属が多かった)に対し、吉田茂Click!内閣総理大臣の返還命令書が出される際には、家具調度はおろか「ゴミ箱」から「フライパン」まで細かく記された命令書となっている。したがって、たとえば外国人の住民が家電を壊してしまった場合などは、賠償金が支払われるケースもあったのかもしれない。
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 下落合1丁目415番地に住んでいた武田敏信という人物は、野尻湖畔にあった別荘を米軍関係者に接収されている。また、下落合415番地(ちょうど学習院昭和寮Click!の斜向かい一帯)の屋敷群もほとんどが焼け残っていたので、自宅も接収されているのかもしれない。長野県上水内郡信濃尻村(大字)野尻(字)神山494番地の別荘には、1946年(昭和21)の米軍接収後からR.P.リチャードソンという人物が住んでいた。
 国立公文書館には、1950年(昭和25)8月15日までに、武田家へ返還するよう吉田茂首相名による命令書の記録が残されている。同命令書より、全文を引用してみよう。
  
 命令書
 東京都新宿区淀橋下落合一丁目四百十五番地 武田敏信/貴殿所有にかかる左の連合国財産は、昭和二十一年勅令第二百九十四号第二条第一項の規定により、昭和二十五年八月十五日までにロバート・ピー・リチャードソン(長野県上水内郡信濃尻村大字野尻字神山四百九十四番地の三)にこれを返還することを命ずる。/昭和二十五年〇月〇日 内閣総理大臣 吉田茂/種類/数量/一 建物(家屋番号百二十一番) 一棟総坪三十一坪七合/二 動産(別紙目録参照) 百二十一点/所在地/長野県上水内郡信濃尻村大字野尻字神山四百九十四番地の三
  
 命令書の日付が「〇月〇日」空欄になっているが、後続資料によれば1950年(昭和25)8月5日に命令書の執行・通達が行われているので、R.P.リチャードソンは10日以内に武田家へ返還しなければならなかっただろう。
 この命令書で面白いのは、返還すべき野尻湖畔の別荘にあった細かな「動産目録」までが添付されている点だ。テーブルやイス、ベッド、デスク、長イスなどの家具類はもちろん、作りつけの洗面台や靴箱、網戸、箪笥、風呂桶、洋服かけ、スダレ、絨毯などの調度品、テニスラケットやボートオールなどのスポーツ用品、洗濯板やタライ、洗面器、アイロン台、まな板、アイスクリーム製造機、ストーブ、フライパン、ほうき、ゴミ箱、バケツなどの日用品にいたるまで、ことごとく列挙されていることだ。
 武田家では、おそらく軍属と見られるR.P.リチャードソンからは賃貸料が1銭ももらえず、頭にきて憶えている限りの別荘内にあった「動産目録」を作成し、「接収前のそのままの状態で返してほしいんだけどね」と、当局へ提出したのではないだろうか。
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 はたして、1950年(昭和25)8月15日までに武田家へ、別荘が「そのままの状態」で返還されたかどうかは後続資料が見あたらないので不明だ。一方、当主を亡くした箕作家は、その後も中華民国あるいは日本政府からの賃貸料で、家計を支えられたのかもしれない。

◆写真上:下落合330番地一帯に建っていた、箕作俊夫邸跡の現状(道路左手)。
◆写真中上は、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図にみる箕作俊夫邸。は、中華民国特命全権公使・汪栄宝から外務省あてに出された電話架設の申請書(原文)。は、それを受けた外務省が逓信省にまわした日本文の稟議書。
◆写真中下は、野尻湖畔の別荘に住む米軍属とみられる人物に対して出された返還命令の所有者への報告書。は、命令書に貼付された別紙の細かな「動産目録」。
◆写真下は、英文版の返還命令書。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる焼け残った下落合1丁目415番地(現・下落合2丁目)界隈。は、現在の同界隈の一画。

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ベルリンの石井四郎と宮本百合子1929。 [気になる下落合]

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 1932年(昭和7)から、上落合2丁目740番地に住んだ宮本百合子Click!(結婚し上落合に転居する以前は中條百合子Click!)と、731部隊Click!の部隊長・石井四郎Click!が、1929年(昭和4)に旅行先のベルリンで交流していたのを初めて知った。この事実を突きとめたのは作家の岩崎明日香だが、わたしが知ったのは2022年に不二出版から刊行された川村一之『七三一部隊1931-1940-「細菌戦」への道程』を読んでからだ。
 宮本百合子の作品で、1950年(昭和25)に筑摩書房の「展望」へ発表した『道標』(第二部)には、ベルリンへ出張中だった遠い親戚の医学博士が初対面として登場する。名前を「津山進治郎」といい、陸軍軍医学校Click!の軍医としてヨーロッパに視察旅行にきていたのだ。「津山」は、『道標』の主人公である「伸子」=中條ユリ(百合子)Click!と「素子」=湯浅ヨシ(芳子)Click!を連れ、ベルリンの各地を案内するのだが、「津山」の言質と「伸子」の思いはどこまでいっても平行線のままだった。
 小説『道標』に登場する人物は、実在の人物に仮名を当てただけだといわれており、宮本信子と湯浅芳子が実際にベルリンで交流した軍医もまた、同時期にベルリンへ出張していた実在の人物だと推定されていた。それが、のちに731部隊を創設する石井四郎だったことが、湯浅芳子の日記をたどった岩崎明日香の研究で明らかにされている。
 わたしは、岩崎明日香の研究論文「宮本百合子『道標』の軍医津山のモデルと戦争犯罪」は未読なので、前掲の川村一之『七三一部隊1931-1940』から少し引用してみよう。
  
 岩崎明日香によると、宮本百合子が「ベルリンに滞在していた(一九)二九年五月下旬から六月上旬」の日記は残されていないのだという。その間の百合子の動向を知るためには自伝的小説『道標 第二部』(筑摩書房、1949年6月初出、引用は新日本出版社、1994年11月に拠った)に頼るしかない。それを補強するのが湯浅芳子の日記になる。岩崎は湯浅芳子の日記を読んで、『道標』に描かれている「伸子」たちが医者たちと同行した見学は実際に百合子と芳子が体験した事実であったことを確信した。そして日記に登場する「石井氏」が「津山」のモデルであり、石井四郎であったと指摘する。その根拠は「秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会、第二版)によれば、『石井』または『石』で始まる姓を持つ人物で、一九二九年にドイツにいた記録がある軍医は、のちの陸軍軍医中将・七三一部隊長の石井四郎のみである」ということだ。
  
 当時の宮本百合子は、湯浅芳子とともに1927年(昭和2)12月にソ連の首都モスクワに到着し、翌年からロシア語を学びはじめている。このときのモスクワでは、演劇留学していた千田是也Click!と出会っている。1929年(昭和4)になると、ふたりはヨーロッパ旅行へ出発し、ワルシャワからウィーン、ベルリン、パリ、ロンドンなどを訪れた。
 パリでは中條家の両親と落ち合い、百合子と芳子はロンドンに滞在したあと、芳子は一度モスクワへもどってからロシア文学の関連書籍370冊を購入して船便で日本へ送り、百合子はパリで両親を見送ったあと、第1次渡仏時の佐伯祐三Click!が滞在したパリ郊外のクラマールClick!で静養している。ふたりが石井四郎と交流したのは、1929年(昭和4)5月19日~6月9日までの22日間、旅の途中で滞在したベルリンにおいてだった。
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 『道標』には、「津山」(石井)と「伸子」(百合子)が、かつて一度も会ったことのない遠い親戚同士だと書かれているが、中條家と石井家は実際にはなんら姻戚同士ではないようだ。ベルリン滞在中の日本人の情報を、事前に中條家が把握して百合子に伝えていたため、そのうちの誰かから石井四郎を紹介してもらった可能性が高いという。
 このとき、石井四郎は滞独中の医師を集めた日本人倶楽部「木曜会」の幹事をしており、ソ連の医療情報について講演するよう宮本百合子に依頼している。百合子はモスクワで胆嚢炎にかかり、モスクワ大学医学部の付属病院で3ヶ月もの入院生活を送った。だから、ソ連の医療事情には詳しいと踏んだ石井四郎が、ソ連社会の状況とあわせて話すよう彼女に頼んだのだろう。「木曜会」での講演の後日、百合子と芳子は石井四郎に誘われ、医師たちとともにベルリンのセントクララ病院や未決監獄を見学しに訪れている。
 ふたりはベルリンを案内する石井四郎と、レストランや喫茶店で話す機会が多かったのだろう、『道標』では「津山」の発言をかなり多く書きとめている。だが、宮本百合子と石井四郎では思想や意見がことごとく合わなかったようだ。1976年(昭和51)に新日本出版から刊行された宮本百合子『道標 第二部』(文庫版)から、少し長いが引用してみよう。
  
 津山進治郎が現にドイツの国内におこっているそういうおそろしいことには全く無頓着で、ドイツ再軍備のぬけめなさとしてばかり称讚するのを、伸子は言葉に出して反撥するより一層の注意ぶかい感情をもってきいた。ドイツについてこういう考えかたをもつ人が、自分の国の日本へかえって別の考えようになるはずはない。その意味ではいまベルリンの小料理屋にいる津山進治郎と、労農党の代議士へ暗殺者をけしかけた人々との間に共通なものがある。そして、津山進治郎は、自分がそれを意志するわけでなくても日本における同じような考えかたの人々の間で、ドイツ式最新知識の伝授者となるだろう。医学博士という彼の科学の力を加えて。――この考えのなかには、伸子の気分をわるくさせるようなものがあった。伸子は津山進治郎に説得されず、津山進治郎も伸子の考えから影響されることなく、やがて三人はシャロッテンブルグ通りの横丁の小店から出た。(中略) 日本から毒ガス研究のために派遣されている津山進治郎の思想の上にてりかえしている、ドイツの再武装、ファシズムの進行はあからさまだった。
  
 なお、宮本百合子の『道標』(第二部)は、731部隊=「石井機関」の「満洲」における人体実験や細菌戦の概要が暴かれる以前、すでに執筆されていたものであり、“あとだしジャンケン”すなわち結果論から書かれたものではない点にも留意する必要があるだろう。
川村一之「七三一部隊1931-1940」2022.jpg 常石敬一「731部隊全史」2022.jpg
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 石井四郎がベルリン出張したのは、ヨーロッパの細菌研究の進み具合を視察するためだったといわれている。そして、日本の軍備には大きな「デフェクト」があると気づき、それを研究するのが軍医である自身の使命だと考えたようだ。すなわち、戦場の兵士をいかに病原菌から守るかという「盾」=防疫の発想と同時に、いかに敵軍へ効率よく損害を与えるかという「矛」=細菌兵器の開発へと突き進む大きな契機となった。
 もちろん、第一次世界大戦の教訓から1925年(大正14)に日本も議定国として参加し締結されたジュネーブ議定書には、毒ガス兵器禁止とともにバクテリア(細菌)兵器禁止の項目も、国際的な遵守事項に含まれていた。だが、石井四郎は「細菌学的手段の戦争における使用の禁止」という条文を、禁止されるからこそ戦場では威力のある兵器となりうると正反対に解釈し、以降、防疫部から関東軍防疫給水部、731部隊の創設へと突き進んでいく。ちなみに、当初は議定国で署名したはずの日本政府が、上記のジュネーブ議定書を正式に批准したのは、1970年(昭和45)5月になってからのことだ。
 石井四郎が細菌戦への確信を深めたヨーロッパ出張の「成果」を、2022年に高文研から出版された常石敬一『731部隊全史-石井部隊と軍学官産共同体』から引用してみよう。
  
 一九三〇年四月、石井は外国出張から帰国し、八月に三等軍医正に昇進し軍医学校の教官となった。/軍医が中心の衛生部は「盾」としては兵士の健康管理とワクチン開発・接種には取り組んでいたが、「矛」とは無縁だった。石井は医学知識をベースにした盾と矛をセットで整備すべきだと訴えた。矛は細菌の兵器化であり、盾は敵の細菌戦に対抗する医学的防禦だった。
  
 当時、欧米各国の軍隊や医療機関では、細菌兵器は確かに敵の戦力を低下させるのには有効だが、同じ戦場にいる味方の軍にも感染する危険性が高く“共倒れ”になる怖れがあり、現実的には有効ではないというとらえ方が主流だった。
 だが、石井の731部隊は浙江省と江西省の中国軍拠点を攻撃する、1942年(昭和17)4月の「浙贛作戦」でコレラ菌とペスト菌による細菌攻撃を展開し、事実、それらの菌により日本軍の将兵1万人以上が罹患し、そのうちの約1,700名が死亡するという大失態を招来している。そして、これがもとで石井四郎は731部隊を追われることになった。
 さて、パリからモスクワにもどった宮本百合子は、湯浅芳子とともにシベリア鉄道に乗車し1930年(昭和5)11月に東京へ帰着している。ふたりは、しばらく本郷の菊富士ホテルClick!に滞在したあと、高田町巣鴨代地3553番地(現・目白3丁目12番地)に家を借り、ふたりで住みはじめている。だが、翌年に百合子が宮本顕治と結婚すると同時に、ふたりの同棲生活は解消され、宮本百合子は上落合2丁目740番地へと転居してくることになる。
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 1990年(平成2)に文藝春秋から出版された沢部仁美『百合子、ダスヴィダーニヤ』には、百合子と芳子が住んだ高田町の住所を「牛込区目白上り屋敷三五五三番地」としているが、このような地名も住所も存在しない。1931年(昭和6)での住所は北豊島郡高田町巣鴨代地3553番地であり、翌1932年(昭和7)10月以降の住所は豊島区目白町3丁目3553番地で現在の豊島区エリアであり、牛込区すなわち現・新宿区とは行政エリアがまったく別だ。また、「上り屋敷」は高田町(大字)雑司ヶ谷(字)上屋敷が正式住所だが、明治期から昭和期まで上屋敷に当該の地番は存在していない。ちなみに、「上り屋敷」は武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の駅名Click!であって、本来の地名は上屋敷(あがりやしき)が正しい。

◆写真上:1930年(昭和)ごろに撮影されたベルリン市街地の様子。
◆写真中上上左は、1948年(昭和23)の雑誌「展望」7月号に掲載された宮本百合子『道標』(第一部)。同時に、太宰治Click!『人間失格』が連載されている。上右は、1976年(昭和51)に新日本出版から刊行の宮本百合子『道標 第二部』(文庫版)。は、宮本百合子()と石井四郎()。は、同じく1930年ごろのベルリン市街。
◆写真中下上左は、2022年に出版された川村一之『七三一部隊1931-1940-「細菌戦」への道程』(不二出版)。上右は、2022年に出版された常石敬一『731部隊全史-石井部隊と軍学官産共同体』(高文研)。は、1990年(平成2)に出版された沢部仁美『百合子、ダスヴィターニヤ』(文藝春秋/)と湯浅芳子()。
◆写真下は、国立公文書館に残された1933年(昭和8)9月に石井四郎が満州出張する際の陸軍軍医学校文書。このとき石井部隊(偽名・東郷部隊)は、背蔭河に建設された細菌研究施設「五常研究所」で人体実験を繰り返しており、新たな人員補給のため軍医学校の雇人3名、傭人9名を随行すると記されている。は、湯浅芳子がモスクワから船便で送ったロシア文学の関連書籍370冊の輸入報告書。敦賀税関ではすべての書籍を検閲したが、19世紀の文学書ばかりなので輸入を許可した旨、外務省や内務省などに報告している。は、1931年(昭和6)に高田町3553番地(現・目白3丁目)で撮影された宮本百合子と湯浅芳子。

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タイは序の口の魚通・食通がたくさんいた。 [気になるエトセトラ]

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 太平洋が目の前にある海街Click!で育つと、日々のおかずにイヤでも魚が多くなる。これは昔の江戸東京や横浜でも事情はまったく同じで、海の魚にはめっぽううるさいことをいう、いわゆる「魚好き」「魚通」と呼ばれる食通たちが身近には大勢いた。
 いつだったか、日本橋浜町育ちの曾宮一念Click!「ダメだな」Click!といってほとんど箸をつけなかった料理は、別に彼がことさら神経質なわけではなく“食いもん”、特に魚にはうるさかったからだろう。いまでも新鮮な魚がふんだんに手に入る太平洋や日本海の海辺には、「きのうの魚なんぞ食えるか」……という人たちがいるにちがいない。
 わたしは、子どものころから相模湾で獲れるアジ(特にムロアジ)やサバ(三浦沖の金サバ=いまでは別のブランド名?)が好きだった。それを刺身にしたり、一夜干しにして食べると潮の香りが強くうま味が増し、身体が海と直接つながって一体化しているような風味に魅了された。たまにタイなどを食べると、あまりにも淡泊かつ頼りなさすぎて、物足りなく感じて箸が止まった。いまでも、正月や祝いごとなどに出されるタイの塩焼きや刺し身は、進んで食べようという気が起こらない。そう、この江戸東京地方とその周辺域では、昔からタイのプライオリティは思いのほか低いのだ。
 子どものころ、いつだったか母方の祖父Click!が家に遊びにきていて、海岸で地曳きClick!を手伝ったりしていたころだから、わたしが小学校の低学年ぐらいのときだろうか、祖父から「魚では、なにが好きなんだい?」と訊ねられたことがあった。わたしは、常日ごろから食べ慣れているありきたりな、いつもの魚名を挙げるのはなんとなく恥ずかしく、「な~んだ」と軽んじられそうな気がしたので、思いきって気どりながら祝い魚の「タイ」と答えたら、「な~んだ、まだ魚の序の口(初心者)だな」とバカにされた。
 そうなのだ、ほんとうに魚の味を識る魚好きや魚通・食通の前で「タイが好き」などと答えたら、この地方では話の接ぎ穂がなくなってしまうほどに情けないことなのだと知ったのは、祖父が死んでしばらくしてからのことだ。祖父の先代は、明治維新のときに食いっぱぐれた絵師だったようで、横浜にきては輸出用のなにかに絵付けをしては糊口をしのいでいたような人物らしいので、横浜でも子安の浜に上がる新鮮な太平洋の魚に馴染んでいたのだろう。その息子である祖父もまた、魚にはめっぽううるさかったとみえる。
 なにかの会合で、わたしは親父とその友人たち(親戚だったかも)に連れられて、東京の寿司屋(たぶん日本橋)に入ったことがある。「なに食べる?」と親父に訊かれたので、わたしは食べ慣れている「アジ」と答えたら、親父の友人(だか親戚)のヲジサンに、「おや、通だね」といわれた。わたしが不思議そうな顔をしたのか、そのヲジサンは「魚では青身がいちばん美味いよな」といいながら、「オレはコハダ」と注文していた。
 な~んだ、いつも目の前の海で獲れて、母親に「歯が丈夫になるから」などと毎日いわれながら食べさせられつづけている、そのころはちょっと食傷気味な魚を好きだと答えるのが「序の口」ではないってことなんだと、そのとき初めて知ったしだいだ。母方の祖父にしてみれば、魚好きや魚通が垂涎の黒潮流れる相模湾沖で獲れる、新鮮な青身のアジやサバ、スズキ、カツオ、イワシ、カンパチ、ブリ、コハダなどを目の前にして、「この子は、いったいなにいってんだい?」という感覚だったのだろう。
 江戸東京に、こんな小咄(こばなし)がある。おそらく落語『芝浜』Click!のバリエーションではないかと思われるが、長屋の熊さんが芝沖(現・港区の沖)へ釣りにいって、カネのいっぱい詰まった財布を釣りあげ、意気揚々と長屋に帰ってくる。それを見た隣りの八つぁんも、芝沖に舟を出して釣り糸をたれるが、針にかかったのは大きなタイだった。八つぁんは腹を立てて「ええい、忌々(いめいめ)しい、てめえじゃねえやな!」と怒鳴るとタイを海へ放り投げ、それを見ていた船頭が呆気にとられる……というような下らない噺だ。
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 ここでは、カネの詰まった財布がめあての八つぁんなので、大きなタイが釣れても惜しげもなく棄ててしまうところが面白いのだろうが、もうひとつ、江戸東京では祝いごとなどには欠かせない魚のタイではあるものの、それほど食通や魚通には、ことさら魅力的に映らない魚だったという地域的な趣味(食文化)も、小咄の裏には“隠し味”として添えられているような気がするのだ。タイは棄てても、おそらくこれがカツオやカンパチ、ブリなどが釣れていたら、棄てないで取っといたのかもしんねえなぁ?……と、ちょっと思わせるところにも、この江戸小咄の仕掛けや面白さがあるようだ。
 薩長軍と戦うために、わざわざ江戸から函館まで出かけていった家庭の息子である子母澤寛Click!は、その著書『味覚極楽』Click!でこんなことを書いている。1977年(昭和52)に20年ぶりに復刻・出版された、新評社版の「キザはごめん」から引用してみよう。
  
 小笠原壱岐守長行(長生翁の父君)という大名はいわしだの、鯖だのが大好物で、ある屋敷で招待して、わざわざ本場から取り寄せた鯛の見事な料理を出したら「これは大名の食うものだ。御馳走するならもっとうまいものを食わせよ」といって箸をつけなかったという話がある。御老中にもこんなのがいたが、柳沢さん<柳沢保恵>はこれに比べると味覚の方は本来あくが少し強かったのかも知れない。/ところが驚きました。この大名好みが今日もなお東京にある。あるところで、さしみを注文した。こっちはたった二人というのに、直径一尺七、八分<50cm前後>もあろうかという大皿(図は忘れました)の真ん中に大きな椿が置いてある。花が一輪ついている。これを中心に程よくさしみを配置する。渦巻のごときあり、そぎ身のごときあり。これがたった二人前だからなんのことはない皿を喰わされているようなものであった。(< >内引用者註)
  
 子母澤寛が自身で注文しているので、ツバキの花が載せられた大皿の刺身は、まずタイではないと思われるのだが、確かにキザ(気障り)で野暮な趣向だ。その料理に驚いて、それっきり「二度と行かない」店になったようだ。
 この一文で面白いのは、江戸住まいが長くなり幕府の老中を勤めるような武家の中にも、魚好きあるいは魚通とみられる食通が登場していたことだろう。しかも、この人物は地元の旗本や御家人ではない。おそらく、小笠原長行は若いころから育った江戸の街中で、太平洋の多彩な魚を食べつけていたのだろう、タイを美味い「御馳走」だとは考えていないのは、ひょっとするとタイを棄てた八つぁんと、同じ味覚をしていたのかもしれない。
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 太平洋(あるいは黒潮・親潮)と直接つながるような青身の魚を、わたしはいまでも大好きだが、特にムロアジ派のわたしとしては困ったことに、マアジなどに比べて値段がウナギClick!と同様に天井知らずClick!なことだ。東京にある魚屋の店頭に並ぶことなどまずないし、相模湾の地元へ遊びにいっても40cm前後の一夜干しの開きに、5,000円近くの値札がついているのでのけぞってしまう。週に数日、うんざりするほど食べさせられていたムロアジは、いつからこんな高級魚になってしまったのだろうか?
 同じ海街に住みながら、魚が大キライで匂いを嗅いだだけでムカムカするという人物もいた。つづけて、子母澤寛の『味覚道楽』から引用してみよう。
  
 魚を食った奴が、そばへ来ると、わしは胸がむかむかしてくる。煙草をのんだ奴も困るし、酒をのんだ奴も困る。魚を食った奴は、同じ部屋へ入ってくるとすぐにおうもんじゃ。先年病気をして清川病院というところへ入院した。院長が洋行した男でハイカラじゃから、どうしても病気のために牛乳をのめの魚を食えのというんじゃ。食えといって食えるもんか。わしゃ閉口してとうとうそっとその病院を逃げ出して寺へ帰って寝ておった。/わしは白いコメの粥を、梅干しをお菜にして、ふうふういって食べるのがうまい。うまい、うまいというもんじゃから、よく俗家の人達が「梅びしお」(ママ:梅びしょ)をこしらえて持ってきてくれる。あれは砂糖がはいるとうまくないが、生のままのやつを、お粥の上へ少しばかりとろりとかけて食べるのは格別だな。(カッコ内引用者註)
  
 話しているのは、鎌倉の円覚寺管長だった古川堯道だ。いまの堕落した生臭坊主Click!に、聞かせてやりたい仏教とはなにかの話をしているが、ふだんから重病人食Click!である白米の粥ばかり食べているのはいかがなものだろう。魚や肉は、殺生を禁ずる仏教の宗旨からして論外としても、せめてタンパク質の摂れる玄米Click!にゴマ塩ぐらいかけて食べていたら、いまでもある鎌倉の清川病院へ入院するほどの病気にはならずに済んだかもしれない。
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 売れない書家・画家だった祖父は、わたしが中学2年の正月Click!に死んだが、いま「魚では、なにが好きなんだい?」と訊かれて「ムロアジ!」と答えたら、少しは褒めてくれるだろうか? 「アジか、まだ小結だな」とでもいいかねないほど口が奢っていた人だった。

◆写真上:熊さんが財布を釣り、八つぁんがタイを釣って棄てた芝沖の現状。ここで獲れるシバエビ(芝海老)も、かき揚げなどの天ぷらには欠かせなかった。
◆写真中上は、いまや下水道が一部不備な湘南海岸よりも水質がきれいかもしれない品川の海水浴場。は、子どものころから食べつづけたが、いまでも食べたいムロアジの美味な干物。は、芝沖で八つぁんに惜しげもなく棄てられたマダイ。
◆写真中下は、1957年(昭和32)に龍星閣から出版された子母澤寛『味覚極楽』の函()と表紙()。は、幕府老中なのに魚通だったらしい小笠原長行の青年時代()と晩年()。若いころは、江戸の“美味いもん”をあちこち食べ歩いたのだろう。は、休日になると釣り客でごったがえす大磯港の岸壁。相模湾の遠景に平塚沖の潮流観測所と茅ヶ崎沖の烏帽子岩、鵠沼沖の江ノ島、三浦半島などが重なって見える面白いスポット。
◆写真下は、三浦半島が連なる相模湾の東側。は、伊豆半島が連なる相模湾の西側。わたしが昔から好きな魚が、ごまんと棲息している海だ。は、貝もよく採れたという子安の砂浜はさすがに消滅してしまったが、相変わらず健在な横浜の子安浜漁港。子安の浜のアサリ売りは、戦前まで横浜の街では名物だったと母方の祖父からよく聞かされた。

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佐伯が描く「八島さんの前通り」の高田邸。 [気になる下落合]

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 少し前に、下落合1449番地に建っていた陸軍科学研究所所長の黒崎延次郎邸Click!の形状が判明した。佐伯祐三Click!が、「下落合風景」シリーズClick!の1作として1927年(昭和2)5月ごろに制作した、北側からパースをきかせて描く「八島さんの前通り」Click!の奥に、黒崎邸のフォルムがとらえられていたからだ。主棟を東西に伸ばした、かなり大きめな西洋館らしいことがワインレッドの屋根や壁面のカラーリングからうかがわれる。
 そして、もうひとつ判明したことがある。黒崎延次郎邸は、1925年(大正14)の「出前地図」Click!(「下落合及長崎一部案内」図の通称)には採取されておらず、おそらくいまだ建築されていない可能性が高いことだ。「出前地図」には、黒崎邸の南隣りにあたる下落合1448番地の「高田邸」のみが採取されている。つまり、1927年(昭和2)の初夏にとらえられた黒崎邸は、同画面に描かれた竣工直前あるいは竣工後の、下落合666番地に建つ納三治邸Click!と同様に新築だったことが想定できるのだ。
 1932年(昭和7)に刊行された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」に収録された黒崎家は、下落合に住みはじめてから6年めということになるのだろう。陸軍中将だった黒崎延次郎は、陸軍科学研究所の所長を最後に陸軍を退役することが見えはじめたため、下落合に自邸を建設したのではないか。実際には、陸軍科学研究所を退任したあと、短期間だが陸軍技術本部の本部長をつとめている。しかし、同本部の勤務先は陸軍科学研究所と同一の敷地内であり、下落合の南にあたる戸山ヶ原Click!だった。
 黒崎邸の姿がわかったことで、もうひとつ判明した事実がある。1927年(昭和2)の冬ないしは早春に描かれたとみられる(左下にサイン+1927が記載されている)、関東大震災Click!後の軽量なスレート葺きかトタン葺きの屋根なのだろう(東京府は一時期、家屋の倒壊で犠牲者が多かった重たい瓦屋根の仕様を、新築家屋に禁止していた)、佐伯独特の白い“てかり”表現が印象的な「下落合風景」の1作(冒頭写真)で、「八島さんの前通り」沿いに描かれた家屋は、植木職をなりわいとする高田邸だとみられることだ。同作は大阪での頒布会用か、または1927年(昭和2)6月17日~30日にわたり上野の日本美術協会で開催された、1930年協会第2回展Click!に向けて制作されたものだろう。
 ずいぶん以前に、同作の描画ポイントを特定した際、わたしは描かれた住宅を「下落合事情明細図」(1926年)から、黒崎邸ないしは高田邸ではないかと想定Click!していた。だが、前述のように黒崎邸の姿はまったく異なる大きな屋根を載せた西洋館のようであることを考慮すれば、同作に描かれた家屋はその南に位置する高田邸と規定することができる。すなわち、以前の描画ポイントよりも50mほど通りを南に下がった道路端に、佐伯はイーゼルを立ててキャンバスに向かっていることになるのだ。
 佐伯祐三アトリエClick!から、南西へ直線距離で85mほどの「八島さんの前通り」の道端で、佐伯は南南西を向いて大震災後に瓦屋根を廃した高田邸をとらえている。そして、右手にある整地が済み大谷石による縁石または下水溝が設置された土地は、高田家の敷地北側を整地して新たな宅地に整備したものだろうか。あるいは、「下落合事情明細図」に収録されている竣工したばかりの黒崎邸に南接する別の敷地で、画面が描かれた時点では住宅を建設中だったかもしれない。いまだ造園業者の手が入っておらず、ひょっとすると庭づくりは南隣りの高田家が手がけていた可能性ありそうだ。
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 描かれた下落合1444番地の高田邸は、「下落合事情明細図」では「植木職」として採取されているが、植木農園Click!を営む下落合の地主(旧家)だった可能性が高い。事実、この高田邸のすぐ南側には、植木農園とみられる広い植林エリアがいくつか拡がっていた。『落合町誌』には、この高田家は残念ながら収録されていないが、下落合には江戸期からつづくとみられる「高田」姓の旧家が多い。
 1939年(昭和14)に出版された、下落合2丁目(現・下落合3丁目の西側と4丁目全体、中落合2丁目の東側を含むエリア)の町会である『同志会誌』Click!(下落合同志会)によれば、1925年(大正14)~1929年(昭和4)の間に役員をつとめた「高田」姓の人物は5人おり、このうち『落合町誌』に収録された「高田」姓と一致する人物はひとりもいない。高田幸三と高田勇次郎、高田菊蔵、高田芳郎、高田幸三郎の5名だが、下落合1444番地の高田邸はそのいずれかの邸だったのかもしれない。
 再び、「下落合風景」の画面にもどろう。高田邸の南側には、当時もいまも細い路地が東西に通じており、高田邸の裏(南側)で隠れがちにチラリと見えている屋根は、「出前地図」によれば今井邸だろう。そして、高田邸の庭木を透かして描かれているように見える屋根が福田邸、すなわち中村彝アトリエClick!へ頻繁に出入りし、清水多嘉示Click!もときどき画集づくりのために立ち寄っていたとみられる、下落合1443番地の福田久道邸Click!木星社Click!の建物だと思われる。「出前地図」には「福田」の姓ではなく、門には社名の看板がかけられていたのだろう、「木星社」として採取されている。
 曇りがちな空の下、通りには子どもとみられる人物がふたり(手前)と、大人とみられる人物(通りの中央と奥)がふたり描かれているが、「八島さんの前通り」をこのまま南へ進むと道は左手(東側)にカーブし、ほどなく徳川義恕邸Click!の脇に通う急峻な西坂へとかかる。時間帯は、光が上空のやや右寄りから射しているように見え、午後の早い時刻のように思えるので、手前の子どもふたりは落合第一小学校Click!から下校Click!する途中だった、低学年の生徒たちなのかもしれない。
 さて、冒頭の「下落合風景」画面についてあれこれ調べているうちに、もうひとつ異なるテーマが浮上してきた。それは、この画面とまったく同様の構図で描かれたとみられる作品が、1927年(昭和2)6月に開かれた1930年協会第2回展に出品されているわけだが、第2回展会場を撮影した写真にとらえられた画面と、冒頭作品の画面がどうやら一致しないのだ。
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 第2回展の会場写真とは、作品が展示されているフロアの中央に設置されたベンチに、佐伯祐三や木下孝則Click!里見勝蔵Click!が座り、木下の背後には前田寛治Click!が立って、どうやら1930年協会の会員たちが記念撮影に応じている姿をとらえた1枚だ。会場の壁面左端には、佐伯の「下落合風景」3点が展示されているのが見えている。このうち、「八島さんの前通り」を北側から描いた画面Click!と、六天坂の坂下から中谷邸Click!を描いたとみられる未知の画面Click!は、すでに記事で取りあげご紹介している。問題は、左側の最上段に展示されている作品だ。
 少し前まで写真の作品は、この記事の冒頭に掲載した画面と同一作品だと考えていた。だが、今回の記事を書くために、資料類を細かく見なおしていたところ、画面がかなり異なっているのに気づいたのだ。おそらく、「八島さんの前通り」沿いに建っていた高田邸を描いた画面であることはまちがいないようだが、空の広さ(会場写真の画面は空が狭い)や道路の形状(会場写真は描く角度が異なるのか手前の道路が直線状)、視点の位置(会場画面のほうがやや高めに見える)、高田邸の形状(会場画面の高田邸の幅が狭く見える)、樹木の繁り方(会場画面のほうが濃く見える)など、どうやら両作は異なる画面のようなのだ。
 佐伯祐三は、同じ風景のモチーフを同時に何枚も、あるいは時間を空けて複数のバリエ―ションを描いているのは周知の事実だが、この記事の冒頭に掲載した画面と、会場写真にとらえられた画面とは別作品ではないだろうか。どちらがバリエーションかは不明だが、記事冒頭の画面には左下にサインと制作年が入れられているので、同作がもっとも出来がよく佐伯自身が気に入っていた作品なのかもしれない。
 さて、いつものように空中写真で描画ポイントを特定してみよう……といきたいのだが、1936年(昭和11)の写真を参照すると、高田邸の周辺はかなり変化が激しかったようで、すでに黒崎邸の大きな建物が存在せず、小さめな住宅に変わっている。黒崎邸の東隣り、「八島さんの前通り」をはさんだ大きな大塚邸も解体され、すでに吉田博・吉田ふじをアトリエClick!が建設されている。また、同作に描かれた高田邸は、屋敷林が繁り屋根がどこにあるのかよくわからない。同様に、高田邸の路地をはさんで南側に建っていた福田邸(木星社)と今井邸も、樹木だらけで屋根のかたちがハッキリとらえられていない。
 昭和初期に起きた金融恐慌から大恐慌の時代をへているので、家々の動きも慌ただしかった様子が見てとれるが、「八島さんの前通り」は青柳ヶ原Click!国際聖母病院Click!が建設され聖母坂Click!が拓かれるまで、補助45号線Click!に指定された幹線道路なので付近の人々の往来が頻繁だった。どなたか、当時の黒崎邸や高田邸を写真に収めた方はいないだろうか。
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 大正末に建設された、鋭角で大きなワインレッドの屋根を載せた黒崎延次郎邸は、佐伯祐三アトリエの斜向かいにあった養鶏場Click!跡に建設される、ハーフティンバー様式を採用した中島邸(のち早崎邸)Click!のような、シャレた意匠だったのではないかと想像している。

◆写真上:1927年(昭和2)冬か早春に制作されたとみられる佐伯祐三『下落合風景』。
◆写真中上は、1925年(大正14)作成の「出前地図」にみる高田邸と周辺の様子(北が下)。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる高田邸。は、たまたま手前が空き地になっていて面影が感じられる高田邸跡の現状。
◆写真中下は、冒頭の『下落合風景』の部分拡大。は、1927年(昭和2)5月ごろ制作された『下落合風景』の部分拡大。は、同作品の全体画面。
◆写真下は、1930年協会第2回展の会場写真で記念撮影をする佐伯祐三らメンバー。は、第2回展の展示場に架けられた作品の部分拡大と画面の比較。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる高田邸および佐伯アトリエとその周辺の様子。

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甲斐仁代アトリエから吉屋信子邸への散歩道。 [気になる下落合]

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 吉屋敬様は、鎌倉Click!長谷Click!に住む叔母に「将来なにになりたいの?」と訊かれ、「作家になりたい」と答えたら非常に厳しい表情と言葉を向けられたそうだ。もちろん、その叔母とは下落合2108番地で暮らした吉屋信子Click!だ。
 吉屋敬様は、その後オランダで画家になり、美術家および作家としてオランダと日本の双方で活躍されている。吉屋信子は、表現者になることがいばらの道であることを身をもって体験Click!しているので、姪にその厳しさを伝えようとしたものか、あるいは「やめなさい」といいたかったのかもしれない。
 今回は、オランダから帰国された吉屋敬様と、吉屋信子Click!が絵画作品の大ファンだった甲斐仁代Click!の甥にあたる甲斐文男様とともに、目白文化村Click!のすぐ北側にあった下落合1385番地の甲斐仁代・中出三也アトリエClick!から、上記の吉屋信子邸Click!までの散歩道Click!をたどる街歩きをすることになった。甲斐文男様は、茨城県の常陸大宮で「ギャラリー甲斐仁代」Click!を経営されていて、美術史にも通じている方だ。
 いっしょに散歩されるのは、建築家の今井秀明様Click!とグラフィックデザイナーの榊原惠次様、それに案内役のわたしの3名だ。いちおう、想定した散歩のシナリオを書かせていただくと、甲斐仁代アトリエへ目白文化村の散歩がてらに立ち寄った吉屋信子が、かたわらで仕事をする中出三也Click!をチラッチラッと気にしつつ、甲斐仁代の最新作の中からいちばん気に入った「花」がモチーフの作品を購入し、愛犬とともに自邸まで帰ってくる……というストーリー展開だ。時期は1927年(昭和2)3月、とある春のそよ風が吹く穏やかな日の午後、いまから96年前に起きた下落合(現・中落合/中井含む)の情景だ。
 落合第二府営住宅Click!から目白通りを左折し、竹田助雄Click!邸の近くにある「やよい公園」脇の、いまでも当時の道筋がよく残る下落合1385番地の甲斐仁代・中出三也アトリエ前からスタート。ふたりが住むアトリエ写真は、いまだ探しだせないでいるが、甲斐仁代と中出三也が上高田422番地へ転居したあと、入れ替わるように下落合の同地番へ入居しているのが新婚の松下春雄・淑子夫妻Click!だ。松下春雄は、甲斐仁代とほぼ同時期に岡田三郎助Click!の門下生だったので、以前から画家仲間として知りあっており、結婚を間近にひかえ新居を探す下落合1445番地の鎌田方Click!に下宿していた松下春雄へ、下落合からの転居を予定していた甲斐仁代が声をかけた可能性が高い。
 松下春雄は、下落合1385番地のアトリエで長女・彩子様Click!が生れたため、アトリエの周辺写真を数多く残している。その中に、同住所のアトリエをとらえた1928~1929年(昭和3~4)の写真が何枚かあり、それが1928年(昭和3)まで甲斐仁代と中出三也が暮らした建物だとみられる。また、このアトリエから西へつづく行き止まりの路地(私道)の右手には、宇野千代Click!が発行していた「スタイル」のAD(アートディレクター)だった松井直樹Click!が住んでいたので、宇野千代もまたこの道筋を歩いてファッション誌のパートナーのもとを訪ねていたかもしれない。
 甲斐仁代・中出三也アトリエをあとにした一行は、第一文化村の湧水源である谷戸へとさしかかる。吉屋信子が、愛犬のリードを外して遊ばせたかもしれない弁天池Click!の脇を通って、第一文化村の東西にかよう通りを文化村倶楽部Click!から箱根土地本社ビル(+不動園)Click!のほうへと歩く。倶楽部の脇を右折(南進)して、目白文化村の中でももっとも古い初期の住宅が建ち並んでいる(いた)一画Click!、突きあたりに神谷邸Click!のある二間道路を右折する。犬を連れて散歩する、吉屋信子の目撃情報が多かったあたりだ。
 東から西へ歩くと、女性が設計した右手の末高邸Click!、当初の門柱や縁石がそのまま残る当時は箱根土地の建築部にいた、F.L.ライトClick!の弟子の河野伝Click!が設計した中村邸Click!、岸田国士がよく通ってきていた関口邸Click!、建設当初はテニス好きな安食邸Click!で、のちに文化村秋艸堂Click!となる会津八一邸Click!、同じくライトの弟子の河野伝が設計したとみられる神谷邸などなど、当時の第一文化村の住宅写真をご覧いただきながら、吉屋信子が実際に目にしていた街の様子をイメージして歩いていただく。神谷邸の門は2014年(平成26)ごろまで、関口邸の門は2015年(平成27)ごろまでそのまま保存されていたが、建て替えで撤去されてしまった。
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 ここから南に歩けば第二文化村へと抜けるが、左手に外観が西洋館で中が和室の鈴木邸Click!と、右手に広々とした庭の大きな松下邸Click!を眺めつつ丘上を歩ける二間道路が、現在は十三間通り(新目白通り)Click!で断ち切られているので、山手通りClick!との交差点まで迂回し、三間道路から南側の第二文化村へと入る。振り子坂Click!安東邸Click!が、数日前に解体されてしまったことを残念がりつつ、宮本恒平アトリエClick!前から片岡鉄兵邸Click!前を通り、島峰徹邸Click!跡の「延寿東流庭園」でひと休み。石橋湛山邸Click!を見学したあと、佐伯祐三の『下落合風景』シリーズClick!の1作「テニス」Click!のコート前を通って、下落合中部から西部へのアビラ村(芸術村)Click!への道(坂上通り)に入る。
 一ノ坂へ入ったところにある川口軌外アトリエClick!と、現在は山手通りに面した崖上の邸Click!になってしまったが、吉屋信子からプレゼントされたグレーのスーツClick!を着て吉屋信子のもとへ颯爽と現れた矢田津世子Click!についてお話ししつつ、アビラ村の道の帰路を自邸に向けて歩く吉屋信子をイメージしていただく。蘭搭坂(二ノ坂)Click!上では、岡倉天心Click!のもとにいた狩野芳崖の「四天王」だった日本画家の岡不崩アトリエClick!本多天城アトリエClick!などに触れつつ、解体されてしまった金山平三アトリエClick!や大勢の画家たちのアトリエについてお話しし、三ノ坂上では島津源吉邸Click!刑部人アトリエClick!について、四ノ坂上では松本竣介アトリエClick!についてなどをご説明する。アビラ村の道を散歩した吉屋信子も、上記の画家たちの何人かは知っていただろう。
 さて、四ノ坂と五ノ坂の間にある、下落合2108番地の吉屋信子邸へと向かう二間道路を左折する。このあたりの目白崖線のピークは、アビラ村の道ではなくこの道を100mほど南へ進んだあたり、吉屋信子邸の手前30mほどのところにあり、新宿駅の西口一帯が一望のもとに見わたせる。現在は、東京都庁Click!をはじめ新宿の高層ビル街が拡がるが、手前に低層マンションが建っているため吉屋邸跡に近づくほど眺望がきかない。
 ……崖線のピークなので、新聞紙に包まれた甲斐仁代のキャンバスが強めの西風に少しあおられながら、吉屋信子は愛犬の名前(シロ?)を呼んでリードを少し引く。彼女は、午後の光でかすみがちな淀橋浄水場Click!を一瞥しながら、不在中に菊池寛Click!が胃薬を2粒ほど置いて帰った、「吉屋信子」の表札が嵌めこまれた門柱を入ると、リードを外して愛犬を庭に放った。彼女はポーチのイスに座ると、細紐をほどき待ちきれずに新聞紙を破いて10号Pサイズのキャンバスを取りだし、甲斐仁代の最新作をじっくり眺める。
 今度はどこの壁に飾ろうかと、しばらくあれこれ思案していたが、腰高の本棚上の壁面が空いているのを思いだし、さっそく家に入ると壁にキャンバスをあててみた。一昨年(1926年/大正15)に雑誌「婦人世界」の主催で開かれた「女流美術展覧会」で、甲斐仁代は『人形』を出品して金賞・金牌を受賞しているが、先ほど立ち寄ったアトリエには「花」のタブローが数多く置かれていた。キャンバスには、花瓶に活けられた花の静物が描かれており、このところ多い甲斐仁代の静物画「花」シリーズの1作だ。吉屋信子の『花物語』の展開を、どこかで強く意識している画面なのかもしれない。
 花物語の挿画は、これまで結婚して神戸に移住してしまった渡辺ふみ(亀高文子)Click!蕗谷虹児Click!らが担当していたが、いつか編集部に甲斐仁代による挿画を推薦してみようと思い立つ。この画面に似合う額を探しに、明日は目白通りの画材屋を何軒かのぞいてみようと思いながら、勤めから帰った門馬千代に「また甲斐さんのアトリエにいったの? また買ったの!」といわれそうなので、あれこれ言いわけを考えながら、まだ生乾きのような艶やかさが残るキャンバスを、本棚の上へ斜めに立てかけてみる。
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 さて、甲斐仁代の画面を眺めながら、満足げに3時の紅茶を飲む吉屋信子を家に残したまま、散歩の一行はつづきのコースを歩きつづける。吉屋邸の向かいには、五ノ坂へと抜けられる細い路地が通っている。少し前までは、土がむき出しの昔ながらの路地だったが、細さは変わらないものの近年になって舗装されている。五ノ坂へ出て少し下ると、吉屋信子の時代には右手に大きな和洋折衷の屋敷が建っていた。林芙美子が「お化け屋敷」Click!と称していた、家賃25円/月の下落合2133番地にあった林芙美子・手塚緑敏邸Click!だ。吉屋信子邸とは、直線距離でわずか80mほどしか離れていない。
 五ノ坂下に出たあと、そのまま1941年(昭和16)から移り住んだ、のちの林芙美子・手塚緑敏邸Click!へと向かう……はずだったが、みなさんが急に吉屋信子愛用の散歩カメラ「ベストポケット・コダック」で撮影した「牛」の現場Click!を見たいといわれたので、ホルスタインがつながれていた西武線沿いの道を250mほど西進する。この道も、吉屋信子がよく散歩をしたコースのひとつと思われ、1928年(昭和3)に上高田422番地へと転居した甲斐仁代と中出三也のアトリエClick!へ、相変わらず通いつづけていたのかもしれない。「牛」を撮影した現場から、上高田の新たな甲斐仁代・中出三也アトリエまでは、直線距離で500mほどしか離れていない。妙正寺川沿いを愛犬とともにゆっくり歩けば、おそらく10~15分ほどでアトリエを訪問できたはずだ。
 建築家の今井秀明様に「牛」になっていただき、吉屋敬様が吉屋信子役で記念撮影したあと、ゴール地点である林芙美子記念館Click!へと向かう。吉屋信子が、丘上へハイヤーを呼んで出かけていたのを真似て、林芙美子もハイヤーを呼ぶと丘上につけさせ(目の前の中ノ道=中井通りへ呼べばすぐ乗れるのに……)、心臓が弱いにもかかわらず四ノ坂の階段をいちいち上っていたことなどをお話ししがてら、書斎Click!居間Click!、アトリエなど各部屋を見学したあと記念館前で記念撮影。一行は中井駅から電車に乗り、わたしは次の下落合で下車して、みなさんは山手線の高田馬場駅へと向かわれた。
 吉屋敬様によれば、4月27日・28日の2日間にわたり、栃木市の「とちぎ蔵の街ギャラリー」や栃木市立文学館、足利の栗田美術館などをめぐり、没後50年の吉屋信子を記念したさまざまな楽しい展覧会や行事などの各種イベントが開かれるそうだ。吉屋信子は、多感な少女時代を栃木ですごしており、父親の吉屋雄一は同県の下都賀郡長をしていて「谷中村事件」(足尾鉱毒事件)の矢面に立たされた人物だ。吉屋信子の『私の見た人』(朝日新聞)の連載第1回にもあるように、彼女は田中正造Click!にも出会っている。毎日旅行社が東京からバスで一気に会場へと出かけられるツアーを企画中Click!のようなので、吉屋信子に興味のある方はぜひ参加を申し込まれてはいかがだろうか。
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 「谷中村事件」のとき、鉱毒被害者となった村人たちと古河鉱業の板ばさみにあって苦しんだ吉屋雄一だが、古河の足尾銅山所長とともに吉屋郡長へ圧力をかけたのが、下落合435番地に住んだ荒玉水道組合Click!委員の舟橋了助Click!(舟橋聖一Click!の父親)だった。その娘と息子が、同じ下落合の町内に住むことになったのも、どこか因縁めいていて不思議だ。

◆写真上:スタート地点となった下落合1985番地の甲斐仁代・中出三也アトリエ跡に立つ、甲斐仁代の甥の甲斐文男様(左)と吉屋信子の姪の吉屋敬様(右)。
◆写真中上は、下落合西部の雑木林とみられる斜面で制作する甲斐仁代。中上は、1929年(昭和4)2月28日に松下春雄が撮影したアトリエ内の淑子夫人と彩子様。中下は、同年5月31日に松下春雄が撮影したアトリエ前の淑子夫人と彩子様。奥に見える行き止まりの路地が、冒頭写真のふさがれた路地と同一のもの。は、今回の「吉屋信子の散歩道」チームで左から右へ榊原惠次様、今井秀明様、甲斐文男様、吉屋敬様。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる目白文化村の散歩道コース。中上は、同じくアビラ村(芸術村)の散歩道コース。中下は、門柱越しに見る下落合2108番地の吉屋信子・門馬千代邸。は、吉屋邸跡の前での記念写真。
◆写真下は、吉屋信子の本棚の上に架けられた静物画。時期的に見て、甲斐仁代の初期作品である可能性がきわめて高い。中上は、1928年(昭和3)7月ごろに吉屋信子が撮影した七ノ坂下あたりのホルスタイン。中下は、牛になろうとする今井秀明様と止める(?)吉屋敬様。は、ゴール地点の四ノ坂下の林芙美子記念館前で。(お疲れさまでした)
おまけ1
 1929年(昭和4)に撮影された下落合の吉屋信子邸にて、左から右へ当時は五ノ坂下の下落合2133番地に住んでいた林芙美子、雑誌「スタイル」のADだった松井直樹が下落合1384番地に住んでいたため、ときどき下落合を訪れた宇野千代、吉屋信子、下落合のすぐ南の上戸塚593番地(現・高田馬場3丁目)に住んでいた窪川稲子(佐多稲子)Click!
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おまけ2
 吉屋信子邸内で、同時期(おそらく同日)に撮影された同じメンバーによる記念写真。
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「目白会」と「五月会」で検挙された華族たち。 [気になるエトセトラ]

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 学習院を卒業した華族の中には、マルクス主義に共感してシンパになる若者たちがいた。自らの出身である、華族という特権階級(少し前の流行語でいえば「上級国民」)を否定し、人民はみな平等であるという資本主義革命における政治思想(デモクラシー)の入口に立った彼らは、すぐにも資本主義社会が抱える本質的な矛盾に気づき、当時はそれを乗り越えられる唯一の思想ととらえられていた共産主義に傾倒していった。
 学習院高等科を出たあと、東京帝大に進んだ華族の息子たちは、一般学生が多く出入りする新人会Click!帝大セツルメントClick!に属することなく、1930年(昭和5)ごろに「目白会」というサークルを結成している。ちょうど、夫の小林多喜二Click!を虐殺された伊藤ふじ子Click!が打撃からの立ち直りをかけて、喪服姿のまま下落合からプロレタリア美術研究所Click!や帝大セツルメントClick!に通っていたころだ。
 1931年(昭和6)には、すでに特高Click!は「目白会」の会員名簿を入手しており、そこには85名にものぼる学習院出身者が掲載されていた。なぜ、特高がこれほど早く「目白会」の動向をつかみ名簿を手に入れられたのかといえば、当時の共産党指導部に特高の毛利基Click!と通じた「スパイM」こと松村昇=飯塚盈延がいたからだ。
 翌1932年(昭和7)より、特高は地下にもぐった共産党員だけでなく、その支援をするシンパも積極的に検挙しはじめているが、「目白会」では特に共産党へのカンパや、地下活動をする党員へのアジト提供などが取り締まりの対象となり、「目白会」名簿をもとに容疑の選別化が行われている。名簿には、〇印とチェック印が入れられており、〇印は犯罪(治安維持法違反)の「嫌疑十分」、チェック印は「要注意」に分類されていた。
 「目白会」の様子を、1991年(平成3)にリブロポートから出版された浅見雅男『公爵家の娘―岩倉靖子とある時代―』から、その一部を引用してみよう。
  
 「犯罪ノ嫌疑十分(注・もちろん治安維持法違反の嫌疑)」とされたのは十八人で、その名前はつぎのとおりである(ちなみに「要注意」は七名)。/横田雄俊、八条隆孟(以上法学部卒業)、小谷善高、益満行雄、粟沢一男、管豁太、信夫満二郎(以上法学部在学中)、隅元淳、副島種義、森俊守、豊沢通明、井染寿夫、山口定男、田口一男、山田駿一(以上経済学部在学中)、小倉公宗、森昌也、永島永一郎(以上文学部在学中)/関係者の話や当時の資料などから判断すると、これらの中でもとくに熱心に活動していたのは、横田、八条、森(俊)、小谷、管、森(昌)らだったようだ。このうちの何人かは共産党に入党していた。
  
 特高による摘発は1933年(昭和8)1月から行われるが、実際に検挙された「目白会」のメンバーの中には、上掲の名前には含まれていない松平定光(文学部在学中)や、学習院から京都帝大経済学部へ進学した中溝三郎もいた。
 「目白会」の集会は、東京帝大内ではなく目白の学習院構内で開かれ、特高の動向などには特に注意を払わなかったという。このあたりが、“お坊ちゃん”でノーテンキな華族の息子たちらしいが、八条隆孟らが中心となっておもに読書会が開かれていたようだ。当初は岩波文庫の伏字だらけのマルクスなどを読みながら、サークルのメンバーたちで議論をする程度だったので、参加者たちは特に治安維持法の違法行為とは気づかなかったらしいが、そのうち共感が生れたのか共産党への資金カンパにも応じるようになり、「無産者新聞」などの資料配布へ積極的に協力するようになっていった。この中には、下落合の学習院昭和寮Click!に住む学生がいたかもしれず、寮内での活動も想定できそうだ。
 学習院を中心に生まれた、華族の息子たちによる「目白会」のシンパ網のことを、彼らは自ら「ザーリア」と名づけている。だが、資金のカンパといっても小づかい銭程度の少額にすぎず、メンバー同士の結束も強固なものではなかったため、特高に検挙され脅されると次々に「手記」を書いては、「目白会」の内情をベラベラ供述してしまっている。ただし、指導的な役割をはたした八条隆孟と森俊守はすぐに「自白」せず、「改悛」していないと判断されたため起訴されることになった。
 他のメンバーたちは、ほぼ1~2ヶ月のうちに保釈されているが、八条と森は市ヶ谷刑務所に移され、翌1934年(昭和9)早々に法廷に立つことになった。ただし、両名ともすでに「転向」を表明していたため、八条隆孟は1審で懲役3年の実刑判決(控訴せず服役)、森俊守は1審で懲役2年の実刑判決だったが控訴し、2審で懲役2年執行猶予3年の判決を受けている。
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 さて、「目白会」が学習院で読書会を開きシンパを増やしつづけていたころ、同じ目白の日本女子大学校Click!でも「五月会」と称するサークルが結成されていた。1932年(昭和7)5月に創立されたので「五月会」と名づけられたが、その中心にいたのは上村春子であり、のちに「目白会」メンバーだった横田雄俊と結婚して横田春子となる女性だ。その従妹には、「堂上華族」と呼ばれた岩倉具視の曾孫にあたる岩倉靖子がいた。
 岩倉靖子は、もともと女子学習院Click!へ通学していたが、子どもを喪って寂しがっていた叔父の古河虎之助のもとで一時的に暮らすうち、女子学習院では近代女性としての教育を受けられないので、叔父から日本女子大への転校を勧められたといわれる。また、彼女自身もキリスト教への興味が湧き、教会へ通ううちに女子学習院Click!(封建的な超高級花嫁養成学校)の教育内容に疑問をいだいたともいわれている。
 1927年(昭和2)9月、14歳の岩倉靖子は女子学習院の中期8年を修了して退校すると、そのまま日本女子大付属高等女学校3年へ編入している。当時、「堂上華族」と呼ばれた岩倉公爵家の娘が、女子学習院から日本女子大へ転校することなどありえないことだったので、女子学習院の教師から文句をいわれたと岩倉雅子は証言している。また、母親からの影響もあったようだ。愛人と莫大な借金問題で爵位を追われ出奔した、浪費家の父親・岩倉具張に代わって娘を育てあげた妻の岩倉桜子は、靖子を主体的な自我をもった女性に育てたいと思ったのかもしれない。
 岩倉靖子が、付属高等女学校から大学校へと進むころ、3歳年上だった従姉の上村春子からの影響で、共産主義に興味をもったのが「五月会」に加わるきっかけだった。のちに特高に書かされた「手記」で、彼女はこう書いている。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 靖子はこう書いている。/「五月会は党の指導下に創立されました。従つてその目的は上流中流階級の青年の集りを作り、親しむ機会を作って其の個性を観察し、素質のよい人間を選んで働きかけ、日常会話の中に社会問題を持ち込んでアヂリ獲得する事を目的とするのです。そして五月会内の組織を拡大し、資金、家屋の提供をする事も目的とします」/七年三月の段階で、このように明確な目標を立てて動く仲間に入っていたのだから、靖子はそのかなり前から共産党シンパになっていた可能性が高い。さきほど靖子が昭和六年後半から七年初めにはシンパ網に連なっていたのでは、と推測した理由はここにある。
  
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 特高に書かされている「手記」なので、どこまで供述を「受け入れ」られるよう「いいなり」に書いたのかは不明だが、岩倉靖子は「改悛」の情をしめさず「反省」も「転向」もしなかったので起訴され、市ヶ谷刑務所に送られている。
 この「手記」を見ると、「五月会」と「目白会」は明らかに地下で通じており、のちに結婚することになる「目白会」の横田雄俊と「五月会」の上村春子は、両会でシンパの組織化という目的を共有していたことがわかる。「五月会」は、日本女子大のキャンパスで学生たちのオルグをつづけるが、やがて横田雄俊が名古屋の裁判所へ転任することになり、すでに結婚していた横田(上村)春子も夫とともに名古屋へ去ってしまった。
 残された岩倉靖子は、「五月会」の活動をつづけようとしたが、上村春子に比べるとあまり社交的な性格ではなかったために、新たなシンパ獲得はむずかしかったようだ。それでも、彼女が検挙されるまでの間にピクニック3回、運動会、映画鑑賞会3回、演劇会、スキー会2回などを「五月会」イベントとして実施している。彼女の手記は、こうつづけている。
  
 「会員の一人々々の性質をよく知つて、素質のよい者に働きかけるのですが、総括して自己の地位生活に満足し、贅沢な事に慣れてゐる人達なので、階級問題、社会問題に話題を持ち掛ける事も不可能な位でした」「五月会を振り返つて見ると、五月会の合法的発展さへ困難なのに、その中の非合法的発展は一層困難でした。費用倒れになつて、むしろ労力の浪費に終つた様に思ひます。(後略)
  
 特高に検挙されたあとも抵抗し、起訴されて市ヶ谷刑務所に送られた岩倉靖子を「転向」させたのは、従姉の横田(上村)春子の病死と、1933年(昭和8)10月ごろに知らされた横田雄俊の「転向」だといわれている。それまで、「五月会」の詳細な活動内容や関係した人物たちの供述を、いっさい拒んできた岩倉靖子だが、精神的なよりどころだった従姉の死と横田の「転向」で決定的な打撃を受けたのだろう。また、同年10月ごろより獄中で「旧約聖書」を読むことが多くなった。
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 岩倉靖子は1933年(昭和8)12月11日、特高に検挙されてから8ヶ月半ぶりにようやく保釈された。その10日後、12月21日に渋谷にあった岩倉邸の寝室で、両脚をしばり右頸動脈を切断して自刃した。来年にひかえた裁判のことで、岩倉家にこれ以上の迷惑をかけられないと、思いつめたあげくの自裁だったといわれている。まだ、20歳の若さだった。

◆写真上:学習院大学のキャンパスに残る、1913年(大正2)に建設された寮の入口。
◆写真中上は、同じく学習院東別館(寮)。は、1927年(昭和2)建設の学習院理科特別教場。は、学習院の逮捕者が続々と報じられる1933年(昭和8)11月20日の東京朝日新聞。左下には起訴された八条隆孟や森俊守、岩倉靖子らの記事が見える。
◆写真中下は、1877年(明治10)建設の女子学習院(現・学習院女子大学)の正門。は、1906(明治39)年建設の日本女子大学成瀬記念講堂とその内部。
◆写真下は、岩倉靖子の検挙を伝える1933年(昭和8)4月20日の国民新聞。は、大正末に行われた日本女子大の第16回運動会の記念絵はがき。は、保釈から10日後に発行された岩倉靖子の自刃を伝える1933年(昭和8)12月22日の東京朝日新聞。

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残された中華民国公使館官舎の門柱。 [気になる下落合]

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 落合中学校の南西角、七曲坂Click!庚申塚Click!が安置されている三角形の角地の上に、古い門柱がふたつ残されている。中学校のグラウンドをめぐる金網に接しており、たいがい見すごされるか、目にとまっても昔は中学校のグラウンド入口が、階段とともにここにもあったのだろう……ぐらいに考えられがちだ。だが、これは二度にわたる山手空襲Click!でも焼けず、1947年(昭和22)までそのままの姿で建っていた中華民国公使館官舎(翌1948年解体)の門柱だった可能性が高い。
 中華民国公使館は、のちに大使館となる麻布区飯倉町6丁目14番地(現・港区麻布台1丁目)にあったとみられるが、その館員たちが暮らしていた官舎は、下落合326番地(のち下落合1丁目330番地)に建っていた。この官舎がいつごろ建設されたのか、地図をたどってみると、1918年(大正7)の1/10,000地形図には建物が採取されていないが、1921年(大正10)の同地形図にはなんらかの建築物が採取されている。
 ただし、この時代の建物の形状は、のちに建設される官舎の形状とは一致せず、大きな屋敷だったことだけがうかがえる。おそらく、同地にあった男爵の箕作俊夫Click!の邸とその敷地だが、時期的にみて箕作邸Click!をそのまま借り受けることにした同公使館官舎だった可能性は十分にあり、のちにより大規模な建物へとリニューアルしているのかもしれない。箕作俊夫は、1923年(大正12)1月8日に死去しているので、建物や土地ごと中華民国へ貸与している可能性もありそうだ。
 つづいて、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」には、中華民国公使館官舎のネームが大きく記載されている。また、1936年(昭和11)に撮影された空中写真には比較的ハッキリとした同公使館官舎が写っており、このころにはすでに大規模な建築へと建てかえられていたのがわかる。さらに、1938年(昭和13)作成の「火保図」にも同形状の建物が採取されており、戦災にも焼けなかったので戦後米軍が撮影したより精細な空中写真(1947年)では、同官舎の全貌を確認することができる。
 戦後すぐのころ、目白駅で中国兵を見かけたという中井英夫Click!日記証言Click!が残っているが、焼け残った中華民国公使館官舎となんらかの関係があるのかもしれない。1947年(昭和22)の空中写真では、建物の形状や意匠までを仔細に観察することができるが、同年4月には落合第四小学校Click!内に落合中学校が開校し、間をおかず現在の落合中学校の敷地に校舎の建設がはじまっている。
 1951年(昭和26)に落合中学校の校舎が竣工すると、つづけて同公使館官舎の東側に接した土地は落合中学校の第2グラウンドとして整地される。(第1グラウンドは校舎南側で、第2グラウンドが拡張されるとプールを設置) このとき、西側に隣接する同公使館官舎はすでに解体(1948年)され、少し前から跡地(空き地)になっていた。
 1950年代の終わりまたは1960年代の初めごろだろうか、新宿区が旧・公使館官舎跡の広大な土地をすべて買収しているとみられ、のちに落合中学校の第2グラウンドが西へ大きく拡張されることになる。つまり、中華民国公使館官舎(跡)から落合中学校のグラウンドになる時代まで、その間には別の建物や施設がほとんど建設されることなく、そのまま移行しているとみられる。したがって、七曲坂の北東角に残る門柱は、同公使館官舎に付属していた遺構である可能性が高いと思われるのだ。
 次に、中華民国公使館に関する国立公文書館の公文書記録を調べてみよう。日中戦争が激しさを増すと、日本と中華民国は宣戦布告をしないまま事実上の国交断絶状態に陥るので、資料がかなり少ないのではないかと予想したが、空襲による戦災で公文書類が焼けてしまったものか、わたしが想像した以上に残されていた記録が少なかった。その中でも目につくのが、モノを日本に輸入する際の、また中国の知名人たちが訪日する際の通関をスムーズにするよう、中華民国公使館から日本政府(外務省)へ提出された要望書だ。
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 1924年(大正13)に、中華民国の前・総統だった黎元洪が日本の関西地域へ来遊した際、各地で書や揮毫を求める人たちに対して、スケジュールが忙しく満足に対応できなかったため、帰国してから乞われた書24作を、彼は律儀にも天津港から神戸港へ船便で送ってきている。だが、事情を知らない神戸税関では、黎元洪の書を奢侈品と判断して高額な関税をかけたため、中華民国公使館ではこれらの書は日中友好親善のための作品なのだから、なんとか特例を適用してくれという要望書を日本政府に提出している。
 また、1926年(大正15)4月に来日した、ふたつの京劇団についての資料が残されている。一行は横浜港に到着予定で、舞台衣装や大小道具類など携帯品が多数にのぼるため、横浜での通関業務をスムーズに実施してくれるよう、同公使館から日本政府へ要望している。そして、当該の京劇団のうち「小楊月楼」劇団が、このあと日本じゅうから注目を集めるようになる。公文書館には、当時の新聞の切り抜き記事まで含め、この劇団について当時の記録が詳しく保存されている。
 なぜ新聞ダネになったのかといえば、ほぼ同時期に再来日した「坤伶」劇団とは異なり「小楊月楼」劇団は初来日であり、日本の舞台状況や京劇に対する観劇ニーズの詳細を把握しておらず、また業務上でも手ちがいがあったのか、日本における滞在費が中国から送られてこないといった事故も重なって起きたようだ。それに加え、東京の歌舞伎座や本郷座での公演も、客の入りが悪く収支は大赤字つづきだった。
 このような“事故”があると、中華民国公使館の館員たちはフル稼働で、サポート活動していたのだろう。特に衣装・道具・照明係など、106名を抱える「小楊月楼」劇団のようなケースでは、下落合の公使館官舎に住む館員たちは夜を日についで、同胞たちの安全確保や無事に帰国できるよう、各方面への働きかけを行っていたにちがいない。
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 「小楊月楼」劇団は各地で公演を行っているが、滞在する宿泊費や交通費、帰国に必要な費用はおろか、食費までが不足する窮状に陥ってしまう。それが新聞で報道されると、各地から義捐金が集まりはじめた。また、日中親善のための来日なので、外務省をはじめ歌舞伎界や各劇場(と俳優たち)、新聞社、企業、華族などが次々と支援の手を差しのべている。特に同じ俳優仲間である、歌舞伎界の役者たちや帝国劇場Click!をはじめとする新劇の俳優たちは、他人事とは思えなかったのか結束して支援活動を行っている。
 また、当時は外務省に勤務していた侯爵の小村欣一(小村寿太郎の長男)は、中華民国公使館からの要請に対して積極的に応え、外務省と劇場関係者から1,500円という義捐金を劇団一行にとどけている。現在の貨幣価値に換算(物価指数計算)すると、およそ100万円前後となる金額だ。でも、106名もいる「小楊月楼」劇団では、それも数日で費消してしまっただろう。劇団一行は、さらに各地で京劇の公演をつづけているが、宿泊費と食費を得るのがやっとで大きな利益は得られなかった。
 このころの一座は、神田の学生下宿に連泊して宿泊費を浮かしていたが、どうしても帰国する費用が捻出できなかった。それを伝え聞いた東京市民や中国人留学生たちが義捐金の募集をはじめ、500円(現在の32万円前後)ほどの募金を一座へ寄付し、また帝劇の大倉喜八郎Click!からも義捐金がとどけられている。こうして、1926年(大正15)6月27日に、「小楊月楼」劇団の一行106名は神戸港から船で帰国することができた。
 中華民国公使館は劇団の帰国後、外務省をはじめ義捐金を募ってくれた組織や人々に向け、膨大な量の礼状を作成し配送する業務に追われていたと思われる。1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」に収録されている、中華民国公使館官舎で暮らしていた数多くの館員たちは、日々「小楊月楼」劇団のサポートと帰国後の礼状業務に疲れ果てていたと思われる。七曲坂の上、落合中学校のグラウンドに接して残る旧・公使館官舎のものと思われる門柱には、このような物語が秘められていた。
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 門柱の真下には、1816年(文化13)の年紀が刻まれた七曲坂の庚申塚が、そして明治初期に設置された参謀本部Click!二等三角点Click!は、タヌキの森Click!から門柱の北17mほどのところ、現在は落合中学校グラウンドの片隅にひっそりと移設されている。こんな狭い範囲に、江戸期から大正期までの記念物が残されているのは下落合でもめずらしい。

◆写真上:落合中学校の南西角に残る、中華民国公使館官舎のものとみられる門柱。
◆写真中上は、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図にみる下落合326番地の建築物(上)と、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」に採取された中華民国公使館官舎(下)。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同公使館官舎。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同公使館官舎。
◆写真中下は、1947~1951年(昭和22~26)にかけて建設中の落合中学校。は、校舎南側にあった第1グラウンドでの運動会で背景は御留山Click!は、二度の山手空襲からも焼け残った1947年(昭和22)の空中写真にみる同公使館官舎。
◆写真下は、1926年(大正15)に日中親善のため来日した小楊月楼()と、同劇団を支援しつづけた外務省の小村欣一()。は、1926年(大正15)6月20日に発行された都新聞の記事。は、黎元洪の“書”通関に関する中華民国公使館の要望書(上)と、外務省にあてた「小楊月楼」劇団への義捐金やサポートに対する同公使館の礼状(下)。
おまけ
 1957年(昭和32)に撮影された、グラウンドが南と西の2つに分かれていた時代の落合中学校(上)。このあと、第2グラウンドが西へ大幅に拡張され、第1グラウンドの跡地にはプールや植栽スペースが設置された。下の写真は、現在の落合中学校の正門。
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犠牲者が囁きかけてくる言問橋。 [気になるエトセトラ]

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 親父Click!は、わたしが具のほとんど入っていないレトルトカレーを食べていると、心底イヤな顔をしていた。諏訪町Click!に下宿していた学生時代、学校から帰ると賄いとして出されるカレーが、具の入っていないルーだけだったからだ。
 この粉(うどん粉)っぽいルーのみカレーは、配給切符制になった戦時中も、また戦後の食糧難だった時代の下宿でも変わらずにつづいていたらしい。戦災をくぐりぬけた親の世代は、いつかも書いたように花火の音Click!に異常に敏感だったり、上空を大型のプロペラ機が飛んだりすると、ギョッとしたように気にして見あげたりしていたが、食べ物に関わるテーマについてはさらに敏感だった。
 特に、わたしの両親に関していえば、戦中戦後を通じ“代用食”として配給されていた、メリケン粉食品(いわゆる粉料理Click!)とサツマイモClick!には嫌悪感を隠さなかった。もっとも、これらの食品は昔から江戸東京の食文化Click!としても、あまり褒められた“食いもん”でなかったせいもあるのだろう。サツマイモはともかく、わたしがおでんの“ちくわぶ”を喜んで食べるのを見ると、親父が顔をしかめていたのを憶えている。
 連れ合いの義父Click!は、夏にスイカを切っているのを見るのがダメだった。中国戦線での情景を思いだしてしまうのか、あるいは空襲時に負傷者をトラックで下落合の国際聖母病院Click!ピストン輸送Click!する際、頭の割れた遺体でも見かけているのか、パックリ割れたスイカが苦手なのは終生変わらなかった。退役軍人(1941年退役)として、戦争末期には徴用されていた義父もまた、花火の打ちあげ音や大型プロペラ機が上空を飛んでいると、やはり不安げな眼差しであたりを見まわしていたのを思いだす。
 1945年(昭和20)3月10日夜半の東京大空襲Click!で、うちの親父は東日本橋Click!(当時は両国橋の西詰めで西両国Click!)の実家Click!から命からがら東京駅Click!方面へと避難し、義父は翌朝から負傷者を満載した陸軍のトラックを運転して、被災地である(城)下町Click!と下落合とを1日に何度も往復していた。義父は、下落合のわたしの家へ遊びにきて連泊していくと、散歩がてら国際聖母病院Click!の前で立ち止まってはジッと建物を眺めていたが、東京大空襲のあと数日間の惨状を目に浮かべていたのだろう。
 うちの親父は不運としかいいようがなく、高校生(現在の大学教養課程)になってから諏訪町(現・高田馬場1丁目)の下宿で暮らすようになったが、たまたま帰郷していた東日本橋で東京大空襲に遭い、命からがら諏訪町の下宿にもどったところ、今度は同年4月13日夜半Click!5月25日夜半Click!の二度にわたる山手大空襲Click!にも遭遇している。
 親父もそうだが、東京大空襲の3月10日にたまたま(城)下町の実家にもどっていた学生や生徒の数は意外に多い。ちょうど、卒業や学年が変わる時期なので、本来は疎開していたはずの子どもたち、特に高学年の生徒たちがわざわざ卒業式に出席するため、東京の自宅にもどっていたのだ。東京大空襲では、とうに学童疎開Click!していたはずの子どもたちに犠牲者が多いのは、進級や卒業のシーズンと重なっていたためだ。
 先日、隅田川の言問橋の近くを散歩Click!したとき、やはり橋の西詰めにある東京大空襲Click!の慰霊碑へ立ち寄ってしまった。言問橋をわたるとき、この前に立たずにはいられない。1945年(昭和20)3月10日の深夜、本所・向島一帯が火の海になったとき、浅草方面へ逃げようとする膨大な群集が、言問橋を西へわたりはじめた。ところが、浅草も爆撃で大火災が発生していたため、隅田川(浅草川)をわたって本所・向島方面へ避難しようとする群集が、言問橋を東へわたりはじめた。そのとき、橋上の中央付近で群集が衝突し、まったく身動きがとれない状態になった。
 避難する膨大な群集は、言問橋の東西両側から絶えず押し寄せていたため、その圧力は先年の韓国で起きた梨泰院(イテウォン)のハロウィーン事故どころではなかっただろう。このとき、すでに圧死者や負傷者が多数でていたとみられるが、圧力に耐えきれず橋上から隅田川に飛びこんで溺死する人たちも多かったという。言問橋とその周辺が、無数の群集で埋まり身動きがとれなくなったところへ、空襲の大火災で生じた大火流Click!が言問橋を襲った。
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 そのときの様子を、「きかんし」WebサイトClick!に掲載された画家・狩野光男の証言、「川面まで火がなめていく言問橋付近の火焔地獄」から引用してみよう。
  
 隅田川の言問橋のところまで逃げてきたんですが、あまりにも熱いので川に下りる階段の途中まで逃げました。しかし、火は川面をなめていくんですね。そして、川の中にいる人の顔や上半身を焼いていくんです。/炎は川の中央からひどい時は向こう岸まで届いていました。川の中に後から後から人が飛び込んでくるんですが、先に飛び込んだ人が沈んでしまいます。人が何重にもなって、その上にさらに人が乗っかってしまう。/言問橋の上には、橋から見て向島側の人たちは浅草側に向かって、浅草側の人たちは向島側に向かって逃げてきました。そのため、橋の上でぶつかり合って動けなくなってしまいました。だれかの荷物に火がついて、そこから人に火が移りました。橋の上は大火災になりました。下から見ると橋が燃えているように見えるんですが、鉄の橋なので燃えるはずがありません。人が燃えていたんです。欄干に張りついていた人はみんな亡くなりました。飛び降りた人もいましたが、ほぼ亡くなったそうです。
  
 まだ3月なので川の水温は低く、たちどころに低体温症となって意識を失い、大火流で焼かれる前に溺死した人たちもいただろう。ひとたび川に落ちれば流されるので、いったいどれぐらいの遺体が岸辺に打ちあげられず、東京湾まで流されて沈んでしまったのかは不明だ。言問橋の上で焼死した犠牲者は約1,000人といわれているが、隅田川に落ちて(または入って)焼死あるいは窒息死、溺死して流された犠牲者はカウントされていない。
 いつかも書いたけれど、大火事による大火流Click!が発生すると、一帯の酸素が急激に奪われていく。火災を避けるなら川に浸かって、ときにはもぐって炎を避ければいいと考えがちだが、川面を大火流が舐めただけで、空気中から酸素が一瞬のうちに奪われ窒息してしまった犠牲者も少なくなかったとみられる。また、川面を舐める大火流の熱さを避けているうち、水中で溺死してしまった人も多かっただろう。
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 1928年(昭和3)に竣工した言問橋は、現在でもほぼそのままの姿をしているが、橋の四隅に残るネームプレートが嵌められた親柱は、どれもまだら状に黒ずんでいる。これは、単に大火流に焼かれた跡ではなく、犠牲者の血や脂肪が石材の表面に焼きつけられてしまい、長年の風雨にさらされても落ちないのだと聞いた。同様のケースは、表参道の大灯籠でも聞いている。大灯籠の下に盛りあがって焼かれた犠牲者の脂肪や血が、石材の表面に沁みこんでしまい、何度も繰り返し洗浄しても決して取れないのだとか。こういうものを目にするとき、この土地が前世代からそのまま“地つづき”なのを実感する瞬間だ。
 東京大空襲で両親と妹たちを失った画家・狩野光男は、「大混乱の隅田公園」の中で次のように書いている。同サイトより、再び引用してみよう。
  
 その中を逃げて隅田公園に行ったんですが、家の近所や日本堤などから逃げてきた人が殺到して、いっぱいになってしまいました。隅田公園には高射砲陣地があってふだんは入れなかったんですが、緊急事態ですからみんな入ってしまいました。/周りには木もあるし、このまま助かるのかなと思っていたんですが、そのうち火の手が迫ってきました。火の粉がものすごい勢いで突き刺さってきます。それから急激に酸素がなくなってきて、呼吸が困難になりました。/防空頭巾というのはいいようで、危ないものなんです。布でできているので火の粉がつくと、気づかないうちに燃えてしまうんですね。それが着物に移って燃えだして初めて気がつくんですが、その時はすでに遅く、全身が炎に包まれて、そのまま倒れてしまうか、絶叫して走っていく。そんな状況がだんだん周りで起こってきました。
  
 いつか、「大火事の近くには絶対に近づくな」という、親父の言葉とともにご紹介Click!したことがあったが、大火流が起きるような大規模な火災の場合、酸素が急速に奪われるだけではない。衣服が極端に乾燥するため、わずかな火の粉を浴びただけで、一瞬のうちに全身が火だるまになってしまう事例が数多く見られた。著者は防空頭巾のことを書いているが、現在、学校で用意されている地震などに備えた「防災頭巾」も、防空頭巾からまったく進歩していない、燃えやすい布製のままだ。大震災で大火事が起きなければいいが、起きたときの危険性がそのままなのが、かなり以前から気になっている。
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 少し前にも書いたが、地元の自治体では東京大空襲で犠牲になった市民の遺骨や、行方不明になったとみられる犠牲者の捜索Click!を、21世紀の今日までつづけている。戦後78年がすぎ、10万人をゆうに超えるとされる死者・行方不明者だが、一家全滅や隣り近所の街角全滅、ひどいところでは地域一帯が全滅したり、また上記のように川から東京湾へと消えたままになるなど証言者が見つからず、さらに、東京に住まいをもたない季節労働者だったのでカウントされていない人々が、あと何千人何万人いたのか、いまだに見当がつかない。

◆写真上:1992年(平成4)の修理で、東京大空襲慰霊のために保存された言問橋の縁石。
◆写真中上は、花川戸側の隅田公園から写した言問橋。は、大火流による犠牲者の脂肪や血が沁みこんで黒ずむ親柱。は、昭和初期の意匠が残る同橋西詰め。
◆写真中下は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲直後に米軍の偵察機F13によって撮影された隅田川界隈。は、同年3月10日午前10時35分ごろ同機に撮影された言問橋。いまだ火災はつづいており、高度が高くて見えないが言問橋とその周辺は遺体の山だったはずだ。は、画家・狩野光男が描いた『言問橋の火焔地獄』。手前の岸辺では、防空頭巾に火が点いて逃げまい全身が火だるまになっている人物たちが描かれている。
◆写真下は、川に避難した人々もほとんど助からなかった狩野光男『言問橋の惨状』。は、東京大空襲による膨大な遺体を仮埋葬する右岸の隅田公園とその現状。
おまけ
 東京大空襲ではM69集束焼夷弾に加え、1,000~2,000mの低空から250キロ爆弾やガソリンなどがバラ撒かれた。写真は空襲直後に撮影された250キロ爆弾の不発弾だが、いまだに建設工事現場などで、不燃焼の焼夷弾や爆弾の不発弾が見つかることがある。
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遅れてきた1938年(昭和13)のプロレタリア文学。 [気になる下落合]

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 いままで何度か登場している文芸誌「人民文庫」Click!は、戦前の民主主義者や自由主義者、反戦主義者、「転向」「非転向」を問わずプロレタリア作家たちなどをできるだけ結集し、繰り返される特高Click!や憲兵隊による暴力や恫喝、発行妨害などを受けながら、最後まで軍国主義やファシズムに抵抗しつづけた戦前のメディアだ。
 当局の顔色をうかがう文芸誌をはじめ、時局におもねるメディアばかりになってしまった世の中で、唯一、自由にモノが書け発言できる(したがって徹底した弾圧を受けた)文芸雑誌「人民文庫」は、いまでも特異な存在として語り継がれている。現代の状況でいうなら、弾圧につぐ弾圧にもかかわらず生命の危険をおかして最後まで抵抗をやめなかった香港の「アップル・デイリー」や、2017年以降にミャンマーで発行されていた民主派の民間紙誌、繰り返し脅迫や検挙を受けながら現在でも命がけで抵抗をつづけている、ロシアの新聞「ノーバヤ・ガゼータ」やTV「ドーシチ」といったところだろうか。
 それでも、1938年(昭和13)の「人民文庫」1月号をもって、ついに当局により繰り返された発禁弾圧によりつぶされている。これにより、大日本帝国のファシズムや軍国主義、侵略戦争に表立って異議を唱えるメディアは実質的についえた。同誌の発禁に先立ち、1937年(昭和12)12月15日には、共産主義とは直接関係のない民主主義者や社会主義者、自由主義者など約300人が逮捕される第1次人民戦線事件が起きている。また、翌1938年(昭和13)2月1日には、大学を中心に学術分野の学者や研究者たち38名が検挙されている。
 いずれも治安維持法違反(国家転覆)の容疑だが、検察側は起訴理由を公判でまともに維持できず、各地の地方裁判所で次々と無罪判決が下されている。換言すれば、ファシズムや軍国主義によるメチャクチャなデッチ上げ「事件」の弾圧に対する、裁判所(司法)側からの最後の抵抗だととらえられるかもしれない。だが、これらは虚構にもとづく捏造「事件」だったにもかかわらず、起訴された人々は、一度でも「治安維持法違反容疑」というレッテルを貼られただけで「アカ」呼ばわりされ、大学や職場を追われ実質的に社会から葬り去られたに等しい。彼らが社会(職場や大学)へ復帰してくるのは、国家が自ら「亡国」へ推し進み大日本帝国が滅亡した1945年(昭和20)8月15日の敗戦以降のことだ。
 なにやらロシアやベラルーシ、ミャンマー、中国などにおける「民主活動家」や「反戦主義者」たちが追いやられてきた経緯や現状と、いまさらながらソックリそのままなことに気づく。いや、これら新聞に掲載される主要な「事件」に限らず、敗戦間近まで発刊されつづけた「特高月報」Click!に掲載されているように、あまたの一般国民による全国の「反戦」や「民主」、「反政府」、「反軍」など異議申し立ての声は、隣組Click!レベルの言質でさえ、ことごとく当局の暴力や恫喝によって圧殺されていった。
 さて、武田麟太郎Click!(人民社)が主宰する「人民文庫」が廃刊になったのは、単に特高による弾圧だけではなかった。弾圧下のメディアではどこでも見られるように、発禁処分の弾圧をくらうぐらいなら廃刊にして出直すべきだとする一派と、武田麟太郎Click!に発刊の意志がある限り、たとえ号によっては発禁処分になろうともメディアを維持・継続して抵抗すべきだとする一派との、抜きさしならない軋轢や対立が起きていた。廃刊派には高見順Click!新田潤Click!が、継続派にはかつて上落合791番地に住んでいた平林彪吾Click!那珂孝平Click!がいた。このような内部対立は、別に「人民文庫」の例に限らず、どこの国でも言論弾圧を受けつづけるメディアの内部では起きていたことだろう。また、弾圧する側はさまざまな手段を使って、内部対立の扇動と内部崩壊をねらっていたにちがいない。
 1937年(昭和12)の暮れ、両派の板ばさみになっていた武田麟太郎は、発禁による弾圧で発行の資金が枯渇しかかっていたこともあり、ついに「人民文庫」の廃刊を決意する。翌年の「人民文庫」1月号は、即座に特高による発禁処分になるのだが、同号には平林彪吾の『収穫のバトン』が掲載されていた。検閲した特高は、同作の掲載がにわかには信じられず、おそらくわが目を疑ったのではないだろうか。
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 『収穫のバトン』は、大正期から昭和の最初期までつづくプロレタリア文学の全盛期を思わせるような表現やストーリー展開であり、特高の検閲課にしてみれば繰り返し徹底した弾圧の反復で、とうにこの世から抹殺したはずの作品だったからだ。特高は、すぐにも『収穫のバトン』の執筆・掲載を理由に同号を発禁処分にし、平林彪吾は検挙されただちに起訴されている。2009年(平成21)に図書新聞から出版された松本眞『父 平林彪吾とその仲間たち』によれば、「彪吾は罰金の咎を科せられ、十三年発表された代表作『月のある庭』の稿料で穴埋めした」とされている。
 『収穫のバトン』について、1985年(昭和60)に三信図書から出版された平林彪吾『鶏飼ひのコムミュニスト』に収録された、中尾務による「平林彪吾ノート」から引用しよう。
  
 (前略) この作品については、後年、辻橋三郎によって次のように評価されている。<内心の非転向の告白どころか、運動の継続の決意が語られ、事実、ストライキが指令され、実行されているのである。これは転向文学どころか、まぎれもないプロレタリア文学の姿勢である。>(「『人民文庫』の姿勢」『昭和文学ノート』所収)。
  
 むしろ、平林彪吾の罰金刑で済んだのが不思議なほどの、1938年(昭和13)の時点では危険きわまりない作品であり表現だった。
 だからこそ、武田麟太郎は同年の「人民文庫」1月号が、特高により発禁処分になることを重々見越した承知のうえで、あえて同号を発刊しているともいえる。自身が資財を注ぎこみ全力を傾注してきた「人民文庫」を廃刊にする、なにか直接的なキッカケ(口実)が欲しかったともいえそうだ。では、遅れてきたプロレタリア文学そのものの『収穫のバトン』とは、いったいどのような小説なのだろうか。
 物語は、思想犯として刑務所に収監されている組合運動の活動家(坂本)に面会しに、坂本を慕う親友の妹でタイピストとして働く“織”が、面会所を訪れて坂本に求婚する場面からはじまる。服役中の坂本は、すでに病身で結核にむしばまれており、みすみす織を不幸にするのがわかっているので、彼女からの求婚をかたくなに拒絶するのだが、ついに織の情熱にほだされて1ヶ月後に獄中結婚することになる。
 やがて坂本の病状が重篤となり、刑の執行停止とともに釈放されて、ようやく織が借りていた新居にふたりで住めるようになったが、坂本は重症で寝たきりの状態がつづく。しばらくすると、織の知らない坂本がかつて勤務していた職場の同僚と思われる私鉄社員の男(村田)が訪ねてくる。その翌日には、織が知らないうちに坂本は外出し、高熱を出しながらフラフラになって帰ってきた。そして、喀血しながら妻に口述筆記を依頼する。
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 「酒川電鉄従業員諸君!」(中略)「会社はわれわれの希望を拒絶したのみか、嘆願書を持って行った五人の代表者を何の理由もなく馘首した」……ではじまる、ストライキに向けた労働組合の檄文だった。検挙され会社を馘首される前、労働組合の活動家だった坂本は、現在の組合員から活動についてのいろいろなアドバイスを求められ、それに応じるために病身を押して外出していたのだ。『収穫のバトン』から、少し引用してみよう。
  
 今、彼の頭には村田たちの姿がひっきりなしに去来していた。かつての華々しかった闘士や指導者たちは没落した世の相に悲しみもしたが、しかし今日坂本は村田たちの会合に出てそれが小さな悲しみにすぎなかったことを発見してうれしかった。果知らぬ転向時代の如く見ゆるものはあるが、それは主としてインテリやジャアナリズムの上のことであって、実際の原動力たる職場の若い労働者たちの間に絶望どころか、坂本は大きな感動を受けた。
  
 織は、病状が悪化してまで活動する夫を「苔の生えたピューリタン」と批判し、坂本は妻を「エゴイスチックな考え方」と批判して、夫婦喧嘩のゴタゴタや心の葛藤が描かれるが、結局、織は代筆をした夫の檄文を嵐の夜に村田の家へとどけた。
 翌朝、様子を見てくるよう夫に頼まれた織は、近くにある酒川電鉄の駅に出かけた。駅には、夫の代筆をした檄文が印刷されて貼られており、線路には子どもたちが入りこんで遊んでいた。駅員はおらず、駅長が詰めよる乗客たちの対応に追われていたが、電車は1本も動いてなかった。織は、子どものように心が浮き立つのを感じて急いで帰宅し、「電車なんか一台も動いていませんよ」と枕もとで報告する。そして、「あなたの所謂バトンは村田さんたちが受け取って立派に役立てたというわけね」と弾んだ声でいった。織がいう「所謂バトン」とは、坂本がこんなことをいっていたのに由来している。
  
 「僕の持っている智識でも、歴史や先輩隣人や社会から譲り受けた人類の精神的財産で、僕の勝手に始末していいものではない、この収穫のバトンを次から次へと渡してゆくことによって人類の生活は少しずつ理想の形へ近づいて行くのだ。それが進歩だ、そのバトンを溝へ捨てて次代へ渡さないということは僕の良心が許さないのだ」
  
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 「1粒の砂が落下によりどれだけの砂を動かすか」や、ひたすら高く積みあげた巨大なダムでも「アリの一穴」で大崩壊を起こすなどの発言で、中国共産党による一党独裁支配体制は必ず崩壊すると予言した中国の民主派作家・王力雄をはじめ、投獄され抑圧されつづけている活動家たちのバトンは、はたしてどれぐらいの人々に手わたされているのだろうか? それは中国に限らず、過酷な言論圧殺がつづくミャンマーやロシアの人々の手に……。

◆写真上:一般国民による全国の「反戦」や「民主」「反政府」「反軍」などの検挙事例が数多く掲載された「特高月報」。同月報は、起訴にいたる大きめな検挙の収録がメインで、一般市民に対する微小な摘発事例や憲兵隊による兵士の摘発事案を加えれば、国民に対する弾圧件数は数十万件になるといわれている。
◆写真中上は、1937年(昭和12)に人民社から発行された「人民文庫」1月号()と3月号()。は、同年に発行された同誌9月号()と10月号()。
◆写真中下は、「人民文庫」の人民社を主宰した武田麟太郎()と、『収穫のバトン』を書いた平林彪吾()。は、廃刊を主張した高見順()と新田潤()。
◆写真下は、「人民文庫」が1月号で廃刊になる1938年(昭和13)に撮影された書籍や雑誌・新聞などを検閲する警視庁の特別高等警察部検閲課。は、1938年(昭和13)2月2日の「第2次人民戦線事件」を伝える東京朝日新聞。

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