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遅れてきた1938年(昭和13)のプロレタリア文学。 [気になる下落合]

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 いままで何度か登場している文芸誌「人民文庫」Click!は、戦前の民主主義者や自由主義者、反戦主義者、「転向」「非転向」を問わずプロレタリア作家たちなどをできるだけ結集し、繰り返される特高Click!や憲兵隊による暴力や恫喝、発行妨害などを受けながら、最後まで軍国主義やファシズムに抵抗しつづけた戦前のメディアだ。
 当局の顔色をうかがう文芸誌をはじめ、時局におもねるメディアばかりになってしまった世の中で、唯一、自由にモノが書け発言できる(したがって徹底した弾圧を受けた)文芸雑誌「人民文庫」は、いまでも特異な存在として語り継がれている。現代の状況でいうなら、弾圧につぐ弾圧にもかかわらず生命の危険をおかして最後まで抵抗をやめなかった香港の「アップル・デイリー」や、2017年以降にミャンマーで発行されていた民主派の民間紙誌、繰り返し脅迫や検挙を受けながら現在でも命がけで抵抗をつづけている、ロシアの新聞「ノーバヤ・ガゼータ」やTV「ドーシチ」といったところだろうか。
 それでも、1938年(昭和13)の「人民文庫」1月号をもって、ついに当局により繰り返された発禁弾圧によりつぶされている。これにより、大日本帝国のファシズムや軍国主義、侵略戦争に表立って異議を唱えるメディアは実質的についえた。同誌の発禁に先立ち、1937年(昭和12)12月15日には、共産主義とは直接関係のない民主主義者や社会主義者、自由主義者など約300人が逮捕される第1次人民戦線事件が起きている。また、翌1938年(昭和13)2月1日には、大学を中心に学術分野の学者や研究者たち38名が検挙されている。
 いずれも治安維持法違反(国家転覆)の容疑だが、検察側は起訴理由を公判でまともに維持できず、各地の地方裁判所で次々と無罪判決が下されている。換言すれば、ファシズムや軍国主義によるメチャクチャなデッチ上げ「事件」の弾圧に対する、裁判所(司法)側からの最後の抵抗だととらえられるかもしれない。だが、これらは虚構にもとづく捏造「事件」だったにもかかわらず、起訴された人々は、一度でも「治安維持法違反容疑」というレッテルを貼られただけで「アカ」呼ばわりされ、大学や職場を追われ実質的に社会から葬り去られたに等しい。彼らが社会(職場や大学)へ復帰してくるのは、国家が自ら「亡国」へ推し進み大日本帝国が滅亡した1945年(昭和20)8月15日の敗戦以降のことだ。
 なにやらロシアやベラルーシ、ミャンマー、中国などにおける「民主活動家」や「反戦主義者」たちが追いやられてきた経緯や現状と、いまさらながらソックリそのままなことに気づく。いや、これら新聞に掲載される主要な「事件」に限らず、敗戦間近まで発刊されつづけた「特高月報」Click!に掲載されているように、あまたの一般国民による全国の「反戦」や「民主」、「反政府」、「反軍」など異議申し立ての声は、隣組Click!レベルの言質でさえ、ことごとく当局の暴力や恫喝によって圧殺されていった。
 さて、武田麟太郎Click!(人民社)が主宰する「人民文庫」が廃刊になったのは、単に特高による弾圧だけではなかった。弾圧下のメディアではどこでも見られるように、発禁処分の弾圧をくらうぐらいなら廃刊にして出直すべきだとする一派と、武田麟太郎Click!に発刊の意志がある限り、たとえ号によっては発禁処分になろうともメディアを維持・継続して抵抗すべきだとする一派との、抜きさしならない軋轢や対立が起きていた。廃刊派には高見順Click!新田潤Click!が、継続派にはかつて上落合791番地に住んでいた平林彪吾Click!那珂孝平Click!がいた。このような内部対立は、別に「人民文庫」の例に限らず、どこの国でも言論弾圧を受けつづけるメディアの内部では起きていたことだろう。また、弾圧する側はさまざまな手段を使って、内部対立の扇動と内部崩壊をねらっていたにちがいない。
 1937年(昭和12)の暮れ、両派の板ばさみになっていた武田麟太郎は、発禁による弾圧で発行の資金が枯渇しかかっていたこともあり、ついに「人民文庫」の廃刊を決意する。翌年の「人民文庫」1月号は、即座に特高による発禁処分になるのだが、同号には平林彪吾の『収穫のバトン』が掲載されていた。検閲した特高は、同作の掲載がにわかには信じられず、おそらくわが目を疑ったのではないだろうか。
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 『収穫のバトン』は、大正期から昭和の最初期までつづくプロレタリア文学の全盛期を思わせるような表現やストーリー展開であり、特高の検閲課にしてみれば繰り返し徹底した弾圧の反復で、とうにこの世から抹殺したはずの作品だったからだ。特高は、すぐにも『収穫のバトン』の執筆・掲載を理由に同号を発禁処分にし、平林彪吾は検挙されただちに起訴されている。2009年(平成21)に図書新聞から出版された松本眞『父 平林彪吾とその仲間たち』によれば、「彪吾は罰金の咎を科せられ、十三年発表された代表作『月のある庭』の稿料で穴埋めした」とされている。
 『収穫のバトン』について、1985年(昭和60)に三信図書から出版された平林彪吾『鶏飼ひのコムミュニスト』に収録された、中尾務による「平林彪吾ノート」から引用しよう。
  
 (前略) この作品については、後年、辻橋三郎によって次のように評価されている。<内心の非転向の告白どころか、運動の継続の決意が語られ、事実、ストライキが指令され、実行されているのである。これは転向文学どころか、まぎれもないプロレタリア文学の姿勢である。>(「『人民文庫』の姿勢」『昭和文学ノート』所収)。
  
 むしろ、平林彪吾の罰金刑で済んだのが不思議なほどの、1938年(昭和13)の時点では危険きわまりない作品であり表現だった。
 だからこそ、武田麟太郎は同年の「人民文庫」1月号が、特高により発禁処分になることを重々見越した承知のうえで、あえて同号を発刊しているともいえる。自身が資財を注ぎこみ全力を傾注してきた「人民文庫」を廃刊にする、なにか直接的なキッカケ(口実)が欲しかったともいえそうだ。では、遅れてきたプロレタリア文学そのものの『収穫のバトン』とは、いったいどのような小説なのだろうか。
 物語は、思想犯として刑務所に収監されている組合運動の活動家(坂本)に面会しに、坂本を慕う親友の妹でタイピストとして働く“織”が、面会所を訪れて坂本に求婚する場面からはじまる。服役中の坂本は、すでに病身で結核にむしばまれており、みすみす織を不幸にするのがわかっているので、彼女からの求婚をかたくなに拒絶するのだが、ついに織の情熱にほだされて1ヶ月後に獄中結婚することになる。
 やがて坂本の病状が重篤となり、刑の執行停止とともに釈放されて、ようやく織が借りていた新居にふたりで住めるようになったが、坂本は重症で寝たきりの状態がつづく。しばらくすると、織の知らない坂本がかつて勤務していた職場の同僚と思われる私鉄社員の男(村田)が訪ねてくる。その翌日には、織が知らないうちに坂本は外出し、高熱を出しながらフラフラになって帰ってきた。そして、喀血しながら妻に口述筆記を依頼する。
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 「酒川電鉄従業員諸君!」(中略)「会社はわれわれの希望を拒絶したのみか、嘆願書を持って行った五人の代表者を何の理由もなく馘首した」……ではじまる、ストライキに向けた労働組合の檄文だった。検挙され会社を馘首される前、労働組合の活動家だった坂本は、現在の組合員から活動についてのいろいろなアドバイスを求められ、それに応じるために病身を押して外出していたのだ。『収穫のバトン』から、少し引用してみよう。
  
 今、彼の頭には村田たちの姿がひっきりなしに去来していた。かつての華々しかった闘士や指導者たちは没落した世の相に悲しみもしたが、しかし今日坂本は村田たちの会合に出てそれが小さな悲しみにすぎなかったことを発見してうれしかった。果知らぬ転向時代の如く見ゆるものはあるが、それは主としてインテリやジャアナリズムの上のことであって、実際の原動力たる職場の若い労働者たちの間に絶望どころか、坂本は大きな感動を受けた。
  
 織は、病状が悪化してまで活動する夫を「苔の生えたピューリタン」と批判し、坂本は妻を「エゴイスチックな考え方」と批判して、夫婦喧嘩のゴタゴタや心の葛藤が描かれるが、結局、織は代筆をした夫の檄文を嵐の夜に村田の家へとどけた。
 翌朝、様子を見てくるよう夫に頼まれた織は、近くにある酒川電鉄の駅に出かけた。駅には、夫の代筆をした檄文が印刷されて貼られており、線路には子どもたちが入りこんで遊んでいた。駅員はおらず、駅長が詰めよる乗客たちの対応に追われていたが、電車は1本も動いてなかった。織は、子どものように心が浮き立つのを感じて急いで帰宅し、「電車なんか一台も動いていませんよ」と枕もとで報告する。そして、「あなたの所謂バトンは村田さんたちが受け取って立派に役立てたというわけね」と弾んだ声でいった。織がいう「所謂バトン」とは、坂本がこんなことをいっていたのに由来している。
  
 「僕の持っている智識でも、歴史や先輩隣人や社会から譲り受けた人類の精神的財産で、僕の勝手に始末していいものではない、この収穫のバトンを次から次へと渡してゆくことによって人類の生活は少しずつ理想の形へ近づいて行くのだ。それが進歩だ、そのバトンを溝へ捨てて次代へ渡さないということは僕の良心が許さないのだ」
  
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 「1粒の砂が落下によりどれだけの砂を動かすか」や、ひたすら高く積みあげた巨大なダムでも「アリの一穴」で大崩壊を起こすなどの発言で、中国共産党による一党独裁支配体制は必ず崩壊すると予言した中国の民主派作家・王力雄をはじめ、投獄され抑圧されつづけている活動家たちのバトンは、はたしてどれぐらいの人々に手わたされているのだろうか? それは中国に限らず、過酷な言論圧殺がつづくミャンマーやロシアの人々の手に……。

◆写真上:一般国民による全国の「反戦」や「民主」「反政府」「反軍」などの検挙事例が数多く掲載された「特高月報」。同月報は、起訴にいたる大きめな検挙の収録がメインで、一般市民に対する微小な摘発事例や憲兵隊による兵士の摘発事案を加えれば、国民に対する弾圧件数は数十万件になるといわれている。
◆写真中上は、1937年(昭和12)に人民社から発行された「人民文庫」1月号()と3月号()。は、同年に発行された同誌9月号()と10月号()。
◆写真中下は、「人民文庫」の人民社を主宰した武田麟太郎()と、『収穫のバトン』を書いた平林彪吾()。は、廃刊を主張した高見順()と新田潤()。
◆写真下は、「人民文庫」が1月号で廃刊になる1938年(昭和13)に撮影された書籍や雑誌・新聞などを検閲する警視庁の特別高等警察部検閲課。は、1938年(昭和13)2月2日の「第2次人民戦線事件」を伝える東京朝日新聞。

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