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残された中華民国公使館官舎の門柱。 [気になる下落合]

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 落合中学校の南西角、七曲坂Click!庚申塚Click!が安置されている三角形の角地の上に、古い門柱がふたつ残されている。中学校のグラウンドをめぐる金網に接しており、たいがい見すごされるか、目にとまっても昔は中学校のグラウンド入口が、階段とともにここにもあったのだろう……ぐらいに考えられがちだ。だが、これは二度にわたる山手空襲Click!でも焼けず、1947年(昭和22)までそのままの姿で建っていた中華民国公使館官舎(翌1948年解体)の門柱だった可能性が高い。
 中華民国公使館は、のちに大使館となる麻布区飯倉町6丁目14番地(現・港区麻布台1丁目)にあったとみられるが、その館員たちが暮らしていた官舎は、下落合326番地(のち下落合1丁目330番地)に建っていた。この官舎がいつごろ建設されたのか、地図をたどってみると、1918年(大正7)の1/10,000地形図には建物が採取されていないが、1921年(大正10)の同地形図にはなんらかの建築物が採取されている。
 ただし、この時代の建物の形状は、のちに建設される官舎の形状とは一致せず、大きな屋敷だったことだけがうかがえる。おそらく、同地にあった男爵の箕作俊夫Click!の邸とその敷地だが、時期的にみて箕作邸Click!をそのまま借り受けることにした同公使館官舎だった可能性は十分にあり、のちにより大規模な建物へとリニューアルしているのかもしれない。箕作俊夫は、1923年(大正12)1月8日に死去しているので、建物や土地ごと中華民国へ貸与している可能性もありそうだ。
 つづいて、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」には、中華民国公使館官舎のネームが大きく記載されている。また、1936年(昭和11)に撮影された空中写真には比較的ハッキリとした同公使館官舎が写っており、このころにはすでに大規模な建築へと建てかえられていたのがわかる。さらに、1938年(昭和13)作成の「火保図」にも同形状の建物が採取されており、戦災にも焼けなかったので戦後米軍が撮影したより精細な空中写真(1947年)では、同官舎の全貌を確認することができる。
 戦後すぐのころ、目白駅で中国兵を見かけたという中井英夫Click!日記証言Click!が残っているが、焼け残った中華民国公使館官舎となんらかの関係があるのかもしれない。1947年(昭和22)の空中写真では、建物の形状や意匠までを仔細に観察することができるが、同年4月には落合第四小学校Click!内に落合中学校が開校し、間をおかず現在の落合中学校の敷地に校舎の建設がはじまっている。
 1951年(昭和26)に落合中学校の校舎が竣工すると、つづけて同公使館官舎の東側に接した土地は落合中学校の第2グラウンドとして整地される。(第1グラウンドは校舎南側で、第2グラウンドが拡張されるとプールを設置) このとき、西側に隣接する同公使館官舎はすでに解体(1948年)され、少し前から跡地(空き地)になっていた。
 1950年代の終わりまたは1960年代の初めごろだろうか、新宿区が旧・公使館官舎跡の広大な土地をすべて買収しているとみられ、のちに落合中学校の第2グラウンドが西へ大きく拡張されることになる。つまり、中華民国公使館官舎(跡)から落合中学校のグラウンドになる時代まで、その間には別の建物や施設がほとんど建設されることなく、そのまま移行しているとみられる。したがって、七曲坂の北東角に残る門柱は、同公使館官舎に付属していた遺構である可能性が高いと思われるのだ。
 次に、中華民国公使館に関する国立公文書館の公文書記録を調べてみよう。日中戦争が激しさを増すと、日本と中華民国は宣戦布告をしないまま事実上の国交断絶状態に陥るので、資料がかなり少ないのではないかと予想したが、空襲による戦災で公文書類が焼けてしまったものか、わたしが想像した以上に残されていた記録が少なかった。その中でも目につくのが、モノを日本に輸入する際の、また中国の知名人たちが訪日する際の通関をスムーズにするよう、中華民国公使館から日本政府(外務省)へ提出された要望書だ。
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 1924年(大正13)に、中華民国の前・総統だった黎元洪が日本の関西地域へ来遊した際、各地で書や揮毫を求める人たちに対して、スケジュールが忙しく満足に対応できなかったため、帰国してから乞われた書24作を、彼は律儀にも天津港から神戸港へ船便で送ってきている。だが、事情を知らない神戸税関では、黎元洪の書を奢侈品と判断して高額な関税をかけたため、中華民国公使館ではこれらの書は日中友好親善のための作品なのだから、なんとか特例を適用してくれという要望書を日本政府に提出している。
 また、1926年(大正15)4月に来日した、ふたつの京劇団についての資料が残されている。一行は横浜港に到着予定で、舞台衣装や大小道具類など携帯品が多数にのぼるため、横浜での通関業務をスムーズに実施してくれるよう、同公使館から日本政府へ要望している。そして、当該の京劇団のうち「小楊月楼」劇団が、このあと日本じゅうから注目を集めるようになる。公文書館には、当時の新聞の切り抜き記事まで含め、この劇団について当時の記録が詳しく保存されている。
 なぜ新聞ダネになったのかといえば、ほぼ同時期に再来日した「坤伶」劇団とは異なり「小楊月楼」劇団は初来日であり、日本の舞台状況や京劇に対する観劇ニーズの詳細を把握しておらず、また業務上でも手ちがいがあったのか、日本における滞在費が中国から送られてこないといった事故も重なって起きたようだ。それに加え、東京の歌舞伎座や本郷座での公演も、客の入りが悪く収支は大赤字つづきだった。
 このような“事故”があると、中華民国公使館の館員たちはフル稼働で、サポート活動していたのだろう。特に衣装・道具・照明係など、106名を抱える「小楊月楼」劇団のようなケースでは、下落合の公使館官舎に住む館員たちは夜を日についで、同胞たちの安全確保や無事に帰国できるよう、各方面への働きかけを行っていたにちがいない。
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中華民国公使館官舎1947翌年解体.jpg
 「小楊月楼」劇団は各地で公演を行っているが、滞在する宿泊費や交通費、帰国に必要な費用はおろか、食費までが不足する窮状に陥ってしまう。それが新聞で報道されると、各地から義捐金が集まりはじめた。また、日中親善のための来日なので、外務省をはじめ歌舞伎界や各劇場(と俳優たち)、新聞社、企業、華族などが次々と支援の手を差しのべている。特に同じ俳優仲間である、歌舞伎界の役者たちや帝国劇場Click!をはじめとする新劇の俳優たちは、他人事とは思えなかったのか結束して支援活動を行っている。
 また、当時は外務省に勤務していた侯爵の小村欣一(小村寿太郎の長男)は、中華民国公使館からの要請に対して積極的に応え、外務省と劇場関係者から1,500円という義捐金を劇団一行にとどけている。現在の貨幣価値に換算(物価指数計算)すると、およそ100万円前後となる金額だ。でも、106名もいる「小楊月楼」劇団では、それも数日で費消してしまっただろう。劇団一行は、さらに各地で京劇の公演をつづけているが、宿泊費と食費を得るのがやっとで大きな利益は得られなかった。
 このころの一座は、神田の学生下宿に連泊して宿泊費を浮かしていたが、どうしても帰国する費用が捻出できなかった。それを伝え聞いた東京市民や中国人留学生たちが義捐金の募集をはじめ、500円(現在の32万円前後)ほどの募金を一座へ寄付し、また帝劇の大倉喜八郎Click!からも義捐金がとどけられている。こうして、1926年(大正15)6月27日に、「小楊月楼」劇団の一行106名は神戸港から船で帰国することができた。
 中華民国公使館は劇団の帰国後、外務省をはじめ義捐金を募ってくれた組織や人々に向け、膨大な量の礼状を作成し配送する業務に追われていたと思われる。1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」に収録されている、中華民国公使館官舎で暮らしていた数多くの館員たちは、日々「小楊月楼」劇団のサポートと帰国後の礼状業務に疲れ果てていたと思われる。七曲坂の上、落合中学校のグラウンドに接して残る旧・公使館官舎のものと思われる門柱には、このような物語が秘められていた。
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 門柱の真下には、1816年(文化13)の年紀が刻まれた七曲坂の庚申塚が、そして明治初期に設置された参謀本部Click!二等三角点Click!は、タヌキの森Click!から門柱の北17mほどのところ、現在は落合中学校グラウンドの片隅にひっそりと移設されている。こんな狭い範囲に、江戸期から大正期までの記念物が残されているのは下落合でもめずらしい。

◆写真上:落合中学校の南西角に残る、中華民国公使館官舎のものとみられる門柱。
◆写真中上は、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図にみる下落合326番地の建築物(上)と、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」に採取された中華民国公使館官舎(下)。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同公使館官舎。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同公使館官舎。
◆写真中下は、1947~1951年(昭和22~26)にかけて建設中の落合中学校。は、校舎南側にあった第1グラウンドでの運動会で背景は御留山Click!は、二度の山手空襲からも焼け残った1947年(昭和22)の空中写真にみる同公使館官舎。
◆写真下は、1926年(大正15)に日中親善のため来日した小楊月楼()と、同劇団を支援しつづけた外務省の小村欣一()。は、1926年(大正15)6月20日に発行された都新聞の記事。は、黎元洪の“書”通関に関する中華民国公使館の要望書(上)と、外務省にあてた「小楊月楼」劇団への義捐金やサポートに対する同公使館の礼状(下)。
おまけ
 1957年(昭和32)に撮影された、グラウンドが南と西の2つに分かれていた時代の落合中学校(上)。このあと、第2グラウンドが西へ大幅に拡張され、第1グラウンドの跡地にはプールや植栽スペースが設置された。下の写真は、現在の落合中学校の正門。
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