佐伯が描く「八島さんの前通り」の高田邸。 [気になる下落合]
少し前に、下落合1449番地に建っていた陸軍科学研究所所長の黒崎延次郎邸Click!の形状が判明した。佐伯祐三Click!が、「下落合風景」シリーズClick!の1作として1927年(昭和2)5月ごろに制作した、北側からパースをきかせて描く「八島さんの前通り」Click!の奥に、黒崎邸のフォルムがとらえられていたからだ。主棟を東西に伸ばした、かなり大きめな西洋館らしいことがワインレッドの屋根や壁面のカラーリングからうかがわれる。
そして、もうひとつ判明したことがある。黒崎延次郎邸は、1925年(大正14)の「出前地図」Click!(「下落合及長崎一部案内」図の通称)には採取されておらず、おそらくいまだ建築されていない可能性が高いことだ。「出前地図」には、黒崎邸の南隣りにあたる下落合1448番地の「高田邸」のみが採取されている。つまり、1927年(昭和2)の初夏にとらえられた黒崎邸は、同画面に描かれた竣工直前あるいは竣工後の、下落合666番地に建つ納三治邸Click!と同様に新築だったことが想定できるのだ。
1932年(昭和7)に刊行された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」に収録された黒崎家は、下落合に住みはじめてから6年めということになるのだろう。陸軍中将だった黒崎延次郎は、陸軍科学研究所の所長を最後に陸軍を退役することが見えはじめたため、下落合に自邸を建設したのではないか。実際には、陸軍科学研究所を退任したあと、短期間だが陸軍技術本部の本部長をつとめている。しかし、同本部の勤務先は陸軍科学研究所と同一の敷地内であり、下落合の南にあたる戸山ヶ原Click!だった。
黒崎邸の姿がわかったことで、もうひとつ判明した事実がある。1927年(昭和2)の冬ないしは早春に描かれたとみられる(左下にサイン+1927が記載されている)、関東大震災Click!後の軽量なスレート葺きかトタン葺きの屋根なのだろう(東京府は一時期、家屋の倒壊で犠牲者が多かった重たい瓦屋根の仕様を、新築家屋に禁止していた)、佐伯独特の白い“てかり”表現が印象的な「下落合風景」の1作(冒頭写真)で、「八島さんの前通り」沿いに描かれた家屋は、植木職をなりわいとする高田邸だとみられることだ。同作は大阪での頒布会用か、または1927年(昭和2)6月17日~30日にわたり上野の日本美術協会で開催された、1930年協会第2回展Click!に向けて制作されたものだろう。
ずいぶん以前に、同作の描画ポイントを特定した際、わたしは描かれた住宅を「下落合事情明細図」(1926年)から、黒崎邸ないしは高田邸ではないかと想定Click!していた。だが、前述のように黒崎邸の姿はまったく異なる大きな屋根を載せた西洋館のようであることを考慮すれば、同作に描かれた家屋はその南に位置する高田邸と規定することができる。すなわち、以前の描画ポイントよりも50mほど通りを南に下がった道路端に、佐伯はイーゼルを立ててキャンバスに向かっていることになるのだ。
佐伯祐三アトリエClick!から、南西へ直線距離で85mほどの「八島さんの前通り」の道端で、佐伯は南南西を向いて大震災後に瓦屋根を廃した高田邸をとらえている。そして、右手にある整地が済み大谷石による縁石または下水溝が設置された土地は、高田家の敷地北側を整地して新たな宅地に整備したものだろうか。あるいは、「下落合事情明細図」に収録されている竣工したばかりの黒崎邸に南接する別の敷地で、画面が描かれた時点では住宅を建設中だったかもしれない。いまだ造園業者の手が入っておらず、ひょっとすると庭づくりは南隣りの高田家が手がけていた可能性ありそうだ。
描かれた下落合1444番地の高田邸は、「下落合事情明細図」では「植木職」として採取されているが、植木農園Click!を営む下落合の地主(旧家)だった可能性が高い。事実、この高田邸のすぐ南側には、植木農園とみられる広い植林エリアがいくつか拡がっていた。『落合町誌』には、この高田家は残念ながら収録されていないが、下落合には江戸期からつづくとみられる「高田」姓の旧家が多い。
1939年(昭和14)に出版された、下落合2丁目(現・下落合3丁目の西側と4丁目全体、中落合2丁目の東側を含むエリア)の町会である『同志会誌』Click!(下落合同志会)によれば、1925年(大正14)~1929年(昭和4)の間に役員をつとめた「高田」姓の人物は5人おり、このうち『落合町誌』に収録された「高田」姓と一致する人物はひとりもいない。高田幸三と高田勇次郎、高田菊蔵、高田芳郎、高田幸三郎の5名だが、下落合1444番地の高田邸はそのいずれかの邸だったのかもしれない。
再び、「下落合風景」の画面にもどろう。高田邸の南側には、当時もいまも細い路地が東西に通じており、高田邸の裏(南側)で隠れがちにチラリと見えている屋根は、「出前地図」によれば今井邸だろう。そして、高田邸の庭木を透かして描かれているように見える屋根が福田邸、すなわち中村彝アトリエClick!へ頻繁に出入りし、清水多嘉示Click!もときどき画集づくりのために立ち寄っていたとみられる、下落合1443番地の福田久道邸Click!=木星社Click!の建物だと思われる。「出前地図」には「福田」の姓ではなく、門には社名の看板がかけられていたのだろう、「木星社」として採取されている。
曇りがちな空の下、通りには子どもとみられる人物がふたり(手前)と、大人とみられる人物(通りの中央と奥)がふたり描かれているが、「八島さんの前通り」をこのまま南へ進むと道は左手(東側)にカーブし、ほどなく徳川義恕邸Click!の脇に通う急峻な西坂へとかかる。時間帯は、光が上空のやや右寄りから射しているように見え、午後の早い時刻のように思えるので、手前の子どもふたりは落合第一小学校Click!から下校Click!する途中だった、低学年の生徒たちなのかもしれない。
さて、冒頭の「下落合風景」画面についてあれこれ調べているうちに、もうひとつ異なるテーマが浮上してきた。それは、この画面とまったく同様の構図で描かれたとみられる作品が、1927年(昭和2)6月に開かれた1930年協会第2回展に出品されているわけだが、第2回展会場を撮影した写真にとらえられた画面と、冒頭作品の画面がどうやら一致しないのだ。
第2回展の会場写真とは、作品が展示されているフロアの中央に設置されたベンチに、佐伯祐三や木下孝則Click!、里見勝蔵Click!が座り、木下の背後には前田寛治Click!が立って、どうやら1930年協会の会員たちが記念撮影に応じている姿をとらえた1枚だ。会場の壁面左端には、佐伯の「下落合風景」3点が展示されているのが見えている。このうち、「八島さんの前通り」を北側から描いた画面Click!と、六天坂の坂下から中谷邸Click!を描いたとみられる未知の画面Click!は、すでに記事で取りあげご紹介している。問題は、左側の最上段に展示されている作品だ。
少し前まで写真の作品は、この記事の冒頭に掲載した画面と同一作品だと考えていた。だが、今回の記事を書くために、資料類を細かく見なおしていたところ、画面がかなり異なっているのに気づいたのだ。おそらく、「八島さんの前通り」沿いに建っていた高田邸を描いた画面であることはまちがいないようだが、空の広さ(会場写真の画面は空が狭い)や道路の形状(会場写真は描く角度が異なるのか手前の道路が直線状)、視点の位置(会場画面のほうがやや高めに見える)、高田邸の形状(会場画面の高田邸の幅が狭く見える)、樹木の繁り方(会場画面のほうが濃く見える)など、どうやら両作は異なる画面のようなのだ。
佐伯祐三は、同じ風景のモチーフを同時に何枚も、あるいは時間を空けて複数のバリエ―ションを描いているのは周知の事実だが、この記事の冒頭に掲載した画面と、会場写真にとらえられた画面とは別作品ではないだろうか。どちらがバリエーションかは不明だが、記事冒頭の画面には左下にサインと制作年が入れられているので、同作がもっとも出来がよく佐伯自身が気に入っていた作品なのかもしれない。
さて、いつものように空中写真で描画ポイントを特定してみよう……といきたいのだが、1936年(昭和11)の写真を参照すると、高田邸の周辺はかなり変化が激しかったようで、すでに黒崎邸の大きな建物が存在せず、小さめな住宅に変わっている。黒崎邸の東隣り、「八島さんの前通り」をはさんだ大きな大塚邸も解体され、すでに吉田博・吉田ふじをアトリエClick!が建設されている。また、同作に描かれた高田邸は、屋敷林が繁り屋根がどこにあるのかよくわからない。同様に、高田邸の路地をはさんで南側に建っていた福田邸(木星社)と今井邸も、樹木だらけで屋根のかたちがハッキリとらえられていない。
昭和初期に起きた金融恐慌から大恐慌の時代をへているので、家々の動きも慌ただしかった様子が見てとれるが、「八島さんの前通り」は青柳ヶ原Click!に国際聖母病院Click!が建設され聖母坂Click!が拓かれるまで、補助45号線Click!に指定された幹線道路なので付近の人々の往来が頻繁だった。どなたか、当時の黒崎邸や高田邸を写真に収めた方はいないだろうか。
大正末に建設された、鋭角で大きなワインレッドの屋根を載せた黒崎延次郎邸は、佐伯祐三アトリエの斜向かいにあった養鶏場Click!跡に建設される、ハーフティンバー様式を採用した中島邸(のち早崎邸)Click!のような、シャレた意匠だったのではないかと想像している。
◆写真上:1927年(昭和2)冬か早春に制作されたとみられる佐伯祐三『下落合風景』。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)作成の「出前地図」にみる高田邸と周辺の様子(北が下)。中は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる高田邸。下は、たまたま手前が空き地になっていて面影が感じられる高田邸跡の現状。
◆写真中下:上は、冒頭の『下落合風景』の部分拡大。中は、1927年(昭和2)5月ごろ制作された『下落合風景』の部分拡大。下は、同作品の全体画面。
◆写真下:上は、1930年協会第2回展の会場写真で記念撮影をする佐伯祐三らメンバー。中は、第2回展の展示場に架けられた作品の部分拡大と画面の比較。下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる高田邸および佐伯アトリエとその周辺の様子。