ベルリンの石井四郎と宮本百合子1929。 [気になる下落合]
1932年(昭和7)から、上落合2丁目740番地に住んだ宮本百合子Click!(結婚し上落合に転居する以前は中條百合子Click!)と、731部隊Click!の部隊長・石井四郎Click!が、1929年(昭和4)に旅行先のベルリンで交流していたのを初めて知った。この事実を突きとめたのは作家の岩崎明日香だが、わたしが知ったのは2022年に不二出版から刊行された川村一之『七三一部隊1931-1940-「細菌戦」への道程』を読んでからだ。
宮本百合子の作品で、1950年(昭和25)に筑摩書房の「展望」へ発表した『道標』(第二部)には、ベルリンへ出張中だった遠い親戚の医学博士が初対面として登場する。名前を「津山進治郎」といい、陸軍軍医学校Click!の軍医としてヨーロッパに視察旅行にきていたのだ。「津山」は、『道標』の主人公である「伸子」=中條ユリ(百合子)Click!と「素子」=湯浅ヨシ(芳子)Click!を連れ、ベルリンの各地を案内するのだが、「津山」の言質と「伸子」の思いはどこまでいっても平行線のままだった。
小説『道標』に登場する人物は、実在の人物に仮名を当てただけだといわれており、宮本信子と湯浅芳子が実際にベルリンで交流した軍医もまた、同時期にベルリンへ出張していた実在の人物だと推定されていた。それが、のちに731部隊を創設する石井四郎だったことが、湯浅芳子の日記をたどった岩崎明日香の研究で明らかにされている。
わたしは、岩崎明日香の研究論文「宮本百合子『道標』の軍医津山のモデルと戦争犯罪」は未読なので、前掲の川村一之『七三一部隊1931-1940』から少し引用してみよう。
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岩崎明日香によると、宮本百合子が「ベルリンに滞在していた(一九)二九年五月下旬から六月上旬」の日記は残されていないのだという。その間の百合子の動向を知るためには自伝的小説『道標 第二部』(筑摩書房、1949年6月初出、引用は新日本出版社、1994年11月に拠った)に頼るしかない。それを補強するのが湯浅芳子の日記になる。岩崎は湯浅芳子の日記を読んで、『道標』に描かれている「伸子」たちが医者たちと同行した見学は実際に百合子と芳子が体験した事実であったことを確信した。そして日記に登場する「石井氏」が「津山」のモデルであり、石井四郎であったと指摘する。その根拠は「秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会、第二版)によれば、『石井』または『石』で始まる姓を持つ人物で、一九二九年にドイツにいた記録がある軍医は、のちの陸軍軍医中将・七三一部隊長の石井四郎のみである」ということだ。
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当時の宮本百合子は、湯浅芳子とともに1927年(昭和2)12月にソ連の首都モスクワに到着し、翌年からロシア語を学びはじめている。このときのモスクワでは、演劇留学していた千田是也Click!と出会っている。1929年(昭和4)になると、ふたりはヨーロッパ旅行へ出発し、ワルシャワからウィーン、ベルリン、パリ、ロンドンなどを訪れた。
パリでは中條家の両親と落ち合い、百合子と芳子はロンドンに滞在したあと、芳子は一度モスクワへもどってからロシア文学の関連書籍370冊を購入して船便で日本へ送り、百合子はパリで両親を見送ったあと、第1次渡仏時の佐伯祐三Click!が滞在したパリ郊外のクラマールClick!で静養している。ふたりが石井四郎と交流したのは、1929年(昭和4)5月19日~6月9日までの22日間、旅の途中で滞在したベルリンにおいてだった。
『道標』には、「津山」(石井)と「伸子」(百合子)が、かつて一度も会ったことのない遠い親戚同士だと書かれているが、中條家と石井家は実際にはなんら姻戚同士ではないようだ。ベルリン滞在中の日本人の情報を、事前に中條家が把握して百合子に伝えていたため、そのうちの誰かから石井四郎を紹介してもらった可能性が高いという。
このとき、石井四郎は滞独中の医師を集めた日本人倶楽部「木曜会」の幹事をしており、ソ連の医療情報について講演するよう宮本百合子に依頼している。百合子はモスクワで胆嚢炎にかかり、モスクワ大学医学部の付属病院で3ヶ月もの入院生活を送った。だから、ソ連の医療事情には詳しいと踏んだ石井四郎が、ソ連社会の状況とあわせて話すよう彼女に頼んだのだろう。「木曜会」での講演の後日、百合子と芳子は石井四郎に誘われ、医師たちとともにベルリンのセントクララ病院や未決監獄を見学しに訪れている。
ふたりはベルリンを案内する石井四郎と、レストランや喫茶店で話す機会が多かったのだろう、『道標』では「津山」の発言をかなり多く書きとめている。だが、宮本百合子と石井四郎では思想や意見がことごとく合わなかったようだ。1976年(昭和51)に新日本出版から刊行された宮本百合子『道標 第二部』(文庫版)から、少し長いが引用してみよう。
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津山進治郎が現にドイツの国内におこっているそういうおそろしいことには全く無頓着で、ドイツ再軍備のぬけめなさとしてばかり称讚するのを、伸子は言葉に出して反撥するより一層の注意ぶかい感情をもってきいた。ドイツについてこういう考えかたをもつ人が、自分の国の日本へかえって別の考えようになるはずはない。その意味ではいまベルリンの小料理屋にいる津山進治郎と、労農党の代議士へ暗殺者をけしかけた人々との間に共通なものがある。そして、津山進治郎は、自分がそれを意志するわけでなくても日本における同じような考えかたの人々の間で、ドイツ式最新知識の伝授者となるだろう。医学博士という彼の科学の力を加えて。――この考えのなかには、伸子の気分をわるくさせるようなものがあった。伸子は津山進治郎に説得されず、津山進治郎も伸子の考えから影響されることなく、やがて三人はシャロッテンブルグ通りの横丁の小店から出た。(中略) 日本から毒ガス研究のために派遣されている津山進治郎の思想の上にてりかえしている、ドイツの再武装、ファシズムの進行はあからさまだった。
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なお、宮本百合子の『道標』(第二部)は、731部隊=「石井機関」の「満洲」における人体実験や細菌戦の概要が暴かれる以前、すでに執筆されていたものであり、“あとだしジャンケン”すなわち結果論から書かれたものではない点にも留意する必要があるだろう。
石井四郎がベルリン出張したのは、ヨーロッパの細菌研究の進み具合を視察するためだったといわれている。そして、日本の軍備には大きな「デフェクト」があると気づき、それを研究するのが軍医である自身の使命だと考えたようだ。すなわち、戦場の兵士をいかに病原菌から守るかという「盾」=防疫の発想と同時に、いかに敵軍へ効率よく損害を与えるかという「矛」=細菌兵器の開発へと突き進む大きな契機となった。
もちろん、第一次世界大戦の教訓から1925年(大正14)に日本も議定国として参加し締結されたジュネーブ議定書には、毒ガス兵器禁止とともにバクテリア(細菌)兵器禁止の項目も、国際的な遵守事項に含まれていた。だが、石井四郎は「細菌学的手段の戦争における使用の禁止」という条文を、禁止されるからこそ戦場では威力のある兵器となりうると正反対に解釈し、以降、防疫部から関東軍防疫給水部、731部隊の創設へと突き進んでいく。ちなみに、当初は議定国で署名したはずの日本政府が、上記のジュネーブ議定書を正式に批准したのは、1970年(昭和45)5月になってからのことだ。
石井四郎が細菌戦への確信を深めたヨーロッパ出張の「成果」を、2022年に高文研から出版された常石敬一『731部隊全史-石井部隊と軍学官産共同体』から引用してみよう。
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一九三〇年四月、石井は外国出張から帰国し、八月に三等軍医正に昇進し軍医学校の教官となった。/軍医が中心の衛生部は「盾」としては兵士の健康管理とワクチン開発・接種には取り組んでいたが、「矛」とは無縁だった。石井は医学知識をベースにした盾と矛をセットで整備すべきだと訴えた。矛は細菌の兵器化であり、盾は敵の細菌戦に対抗する医学的防禦だった。
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当時、欧米各国の軍隊や医療機関では、細菌兵器は確かに敵の戦力を低下させるのには有効だが、同じ戦場にいる味方の軍にも感染する危険性が高く“共倒れ”になる怖れがあり、現実的には有効ではないというとらえ方が主流だった。
だが、石井の731部隊は浙江省と江西省の中国軍拠点を攻撃する、1942年(昭和17)4月の「浙贛作戦」でコレラ菌とペスト菌による細菌攻撃を展開し、事実、それらの菌により日本軍の将兵1万人以上が罹患し、そのうちの約1,700名が死亡するという大失態を招来している。そして、これがもとで石井四郎は731部隊を追われることになった。
さて、パリからモスクワにもどった宮本百合子は、湯浅芳子とともにシベリア鉄道に乗車し1930年(昭和5)11月に東京へ帰着している。ふたりは、しばらく本郷の菊富士ホテルClick!に滞在したあと、高田町巣鴨代地3553番地(現・目白3丁目12番地)に家を借り、ふたりで住みはじめている。だが、翌年に百合子が宮本顕治と結婚すると同時に、ふたりの同棲生活は解消され、宮本百合子は上落合2丁目740番地へと転居してくることになる。
1990年(平成2)に文藝春秋から出版された沢部仁美『百合子、ダスヴィダーニヤ』には、百合子と芳子が住んだ高田町の住所を「牛込区目白上り屋敷三五五三番地」としているが、このような地名も住所も存在しない。1931年(昭和6)での住所は北豊島郡高田町巣鴨代地3553番地であり、翌1932年(昭和7)10月以降の住所は豊島区目白町3丁目3553番地で現在の豊島区エリアであり、牛込区すなわち現・新宿区とは行政エリアがまったく別だ。また、「上り屋敷」は高田町(大字)雑司ヶ谷(字)上屋敷が正式住所だが、明治期から昭和期まで上屋敷に当該の地番は存在していない。ちなみに、「上り屋敷」は武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の駅名Click!であって、本来の地名は上屋敷(あがりやしき)が正しい。
◆写真上:1930年(昭和)ごろに撮影されたベルリン市街地の様子。
◆写真中上:上左は、1948年(昭和23)の雑誌「展望」7月号に掲載された宮本百合子『道標』(第一部)。同時に、太宰治Click!『人間失格』が連載されている。上右は、1976年(昭和51)に新日本出版から刊行の宮本百合子『道標 第二部』(文庫版)。中は、宮本百合子(左)と石井四郎(右)。下は、同じく1930年ごろのベルリン市街。
◆写真中下:上左は、2022年に出版された川村一之『七三一部隊1931-1940-「細菌戦」への道程』(不二出版)。上右は、2022年に出版された常石敬一『731部隊全史-石井部隊と軍学官産共同体』(高文研)。下は、1990年(平成2)に出版された沢部仁美『百合子、ダスヴィターニヤ』(文藝春秋/左)と湯浅芳子(右)。
◆写真下:上は、国立公文書館に残された1933年(昭和8)9月に石井四郎が満州出張する際の陸軍軍医学校文書。このとき石井部隊(偽名・東郷部隊)は、背蔭河に建設された細菌研究施設「五常研究所」で人体実験を繰り返しており、新たな人員補給のため軍医学校の雇人3名、傭人9名を随行すると記されている。中は、湯浅芳子がモスクワから船便で送ったロシア文学の関連書籍370冊の輸入報告書。敦賀税関ではすべての書籍を検閲したが、19世紀の文学書ばかりなので輸入を許可した旨、外務省や内務省などに報告している。下は、1931年(昭和6)に高田町3553番地(現・目白3丁目)で撮影された宮本百合子と湯浅芳子。