子どものころから使いつづけるモノ。 [気になるエトセトラ]
子どものころから、いまでも現役で使いつづけている文房具は、線引きと1本の万年筆Click!を除けば、ただのひとつも手もとにない。それほど、文房具の機能的な進化はこの50年でめざましいものがあったのだろう。考えてみれば、古い文房具や小物を整理したのは、学生を卒業した1980年代に入ってからのような気がする。中には、引っ越しをするうちに廃棄されたものも多かったろう。また、「消費は美徳だ」などといわれていた時代、多くのメーカーは耐久性の高い長もちする製品を生産するはずもなかった。
初めて文房具と接したのは、幼児期のクレヨンやクレパス、色鉛筆、画用紙なのだろうが、文房具が勉強するための道具だと認識したのは、もちろん小学生に入学してからだと思う。鉛筆に筆箱、消しゴム、下敷きなどを親が買ってくれ、鉛筆は学校へ毎日削ってもっていくようになった。鉛筆削りは、親が手動式のものを早くから買ってくれた憶えがあるが、鉛筆自体をグルグルまわして削る、いろいろなデザインのオモチャのようなミニ鉛筆削りや、筆箱に入る剃刀の刃をつけた折りたたみ式の薄くて小さな鉛筆削りも売られていて、やたら欲しくなったのを憶えている。
また、分度器やコンパス、ノート、線引き、絵筆、絵の具、画用紙、半紙、毛筆、墨などを買いに文房具屋Click!へ通う機会が増え、そこでは目移りするようなさまざまな文房具が、店内の独特な「文具の匂い」とともに売られていた。当時、自宅近くの文房具屋には、子どものころのことなので漢字は思いだせないが「シンキ堂」や「スズ屋」、「サクラ文具店」といった店が営業していたが、もちろんいまでは1軒も残ってはいない。
わたしが使っていた鉛筆は、小学生のときはおもにスタンダードな三菱鉛筆Click!だったが(トンボやコーリンにはあまり縁がなかった)、中学生のころから三菱Hi-uniやuniと名づけられた、芯の減りが少なくが長持ちする高級鉛筆を使うことが許された。当時は、普通の鉛筆が1本10~20円だったのに対し、高級鉛筆は1本100円(Hi-uni)もした。また、鉛筆を削るたびにいい匂いのする「香水鉛筆」や、やたらスリムでパールピンクやパールブルーの鉛筆も出まわり、女子たちに人気でよく筆箱に入れては級友たちと“比べっこ”(自慢のしあい?)していたのを憶えている。こんな鉛筆を、なぜかたまに男子が筆箱に入れていたりすると、「おまえオンナか? 気持ち悪り~」などとバカにされていた。
これらの鉛筆は、HBの硬さを使っていたけれど、いまなら手や指に負担の少ない、ゆるい筆圧でも書けるBか2Bぐらいの柔らかいものを選ぶだろう。もっとも、当時の柔らかい鉛筆は芯が折れやすく、Bや2Bだと不経済だったのかもしれないが……。高校時代からは、いちいち芯を削る必要のないシャープペンシルを愛用していた。鉛筆よりもやや重たいが、芯はHBではなくBや2BのHi-uni・0.5mmを選んで使っていたが、急に芯がなくなったり、芯がどこかに詰まってシャーペン自体が使えなくなると、特にテストのときなど困るので、常に予備のシャーペンや芯を筆箱の中に入れていた。
筆箱といえば、小学校へ入学するとき初めて親が買ってくれた筆箱は、プラスチックかセルロイド製のスマートな箱型の製品だったと思うのだが、落としたりするとすぐに欠けたりヒビがはいったりするので、ファスナーつきのビニールでできた折りたたみ式の筆箱が欲しくなり、親にねだって買ってもらった。だが、男子が筆箱をていねいに扱うはずもなく、中学生になるころまで何度か買いなおした記憶がある。でも、不思議なことに中身の文具類はけっこう憶えているのに、筆箱の意匠やカラーの記憶が曖昧なのは、筆記用具に比べてあまりデザインや仕様に興味が湧かなかったからだろう。
子どものころの文房具について、故郷が同じの大空望Click!は、2017年(平成29)に文藝春秋企画出版部から刊行された『昭和あのころ』の中で、こんなことを書いている。彼は、わたしより10歳余も年上だと思うので、物価の記憶が異なるが少し引用してみよう。
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他には三菱のユニがあったが、トンボやコーリンが僅か十円の時代、ユニは五十円だった。三菱の自信の程が窺える。当時、盛り掛け蕎麦が二十五円、拉麺が三十円、カレーライスや炒飯が四十円であった。五六年に矢ノ倉にトンカツ屋ができるが、お昼のサービス定食は四十円だった。(中略) こちらと来たらセルロイドの筆箱は落して割ってしまったのでポリエチレンの丈夫な物(正しくゾウが乗っても壊れない)。鉛筆は予備合わせて三本だ。鉛筆削りは肥後守の一生物。消しゴムはワシ印の一番安い十円物だ。私等からしたら回転式より肥後守の方が使い易い。しかし、横山町人種の鉛筆削りに付いている万年暦を見ると複雑な気持ちにさせられる。こちらは正面黒板の右下に書かれた月日と曜日で時の観念を刻んでいるのだ。
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「横山町人種」とは、東日本橋の西隣り、日本橋馬喰町の南東に位置する日本橋横山町のことで、大阪の船場と同じように昔から繊維問屋が建ち並んでいた、おカネ持ちの家々にいる子どもたちのことだ。おそらく、そこそこの中堅企業の社長よりも、はるかに所得が多かった家庭の子どもたちなので、かなり贅沢な暮らしをしていたのだろう。
そういえば、子どものころにはよくTVから、文房具のCMも流れていた。文中の「ゾウが乗っても……」とか「スギカキスラノ ハッパフミフミ」、「折れないシャーペン芯」などさまざまなCMが思い浮かぶ。消しゴムの想い出は少ないが、わたしの世代ではかなり濃い筆記でも「たちどころに消せる」、砂入り消しゴムというのが流行った記憶がある。鉛筆に限らず、ボールペンや万年筆の筆記も消せるということでブームになったのではないだろうか。また、「消しゴム」と呼ぶが、わたしの時代ではプラスチック製の製品が普及してきて、中学や高校ではすでに使ってたように思う。
小学校の高学年になったとき、親が万年筆と腕時計を買ってくれた。万年筆はパイロットで、腕時計は当時流行っていた自動巻きの「セイコー5」だった。万年筆は、別に学校では用がないので、たまに手紙やはがきを書くとき、あるいは年賀状のあて名書きに使っていたように思う。つづいて、親父が海外出張のお土産にパーカーの#75(スターリングシルバー)万年筆をくれた。これは書き味が気に入って、いまでも現役(あちこちガタがきて引退寸前だが)で手もとにあり、なんとか生存している。中学時代には、なにかの懸賞で当選したスワン万年筆も使っていた。この地味な国産万年筆も、思いのほか使いやすかったのだが、数年で軸にヒビが入ってダメになった。
なお、ボールペンにはあまり縁がないのか、わたしは使った記憶がほとんどない。むしろ、ボールペンは大人になってからのほうが、仕事で多用していたように思う。
大空望も、わたしと同じような環境だったようだ。同書より、つづけて引用しよう。
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中学に入ると祖母が万年筆(パイロット)、腕時計(セイコー)、大型の回転式鉛筆削り、ペン立て、坐り机を贈ってくれたが、中学生が万年筆等は使わないし。腕時計はステンレスに気触(かぶ)れる体質なので、これはパス。第一、学校では玄関口を始め職員室にも各教室にも時計があるから必要ない。時計の発条(ぜんまい)巻き当番さえいるのである。鉛筆削りは芯をパスして削れるので、これにマッチ箱の内サイドに紙鑢を貼って気に入った角度に仕上げた。ペン立ては中学では使わなかったが高校に行ってから短歌と読書随想(略)を始めており、その清書用に漬けペンを用いたので大いに重宝した。中学時代はレポート用紙は使わなかったが、高校に入って大いに利用した。
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わたしも中学に入ると、祖父が新しい文房具Click!一式を贈ってくれたのを憶えている。だが、プレゼントされた鉛筆類が大手メーカーの製品ではなく、当時はまだ街中で製造していた中小鉛筆メーカーの町工場製Click!のものだったらしく、芯がやたら折れやすくて辟易したのを憶えている。祖父には悪かったけれど、贈られた鉛筆や文具類を学校で使った憶えがない。このプレゼントから1年ほどの正月に、祖父は「お獅子がくる」Click!といって死んでしまったので、そのときの達筆な手紙は大切に保存してあるが……。
文中に時計の「発条巻き当番」の記述があるが、わたしの時代には学内の時計はみな電気・電池式で、しかも各教室には時計などなかったから、生徒たちの腕時計は必須アイテムだった。小学生のときにもらった、初期型の「セイコー5」(自動巻き)は50年余が経過したいまでも現役で動いており、先日リストバンドの調整でもちこんだ近くの時計店の主人に、「まだ動いてるんですねえ!」とビックリされた。わたしが中学生のとき、ヨーロッパに出張した親父からオメガの自動巻きをお土産にもらったが、こちらは防水機構が脆弱だったせいで学生時代に壊れたため、8年ともたなかったのではないか。
いつまでも、子ども時代の「セイコー5」をしているわけにもいかず、以降、国内外のさまざまな時計メーカーの製品を試してみたが、保守メンテナンスにほとんど手間がかからず、山でも海でもどこで使っても頑丈で、落としてもぶつけても叩いても壊れない製品は、時計専業メーカーの日本とスイスの2社のみだった。製造プロセスの品質管理や、昔ながらの職人技がしっかりと継承されているのだろうが、ほかの腕時計はどこかに脆弱性があって10年以内に壊れるか、不具合を起こして動きが不精確になった。ちなみに、電池がなければ動かないクォーツ式は嫌いなので、わたしは使っていない。
同書では、「文房具もそうだが、道具の類はいい物を買って置くに限る。たとえ高価でも一年限りで駄目になる物より十年は使える物を買うべきだ」と結んでいるが、わたしもまったくそのとおりだと思う。近ごろの傾向として、外国製(最近は中国製が多いだろうか?)の安くて見栄えのいいモノに目が移りがちだが、1年で壊れるモノよりは10年使えるモノ、10年で使えなくなるモノよりも50年はもつモノを選びたい。別にメーカーの宣伝をするつもりはさらさらないが、モノづくりメーカーの矜持と職人の厳格な技、技術やノウハウの蓄積、そして品質管理が徹底している信頼できるモノを選ぶこと、これにつきると思うのだ。
でも、これら文房具や小物を使う機会がだんだん減ってきて、特に筆記用具に関していえばキーボードをたたくよりも、はるかに利用シーンが少なくなっている。40代までは確実にあった、中指の固いペンダコも、いつのまにか柔らかくなってほとんど消えてしまった。だからといって、親指にゲームダコができるほど、子どものころからICTデバイスに馴れているわけでもない。のちの世代から見れば、わたしたちはきっと社会がアナログからDXへの過渡的な人々、まるで文明開化を目のあたりにして右往左往していた人々と同様に、“急加速する社会”を苦労し疲弊しながら生きた人々……などと記憶されるのかもしれない。
◆写真上:鉛筆はダースで買うより、少し高価なものを1本選んで買うのが好きだった。
◆写真中上:上は、鉛筆のスタンダードだった三菱鉛筆。1887年(明治20)に、内藤町(現・新宿区)で創業した日本で最古の本格的な鉛筆メーカーだが、いまだに旧・三菱財閥のグループ企業だと勘ちがいしている方が多い。のちに起業する旧・三菱財閥は、現代なら名称や商標権の侵害で告訴されるだろう。中は、1本100円もするあこがれだった「Hi-uni」。下は、削るといい匂いがした香水鉛筆はこんな感じのデザインだった。
◆写真中下:上は、携帯用のミニ鉛筆削り。中は、よく使った剃刀の折りたたみ鉛筆削り。下は、わたしの世代ではもはや使わなかった肥後守(ひごのかみ)。
◆写真下:上は、衝撃ですぐに割れたセルロイド筆箱。中は、ファスナーつきの折りたたみ式筆箱でよく使った仕様モデル。下は、小学生の時から動きつづけるセイコー5。オーバーホールは一度しかしていないが、日本のモノづくりを支えた技術者たちの誇りを感じる。
★おまけ
本文とは関係ないが、こんなケーキを作れる職人がいまだ健在なのがうれしい。チョコでコーティングされた中身がバタークリームなのも、子ども時代と変わらずそのままだ。