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ディーゼルエンジン開発に邁進した安達堅造。 [気になる下落合]

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 落合地域には、自動車の開発・製造に関連し、メーカーを創業した人物たちも何人か住んでいた。地元でもっとも有名なのは、下落合2丁目594番地(現・下落合4丁目の下落合公園が設置されている敷地)から、工藤邸→松平邸跡Click!の西落合1丁目281番地(現・西落合4丁目)に住んだ本田宗一郎Click!だろう。
 もうひとり、戦後の自動車業界とは切っても切れない人物がいた。陸軍で航空機の研究をスタートし、陸軍を辞したあとは航空産業界で活動して、下落合801番地の自邸内に「通俗航空知識研究所」を開設。同時に、ディーゼルエンジンの研究に注力しつつ、1935年(昭和10)に「日本デイゼル工業」を創業した安達堅造だ。その苦難の連続だった地道な開発は、安達の死後、敗戦後になって大きく花開くことになる。今日の、UDトラックス(旧・鐘ヶ淵デイゼル→日産ディーゼル→日本ボルボ)の創業者だ。
 安達堅造は、陸軍にいて航空機の研究・開発にたずさわったあと、1927年(昭和2)に逓信省および帝国飛行協会の嘱託として、ヨーロッパへ視察旅行に出かけている。その訪問先であるドイツで感銘を受け、強く印象に残ったのは自身の専門である航空機の技術ではなく、大型の自動車用に開発された最先端のディーゼルエンジンだった。クルップ社とユンカース社が開発・製造していた、世界初の上下対向ピストン式2サイクルディーゼルエンジンを見学して、「ディーゼルエンジンはガソリンエンジンよりも優れている」と実感し、その先見性と将来へ拡がる可能性を強く感じたのだろう。
 彼は帰国後、日本におけるディーゼルエンジン開発の可能性を探りつつ、出資者を募って1935年(昭和10)に日本デイゼル工業を設立することになる。その3年前に記録された、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 正五位勲四等/民間航空業者 安達堅造  下落合八〇一
 東京府安達重固氏の二男として明治十四年六月を以て出生、高等師範学校附属中学校を経て明治三十五年陸軍士官学校を卒業す、同年陸軍歩兵少尉に任じ爾来累進して大正十二年歩兵中佐に陞(のぼ)り同十四年航空兵中佐に転科す、此間航空第二大隊附陸軍航空本部員、関東戒厳司令部航空課長に歴任し後民間航空事業に(ママ:を)志し 昭和二年逓信省及帝国飛行協会の嘱託に依り欧州各国を飛行歴訪し 航空事業の実際を観察研究し 帰朝後航空輸送会社設立準備調査委員会幹事となり、現に帝国飛行協会嘱託及同審査員、報知新聞社嘱託たり、世界航空の現勢航空公私法研究等航空に関する著作数多あり、又自宅に通俗航空知識研究所を設置し、中等学校教職員の為めに蘊蓄を傾注しつゝある。(カッコ内引用者註)
  
 まず、安達堅造の住所が興味深い。下落合800番地台といえば、大正期から洋画家たちのアトリエが林立していた、薬王院の森の西側にあたる一画だ。
 彼の自邸がある周囲は、下落合800番地の有岡一郎Click!鈴木良三Click!鈴木金平Click!が住み、関東大震災Click!の直後には鈴木良三アトリエでは中村彝Click!も避難生活をしている。また、下落合803番地には柏原敬弘Click!が、下落合804番地には鶴田吾郎Click!服部不二彦Click!がアトリエをかまえていた。
 すなわち、夏目利政Click!が設計したアトリエ開発が盛んだったとみられる、下落合の「アトリエ村」Click!とでもいうべき一画に安達堅造は住んでいた。1926年(大正15)に作成された「落合事情明細図」を参照すると、名前が「安達堅三(堅造)」と誤採取されているが、下落合800番台の角地にある大きな屋敷に住んでいたのがわかる。
安達堅造1926.jpg
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 上記の紹介文を見ると、一貫して航空機畑を歩いてきた人物のように思えるが、1932年(昭和7)に『落合町誌』が執筆されたころには、すでに航空機よりも自動車のディーゼルエンジン開発計画のほうへ注力していたと思われる。このとき、安達堅造は出資者を集めてドイツから日本におけるディーゼルエンジンの特許権を購入し、専門会社の設立とともに国産化への準備を進めていたものだろう。
 陸軍を退職し、軍用機の研究・開発からはいったん離れたものの、軍用にも利用できる大型自動車の開発を手がけるため、古巣の陸軍にも出資を呼びかけていたにちがいない。事実、彼が創立した日本デイゼル工業会社の製造情報は、陸軍と共有していたことでも明らかだ。それは技術情報の共有ばかりでなく、役員人事にいたるまで陸軍に報告されており、兵器ではなく民生品なので「国策会社」とまではいかないまでも、常に陸軍の需要を意識したアライアンス体制だった様子をうかがわせるものだ。
 日本デイゼル工業は1936年(昭和11)、ドイツと同じ仕様で日本初となる上下対向ピストン式2サイクルディーゼルエンジンの実用化をめざし、本格的な開発をスタートしている。同エンジンを実際に自動車へ搭載するために、翌1937年(昭和12)にはドイツのクルップ社からディーゼルエンジンが装備された大型バスを輸入している。開発当初から普通乗用車ではなく、燃費がよく馬力が強いディーゼルエンジンは、民生のトラックやバスなど大型車両への導入が計画されていた様子がわかる。
 UDトラックスのWebサイトから、創業時の様子を少し引用してみよう。
  
 ディーゼル車は、1920年代に欧州で発達した。創業者の安達堅造(1880-1942)は、1927年に欧州の産業界を視察した際、このディーゼル車に注目した。安達は「ディーゼルエンジンは、馬力、燃料消費量など多くの点でガソリンエンジンに優れている」と記録に残している。(中略)  安達は「自らの力でディーゼルトラックをつくりたい」と考え、ドイツのクルップ社と特許権の許諾交渉を始めた。同時に会社づくりに取り組み、1935年12月、日本デイゼル工業(現 UDトラックス)を設立した。 翌年、川口工場の建設を進めた。一方、技術の修得のために技術者を欧州に派遣し、ドイツから2人の技師を招いた。最新の加工機械も輸入して、1937年からいよいよディーゼルエンジンの製造に取り組んだ。 2年にわたって製造技術とともに品質に対する基本的な考え方を学んだことで、高品質で耐久性の高い部品を製造できるようになった。/当社初のディーゼルトラックとして「LD1型貨物自動車」を完成させる。
  
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 「LD1型貨物自動車」とは、1938年(昭和13)に直列2気筒60psのディーゼルエンジン(ND1)を搭載した、2.5tトラック1号車のことだ。この間、日本デイゼル工業の経営は苦しかったようで、借入金を返済するために陸軍からトラックにはまったく関係のない、航空機や砲弾など部品加工の仕事を下請けして倒産の危機をしのいでいたらしい。
 1939年(昭和14)12月末に、安達堅造は日本デイゼル工業の代表取締役を下りているが、経営不振の責任をとったかたちではあるものの、無理を重ねて身体を壊していたのではないだろうか。安達堅造は、太平洋戦争がはじまる直前の1941年(昭和16)に死去しているが、その前年1940年(昭和15)2月に陸軍はようやく社長交代の人事を承認している。それから、わずか1年で死去しているところをみると、なんらかの健康上の理由で日本デイゼル工業の経営から身を引いた可能性がある。
 その後の同社の経緯は、UDトラックスのWebサイトなどを参照していただきたいが、下落合801番地の安達堅造は日本デイゼル工業を創業するとともに、同住所から転居しているとみられる。上掲の紹介文にもあるように、創業の翌年1936年(昭和11)に埼玉県川口へディーゼルエンジン製造工場を建設しているが、同社の本社機能は東京にあり川口へは移転していないのだろう。そこで、落合地域の地図を片っぱしから調べたが、残念ながら「日本デイゼル工業」のネームを発見することはできなかった。
 ただし、下落合801番地から転居した、新たな安達堅造邸を発見することができた。1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、下落合1丁目476番地に同邸が採取されている。七曲坂Click!筋を北へ進み、目白通りへと抜ける少し手前の左手(西側)の路地を入った突きあたりの大きな屋敷だ。南西側の斜向かいには、機関紙「科学と宗教」を発行していた下落合482番地の特異なキリスト者・佐藤定吉が経営する佐藤化学研究所Click!が建っていた。ひょっとすると、新たに建設したモルタル・スレート葺き仕様とみられる下落合の安達邸が、日本デイゼル工業の本社機能を兼ねていたのかもしれない。
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陸軍社長交代承認書1940.jpg
 わたしは、どこかで同社の系譜であるディーゼルエンジンを搭載したバスや列車、フェリー、クルーザーなどへ、それと知らずに乗っているのかもしれない。ガソリン車に比べ、大型の専用車両や船舶に搭載されたエンジンなので目立たないが、燃料の排ガスに含まれるNOxやCOxの課題を解決しない限り、2050年までは生き残れないのではないだろうか。

◆写真上:日本デイゼル工業が開発した、2.5tトラックの「LD1型貨物自動車」。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合801番地の安達堅造邸だがネーム採取をまちがえている。は、道の突きあたりが同地番の安達堅造邸跡。は、1936年(昭和11)建設の日本デイゼル工業川口工場。
◆写真中下は、日本デイゼル工業が製造したトラックと安達堅造。は、開発中のトラックをテストする同社の社員たち。下左は、晩年の安達堅造。下右は、陸軍省へ社長交代を認可申請する1939年(昭和14)12月27日の日本デイゼル工業の文書。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合1丁目476番地の安達堅造邸。日本デイゼル工業本社は、同所に置かれていたのかもしれない。は、突きあたり左手一帯が同邸跡。は、1940年(昭和15)2月12日の陸軍省による社長交代の承認書。承認に1ヶ月半もかかったのは、安達堅造本人の意思を確認している可能性が高い。

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