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女の子たちが遊べない街づくり。 [気になるエトセトラ]

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 この前、なぜだか“縁の下”の話になって、会話がおかしなことになってしまった。いまの若い子は、“縁の下”の意味がわからないかもしれないが、家の床下に掘られた食品や漬け物などを貯蔵する保冷庫のようなもので、昔の家にはたいてい備わっていた。わたしの家にも、設計時からふたつの縁の下を設置するよう図面に描き入れてもらっている。もっとも、いまの縁の下はむき出しの地面にコンクリートや簀の子を敷いたりはせず、ちゃんと衛生的な「床下収納ユニット」という既成製品があるのだが。
 その縁の下について、「うちのだいどこにもあるよ」といったら、相手が「エッ?」という顔をした。どうやら、「だいどこ」の意味がわからなかったようなのだ。「大床」すなわち和室の大きな床の間の下にでも、縁の下を掘ったのか「ウッソ~、信じられない!」と驚いたのかもしれない。台所は「だいどこ」「おだいどこ」(女性言葉)で、「だいどころ」と呼ばないのは東京方言、あるいは関東方言のひとつなのかもしれない。
 いつかも書いた、幕末や明治に起きた学校の教科書でも習う「打ち壊し」Click!を、子どもが「うちこわし」などと読んでいたので、「なにいってんだ。何もかもがうちこわしじゃ、おかしいだろ?」と訂正したことがある。「打ち壊し」は「ぶちこわし/ぶっこわし」、「打ち殺す」は「ぶちころす/ぶっころす」、「打ちのめす」は「ぶちのめす」、「打ちかます」は「ぶちかます」(こんな用語を子どもに教えてどうする?)が、江戸東京地方(おそらく関東地方も)では正解だ。そういえば、農村をまわっていた「箕作り」Click!の別名「箕打ち」は、「みうち」ではなく「みぶち」と呼ばれていた。
 最近、あまり使われなくなった東京方言に「引むく」というのがある。「引」は「ひん」と発音し、「あいつの面の皮を引(ひん)むいてやる」というような具合につかう。男子がイタズラして女子のスカートを「引(ひん)めくる」とか、親が子に「今度こんなことをしたら引(ひん)なぐるぞ」とか、重たい荷物を「引背負って(ひしょって)」苦労しながら山登りClick!したとか、親の世代では「引」という接頭語(強調)はさまざまな場面で、いくつかの発音に分かれてつかわれていた。そういえば、「背負って」「背負う」も「しょって」「しょう」であって「せおって」「せおう」とは発音しない。うぬぼれて天狗になった相手に、「あなた、せおってるわね」とはいわないだろう。
 なんだか、東京地方の方言をめぐる記事になるのは避けたいのだけれど、つい書きたくなってしまうのだ。もうひとつ、非常に引っかかって耳障り気障りな表現がある。「打」「引」と同じく、接頭語(強調)の「真」についてだが、「事件は、東京銀座のド真中で起きました」とかいう言葉を聞くと、つい「はぁ?」とTVのアナウンサーの顔をまじまじと見てしまう。「ド真中」ってなんだ? どこの言葉だい、「真々中(まんまんなか)」だろ?……と、ついTVに話しかけたくなってしまうから、もう歳なのだろう。
 ほんとうにリアルで「マジ」Click!なことは、古い言葉だが「真々事(まんまごと)」であって「ド真事」とはいわない。きれいな正円は「真丸(まんまる)」であって「ド丸」とはいわない、すぐ前のことは「真前(まんまえ)」であって「ド前」とはいわない。もっとも、TVのアナウンサーは「標準語」Click!教育を受けているのだろうから、薩長政府がデッチ上げた「標準語」Click!でそのような接頭語には「ド」が正しいと習うのであれば、この東京(関東)地方の言葉と対立しても、いたしかたないのかもしれない。
 地域方言に限らず、1964年(昭和39)の東京五輪をきっかけに“町殺し”Click!や、大震災で設置された防災インフラの食いつぶしや破壊・埋め立てなど、壊されつづけた(城)下町Click!については拙サイトでも繰り返し記事にしてきたけれど、そんな(城)下町から目白へ避難してきた“神田っ子”の高橋義孝Click!は、開き直ってこんなことを書いている。1964年(昭和39)に文藝春秋新社から出版された、『わたくしの東京地図』から引用してみよう。
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 東京目白の百坪ばかりの土地とその上に乗っている家屋が私の一切である。私が帰り行くべき故郷は現在ではそこしかない。しかしそんなものが果して「故郷」といわれようか。/そこまで考えてきて私はこんなことも思ってみる。成程、現在の神田は昔の神田ではなく、昔の、自分が生れ育った神田は、過ぎ去った時間同様に、もう永遠に失われてしまった。また現在の目白の家屋敷にしたところが今書いたようなわけである。普通の意味での故郷は私にはない。その代りこの東京という大きな化物みたいな都会の全体が私の故郷なのだ。錦糸堀にいようと谷中にいようと、東京の中でなら、どこにいようと私は「故郷」にいるのである。だからわざわざ銀座へ出かけて行ったり、新宿をほっつき歩いたりすることは要らないわけだ。目白の陋屋裡に仏頂面をして坐っていれば、すなわち私は故郷に安坐しているのである。
  
 高橋義孝は、関東大震災Click!戦災Click!の二度にわたる、壊滅的なダメージを故郷・神田に受けているわけだから、東京都あるいはもう少し範囲を狭めてみれば23区(の東側)が、自身の「故郷」だと割り切って開き直れるのかもしれない。
 でも、わたしは東京五輪1964をきっかけに、その後もつづいた“破壊”しか見ていないし、それ以前のいまだ東京の街らしい風情や人々の生活(人情)が残っていた光景を、子どもながら目の当たりにしているわけだから、「23区」が故郷とはどうしても開き直れない。わたしの見た風景は、「もう永遠に失われて」はいないので、いさぎよく諦めきれないのだ。ぐちぐちと、日本橋Click!の上に架かる高速道路の打っ壊し(ぶっこわし)を、「最長2041年ではなく、もっと早くできないの?」と応援し催促していたりする。
 うちの子どもたちは、もちろん東京新宿の下落合が故郷で“落合っ子”になるのだろうが、わたしは「故郷はどちら?」と訊かれたら、いつでも迷わず「日本橋です」と答えるだろう。高橋義孝のように、故郷の神田をどっかへうっちゃって、東京23区(の東側)に敷衍して気をまぎらわせることなど、とても考えられない。他の街よりもかなり広い東京の「町っ子」(ちなみに得体の知れない「江戸っ子」Click!などではない)のイメージや意識が、親たちによってイヤというほど教育され、頭の中に刷りこまれているせいだろう。
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 話はガラリと変わるが、高橋義孝は戦時中に目白の鶉山(現・目白2丁目)にある「陋屋裡」へ帰る途中、面白い光景に出くわしている。テキヤが商売(バイ)でつかう啖呵の売言葉Click!で、渥美清Click!がよく真似をしていた「四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ち小便」を地でいくような、目白界隈ではちょっと見られそうもない変わった光景だった。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 戦時中はよく歩いた。友人の近藤圭一君の旧宅は牛込の矢来下にあった。家を改造したら、手打ちの四角な釘が出てきたというほどの古い家に住んでいた。この近藤家でしたたかに酒を喰らって、目白坂を上って雑司ヶ谷(ママ:目白町)の鶉山の私の家まで深夜の道を歩いて帰る。人にも車にも出会うことがない。/ある夜、例の如く酔って歩道をのろのろと目白の家へ向って歩いていると、一軒の家の表のガラス戸が開いて、いきなり水が外へ迸(ほとばし)り出た。驚いて、とびのき、よく見ると、そこのうちのお上さんが戸口にしゃがんで小便をしているのであった。自分のうちの戸口から外の歩道へ小便をする女がいるとは驚いた。今でもそのうちの前を通ると、必ずあの深夜の小便のことを思い出させられる。(カッコ内引用者註)
  
 立ち小便ではないが、歩道に向けて放尿する「粋な姐ちゃん」ならぬお上さんClick!が、戦時中は目白界隈にもいたらしい。真夜中なので、誰も見ていないと思ったのだろうが、大学(旧制高等学校)のセンセにしっかり見られてしまった。渥美清の啖呵調でいうなら、「チャラチャラ流れる御茶ノ水、目白の奥さま闇小便」てなことになりそうだ。
 戦前・戦中には、こういう気の置けないというか、(城)下町風のざっかけないような街の雰囲気や気配も、いまではオツにすます目白の街には残っていたのだろう。そういえば、着ているものを洗いたくなると、なぜか次々に脱いで真っ裸になりながら、人目もはばからず洗濯機をまわしているお上さんClick!も、目白駅近くのどこかに住んでいたっけ。こういうつまらない、というか飾らない(というかしょうもない)光景の中に、妙な緊張をせず安心して気のゆるせる“白黒清濁”あわせもつような生活や、変に気どらずトゲトゲしさのない穏やかな街が形成されていくのかもしれない。
 東京の街角を散歩していて、わたしが子どものころと大きくちがうなと感じるのは、小学生ぐらいの女の子たちがそこらへんで遊んでいないことだ。男の子たちはそこそこ見かけるのだけれど、女の子たちの姿がまるで見えない。少子化のせいといってしまえばそれまでだし、防犯のためといえばそうなのだろうし、街のコミュニティが希薄なので室内でゲームをしてくれてたほうが安心なのかもしれないが、子どものころ親に連れられて故郷のあたりを歩くと、街中でわがもの顔に遊び闊歩する女の子たちの姿をあちこちで見かけた。
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 つまり高橋義孝の「故郷の神田」や、小林信彦Click!“町殺し”Click!とは、早い話が街の真々中(まんまんなか)で女の子たちが安心して遊べない街づくり、気の抜けた行儀の悪いどこかのお上さんが、深夜にガラス戸を開けて「はばかりさま」と用足しするのを許さない(爆!)ような街づくりをいうのかもしれないな……などとぼんやり考えていたら、どこからか高橋教授の「女の子のことなんぞ書いてない!」と、お叱りの声が聞こえてきそうだ。

◆写真上:近くの雑司ヶ谷鬼子母神で、おめかしした女の子たちを見かけた。
◆写真中は、1964年(昭和39)に出版された高橋義孝『わたくしの東京地図』(文藝春秋新社)の函()と奥付()。は、代々木八幡宮の境内にて。
◆写真下:写真随筆集の『わたくしの東京地図』には、東京の(城)下町でわがもの顔に遊ぶ、たくさんの女の子たちの姿がとらえられていて愛おしい。掲載のモノクロ画像は、同書のためにカメラマン・山川進治が1964年(昭和39)の街中へ繰りだして撮影したもの。

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