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主亡きあと「惜櫟荘」ですごす安倍能成。 [気になる下落合]

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 下落合1665番地の第二文化村Click!に住んだ安倍能成Click!は、同じ夏目漱石Click!の弟子である松根東洋城Click!が発刊した俳誌「渋柿」(渋柿社)にエッセイを連載している。多くは『下落合より』と題され、日々の生活を通じて雑感をつづった内容だった。この連載は敗戦後も引きつがれ、1966年(昭和41)に死去するまでつづいた。
 1962年(昭和37)に発刊された「渋柿」2月号にも、『下落合より』と題されたエッセイが掲載されている。前年の1961年(昭和36)暮れから翌年の正月にかけ、避寒のために熱海市の伊豆山にある岩波茂雄Click!が建てた別荘「惜櫟荘」ですごした様子が書かれている。このとき、安倍能成は79歳であり冬の寒さが身体にこたえたのだろう。「惜櫟荘」の主である岩波茂雄が死去してから、すでに17年の歳月が流れていた。
 岩波茂雄と熱海の関係は、早大教授・津田左右吉の著作類とそれを出版していた岩波が、特高Click!による弾圧と検事局による出版法違反で起訴されたときからはじまっていると思われる。それまでにも、岩波書店は当局によるさまざまな嫌がらせや出版妨害をうけていた。津田と岩波を起訴にもちこんだ言論抑圧は、慶應義塾をベースとした蓑田胸喜や、原理日本社の三井甲之らが中心となった機関誌「原理日本」の、学術分野に対する“魔女狩り”に等しい狂信的な「摘発」=難クセだった。
 軍国主義の日本政府に対して、「反政府」「反国家」「反天皇」「反軍」だと恣意的にみなした学術書へ、内務省などと一体化して次々に弾圧を加えていくという、学問の自由や独立を学府みずからが踏みにじり否定するに等しい愚挙だった。「原理日本」は、津田左右吉のことを「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」だと、感情的に非難(論理による批判ではない)している。
 蓑田や三井の「原理日本」は、学術分野における民主主義者(大正期からの民本主義者)や自由主義者の臭いがする学者の「摘発」はもちろん、明治時代の自由民権運動をベースとした右翼やナショナリスト、それに近しい汎アジア主義者にいたるまで、資本主義政治思想の「民主」や「自由」の臭いが少しでもする著作や学者、出版社を、特高や憲兵隊と一体化して次々とスケープゴードにしていった。このあたり、現代の中国やロシア、ミャンマーの公安(思想)警察およびその民間摘発(密告)者とそっくりだ。
 それまでにも、京都帝大の瀧川幸辰(瀧川事件)や、岩波とも関連が深い東京帝大の美濃部達吉(天皇機関説事件)、同じく矢内原忠雄(矢内原事件)らへ執拗な攻撃を加え、日本から排除し葬り去ろうとする軍国主義と一体化したような、“学術ファシズム”による狂気じみた「思想」集団だった。「原理日本」グループは、「摘発」した学者が講義をする教室まで押しかけ、さまざまな嫌がらせや授業妨害など物理的な“排除”まで行っている。また、当時のマスコミは問題意識も批判力も失い、「原理日本」と大差ない視線でこれらの「事件」を報道し、社会的に“炎上”させていった。
 そういえば、安倍政権下で日本学術会議のメンバーから排除された、政府の見解や意向とは異なる憲法学や近代史学、政治史学、キリスト教学などの学者が東大や早大、京大などの学術研究者だったのは、あたかも当時の世相の焼き直しを見ているようで、歴史的に見ても非常に示唆的で興味深い。1970年代末より茶本繁正が告発し警告しつづけた、韓国由来の「統一教会=勝共連合=原理研」や「日本会議」と密接な関係にあった、安倍政権下ならではの象徴的な現象であり出来事だろう。加えて昨今では、学術会議メンバーの人選まで干渉しようと圧力をかけつづけている。
 岩波茂雄は、明治天皇の「五箇条のの御誓文」における「広く会議を興し、万機公論に決すべし」を“盾”に防戦をつづけたが、ついに起訴され津田左右吉とともに投獄の怖れが現実化した。ふたりは、1940年(昭和15)3月8日に検事局へ召喚され、出版法第26条違反で起訴をいいわたされている。このとき、岩波茂雄はなにもかもイヤになり熱海のホテルにこもってしまった。心配になった小林勇Click!が熱海へ迎えにいくことになるのだが、そのときの岩波の様子を、2013年(平成25)に岩波書店から出版された中島岳志『岩波茂雄-リベラル・ナショナリストの肖像』から引用してみよう。
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 岩波は追い詰められた。彼は東京を離れ、熱海のホテルに引きこもった。数日たっても会社に現れなかったことから、小林が心配になって様子を見に行くと、彼は「人に会うのがいや」で、「誰にも会わずに暮らした」と言った(註釈記号略/以下同)。/翌日、岩波は小林を伴って、ホテルに近い分譲地を廻った。そして、その一画で立ち止まり「ここが大変気に入っている」と言った。彼はこの分譲地を「買いたい」と言い、その日のうちに購入申し込みを行った(註略)。ここに建てた別荘が「惜櫟荘」と呼ばれるようになる。
  
 余談だが、早大の津田左右吉Click!曾宮一念Click!が描く風景作品のファンで、これまでもたびたび拙ブログには登場Click!している。
 岩波茂雄は、一高Click!時代に1学年下にいた「人生不可解」の藤村操事件Click!に遭遇している。彼もまた、生きる意味に迷う当時の「煩悶青年」のひとりだった。彼は、浄土真宗大谷派の近角常観が開設した本郷の「求道学舎」に通い、トルストイの作品に没頭するようになる。また、柏木(現・北新宿)の無教会派・内村鑑三Click!が主宰する「聖書研究会」にも、進んで聴講しに出かけている。岩波茂雄が、終生変わらないリベラルな思想基盤を身につけたのはこの時期であり、のちに岩波書店から『トルストイ全集』や『内村鑑三全集』を発刊するのも、「煩悶青年」だったこの時代の経験からだろう。
 岩波は、同郷だった新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!に起業の相談にいき、神田で古書店「岩波書店」を経営するようになる。1914年(大正3)になると、東京帝大で同窓の安倍能成Click!の紹介で夏目漱石Click!と知りあい、東京朝日新聞に連載されていた『こゝろ』の岩波による自費出版を相談している。漱石は快諾し、条件として本の装丁にはわがままをいわせてくれということになった。
 こうして、同年9月に漱石の凝りにこった装丁で、『こゝろ』が岩波書店から刊行されている。以降、漱石は岩波からの出版を希望し、『硝子戸の中』『道草』『明暗』『漱石俳句集』『漱石詩集』と出しては次々に売れ、漱石の死後、1917年(大正6)に『漱石全集』を刊行しはじめたころ、岩波書店の出版事業はようやく軌道に乗っている。
 1921年(大正10)になると、書籍の出版だけでなく阿部次郎や和辻哲郎Click!、安倍能成、石原謙、小宮豊隆らによる雑誌「思想」の刊行がはじまっている。1931年(昭和6)には雑誌「科学」、1933年(昭和8)には「文学」および「教育」と雑誌事業がつづくことになる。また、1927年(昭和2)には誰でも良書を手軽に安く読める日本初の文庫本「岩波文庫」を創刊し、翌1928年(昭和3)には「岩波講座」と「岩波全書」を、1938年(昭和13)には「岩波新書」を創刊している。
 昭和に入り日中戦争が勃発すると、岩波茂雄は「軍部は有史以来の大悪事を働いている」と繰り返しいい、軍部から献金の依頼があると「中国を傷つける行動にビタ一文でも出すことは出来ない」と拒否した。近衛文麿Click!が首相になると、面会する機会をとらえて「(和平交渉に)蒋介石と直接会うべきだ」と提言している。だが、その直後に「近衛は弱くて駄目だねえ」と、軍部に対する弱腰を周囲にこぼしてまわったという。
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 そのような状況の中、津田左右吉と岩波茂雄は起訴され法廷に引きずりだされることになった。岩波のフラストレーションは頂点に達し、当局の弾圧や規制に徹底して反抗しようと考えたものだろうか。だが、出版事業で表だって反抗すれば、たちまち入獄で会社がつぶれ多くの社員が路頭に迷うことになる。そこで、熱海に建設する入手したばかりの分譲地へ、当局の規制を無視した別荘を建てようとしたのかもしれない。
 1962年(昭和37)の「渋柿」2月号より、安倍能成『下落合より』から引用してみよう。
  
 この別荘は戦時中の制限を受け、部屋は女中部屋ともにただ三つで、外に浴室があるだけだが、この浴室の壁がわざわざ岐阜県から取り寄せた大理石であつたり、瓦が京都の最上製だつたり、応接室の椅子に禁制の鞣皮を張つたり、狭い芝生の庭に貴舟石一つを置いたり、松葉の溜るのを嫌つて樋をやめ、雨水を受ける独特の溝を工夫したり、応接室の障子、硝子戸、網戸、雨戸の為に、三筋の溝を作つて合せて十二の溝を通る戸を納め、部屋に一ぱい太平洋の風を容れるやうにしたり、岩波の凝り性を傾けて、戦時下に可能もしくは不可能な贅を尽くしたものであつて、人によつて好みはあらうが、確に岩波の遺愛の傑作といへる。/私は岩波の如く入浴を嗜むたちではないが、それでも朝起きると、湯殿の硝子戸をあけ放して、温泉につかりながら太平洋から吹いて来る風を呑吐する爽快には、実に何といへぬ幸福感を与へられ、応接間の岩波の写真の前に香をたいて、思はず有りがたうとつぶやいた。
  
 岩波茂雄はこの別荘で、相模湾の潮風が当たる温泉にゆっくり浸かりながら、常日ごろのストレスや鬱憤を晴らしていた様子がうかがえる。安倍能成によれば、岩波はすでに入獄を覚悟し、その試練に耐えうるためには身体を養っておかなければならないというのが、「惜櫟荘」を建てた大きな理由だったと話している。また、戦時中の物資が欠乏していた時代にもかかわらず、目の前が相模湾Click!だからできたのだろう、いろいろと“うまいもん”を手に入れてはご馳走を作っていた。
 津田左右吉は、自身と岩波の裁判を「学会全体の死活問題」と位置づけ、公判での弁護などで南原繁Click!や和辻哲郎らの支援を得られたが、1942年(昭和17)5月、津田左右吉に禁固3ヶ月と岩波に禁固2ヶ月で、それぞれ執行猶予2年がつく判決が下されている。検察側も被告側も、これを不服としてすぐに控訴した。だが、戦争の激化で徐々に公判が開かれなくなり、1944年(昭和19)11月には時効が成立している。
 1945年(昭和20)8月の敗戦直後から、安倍能成と岩波茂雄は総合雑誌の創刊を構想しはじめた。敗戦からわずか4ヶ月後、1946年(昭和21)1月1日に雑誌「世界」を創刊している。だが、岩波茂雄は10年以上にわたる弾圧により心身ともに疲労が蓄積していたのだろう、同年4月20日に熱海の「惜櫟荘」で脳溢血を発症し、ほどなく死去している。上掲の安倍能成『下落合より』は、岩波の死から17年後に書かれた文章だ。
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 「原理日本」の蓑田胸喜は、自身こそが「亡国」の先棒担ぎだったのを恥じたのか、敗戦直後に故郷の熊本で自裁している。また三井甲之は、別に恫喝や拷問、獄死の脅迫など受けていないにもかかわらず、にわか「民主主義者」へと「転向」し、戦後は『手のひら療治』などという書籍を出版している。まさに、「手のひら」を返したような「転向」だった。

◆写真上:1941年(昭和16)に建設された、熱海市伊豆山にある岩波別荘「惜櫟荘」。
◆写真中上は、岩波茂雄()と安井曾太郎Click!が下落合のアトリエで描いた『安倍能成氏像』Click!(1944年/)。は、近角常観が本郷に設立した「求道学舎」外観と内観。は、岩波茂雄の思想に影響を与えた近角常観()と内村鑑三()。
◆写真中下は、1908年(明治41)に撮影された淀橋町柏木436番地(現・北新宿1丁目)の内村鑑三邸(左2階家)。は、1910年(明治43)撮影の戸山ヶ原Click!を散歩する内村鑑三。下左は、1962年(昭和37)発刊の「渋柿」2月号(渋柿社)。下右は、2013年(平成25)出版の中島岳志『岩波茂雄-リベラル・ナショナリストの肖像』(岩波書店)。
◆写真下は、北軽井沢の津田別荘付近を散歩する岩波茂雄(左)と津田左右吉(右)で、奥は「瀧川事件」に学生の立場から抵抗した久野収。は、伊豆山の「惜櫟荘」で沖に見えるのは初島。は、現在でも発刊がつづく2023年4月号の雑誌「思想」と「世界」。

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