ウナギを食べると頭がハキハキする件。 [気になるエトセトラ]
その昔、小学校で肝油(かんゆ)というピンク色をしたドロップが、給食時間に配られていたのを憶えている。甘いが独特な臭みがあって、わたしは苦手だった。クジラやサメ、エイなどの脂身から抽出した油脂分でできていたのだと聞いている。わたしの世代はそうでもないが、戦前から戦後にかけて、日本人は動物性の脂肪摂取が絶対的に不足していた。だから、それを補うために小学校で肝油ドロップが配られたのだろう。
おそらく、1960~1970年代の子どもたちは、すでに動物性脂肪を十分に摂取できていた世代であり、学校での肝油配布は戦前からの名残りが、そのままつづいていたのかもしれない。動物性脂肪が不足すると、肌がカサカサに乾き白い粉を吹いたようになるようだ。また、ヒビやアカギレにもなりやすく、特に戦前の小学生は洋食(動物肉)を食べる機会が現代に比べ圧倒的に少なかったため、油脂分の欠乏によるさまざまな症状に悩まされていたらしい。そのような食生活を補うために、学校で肝油を配りはじめたのだろう。
少し横道へそれるけれど、肝油ドロップともうひとつ、紫色をしたとてつもなく苦くてまずいうがい薬というのも配られていた。たいてい風邪が流行る秋から冬にかけて、やはり給食の前などにアルミ製の大きな薬缶に入れた紫色の液体を、生徒たちに配ってはうがいをさせていた。この液体がなんだったのかは知るよしもないが、想像を絶するほどのあくどい苦さで、わたしは口に含んでもうがいなどせず、そのまま吐きだしていたのを憶えている。口をよくゆすがないと、あとあとまで苦さが舌の両脇に残った。
戦前の日本人が、いかに動物性油脂を摂らなかったか、向田邦子Click!は子母澤寛Click!の著作を引用しながら、こんなことを書いている。彼女は、子母澤寛Click!の著作を『食味極楽』と紹介しているが、戦前に東京日日新聞の連載時から、1957年(昭和32)に出版された初版のタイトルまで『味覚極楽』Click!(戦後は龍星閣→新評社→中央公論社)だ。向田邦子Click!『霊長類ヒト科動物図鑑』(文春文庫)に収録の、「男殺油地獄」から引用してみよう。
▼
子母澤寛氏の聞き書きで『食味極楽』という本がある。/絶滅に瀕している昔なつかしい東京ことばが、みごとに書きとめられている名著だが、そのなかで、ある歌舞伎役者が鰻を食べたときのセリフがいい。/「鰻をやりますと、頭がハキハキしてまいります」/といって(ママ)いるのである。/常日頃は、菜っぱの煮びたしだの豆腐、せいぜい焼魚に煮魚くらいだから、たまに鰻を食べると、脳ミソから目玉まで潤滑油が廻ったように思ったのであろう。/うちの祖母なども、すき焼きやトンカツを食べた翌朝は、/「なんだか手がスベスベになったねえ。雑巾しぼってても水弾きがいいような気がするよ」/と言って(ママ)いた。
▲
わたしも、うなぎClick!を食べると「頭がハキハキ」して含まれているビタミンのせいか、一夜明けると視力がよくなるような気もするので大好きだが、最近の天井知らずの非道な値段Click!にはさすがについていけない。子母澤寛がインタビューしている相手は、明治・大正期を通じ名脇役で鳴らした、音羽屋の4代目・尾上松助のことだ。
文中では、向田邦子の祖母や母が戦前、ごま油やツバキ油を「いまの香水やオーデコロンよりも大切に使っていた」という思い出を語り、うっかり床にこぼしたりすると「勿体ながって手や足の踵に摺り込んでいた」と書いているが、わたしはさすがにそのような情景を見たことがない。わたしが子どものころには、さまざまな種類の油はスーパーにいけばすぐに手に入れることができる商品だったし、母親は親父の好きだった日本橋の老舗Click!もどきの洋食(肉料理)を、料理学校に通いながら毎日のようにつくっていた。
子母澤寛『味覚極楽』の4代目・尾上松助へのインタビューは、おそらく数えで「八十五歳」だとみられるので、死去する前年1927年(昭和2)の聞き書きだと思われる。1977年(昭和52)に新評社から出版された同書より、「大鯛のぶつ切り」から引用してみよう。
▼
あっしは他の名題(なだい)役者衆とは違って、子供の時からペエペエの下廻りで、さんざん苦しんできやしたから、自然食べ物が荒(あろ)うがして、この年<八十五歳>になってもうなぎなんざあ一人前(いちにんめえ)ではどうも堪能しねえ。うなぎの蒲焼を一人半前(いちにんはんめえ)やって、それからうなぎ飯を一つはやれる。麻布六本木の「大和田」のうなぎ飯はようがすな。つまりあのうちは「たれ」が良い。うなぎだけ食べてもうまいが、うなぎ飯にしてもらうとなおうまい。通人は白焼(しらやき)というタレ無しのを食べるそうだが、あっしはそんなのどうもうまくない。年寄りがそんなにうなぎを食ったって大して長生きのためにはならねえものだと大倉さん(喜八郎翁)がいってらっしゃいましたが、どうもあいつをやると気のせいかはきはきしてくるように思いやすよ。(カッコ内引用者註)
▲
85歳になっても、蒲焼き「一人半前」とうなぎ飯「一人前」Click!をペロリとたいらげる尾上松助は、明治・大正期の人物としては消化器系が丈夫だったのだろう。そういえば、死ぬ直前までうな重を食べつづけた、田中絹代Click!のエピソードを思い出す。
文中に、大倉喜八郎Click!のうな重エピソードが紹介されているけれど、向島別邸Click!で昼にうな重を注文しつづける大倉喜八郎を間近で見ていた息子の大倉雄二Click!は、著書『逆光家族』の中でせっかくうな重をとってもほとんど箸をつけず、あれはいつまでも元気な大倉喜八郎が「大倉うな重神話」「大倉健康神話」を創作するための、ムダな演出のひとつではなかったかと書いている。晩年の大倉喜八郎は胃がんをわずらっていたが、それでも昼にはうな重を注文しつづけていた。
わたしが小学生のとき、あまり好きではなかった肝油ドロップだが、子どもたちへ一律に配って食べさせていたのはかなり問題だったと思う。脂肪を摂りすぎの健康児(肥満児)Click!まで、せっせと油脂分を“補給”していたのだから、若年性の高血圧やコレステロール過多、糖尿病の予備軍をこしらえていたようなものではないだろうか。1960年代は、いまだ戦後のベビーブームの余波をひきずっており、1学年が250人前後はあたりまえの時代だったから、今日のように個々の児童に合わせた対応など望むべくもなく、なにごともみんな一律で「平等」に実施されるのが普通だった。
戦前・戦中派には、エーザイが開発した「ハリバ」というサメの肝油が流行っていたようだ。当時の学校では、油脂分が足りない生徒たちへハリバをよく飲ませていたと向田邦子も書いている。従来の肝油は、1日に何粒も飲まなければ効果がなかったが、ハリバは1日1粒飲めば十分に油脂分を摂れたため、多くの学校で採用されていたらしい。
現在は、洋食が中心の食生活から油脂分の摂取過多といわれて久しいが、そのわりには1970~1980年代のころに比べ、明らかに肥満した人物を見かける光景が少なくなっていると感じる。わたしの子どものころには、クラスに必ずひとりかふたりいた、肥満児を見かける機会もほとんどなくなった。じゃあ、多くの人たちの食生活が貧しくなっているのかといえば、わたしが子どものころよりもよほどいいものを食べている。おそらく、昔の“飽食時代”のように食い意地の張った「ドカ食い」「バカ食い」をする人が減り、摂生やダイエットに気をつける人たちが増えたのだろう。
1970年代の半ば、『霊長類ヒト科動物図鑑』で向田邦子はこんなことも書いている。
▼
(前略) 石油問題などで余計な心配をしているから、鼻の頭の脂の浮きもいつもより多くなっているような気がする。/いまは文明は油であり脂であるらしい。脂汗を流して働き、働いて得たお金で脂を得、体に取り込んで寿命を縮めている。/近松門左衛門世にありせば、「男殺油地獄」を書き、パルコは西武劇場あたりで大ヒットさせていたに違いない。主演は失礼ながら小林亜星氏あたりにお鉢がまわりそうである。
▲
そういえば、肥満した人物をよく見かけたのは、1970~1980年代につづいた高度経済成長期だったことに改めて気づく。ということは、経済が低迷したままの現状だから、肥満体を見かけることも少なくなったということか。確かに、不況とインフレが同時進行する、前代未聞の“令和スタグフレーション”の世相では、寺内貫太郎も生きにくいにちがいない。
◆写真上:いまでも肝油はあるが、昔とはかなりちがう風味をしている。
◆写真中上:上は、4代目・尾上松助(左)と、1917年(大正6)の山村耕花『四代目尾上松助の蝙蝠安』(右)。『与話情浮名横櫛(よはわさけ・うきなのよこぐし)』(切られ与三)でおなじみ蝙蝠安(こうもりやす)だ。下は、散歩圏内にある「鰻家」のうな重。
◆写真中下:上は、1984年(昭和59)に出版された向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』(文春文庫版/左)と著者の向田邦子(右)。下は、1977年(昭和52)に出版された子母澤寛『味覚極楽』(新評社版/左)と著者の子母澤寛(右)。
◆写真下:戦前・戦中派には懐かしいと思われる、肝油「ハリバ」(上)と媒体広告(右)。