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まったく面白くない住谷磐根の武蔵野散歩。 [気になる本]

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 少し前、上落合に住みマヴォClick!へ参加していた住谷磐根Click!についてご紹介したが、彼は1970年代の半ばに武蔵野各地を散策・取材し、1974年(昭和49)12月から1978年(昭和53)12月にかけて、地元の武蔵野新聞にエッセイを連載している。
 わたしが高校時代から学生時代にかけ、武蔵野Click!(おもに小金井と国分寺)を歩いていたころとちょうど時期的に重なるため、連載エッセイをまとめてのちに出版された書籍『点描 武蔵野』が手に入ったので、じっくり読むのを楽しみにしていた。同書は、挿画も住谷磐根が担当しており、画文集として当時の懐かしい情景が画家の目をとおして描かれていると思ったからだ。ところが、とんだ期待はずれだった。
 住谷磐根は、当時の「武蔵野」Click!と認識されていた東京近郊の街、すなわち武蔵野市にはじまり昭島市まで18自治体を取りあげ、それとは別に「井の頭公園」「深大寺」「多磨霊園」「大国魂神社」「北多摩の基督教」「多摩地区の郵便」と6つのテーマについて記述している。東京の市街地からそれほど離れていない、当時は宅地開発が盛んだった東京近郊の街々を対象に、武蔵野の面影を訪ねて歩きまわる内容だ……と想像していた。
 わたしは岸田劉生Click!曾宮一念Click!木村荘八Click!織田一磨Click!山田新一Click!小島善太郎Click!鈴木良三Click!村山知義Click!などが書いた、それぞれの画家の視点から風景やテーマ、生活などを見つめるようなエッセイを期待していたのだけれど、住谷磐根が描く「武蔵野」はそれらとはまったく無縁だったのだ。たとえば、わたしが1970年代によく歩いた小金井市についての文章を、1980年(昭和55)に武蔵野新聞社から出版された住谷磐根『点描 武蔵野』から、少しだけ引用してみよう。
  
 甲武鉄道(現在の中央線)が開通し、大正十五年(一九二六)武蔵小金井駅が開設されて、東京との交通が便利になり、人口も年月を追って増大し、昭和三十九年九月には東小金井駅が新たに出来てなお一層便利になった。/昭和三十三年十月、市政がしかれ、市の木を「欅」、市の花を「桜」と定めるなど、自然に対する市民の心のよりどころを提唱し、近代思潮に乗って学園都市文化施設の誘導にも力を入れている。/かつて第一次世界大戦の後、貫井北町北部一帯の広大な土地に陸軍技術研究所が出来て、(中略) 終戦後その跡地には郵政省電波研究所が、昭和二十七年八月発足し、(中略) 総て現在及び将来に向って最大限に国民の福祉に活用するための研究がなされている。
  
 わたしがいいたいことは、すでにみなさんにもおわかりだと思う。このような内容は、別に住谷磐根が書かなくても当時の自治体が発行するパンフや市史、今日ならWebを参照すれば即座に入手できる情報であって、わざわざ画家が書く文章世界とは思えない。住谷磐根が、実際に武蔵野のどこを歩き、なにを見て、どのような体験をし、そのモチーフやテーマからなにを感じとり、それについてどう思い、なにを考えたのかが知りたいのであって、自治体が発信する行政報告書の概要を読みたいのではない。
 ところが、ほぼすべての街々についての記述が、このような表現の繰り返しなのだ。連載が武蔵野新聞なので、記事を書くようなつもりで文章を書いたものだろうか。あるいは、編集部から主観をできるだけ排し、「客観的」な記述にしてくれというような注文でもあったのだろうか?(画家の署名入りエッセイなのでそうは思えない) 同書の「あとがき」では、「行く先々で先ず市役所の広報部と教育委員会を訪ねていろいろ伺」ったと書いているが、そもそもアプローチからして画家らしくないと感じるのはわたしだけではあるまい。
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 最初は几帳面な性格から、街の成り立ちや概要から書きはじめないと筆が進まないのかと思ったのだが、ほとんどがこのような記述で埋められているのを読み、僭越ながら彼は情報として得たことをソツなくまとめて記述するのは得意かもしれないが、人間の生活や自己の内面を描く文章表現には、まったく不向きなのではないかと思うにいたった。すなわち、自身が感じたことや体験、思ったこと、そこから想像したことなどの主観がともなわない、まるで学校の“お勉強発表会”のような記述のエッセイなど、いっちゃ悪いが上記の画家たちの文章に比べ、ほとんど意味も価値もないに等しいと感じる。
 それでも、実際に地域に住む人々に出会って話を聞いている箇所は、かろうじてエッセイかルポのようなニュアンスを感じとることができる。わたしが学生時代の1978年(昭和53)に、わずか2ヶ月だけ公開されたときに訪れた(その後非公開となり、翌1979年10月から再整備ののち改めて公開)、滄浪泉園をめぐる文章だ。当時の滄浪泉園は、旧・三井鉱山の社長だった川島家の所有地(別荘)であり、1975年(昭和50)の時点では高層マンションの建設計画が具体化しはじめていたころだった。同書の「滄浪泉園」より、少し引用してみよう。
  
 何とか中へ入ることは出来ぬものかと再び道路の方へ戻った。自動車の頻繁に通る道路に面した方は四階建てのマンションが並んで、この林の一部は既に建物会社に譲渡してしまった様子であった。/マンションの傍の林の中へ通ずる門があって、試みに小門の方から入って行くと、石畳を踏んだ奥に、川島家の身寄りと感じられた住宅があって、そこの若い奥さんに、滄浪園(ママ)に就いてお聞きしてみた。/「近来色々な人が訪ねて見えて、写真を撮らせて欲しいとか林の庭園を見学したいと申込まれるが、いまでは一切お断りしています。」とのお言葉で、筆者も礼を尽して頼んでみたけれど、折悪しく未亡人の川島老夫人は九州方面へ旅行中で、その老婦人(ママ)―母と呼んでいた―が、「在宅ならば或いは話が分るかと思われますが、不在でお取計らいは出来ません」と筆者に気の毒そうに申されるので、残念ながら退去することにした。
  
 わたしが初めて滄浪泉園を訪れたのは、保存が実現して公開された1978年(昭和53)の秋なので、いまだ当初の川島別荘の面影が色濃かったころだ。わたしの印象では、庭園というよりも武蔵野原生林そのままの風情をしており、ハケClick!の中腹や下に横たわる湧水池は、人手が加えられていない原生のままのような姿をしていた。現在のように、本格的な公園あるいは庭園のように整備されるのは、1979年(昭和54)以降のことだ。
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 住谷磐根は、滄浪泉園の一帯を「文士・大岡昇平の『武蔵野夫人』のモデルになった所」と規定して書いているが、わたしが訪れた当時の風景や印象からしても、大岡昇平Click!が描写する大農家だった「『はけ』の荻野長作」の家Click!とその周辺の風情とは、かなり異なった印象を受けている。むしろ、1974年(昭和49)ごろの高校時代にさんざん歩いた、「ハケの道」沿いの雑木林に見え隠れしていた、ちょうど旧・中村研一アトリエあたりの国分寺崖線Click!沿いが、『武蔵野夫人』の物語にピッタリの風情だった。
 わたしがハケの道を歩き、手に入れたばかりの一眼レフカメラにトライXを入れてせっせと撮影していた高校時代(実は武蔵野らしい風情の地域Click!を歩いたのは、親に連れられた子ども時代Click!からずっとなのだが)、大岡昇平が同窓生だったハケの富永邸に寄宿していたころと、周辺の景色や風情にいまだ大きなちがいはなかっただろう。野川沿いに、国分寺・恋ヶ窪の姿見の池Click!(日立の中央研究所敷地内で入れなかった)から、ハケの道を小金井の武蔵野公園あたりまでエンエンと歩きつづけると、中村研一アトリエが建っていた界隈が物語の舞台にもっともふさわしく思えた。事実、戦地からの復員後すぐに大岡昇平が暮らしていた場所(富永邸)は、同アトリエのすぐ東側だ。
 『点描 武蔵野』の「あとがき」で、住谷磐根はこんなことを書いている。
  
 武蔵野の一隅保谷市に移り住むことになった。近隣の人達とは朝となく昼となく、手まめに道路を清掃し気持よく、近くには芝生畑、栗林、梅林、奇石名石を沢山集めた庭石屋や、既に風格付けの出来た植木を仮植している大きい植木屋があり、玉川上水の暗渠の丘が、真すぐに小金井、小平、青梅方面に伸びていて、四季を通じて散歩に好適であり、西方に麗峰富士山が眺められ、落日には紫紺のシルエットで鰯雲を引いた姿は、情緒を誘う住みよい所である。現在では練馬区大泉辺りから保谷、田無、三鷹、調布の方へかけての線を引いたそのあたりが、東京を背にして西方が武蔵野のおもかげの多い位置ではないかと感じられる。
  
 このような文章を、「あとがき」ではなく冒頭の「はじめに」に書いて、それぞれの地域や街の描写、人々の生活や暮らしの様子を画家の目ですくい取り、綴ってもらいたかったものだ。当局や公的機関が発表する情報をそのまま伝えることを、昔から新聞では「玄関取材」または「クラブ記事」というけれど、そうではなく自由に表現できるエッセイなのだから、画家である住谷磐根の目に、それぞれの地域や街に展開する武蔵野の“現場”がどのように映ったのかを、そしてどのような印象や想いにとらわれたのかを書いてほしかったのだ。
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 著者が「あとがき」で挙げている大泉や保谷、田無、三鷹、調布などの街々には、まがりなりにも武蔵野の面影を知るわたしにしてみれば、すでに市街地であって武蔵野の風情はほとんど見られない。『点描 武蔵野』が出版された時代から、すでに40年余がすぎ去った。

◆写真上:滄浪泉園(旧・川島別荘)にある、ハケの中腹にひっそりと横たわる湧水池。
◆写真中上は、1980年(昭和55)に武蔵野新聞社から出版された住谷磐根『点描 武蔵野』()と著者()。は、挿画の「滄浪泉園」と「国分寺」。
◆写真中下:住谷磐根『点描 武蔵野』が出版されたのと同年の1974年(昭和49)に、わたしが小金井の国分寺崖線で撮影したハケの道沿いの風景。
◆写真下は、同じくハケの道沿いの風景。は、金蔵院の墓地周辺に展開していた武蔵野原生林。は、恋ヶ窪にある湧水源の姿見の池から流れでる野川の源流域。
おまけ
 国分寺・恋ヶ窪の日立中央研究所内にある、2014年(平成26)に公開された姿見の池。野川の湧水源であり、大岡昇平が目にした風景がそのまま残されている。この池から流れでた湧水が、上掲のモノクロ写真に写るような野川の源流域を形成していた。近年、研究所内で立入禁止の姿見の池に代わり、観光客用に新「姿見の池」が設置されているようだ。
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下落合を描いた画家たち・柳瀬正夢。 [気になる下落合]

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 柳瀬正夢Click!が、特高Click!に治安維持法違反で逮捕され有罪判決を受けたあと、上落合2丁目602番地から松下春雄Click!が死去したばかりの西落合1丁目306番地(のち1丁目303番地)のアトリエClick!へ引っ越したのは、友人たちへの転居通知によれば1934年(昭和9)3月1日のことだった。その時期の前後する作品に、少なくとも現時点では制作場所が不明とみられる『電信柱の道』(1930年代)という画面がある。(冒頭写真) 23.8×33.1cmの板キャンバスに描かれた、タブローの小品だ。
 この時期の柳瀬正夢を追いかけてみると、1932年(昭和7)11月5日に世田谷町若林549番地の自宅で特高に踏みこまれ、世田谷警察署に連行されて留置されながら激しい拷問を受けている。翌1933年(昭和8)3月に、市ヶ谷刑務所に移されて治安維持法違反で起訴されると、同年8月には留守宅の梅子夫人(25歳)が病死し、9月になってようやく保釈されている。このころ、一家はすでに上落合2丁目602番地に転居しており、同年12月には「懲役2年執行猶予5年」の判決を受けている。
 同じころ、西落合1丁目306番地にアトリエClick!を建てて住んでいた松下春雄Click!は、1933年(昭和8)の暮れに名古屋から伊勢をまわる旅行から帰ったあと、同年12月31日に急性白血病のため急死Click!した。翌1934年(昭和9)1月4日に西落合のアトリエで告別式が行われたあと、淑子夫人Click!はふたりの遺児を連れて西巣鴨町池袋大原1464番地にある実家の渡辺医院Click!へともどっている。松下春雄のアトリエは無人となった。
 西落合にあるアトリエ敷地の、西側半分は鬼頭鍋三郎Click!アトリエClick!として使用していたが、東側の松下春雄アトリエが空き家になったため、淑子夫人Click!は画家に貸し出すことにした。そこへ、2ヶ月後に小林勇Click!ら友人たちの紹介で入居したのが、柳瀬正夢Click!と遺児たちだった。西落合のアトリエに移った柳瀬正夢は、友人たちから油彩画の制作を勧められ、このころから彼の作品にはタブローが増えていく。『電信柱の道』が描かれたのは、ちょうどこのころのことだ。
 当時の様子を、1996年(平成8)に岩波書店から出版された、井出孫六『ねじ釘の如く-画家・柳瀬正夢の軌跡』から少し引用してみよう。
  
 (前略) 柳瀬は「額縁にはめられた画、どれもこれも小っぽけな応接間美術だ。資本家のデコレーションだ」と言い放ってカンバスを捨てた。そのカンバスがいま柳瀬に手ひどいしっぺ返しをしたのではなかったろうか。初心に帰ってデッサンからやり直さなければならない、スケッチブックを懐に野に出て、風物をもう一度見つめるところから始めるべきだと、眼前のカンバスが言いきかせているように、柳瀬は思った。/青年時代の瑞々しい作品を知っている友人知己は、ひとしく、柳瀬が油彩にもどっていくことを期待し、アトリエまでも探してきたというのに、柳瀬が容易にアトリエにこもって絵筆をにぎろうとしないのに彼らはやきもきした。ともあれ、二人の幼児をかかえて、柳瀬は生活をたて直すことを迫られていた。
  
 スケッチブックを「懐に野に出て」、歩きはじめようとする直前の様子がうかがえる。
 『電信柱の道』の画面を、少し細かく観察してみよう。タイトルには「電信柱」とあるが、描かれている電柱は通信(電信電話)ケーブルをわたす電信柱ではなく、白い碍子を備え電燈ケーブルを張りわたした電燈柱Click!だ。当時の電気ケーブルをわたした電柱は、腐食を防ぐためにクレオソートClick!ないしはコールタールを塗布しているので黒っぽいが、電話線をわたした電信柱は頻繁なメンテナンス(加入者の増加)を考慮して背丈が低く、当時は白木のままClick!のものがほとんどだった。
 太陽光は右側から射しており、右手あるいは画家の視線の背後が南側だろう。画家が立つ道路には、土面の上に細かな砂利がまかれているようで、できて間もないかメンテナンスがなされたばかりの道路を連想させる。奥には高圧線の鉄塔が建っているが、昭和初期のこの時点で高圧線鉄塔が建っていたのは、落合地域では下落合と西落合の両地域しかない。ただし、目白変電所Click!へと向かう下落合の高圧線鉄塔(東京電燈谷村線Click!)は1927年(昭和2)に開通した西武電鉄Click!の、線路沿いに建つ鉄道高圧線の鉄塔に統合され、線路を跨ぐ「円」型Click!をしており、画面のような形状ではなくなっていた。
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 また、上落合にも中野方面から現在の下落合駅あたりに向けて斜めに高圧線鉄塔が建設されていたが、関東大震災Click!が起きた1923年(大正12)ごろに廃止されている。したがって、落合地域で残るのは、井上哲学堂Click!バッケ(崖地)Click!下に開園していた遊楽園Click!を通過し、オリエンタル写真工業Click!の南側を経由して、葛ヶ谷地域(のち西落合)を西南西から東北東へと斜めに横断する、高圧線鉄塔の経路のみだった。したがって、柳瀬正夢が西落合時代の近所で『電信柱の道』を制作したとすれば、落合地域では同地域の可能性が高いことになる。西落合に通っていた高圧線鉄塔の経路は、1940年(昭和15)に作成された1/10,000地形図でもその痕跡が確認できる。
 もうひとつ、画面には耕地整理中の造成地を象徴する、特徴的かつ典型的な風景がとらえられている。おもに西落合の南部には多かった水田跡の湿地や、灌漑用水路を埋め立てるために用意された膨大な土砂の山だ。木々が土砂で埋まり、それは樹冠あたりまで隠れるほどの“山”を形成している。この“山”が自然の地形でないことは、表面に草木がまったく生えていないことでもうかがえる。どこからか大量に運びこまれた土砂は、周辺の耕地整理を終えた水田跡や窪地の湿地帯へ運ばれるのを待っている状態だ。
 西落合(当時は落合町葛ヶ谷)地域において、田畑の土地を整備し宅地造成地へと転用する目的で、葛ヶ谷耕地整理組合Click!が結成されたのは1925年(大正14)8月だった。長崎村で行われた耕地整理の手法を参考に進められ、初代の組合長は落合町長の川村辰三郎Click!がつとめ、1932年(昭和7)には書類計画上での耕地整理は結了している。
 だが、実際の現場ではいまだ事業が継続中だったため組合はすぐに解散せず、その後も引きつづき田畑の埋め立て整備が行われている。柳瀬正夢が西落合へ転居してきたころ、組合長は元・落合町長だった松崎章太郎だったろう。『電信柱の道』は、そんな耕地整理が進捗するさなかの、西落合の情景を描いた画面ではないかとみられる。
 1930年(昭和5)作成の1/10,000地形図を参照すると、高圧線鉄塔が南北の道路を斜めに横切り、鉄塔の周囲には住宅が建ってられていて、周辺に埋め立てが必要な水田あるいは水田跡が見られる場所は2ヶ所に絞ることができる。住宅の手前に、耕地整理用の土砂を集積できるスペースを考慮すれば、描画ポイントは1ヶ所に規定できそうだ。
 柳瀬正夢は、整然と拓かれたばかりの道路端から北を向き、西落合2丁目618番地(のち2丁目448~449番地/現・西落合1丁目30番地)にある高圧線鉄塔と、その下に建つ住宅の1軒を描いていると思われる。この道路は、途中が西側へ逆「く」の字のようにややクラックしているので、奥ゆきの見通しはきかない。画家の背後には、東西の道路をはさんですぐに水田および水田跡が、また描画ポイントから東へ50mほどのところにも、水田跡とみられる落合分水Click!沿いの広い空き地が拡がっているのがわかる。
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 さて、柳瀬正夢の『電信柱の道』は、いずれかの展覧会で展示されたのだろうか。西落合への転居後、再び油彩画に取り組みはじめた柳瀬正夢は、全国各地の風景をモチーフに制作し、ある程度の作品ストックができると、1936年(昭和11)には3回ほど展覧会に出品している。当時の様子を、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 この年(1936年)の柳瀬の旅はまだつづく、八月には長駆「満州」へ、帰って席のあたたまるまもなく十月には蓼科に、ひと月おいて房総九十九里から、多摩高尾山など、もっぱら写生の旅をつづけた末、十二月十二日から三日間、神田東京堂画廊で「柳瀬正夢油画<風景>展」が開かれた。近くの画材屋信画堂の店員鎌田芳明が作品の飾りつけ一切を仕切ってくれた。青年時代、門司・小倉を拠点として毎年開いていた正夢個展の十四年ぶりの復活だった。/出品作七十一点の多くがその場で売れてしまったから、個々の作品の出来映えはつかめないが、遺された目録からこの一年間の写生旅行を跡づけることはできる。海(鎌倉)、石川島、修善寺風景、朝の飯綱、戸隠山、松山城、道後温泉、瀬戸鞆の津、来島海峡、犬吠埼、秋の浅間高原、紅葉立科、秋色八ヶ岳、木曾駒ヶ岳、海景(九十九里)とつづくが、八月の「満州」旅行はまだなぜかモチーフのなかに入ってはきていない。(カッコ内引用者註)
  
 1936年(昭和11)の12月12日から14日にかけ、東京堂画廊で開かれた「柳瀬正夢油画風景展」の71点にものぼる作品の中に、はたして『電信柱の道』は含まれていたのだろうか。作品目録の題名から推察すると、全国の名所旧跡をモチーフにした、いわゆる“売り絵”が主体のような同展なので、『電信柱の道』のような地味で飾り映えのしない画面は展示されなかったかもしれない。同年の7月13日から17日にかけ、日本橋高島屋で開かれた「日本山岳画協会」の第1回展にも、柳瀬はタブローを3点ほど出品しているが、いずれも山岳風景の画面なので『電信柱の道』は含まれない。
 残るのは、日本山岳画協会展の直前、同年7月6日から8日にかけて銀座伊東屋で開催された「岡本唐貴救済画友展」のみだ。『電信柱の道』は制作後、初めて同展に出品されているのかもしれない。あるいは、柳瀬正夢油画頒布会で販売されたものだろうか。
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 1936年(昭和11)暮れの「柳瀬正夢油画風景展」のあと、アトリエでは親しい仲間たちを集め慰労会を兼ねたクリスマスパーティーが開かれた。絵はよく売れたが、代金の回収はこれからだった。集金が苦手な柳瀬を知る仲間のひとりが、「わたしが代りに集金に廻りましょうか」と申し出た。2年後に柳瀬正夢の妻となる、少女のような松岡朝子だった。

◆写真上:1930年代に制作された、板キャンバスの柳瀬正夢『電信柱の道』。
◆写真中上は、北側の畑地から見た西落合1丁目306(303)番地のアトリエ。右側(西側)が鬼頭鍋三郎のアトリエで、中央と左側(東側)が松下春雄の母家とアトリエ。そして、1934年(昭和9)3月より柳瀬正夢の母家とアトリエになるが、戦後はフランスから帰国したばかりの彫刻家・高田博厚Click!のアトリエになっている。中左は、同年3月1日に出された柳瀬正夢の転居通知。中右は、同アトリエで友人の小林勇をモデルに制作された柳瀬正夢『Kの像』Click!は、1934年(昭和9)に制作された同『鎌倉風景』。
◆写真中下は、1930年(昭和5)に作成された1/10,000地形図にみる耕地整理が進む葛ヶ谷(西落合)地域。高圧線鉄塔が西から東北東へと横断し、埋め立てを待つ水田や水田跡があちこちに見られる。は、描画ポイントと想定できる道筋の拡大。は、描画ポイントの現状と現在の風景に画面を透過して重ね合わせた合成。
◆写真下は、1936年(昭和11)にアトリエで描かれた柳瀬正夢『静物百合』と『仮面』。下左は、2013年(平成25)に開催された「柳瀬正夢1900-1945」展図録。下右は、1996年(平成8)出版の井出孫六『ねじ釘の如く-画家・柳瀬正夢の軌跡』(岩波書店)。
おまけ
 1936年(昭和11)の空中写真には、風景を斜めに横切る高圧線鉄塔がとらえられている。大量の土砂はすでに埋め立てに使われたのか、集積場は平地のように見える。
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相馬家は中村彝にカリーを贈っただろうか? [気になる下落合]

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 この地方のお化けClick!幽霊Click!の記事と、料理の話Click!を書きはじめると次々にテーマが浮かんできて、いくら書いてもキリがない。そろそろこのへんで終いにしようと思いつつ、根が意地きたないものだからグズグズ書きつづけることになる。
 わたしが子どものころ、近所の住宅地に「オリエンタルカレー」と大きな車体に横書きされた、バスともトラックともつかないクルマがまわってきたことがある。うしろのイベント台(?)には、ユニフォーム姿のお兄さんやお姉さんが乗っていて、名古屋の即席カレーメーカーの試供品や色とりどりの風船を配っていたような気がする。TVでもCMが流れていて、俳優の南利明が「ハヤシもあるでよ~」といっていたのを憶えている。
 このメーカーの製品は、一時期はCM効果などもあって売れたのかもしれないが、中学生になるころにはあまり見かけなくなっていた。親父は、死ぬまで「ライスカレー」といっていたが、わが家でもカレーライスはよく夕食に出た。母親も、作るのにあまり手間がかからず、煮こむ火加減さえ気をつけていれば、あとは放っといてもできる便利な料理だったろう。ちなみに、どこのカレールーを使っていたのかまでは憶えていない。
 親父は学生時代、諏訪町(現・高田馬場1丁目)の賄いつき下宿Click!で、頻繁に出された夕食が「ライスカレー」だったらしく、わが家のカレーの日はあまりいい顔をしなかった。食糧難で具材がほとんど入らず、下宿ではうどん粉の匂いがプンプンしたままの「ルーだけカレー」Click!が多かったせいだが、具がほとんど入ってなかったのは「アルバイトで遅く帰ったからかもしんねえなぁ」と、のちに思いあたっていたようだ。つまり、下宿人たちの“早いもん勝ち”で、具材はあらかた食べつくされてしまったというわけだ。
 わたしも、“早いもん勝ち”ではないにもかかわらず、肉や野菜がほとんどない「ルーだけカレー」を、大学の学食のランチ(確か100円だったが途中で値上がりして150円)でさんざん食べた。学生会館の地下にあった学食だったが、「おばさんと馴染みになると、具を多めに入れてくれる」などというウワサがあったけれど、ウソかホントか、わたしはおばさんと「馴染み」にはならなかったので、いつまでも「ルーだけカレー」だった。まあ、100円玉1個ほどなのだから、いたしかたないのだが。
 わたしが初めてカレーを食べたのは、いつどこでだったのか憶えてないが、おそらくデパートの食堂Click!あたりではないだろうか。親父は、学生時代にも来たことがあったのだろう、新宿中村屋Click!にも連れていってくれたが、ここの「インドカリー」は子どものわたしには辛すぎた。もちろん、いまの中村屋が出しているインドカリーとは別もので、カリーの色からしてまったくちがっていた。赤みがかった濃い茶色のルーで、子どものわたしは1口食べては水を飲んでいたようだ。
 誰からいただいたものか、うちには新宿中村屋Click!の大きなカリー缶詰めが、台所(だいどこ)の縁の下Click!にいくつかあった時期がある。銀色に光る大きな缶は、ちょっと見、大きなパイナップル缶詰めのようでそそられるのだが、中身があの口がまがるほど辛いカリーだと思うと「食べたい」とは思わなかった。これらのカリー缶詰は、いつの間にか縁の下から消えていたので、きっと誰かにあげるか親たちが食べるかしたのだろう。
 いつだったか、新宿中村屋Click!を戦後に訪れてインドカリーを注文した鈴木良三Click!が、「味がぜんぜんちがう」とガッカリしていた記事Click!をご紹介したけれど、おそらく鈴木良三が口にしたカリーが、わたしが子どものころに食べて、その辛さに閉口したカリーの味ではなかったかと思う。そして、いま新宿中村屋で食べるカリーもまた、子どものころとは「味がぜんぜんちがう」。時代の流行りや味覚のニーズに合わせ、新宿中村屋はそのときどきで味を変えているのだろう。
 ここは、中村彝Click!が恋いこがれた相馬俊子Click!の連れ合い、インド独立運動の活動家ラス・ビハリ・ボースClick!の証言を聞いてみよう。ちなみに、子母澤寛Click!のインタビューに答えるボースは、「カリー」ではなく一貫してカレーといっているようだし、カレーライスではなく「ライスカレー」といっていたことになっている。1977年(昭和52)の『味覚極楽』(新評社版)から引用してみよう。
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 どうもひと口にカレーといってもなかなか面倒なもので、まず第一に大切なのがバタ、これが思うようなものがなくては充分にできない。私もいろいろやってみて、どうもでき合いのバタでは満足できないのでこの頃は舅父(新宿中村屋相馬氏)に、府下千川へ牧場をこしらえて貰って、ここからとる牛乳で自分の思うようなバタをこしらえて、カレーに使っているのです。/物の本当の味は、実にちょっとした所から出てくるのです。
  
 インド人がカレーを作るのを見たことがあるが、確かにバターや生クリーム(ヨーグルト?)などの乳製品を驚くほど大量に使っている。まるで米国の料理番組のように、「溶かしバター」をビールのジョッキ1杯分ぐらい(信じられない)、それほど大きくはない鍋に注ぎこむような具合で、バターのかたまりを丸ごとボンボンと鍋に投げ入れ、なんだか見ているだけでお腹がいっぱいになり、「ごちそうさま」をいいたくなる。
 子母澤寛もまた、ボースが作ったライスカレーをご馳走になり、日本のカレーにはない不思議な魅力があったので、のちに新宿中村屋を訪ねて注文したが、やはり「味がぜんぜんちがう」と感じている。その後、ボース本人にも「ちっともうまくない」とこぼしているところをみると、どうやら中村屋の「カリー」は時代とともに七変化するようだ。
 ちなみに、ボースは日本で自由に行動ができるようになったあと、東京じゅうのカレーを食べ歩いてまわったようだが、ほぼすべて落第で「帝国ホテルでこしらえるのが、少し食べられるくらいのものでしょう」と評している。
 ボースは、動物の骨の重要性を強調している。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 ライスカレーには、仏教(ママ:Hindu教/印度教)の関係で牛肉は使わない。上流の家では、羊、小羊(ママ:仔羊)、鶏など。魚肉も使うが、下流の人はたいてい野菜だけのをこしらえる。日本ではこの野菜カレーをじょうずにつくるとぴったりと嗜好に合ってうまいものができると思います。肉にしても魚にしても、骨ごと使わなくては本当のうま味は出ません。あの骨から出る味というものは、どんな調味料を使っても真似のできないいいものです。(カッコ内引用者註)
  
 カースト制度が厳格なインドでは、どうやら「下流の人」が食べる野菜カレーが、日本ではことさらじょうずに仕上がるようだ。それだけ、新鮮で多彩な東京の近郊野菜が手に入りやすい環境ということだろうか。あるいは、羊や鶏のいい肉が日本では入手しにくいため、本来のライスカレーをうまく作れないということだろうか。
 いずれにせよ、肉や魚の骨、つまり髄液のコラーゲンなどのタンパク質が、カレーのうま味を引きだすといっているようだ。そのほか、同書ではボース・カレーのレシピを細かく紹介しているが、キリがないのでこのへんでやめる。
 ところで、中村彝は新宿中村屋のカリーを食べただろうか? カリーは一時的に体温を上げるが、発汗作用で結果的には体温を下げる効果がある。熱冷ましには適しているようだが、結核患者の食欲では無理かもしれない。相馬愛蔵は、カルピスをはじめ多彩なモノを下落合にとどけていたようだが、その中に店で開発したばかりのカリーは、はたして含まれていただろうか。それとも牛乳+ご飯Click!が好きそうな彝は、辛いものが苦手だったろうか。実際に味わっていたのなら、彝はどこかに書き残していそうなものだが……。
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 最近、あちこちにカレー店を見かけるが、その多くがインド人ではなくネパール人が調理している店だ。じゃあ、作っているのは「ネパールカレー」(こんな料理があればの話だが)なのかと思いきや、確かにインドカレー店なのだ。この地域にも、下落合駅近くの上落合で10年ほど前から営業している店があり、スタッフは全員ネパール人のようだ。
 日本ではカレーの人気が高いから、それを知った目ざといネパール人が来日して、あちこちに「インドカレー」の店をオープンしたのだろう。じゃあ、本場インドの味じゃないじゃん……と思っていたら、先日、そうでもないことを初めて知った。
 ネパール人たちは、よくインドへ出稼ぎにいくそうで、その勤務先というのが街のレストランなどの飲食店が多いのだとか。そこで調理される、「インドカレー」(本国ではこんな名称はないだろう)のレシピをマスターして持ち帰り、カレー好きが多い日本で店をもつのが夢なのだとか。つまり、プロの「インドカレー」調理技術を身につけたネパール人たちが、日本へやってきて店を開くケースが多いのだそうだ。
 では、ネパール人が作るカレーと、インド人が作るカレーとでは、どこかどのように風味がちがうのだろうか。それほどちょくちょく外でカレーを食べないが、1940年(昭和15)に来日したジャヤ・ムールティが創業した麹町はAJANTA(アジャンタ)と、下落合のネパール人が営むカレー店とを比較してみた。もちろん、前者はいまでもインド人のコックが調理している。もっとも、昔から東京のインド料理店で有名なAJANTAにしてみれば、ポッと出のネパール人が営む下世話なインドカレー店と比較されるのは、いくらなんでもちょっと……と思われるかもしれないが、ここは日本なのでご容赦を。
 AJANTAのカレーは、ひとことでいえば上品で洗練されている。甘味のあとで辛いことは辛いが、辛さの先に丸みがあってトゲトゲしさは感じられない。日本人の好みに合うよう研究に研究を重ねたものか、日本人の嗜好や舌を知りつくしているせいなのか、あるいはこれが本国でいう「上流」が食しているという贅沢なカレーの味なのだろうか。一方、下落合のネパール人が作るカレーは刺激的だ。インドは酷暑だろうから、これぐらいの刺激があって汗をかきかき体温を下げないと、とても生活できない……というような味だ。
 インドに、「中流」という階層があるのかどうかは知らないが、酷暑の中で働く市民たちが街中で日常的に食べるカレーは、後者のような気がする。まさに、本国でも出稼ぎのネパール人が作ったカレーをインド人が食べているケースもありそうだ。こちらは「中流」以下の、庶民的でざっかけない一般的な味といったところ。特に、日本人の好みや舌を研究したわけでもなく、インドの街中の味をそのまま別の街で放りだしたような風味なのだろう。
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 どちらが好みかと問われると返答に困るが、気分しだいではどちらも食べたくなるようだ。仕事で疲れたときは、「上流」カレーよりも辛みのとがった、疲れが吹っ飛んでしまうような刺激的なカレーが気分的にスッキリするだろう。東京に住むインド人とネパール人のみなさん、こんなところでいかがだろうか? ところで、新宿中村屋の七変化「インドカリー」は、また味が変わってるかもしれないので、機会があったら立ち寄ってみたい。

◆写真上:最近はサフラン飯でなく、ナンの添えられたカレーを食べる機会が多い。
◆写真中上は、住宅街にまわってきたオリエンタルカレーの宣伝車。は、新宿中村屋の相馬愛蔵()と娘の相馬俊子()。は、新宿中村屋のレストラン。
◆写真中下は、昔と味がまったくちがう新宿中村屋の「インドカリー」。は、新宿中村屋にカレーを伝授したラス・ビハリ・ボース()と、麹町にAJANTAを創業したジャヤ・ムールティ()。は、下落合駅の近くにある上落合のSpice6の店内。
◆写真下は、ざっかけない庶民的なSpice6のインドカレー。は、麹町に古くからあるインド料理の専門店AJANTAの店前。は、AJANTAで提供されるインドカレー。

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佐伯祐三と小島善太郎の画面から湧水流を考える。 [気になる下落合]

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 佐伯祐三Click!小島善太郎Click!の作品で、気になっている画面がある。いずれも、山手線Click!の線路土手を画面に入れて描いた作品だ。そこに、線路土手へ穿たれたコンクリートとレンガで造られたとみられる、なんらかの施設が描かれている。下落合の山手線ガードClick!から、目白駅方面に向かっておよそ40~50mほどの位置だろうか。
 佐伯祐三が描いた「下落合風景」シリーズClick!の1作、下落合側(西側)から見た山手線の『ガード』Click!と、高田の反対側(東側)にある椿坂Click!の下から、佐伯が描く山手線ガードの少し上の線路土手を描いた、小島善太郎の『目白』Click!の2作品だ。目白駅Click!は、1903年(明治36)から貨物の取り扱いがはじまるが、山手線の線路土手上の東側には広い敷地が残されており、目白貨物駅Click!が設置されると荷の保管施設や作業員小屋、鉄道員小屋、保線用の道具小屋など、数多くの建物が山手線ガード近くの線路土手の上まで建設されているとみられる。
 当初、描かれたコンクリート施設は多種多様な鉄道小屋があった、線路土手へと上下する階段でも設置されているのかと考えたが、階段にしては角度があまりに急すぎる。また、線路土手へと上がるなら、指田製綿工場Click!の少年少女たちが上って貨物線事故Click!に遇ったように、近くには傾斜の緩い線路土手が何ヶ所もあったはずで、この位置に階段を設置する意味がわからない。それに、なによりも佐伯祐三の描く『ガード』には、三角形のコンクリートとみられる擁壁の上にガードと同様のレンガ積みとみられる、幅の狭い茶色い擁壁がチラリと顔をのぞかせている。
 このような仕様の施設で考えられるのは、明治期に敷設された鉄道では随所で見られた、線路を横切る小流れあるいは農業用の灌漑用水を通す、流水路の確保ととらえるのが自然だろう。明治期の当時、雑司ヶ谷道(新井薬師道)Click!に架けられた山手線ガードの南側、高田村の(字)八反目と落合村(大字)下落合の(字)東耕地および(字)丸山は、一面の水田地帯だった。その一帯へ、灌漑用水を供給していたのが金久保沢の湧水と、湧水によって形成された溜池(のち一部は明治以降の血洗池Click!)だった。
 この用水(水利)のテーマを考えるには、遠く江戸期の宝永年間にまでさかのぼらなければならない。豊富な湧水源だった金久保沢Click!、現在の山手線・目白駅があるあたりの谷戸一帯は、江戸期の「御府内場末往還其外沿革図書」によれば、少なくとも宝永年間(1704~1711年)までは下落合村と高田村の入会地だった。つまり、湧水源や周辺の森林は両村が共同利用できる状態だったわけで、江戸期には多かった水利をめぐる争いを避けるための入会地化だったとみられる。金久保沢に、下落合村と高田村の村境が設けられるのは、幕末に近い時代になってからのことだ。
 江戸後期(幕末に近い)に描かれた「高田村絵図」(学習院所蔵)には、すでに金久保沢から流れでた湧水の溜池が描かれているが、学習院大学のキャンパスに残る現在の溜池(血洗池)とはかなり形状が異なっている。また、同絵図には下落合村側が描かれていないが、溜池(血洗池)の南西にあた位置にも、この時期には下落合村の溜池が存在していたと思われる。なぜなら、明治初期に作成された地形図には、高田村の溜池(血洗池)とともに、下落合村のやや小さめな溜池も薄い水色で描かれているとみられるからだ。
 1880年(明治13)に作成された、フランス式1/20,000カラー地形図Click!を参照すると、金久保沢にはふたつの溜池が記録されている。ひとつは、標高がやや高めの茶畑上にある高田村の溜池(血洗池)であり、もうひとつが下落合村側にあるやや小さめな溜池だ。標高から考えると、高田村の溜池から流れでた湧水は下落合村の溜池へと注ぎ、そこから高田村と下落合村の水田一帯、すなわち高田の八反目と下落合の東耕地および丸山方面へ、灌漑用水が供給されていた様子が見てとれる。
 ところが、フランス式1/20,000カラー地形図からわずか5年後、1885年(明治18)に日本鉄道による山手線の敷設計画が進捗し、金久保沢の谷間に線路土手を建設するため、下落合村側の溜池が埋め立てられることになったのだろう。そうなれば、金久保沢の湧水源からの小流れは山手線に遮られて止まってしまい、線路土手にはばまれて下落合の水田はもちろん、高田村の一部水田までは湧水が供給できなくなってしまう。そこで、両村が相談して日本鉄道に掛けあったのが、線路土手に穴を開けて灌漑用水を通す流水路(暗渠)の設置ではなかったか。しかも、金久保沢の湧水源から高田村の溜池(血洗池)へと注ぐ流水路と、溜池(血洗池)から下落合村へと注ぐ流水路(暗渠)の2ヶ所が設けられているとみられる。
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 1887年(明治20)に作成された「東京府武蔵国北豊島郡図」には、山手線を横切る当該の流水路が記録されている。同地図によれば、まず金久保沢の谷戸で湧いた流水は、目白駅(地上駅)の前を横切り、線路沿いに120mほど下ったところで線路土手を東側へ斜めにくぐって溜池(血洗池)へと注いでいる。そして、血洗池を出た流れは今度は南西へと向かい、明治初期には下落合村の溜池があったとみられるあたりで山手線の線路土手にぶつかっている。ちょうど、山手線ガードがあるやや北側の位置だ。ここで流水は下落合村側、つまり山手線の線路土手西側に抜けて灌漑用水を供給していたとみられる。もちろん水流は二手に分かれ、そのまま高田村の水田一帯へと下る流路も設けられていただろう。
 その根拠となる地図も、1916年(大正5)に残されている。同年に作成された、「東京府豊多摩郡落合村大字下落合地籍図」の「東耕地」だ。同図には、山手線ガードの上から流れてきた灌漑用水が、雑司ヶ谷道(新井薬師道)沿いに西進し、それぞれ東仲道の手前、東仲道沿い、そして山下道の手前、のちの大黒葡萄酒工場敷地Click!石倉商店工場Click!の境界で雑司ヶ谷道の下を暗渠でくぐり、東耕地に拡がる水田地帯へと南進しているのが確認できる。換言すれば、のちの大黒葡萄酒と石倉商店の敷地境界は、この灌漑用水路跡によって決められていたことがわかる。また、さらに西進する流れは林泉園谷戸Click!からの流れと合流し、丸山の水田一帯を潤していたことがわかる。
 明治初期の、下落合村側の都合(利便)のみでいえば、溜池が山手線の敷設で埋め立てられてしまうとすれば、従来は高田村の溜池(血洗池)経由で供給されていた灌漑用水を、山手線の線路土手の西側沿いに新たな水路を設置してそのまま南下させれば、下落合の東耕地や丸山の水田一帯は困らなかったはずだ。「東京府武蔵国北豊島郡図」でいえば、目白駅(地上駅)前を流れる湧水路をそのまま道路と線路土手沿いに南へと延長し、下落合村側の水田へ供給すれば十分な灌漑用水が確保できたと思われる。
 だが、それでは線路土手の東側にある溜池(血洗池)が干上がってしまう可能性とともに、高田村八反目に拡がる水田一帯への用水が不足するおそれがあるので、高田村側が許さなかっただろう。また、湧水源の金久保沢は幕末になると両村の入会地ではなくなり、下落合村と高田村の敷地に分割されているため、湧水路の一部が高田村内を通過していたので、下落合村ではそのような主張をしにくかったとみられる。そこで両村協議のうえ考えだされたのが、山手線の線路土手に2つの流水路(暗渠)を設置し、金久保沢からの湧水を通して利活用するという方法だった。
 下落合村は山手線の敷設工事で、明治初期まであった溜池を丸ごと失うが、従来どおり高田村の溜池(血洗池)からの豊富な灌漑用水をそのまま利用でき、高田村側も溜池(血洗池)に十分な貯水量を得ることができて水田の用水不足を回避できるという、両村の思惑や利害が一致した結果だったとみられる。おそらく、山手線が敷設される際には、日本鉄道の設計部門と両村との間で流水路の確保をめぐる、綿密な協議が重ねられていると思われる。
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 さて、高田村の溜池(血洗池)から下落合村の東耕地および丸山一帯へ供給されていた流水路は、少なくとも小島善太郎が描く『目白』(明治末~大正初期)の時代までは農業用水として機能していたとみられるが、佐伯祐三が描く『ガード』の時代には、すでに用済みか意味がなくなりつつあったと思われる。なぜなら、下落合の東耕地や丸山の一帯は耕地整理が済み、工場敷地や住宅・商店敷地の造成・開発が進んでいた時期に当たり、それは高田側の八反目でもまったく同じ状況だった。水田が次々と埋め立てられ、旧・神田上水沿いの旧・水田地帯には工場や住宅が建ち並びはじめていた。それまで灌漑用水として使われていた流路は、そのまま工場や住宅の下水路として利用されはじめていただろう。
 現在でも下落合には、湧水流の暗渠化にともなう「湧水下水道」とでもいうべき地下水路があちこちに残っている。たとえば、諏訪谷からの湧水は聖母坂沿いの地下Click!をそのまま流れ下っているし、林泉園Click!からの湧水も地下の流路を御留山Click!方面へと下っている。晴天つづきの日でも、湧水下水道があるマンホールの上を歩けば、かなりの水量の流れる音がいまだに響いているのは以前にも何度か書いたとおりだ。
 では、小島善太郎や佐伯祐三が描く流水路(暗渠)の痕跡が、現在でも確認できるだろうか? 山手線の東側(高田側)では、その痕跡をすぐにも発見することができる。雑司ヶ谷道(新井薬師道)の山手線ガードから北へ40mほどのところに、線路土手の地下をくぐる下水道がそのまま残り、立入禁止のプレートが建てられている。一方、線路土手の同じ位置に当たる西側ではどうだろうか。
 下落合側の線路土手は、2015年(平成27)に大規模な全面リニューアルが施されているのでわかりにくいが、それ以前に撮影されたGoogleのStreet Viewを参照すると、ちょうど東側の線路土手とほぼ同じ位置に、山手線の西側土手へと抜ける下水道の赤い独特なマークと、分岐に設置される集水桝、そして下水道マンホールが設置されているので一目瞭然だ。従来の石積みではなく、平板なコンクリートの線路土手になったリニューアル後の現在では、赤いマークは消されているものの、集水桝とマンホールはそのまま現存している。
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 明治末あるいは大正初期ごろ、小島善太郎が描いた『目白』では金久保沢から溜池(血洗池)を経由して山手線の線路土手をくぐる流水路入口を東側から、また1926年(大正15)に佐伯祐三が描いた『ガード』では、高田側から流れ下ってきた湧水を通す線路土手の流水路出口を、近衛町のバッケ(崖地)Click!下から描いていたことになる。小島が椿坂の下でスケッチブックに『目白』を描いていたころ、彼は佐伯の存在など知るよしもなく、のちにフランスで出会い1930年協会Click!を起ち上げることになるなど、思いもよらなかっただろう。

◆写真上:椿坂側に残った、山手線の線路土手を横断する湧水下水路の痕跡。
◆写真中上は、1926年(大正15)制作とみられる佐伯祐三『ガード』と部分拡大。は、明治末~大正初期制作の小島善太郎『目白』と部分拡大。は、「御府内場末往還其外沿革図書」の宝永年間にみる高田村と下落合村の入会地だった金久保沢。
◆写真中下は、学習院に残る幕末の「高田村絵図」にみる金久保沢と溜池(明治以降は血洗池)。溜池の形状が、現在の血洗池とはかなり異なっていたのがわかる。中上は、1880年(明治13)作成のフランス式1/20,000カラー地形図にみる金久保沢の様子。中下は、1887年(明治20)の「北豊島郡図」にみる金久保沢の湧水路。湧水源から、山手線の線路を暗渠で越えて溜池(血洗池)へと流れこみ、同池から再び流れが下落合側へと流れこんでいる様子がよくわかる。は、1916年(大正5)に作成された「東京府豊多摩郡落合村大字下落合地籍図」の「東耕地」にみる、山手線横断の暗渠を越えた下落合側の流水路の様子。
◆写真下は、山手線東側(椿坂側)で現在も顕著に残る流水路の入口跡。現在は下水道扱いになっているが、いまでも溜池(血洗池)からの湧水が下落合側へ流れ下っているとみられる。中上中下は、暗渠化された流水路跡の現状。は、上記の流水路跡の反対側にある下落合側の流水路出口跡。2015年(平成27)に線路土手の全面リニューアルが行われたため、写りは悪いが2009年(平成21)撮影のStreet Viewより。下水道分岐の赤いマークとともに、集水桝とマンホール(ともに現存)が設置されていたのがわかる。

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錯覚を生む地域や町の「表現」について。 [気になる下落合]

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 昔から、大西洋を真ん中にはさむメルカトル図法のマジックというのがある。同図法の地図で見ると、日本列島はいちばん右端(極東)の果てに小さく、そして幅が薄めに描かれていて、一見すると確かに「東洋の小さな島国」としてのイメージ(印象)が強い。
 おそらくヨーロッパ人の感覚を、そのまま踏襲したとみられる上記のフレーズも、いまだに随所で見かける。たとえば、2018年(平成30)出版の野澤道生『やりなおし高校日本史』(筑摩書房)に、「そもそもポルトガル人は(中略)、東洋の小さな島国との貿易に、どんな魅力があったのでしょう」というような、いかにも定型的な表現が出てくる。
 でも、実際に面積で比較してみると、ヨーロッパ諸国の中で日本よりも大きな国は、アジアにまたがるロシアは例外としても、フランスとウクライナ、スペイン、そしてスウェーデンの4ヶ国しかない。ヨーロッパ大陸へ、実際に日本列島のサイズをあてはめれば一目瞭然で、日本はかなり「大きな島国」ということになる。東西が合併し広大になったドイツでも、日本の94%の面積にとどまる。ザビエルが船出したポルトガルは、北海道よりもひとまわり大きいぐらいのサイズだ。最近、ヨーロッパからのインバウンドがやたら多いので、その昔ささやかれた「あんな小さな島国に、なんで新幹線が必要なの?」というような錯覚から、「意外に長くて広いんだ」と再認識されているのではなかろうか。
 地理的な錯覚をもうひとつ挙げると、江戸期には無人島(ぶにんじま)と呼ばれた東京都の小笠原諸島は、昔から八丈島のもう少し先ぐらいの感覚で、いつか泳ぎに行きたいな……などと考えていたのだけれど、実際に出かけようとすると同じ東京都なのにとてつもなく遠いことに気づく。東京からはるか南へ1,000km、日本列島でいえば東京から九州を突きぬけ長崎県の五島列島あたりまでの距離に相当する。竹芝桟橋から定期航路の船足のやや速めなフェリー(「おがさわら丸」=約24ノット)に乗っても、たっぷり丸1日(24時間)はかかる距離なのだ。海が少し荒れでもすれば、もう少しかかるだろう。
 余談めくが、史的な錯覚というのもある。後世の価値観から解釈する結果論的な眼差し、いま風にいえば典型的な“あと出しジャンケン”の解釈だ。よく大学の講義や研究などで「やってはいけない」戒めとして例示されるのが、マルクスの著作で「宗教は、なやんでいる者のため息であり、また心のない世界の心情であるとともに精神のない状態の精神である。それは、民衆のアヘンである」(『ヘーゲル法哲学批判序説』光文社古典新訳文庫)あたりだろうか。現代の感覚で解釈すると、「宗教は中毒性のある犯罪的でとんでもない危険な麻薬」だということになる。
 だが、彼が生きていた社会状況を考えると、アヘンが「犯罪的でとんでもない危険な麻薬」でないことはすぐに見えてくる。マルクスと同時代の作家に、『クリスマス・キャロル』や『二都物語』のC.ディケンズがいる。彼の『エドウィン・ドルードの謎』には、アヘンが随所に登場している。アヘンは、街中のドラッグストアで売られる鎮痛剤・鎮静剤であり、タバコ屋や食料雑貨店、パブなどでも手軽に売られた嗜好品だった。強い酒を出すバーなどでは、店を出るときの酔い覚ましとして客に配られている。
 21世紀の現代社会に置きかえれば、「宗教は……アスピリンである(上落合の尾崎翠Click!風にいえば「宗教は……ミグレニンである」)」、「宗教は……タバコあるいはアルコールである」ぐらいの、当時は習慣化すると薬物依存症になりかねない薬剤ないしは嗜好品……ほどの感覚だったろう。だが、上記のマルクスの記述を、後世の“あと出しジャンケン”的な視点で、「宗教は中毒性のある犯罪的でとんでもない危険な麻薬」などとご都合主義的に解釈し、宗教弾圧の口実にした国々や、社会をひっくり返しかねないマルクスを忌避するため、誤解釈をプロパガンダ化する思想弾圧の国家があちこちに存在した。
 前置きが長くなったけれど、このような錯覚は落合地域でも見られる。いつか、地理的な錯覚のひとつに挙げた、別の地方の方がたまに口にする「小さな町内に、ずいぶんいろいろな人が住んでいたのですね」もその一例Click!だが、下落合を近くの山手線の駅名に引きずられて「目白」と表現するのも、あらぬ錯覚を生む素地となっているだろうか。ちなみに、現在の山手線・目白駅は従来の高田町金久保沢Click!にあり、大正期以前の本来の地名「目白」は、現在の駅から2km前後の東寄りのところだ。ちょうど、通称地名として用いられていた幕府の練兵場「高田馬場(たかたのばば)」が現在の駅(たかだのばば)Click!から1kmほど東寄りなのと同様で、山手線・高田馬場駅があるのは上戸塚また一部は諏訪町だ。
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 10年以上も前だが、下落合の中部・西部を取材しているとき、古くからお住まいの方々から「ここは下落合であって、中落合Click!や中井などではない」と何度となく聞かされた。同じ流れでいえば、いくら近くにある駅が目白駅であっても、下落合は「目白」ではない。地名を曖昧に扱ったり、安易に変更Click!したりすると、昔から連綿とつづいているその土地ならではの史的な経緯やアイデンティティまでが曖昧化・稀薄化し、また妙な錯覚や誤解を産むのは、別に江戸東京の(城)下町Click!に限ったことではない。
 東京五輪1964前後の、「細かな町名は外国人に対して恥ずかしいしわかりづらい」などと、理由にもならぬ「自虐」的なコトバを吐いて、自国や地域の歴史・文化を考慮せず、また地方・地域のアイデンティティやコミュニティさえ踏まえずに、地名変更を強行した自治省の役人(その意識のほうがよほど「植民地根性」的かつ「売国」的で恥ずかしい)のおかげで、錯覚や誤解を生じかねない事態を招来している。1950年代以前の江戸東京の歴史を学びにきた外国人たちは、史料で学んだ地名や町名がどこにもないか、場所がまったくちがうのに困惑Click!し、それを探しまわることから始めなければならない。
 佐伯祐三Click!の作品を多くコレクションし、その作品の大半を空襲で焼いてしまった大阪の山本發次郎Click!は、佐伯の絵を画集に掲載あるいは展覧会に出品する際に、「下落合風景」シリーズClick!に『目白風景』(あるいは『目白の風景』?)と名づけたようだ。なぜ、そのまま『下落合風景』と名づけなかったのかは不明だが、東京での作品名とは差別化したかったのかもしれない。でも、地元にしてみれば、開業が迫った中井駅前の商店・宅地を造成中の風景(下落合1916-1977番地一帯)を称して、『目白の風景』Click!とはまかりまちがっても呼ばない。目白駅から作品の風景まで、たっぷりと2kmは離れている。
 当初、山本發次郎がタイトルを決めたとすれば、彼は東京の土地勘がなかったがため、佐伯が描く風景は省線・目白駅がいちばん近いと解釈し、『目白の風景』なら当たらずといえども遠からずと考えたものだろうか。これも、典型的な地理的錯覚のように思える。作品の距離感を大阪にあてはめれば、そのおかしさがわかるだろう。佐伯が肥後橋Click!越しに描いた中之島の風景から、南へ下って地下鉄・中央線の本町駅をすぎ、地下鉄・御堂筋線の心斎橋駅あたりに建っている大丸心斎橋店あたりが、ちょうど2kmほど離れたエリアになる。その一帯の風景を描いたとして、それを「中之島風景」などと名づけたら、地元の人からすぐにも「なんやこれ、けったいなタイトルつけんといてや~」となるにちがいない。
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 下落合の風景を、特に開発途上の区画や工事中・造成中のエリアを連作で描いた松下春雄Click!や佐伯祐三は、当時の展覧会では「下落合」あるいは「落合」の地名を尊重し踏襲しているが、中村彝Click!は山手線の駅名につられてか下落合の風景を「目白」(『目白の冬』Click!など)としている。ただし、中村彝の場合は「下落合」あるいは「落合」という地名がそれほど知られてはおらず、特異な住宅地(目白文化村Click!近衛町Click!アビラ村Click!など)の開発で注目を集めるのは、大正後期になってからなので、あえて目白駅Click!という知名度の高いネームから引いたのかもしれない。
 だが、中村彝が生きていた当時、「目白」と呼ばれていた地名は画面(メーヤー館Click!)の位置から東へ2.5km前後も離れており(現在の「目白」は大半が高田町と一部は長崎町)、彝自身の思いこみや錯覚に加え、のちにタイトルから地名の誤解を生じる素地のひとつになったのではないだろうか。もっとも、メーヤー館(宣教師館)Click!のある教会は「目白福音教会」Click!だし、下落合にある文化村は「目白文化村」だし、矢田津世子Click!龍膽寺雄Click!らが暮らしていたアパートは「目白会館文化アパート」Click!なので、最寄りの知られた駅名を引っぱってくるのは中村彝に限ったことではなく、ゼネコンの不動産ビジネスからマンション名に「目白」がつく建物は、現在でも多々見られる。そういう意味からすると、一貫して「下落合」「落合」あるいは「下落合文化村」とタイトルしつづけた佐伯祐三や松下春雄Click!の視座は、ひとつの見識といえるかもしれない。
 少し主題からスライドするかもしれないが、各地の商店街に「〇〇銀座」などとつけ、古い落ち着いた町並みが残る街々を「小京都」「小江戸」などと呼ぶのは、いかがなものだろうか? なぜ、よその地方の地域名や町名を借りてまで、「自虐的」かつ「売街的」に地元の宣伝をするのだろうか? 「ここは戸越で銀座じゃない」「ここは金沢で京都なんかじゃない」「ここは川越で江戸じゃない」と、地域の史的なアイデンティティとともに誇りをもち、苦々しく思っている地元住民は決して少なくないはずだ。
 観光客から「ほんま京都によう似てはる、京のミニチュアや」といわれて、または「ほんとに昔の江戸にそっくりだな、コピーしたみたいだぜ」などとウワサされて、地元の人たちは嬉しいのだろうか? 観光などの認知度で「勝負」するなら、なおさら本来の町名、古からの地名、素の地域の姿や魅力で「勝負しようぜ」からスタートしなければ、いつまでたっても借りものではない、「ならではの独自な街の魅力」が育たないのではないか。
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 鎌倉の街のことを、「古都」などと表現している記述を見ると唖然とする。鎌倉が、公家や朝廷を中心とする「都(みやこ)」だったことは、ただの一度もない。彼らがまったく関与できない、新しい階級の中核として武家文化が花開いたのが鎌倉という街だった。自身がいる街をよく知ること、自身が住む地域の史的経緯やアイデンティテイを大切にすること、古来からつづく地名や町名を尊重すること、それが地域愛をはぐくむ初歩の初歩だと思う。

◆写真上:下落合(現・中落合/中井含む)の中・西部で、あちこちに残る下落合の旧住所プレート。住民の方々が、いまだ納得していないのは明らかだろう。
◆写真中上は、ヨーロッパに日本列島をかぶせた面積比較図。は、1857年(安政4)の尾張屋清七版「雑司ヶ谷音羽絵図」にみる大正期まで「目白」と呼ばれていた地域。「関口」の町名は、神田上水Click!大洗堰Click!を築造した江戸期以降で、それ以前は丘陵一帯を「目白」あるいは「目白山」と称していた。絵図の右下には、音羽の谷間から上がる目白坂の中腹に室町末期~江戸初期に足利から勧請された目白不動Click!が描かれている。は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる落合地域とその周辺。
◆写真中下は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『下落合風景』Click!で、開業直前だった中井駅前の商店や住宅の造成地を描いている。工事中の道端に積まれた土砂あるいは大谷石の“山”に上って描いたものか、画面の視点がかなり高めだ。は、少し時間を空けたとみられる同じ場所を寄り気味で描いた佐伯祐三『目白の風景』。は、1926年(大正15)11月ごろに肥後橋を入れて中之島を描いた佐伯祐三『肥後橋風景』。
◆写真下は、1919年(大正8)の冬季に描かれたとみられる中村彝のスケッチ『目白の冬』。は、1965年(昭和40)の「東京区分図」にみる落合地域とその周辺。は、冒頭写真と同じく町名変更に納得できない住民の方がそのままにしているプレート。
おまけ
 下落合の地名を変えることに、90%以上の住民がアンケートで「反対」の意思表示をしているにもかかわらず、行政が勝手に地名変更を進めるのに「多くの住民が激怒」と報じる1965年(昭和40)5月3日発行の「落合新聞」。その歴史や地域のアイデンティティを尊重せず、あまりにもずさんで安易な変更に記事を読む58年後のわたしでさえ腹が立つ。
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たぶん陽咸二と千家元麿はいとこ同士。 [気になる下落合]

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 わたしは小学生のとき、親父の千代田小学校Click!(現・日本橋中学校Click!)時代の同窓生で、たぶん評判の美少女だったのだろう、江戸東京ではもっとも優れ洗練された柳橋Click!芸者Click!になった女子の、引退式Click!に連れられていったことがある。引退式が開かれたのは、大川(隅田川)に面していた広い座敷だったので、大きな料亭「柳水亭」か「亀清楼」Click!だったと思うのだが、親父に料亭の名前までは訊かずじまいだったので確証はない。日本橋側から柳橋Click!をわたって、すぐの料亭だったような気がする。
 その後、柳橋の料亭の歴史について知りたくなり、親父の書棚にあった成島柳北や互笑会などが編著した多彩な書籍類に馴染んだのだが、柳橋で「青柳」という料亭は聞いたことがない。「青柳」といえば東両国、つまり柳橋とはちょうど大川をはさんで対岸(本所側)の斜向かいにあった、江戸期から有名な旅籠も兼ねた高級料亭だ。大橋(両国橋)東詰めにある、同じく江戸期からつづく「ももんじ屋」Click!の南並びにあたる位置だ。
 江戸期より、大橋(両国橋)Click!は東詰め(本所側)の一帯を「東両国」、また反対に西詰めは日本橋側(米沢町や薬研堀Click!、元柳町など)の一帯を「西両国」と呼びならわしていたので、「東両国の青柳」がいつの間にか「西両国の青柳」と誤伝され、後世になって「柳橋の青柳」になってしまったのかもしれない。この「西両国」「東両国」という呼称は、江戸と下総の両国を結ぶ「両国橋」が、川向こうの下総を江戸に編入し「大橋」と呼ばれるようになったあとも活きていたので、かなり古い地域表現の可能性がある。
 なぜこんなことを書くのかといえば、先日、藤岡美和様よりご招待いただいた「陽咸二 混ざりあうカタチ」展Click!図録(宇都宮美術館)の年譜に、陽咸二Click!の母親・陽きちについて「柳橋の料亭『青柳』を営んでいた小川源次郎の四女」と書かれていたからだ。小川源次郎が経営していたのは、東両国(本所側)の高級料亭「青柳」であって柳橋ではない。「青柳」は、安藤広重Click!が『江戸高名会亭尽 両国 青柳』に取りあげるほど、大江戸(おえど)Click!でも屈指の超高級料亭だった。
 もっとも、1922年(大正11)10月22日付け「万朝報」に、「逆境に超然たる若き芸術家/柳橋の旗亭青柳の娘さんを母として生れた陽氏」を書いた記者が、江戸東京に土地勘のまったくない人物だった可能性もありそうだ。いつだったか、柳橋のことを「浅草」と書いてトンチンカンな江戸東京の食レポを書いた博文館の記者の記事Click!をご紹介したけれど、東両国の本所にある料亭のことをどうまちがっても「柳橋の~」とは呼ばない。陽咸二が、大橋(両国橋)のたもと(詰め)にある料亭「青柳」と表現したのを、記者が勝手に柳橋と勘ちがいしてしまった可能性もあるだろうか?
 ここで面白いのは、小川源次郎の長女で女流画家として有名だった小川とよ(豊)と結婚(東京における夫人に)した人物は、出雲王家の末裔で東京府知事もつとめた、ここでも何度かご紹介している千家尊福Click!だった。そして、1888年(明治21)に生れたのが、落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)に住んだ千家元麿Click!だ。また、「青柳」の四女・小川きちと結婚したのが陽其二であり、1898年(明治31)に出生したのが陽咸二Click!だ。つまり、千家元麿と陽咸二は10歳ちがいのいとこ同士ということになる。詩人と彫刻家のこのふたり、どこか(特に小川家)で顔をあわせてやしないだろうか? 千家元麿の関連資料に、陽咸二の名が登場している気もする。そうなると、佐伯夫妻Click!とも知己ということで、陽咸二がさらに落合地域へ“近づく”ことになるのだが……。
 さて、陽咸二が特異な存在なのは、文展・帝展に毎年入選しつづけ、1922年(大正11)の第4回帝展に出品した『壮者』で特選を受賞しているのをはじめ、それまで数々の受賞歴があったにもかかわらず、まったくそれらに拘泥せず、表現法や表現メディアも含め常に変化をしつづけていった芸術家だという点だ。現代の感覚では、常に進化しつづける美術家=コンテンポラリー・アーティストは別にめずらしくないが、当時の日本ではほとんど見かけない稀有な存在だった。上記の図録より、陽咸二の芸術観がよく表明されている遺稿(執筆年不詳)から、少し長いが引用してみよう。
  
 日本の若い彫刻家の多くが、或る一定の一ツの表現様式<スタイル>の様な物を持て居る、持ちたいと願て居る。そして持て居る人はそれをほこって居る。持たない者は持つことにあせって居る。こうして若いくせに小さな世界に安住して仕舞ふ。(中略) 色々な表現様式が有るのを知らないかの様に又そう云ふことをするのを恐ろしい事の様に、賞を頂戴するまでは色々の事をやって居るが、その内のどれかが特選にでもなると、さあ大変だ、それが自分のスタイルだと思って仕舞ふらしい。其后は毎年同じ様な所に同じ様な作品を発表する。そうすると又不思議に、それにも同じ様に特選をやる。こんな事を三・四年辛棒(ママ:辛抱)づよくくりかえしくりかえし(中略)やって居ると、ついに院賞を下さる。つまり彼の辛棒強さを推賞(ママ:推奨)するので在る。そうすると新進の作家達が「なる程、辛棒がかんじんだわい」と思込む。(中略) それも毎年少しずつでもよくなって居るなら、又思い様もあらふが大体は始めの方がよくって後のは始めの様な熱も無く其だ(惰)勢の様な物だに過ぎないと思ふ程。(カッコ内引用者註)
  
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広重「江戸高名会亭尽 両国 青柳」拡大.jpg
構造社第4回展「綜合試作・記念碑運動時代」1930.jpg
 この文章は、およそ100年後の現在でもそのまま当てはまるだろうか。時代は移り、社会は変わり、生活環境が激変しているにもかかわらず、「五十年一日」のごとくなんの変わりばえもしない、昔ながらの表現法や表現手段を踏襲している“現代”の展覧会を観たりすると、平凡で退屈で、死にたくはならないが会場で午睡したくなる。別に彫刻に限らない、絵画も音楽も演劇もまったく同様だ。
 新派の舞台Click!で、「いっそ、私には死ねといってください」Click!などといわれても、21世紀の今日では「古っ! いつまで同じことやってんだい」としか感じないし、1960年代後半のモードJAZZやBeatlesのそっくりサウンドを奏でるバンドが現代に出現しても、個人的な趣味・娯楽の好き嫌いな世界は別として、音楽的にはまったく意味がない。
 ところが、絵画や彫刻の世界では、案外それが「辛抱」を前提にまかり通ってしまうから不思議だ。陽咸二の上掲の文章は、彫刻に限らず芸術全般についての認識、および自身の制作姿勢(思想=芸術観)について語っているように思える。のちに、彼は構造社のパンフレットで、「作風が常に流動して居る内は進歩して居りますが固定した形式が出来上つた時は進歩の停止した時です」(1931年)とも書き残している。
 陽咸二の仕事が、がぜん面白くなるのは東京美術学校の仲間たちと、「絵土爛社」を結成する1923年(大正12)あたりからだろうか。社員には、下落合1599番地の落合第三府営住宅Click!に住んでいた江藤純平Click!や、下落合414番地の近衛町Click!に住む島津良蔵Click!と「島津マネキン」を創業する荻島安二Click!らがいた。特に荻島安二は、目白文化村Click!中村邸Click!において、暮らしの中の彫刻を実践した人物として知られている。同社は、神田の文房堂Click!で展覧会を開いたようなのだが、その詳細は不明らしい。
 また、陽咸二は同年に趣味家集団「日本我楽他宗」へ“入信”し、彫刻に限らず多種多様な表現法による作品を生みだす契機になっている。陽咸二は、我楽他宗を主催した三田(林蔵)平凡寺に対し、「第二十二番札所 横臥山夜歓寺」と名のり、同宗の“信者”で趣味人だった侯爵・松平康荘の邸内で撮影された記念写真も残っている。また、1926年(大正15)には日名子実三Click!や雨田光平らの「構造社」に参画すると、彫刻家・河村目呂二らと親しくなり作品の幅を大きく拡げていったようだ。
 「陽咸二 混ざりあうカタチ」展図録に掲載された、河村目呂二の子孫にあたる内山舞『思い出の系譜~曽祖父 河村目呂二のこと』から引用してみよう
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仔猫1923.jpg
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 美校卒業後の大正時代から昭和初期の活動で特にユニークなのは、日名子実三らとの構造社、三田平凡寺の我楽他宗、武井武雄とのジャズ・マニアだが、その内、構造社と我楽他宗において陽咸二と活動を共にした。しかしその交流の頻度や密度がどれほどだったのか、一回り年下の、自分と同様に型にはまらないこのクリエーターを目呂二がどんな風に思っていたのか、まだ記録が見つからず詳細はわかっていない。ただ、数多の書簡の束から陽のハガキをピックアップし、わざわざスクラップブックに貼り付けてあることを考えると、陽の才能と人物に一目も二目も置いていたであろうことは想像に難くない。/どちらも奇人として当時の世間を騒がせていたようだが、陽咸二に漂う無頼の匂いに対し、目呂二のそれは人を喜ばせるための道化であったように思う。彫刻の社会性や建築化を志向する構造社に在って、愛する猫や人形が醸し出す「可愛らしさ」や「儚さ」を一貫して追求しているのも目呂二らしい。
  
 文中に武井武雄Click!が登場するが、「ジャズ・マニア」はサイクリング愛好会「JAZOO MANIA」のことだと思われるが、ちなみに当時の「ジャズ(JAZZ)」は時代的にみてニューオリンズ、ないしはデキシーランドの元祖的な黒っぽいJAZZだったろう。武井武雄Click!の絵にも、同JAZZの演奏らしい行列表現が見られる。河村目呂二は陽咸二の死後、第10回構造社展(1937年)の展覧会パンフレットに「趣味人陽さん」という文章を寄稿しており、かなり親しい付き合いだったことがうかがえる。
 「趣味人」としての陽咸二Click!については、ずいぶん前にも触れているが、その一端を上記の第10回構造社展パンフより、濱田三郎『陽君の芸術』から少し引用してみよう。
  
 其の多趣味性は天啓のものであつた。市井の諸事は何事にもあれ最も興味と感激を以て探究し、芝居道を論じ落語を語り、華道に明るく、日本画を描き玩具を作り、朝顔の大輪咲きに鼻を高くし、釣魚に星を戴いて家を出で、麻雀に夜の更くるのを知らず、酒に酔えば流行歌の王たり、駄洒落と軽口と悪口とは陽君得意の独断場であつた。あらゆる自然の物象を遊戯化した江戸時代浮世絵芸術家と其の点相似たところがある。この「趣味」の魔法の手箱の中から易々と陽君の彫刻がとり出されて居るのである。
  
 どこか、尾張町(銀座)育ちの岸田劉生Click!と同じような江戸東京の匂いClick!がするけれど、劉生が腹を立てたときに出る東京弁下町方言Click!の上品な商人言葉ではないしゃべりClick!と、陽咸二がふだんから話す(城)下町Click!方言は、よく似ていたのではなかろうか。
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陽咸二「和藤内」9代目成田屋1924-1930.jpg
陽咸二「コレクトマニア」創刊号1930.jpg 「陽咸二-混ざりあうカタチ」展図録.jpg
 電車に乗ろうとするとき、きれいな女子を見かけると秋子夫人を置き去りにして、サッサと追いかけては車両に乗りこみ、彼女の真ん前に座って楽しそうにしていたなど、陽咸二に関するエピソードを書きはじめるとキリがない。柳橋の芸者になった、同級生の美しい女子(だったはず)の引退式へ、母親を放りだしわたしを連れて駆けつけた下戸の親父にしても、どこか共通する性格があるように思われるけれど、きょうはとりあえず、このへんで……。

◆写真上:1924年(大正13)に撮影された、『閨怨歌曲』を制作する陽咸二。
◆写真中上は、1921年(大正10)撮影の『去年の習作』を制作する陽咸二。1970年(昭和45)前後に、新宿駅前でギターを弾いてそうな風体だ。は、1835~1842年(天保年間)に安藤広重の連作『江戸高名会亭尽』のうち「両国 青柳」()とその拡大()。屋形へふたりの柳橋芸者が乗りこむところで、「青柳」から仲居が料理を運んでいる。は、1930年(昭和5)開催の構造社第4回展の綜合試作『記念碑運動時代』。
◆写真中下は、1924年(大正13)に松平康荘邸で開催された我楽他宗の記念写真。陽咸二は後列の右から4人目で、中列の右端には河村目呂二が見える。は、1923年(大正12)に制作された陽咸二『仔猫』。は、大のネコ好きだった河村目呂二が制作した多種多様な『まねきねこ』に囲まれてご満悦の目呂二本人。
◆写真下は、1924~1930年(大正13~昭和5)ごろに描かれた陽咸二『薬缶と湯呑之図』。「薬缶」は我楽他宗における陽咸二の名称「夜歓寺」にかけ、背後の「湯呑」を逆さに伏せているのはyou know me?(オレ、わかるでしょ?)のシャレのめしだと思われる。は、9代目・成田屋Click!を描いたとみられる陽咸二『和藤内』(近松『国性爺合戦』)。下左は、1930年(昭和5)制作の陽咸二がデザインした雑誌「コレクトマニア」創刊号。下右は、この春に宇都宮美術館で開催されたも「陽咸二 混ざりあうカタチ」展図録(2023年)。安藤広重の画面を除き、いずれも「陽咸二 混ざりあうカタチ」展図録(宇都宮美術館)より。

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大黒葡萄酒の隣りにあった石倉商店工場。 [気になる下落合]

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 先年、大型マンションの建設で寮棟×4が壊されてしまったが、学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)の南側のバッケ(崖地)Click!下、下落合10番地(のち下落合1丁目20番地)に、包帯やガーゼ、脱脂綿など医療分野の衛生商品を製造する石倉商店工場が操業していた。東隣りには、甲斐産商店Click!大黒葡萄酒壜詰め工場Click!(現・メルシャンワインClick!)が建っていた位置にあたる。
 なぜ石倉商店工場が気になったのかというと、下落合の旧・神田上水沿いに建てられた規模が大きめな工場の中でも、石倉商店はもっとも早い時期に進出してきているのではないかと考えられるからだ。同社が残した沿革記録によれば、下落合に工場を建設したのは1912年(大正元)となっているが、地元で刊行された『落合町誌』(落合町誌刊行会)によれば1911年(明治44)設置と記載されている。この齟齬は、おそらく工場の進出・建設時期と、実際に生産拠点を移転し操業を開始した時期との差によるものだろう。明治期における石倉商店の本店は、日本橋大伝馬町2丁目5番地にあった。
 石倉商店について、1907年(明治40)に東京模範商工品録編纂所から刊行された、『東京模範商工品録』掲載の事業紹介より引用してみよう。
  
 石倉商店が繃帯材料の販売を始めしは、明治二十六年の頃にして、其の当時にありては、需要微々として振はず従て本業を営むものも都下に於て僅かに四戸に過ぎざる有様なりしも店主石倉次郎(ママ:治郎)氏は本業務の前途光望なるに嘱目するが故に敢て意に介することなく、研究に研究を重ね一念品質の改良に留意し努めて止むことなかりしが故に品質は益々好良に趣くと共に、世上の進歩に伴ひ漸次繃帯材料の需要は増加したるを以て、業務は年と共に隆昌を告げ販売力は同業者中にありて第一位を占むることゝなれり、今ま(ママ)本商店の製品目を示せば左の如し/第三改正日本薬局法/硼酸綿/石炭酸綿/精製綿/昇汞綿/ヨードフオルム綿/サリチール酸(ママ:サルチール酸)綿/止血綿/硼酸ガーゼ/精製ガーゼ/昇汞ガーゼ/ヨードフオルムガーゼ/サルチール酸ガーゼ(カッコ内引用者註)
  
 文中には製品として書かれていないが、石倉商店の“本業”は各種包帯づくりだったとみられ、別項目で「繃帯材料一式」と書かれている。上記の紹介文には、綿とガーゼばかりが挙げられているが、それらが明治末の販促製品だったのだろう。
 また、文中では「明治二十六年の頃」としているが、石倉商店は、1887年(明治20)に石倉治郎の創業により、製造工場を高田村高田384番地に設置している。神田川北岸の、いわゆる河川敷で砂利場Click!と呼ばれた地域にあたり、現在の根性院Click!の西南西に位置する豊島区高田1丁目だ。このときは、いまだ法人化されておらず、1911年(明治44)に合名会社化するとともに、下落合10番地の広い敷地へ工場を新設して移転してくる。
 『落合町誌』には詳しく書かれていないが、昭和初期までに石倉商店が製造する医療・衛生製品の品質が高かったものか、東京で開催された博覧会で何度か表彰されている。1922年(大正11)の平和記念東京博覧会(昭和初期の同社沿革には「大正十五年」と誤記)では銀牌を、1928年(昭和3)の大礼記念国産振興東京博覧会では優良国産賞牌を、1931年(昭和6)の第3回化学工業博覧会では有巧賞をそれぞれ受賞しており、医療・衛生製品の分野ではいずれも最高賞だと同社資料には誇らしげに書かれている。
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 石倉商店は、昭和に入りどのような事業を行っていたのだろうか。1932年(昭和7)刊行の『落合町誌』から、石倉合名会社についてその一部を引用してみよう。
  
 偶々(明治)二十八年戦役に軍需品として採用され、爾来品質の改良不断の努力を続け三十七八年戦役に再び納品の光栄に浴すると共に、衛生思想の向上に伴ひ益々製品の真価を世の認識する処となり、遂に外国製品を全く駆逐するの域に達した、而して同四十四年組織を合名会社石倉商店と改め経営の合理化を図り、工場を現位置落合に移し、設備を拡充すると共に多量生産に拠る生産費の低下に鋭意し、欧州大戦には三度軍需品納入の御用を仰付られ、軍需品並に一般医療用衛生必需品の海外輸出を開始し戦後も輸出を持続して好評を博し、漸次輸出量を増加しつゝあり以て今日帝都業界のオーソリチーとして、自他共に許す商運を招来するに至つた。(カッコ内引用者註)
  
 『落合町誌』は、「人物事業編」に紹介されている人物や企業からは、いくばくかの出版協賛金を集めていたと思われるので、歯の浮くような美辞麗句や阿諛追従の表現が目立つが、石倉商会の上記紹介文はほぼ実情に近かったのではないかと思われる。日清・日露の両戦争で、陸軍に衛生材料を大量に納品したのが、事業の発展・拡大する大きなきっかけとなったようだ。第1次世界大戦でも陸軍に納品し、戦争で医療品が極度に不足していたヨーロッパ諸国にも輸出しているとみられる。
 大正末から昭和初期にかけ、陸軍が各地に設置していた衛戍病院をはじめ、東京帝大や慶應大など主要大学医学部の附属病院、鉄道省をはじめとする官公庁の各病院、台湾や樺太の公立各病院、全国の自治体や日本赤十字社が運営する各病院、大手企業の付属病院や付属医院などへ製品を納入している。下落合の工場も拡張をつづけ、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、東隣りの大黒葡萄酒壜詰め工場よりも、約3倍ほどの規模となっていたのがわかる。工場の従業員も、1936年(昭和11)の時点で70名を超えていた。
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 ちょっと余談だが、細い道路をはさみ石倉商店工場の西隣りには、山本螺旋(ネジ)合名会社の工場が操業していたが、1935年(昭和10)前後に工場建屋のリニューアルか、あるいは事業の変更による生産ラインの再整備からか、既存の建屋がなくなり敷地全体がしばらく空き地状態になっていた。1930年(昭和5)ごろまでつづく、世界恐慌の影響による事業の縮小・再編なのかもしれないが、1936年(昭和11)の空中写真でも、いまだ敷地の東半分が空き地のままとなっている。
 その空き地にイーゼルを立て、東北東を向いて23.5×33.0cmの小さめな板キャンバスに向かっていたのが、下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)から長崎東町1丁目1377番地(現・豊島区長崎1丁目)へ転居Click!したばかりの片多徳郎Click!だ。彼が名古屋の寺で自裁する直前、絶筆といわれる1934年(昭和9)に制作された『風景』Click!には、石倉商店工場とみられる赤い屋根の建屋群が描かれている。学習院昭和寮Click!のバッケ(崖地)下、奥に見える青い屋根の建屋が甲斐産商店(大黒葡萄酒壜詰め工場)で、手前の南北に長く描かれた建屋が石倉商店工場ではないかとみられる。
 さて、1936年(昭和11)の空中写真が撮影された時期、石倉商店は陸軍ばかりでなく海軍への納入も計画している。1936年(昭和11)2月に、海軍大臣・大角岑生あてに提出された「海軍購買名簿登録願」が国立公文書館に保存されている。同願書には、経営明細書をはじめ、会社の登記簿謄本、貸借対照表(1934年決算書)、最新の製品カタログ、第三者機関の帝国興信所による詳細な報告書などが添付されている。ちなみに、この時期には初代の経営者・石倉治郎から、2代目の石倉長三郎に事業が受け継がれていた。
 おそらく、海軍が2月に予定する登録審査会に間にあうよう願書を提出したらしいが、登録審査は次回への持ちこしとなった。つづけて、同年6月にも審査会が開かれるが、やはり審査は次回まで持ちこしとなっている。持ちこしの理由は不明だが、海軍には企業によるさまざまな登録願書が提出されていたとみられ、審査を行う以前に時間切れとなったか、あるいは書類に不備があり追加で提出を要請したのだろう。
 同年10月の再々登録審査で、石倉商店は最終的に「否決」されてしまう。否決の理由が書かれていないので詳細は不明だが、おそらく海軍は陸軍に比べて将官や兵員の数が少なく、すでに衛生材料や医療品の納品業者が飽和状態だったのではないだろうか。この時期、陸軍の兵員数が約30万人なのに対し、海軍は約7万人とキャパシティが大きく異なっていたせいもあるのだろう。石倉商店は、1936年(昭和11)に一度だけ願書を出しただけで、その後は再び提出していないようだが、日米戦が近づくにつれ国家総動員体制のもと、企業統合が進んだ時点では海軍にも製品を納入していたのではないだろうか。
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 石倉商店工場は山手大空襲Click!で壊滅したが、戦後は事業を再開し1960年(昭和35)に作成された「全住宅案内図帳」にも、大黒葡萄酒工場とともにネームが採取されている。だが、1969年(昭和44)には高田馬場住宅Click!が建設されているので、その間に大黒葡萄酒の下落合工場とともに移転したか、あるいは合併・吸収などで消滅しているのだろう。

◆写真上:石倉商店が工場で生産していた包帯やガーゼ、脱脂綿などの医療製品。
◆写真中上は、1907年(明治40)に撮影された法人化前の高田村高田384番地にあった石倉商店工場。は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる石倉商店工場。は、高田馬場住宅の西側敷地にあたる同工場跡の現状。
◆写真中下は、1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『風景』(部分)。南北に長い、赤い屋根の建屋群が同工場ではないかと思われる。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同工場。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同工場。
◆写真下は、1936年(昭和11)に海軍大臣あてに提出された「海軍購買名簿登録願」。は、2葉とも石倉商店の製品パンフレット。は、海軍審査会の「否決」決定書類。
おまけ
 1945年(昭和20)5月17日に米軍の偵察機F13Click!によって撮影された、第2次山手空襲Click!(5月25日夜半)の1週間前の空中写真が残されている。同写真を観察すると、石倉商店工場は近隣の工場群とともにいまだ焼けておらず、幾重にも密集した細長い工場の建屋が確認できる。したがって、同工場が焼けたのは5月25日夜半の第2次山手空襲だろう。
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佐伯祐三『墓のある風景』を細覧する。 [気になる下落合]

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 1926年(大正15)9月22日に、佐伯祐三Click!が描いた『墓のある風景』(20号)とみられる、連作「下落合風景」Click!の1作だ。(冒頭写真) 以前にも、取りあげているが画面を観たとたん、ひと目で描画場所がわかったので、詳細な解説をしないままになっていた。きょうは、少し詳しく画面に描かれたモチーフについて書いてみたい。
 左側に連なって見えているのは、薬王院の墓地(旧・墓地)Click!の周囲に築かれている塀だが、1878年(明治11)に同院が御留山Click!の西側から移転した際には、いまだこの塀は存在していなかったろう。簡単な垣根か、あるいは生垣で囲まれていたのかもしれない。明治期あるいは大正初期の地形図を参照しても、墓地の記号はあるが塀の記号は記載されていない。旧・墓地には、江戸期に建立されたとみられる五輪塔や蘭塔(卵塔)Click!、宝篋印塔などの墓、月三講社(富士講)Click!の碑なども見られるが、現在地へ移転する際に改葬あるいは移設しているとみられる。
 描かれた塀の上に長く伸びているのは、わたしが子どものころまで異様に長かった、追善供養のための卒塔婆だ。いまでも塀の上には、卒塔婆がいくつかのぞいているが、木材価格が高騰し資源保護がいわれるようになってから、その長さは半分以下に短縮されている。画面の卒塔婆は、塀沿いに建立された墓石の背面あるいは側面に立てられているものだが、現在でもそれは変わらない。佐伯祐三は、薬王院の旧・墓地にめぐらされた塀沿いの二間道路上で、北から南を向いて『墓のある風景』を描いている。
 墓地をめぐる塀は、一見コンクリート製だが、実は中身=“芯”になっているのは昔ながらの土塀で、しかもかなり幅が薄いものだ。おそらく、大正半ばごろから設置されている塀で、1923年(大正12)に作成された1/10,000地形図から、それらしい記号(太実線)を確認することができる。現在は、古い塀の上から新たなコンクリートが薄めに吹きつけられているが、塀が大正期のままだった数年前までは、古いコンクリートの割れ目や剥脱した部分から、“芯”になっている土塀が顔をのぞかせていた。
 旧・墓地をめぐる塀は、当時は最先端の工法だったコンクリートで塗り固められてはいたが、幅の薄さから倒壊を防ぐために、塀の裏側へ三角形をしたコンクリートの控え壁を密に設置している。また、薄い壁なので柔軟に形状を変えることができたせいか、旧・墓地の南側へ下る「下水道階段」Click!のある斜面では、独特な丸みをおびたアールのデザインが施されている。数年前に行われた補修では、大正期の意匠を残したまま表面をコンクリートの薄い膜で覆う工法が採用されたようだ。
 塀に沿って左の道端に建てられているのは、手前が変圧器の載った電力線Click!の電柱で、奥が当時は多かった電球がむき出しの大型の街路灯だろう。墓地の近くで寂しい風情ということもあり、夜になると周辺は闇に包まれて住民には物騒なため、目白通り沿いに見られるのと同じ仕様の、大きくて明度の高い街路灯Click!が設置されていたと思われる。現在では、手前の電柱と街路灯が統合され、住宅地によく見られる小規模な蛍光灯ないしはLEDの街灯ではなく、やはり大正期と同様に大きめな道路に設置される、明度の高いナトリウム灯ないしは水銀灯が設置されている。
 道路の右手に建つ家は、当時は多かった日本家屋の2階家で、佐伯が歩いた当時は建設されて間もない時期だったろう。外壁に腐食防止のクレオソートClick!を塗ったらしい、モノクロ画面では黒っぽく見える住宅は下落合811番地の東嶌邸(1960年現在)で、画面右手(西隣り)の枠外には2軒並びで建てられた代々木邸(同)があるはずだ。
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 大正末の同時期に、一帯の敷地へ建てられたとみられる2階家の日本家屋は、佐伯祐三の描画ポイントから60mほどのところに、戦前戦後を通じて同一の方が住まわれているT邸として、いまでもそのまま見ることができる。佐伯が「散歩道」Click!にしていた、薬王院の北西側一帯は空襲の被害を受けておらず、わたしの学生時代には『セメントの坪(ヘイ)』Click!に描かれた家々Click!を含め、大正期からの風情が残っていた。
 また、描かれた東嶌邸の陰から、旧・墓地に面した道路側にチラッと見えている、2階家の屋根とみられる庇(ひさし)は、佐伯が描いた当初から戦後まで、一貫して飯沼邸だ。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)によれば、住人の飯沼一省は内務省に勤めた内務書記官で、『落合町誌』の当時は大臣官房都市計画課長だった。
 また、右手前(北隣り)の空き地は、そろそろ普請がスタートする下落合802番地の寺井邸の建設予定地だ。同予定地や東嶌邸の道路沿いを観察すると、新興住宅地によく見られる敷地境界の縁石(大谷石)とともに、下水溝(側溝)Click!とみられる大谷石Click!ないしは花崗岩製の構造物が設置されているのがわかる。
 左手の塀の上に突き出た、墓地の南側に建っている住宅1棟の2階部分が見えているが、下落合820番地の秦鎌太郎邸だろう。秦邸は、昭和期に入ると転居したのかネームが見あたらず、また地番も下落合2丁目819番地(現・下落合4丁目)に変更されて、同じ敷地には伊藤邸が建設されている。画面に描かれた、塀の上に見えている秦邸の2階部が、ちょうどのちの昭和期に伊藤邸が建設されるあたりだ。
 『墓のある風景』の道を、そのまま真っすぐ進むと50mほどで広い空き地に出る。赤土がむき出しの、新たな宅地造成が進められている久七坂Click!沿いの敷地だが、目白崖線のちょうど丘上にあたる眺めのいい一帯だ。ここに家を建てれば、新宿駅の東西一帯が見わたせる絶好の眺望をうたえる宅地開発のはずだった。だが、この広い住宅地の開発は、なぜか昭和10年代になってもまったく進まなかった。1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲の直前、米軍の偵察機F13Click!によって撮影された空中写真にも、大きめな屋敷がわずか2棟しか建設されておらず、残りは原っぱのままだった。
 佐伯祐三は、赤土がむき出しの広い空き地に出ると、まずは眺望を確認するために崖線の淵に立っただろう。丘上から、1段下に造成された広い敷地には、巨大な赤い屋根を載せた池田邸Click!が建っていた。住民の池田常吉は、掲載を断ったものか『落合町誌』には収録されていないが、明治末まで台湾銀行の支配人だった人物だ。佐伯は、この丘上から池田邸のフィニアル(鯱)が載る赤い大屋根を描いたとみられる「下落合風景」を残しているが、1926年(大正15)10月1日の『見下シ』Click!(20号)が相当するだろうか。
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 佐伯は、この広い造成地を横切ると、久七坂沿いの道へ出るのが「散歩道」のコースだったようだ。そして、久七坂筋を北上する途中で描いたのが、1926年(大正15)9月20日の『散歩道』Click!(15号)だ。さらに、その先には曾宮一念アトリエClick!の前にある谷戸の諏訪谷Click!が口を開けているが、同日の午前(?)に『曾宮さんの前』Click!(20号)を描いていることでも、佐伯がよく歩いた散歩コースが自ずと透けて見えてくる。
 すなわち、佐伯祐三が1日に風景モチーフのタブローを2種類(おそらく彼の制作法から作品枚数的にはもっと多いと思われる)仕上げている日には、かなり近接した下落合の街角風景を描いている可能性の高いことがわかる。これは、散歩の途中で気に入った風景モチーフを複数箇所見つけるからだと思われ、『墓のある風景』と同日の午後(?)には『レンガの間の風景』(15号)が制作されている。しかし、現存する佐伯の「下落合風景」シリーズには、それに相当する画面が存在していない。
 「制作メモ」Click!を参照すると、同じ日に近接した風景を描いた例としては、上述の1926年(大正15)9月20日に制作された『曾宮さんの前』と『散歩道』のほか、9月19日の『原』Click!(15号)と『道』Click!(15号)、9月28日の『八島さんの前通り』Click!(20号)と『門』Click!(20号)、9月29日の『文化村前通り』Click!(20号)と『切割』Click!(20号)、10月21日の『八島さんの前』Click!(10号)と『タテの画』Click!(20号)、10月23日の『浅川ヘイ』Click!(15号)と『セメントの坪(ヘイ)』Click!(15号)などが挙げられ、いずれもごく至近距離の描画ポイントで風景を同じ日に描いている。
この画面は、8月以前に描かれていた同作Click!とは別画面とみられ、曾宮一念が常葉美術館で観た40号の画面Click!を含め、バリエーション作品ではないかとみられる。
 佐伯がたどる散歩コースにおける、制作の特長や性癖のようなものが垣間見える気がするけれど、『墓のある風景』と同日の9月22日に描かれた『レンガの間の風景』は、いったいどこを描いたものだろうか。前者は20号で、後者は15号とキャンバスのサイズが異なっているので、佐伯祐三は一度アトリエにもどって昼食を食べたあと(?)、再び15号のキャンバスを手に『レンガの間の風景』の描画ポイントに向かっていると思われる。わたしが1970年代から見てきた実景では、空襲から焼け残った『墓のある風景』周辺の住宅街に、レンガ造りの邸宅、あるいはレンガの塀をめぐらした住宅は記憶にない。
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 ひょっとすると、大邸宅が建ち並んでいた久七坂Click!が通う目白崖線の斜面に、レンガ造りの塀でも連なっていたのだろうか。それは、赤い屋根にフィニアルが載る池田邸のものだったかもしれない。これまで、佐伯作品を観てきたわたしの勘では、薬王院近くの風景のように感じるが、どなたか久七坂の古い風情をご存じの方がいればご教示いただきたい。

◆写真上:1926年(大正15)9月22日の制作とみられる、佐伯祐三『墓のある風景』。
◆写真中上は、2葉とも塗りなおされる前に撮影した薬王院の剥脱した塀の内部。中上は、幅の薄い塀を支える墓地内部の控え壁。中下は、墓地南側の斜面にある塀は独特なアールデザインが採用されている。は、旧・墓地に残る江戸期の五輪塔や蘭塔(卵塔)、宝篋印塔で、周囲の卒塔婆が佐伯の時代に比べかなり短くなっている。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる『墓のある風景』の描画ポイント。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる描画ポイント。中下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイントで、空襲の被害をまぬがれた住宅街が拡がっていた。は、塀が塗りなおされる前に撮影した薬王院の塀沿い。
◆写真下は、佐伯が描いた家とほぼ同時期に建てられた現存するT邸。は、薬王院周辺の佐伯祐三が描いたタブローと描画ポイント。は、『墓のある風景』の現状。右手のベージュ外壁に赤い屋根の邸が、佐伯が描いた下落合811番地の東嶌邸跡。
おまけ
 大正期の下落合で多く見られた、宅地造成による下水溝(側溝)の痕跡。住宅敷地を大谷石による縁石で囲み、下水用の側溝には花崗岩またはコンクリートなどの蓋で覆われていた。
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東京府知事だった千家尊福の仕事。 [気になる本]

都電(飛鳥山電停).jpg
 かなり前、出雲国造(こくぞう)Click!千家尊福(たかとみ)Click!が東京府知事に就任していたのを記事にしたことがある。彼は、明治政府に「武蔵一宮」と規定された大宮・氷川明神社(元神:スサノオ/地主神:アラハバキClick!)のある埼玉県知事や、江戸期における徳川家Click!(世良田氏Click!)の拠点であり出雲社・氷川社が散在する静岡県知事をつとめたあと、江戸東京総鎮守の神田明神Click!(元神:オオクニヌシ=オオナムチ/地主神:平将門Click!)がある東京府知事と、出雲Click!とのつながりが深い地域の知事を歴任している。
 その後、千家尊福の息子で詩人の千家元麿Click!が、落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)に自邸Click!をかまえて住んでいた関係から、拙サイトでもしばしば記事に取りあげてきたが、父親についてはあまり触れてこなかった。先年、水谷嘉弘様Click!を介して村上邦治様より、著書『千家尊福伝~明治を駆け抜けた出雲国造から』(2019年)をお贈りいただいた。(たいへん貴重な高著を、ありがとうございました。>村上様)
 明治以降、あらゆる神道の教導禁止(布教禁止)の政府布告から、神主は境内の掃除と社(やしろ)の維持管理、そして奉じられた神への祈祓ぐらいしか仕事がなくなってしまった。また、薩長政府による「神社合祀令」のもとで数多くの地主神Click!を奉る社(やしろ)が廃止となり、“日本の神殺し”政策Click!が全国各地で盛んに行われていた時期でもある。千家尊福は、出雲国造や出雲大社宮司から出雲大社教の教主となり、いわゆる伊勢神道中心の正教一体化(戦後用語の「国家神道」化)に強く反対して、貴族院議員となったのちは政治家として神道とは別の地道な活動を展開し、政治から身を引いたあとは東京鉄道株式会社の社長として、東京の私営路面鉄道を東京市へ移譲する仕事をやりとげている。
 きょうの記事は、貴族院議員となり同時に各地の府県知事や、司法相などを歴任した政治分野での活動や業績などについては、上記の『千家尊福伝―明治を駆け抜けた出雲国造―』をぜひ参照していただくことにして、東京府知事だった時代や世相にはどのような案件あるいは課題が存在し、千家府知事はどのように仕事をこなしていたのか、その一端を地域中心のミクロな視野からほんの少しだけ探ってみたい。
 千家尊福が東京府知事に就任していたのは、1898年(明治31)から1908年(明治41)のおよそ10年の期間だった。当時、府県知事を10年も勤めた人物はおらず、たいがいは2年前後のキャリアで別のポジションに異動するのが常だったが、彼は組織をうまく掌握して統率するリーダーシップに優れていたらしく、東京府自体が彼を手放さず、また政府側もその安定した自治実績により、彼を首都東京から異動させたがらなかったらしい。
 千家尊福の府知事時代には日露戦争が勃発し、かろうじて日本は勝利したものの、政府は戦費調達用に発行した外債の償還が困難となり、もはや破産寸前の状態にあった。また、「圧倒的な勝利」と煽情的な報道をつづけたマスコミのせいか、ポーツマス条約に反対する市民が日比谷焼き討ち事件を起こすなど、東京には不穏な世相がつづいていた。東京府も、また中央政府もこれらの困難や課題をうまく調整・解決し、乗り越えられるのは千家尊福しかいないと見ていたようだ。ちなみに、当時の知事は今日のように選挙で選ばれるのではなく、政府による任命制だった。
 国立公文書館の資料を参照すると、千家尊福が東京府知事の在任中にこなしていた、多種多様な業務の様子が見えてくる。まず目につくのは、東京近海で遭難した難破船や行方不明者の捜索と、難破船から逃れたとみられる乗組員たちの保護および送還だ。当時は、民間の船舶が正確な海図を備えていることはほとんどなく、東京近海では座礁・沈没事故が多発していた。また、今日のように気象情報がないので、荒天で遭難する船舶も多かったらしい。千家府知事の在任中は、イギリスやロシア、あるいは東南アジアから来航した船舶とみられる乗組員たちが、東京府所轄の島々などに上陸・避難している。
 そのような船舶には、海外からの輸入品などが積まれていたが、それら物品の輸入可否を政府とともに審議するのも、東京府の重要な仕事だった。また、船の難破でときどき漂流民が上陸していた、東京からはるか南に点在する小笠原諸島(無人島:ぶにんじま)の正確な測量も、陸軍参謀本部の陸地測量部Click!とともに東京府の業務のひとつだった。また、東京府では不足する市街地に近い用地を拡げるために、このころから東京湾の埋め立て事業も盛んに行われている。市街地では、より広い用地を確保するため東京市や政府と協議しながら、千代田城Click!桝形(石垣)Click!の撤去と外濠の埋め立て事業Click!も進められた。
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 千家府知事は、さまざまな建設事業にもかかわっている。市街地化が進んだ地域から火葬場の郊外移転や斎場の新設、府立墓地Click!の新設や拡張造成、千葉県との境を流れる江戸川へ新たな橋梁の建設、政府と協議のうえで各国の公使館や大使館を建設するための敷地確保、電燈線・電力線Click!電話線Click!の系統網の整備、上野公園で予定されていた東京勧業博覧会の準備と日露戦争による中止、そして再び開催のための準備など、おそらく政府や東京市と協議のうえ決裁しなければならない案件が目白押しだったとみられる。
 変わったところでは、府立中学校の体育用に陸軍の旧式銃器(村田銃など)の払い下げ申請や、同中学校による横須賀造船廠(のち横須賀海軍工廠Click!)と停泊する軍艦の社会見学(遠足)申請、日露戦争がらみでは東京湾で行われる海軍凱旋観艦式や陸軍凱旋祝賀会への出席、いまだ東京市の一部で上水道として支管や枡Click!が使われていた、神田上水Click!の廃止と東京府への払い下げ問題、東京各地に残る官有地の府有地への移譲など、明治以降に活発化した教育や都市の近代化への案件が多々見られる。
 また、東京府内へのキリスト教会設置も、当時は府や市による認可制だったため、出雲大社の宮司で神道家だった千家尊福は、複雑な思いで次々と申請される設置許可の決裁書類に署名・捺印していたのではないだろうか。それらキリスト教会との関連が深い、東京府内の居留地Click!に住む滞日外国人のうち、租税を払わず滞納している人物から税金を取り立てるのも、府知事の重要な業務のひとつだった。
 おそらく知事机には毎日、決裁しなければならない書類が山積みにされていたとみられるが、書類に署名・捺印するだけであとは部下に委任してなにもしない、当時の一般的な知事と千家尊福が大きく異なるのは、自身が疑問をもったテーマやなんらかの対立で紛争がらみの案件があると、自身で現場に足を運び当事者たちから直接事情を聞いては判断基準にしていたことだ。登庁時と退庁時のほかは、知事室や庁内から一歩も出ない知事が一般的な時代に、千家府知事の仕事のしかたは破天荒かつ異例だった。
 府知事の姿などかつて一度も見たこともなかった東京市民たちは、あちらこちらの現場で調査・取材をする知事の姿を見かけるようになり、薩長の藩閥政府に猛反発をつづけていた江戸東京市民も、神田明神の主柱であるオオクニヌシの故郷Click!からやってきた千家尊福には親しみをおぼえたにちがいない。東京府内で厄介な行政課題が持ちあがると、多くの現場では千家尊福の姿が見られるようになった。それが対立的な案件であれば、双方から事情聴取をしてできるだけ公平な決裁をするようにしていたようだ。
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 府知事に在任中、千家尊福の頭をもっとも悩ませたのは東京市街を走る私営電気鉄道の統合問題だった。その様子を、いただいた上掲の『千家尊福伝』から引用してみよう。
  
 東京で路面電車の開始・普及が遅れたのは、利権を巡り多くの会社で出願競争が起こり、政府が調整出来なかったことが最大の原因であった。馬車で運行していた東京馬車鉄道(改進党大隈系牟田口元学)、東京電気鉄道(大物実業家日本製粉創業者雨宮敬次郎)、東京電車鉄道(三井系藤原雷太)、東京自動鉄道(政友会星系利光鶴松)、川崎電気鉄道(三菱郵船系)の五社が乱立、一方東京市においても市営化の構想を持っていたため、なかなか認可することができなかった。/この五社から電気鉄道、電車鉄道、自動鉄道の三社がまず合併し、東京市街鉄道(街鉄)となった。馬車鉄道は東京電車鉄道(電車、東電、電鉄などと言われた)に、川崎電気鉄道は東京電気鉄道(外濠線)に改称した。三社に集約されたことで、ようやく路面電車の認可が下り営業を開始、各社路線を伸長させた。
  
 だが、上記3社の間にはなんの協業体制も連絡もなく、東京市内には繁華街中心の統一性のない路線が次々に敷設され、また運賃の値上げ問題も大きな課題となっていった。こうした混乱状況の中、千家府知事と実業家の渋沢栄一は3社合併を勧奨し、1906年(明治39)には合併して東京鉄道(株)が誕生している。だが、新会社の社内にはまったく統一性がなく、経営陣は派閥による内部抗争を繰りひろげ、労働組合さえ別々の活動をするありさまで、内情は3社別々のままだった。株主総会では、会場で殴りあいや刃傷沙汰が発生するなど、混乱はずっと尾を引くことになってしまった。
 西園寺公望内閣の瓦解で、司法大臣を1年間だけつとめた千家尊福だが、1909年(明治42)に意外な話が持ちこまれた。10年間におよぶ東京府知事の経験を活かし、民間企業である東京鉄道の社長に就任してくれという、政府と東京市、さらには東京鉄道の役員会からの要請だった。企業経営などしたこともない彼は、おそらく面食らっただろう。だが、東京の路面電車を円滑に敷設し、運賃問題なども解決しながら公営化をめざすのは、自身が府知事だったころからの宿願だった。千家尊福は社長を引き受けると、府知事時代の仕事のしかたを踏襲し、社内の対立する組織や役員同士の融和や公平な決裁、政治家から持ちこまれる利権がらみの困難でややこしい事業は、交渉のフロントに立って対応した。
 面倒でむずかしい仕事や困難な案件を、社内外でも率先してこなす千家社長を見ていた役員や社員たちの間には、少しずつ一体感が生まれていったようだ。特に重要案件に関しては他人まかせにして責任を回避せず、自ら現場に出かけて粘り強く営業・交渉をつづける社長の姿を見て、社員たちの間に信頼感と社内統一の気運が生じていったのだろう。
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 こうして、府知事時代から懸案だった路面電車の東京市電化は、1911年(明治44)8月に東京鉄道社長の千家尊福と東京市長の尾崎行雄Click!との間で、ついに売買契約と引き継ぎ業務が完了した。東京鉄道の本社入口にあった「東京鐡道」の看板が外され、跡には「東京市電氣局」の看板が架けられた。ようやく東京市電(のち東京都電)が誕生したが、千家尊福は看板を見ながらすでに次のことを考えていた。キリスト教や新興宗教の流行で、徐々に衰退していた出雲大社教を盛り返すために、全国各地を巡教・講演してまわる計画だった。

◆写真上:王子駅方面へ向かい、飛鳥山電停の近くを走る都電荒川線のレトロ車両。
◆写真中上は、村上邦治『千家尊福伝~明治を駆け抜けた出雲国造から』(2019年/)と晩年の千家尊福()。中左は、1901年(明治34)に神田上水の廃止について時期尚早とした千家尊福の意見書。中右は、1904年(明治37)に“麩”の輸入に関して出された取りはからい要望書。は、1885年(明治18)に撮影された小笠原諸島父島の街並み。
◆写真中下は、1905年(明治38)に東京湾の横浜沖で催された日露戦争海軍凱旋観艦式。は、1907年(明治40)に開催された東京勧業博覧会のポスター。は、1887年(明治20)ごろに撮影された旧・新橋駅前で待機する東京馬車鉄道。
◆写真下上左は、1899年(明治32)に千家尊福から出された市街鉄道建議書。上右は、1908年(明治41)に西園寺内閣が作成した千家尊福の司法大臣任命奏上書。は、上下2枚とも1900年(明治33)に作成された東京市内電気鉄道布設願摘要一覧。このリストは申請企業の一部にすぎず、数多くの企業が電気鉄道事業への参入を申請していた。は、大正初期に撮影された東京鉄道から移行したばかりの東京市電。

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華族たちが集まる昭和初期の落合地域。 [気になる下落合]

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 先日、1938年(昭和13)に作成された「火保図」で、日本デイゼル工業と安達堅造邸Click!をしらみつぶしに探していたところ、昭和期に入ってから落合地域へ転居してきている華族の多いことに気がついた。それは、明治以来の大名や公家筋などもともとの華族や、明治期以降に功績のあった人物に付与される“新華族”の別を問わない。
 以前、拙ブログでは落合地域とその周辺域に集まる徳川家Click!とその関連家系について書いたことがあるが、それは同家が元をただせば姻戚同士だからで、近くに住みたくなるのはあたりまえだから自然の流れのように感じていた。だが、華族が落合地域とその周辺域に集まるのはなぜだろう? 考えられる理由は、3つほどあるだろうか。
 まず、理由のひとつは関東大震災Click!で市街地の大半が壊滅すると、自邸を郊外へ移転する家々が続出した。華族も例外ではなく、転居先を検討する際に山手線の駅が近くて交通の便がよく、住宅地の開発が盛んな豊多摩郡落合町とその周辺に目をつけたという経緯だ。目白文化村Click!近衛町Click!アビラ村Click!など、他には見られない当時としてはオシャレで最先端の街づくりが行われていた点にも注目したかもしれない。
 理由のふたつめは、いわゆる「堂上華族」と呼ばれる近衛邸Click!や、日本でもっとも古い大名(鎌倉幕府の守護含む)である相馬邸Click!、あるいは徳川邸Click!など、目白崖線沿いには華族の屋敷Click!が明治期から建てられつづけていたので、「どうせなら“同族”が多い地域へ引っ越そう」と考えたのかもしれない。目白崖線の東側は、明治期からの開発で住宅地にあまり余裕はないが、西側の落合地域ならまだ広めの宅地が残っており、かつリーズナブルに屋敷を建てられる……という算段もあっただろうか。
 理由の3つめは、しごく単純に華族の子弟や孫たちが通うことになる、近衛篤麿Click!が生前に計画し目白駅の東側へ移転させた学習院Click!へ、徒歩でも通える立地条件だったことだ。これらいずれかの理由から、あるいは複合する理由から、落合町やその周辺域へ転居してくる華族が、昭和期に入ると急増しているとみられる。
 たとえば、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、同時点で5家の新たな転入華族が紹介されている。同書から、少し引用してみよう。
  
 従四位 子爵 板倉勝史  下落合五三四
 当家は板倉周防守重宗の次男伊予守重形の後裔、重形兄重郷より分れて上州安中三万石の城主となる、それより十代を経て先代勝観氏明治十七年子爵を授けらる、氏は其の二男にして明治二十一年十月を以て生れ大正十二年家督を継ぎ襲爵被仰付、先是明治四十四年学習院高等科を卒業さる。
  
 ちなみに、板倉家は大正末にはすでに下落合534番地(現・下落合3丁目)に転居してきており、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に収録されている。おそらく、関東大震災の直後に市街地から下落合へ転居してきているのだろう。ちょうど、雑司ヶ谷旭出41番地(現・目白3丁目)の戸田康保邸Click!(1934年より徳川義親邸Click!)の道路をはさんだ南隣りの位置で、目白聖公会の北側(裏)にあたる角の敷地だ。板倉邸前の道路を120mほど西へ歩けば、大久保作次郎アトリエClick!にたどり着く。
 以下、『落合町誌』の「人物事業編」からつづけて引用してみよう。
板倉邸1926.jpg
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 正四位子爵/貴族院議員 富小路隆直  上落合四六五
 当家は関白左大臣二条道平の男左衛門佐道世の後、道世分家を創立なし其邸富小路に在るを以て家号となす、夫より二十代を経て先代敬直に至り明治十七年子爵を授けらる、(中略) 大正六年東京帝大法科大学政治科を卒業し現時貴族院議員の任に在り。夫人ふさ子は長野県士族鳥羽林太氏の二女にして養子文光氏は子爵三室戸敬光氏の二男である。
  
 武門出の板倉家とは異なり、典型的な公家出身の華族だ。上落合465番地(現・上落合2丁目)は、現在の上落合中通りに面した地番で、同地番から西へ伸びる路地を入れば、40mほどで右手(北側)に上落合467番地の大賀一郎邸Click!が、その少し奥の同469番地には神近市子邸Click!と同470番地の鈴木文四郎邸Click!が、道路を90mほど進んだ左手(南側)には同470番地の吉武東里邸Click!が、また道路を抜けてT字路の正面には同670番地の古川ロッパ邸Click!が建っているような一画だった。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照しても、同地番に収録された7軒(そのうちの1軒は上田邸と記載されている)の住宅には、それらしい大きめな屋敷が見られないので、富小路隆直邸はふつうの一般住宅だった可能性が高い。
  
 正四位男爵/貴族院議員 今園國貞  下落合六七一
 当家は内大臣勸修寺の末家芝山の支流である、先君國映公は宮内大輔芝山國典の二男にして幼児興福寺に入り同寺中賢聖院の薫職たりしが、明治維新と共に勅命に依りて復飾し堂上の格を賜はり姓を今園と称す、同八年華族に列し同十七年男爵を授けらる。(中略) 現時貴族院議員にして公正会に属す、傍ら日本大学講師たり、(後略)
  
 今園家も、藤原氏の流れをくむ公家が出自の華族だ。下落合671番地(現・中落合2丁目)は、現在の国際聖母病院Click!の西端に位置する敷地で、不動谷(西ノ谷)Click!の谷戸沿いに南へ長く伸びる第三文化村のエリアだったとみられる。三間道路をはさんだ西隣りには、下落合667番地の吉田博・ふじをアトリエClick!があり、北隣りには佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!で最大サイズの「テニス」(50号)Click!をプレゼントした落合第一尋常小学校Click!の教師・青柳辰代邸Click!があった。下落合661番地の佐伯アトリエからは、南へ直線距離でわずか60mほどのところだ。
 だが、1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照すると、下落合671番地には150~200坪の宅地がふたつ描かれているだけで住宅は採取されていない。下落合へ短期間だけ住み、その後すぐに転居したか、あるいは誤りだらけな同図の採取漏れの可能性がある。
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今園邸跡.jpg
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渡邊邸松村邸跡.jpg
  
 従四位子爵 渡邊英綱  上落合五八六
 当家は渡邊半蔵守綱の子重綱の五男、丹後守吉綱の後裔にして吉綱秩禄を分たれて徳川氏に仕へ泉州伯太其他一万三千五百二十石余を領す、夫より九代を経て先代章綱氏明治十七年子爵を授けらる、氏は先代寛綱氏の二男として明治二十七年三月を以て生れ、大正三年家督を相続し、襲爵被仰付。夙に東京農業大学を卒業す。(後略)
  
 武門の出である渡邊家の上落合586番地は、厳密にいえば1935年(昭和10)以降は消滅してしまった地番だ。現在の道筋でいうと、山手通り(改正道路)の下ないしは東端になっており上落合2丁目と3丁目の中間にあたる敷地だ。『落合町誌』の当時は、ちょうど落合富士Click!(大塚浅間古墳Click!)のすぐ北東あたりに位置する地番だった。
 1938年(昭和13)作成の「火保図」を見ると、すでに道路工事の計画予定が明確化していたのか、家屋が立ち退いたあとで上落合586番地は欠番となり、空き地が拡がっているような状態だった。渡邊家も、工事計画の進捗でどこかへ移転しているのだろう。
  
 正四位勲四等/鉄道技師 男爵 松村務  上落合六〇六
 本家は元金澤藩士にして先考務本明治初年身を陸軍に投じ累進して陸軍中将に陞る、其の間各重要軍職に歴任し、西南戦役、日清戦役に出征して功あり、殊に日露役には第一師団長として旅順攻囲軍に参加し偉功を樹て、同廿八年一月陣中に戦没す、同四十年十月当主先功に依りて華族に列せられ男爵を授けらる。男は其の二男として明治十七年三月の出生、同四十三年東京帝大工科大学土木科を卒業し鉄道院に奉職す、(後略)
  
 明治以降に功績があった、元軍人のいわゆる“新華族”の家系だ。上落合606番地もまた、先の上落合586番地とともに山手通り工事にひっかかっているが、1938年(昭和13)の「火保図」には地番が残されている。だが、すでに松村邸は見えず同地番には瀧沼邸と富士アパートの2軒が採取されているので、1935年(昭和10)前後には転居しているのだろう。
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上落合空中1936.jpg
 その後、落合地域には皇族や華族の屋敷が建ちつづけるが、文字数がオーバーぎみのためこのぐらいに。上記に挙げた5人の華族は、30~40代の壮年ばかりなのも大きな特徴のひとつだろうか。いちばん年上が、『落合町誌』(1932年)発刊の時点で満50歳の男爵・今園國貞だ。華族の中でも、比較的若い後裔の世代が落合地域に転居してきており、東京市街地の屋敷にこだわらず、当時はいまだ郊外の新興住宅地だった落合地域へ転居しても、それほど抵抗感がなかった世代……ということにもなるだろうか。

◆写真上:下落合の相馬孟胤邸Click!にあった、黒門(正門)Click!脇の番所長屋。
◆写真中上中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合534番地の板倉勝史邸と、板倉邸跡の現状(道路右手)。正面に見える緑は、徳川邸(旧・戸田邸)の敷地。中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合465番地の富小路隆直邸あたりと、上落合中通りから路地をはさんだ465番地を見た現状。
◆写真中下中上は、「火保図」にみる下落合671番地の今園國貞邸跡と、今園邸跡の現状(道路右手)。「火保図」には建物が採取されておらず、1938年(昭和13)には転居しているか採取ミスの可能性が残る。中下は、「火保図」にみる上落合586番地の渡邊英綱邸あたりと、上落合606番地の松村務邸界隈。1938年(昭和13)には改正道路(山手通り)計画が具体化しており、両邸ともすでに立ち退いている可能性が高い。現状写真では、渡邊邸は画面手前で、松村邸は山手通りの中央あたりになっている。
◆写真下:1936年(昭和11)の空中写真にみる、下落合と上落合の華族邸一覧。

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