陽咸二に婚約の報告をする佐伯米子。 [気になる下落合]
落合地域には、そのアトリエがドラマの舞台Click!になるほど彫刻家もたくさん住んでいたが、(城)下町Click!生まれの陽咸二Click!は、残念ながらこの地域には縁がなかった。もし、佐伯祐三Click!と同じ1898年(明治31)生れの陽咸二が落合地域に住んでいたら、まちがいなく佐伯と同様に特別なバナーを設置して、彼専用の特設ページをつくっていただろう。それほど破天荒で、ケタちがいに面白い芸術家だった。しかも、陽咸二は佐伯祐三・米子夫妻とは知りあいで、特に1歳ちがいの佐伯米子Click!とは尾張町(銀座4丁目)の池田象牙店Click!で、お互い子どものころからの馴染みだった。
陽咸二が面白いのは、江戸東京に根ざす洗練されたユーモアや機微、町っ子らしい機知に富んでいたばかりでなく、単に観賞するだけの彫刻にとどまらず、建築からモニュメント、レリーフ、工芸、図案、アクセサリー、版画、メダル、装飾小物、さらには趣味や娯楽までを対象とした「彫刻の社会化」(あるいは生活化)に由来するのだろう。1926年(大正15)に、日名子実三Click!や斎藤素巌らが結成した「構造社」に参加し、従来の旧態然とした彫刻界の官展アカデミズムに正面から叛旗をひるがえしている。
身のまわりに置いて、いつでも楽しめる生活に密着した彫刻(広義の意味で)の創造、それが陽咸二の一貫してめざしたスケールが大きな制作姿勢のように感じる。また、構造社には「彫刻部」「絵画部」「雑之部」の3部が設置されたが、そのいずれの部門でも彼は活躍している。今日的な視点でいうなら、彼は彫刻家でも画家でも工芸家でも立体デザイナーでもグラフィック・デザイナーでもなく、それらの呼称では到底くくることのできない典型的な現代美術家=コンテンポラリー・クリエイターだ。しかも、彼は東京弁下町言葉Click!の中でも職人言葉(いわゆる“べらんめい”)で話す、めずらしい芸術家だった。
多芸な陽咸二は、もともと象牙を加工する牙彫(がちょう)や篆刻(てんこく)、簪(かんざし)、笄(こうがい)、根付けなどの専門技術と、岩絵の具の日本画から出発している。1911年(明治44)の13歳のとき、尾張町(現・銀座4丁目)にあった池田嘉吉が経営する池田象牙店へと奉公し、当時は高級職人だった牙彫師の弟子になっている。このときから、同店の娘だった池田米子(当時14歳)と親しくなったのだろう。
ちなみに、多くの資料では佐伯米子Click!の生年月日を1903年(明治36)7月7日としているが、これは後年に米子が自ら作成した年譜に記載されていた、“自己申告”の生年月日に準拠したひと昔前のデータで、実際の戸籍上での生年は1897年(明治30)7月7日で、佐伯祐三や陽咸二よりも1歳年上だったはずだ。したがって、陽咸二が池田象牙店へ入社したときは、彼が13歳で米子が14歳だったとみられる。
1914年(大正3)の16歳のとき、陽咸二は島田墨仙に認められて日本画を習いはじめている。翌1915年(大正4)になると、彫刻家・小倉右一郎の門下生となり千駄ヶ谷の竹屋子爵邸へ書生として入るので、同年に池田象牙店を退職しているとみられる。陽咸二は17歳で、池田米子はすでに18歳になっており、彼女は永田町の東京女学館Click!へ通いつつ、卒業前後から川合玉堂のもとで日本画を習っていたはずだ。
その後も、陽咸二は池田象牙店に出入りしていたと思われ、構造社の雑之部に関連した篆刻や蔵書印、装飾品などを制作する際も、同店を訪ねて象牙などの材料を手に入れていたのではないか。関東大震災Click!のあと、池田象牙店が尾張町(銀座)から土橋(新橋)Click!へ移転してからも、池田家とはずっと交流しつづけていた様子がうかがえる。同店を辞めたあと、小倉右一郎のもとで制作した彼の作品は文展・帝展に毎年入選しつづけ、1921年(大正10)に彼は23歳で東京美術学校彫塑別科へ入学している。同じ歳にもかかわらず、20歳で同校西洋画科へ入学した佐伯祐三の3学年下だった。
陽咸二が、千駄ヶ谷にあった子爵・竹屋康光邸で書生をしていた1919年(大正8)ごろ、池田米子が尾張町から突然竹屋邸を訪ねてくる。今年(2023年)に宇都宮美術館から刊行された『陽咸二-混ざりあうカタチ』展図録に収録の、「陽秋子談話」から引用してみよう。陽秋子は、1924年(大正13)に結婚した陽咸二の連れ合いであり、長女の陽麗子が母親から聞いた生前の父親に関するエピソードを記録したものだ。
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米子さん
或る日、米子さんが訪ねて来られた。そして帰った後で「結婚するんだってサ、佐伯祐三と。いゝかって云うから「(ママ)いゝでしょう。どうぞどうぞ」って云ってやったんだ。「何もわざわざことわりに来なくったっていゝんだ」とプリプリしていた。後に、画界に佐伯祐三がいるなら彫刻には俺がいるという意気はあった様だ。(“「”ダブリ引用者註)
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陽咸二がプリプリしていたのは、結婚前の話なので奥さんの手前そのような態度をとったのかもしれないが、それにしても結婚直前の米子がなぜ陽咸二へわざわざ報告にきているのだろうか? 陽咸二22歳で、米子が23歳のときだ。
池田象牙店に在社中、陽咸二は主家の娘・米子にとって「お兄ちゃん」的な憧れの存在だったのか、または「気のおけない弟」として冗談か本気かわからないような親しい戯言の中で、「ねえ、お嫁にもらってよう(陽)って感じ(咸二)」とでもいってたものかw、あるいは父親の池田嘉吉から(城)下町の商家らしく、「あいつは腕がいいから将来はおまえの婿に」などと耳うちされていたのか、それとも「陽咸二はわたしが好きなはずだ」という米子のマリッジブルー的ひとりよがりから、妄想があてどなくふくらんで千駄ヶ谷に出かけていったものか……、そのあたりはよくわからない。
「結婚するってホントですか? 今でもあなたが好きだから」などと、昔日のダ・カーポ並みに陽咸二からいってもらいたくて出かけたのに、そして佐伯祐三との間で恋の鞘当てClick!でも期待しながらウキウキワクワクして訪問したのに、「いゝでしょう、どうぞどうぞ」などといわれてしまいガッカリして帰ったのかもしれない。w 彼女は、ちょっとなにを考えてるのかわからない性格の側面があるように感じるが、そういえば陽咸二は、いま風にいえばかなりすっきりとしたイケメンだった。
その後、陽咸二自身も結婚して杉並町馬橋230番地に住むようになるが、池田象牙店や佐伯米子、そして美校の先輩にあたる佐伯祐三との交流はつづいていたようだ。なぜなら、震災後に銀座から土橋(新橋)に移転した池田象牙店に、陽咸二の作品『ひるね』Click!が残されていたからだ。以前、『ひるね』の記事では佐伯祐三・米子夫妻の娘の彌智子Click!像だと想定して書き、事実、池田家ではそのように認識して保存されていた。
だが、陽咸二のご子孫にあたる藤岡美加様よりご招待いただいた『陽咸二-混ざりあうカタチ』展(宇都宮美術館)を拝観すると、池田家から新宿歴史博物館に寄贈された『ひるね』の原型である石膏像は、1930年(昭和5)の制作ということになっており、しかもタイトルが『ねむり』となっている。陽咸二のご子孫の間では、これは1928年(昭和3)に誕生した長男・輝臣像として認識されていた。これはいったい、どういうことだろうか?
陽咸二が、夫の祐三と娘の彌智子をパリで亡くしたばかりの佐伯米子のもとへ、自分の息子がすこやかにスヤスヤ眠っている顔像をプレゼントすることなど、通常ではおよそ考えられない。それとも、米子が彌智子の面影に似ている「輝臣像」を欲したために、陽咸二へブロンズ制作を依頼したものだろうか。だが、これも不自然で少々考えにくい。
『ひるね』の顔をよく観察すると、骨格がしっかりしてかなり頭蓋がタテにのびはじめており、どうしても1~2歳児には見えず、幼稚園に通いはじめそうな4~5歳の子どもに見えるのだ。1929年(昭和4)に、陽咸二が長男・輝臣を写したスケッチも残されているが、当然、丸顔で頭蓋の骨格はいまだ未発達で伸びてはいない。
もうひとつ不思議なのは、「輝臣像」には『ねむり』とタイトルを付けているにもかかわらず、なぜ池田家には『ひるね』として譲渡しているのだろうか。以前の記事では、彌智子の死を直接的にイメージする『ねむり』では具合が悪いので、米子(池田家)に納めるときにはあえて『ひるね』と改題したのではないかと想定したが、実は『ひるね』のタイトルが先で『ねむり』があとなのではないか、くだんの石膏像は1930年(昭和5)よりも以前に造られていたのではないか、そしてなによりも『ひるね』の背面には「昭和三年 夏日いる(鋳る)」と陽咸二の手で記載されているではないか、なぜ彼は原型の石膏像を2年もあとにスライドさせて制作したことにしているのか?……などなど、わたしの妄想物語は際限なくふくらんでいくので、このあたりで止めておきたい。なにか、新しい資料か新事実でも見つかれば、改めて書いてみたいテーマだ。
さて、陽咸二の展覧会で楽しかったのが南京豆(ピーナッツ)細工Click!だ。制作から90年以上が経過しているにもかかわらず、色彩が鮮やかに残っていること自体が驚きだった。面白いのは、誰でも南京豆芸術にチャレンジできるよう、あらかじめ陽咸二が選んだ面白い形状のピーナッツを詰めた、「南京豆細工製作材料セット」までが用意されていたことだ。おそらく、全国のデパートや展覧会場で、南京豆芸術作品と材料セットは大いに人気を集めたのだろう。現代のわたしでさえ、ちょっと欲しいなと感じてしまう楽しい小物アートだ。
同展の図録には、陽咸二が書いた原稿やその思い出などが綴られた友人たちの追悼文(以前こちらでご紹介したものも含む)が、まとめて掲載されているので、彼の芸術観を知るうえでは恰好の資料となっている。ぜひ取りあげてみたいのだが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:1926年(大正15)ごろに、『アラビアンナイト』のレリーフを制作する陽咸二。彼の本業(?)である本格的な彫刻作品は、いまでも宇都宮美術館Click!から入手可能な『陽咸二-混ざりあうカタチ』展の図録を参照していただくとして、ここでは彫刻以外の作品群を優先的にご紹介したい。(写真は『ひるね』を除き同展図録より)
◆写真中上:上は、1921年(大正10)に『去年の習作』を制作中の陽咸二。髪が胸まであり、まるで1970年代のヒッピーのようなスタイルだ。中は、1920年代制作の陽咸二『男女灰皿』。下は、1929年(昭和4)に『降誕の釈迦』を制作する陽咸二。
◆写真中下:上は、1929年(昭和4)に長男を描いた陽咸二のスケッチ『輝チャン』。中は、1930年(昭和5)に制作(?)された石膏型『ねむり』。下は、池田家に保存されていた彌智子像とみられる1928年(昭和3)夏の年紀が入る陽咸二『ひるね』。
◆写真下:上は、大正末から昭和初期に制作された陽咸二『福来雛』。中は、1928~1935年(昭和3~10)ごろに制作されたとみられる大人気だった陽咸二「南京豆細工」シリーズ。下は、同時期に制作された愛好家のための陽咸二「南京豆細工製作材料セット」。