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佐伯祐三『墓のある風景』を細覧する。 [気になる下落合]

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 1926年(大正15)9月22日に、佐伯祐三Click!が描いた『墓のある風景』(20号)とみられる、連作「下落合風景」Click!の1作だ。(冒頭写真) 以前にも、取りあげているが画面を観たとたん、ひと目で描画場所がわかったので、詳細な解説をしないままになっていた。きょうは、少し詳しく画面に描かれたモチーフについて書いてみたい。
 左側に連なって見えているのは、薬王院の墓地(旧・墓地)Click!の周囲に築かれている塀だが、1878年(明治11)に同院が御留山Click!の西側から移転した際には、いまだこの塀は存在していなかったろう。簡単な垣根か、あるいは生垣で囲まれていたのかもしれない。明治期あるいは大正初期の地形図を参照しても、墓地の記号はあるが塀の記号は記載されていない。旧・墓地には、江戸期に建立されたとみられる五輪塔や蘭塔(卵塔)Click!、宝篋印塔などの墓、月三講社(富士講)Click!の碑なども見られるが、現在地へ移転する際に改葬あるいは移設しているとみられる。
 描かれた塀の上に長く伸びているのは、わたしが子どものころまで異様に長かった、追善供養のための卒塔婆だ。いまでも塀の上には、卒塔婆がいくつかのぞいているが、木材価格が高騰し資源保護がいわれるようになってから、その長さは半分以下に短縮されている。画面の卒塔婆は、塀沿いに建立された墓石の背面あるいは側面に立てられているものだが、現在でもそれは変わらない。佐伯祐三は、薬王院の旧・墓地にめぐらされた塀沿いの二間道路上で、北から南を向いて『墓のある風景』を描いている。
 墓地をめぐる塀は、一見コンクリート製だが、実は中身=“芯”になっているのは昔ながらの土塀で、しかもかなり幅が薄いものだ。おそらく、大正半ばごろから設置されている塀で、1923年(大正12)に作成された1/10,000地形図から、それらしい記号(太実線)を確認することができる。現在は、古い塀の上から新たなコンクリートが薄めに吹きつけられているが、塀が大正期のままだった数年前までは、古いコンクリートの割れ目や剥脱した部分から、“芯”になっている土塀が顔をのぞかせていた。
 旧・墓地をめぐる塀は、当時は最先端の工法だったコンクリートで塗り固められてはいたが、幅の薄さから倒壊を防ぐために、塀の裏側へ三角形をしたコンクリートの控え壁を密に設置している。また、薄い壁なので柔軟に形状を変えることができたせいか、旧・墓地の南側へ下る「下水道階段」Click!のある斜面では、独特な丸みをおびたアールのデザインが施されている。数年前に行われた補修では、大正期の意匠を残したまま表面をコンクリートの薄い膜で覆う工法が採用されたようだ。
 塀に沿って左の道端に建てられているのは、手前が変圧器の載った電力線Click!の電柱で、奥が当時は多かった電球がむき出しの大型の街路灯だろう。墓地の近くで寂しい風情ということもあり、夜になると周辺は闇に包まれて住民には物騒なため、目白通り沿いに見られるのと同じ仕様の、大きくて明度の高い街路灯Click!が設置されていたと思われる。現在では、手前の電柱と街路灯が統合され、住宅地によく見られる小規模な蛍光灯ないしはLEDの街灯ではなく、やはり大正期と同様に大きめな道路に設置される、明度の高いナトリウム灯ないしは水銀灯が設置されている。
 道路の右手に建つ家は、当時は多かった日本家屋の2階家で、佐伯が歩いた当時は建設されて間もない時期だったろう。外壁に腐食防止のクレオソートClick!を塗ったらしい、モノクロ画面では黒っぽく見える住宅は下落合811番地の東嶌邸(1960年現在)で、画面右手(西隣り)の枠外には2軒並びで建てられた代々木邸(同)があるはずだ。
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 大正末の同時期に、一帯の敷地へ建てられたとみられる2階家の日本家屋は、佐伯祐三の描画ポイントから60mほどのところに、戦前戦後を通じて同一の方が住まわれているT邸として、いまでもそのまま見ることができる。佐伯が「散歩道」Click!にしていた、薬王院の北西側一帯は空襲の被害を受けておらず、わたしの学生時代には『セメントの坪(ヘイ)』Click!に描かれた家々Click!を含め、大正期からの風情が残っていた。
 また、描かれた東嶌邸の陰から、旧・墓地に面した道路側にチラッと見えている、2階家の屋根とみられる庇(ひさし)は、佐伯が描いた当初から戦後まで、一貫して飯沼邸だ。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)によれば、住人の飯沼一省は内務省に勤めた内務書記官で、『落合町誌』の当時は大臣官房都市計画課長だった。
 また、右手前(北隣り)の空き地は、そろそろ普請がスタートする下落合802番地の寺井邸の建設予定地だ。同予定地や東嶌邸の道路沿いを観察すると、新興住宅地によく見られる敷地境界の縁石(大谷石)とともに、下水溝(側溝)Click!とみられる大谷石Click!ないしは花崗岩製の構造物が設置されているのがわかる。
 左手の塀の上に突き出た、墓地の南側に建っている住宅1棟の2階部分が見えているが、下落合820番地の秦鎌太郎邸だろう。秦邸は、昭和期に入ると転居したのかネームが見あたらず、また地番も下落合2丁目819番地(現・下落合4丁目)に変更されて、同じ敷地には伊藤邸が建設されている。画面に描かれた、塀の上に見えている秦邸の2階部が、ちょうどのちの昭和期に伊藤邸が建設されるあたりだ。
 『墓のある風景』の道を、そのまま真っすぐ進むと50mほどで広い空き地に出る。赤土がむき出しの、新たな宅地造成が進められている久七坂Click!沿いの敷地だが、目白崖線のちょうど丘上にあたる眺めのいい一帯だ。ここに家を建てれば、新宿駅の東西一帯が見わたせる絶好の眺望をうたえる宅地開発のはずだった。だが、この広い住宅地の開発は、なぜか昭和10年代になってもまったく進まなかった。1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲の直前、米軍の偵察機F13Click!によって撮影された空中写真にも、大きめな屋敷がわずか2棟しか建設されておらず、残りは原っぱのままだった。
 佐伯祐三は、赤土がむき出しの広い空き地に出ると、まずは眺望を確認するために崖線の淵に立っただろう。丘上から、1段下に造成された広い敷地には、巨大な赤い屋根を載せた池田邸Click!が建っていた。住民の池田常吉は、掲載を断ったものか『落合町誌』には収録されていないが、明治末まで台湾銀行の支配人だった人物だ。佐伯は、この丘上から池田邸のフィニアル(鯱)が載る赤い大屋根を描いたとみられる「下落合風景」を残しているが、1926年(大正15)10月1日の『見下シ』Click!(20号)が相当するだろうか。
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 佐伯は、この広い造成地を横切ると、久七坂沿いの道へ出るのが「散歩道」のコースだったようだ。そして、久七坂筋を北上する途中で描いたのが、1926年(大正15)9月20日の『散歩道』Click!(15号)だ。さらに、その先には曾宮一念アトリエClick!の前にある谷戸の諏訪谷Click!が口を開けているが、同日の午前(?)に『曾宮さんの前』Click!(20号)を描いていることでも、佐伯がよく歩いた散歩コースが自ずと透けて見えてくる。
 すなわち、佐伯祐三が1日に風景モチーフのタブローを2種類(おそらく彼の制作法から作品枚数的にはもっと多いと思われる)仕上げている日には、かなり近接した下落合の街角風景を描いている可能性の高いことがわかる。これは、散歩の途中で気に入った風景モチーフを複数箇所見つけるからだと思われ、『墓のある風景』と同日の午後(?)には『レンガの間の風景』(15号)が制作されている。しかし、現存する佐伯の「下落合風景」シリーズには、それに相当する画面が存在していない。
 「制作メモ」Click!を参照すると、同じ日に近接した風景を描いた例としては、上述の1926年(大正15)9月20日に制作された『曾宮さんの前』と『散歩道』のほか、9月19日の『原』Click!(15号)と『道』Click!(15号)、9月28日の『八島さんの前通り』Click!(20号)と『門』Click!(20号)、9月29日の『文化村前通り』Click!(20号)と『切割』Click!(20号)、10月21日の『八島さんの前』Click!(10号)と『タテの画』Click!(20号)、10月23日の『浅川ヘイ』Click!(15号)と『セメントの坪(ヘイ)』Click!(15号)などが挙げられ、いずれもごく至近距離の描画ポイントで風景を同じ日に描いている。
この画面は、8月以前に描かれていた同作Click!とは別画面とみられ、曾宮一念が常葉美術館で観た40号の画面Click!を含め、バリエーション作品ではないかとみられる。
 佐伯がたどる散歩コースにおける、制作の特長や性癖のようなものが垣間見える気がするけれど、『墓のある風景』と同日の9月22日に描かれた『レンガの間の風景』は、いったいどこを描いたものだろうか。前者は20号で、後者は15号とキャンバスのサイズが異なっているので、佐伯祐三は一度アトリエにもどって昼食を食べたあと(?)、再び15号のキャンバスを手に『レンガの間の風景』の描画ポイントに向かっていると思われる。わたしが1970年代から見てきた実景では、空襲から焼け残った『墓のある風景』周辺の住宅街に、レンガ造りの邸宅、あるいはレンガの塀をめぐらした住宅は記憶にない。
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 ひょっとすると、大邸宅が建ち並んでいた久七坂Click!が通う目白崖線の斜面に、レンガ造りの塀でも連なっていたのだろうか。それは、赤い屋根にフィニアルが載る池田邸のものだったかもしれない。これまで、佐伯作品を観てきたわたしの勘では、薬王院近くの風景のように感じるが、どなたか久七坂の古い風情をご存じの方がいればご教示いただきたい。

◆写真上:1926年(大正15)9月22日の制作とみられる、佐伯祐三『墓のある風景』。
◆写真中上は、2葉とも塗りなおされる前に撮影した薬王院の剥脱した塀の内部。中上は、幅の薄い塀を支える墓地内部の控え壁。中下は、墓地南側の斜面にある塀は独特なアールデザインが採用されている。は、旧・墓地に残る江戸期の五輪塔や蘭塔(卵塔)、宝篋印塔で、周囲の卒塔婆が佐伯の時代に比べかなり短くなっている。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる『墓のある風景』の描画ポイント。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる描画ポイント。中下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイントで、空襲の被害をまぬがれた住宅街が拡がっていた。は、塀が塗りなおされる前に撮影した薬王院の塀沿い。
◆写真下は、佐伯が描いた家とほぼ同時期に建てられた現存するT邸。は、薬王院周辺の佐伯祐三が描いたタブローと描画ポイント。は、『墓のある風景』の現状。右手のベージュ外壁に赤い屋根の邸が、佐伯が描いた下落合811番地の東嶌邸跡。
おまけ
 大正期の下落合で多く見られた、宅地造成による下水溝(側溝)の痕跡。住宅敷地を大谷石による縁石で囲み、下水用の側溝には花崗岩またはコンクリートなどの蓋で覆われていた。
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