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大黒葡萄酒の隣りにあった石倉商店工場。 [気になる下落合]

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 先年、大型マンションの建設で寮棟×4が壊されてしまったが、学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)の南側のバッケ(崖地)Click!下、下落合10番地(のち下落合1丁目20番地)に、包帯やガーゼ、脱脂綿など医療分野の衛生商品を製造する石倉商店工場が操業していた。東隣りには、甲斐産商店Click!大黒葡萄酒壜詰め工場Click!(現・メルシャンワインClick!)が建っていた位置にあたる。
 なぜ石倉商店工場が気になったのかというと、下落合の旧・神田上水沿いに建てられた規模が大きめな工場の中でも、石倉商店はもっとも早い時期に進出してきているのではないかと考えられるからだ。同社が残した沿革記録によれば、下落合に工場を建設したのは1912年(大正元)となっているが、地元で刊行された『落合町誌』(落合町誌刊行会)によれば1911年(明治44)設置と記載されている。この齟齬は、おそらく工場の進出・建設時期と、実際に生産拠点を移転し操業を開始した時期との差によるものだろう。明治期における石倉商店の本店は、日本橋大伝馬町2丁目5番地にあった。
 石倉商店について、1907年(明治40)に東京模範商工品録編纂所から刊行された、『東京模範商工品録』掲載の事業紹介より引用してみよう。
  
 石倉商店が繃帯材料の販売を始めしは、明治二十六年の頃にして、其の当時にありては、需要微々として振はず従て本業を営むものも都下に於て僅かに四戸に過ぎざる有様なりしも店主石倉次郎(ママ:治郎)氏は本業務の前途光望なるに嘱目するが故に敢て意に介することなく、研究に研究を重ね一念品質の改良に留意し努めて止むことなかりしが故に品質は益々好良に趣くと共に、世上の進歩に伴ひ漸次繃帯材料の需要は増加したるを以て、業務は年と共に隆昌を告げ販売力は同業者中にありて第一位を占むることゝなれり、今ま(ママ)本商店の製品目を示せば左の如し/第三改正日本薬局法/硼酸綿/石炭酸綿/精製綿/昇汞綿/ヨードフオルム綿/サリチール酸(ママ:サルチール酸)綿/止血綿/硼酸ガーゼ/精製ガーゼ/昇汞ガーゼ/ヨードフオルムガーゼ/サルチール酸ガーゼ(カッコ内引用者註)
  
 文中には製品として書かれていないが、石倉商店の“本業”は各種包帯づくりだったとみられ、別項目で「繃帯材料一式」と書かれている。上記の紹介文には、綿とガーゼばかりが挙げられているが、それらが明治末の販促製品だったのだろう。
 また、文中では「明治二十六年の頃」としているが、石倉商店は、1887年(明治20)に石倉治郎の創業により、製造工場を高田村高田384番地に設置している。神田川北岸の、いわゆる河川敷で砂利場Click!と呼ばれた地域にあたり、現在の根性院Click!の西南西に位置する豊島区高田1丁目だ。このときは、いまだ法人化されておらず、1911年(明治44)に合名会社化するとともに、下落合10番地の広い敷地へ工場を新設して移転してくる。
 『落合町誌』には詳しく書かれていないが、昭和初期までに石倉商店が製造する医療・衛生製品の品質が高かったものか、東京で開催された博覧会で何度か表彰されている。1922年(大正11)の平和記念東京博覧会(昭和初期の同社沿革には「大正十五年」と誤記)では銀牌を、1928年(昭和3)の大礼記念国産振興東京博覧会では優良国産賞牌を、1931年(昭和6)の第3回化学工業博覧会では有巧賞をそれぞれ受賞しており、医療・衛生製品の分野ではいずれも最高賞だと同社資料には誇らしげに書かれている。
石倉商店工場(高田村高田).jpg
石倉商店工場1926.jpg
石倉商店工場跡.jpg
 石倉商店は、昭和に入りどのような事業を行っていたのだろうか。1932年(昭和7)刊行の『落合町誌』から、石倉合名会社についてその一部を引用してみよう。
  
 偶々(明治)二十八年戦役に軍需品として採用され、爾来品質の改良不断の努力を続け三十七八年戦役に再び納品の光栄に浴すると共に、衛生思想の向上に伴ひ益々製品の真価を世の認識する処となり、遂に外国製品を全く駆逐するの域に達した、而して同四十四年組織を合名会社石倉商店と改め経営の合理化を図り、工場を現位置落合に移し、設備を拡充すると共に多量生産に拠る生産費の低下に鋭意し、欧州大戦には三度軍需品納入の御用を仰付られ、軍需品並に一般医療用衛生必需品の海外輸出を開始し戦後も輸出を持続して好評を博し、漸次輸出量を増加しつゝあり以て今日帝都業界のオーソリチーとして、自他共に許す商運を招来するに至つた。(カッコ内引用者註)
  
 『落合町誌』は、「人物事業編」に紹介されている人物や企業からは、いくばくかの出版協賛金を集めていたと思われるので、歯の浮くような美辞麗句や阿諛追従の表現が目立つが、石倉商会の上記紹介文はほぼ実情に近かったのではないかと思われる。日清・日露の両戦争で、陸軍に衛生材料を大量に納品したのが、事業の発展・拡大する大きなきっかけとなったようだ。第1次世界大戦でも陸軍に納品し、戦争で医療品が極度に不足していたヨーロッパ諸国にも輸出しているとみられる。
 大正末から昭和初期にかけ、陸軍が各地に設置していた衛戍病院をはじめ、東京帝大や慶應大など主要大学医学部の附属病院、鉄道省をはじめとする官公庁の各病院、台湾や樺太の公立各病院、全国の自治体や日本赤十字社が運営する各病院、大手企業の付属病院や付属医院などへ製品を納入している。下落合の工場も拡張をつづけ、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、東隣りの大黒葡萄酒壜詰め工場よりも、約3倍ほどの規模となっていたのがわかる。工場の従業員も、1936年(昭和11)の時点で70名を超えていた。
片多徳郎「風景」1934.jpg
石倉商店工場1936.jpg
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 ちょっと余談だが、細い道路をはさみ石倉商店工場の西隣りには、山本螺旋(ネジ)合名会社の工場が操業していたが、1935年(昭和10)前後に工場建屋のリニューアルか、あるいは事業の変更による生産ラインの再整備からか、既存の建屋がなくなり敷地全体がしばらく空き地状態になっていた。1930年(昭和5)ごろまでつづく、世界恐慌の影響による事業の縮小・再編なのかもしれないが、1936年(昭和11)の空中写真でも、いまだ敷地の東半分が空き地のままとなっている。
 その空き地にイーゼルを立て、東北東を向いて23.5×33.0cmの小さめな板キャンバスに向かっていたのが、下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)から長崎東町1丁目1377番地(現・豊島区長崎1丁目)へ転居Click!したばかりの片多徳郎Click!だ。彼が名古屋の寺で自裁する直前、絶筆といわれる1934年(昭和9)に制作された『風景』Click!には、石倉商店工場とみられる赤い屋根の建屋群が描かれている。学習院昭和寮Click!のバッケ(崖地)下、奥に見える青い屋根の建屋が甲斐産商店(大黒葡萄酒壜詰め工場)で、手前の南北に長く描かれた建屋が石倉商店工場ではないかとみられる。
 さて、1936年(昭和11)の空中写真が撮影された時期、石倉商店は陸軍ばかりでなく海軍への納入も計画している。1936年(昭和11)2月に、海軍大臣・大角岑生あてに提出された「海軍購買名簿登録願」が国立公文書館に保存されている。同願書には、経営明細書をはじめ、会社の登記簿謄本、貸借対照表(1934年決算書)、最新の製品カタログ、第三者機関の帝国興信所による詳細な報告書などが添付されている。ちなみに、この時期には初代の経営者・石倉治郎から、2代目の石倉長三郎に事業が受け継がれていた。
 おそらく、海軍が2月に予定する登録審査会に間にあうよう願書を提出したらしいが、登録審査は次回への持ちこしとなった。つづけて、同年6月にも審査会が開かれるが、やはり審査は次回まで持ちこしとなっている。持ちこしの理由は不明だが、海軍には企業によるさまざまな登録願書が提出されていたとみられ、審査を行う以前に時間切れとなったか、あるいは書類に不備があり追加で提出を要請したのだろう。
 同年10月の再々登録審査で、石倉商店は最終的に「否決」されてしまう。否決の理由が書かれていないので詳細は不明だが、おそらく海軍は陸軍に比べて将官や兵員の数が少なく、すでに衛生材料や医療品の納品業者が飽和状態だったのではないだろうか。この時期、陸軍の兵員数が約30万人なのに対し、海軍は約7万人とキャパシティが大きく異なっていたせいもあるのだろう。石倉商店は、1936年(昭和11)に一度だけ願書を出しただけで、その後は再び提出していないようだが、日米戦が近づくにつれ国家総動員体制のもと、企業統合が進んだ時点では海軍にも製品を納入していたのではないだろうか。
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製品案内パンフ1.jpg
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 石倉商店工場は山手大空襲Click!で壊滅したが、戦後は事業を再開し1960年(昭和35)に作成された「全住宅案内図帳」にも、大黒葡萄酒工場とともにネームが採取されている。だが、1969年(昭和44)には高田馬場住宅Click!が建設されているので、その間に大黒葡萄酒の下落合工場とともに移転したか、あるいは合併・吸収などで消滅しているのだろう。

◆写真上:石倉商店が工場で生産していた包帯やガーゼ、脱脂綿などの医療製品。
◆写真中上は、1907年(明治40)に撮影された法人化前の高田村高田384番地にあった石倉商店工場。は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる石倉商店工場。は、高田馬場住宅の西側敷地にあたる同工場跡の現状。
◆写真中下は、1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『風景』(部分)。南北に長い、赤い屋根の建屋群が同工場ではないかと思われる。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同工場。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同工場。
◆写真下は、1936年(昭和11)に海軍大臣あてに提出された「海軍購買名簿登録願」。は、2葉とも石倉商店の製品パンフレット。は、海軍審査会の「否決」決定書類。
おまけ
 1945年(昭和20)5月17日に米軍の偵察機F13Click!によって撮影された、第2次山手空襲Click!(5月25日夜半)の1週間前の空中写真が残されている。同写真を観察すると、石倉商店工場は近隣の工場群とともにいまだ焼けておらず、幾重にも密集した細長い工場の建屋が確認できる。したがって、同工場が焼けたのは5月25日夜半の第2次山手空襲だろう。
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