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たぶん陽咸二と千家元麿はいとこ同士。 [気になる下落合]

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 わたしは小学生のとき、親父の千代田小学校Click!(現・日本橋中学校Click!)時代の同窓生で、たぶん評判の美少女だったのだろう、江戸東京ではもっとも優れ洗練された柳橋Click!芸者Click!になった女子の、引退式Click!に連れられていったことがある。引退式が開かれたのは、大川(隅田川)に面していた広い座敷だったので、大きな料亭「柳水亭」か「亀清楼」Click!だったと思うのだが、親父に料亭の名前までは訊かずじまいだったので確証はない。日本橋側から柳橋Click!をわたって、すぐの料亭だったような気がする。
 その後、柳橋の料亭の歴史について知りたくなり、親父の書棚にあった成島柳北や互笑会などが編著した多彩な書籍類に馴染んだのだが、柳橋で「青柳」という料亭は聞いたことがない。「青柳」といえば東両国、つまり柳橋とはちょうど大川をはさんで対岸(本所側)の斜向かいにあった、江戸期から有名な旅籠も兼ねた高級料亭だ。大橋(両国橋)東詰めにある、同じく江戸期からつづく「ももんじ屋」Click!の南並びにあたる位置だ。
 江戸期より、大橋(両国橋)Click!は東詰め(本所側)の一帯を「東両国」、また反対に西詰めは日本橋側(米沢町や薬研堀Click!、元柳町など)の一帯を「西両国」と呼びならわしていたので、「東両国の青柳」がいつの間にか「西両国の青柳」と誤伝され、後世になって「柳橋の青柳」になってしまったのかもしれない。この「西両国」「東両国」という呼称は、江戸と下総の両国を結ぶ「両国橋」が、川向こうの下総を江戸に編入し「大橋」と呼ばれるようになったあとも活きていたので、かなり古い地域表現の可能性がある。
 なぜこんなことを書くのかといえば、先日、藤岡美和様よりご招待いただいた「陽咸二 混ざりあうカタチ」展Click!図録(宇都宮美術館)の年譜に、陽咸二Click!の母親・陽きちについて「柳橋の料亭『青柳』を営んでいた小川源次郎の四女」と書かれていたからだ。小川源次郎が経営していたのは、東両国(本所側)の高級料亭「青柳」であって柳橋ではない。「青柳」は、安藤広重Click!が『江戸高名会亭尽 両国 青柳』に取りあげるほど、大江戸(おえど)Click!でも屈指の超高級料亭だった。
 もっとも、1922年(大正11)10月22日付け「万朝報」に、「逆境に超然たる若き芸術家/柳橋の旗亭青柳の娘さんを母として生れた陽氏」を書いた記者が、江戸東京に土地勘のまったくない人物だった可能性もありそうだ。いつだったか、柳橋のことを「浅草」と書いてトンチンカンな江戸東京の食レポを書いた博文館の記者の記事Click!をご紹介したけれど、東両国の本所にある料亭のことをどうまちがっても「柳橋の~」とは呼ばない。陽咸二が、大橋(両国橋)のたもと(詰め)にある料亭「青柳」と表現したのを、記者が勝手に柳橋と勘ちがいしてしまった可能性もあるだろうか?
 ここで面白いのは、小川源次郎の長女で女流画家として有名だった小川とよ(豊)と結婚(東京における夫人に)した人物は、出雲王家の末裔で東京府知事もつとめた、ここでも何度かご紹介している千家尊福Click!だった。そして、1888年(明治21)に生れたのが、落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)に住んだ千家元麿Click!だ。また、「青柳」の四女・小川きちと結婚したのが陽其二であり、1898年(明治31)に出生したのが陽咸二Click!だ。つまり、千家元麿と陽咸二は10歳ちがいのいとこ同士ということになる。詩人と彫刻家のこのふたり、どこか(特に小川家)で顔をあわせてやしないだろうか? 千家元麿の関連資料に、陽咸二の名が登場している気もする。そうなると、佐伯夫妻Click!とも知己ということで、陽咸二がさらに落合地域へ“近づく”ことになるのだが……。
 さて、陽咸二が特異な存在なのは、文展・帝展に毎年入選しつづけ、1922年(大正11)の第4回帝展に出品した『壮者』で特選を受賞しているのをはじめ、それまで数々の受賞歴があったにもかかわらず、まったくそれらに拘泥せず、表現法や表現メディアも含め常に変化をしつづけていった芸術家だという点だ。現代の感覚では、常に進化しつづける美術家=コンテンポラリー・アーティストは別にめずらしくないが、当時の日本ではほとんど見かけない稀有な存在だった。上記の図録より、陽咸二の芸術観がよく表明されている遺稿(執筆年不詳)から、少し長いが引用してみよう。
  
 日本の若い彫刻家の多くが、或る一定の一ツの表現様式<スタイル>の様な物を持て居る、持ちたいと願て居る。そして持て居る人はそれをほこって居る。持たない者は持つことにあせって居る。こうして若いくせに小さな世界に安住して仕舞ふ。(中略) 色々な表現様式が有るのを知らないかの様に又そう云ふことをするのを恐ろしい事の様に、賞を頂戴するまでは色々の事をやって居るが、その内のどれかが特選にでもなると、さあ大変だ、それが自分のスタイルだと思って仕舞ふらしい。其后は毎年同じ様な所に同じ様な作品を発表する。そうすると又不思議に、それにも同じ様に特選をやる。こんな事を三・四年辛棒(ママ:辛抱)づよくくりかえしくりかえし(中略)やって居ると、ついに院賞を下さる。つまり彼の辛棒強さを推賞(ママ:推奨)するので在る。そうすると新進の作家達が「なる程、辛棒がかんじんだわい」と思込む。(中略) それも毎年少しずつでもよくなって居るなら、又思い様もあらふが大体は始めの方がよくって後のは始めの様な熱も無く其だ(惰)勢の様な物だに過ぎないと思ふ程。(カッコ内引用者註)
  
去年の習作1921.jpg
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広重「江戸高名会亭尽 両国 青柳」拡大.jpg
構造社第4回展「綜合試作・記念碑運動時代」1930.jpg
 この文章は、およそ100年後の現在でもそのまま当てはまるだろうか。時代は移り、社会は変わり、生活環境が激変しているにもかかわらず、「五十年一日」のごとくなんの変わりばえもしない、昔ながらの表現法や表現手段を踏襲している“現代”の展覧会を観たりすると、平凡で退屈で、死にたくはならないが会場で午睡したくなる。別に彫刻に限らない、絵画も音楽も演劇もまったく同様だ。
 新派の舞台Click!で、「いっそ、私には死ねといってください」Click!などといわれても、21世紀の今日では「古っ! いつまで同じことやってんだい」としか感じないし、1960年代後半のモードJAZZやBeatlesのそっくりサウンドを奏でるバンドが現代に出現しても、個人的な趣味・娯楽の好き嫌いな世界は別として、音楽的にはまったく意味がない。
 ところが、絵画や彫刻の世界では、案外それが「辛抱」を前提にまかり通ってしまうから不思議だ。陽咸二の上掲の文章は、彫刻に限らず芸術全般についての認識、および自身の制作姿勢(思想=芸術観)について語っているように思える。のちに、彼は構造社のパンフレットで、「作風が常に流動して居る内は進歩して居りますが固定した形式が出来上つた時は進歩の停止した時です」(1931年)とも書き残している。
 陽咸二の仕事が、がぜん面白くなるのは東京美術学校の仲間たちと、「絵土爛社」を結成する1923年(大正12)あたりからだろうか。社員には、下落合1599番地の落合第三府営住宅Click!に住んでいた江藤純平Click!や、下落合414番地の近衛町Click!に住む島津良蔵Click!と「島津マネキン」を創業する荻島安二Click!らがいた。特に荻島安二は、目白文化村Click!中村邸Click!において、暮らしの中の彫刻を実践した人物として知られている。同社は、神田の文房堂Click!で展覧会を開いたようなのだが、その詳細は不明らしい。
 また、陽咸二は同年に趣味家集団「日本我楽他宗」へ“入信”し、彫刻に限らず多種多様な表現法による作品を生みだす契機になっている。陽咸二は、我楽他宗を主催した三田(林蔵)平凡寺に対し、「第二十二番札所 横臥山夜歓寺」と名のり、同宗の“信者”で趣味人だった侯爵・松平康荘の邸内で撮影された記念写真も残っている。また、1926年(大正15)には日名子実三Click!や雨田光平らの「構造社」に参画すると、彫刻家・河村目呂二らと親しくなり作品の幅を大きく拡げていったようだ。
 「陽咸二 混ざりあうカタチ」展図録に掲載された、河村目呂二の子孫にあたる内山舞『思い出の系譜~曽祖父 河村目呂二のこと』から引用してみよう
我楽他宗記念写真1924.jpg
仔猫1923.jpg
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 美校卒業後の大正時代から昭和初期の活動で特にユニークなのは、日名子実三らとの構造社、三田平凡寺の我楽他宗、武井武雄とのジャズ・マニアだが、その内、構造社と我楽他宗において陽咸二と活動を共にした。しかしその交流の頻度や密度がどれほどだったのか、一回り年下の、自分と同様に型にはまらないこのクリエーターを目呂二がどんな風に思っていたのか、まだ記録が見つからず詳細はわかっていない。ただ、数多の書簡の束から陽のハガキをピックアップし、わざわざスクラップブックに貼り付けてあることを考えると、陽の才能と人物に一目も二目も置いていたであろうことは想像に難くない。/どちらも奇人として当時の世間を騒がせていたようだが、陽咸二に漂う無頼の匂いに対し、目呂二のそれは人を喜ばせるための道化であったように思う。彫刻の社会性や建築化を志向する構造社に在って、愛する猫や人形が醸し出す「可愛らしさ」や「儚さ」を一貫して追求しているのも目呂二らしい。
  
 文中に武井武雄Click!が登場するが、「ジャズ・マニア」はサイクリング愛好会「JAZOO MANIA」のことだと思われるが、ちなみに当時の「ジャズ(JAZZ)」は時代的にみてニューオリンズ、ないしはデキシーランドの元祖的な黒っぽいJAZZだったろう。武井武雄Click!の絵にも、同JAZZの演奏らしい行列表現が見られる。河村目呂二は陽咸二の死後、第10回構造社展(1937年)の展覧会パンフレットに「趣味人陽さん」という文章を寄稿しており、かなり親しい付き合いだったことがうかがえる。
 「趣味人」としての陽咸二Click!については、ずいぶん前にも触れているが、その一端を上記の第10回構造社展パンフより、濱田三郎『陽君の芸術』から少し引用してみよう。
  
 其の多趣味性は天啓のものであつた。市井の諸事は何事にもあれ最も興味と感激を以て探究し、芝居道を論じ落語を語り、華道に明るく、日本画を描き玩具を作り、朝顔の大輪咲きに鼻を高くし、釣魚に星を戴いて家を出で、麻雀に夜の更くるのを知らず、酒に酔えば流行歌の王たり、駄洒落と軽口と悪口とは陽君得意の独断場であつた。あらゆる自然の物象を遊戯化した江戸時代浮世絵芸術家と其の点相似たところがある。この「趣味」の魔法の手箱の中から易々と陽君の彫刻がとり出されて居るのである。
  
 どこか、尾張町(銀座)育ちの岸田劉生Click!と同じような江戸東京の匂いClick!がするけれど、劉生が腹を立てたときに出る東京弁下町方言Click!の上品な商人言葉ではないしゃべりClick!と、陽咸二がふだんから話す(城)下町Click!方言は、よく似ていたのではなかろうか。
薬缶と湯呑之図1924-30.jpg
陽咸二「和藤内」9代目成田屋1924-1930.jpg
陽咸二「コレクトマニア」創刊号1930.jpg 「陽咸二-混ざりあうカタチ」展図録.jpg
 電車に乗ろうとするとき、きれいな女子を見かけると秋子夫人を置き去りにして、サッサと追いかけては車両に乗りこみ、彼女の真ん前に座って楽しそうにしていたなど、陽咸二に関するエピソードを書きはじめるとキリがない。柳橋の芸者になった、同級生の美しい女子(だったはず)の引退式へ、母親を放りだしわたしを連れて駆けつけた下戸の親父にしても、どこか共通する性格があるように思われるけれど、きょうはとりあえず、このへんで……。

◆写真上:1924年(大正13)に撮影された、『閨怨歌曲』を制作する陽咸二。
◆写真中上は、1921年(大正10)撮影の『去年の習作』を制作する陽咸二。1970年(昭和45)前後に、新宿駅前でギターを弾いてそうな風体だ。は、1835~1842年(天保年間)に安藤広重の連作『江戸高名会亭尽』のうち「両国 青柳」()とその拡大()。屋形へふたりの柳橋芸者が乗りこむところで、「青柳」から仲居が料理を運んでいる。は、1930年(昭和5)開催の構造社第4回展の綜合試作『記念碑運動時代』。
◆写真中下は、1924年(大正13)に松平康荘邸で開催された我楽他宗の記念写真。陽咸二は後列の右から4人目で、中列の右端には河村目呂二が見える。は、1923年(大正12)に制作された陽咸二『仔猫』。は、大のネコ好きだった河村目呂二が制作した多種多様な『まねきねこ』に囲まれてご満悦の目呂二本人。
◆写真下は、1924~1930年(大正13~昭和5)ごろに描かれた陽咸二『薬缶と湯呑之図』。「薬缶」は我楽他宗における陽咸二の名称「夜歓寺」にかけ、背後の「湯呑」を逆さに伏せているのはyou know me?(オレ、わかるでしょ?)のシャレのめしだと思われる。は、9代目・成田屋Click!を描いたとみられる陽咸二『和藤内』(近松『国性爺合戦』)。下左は、1930年(昭和5)制作の陽咸二がデザインした雑誌「コレクトマニア」創刊号。下右は、この春に宇都宮美術館で開催されたも「陽咸二 混ざりあうカタチ」展図録(2023年)。安藤広重の画面を除き、いずれも「陽咸二 混ざりあうカタチ」展図録(宇都宮美術館)より。

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