錯覚を生む地域や町の「表現」について。 [気になる下落合]
昔から、大西洋を真ん中にはさむメルカトル図法のマジックというのがある。同図法の地図で見ると、日本列島はいちばん右端(極東)の果てに小さく、そして幅が薄めに描かれていて、一見すると確かに「東洋の小さな島国」としてのイメージ(印象)が強い。
おそらくヨーロッパ人の感覚を、そのまま踏襲したとみられる上記のフレーズも、いまだに随所で見かける。たとえば、2018年(平成30)出版の野澤道生『やりなおし高校日本史』(筑摩書房)に、「そもそもポルトガル人は(中略)、東洋の小さな島国との貿易に、どんな魅力があったのでしょう」というような、いかにも定型的な表現が出てくる。
でも、実際に面積で比較してみると、ヨーロッパ諸国の中で日本よりも大きな国は、アジアにまたがるロシアは例外としても、フランスとウクライナ、スペイン、そしてスウェーデンの4ヶ国しかない。ヨーロッパ大陸へ、実際に日本列島のサイズをあてはめれば一目瞭然で、日本はかなり「大きな島国」ということになる。東西が合併し広大になったドイツでも、日本の94%の面積にとどまる。ザビエルが船出したポルトガルは、北海道よりもひとまわり大きいぐらいのサイズだ。最近、ヨーロッパからのインバウンドがやたら多いので、その昔ささやかれた「あんな小さな島国に、なんで新幹線が必要なの?」というような錯覚から、「意外に長くて広いんだ」と再認識されているのではなかろうか。
地理的な錯覚をもうひとつ挙げると、江戸期には無人島(ぶにんじま)と呼ばれた東京都の小笠原諸島は、昔から八丈島のもう少し先ぐらいの感覚で、いつか泳ぎに行きたいな……などと考えていたのだけれど、実際に出かけようとすると同じ東京都なのにとてつもなく遠いことに気づく。東京からはるか南へ1,000km、日本列島でいえば東京から九州を突きぬけ長崎県の五島列島あたりまでの距離に相当する。竹芝桟橋から定期航路の船足のやや速めなフェリー(「おがさわら丸」=約24ノット)に乗っても、たっぷり丸1日(24時間)はかかる距離なのだ。海が少し荒れでもすれば、もう少しかかるだろう。
余談めくが、史的な錯覚というのもある。後世の価値観から解釈する結果論的な眼差し、いま風にいえば典型的な“あと出しジャンケン”の解釈だ。よく大学の講義や研究などで「やってはいけない」戒めとして例示されるのが、マルクスの著作で「宗教は、なやんでいる者のため息であり、また心のない世界の心情であるとともに精神のない状態の精神である。それは、民衆のアヘンである」(『ヘーゲル法哲学批判序説』光文社古典新訳文庫)あたりだろうか。現代の感覚で解釈すると、「宗教は中毒性のある犯罪的でとんでもない危険な麻薬」だということになる。
だが、彼が生きていた社会状況を考えると、アヘンが「犯罪的でとんでもない危険な麻薬」でないことはすぐに見えてくる。マルクスと同時代の作家に、『クリスマス・キャロル』や『二都物語』のC.ディケンズがいる。彼の『エドウィン・ドルードの謎』には、アヘンが随所に登場している。アヘンは、街中のドラッグストアで売られる鎮痛剤・鎮静剤であり、タバコ屋や食料雑貨店、パブなどでも手軽に売られた嗜好品だった。強い酒を出すバーなどでは、店を出るときの酔い覚ましとして客に配られている。
21世紀の現代社会に置きかえれば、「宗教は……アスピリンである(上落合の尾崎翠Click!風にいえば「宗教は……ミグレニンである」)」、「宗教は……タバコあるいはアルコールである」ぐらいの、当時は習慣化すると薬物依存症になりかねない薬剤ないしは嗜好品……ほどの感覚だったろう。だが、上記のマルクスの記述を、後世の“あと出しジャンケン”的な視点で、「宗教は中毒性のある犯罪的でとんでもない危険な麻薬」などとご都合主義的に解釈し、宗教弾圧の口実にした国々や、社会をひっくり返しかねないマルクスを忌避するため、誤解釈をプロパガンダ化する思想弾圧の国家があちこちに存在した。
前置きが長くなったけれど、このような錯覚は落合地域でも見られる。いつか、地理的な錯覚のひとつに挙げた、別の地方の方がたまに口にする「小さな町内に、ずいぶんいろいろな人が住んでいたのですね」もその一例Click!だが、下落合を近くの山手線の駅名に引きずられて「目白」と表現するのも、あらぬ錯覚を生む素地となっているだろうか。ちなみに、現在の山手線・目白駅は従来の高田町金久保沢Click!にあり、大正期以前の本来の地名「目白」は、現在の駅から2km前後の東寄りのところだ。ちょうど、通称地名として用いられていた幕府の練兵場「高田馬場(たかたのばば)」が現在の駅(たかだのばば)Click!から1kmほど東寄りなのと同様で、山手線・高田馬場駅があるのは上戸塚また一部は諏訪町だ。
10年以上も前だが、下落合の中部・西部を取材しているとき、古くからお住まいの方々から「ここは下落合であって、中落合Click!や中井などではない」と何度となく聞かされた。同じ流れでいえば、いくら近くにある駅が目白駅であっても、下落合は「目白」ではない。地名を曖昧に扱ったり、安易に変更Click!したりすると、昔から連綿とつづいているその土地ならではの史的な経緯やアイデンティティまでが曖昧化・稀薄化し、また妙な錯覚や誤解を産むのは、別に江戸東京の(城)下町Click!に限ったことではない。
東京五輪1964前後の、「細かな町名は外国人に対して恥ずかしいしわかりづらい」などと、理由にもならぬ「自虐」的なコトバを吐いて、自国や地域の歴史・文化を考慮せず、また地方・地域のアイデンティティやコミュニティさえ踏まえずに、地名変更を強行した自治省の役人(その意識のほうがよほど「植民地根性」的かつ「売国」的で恥ずかしい)のおかげで、錯覚や誤解を生じかねない事態を招来している。1950年代以前の江戸東京の歴史を学びにきた外国人たちは、史料で学んだ地名や町名がどこにもないか、場所がまったくちがうのに困惑Click!し、それを探しまわることから始めなければならない。
佐伯祐三Click!の作品を多くコレクションし、その作品の大半を空襲で焼いてしまった大阪の山本發次郎Click!は、佐伯の絵を画集に掲載あるいは展覧会に出品する際に、「下落合風景」シリーズClick!に『目白風景』(あるいは『目白の風景』?)と名づけたようだ。なぜ、そのまま『下落合風景』と名づけなかったのかは不明だが、東京での作品名とは差別化したかったのかもしれない。でも、地元にしてみれば、開業が迫った中井駅前の商店・宅地を造成中の風景(下落合1916-1977番地一帯)を称して、『目白の風景』Click!とはまかりまちがっても呼ばない。目白駅から作品の風景まで、たっぷりと2kmは離れている。
当初、山本發次郎がタイトルを決めたとすれば、彼は東京の土地勘がなかったがため、佐伯が描く風景は省線・目白駅がいちばん近いと解釈し、『目白の風景』なら当たらずといえども遠からずと考えたものだろうか。これも、典型的な地理的錯覚のように思える。作品の距離感を大阪にあてはめれば、そのおかしさがわかるだろう。佐伯が肥後橋Click!越しに描いた中之島の風景から、南へ下って地下鉄・中央線の本町駅をすぎ、地下鉄・御堂筋線の心斎橋駅あたりに建っている大丸心斎橋店あたりが、ちょうど2kmほど離れたエリアになる。その一帯の風景を描いたとして、それを「中之島風景」などと名づけたら、地元の人からすぐにも「なんやこれ、けったいなタイトルつけんといてや~」となるにちがいない。
下落合の風景を、特に開発途上の区画や工事中・造成中のエリアを連作で描いた松下春雄Click!や佐伯祐三は、当時の展覧会では「下落合」あるいは「落合」の地名を尊重し踏襲しているが、中村彝Click!は山手線の駅名につられてか下落合の風景を「目白」(『目白の冬』Click!など)としている。ただし、中村彝の場合は「下落合」あるいは「落合」という地名がそれほど知られてはおらず、特異な住宅地(目白文化村Click!や近衛町Click!、アビラ村Click!など)の開発で注目を集めるのは、大正後期になってからなので、あえて目白駅Click!という知名度の高いネームから引いたのかもしれない。
だが、中村彝が生きていた当時、「目白」と呼ばれていた地名は画面(メーヤー館Click!)の位置から東へ2.5km前後も離れており(現在の「目白」は大半が高田町と一部は長崎町)、彝自身の思いこみや錯覚に加え、のちにタイトルから地名の誤解を生じる素地のひとつになったのではないだろうか。もっとも、メーヤー館(宣教師館)Click!のある教会は「目白福音教会」Click!だし、下落合にある文化村は「目白文化村」だし、矢田津世子Click!や龍膽寺雄Click!らが暮らしていたアパートは「目白会館文化アパート」Click!なので、最寄りの知られた駅名を引っぱってくるのは中村彝に限ったことではなく、ゼネコンの不動産ビジネスからマンション名に「目白」がつく建物は、現在でも多々見られる。そういう意味からすると、一貫して「下落合」「落合」あるいは「下落合文化村」とタイトルしつづけた佐伯祐三や松下春雄Click!の視座は、ひとつの見識といえるかもしれない。
少し主題からスライドするかもしれないが、各地の商店街に「〇〇銀座」などとつけ、古い落ち着いた町並みが残る街々を「小京都」「小江戸」などと呼ぶのは、いかがなものだろうか? なぜ、よその地方の地域名や町名を借りてまで、「自虐的」かつ「売街的」に地元の宣伝をするのだろうか? 「ここは戸越で銀座じゃない」「ここは金沢で京都なんかじゃない」「ここは川越で江戸じゃない」と、地域の史的なアイデンティティとともに誇りをもち、苦々しく思っている地元住民は決して少なくないはずだ。
観光客から「ほんま京都によう似てはる、京のミニチュアや」といわれて、または「ほんとに昔の江戸にそっくりだな、コピーしたみたいだぜ」などとウワサされて、地元の人たちは嬉しいのだろうか? 観光などの認知度で「勝負」するなら、なおさら本来の町名、古からの地名、素の地域の姿や魅力で「勝負しようぜ」からスタートしなければ、いつまでたっても借りものではない、「ならではの独自な街の魅力」が育たないのではないか。
鎌倉の街のことを、「古都」などと表現している記述を見ると唖然とする。鎌倉が、公家や朝廷を中心とする「都(みやこ)」だったことは、ただの一度もない。彼らがまったく関与できない、新しい階級の中核として武家文化が花開いたのが鎌倉という街だった。自身がいる街をよく知ること、自身が住む地域の史的経緯やアイデンティテイを大切にすること、古来からつづく地名や町名を尊重すること、それが地域愛をはぐくむ初歩の初歩だと思う。
◆写真上:下落合(現・中落合/中井含む)の中・西部で、あちこちに残る下落合の旧住所プレート。住民の方々が、いまだ納得していないのは明らかだろう。
◆写真中上:上は、ヨーロッパに日本列島をかぶせた面積比較図。中は、1857年(安政4)の尾張屋清七版「雑司ヶ谷音羽絵図」にみる大正期まで「目白」と呼ばれていた地域。「関口」の町名は、神田上水Click!の大洗堰Click!を築造した江戸期以降で、それ以前は丘陵一帯を「目白」あるいは「目白山」と称していた。絵図の右下には、音羽の谷間から上がる目白坂の中腹に室町末期~江戸初期に足利から勧請された目白不動Click!が描かれている。下は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる落合地域とその周辺。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『下落合風景』Click!で、開業直前だった中井駅前の商店や住宅の造成地を描いている。工事中の道端に積まれた土砂あるいは大谷石の“山”に上って描いたものか、画面の視点がかなり高めだ。中は、少し時間を空けたとみられる同じ場所を寄り気味で描いた佐伯祐三『目白の風景』。下は、1926年(大正15)11月ごろに肥後橋を入れて中之島を描いた佐伯祐三『肥後橋風景』。
◆写真下:上は、1919年(大正8)の冬季に描かれたとみられる中村彝のスケッチ『目白の冬』。中は、1965年(昭和40)の「東京区分図」にみる落合地域とその周辺。下は、冒頭写真と同じく町名変更に納得できない住民の方がそのままにしているプレート。
★おまけ
下落合の地名を変えることに、90%以上の住民がアンケートで「反対」の意思表示をしているにもかかわらず、行政が勝手に地名変更を進めるのに「多くの住民が激怒」と報じる1965年(昭和40)5月3日発行の「落合新聞」。その歴史や地域のアイデンティティを尊重せず、あまりにもずさんで安易な変更に記事を読む58年後のわたしでさえ腹が立つ。