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佐伯祐三と小島善太郎の画面から湧水流を考える。 [気になる下落合]

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 佐伯祐三Click!小島善太郎Click!の作品で、気になっている画面がある。いずれも、山手線Click!の線路土手を画面に入れて描いた作品だ。そこに、線路土手へ穿たれたコンクリートとレンガで造られたとみられる、なんらかの施設が描かれている。下落合の山手線ガードClick!から、目白駅方面に向かっておよそ40~50mほどの位置だろうか。
 佐伯祐三が描いた「下落合風景」シリーズClick!の1作、下落合側(西側)から見た山手線の『ガード』Click!と、高田の反対側(東側)にある椿坂Click!の下から、佐伯が描く山手線ガードの少し上の線路土手を描いた、小島善太郎の『目白』Click!の2作品だ。目白駅Click!は、1903年(明治36)から貨物の取り扱いがはじまるが、山手線の線路土手上の東側には広い敷地が残されており、目白貨物駅Click!が設置されると荷の保管施設や作業員小屋、鉄道員小屋、保線用の道具小屋など、数多くの建物が山手線ガード近くの線路土手の上まで建設されているとみられる。
 当初、描かれたコンクリート施設は多種多様な鉄道小屋があった、線路土手へと上下する階段でも設置されているのかと考えたが、階段にしては角度があまりに急すぎる。また、線路土手へと上がるなら、指田製綿工場Click!の少年少女たちが上って貨物線事故Click!に遇ったように、近くには傾斜の緩い線路土手が何ヶ所もあったはずで、この位置に階段を設置する意味がわからない。それに、なによりも佐伯祐三の描く『ガード』には、三角形のコンクリートとみられる擁壁の上にガードと同様のレンガ積みとみられる、幅の狭い茶色い擁壁がチラリと顔をのぞかせている。
 このような仕様の施設で考えられるのは、明治期に敷設された鉄道では随所で見られた、線路を横切る小流れあるいは農業用の灌漑用水を通す、流水路の確保ととらえるのが自然だろう。明治期の当時、雑司ヶ谷道(新井薬師道)Click!に架けられた山手線ガードの南側、高田村の(字)八反目と落合村(大字)下落合の(字)東耕地および(字)丸山は、一面の水田地帯だった。その一帯へ、灌漑用水を供給していたのが金久保沢の湧水と、湧水によって形成された溜池(のち一部は明治以降の血洗池Click!)だった。
 この用水(水利)のテーマを考えるには、遠く江戸期の宝永年間にまでさかのぼらなければならない。豊富な湧水源だった金久保沢Click!、現在の山手線・目白駅があるあたりの谷戸一帯は、江戸期の「御府内場末往還其外沿革図書」によれば、少なくとも宝永年間(1704~1711年)までは下落合村と高田村の入会地だった。つまり、湧水源や周辺の森林は両村が共同利用できる状態だったわけで、江戸期には多かった水利をめぐる争いを避けるための入会地化だったとみられる。金久保沢に、下落合村と高田村の村境が設けられるのは、幕末に近い時代になってからのことだ。
 江戸後期(幕末に近い)に描かれた「高田村絵図」(学習院所蔵)には、すでに金久保沢から流れでた湧水の溜池が描かれているが、学習院大学のキャンパスに残る現在の溜池(血洗池)とはかなり形状が異なっている。また、同絵図には下落合村側が描かれていないが、溜池(血洗池)の南西にあた位置にも、この時期には下落合村の溜池が存在していたと思われる。なぜなら、明治初期に作成された地形図には、高田村の溜池(血洗池)とともに、下落合村のやや小さめな溜池も薄い水色で描かれているとみられるからだ。
 1880年(明治13)に作成された、フランス式1/20,000カラー地形図Click!を参照すると、金久保沢にはふたつの溜池が記録されている。ひとつは、標高がやや高めの茶畑上にある高田村の溜池(血洗池)であり、もうひとつが下落合村側にあるやや小さめな溜池だ。標高から考えると、高田村の溜池から流れでた湧水は下落合村の溜池へと注ぎ、そこから高田村と下落合村の水田一帯、すなわち高田の八反目と下落合の東耕地および丸山方面へ、灌漑用水が供給されていた様子が見てとれる。
 ところが、フランス式1/20,000カラー地形図からわずか5年後、1885年(明治18)に日本鉄道による山手線の敷設計画が進捗し、金久保沢の谷間に線路土手を建設するため、下落合村側の溜池が埋め立てられることになったのだろう。そうなれば、金久保沢の湧水源からの小流れは山手線に遮られて止まってしまい、線路土手にはばまれて下落合の水田はもちろん、高田村の一部水田までは湧水が供給できなくなってしまう。そこで、両村が相談して日本鉄道に掛けあったのが、線路土手に穴を開けて灌漑用水を通す流水路(暗渠)の設置ではなかったか。しかも、金久保沢の湧水源から高田村の溜池(血洗池)へと注ぐ流水路と、溜池(血洗池)から下落合村へと注ぐ流水路(暗渠)の2ヶ所が設けられているとみられる。
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 1887年(明治20)に作成された「東京府武蔵国北豊島郡図」には、山手線を横切る当該の流水路が記録されている。同地図によれば、まず金久保沢の谷戸で湧いた流水は、目白駅(地上駅)の前を横切り、線路沿いに120mほど下ったところで線路土手を東側へ斜めにくぐって溜池(血洗池)へと注いでいる。そして、血洗池を出た流れは今度は南西へと向かい、明治初期には下落合村の溜池があったとみられるあたりで山手線の線路土手にぶつかっている。ちょうど、山手線ガードがあるやや北側の位置だ。ここで流水は下落合村側、つまり山手線の線路土手西側に抜けて灌漑用水を供給していたとみられる。もちろん水流は二手に分かれ、そのまま高田村の水田一帯へと下る流路も設けられていただろう。
 その根拠となる地図も、1916年(大正5)に残されている。同年に作成された、「東京府豊多摩郡落合村大字下落合地籍図」の「東耕地」だ。同図には、山手線ガードの上から流れてきた灌漑用水が、雑司ヶ谷道(新井薬師道)沿いに西進し、それぞれ東仲道の手前、東仲道沿い、そして山下道の手前、のちの大黒葡萄酒工場敷地Click!石倉商店工場Click!の境界で雑司ヶ谷道の下を暗渠でくぐり、東耕地に拡がる水田地帯へと南進しているのが確認できる。換言すれば、のちの大黒葡萄酒と石倉商店の敷地境界は、この灌漑用水路跡によって決められていたことがわかる。また、さらに西進する流れは林泉園谷戸Click!からの流れと合流し、丸山の水田一帯を潤していたことがわかる。
 明治初期の、下落合村側の都合(利便)のみでいえば、溜池が山手線の敷設で埋め立てられてしまうとすれば、従来は高田村の溜池(血洗池)経由で供給されていた灌漑用水を、山手線の線路土手の西側沿いに新たな水路を設置してそのまま南下させれば、下落合の東耕地や丸山の水田一帯は困らなかったはずだ。「東京府武蔵国北豊島郡図」でいえば、目白駅(地上駅)前を流れる湧水路をそのまま道路と線路土手沿いに南へと延長し、下落合村側の水田へ供給すれば十分な灌漑用水が確保できたと思われる。
 だが、それでは線路土手の東側にある溜池(血洗池)が干上がってしまう可能性とともに、高田村八反目に拡がる水田一帯への用水が不足するおそれがあるので、高田村側が許さなかっただろう。また、湧水源の金久保沢は幕末になると両村の入会地ではなくなり、下落合村と高田村の敷地に分割されているため、湧水路の一部が高田村内を通過していたので、下落合村ではそのような主張をしにくかったとみられる。そこで両村協議のうえ考えだされたのが、山手線の線路土手に2つの流水路(暗渠)を設置し、金久保沢からの湧水を通して利活用するという方法だった。
 下落合村は山手線の敷設工事で、明治初期まであった溜池を丸ごと失うが、従来どおり高田村の溜池(血洗池)からの豊富な灌漑用水をそのまま利用でき、高田村側も溜池(血洗池)に十分な貯水量を得ることができて水田の用水不足を回避できるという、両村の思惑や利害が一致した結果だったとみられる。おそらく、山手線が敷設される際には、日本鉄道の設計部門と両村との間で流水路の確保をめぐる、綿密な協議が重ねられていると思われる。
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 さて、高田村の溜池(血洗池)から下落合村の東耕地および丸山一帯へ供給されていた流水路は、少なくとも小島善太郎が描く『目白』(明治末~大正初期)の時代までは農業用水として機能していたとみられるが、佐伯祐三が描く『ガード』の時代には、すでに用済みか意味がなくなりつつあったと思われる。なぜなら、下落合の東耕地や丸山の一帯は耕地整理が済み、工場敷地や住宅・商店敷地の造成・開発が進んでいた時期に当たり、それは高田側の八反目でもまったく同じ状況だった。水田が次々と埋め立てられ、旧・神田上水沿いの旧・水田地帯には工場や住宅が建ち並びはじめていた。それまで灌漑用水として使われていた流路は、そのまま工場や住宅の下水路として利用されはじめていただろう。
 現在でも下落合には、湧水流の暗渠化にともなう「湧水下水道」とでもいうべき地下水路があちこちに残っている。たとえば、諏訪谷からの湧水は聖母坂沿いの地下Click!をそのまま流れ下っているし、林泉園Click!からの湧水も地下の流路を御留山Click!方面へと下っている。晴天つづきの日でも、湧水下水道があるマンホールの上を歩けば、かなりの水量の流れる音がいまだに響いているのは以前にも何度か書いたとおりだ。
 では、小島善太郎や佐伯祐三が描く流水路(暗渠)の痕跡が、現在でも確認できるだろうか? 山手線の東側(高田側)では、その痕跡をすぐにも発見することができる。雑司ヶ谷道(新井薬師道)の山手線ガードから北へ40mほどのところに、線路土手の地下をくぐる下水道がそのまま残り、立入禁止のプレートが建てられている。一方、線路土手の同じ位置に当たる西側ではどうだろうか。
 下落合側の線路土手は、2015年(平成27)に大規模な全面リニューアルが施されているのでわかりにくいが、それ以前に撮影されたGoogleのStreet Viewを参照すると、ちょうど東側の線路土手とほぼ同じ位置に、山手線の西側土手へと抜ける下水道の赤い独特なマークと、分岐に設置される集水桝、そして下水道マンホールが設置されているので一目瞭然だ。従来の石積みではなく、平板なコンクリートの線路土手になったリニューアル後の現在では、赤いマークは消されているものの、集水桝とマンホールはそのまま現存している。
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 明治末あるいは大正初期ごろ、小島善太郎が描いた『目白』では金久保沢から溜池(血洗池)を経由して山手線の線路土手をくぐる流水路入口を東側から、また1926年(大正15)に佐伯祐三が描いた『ガード』では、高田側から流れ下ってきた湧水を通す線路土手の流水路出口を、近衛町のバッケ(崖地)Click!下から描いていたことになる。小島が椿坂の下でスケッチブックに『目白』を描いていたころ、彼は佐伯の存在など知るよしもなく、のちにフランスで出会い1930年協会Click!を起ち上げることになるなど、思いもよらなかっただろう。

◆写真上:椿坂側に残った、山手線の線路土手を横断する湧水下水路の痕跡。
◆写真中上は、1926年(大正15)制作とみられる佐伯祐三『ガード』と部分拡大。は、明治末~大正初期制作の小島善太郎『目白』と部分拡大。は、「御府内場末往還其外沿革図書」の宝永年間にみる高田村と下落合村の入会地だった金久保沢。
◆写真中下は、学習院に残る幕末の「高田村絵図」にみる金久保沢と溜池(明治以降は血洗池)。溜池の形状が、現在の血洗池とはかなり異なっていたのがわかる。中上は、1880年(明治13)作成のフランス式1/20,000カラー地形図にみる金久保沢の様子。中下は、1887年(明治20)の「北豊島郡図」にみる金久保沢の湧水路。湧水源から、山手線の線路を暗渠で越えて溜池(血洗池)へと流れこみ、同池から再び流れが下落合側へと流れこんでいる様子がよくわかる。は、1916年(大正5)に作成された「東京府豊多摩郡落合村大字下落合地籍図」の「東耕地」にみる、山手線横断の暗渠を越えた下落合側の流水路の様子。
◆写真下は、山手線東側(椿坂側)で現在も顕著に残る流水路の入口跡。現在は下水道扱いになっているが、いまでも溜池(血洗池)からの湧水が下落合側へ流れ下っているとみられる。中上中下は、暗渠化された流水路跡の現状。は、上記の流水路跡の反対側にある下落合側の流水路出口跡。2015年(平成27)に線路土手の全面リニューアルが行われたため、写りは悪いが2009年(平成21)撮影のStreet Viewより。下水道分岐の赤いマークとともに、集水桝とマンホール(ともに現存)が設置されていたのがわかる。

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