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下落合を描いた画家たち・柳瀬正夢。 [気になる下落合]

柳瀬正夢「電信柱の道」1930年代.jpg
 柳瀬正夢Click!が、特高Click!に治安維持法違反で逮捕され有罪判決を受けたあと、上落合2丁目602番地から松下春雄Click!が死去したばかりの西落合1丁目306番地(のち1丁目303番地)のアトリエClick!へ引っ越したのは、友人たちへの転居通知によれば1934年(昭和9)3月1日のことだった。その時期の前後する作品に、少なくとも現時点では制作場所が不明とみられる『電信柱の道』(1930年代)という画面がある。(冒頭写真) 23.8×33.1cmの板キャンバスに描かれた、タブローの小品だ。
 この時期の柳瀬正夢を追いかけてみると、1932年(昭和7)11月5日に世田谷町若林549番地の自宅で特高に踏みこまれ、世田谷警察署に連行されて留置されながら激しい拷問を受けている。翌1933年(昭和8)3月に、市ヶ谷刑務所に移されて治安維持法違反で起訴されると、同年8月には留守宅の梅子夫人(25歳)が病死し、9月になってようやく保釈されている。このころ、一家はすでに上落合2丁目602番地に転居しており、同年12月には「懲役2年執行猶予5年」の判決を受けている。
 同じころ、西落合1丁目306番地にアトリエClick!を建てて住んでいた松下春雄Click!は、1933年(昭和8)の暮れに名古屋から伊勢をまわる旅行から帰ったあと、同年12月31日に急性白血病のため急死Click!した。翌1934年(昭和9)1月4日に西落合のアトリエで告別式が行われたあと、淑子夫人Click!はふたりの遺児を連れて西巣鴨町池袋大原1464番地にある実家の渡辺医院Click!へともどっている。松下春雄のアトリエは無人となった。
 西落合にあるアトリエ敷地の、西側半分は鬼頭鍋三郎Click!アトリエClick!として使用していたが、東側の松下春雄アトリエが空き家になったため、淑子夫人Click!は画家に貸し出すことにした。そこへ、2ヶ月後に小林勇Click!ら友人たちの紹介で入居したのが、柳瀬正夢Click!と遺児たちだった。西落合のアトリエに移った柳瀬正夢は、友人たちから油彩画の制作を勧められ、このころから彼の作品にはタブローが増えていく。『電信柱の道』が描かれたのは、ちょうどこのころのことだ。
 当時の様子を、1996年(平成8)に岩波書店から出版された、井出孫六『ねじ釘の如く-画家・柳瀬正夢の軌跡』から少し引用してみよう。
  
 (前略) 柳瀬は「額縁にはめられた画、どれもこれも小っぽけな応接間美術だ。資本家のデコレーションだ」と言い放ってカンバスを捨てた。そのカンバスがいま柳瀬に手ひどいしっぺ返しをしたのではなかったろうか。初心に帰ってデッサンからやり直さなければならない、スケッチブックを懐に野に出て、風物をもう一度見つめるところから始めるべきだと、眼前のカンバスが言いきかせているように、柳瀬は思った。/青年時代の瑞々しい作品を知っている友人知己は、ひとしく、柳瀬が油彩にもどっていくことを期待し、アトリエまでも探してきたというのに、柳瀬が容易にアトリエにこもって絵筆をにぎろうとしないのに彼らはやきもきした。ともあれ、二人の幼児をかかえて、柳瀬は生活をたて直すことを迫られていた。
  
 スケッチブックを「懐に野に出て」、歩きはじめようとする直前の様子がうかがえる。
 『電信柱の道』の画面を、少し細かく観察してみよう。タイトルには「電信柱」とあるが、描かれている電柱は通信(電信電話)ケーブルをわたす電信柱ではなく、白い碍子を備え電燈ケーブルを張りわたした電燈柱Click!だ。当時の電気ケーブルをわたした電柱は、腐食を防ぐためにクレオソートClick!ないしはコールタールを塗布しているので黒っぽいが、電話線をわたした電信柱は頻繁なメンテナンス(加入者の増加)を考慮して背丈が低く、当時は白木のままClick!のものがほとんどだった。
 太陽光は右側から射しており、右手あるいは画家の視線の背後が南側だろう。画家が立つ道路には、土面の上に細かな砂利がまかれているようで、できて間もないかメンテナンスがなされたばかりの道路を連想させる。奥には高圧線の鉄塔が建っているが、昭和初期のこの時点で高圧線鉄塔が建っていたのは、落合地域では下落合と西落合の両地域しかない。ただし、目白変電所Click!へと向かう下落合の高圧線鉄塔(東京電燈谷村線Click!)は1927年(昭和2)に開通した西武電鉄Click!の、線路沿いに建つ鉄道高圧線の鉄塔に統合され、線路を跨ぐ「円」型Click!をしており、画面のような形状ではなくなっていた。
西落合アトリエ.jpg
転居通知19340301.jpg 柳瀬正夢「K氏の像(小林勇像)」1934.jpg
柳瀬正夢「鎌倉風景」1934.jpg
 また、上落合にも中野方面から現在の下落合駅あたりに向けて斜めに高圧線鉄塔が建設されていたが、関東大震災Click!が起きた1923年(大正12)ごろに廃止されている。したがって、落合地域で残るのは、井上哲学堂Click!バッケ(崖地)Click!下に開園していた遊楽園Click!を通過し、オリエンタル写真工業Click!の南側を経由して、葛ヶ谷地域(のち西落合)を西南西から東北東へと斜めに横断する、高圧線鉄塔の経路のみだった。したがって、柳瀬正夢が西落合時代の近所で『電信柱の道』を制作したとすれば、落合地域では同地域の可能性が高いことになる。西落合に通っていた高圧線鉄塔の経路は、1940年(昭和15)に作成された1/10,000地形図でもその痕跡が確認できる。
 もうひとつ、画面には耕地整理中の造成地を象徴する、特徴的かつ典型的な風景がとらえられている。おもに西落合の南部には多かった水田跡の湿地や、灌漑用水路を埋め立てるために用意された膨大な土砂の山だ。木々が土砂で埋まり、それは樹冠あたりまで隠れるほどの“山”を形成している。この“山”が自然の地形でないことは、表面に草木がまったく生えていないことでもうかがえる。どこからか大量に運びこまれた土砂は、周辺の耕地整理を終えた水田跡や窪地の湿地帯へ運ばれるのを待っている状態だ。
 西落合(当時は落合町葛ヶ谷)地域において、田畑の土地を整備し宅地造成地へと転用する目的で、葛ヶ谷耕地整理組合Click!が結成されたのは1925年(大正14)8月だった。長崎村で行われた耕地整理の手法を参考に進められ、初代の組合長は落合町長の川村辰三郎Click!がつとめ、1932年(昭和7)には書類計画上での耕地整理は結了している。
 だが、実際の現場ではいまだ事業が継続中だったため組合はすぐに解散せず、その後も引きつづき田畑の埋め立て整備が行われている。柳瀬正夢が西落合へ転居してきたころ、組合長は元・落合町長だった松崎章太郎だったろう。『電信柱の道』は、そんな耕地整理が進捗するさなかの、西落合の情景を描いた画面ではないかとみられる。
 1930年(昭和5)作成の1/10,000地形図を参照すると、高圧線鉄塔が南北の道路を斜めに横切り、鉄塔の周囲には住宅が建ってられていて、周辺に埋め立てが必要な水田あるいは水田跡が見られる場所は2ヶ所に絞ることができる。住宅の手前に、耕地整理用の土砂を集積できるスペースを考慮すれば、描画ポイントは1ヶ所に規定できそうだ。
 柳瀬正夢は、整然と拓かれたばかりの道路端から北を向き、西落合2丁目618番地(のち2丁目448~449番地/現・西落合1丁目30番地)にある高圧線鉄塔と、その下に建つ住宅の1軒を描いていると思われる。この道路は、途中が西側へ逆「く」の字のようにややクラックしているので、奥ゆきの見通しはきかない。画家の背後には、東西の道路をはさんですぐに水田および水田跡が、また描画ポイントから東へ50mほどのところにも、水田跡とみられる落合分水Click!沿いの広い空き地が拡がっているのがわかる。
葛ヶ谷618.jpg
葛ヶ谷618(西落合2-448-449).jpg
西落合1-30.jpg
西落合1-30_2.jpg
 さて、柳瀬正夢の『電信柱の道』は、いずれかの展覧会で展示されたのだろうか。西落合への転居後、再び油彩画に取り組みはじめた柳瀬正夢は、全国各地の風景をモチーフに制作し、ある程度の作品ストックができると、1936年(昭和11)には3回ほど展覧会に出品している。当時の様子を、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 この年(1936年)の柳瀬の旅はまだつづく、八月には長駆「満州」へ、帰って席のあたたまるまもなく十月には蓼科に、ひと月おいて房総九十九里から、多摩高尾山など、もっぱら写生の旅をつづけた末、十二月十二日から三日間、神田東京堂画廊で「柳瀬正夢油画<風景>展」が開かれた。近くの画材屋信画堂の店員鎌田芳明が作品の飾りつけ一切を仕切ってくれた。青年時代、門司・小倉を拠点として毎年開いていた正夢個展の十四年ぶりの復活だった。/出品作七十一点の多くがその場で売れてしまったから、個々の作品の出来映えはつかめないが、遺された目録からこの一年間の写生旅行を跡づけることはできる。海(鎌倉)、石川島、修善寺風景、朝の飯綱、戸隠山、松山城、道後温泉、瀬戸鞆の津、来島海峡、犬吠埼、秋の浅間高原、紅葉立科、秋色八ヶ岳、木曾駒ヶ岳、海景(九十九里)とつづくが、八月の「満州」旅行はまだなぜかモチーフのなかに入ってはきていない。(カッコ内引用者註)
  
 1936年(昭和11)の12月12日から14日にかけ、東京堂画廊で開かれた「柳瀬正夢油画風景展」の71点にものぼる作品の中に、はたして『電信柱の道』は含まれていたのだろうか。作品目録の題名から推察すると、全国の名所旧跡をモチーフにした、いわゆる“売り絵”が主体のような同展なので、『電信柱の道』のような地味で飾り映えのしない画面は展示されなかったかもしれない。同年の7月13日から17日にかけ、日本橋高島屋で開かれた「日本山岳画協会」の第1回展にも、柳瀬はタブローを3点ほど出品しているが、いずれも山岳風景の画面なので『電信柱の道』は含まれない。
 残るのは、日本山岳画協会展の直前、同年7月6日から8日にかけて銀座伊東屋で開催された「岡本唐貴救済画友展」のみだ。『電信柱の道』は制作後、初めて同展に出品されているのかもしれない。あるいは、柳瀬正夢油画頒布会で販売されたものだろうか。
柳瀬正夢「静物百合」1936.jpg
柳瀬正夢「仮面」1936.jpg
「柳瀬正夢1900-1945」2013.jpg 井出孫六「ねじ釘の如く」1996.jpg
 1936年(昭和11)暮れの「柳瀬正夢油画風景展」のあと、アトリエでは親しい仲間たちを集め慰労会を兼ねたクリスマスパーティーが開かれた。絵はよく売れたが、代金の回収はこれからだった。集金が苦手な柳瀬を知る仲間のひとりが、「わたしが代りに集金に廻りましょうか」と申し出た。2年後に柳瀬正夢の妻となる、少女のような松岡朝子だった。

◆写真上:1930年代に制作された、板キャンバスの柳瀬正夢『電信柱の道』。
◆写真中上は、北側の畑地から見た西落合1丁目306(303)番地のアトリエ。右側(西側)が鬼頭鍋三郎のアトリエで、中央と左側(東側)が松下春雄の母家とアトリエ。そして、1934年(昭和9)3月より柳瀬正夢の母家とアトリエになるが、戦後はフランスから帰国したばかりの彫刻家・高田博厚Click!のアトリエになっている。中左は、同年3月1日に出された柳瀬正夢の転居通知。中右は、同アトリエで友人の小林勇をモデルに制作された柳瀬正夢『Kの像』Click!は、1934年(昭和9)に制作された同『鎌倉風景』。
◆写真中下は、1930年(昭和5)に作成された1/10,000地形図にみる耕地整理が進む葛ヶ谷(西落合)地域。高圧線鉄塔が西から東北東へと横断し、埋め立てを待つ水田や水田跡があちこちに見られる。は、描画ポイントと想定できる道筋の拡大。は、描画ポイントの現状と現在の風景に画面を透過して重ね合わせた合成。
◆写真下は、1936年(昭和11)にアトリエで描かれた柳瀬正夢『静物百合』と『仮面』。下左は、2013年(平成25)に開催された「柳瀬正夢1900-1945」展図録。下右は、1996年(平成8)出版の井出孫六『ねじ釘の如く-画家・柳瀬正夢の軌跡』(岩波書店)。
おまけ
 1936年(昭和11)の空中写真には、風景を斜めに横切る高圧線鉄塔がとらえられている。大量の土砂はすでに埋め立てに使われたのか、集積場は平地のように見える。
西落合描画ポイント1936.jpg

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