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金久保沢は天然神奈(鉄穴)流し場だったか。 [気になる下落合]

天然鉄穴流し(金久保谷)1973.jpg
 豊富な鉄資源にめぐまれた関東から東北地方には、各地で古代からつづいたとみられるタタラ(大鍛冶)遺跡Click!が各地で発見されている。南部(岩手県一関地域)は、広島県の川沿いの山間部(現・広島市落合地域)や和歌山県の岬町界隈と並び、日本でも昔から良質の岩鉄(鉄鉱石=磁鉄鉱・褐鉄鉱・鳴石など)の採掘に恵まれていたため、砂鉄を収集する神奈(かんな=鉄穴)流しClick!と同時に、砂鉄より低温で溶解できる岩鉄の製錬による銑鉄や、鉧(けら)・目白(鋼)Click!などの生産が古くから行われていた。
 特に岩手県の南部地域は、古代の舞草(もくさ)鍛冶が活躍した舞台であり、初めて湾刀(日本刀)を創造した小鍛冶(刀鍛冶)集団として、刀剣史では日本刀の故地と呼ばれ最初期の時代に位置づけられている。古墳期から奈良期にかけ、西日本では徒歩(かち)戦による刺突(さっとつ)を中心とした直刀(朝鮮刀)が主流だったのに対し、東日本(特に関東)では馬畔(めぐろ:目黒=<群>馬牧場)Click!が発達し、乗馬したままの騎馬戦ですれちがいざまに対戦相手を撫で斬ることができる、湾刀(日本刀)が早くから発達していった。
 戦闘の方法や形態によって、新たな武器や兵器が生まれるのは古代も現代も変わらないが、東日本の「坂東戎(えびす)」あるいは「東北蝦夷(えみし)」などと呼ばれ、九州に上陸したとみられるヤマト(の前身)から蔑称で呼ばれていた地方で、他国に例を見ない日本刀が誕生したのは、なにが中国や朝鮮半島のコピーではない「日本」文化なのか、なにがこの国ならではのオリジナリティなのかを考えるうえで、砂鉄によるタタラ製鉄の事蹟(日本以外は鉄鉱石の低温溶解による鉄製造が中心)を含め、非常に興味深いエピソードだろう。のちに、東日本各地の「騎馬武者軍団」Click!(いわゆる「つわもの:さむらい」=武家)を形成する素地や特徴は、早くも古代の東日本に出現している。
 余談だが、日本刀の刺突を中心とした「直刀」化は、江戸期に入ると再びブームを迎えている。それは、江戸の各町にあった剣術道場における刺突技、スポーツの剣道(剣術とは別もの)でいえば“突き”の有効性が改めて注目されたからで、大規模な騎馬戦などなくなってしまった江戸時代には、古代以来、再び人対人の剣術で直刀に近い日本刀ブームが一時的に高揚した。すでに、室町期の古刀から新刀時代Click!に入っていた江戸前期だが、寛文年間(1661~1673年)を中心に反りが少なく直刀に近い日本刀が、全国各地の工房で数多く鍛造されている。これらは「寛文新刀」と呼ばれ、体配(刀姿の形状)を見ただけで制作年代を即座に特定できる、わかりやすい鑑定ポイントClick!となっている。
 さて、各地に残る神奈(鉄穴)流しや自然風を活用した登り窯(竪炉)、ないしは中世以降の足踏み鞴(ふいご)を用いた大規模な炉などが残る大鍛冶(タタラ)遺跡Click!は、大江戸(おえど)の東隣りの下総国一之宮(千葉県香取市)にある、創建がたどれないほど古い香取神宮の周辺でも見ることができる。特に、同社の北面裏にあたる「金久保谷」の谷間は、あえて丘の斜面を段々に拓き神奈(鉄穴)流し作業を行う必要がなく、いわゆる「天然神奈(鉄穴)流し」場の砂鉄採集地として広く知られている。
 金久保谷(別名:鍛冶谷)は、バッケ(崖地)Click!から噴出する湧き水によって小流れが自然に形成され、その流れに沿って砂鉄が急速に堆積していくという、大鍛冶(タタラ)たちにとってみれば手間がかからず、願ってもない簡便かつ効率的な砂鉄の採集地だったようだ。彼らにしてみれば、もっとも労力を要する神奈(鉄穴)流しの準備作業を省力化でき、あとは周囲の森林を伐採して大量の炭を焼き、斜面に登り窯=竪炉(古代)ないしは炉(中世以降)を設置するだけという、非常に生産性の高いタタラ場だったろう。
 丘の地形を変えるほど、まるで棚田(そもそも日本の棚田自体が、タタラ跡に造成されている事例も多々ある)のように斜面をひな壇状に改造し、丘の上部へ水流を引く土木工事をするか大量の水を人力で運びあげ、それを流して土砂や砂利を下段へと少しずつ排除し、上段へ沈殿する比重の重い砂鉄を採集する、多大な労力が必要な神奈(鉄穴)流しについて、岩手県藤沢町教育委員会の古史料(1970年編)より引用してみよう。
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 鉄を吹く処を烔屋(とうや)と云う。其の術は先ず砂鉄を取る法(。)流水の便利なる山の中腹に溝を掘り、これに水を入れて頻りに穿鑿(せんさく)し、土砂が先ず流水で砂鉄は沈滞する。これを取ってよくよく土砂を洗い去るにあるのである。即ち水利の便利な土地では土を掘りその中から岩石、砂利を除いた土砂のみを溜水を急に流して土砂を大洗いして砂鉄を集める(。)釘子村にも現在し その状態が見られる。こうした砂鉄にはまだまだ沢山の砂利を含んでいるので、今度は水量の多い急流の処を選び清め洗いするのである。水利の便利な処では、大洗から清流まで一貫作業で行なった(カッコ内引用者註)
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 これら面倒な作業の多くは、丘の斜面を活用して地形を改造する必要があるが、その膨大な労力を省けるとすれば、金久保谷を発見した大鍛冶たちにとっては嬉しい仕事場だったにちがいない。あらかじめ段丘が重なるようなバッケから噴出する優良な砂鉄を堆積させる湧水は、さしづめ神のめぐみの神奈(鉄穴)川Click!だったろう。そのような湧水の噴出と、天然による良質な砂鉄の堆積地だからこそ、古くから「金久保谷」と名づけられ有名なタタラ遺跡のひとつになったと思われる。近くの香取神宮には、周辺で採集された砂鉄を製錬して造られたとみられる、鉄窯や鉄斧など多くの鉄製品が奉納されている。
 さて、目白崖線にも同様の地名「金久保沢」Click!が存在している。金久保沢は、香取神宮裏の金久保谷と地形が近似しており、目白崖線に食いこむ谷の中でも大きくて深く、また間口の広い谷戸を形成している。だからこそ、日本鉄道の品川-赤羽鉄道(現・山手線)を通す経路の谷に選ばれ、のちに目白駅Click!目白貨物駅Click!が設置されているのだろう。金久保沢は、奥へいくにしたがって谷戸の幅が扇状に横へ拡がり、その斜面の随所から大小の湧水が噴出していたと思われる。
 現在は、山手線の敷設や住宅街の形成で地形が大きく変わっているが、谷戸奥の形状は二股に分かれるような窪(久保)地Click!になっており、その双方から湧水の主流となる豊富な流れが平川Click!(現・神田川)へと注いでいたにちがいない。江戸期には、金久保沢の全体が下高田村と下落合村の入会地にされ、灌漑用水用の溜池が設置されていたが、湧きでる清水や豊かな森林資源を両村協同で利活用していたものだろう。西側の湧水源へ、江戸期から設置されつづけてきたとみられる小さな弁天社が豊坂の中腹Click!に現存している。
 噴出する豊富な湧水流に森林資源、そして大規模な神奈(鉄穴)流しを必要としない、あらかじめ堆積した大量の砂鉄を発見した大鍛冶(タタラ)集団は、嬉々として木炭を生産するために周囲の樹林を伐採しはじめ、同時に谷戸の脇にある斜面へ炭焼き窯を築造しただろう。また、別のチームは季節や風向きを考慮し、同じく近くの斜面上部(砂鉄の採集場近く)へタタラ用の登り窯(竪炉)を建設しはじめたにちがいない。これが中世以降であれば、周囲の粘土や石材を利用して製錬炉を組みあげ、炭が焼きあがるのを横目で見つつ採集した砂鉄を炉の近くへ運び、移動の際に運搬してきた足踏み鞴の部材を組み立てはじめただろう。
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 古代から中世にかけての大鍛冶(タタラ)たちは、その事業規模からみて100人単位の集団だったと思われる。時代をへるにつれ、すばやいリードタイムで大量の木炭を製造する炭焼きのプロチームと、地形を改造して効率よく砂鉄を採集する神奈(鉄穴)流しチーム、そしてタタラ炉を操業して鉧(けら)や目白(鋼)を製錬するチームとに分業化し、これらの仕事は同時進行で行われていただろう。彼らの家族を含めれば、大鍛冶(タタラ)集団は数百人規模にふくれあがっていたかもしれない。
 だが、彼らは金久保沢で数年も暮らせなかったにちがいない。タタラの窯あるいは炉を操業するためには、厖大な木炭が不可欠だ。その炭焼きのために、周囲の森林は短期間で丸裸になってしまう。わざわざ遠方から材木を伐りだしてくるのは、非効率的かつ生産性が低下するので、大鍛冶たちはいまだ砂鉄が豊富に残る谷戸に未練を残しながら、次のタタラ場を求めて平川(現・神田川)を上流へと移動していった。谷戸を去る際、数十年後に再び立ち寄るために、この谷戸を「金久保沢」と名づけ記憶したのかもしれない。
 以前、砂鉄によるタタラ操業から目白(鋼)を製錬する、現代の日刀保出雲タタラの記事でも触れたとおり、厖大な森林資源と木炭を必要とするタタラは、中世以前の低い生産効率から推測すると温度を上げるために、さらに大量の木炭を消費していただろう。1976年(昭和51)に、玉川大学出版局から刊行された黒岩俊郎の『たたら―日本古来の製鉄技術―』には、当時の木炭と樹林の消費に関する試算が掲載されている。ちなみに、文中で「鉄」と表現されているのは、タタラ用語でいう良質な目白(鋼)を含んだ鉧(けら)のことだ。
  
 「一トンの鉄を生産するのに、どれだけの木炭、及びその木炭を生産するのに、どれだけの山林が必要か」という試算である。それにはいくつかの仮定が必要であるが、もし/(1)一トンの鉄をつくるのに、一四トンの炭を必要とし、/(2)生木一石から三〇~三七・五キロの炭ができるとし、/(3)一町歩から一〇〇石の生木が生産できるとし、/(4)さらに、三〇年で生木が成長する/と仮定するならば、一トンの鉄を、毎年生産しつづけるのに必要な森林の広さは、約〇・二五平方キロメートルとなる。
  
 わかりやすくいうと、わずか1トン/年の鉧(けら)を製錬するためには25万m2の森林、つまり東京ドーム5.4個分ほどの森林が必要となる計算になる。同じ場所で2年間もタタラ操業をすれば、あたり一帯の森林は伐り株だらけの丸裸になってしまっただろう。
金久保沢(西谷戸筋).JPG
金久保沢弁天社.JPG
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 金久保沢を去った大鍛冶集団は30年後、先代から語り継がれた記憶を頼りに、再びこの谷戸を訪れているだろうか。そして、回復した深い森林資源と、天然の神奈(鉄穴)川に堆積している豊富な砂鉄を発見し、仲間や家族と手を取りあって狂喜していたのかもしれない。

◆写真上:1976年ごろに撮影された、香取神宮裏にあたる金久保谷の天然神奈(鉄穴)流し場。崖地から噴出した湧水で、崖上段には豊富な砂鉄が自然に堆積している。
◆写真中上:香取神宮の裏手にあたる、金久保谷とその周辺の谷間の様子。
◆写真中下は、古代に行われていたタタラ操業の登り窯(竪炉)の仕組み。は、1880年(明治13)のフランス式1/20,000カラー地形図に描かれた金久保沢。は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる金久保沢で地形がかなり改造されている様子がわかる。
◆写真下は、金久保沢の谷戸西側に通う道路の現状。は、西側の湧水源に設置されていたとみられる弁天社。は、金久保沢に形成された溜池(明治以降は血洗池)の現状。
オマケ
 金久保沢のすぐ西側、御留山Click!の東端斜面に建立された藤稲荷Click!(写真上)だが、太刀Click!が奉納されるなど小鍛冶(刀鍛冶)との濃いつながりを想起させるエピソードが残っている。だが、大もとは大鍛冶集団が設置した日本ならではの鋳成神が起源ではないか。近世に入ってから、近畿の秦氏(新羅)を起源とする農業神「稲荷」へ転化しているのではないだろうか。同様に金久保沢のすぐ東側、根岸の里Click!の丘上に設置されていた八兵衛稲荷(現・豊坂稲荷)Click!(写真下)の起源も、その地形や位置から非常に気になっているポイントだ。
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目白崖線沿いにつづくタタラ遺跡を考える。 [気になる下落合]

剣呑龍庚申塚.JPG
 わたしの知るかぎり、目白崖線沿いで鉄滓(てっさい)=金糞・鐵液(かなぐそ:スラグ)Click!が出土した場所は3ヶ所ある。ただし、それらの鉄滓=金糞が鉧(けら)Click!のかたまりのままだったのか、または鉧からすでに目白(鋼)Click!を取りだしたあとの残りカスだったものか、あるいはより低温で製錬された鋳物などに用いる銑鉄状のものだったのかは、出土したそれらが廃棄されてしまったようなのでハッキリしない。
 目白崖線沿いで、もっとも東側に位置する金糞の出土地点は古い目白坂Click!が通う目白山(椿山=現・椿山荘の山)Click!だ。その名のとおり、目白(鋼)の山へ室町末または江戸最初期に足利から勧請された不動尊は、目白坂の崖地に安置され目白不動Click!(新長谷寺境内)と名づけられている。不動が勧請されたのちは、目白(鋼)などの鉄材を加工する金工師や彫刻師、鋳物師らの崇敬を集め、境内には刀装具の雲龍丸鍔Click!や、刀剣彫刻に多い不動明王の化身である剣呑龍(+庚申塚)の記念碑などが残されている。
 おそらく上代からつづく、この金(かね)=鉄にゆかりの深い目白山(椿山)からは、おそらく鋳物とみられる“鉄の馬”Click!が出土している。出土時期は明確でないが、目白不動がらみの記録からすると同不動が勧請されたのと同時期ごろではないかと思われる。また、目白山の山頂付近の崖地には、窯や火床、竃などの神である荒神社が「幸神社」Click!と名を変えて(おそらく変名は江戸期以降だろう)現存している。これらの事蹟から、出土した金糞は急斜面を利用して山砂鉄ないし川砂鉄を鉄穴=神奈(かんな)流しClick!により採集したのち、大量の木炭を用いて製錬したタタラ遺跡があったとみるのが自然だろう。
 ちなみに、室町期以前で金といえば「かね」=鉄のことで、今日いわれる金(Gold)ではない。金(きん)は、金(かね)とは区別され通常は黄金(こがね)と呼ばれていた。今日でこそ金属価値でいえば、貨幣やメダルなどでは金・銀・銅の順が一般的だが、室町期以前はそのプライオリティの最上段に君臨していたのが金(かね)=鉄だった。
 近代においてさえ、19世紀の「鉄は国家なり」(ビスマルク)という言葉が示すように、金(かね)は農・工業の効率性や生産力を飛躍的に高め、また多種多様な武器・兵器を生産して領土を防衛するには必要不可欠な価値(交換価値ではなく使用価値)の高い金属のままだった。日本でもまったく同様に、弥生時代から金(かね)=鉄の製錬は、あらゆる金属採取の最上位に位置づけられる最優先の事業だった。
 目白崖線沿いでは、目白山(椿山)から西北へ1,000mほどのところ、神田久保Click!の呼ばれた谷間(中世からの日本語の「たなら相通」により本来は「神奈(鉄穴)久保」か?)の北側につづく急斜面の上に金山稲荷(鐵液稲荷)Click!があった。その名が示すとおり、この急斜面からも鐵液=金糞が多く出土している。神田久保には、その斜面を利用した棚田があったというが、この棚田自体が神奈(鉄穴)流しの跡地の再利用であった可能性が高い。そして、丘上近くに設置された金山(鐵液)稲荷(日本女子大学寮内にあったが現在は遷座?Click!)は農業神としての、おもに近世に展開する近畿の朝鮮由来の稲荷ではなく、日本古来からつづく本来の「鋳成(いなり)」神ではなかったろうか。
 金山稲荷とその周辺斜面は、興味深いことに古墳期の横穴古墳群Click!または鎌倉期とみられる“やぐら”Click!が発見されており、江戸期には近江出自の刀鍛冶集団である石堂一派Click!(石堂流派は不明だが石堂孫左衛門Click!の名が伝わる)が工房をかまえている。おそらく江戸期の石堂派は、古くからの金山(鐵液)稲荷の事蹟に惹かれ工房をかまえたのだろう。
 そして、神田久保の谷間から西へ1,400mほどのところに、山手線・目白駅Click!のある金久保沢Click!の谷間がある。金久保沢は、いつごろからか別名「金和久沢(金湧く沢)」Click!と呼ばれており、その湧水源一帯はタタラの資源となる川砂鉄の採集には最適なエリアだったとみられる。だが、金久保沢から金糞(鉄滓)が見つかったという記録は、わたしの知るかぎり存在していない。ひょっとすると、日本鉄道関連の資料には品川-赤羽線(現・山手線)を敷設する際に、金糞が出土した経緯が工事記録として残されているのかもしれない。
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 そして、目白崖線沿いにあるタタラ遺跡の3ヶ所めが、下落合(現・中落合/中井含む)の山手通りが敷設された下落合1764~1790番地一帯(戦前は通称・赤土山と呼ばれていた)の斜面だ。改正道路(山手通り)Click!工事中Click!、1943年(昭和18)前後に大きなタタラ遺跡を想定させる大量の金糞が出土している。だが、戦時下だったこともあり、満足な調査や記録がなされないまま遺跡は全的に破壊された。
 大量の金糞が斜面から出土しているということは、室町期以降の生産性の高い足踏み鞴(ふいご)が付属する大規模で効率的な製錬炉を用いたタタラ場ではなく、焼き物の登り窯(竪炉)と同様に自然の風を窯の中に呼びこむ、鎌倉期以前のタタラ場を想起させるのだ。このタタラ遺跡の周囲には、弥生・古墳・奈良・平安・鎌倉の各時代の遺跡が散在しているが、いずれの時代のタタラ場だったものかは調査記録がないので不明だ。
 斜面のタタラ遺跡について、群馬県渋川市にある「金井製鉄遺跡」を見てみよう。1976年(昭和51)に玉川大学出版部から刊行された黒岩俊郎『たたら』から引用してみたい。
  
 同遺跡は「榛名山二ッ岳、相馬鐵に連なる吾妻山、御袋山等の諸山を西に負い、東北は吾妻川に沿う旧金島村金井部落の東北部」にあり、部落は一帯の段丘の上段段丘上にあり、中段が畑、下段が、吾妻川ぞいのせまい水田といったところにある。遺跡は、この中段と上段のさかい目にある。「鉄滓はこの傾斜地五〇〇メートル程の幅をもってひろがっている」というのだから、相当大規模な製鉄基地であったことが推定される。(中略) たたら炉は、この炭窯のある中段から四〇メートルほど南西によった上段傾斜面につくられている。炉の規模は、長径九〇センチ、短径五五センチ、壁高は最高五五センチ、平均四〇センチ内外であり、炉底は約一五度東側に傾斜しており、東側から送風した跡がみとめられる。
  
 同遺跡は、すでに製錬炉や鞴が用いられる14世紀以降の遺跡だが、それ以前も砂鉄を採集する神奈(鉄穴)流しの必要性から、また自然の風に頼った登り窯(竪炉)状のタタラ場を設置する関係から、同様に段丘の傾斜地形が活用されていた。
 谷間や谷戸の湧水源から流れでる、川沿いの段丘に堆積した川砂鉄あるいは山砂鉄を神奈(鉄穴)流しで採集し、周囲の森林を伐採して大量の木炭を焼いて燃料とし、斜面を活用した竪炉を築いてタタラを行い、製錬した鉧(けら)から武器や農器具などにする目白(鋼)を採取する……、この一連の作業は専門職としての工人=大鍛冶(タタラ)集団によって行われていた。彼らは砂鉄が枯渇するか、タタラ場の周囲で炭焼きに必要な森林を伐りつくすと、別の場所へと移動する“わたり歩き”Click!の集団だった。
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 大鍛冶たちは1ヶ所に定住することなく、多くの場合は段丘にはさまれた河川を遡上してタタラ場を設置し、段丘の斜面を活用した竪炉から目白(鋼)を製錬しては販売していた。彼らが移動せざるをえないのは、山砂鉄や川砂鉄が枯渇することもまれにはあっただろうが、おもに膨大な炭燃料を消費するため周囲の森林を伐採しつくしてしまうことにあったようだ。なぜなら、いまだ豊富に砂鉄資源が残っているタタラ遺跡からも、大鍛冶たちは移動していったことが顕著だからだ。
 以前の記事で2.5トンの鉧を精製し、そこからわずか100kgの目白(鋼)を取りだすのに約12トンもの木炭か必要だと書いた。だが、これは現代のできるだけ効率化された「日刀保出雲タタラ」の事例であって、斜面に竪炉を築造する古代タタラとは比較にならない数値だ。古代には、窯内の温度を上げるためより多くの木炭が必要だったことは想像にかたくない。大鍛冶集団の森林伐採について、同書より再び引用してみよう。
  
 たたらは、砂鉄採集により、厖大な土砂流を下流にもたらし、斐伊川の例でいえば、出雲市近くでは、川底が民家の二階あたりまで堆積し、また宍道湖を毎年埋めたてていった。/たたらは、さらに厖大な木材をその燃料としているために山を荒し、上記の土砂流をさらに促進したはずである。明治以降の日本の工業化過程における公害の原点を足尾鉱山による渡良瀬川の鉱害に求めるならば、日本の有史以来の公害の原点は、このたたら製錬の発達とともに激増していったにちがいない下流農民への被害の増大に求められねばならない。
  
 大鍛冶(タタラ)集団は、一度タタラ場を設置した場所へは二度とやってこない、いわゆる「漂白民」ではない。タタラには、“わたり歩き”の30年周期説というのが存在し、一度森林を丸裸にしても30年後には再び濃い森林が形成されているため、砂鉄資源の多い場所では30年ごとに巡回するサイクルで、反復しながらタタラを操業しているという。
 目白崖線沿いで操業し、おそらく良質な目白(鋼)を製錬していた大鍛冶たちは、どこからやってきてどこへ消えてしまったのだろうか。タタラ遺跡の発掘記録が存在しないので、あくまでも想像にすぎないが、わたしの感触では周囲に散在する古墳Click!百八塚伝承Click!の密度や展開から考えると、彼らは古墳時代あるいは奈良時代の初期あたりに、平川Click!(のちに神田上水/現・神田川)を遡上し、途中で平川から金川(のち弦巻川)Click!沿いに池袋・板橋方面へ、また平川から金川(のちカニ川)Click!沿いに角筈(新宿)方面へ、さらに平川から井草流(のち北川Click!/現・妙正寺川)沿いに落合地域の西隣りにある片山タタラ場Click!へ、そして平川(神田川)の本流へと遡上していったと思われる。
 そして、この流域沿いには、斐伊川の聖域と出雲勢力Click!を想起させる、出雲神(クシナダヒメ/スサノオ/オオクニヌシ=オオナムチ)を主柱とする、創立年代がたどれないほど古くからの氷川明神社Click!が、数多く展開している点も見逃せない事蹟だろう。
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黒岩俊郎「たたら」1976玉川大学.jpg 黒岩俊郎「金属の文化史」1991アグネ.jpg
 かつて、目白崖線沿いで大規模な炭焼き窯の遺跡が発掘されたかどうか、わたしは浅学のために知らない。たとえば、古墳時代から平安時代まで連続する「上落合二丁目遺跡」Click!(1995年発掘調査)では、焼き窯の跡や周辺樹木の炭化材、窯に設けられた羽口、窯底の焼土などが発見されているが、それらは土師器や須恵器を焼成する窯だったようだ。判明しているだけで3ヶ所にわたる目白崖線のタタラ遺跡近くには、必ず大量の木炭を生産した窯跡があるはずだが、もはやすべてが住宅街の下で発見するすべはないのかもしれない。

◆写真上:目白不動に残る、小鍛冶(刀鍛冶・金工師)の荒神と庚申信仰が合体した剣呑龍の碑で、江戸期に入ると荒神が「幸神」や「庚申」などへ転化していった。
◆写真中上は、目白山(椿山)の山頂(現・椿山荘)あたり。は、山頂近くの斜面に残る幸神社(荒神社)。は、タタラ遺跡から出土する金糞(鉄滓=スラグ)。
◆写真中下は、神田久保へと降りるバッケ(崖地)Click!坂。中上は、金山(鐵液)稲荷が建立されていた金山(現・日本女子大学寮)。中下は、1955年(昭和30)に撮影された金山稲荷(別名:鐵液稲荷)。は、大森西に残る古墳の上に建立された大森金山社。
◆写真下は、中井駅へと下り斜面がつづいていた赤土山跡(現・山手通り)。は、わたしの手もとにある日本刀剣保存協会(日刀保)出雲タタラで製錬された目白(鋼)。は、1976年(昭和51)出版の黒岩俊郎『たたら―日本古来の製鉄技術―』(玉川大学出版部/)と、1991年(平成3)出版の黒岩俊郎『金属の文化史』(アグネ/)。
オマケ
 玄関のインターホンに、巨大なミヤマカミキリムシが出現した。宅配便の、特に女性スタッフは怖くてボタンが押せそうもないので、すべて置き配になりそうだ。
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クールなのに落ち着かない詩人・小野十三郎。 [気になる下落合]

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 小野十三郎Click!は東京へきて以来、住居を転々と変えているので研究者でもすべてを追いきれていないようだ。ハッキリしているのは、1920年(大正9)に大阪から東京へやってきたばかりの下宿と、1930年(昭和5)に結婚して家庭をもってからだ。また、1933年(昭和8)に大阪に帰ってからの住所は、すべて判明しているらしい。
 小野十三郎は、大阪の裕福な大型生花店(のち私立銀行)の家に生まれ、1920年(大正9)に天王寺中学校を卒業すると、東京にやってきて代々幡町代々木の下宿に住んでいる。すぐに本郷区白山に下宿を変えているのは、近くにある大学受験のためだろう。翌1921年(大正10)に東洋大学へ入学するが、約8ヶ月で退学している。このあと、しばらくは本郷区内を転々とし、親からの仕送りでそれほど困らない生活をしていたようだ。
 おそらく、この制約のない「高等遊民」的な時代に、白山にあった松岡虎王麿が経営する南天堂書房(1Fは書店で2Fが喫茶店&レストラン)に通いつづけ、多くのタダイストや詩人、アナキストたちと交流していると思われる。萩原恭次郎Click!壺井繁治Click!岡本潤Click!、川崎長太郎らとも南天堂で知りあっている可能性が高い。彼らが1923年(大正12)1月に創刊した詩誌「赤と黒」へ、小野十三郎は関東大震災Click!をはさみ1924年(大正13)6月の「号外」(実質終刊号)にのみ参加している。
 関東大震災のドサクサにまぎれ、憲兵隊に虐殺された大杉栄Click!の本を愛読するようになったのもこのころのことだ。余談だが、ドサクサにまぎれて政府に異を唱えたり体制に反対する人物を虐殺するのは、現代のミャンマー軍政から聞こえてくる情報に近似しており、まるで歴史の焼きなおしを見ているようだ。小野十三郎は同年11月、さらにアナキズム色を強めた詩誌「ダムダム」の創刊に参画するが、創刊号のみで終わっている。
 また、同年7月に大阪の父親が死去したために送金が途絶え、以降、小野十三郎は東京市の内外にある安価な借家をを転々と移り住むようになった。ほとんど住所不定に等しく、およそ日暮里や麻布区、杉並町馬橋、代々幡町代々木、落合町などに住んだことはわかっているが、あまりに転居が頻繁だったため具体的な住所は不明のままらしい。この中で、秋山清Click!の証言から、下落合での住所のひとつはハッキリしている。ただし、これも“落合時代”の一端かもしれず、ほかにもダダイストやアナキストClick!たち多く居住していた上落合や、葛ヶ谷(のち西落合)に住んでいたことがあったかもしれない。
 ヤギClick!を飼いながら、秋山清自身も住んでいた下落合1379番地(のち1373番地)の家、というか箱根土地Click!が1922年(大正11)以来開発しつづけている目白文化村Click!の、第一文化村にあったテニスコートのクラブハウスClick!(管理棟:わずか2室しかなかった)の様子を、1986年(昭和61)に筑摩書房から出版された秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』より、少し長いが引用してみよう。なお、秋山清もまたこの家だけでなく、落合地域を何度か転居しており、すべての住所が判明しているわけではない。
  
 (秋山清が)下落合に住んだのは一九二九年(昭和四)の秋からで、その頃はまだ高田馬場(駅)までの西武新宿線に近いところだった。そのはじめが『黒色戦線』の編集会議に出席した時で、以後国電の東中野駅と西武線の中井、新井薬師前駅を結ぶ地域のあちらこちらと移っての借家住居は、数えてみれば五十年以上に及ぶ。(中略) 今は東京都新宿区となっているが落合という地名は、上と下とに分れ、面白いことに下落合の方が上落合より土地が高く、国電の目白駅付近から西武電車の下落合、中井の二駅を過ぎるまで低い丘がつづき、下落合四丁目は中井駅から北に坂を登り、その当時はまだ物めずらしい土地会社が、その丘陵を拓いて住宅地としてそこを文化村と呼んだが、落合ではなく、上に目白を冠せて目白の文化村と呼んでいた。さすがに敷地をゆったりとって、建物は文化住宅の名で関東大震災後の郊外に建ちはじめた安普請よりは、いくらか良く見えた。その丘のまん中付近に在った小さい家を借り、以後この付近に右往左往する私の生活となった。(カッコ内引用者註)
  
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 秋山清が、文章の前半でも書いているように、小野十三郎もまた同じような時期に、この地域をあちらこちらへ「右往左往」していたひとりなのかもしれない。この目白文化村(第一文化村)の「まん中付近に在った小さい家」が、下落合4丁目1379番地(現・中落合3丁目10番地)のテニスコートに付属した小さなクラブハウス(管理棟)のことだ。
 小野十三郎が、いつごろ落合地域にいたのかは年譜からも、また秋山清の記述からも明確な時期はたどれない。1933年(昭和8)には、東京を離れ大阪へ帰郷しているので、大正末から1930年(昭和5)7月に結婚し、住所がハッキリ判明している渋谷金王町で暮らすようになるまでの、この5年間のどこかで下落合に短期間だが住んでいるとみられる。
 1926年(大正15)の8月、小野十三郎はやはり落合地域かその近くに住んでいた草野心平Click!の詩誌「銅羅」に参加、次いで「銅羅」が廃刊になると、詩誌「学校」「歴程」につづけて作品を発表している。また、同年11月には初めての詩集『半分開いた窓』を、太平洋詩人協会から自費出版している。同書の奥付から、このときの住所は杉並町馬橋355番地だったのがわかる。
 『半分開いた窓』を読むと、当時のダダClick!マヴォClick!、あるいはアナキズムに傾倒していた詩人たちの激情的あるいは爆発的な作品に比べると、驚くほど冷静で“静謐感”さえ漂っているような感触をおぼえる。内面がクールに抑えられ、一歩ひいて対象を細かく観察するような眼差しは、「否定せよ!」「解体せよ!」「対峙せよ!」などと叫んでいるような、同時代の打倒・詩壇(近代的抒情詩)とは明らかに異質な存在だ。そこに、小野十三郎ならではのオリジナリティがあり、同じ視座を揺るがすことなく保ちつづけたまま、1988年(昭和63)に93歳で没するまで詩作をつづけられたゆえんだろうか。
 小野十三郎の詩作について、1979年(昭和54)出版の『日本の詩・第13巻/萩原恭次郎・小野十三郎』(集英社)収録の、秋山清『変革とニヒリズム』が端的に表現している。
  
 世界戦争の終結と大震災がかさなった日本でのすべての価値転換――国家、階級、人種、宗教、生死、生活、文化、このどれにも価値判断の大きな変化が起らざるを得なかった時、若者らがニヒルとなりダダとなってめくら滅法な否定、このはげしさがかつて無かった激烈さの時期に、小野十三郎の詩的出発は遭遇したが、その流行に追随するのではなく、あくまで自己を含めて周辺に渦巻く疾風怒濤を客観的に捉えようとしたところに、彼の詩の出発の個性があった。
  
 この詩作に対する基本姿勢は、戦前戦後を通じて終生変わらなかった。「右顧左眄」して自我をふらつかせた他の詩人たちに比べ、小野十三郎が死ぬまで詩の手法や、その背景となる視座を一貫させたのは「見上げたものである」と秋山清は書いている。
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 1927年(昭和2)1月、小野十三郎は「文芸解放」の同人になり、毎号に作品を掲載している。草野心平から借りて読んだ、米国詩人のC.サンドバーク『シカゴ詩集』に影響を受けたのもこのころのことだ。1931年(昭和6)2月に、秋山清らと詩誌「弾道」を創刊し、7月には熊谷寿枝子と結婚している。「弾道」は、翌1932年(昭和7)5月まで7号を発行している。また、結婚と同時に先述した渋谷金王町で暮らすことになった。
 「弾道」の刊行と同時に、小野十三郎は萩原恭次郎と草野心平との協同翻訳で、弾道社から『アメリカ・プロレタリヤ詩集』を出版している。翌1932年(昭和7)6月、アナキズム文化運動の全国組織「解放文化連盟」を秋山清らとともに結成し、機関誌「解放文化」を創刊した。同誌は、翌1933年(昭和8)6月に廃刊となるが、その廃刊前に小野十三郎は東京に見きりをつけ、大阪へと帰郷してしまう。
 以上のような経緯の小野十三郎だが、落合地域にもっとも接近したのは1927年(昭和2)から1929年(昭和4)あたりまでが可能性の高い時期だろうか。もう一度、小野十三郎や秋山清、萩原恭次郎、戸田達雄Click!らが住んだ目白文化村の「小さい家」について、秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』から引用してみよう。
  
 一九二九年(昭和四)の秋には所謂目白の文化村の真中というべきところに独りで住んでいた。そこが下落合の四丁目一三七九番地、西武新宿線の中井駅から北へ上っていったあたりで、その年の初めから十二月いっぱい、中井駅に近い妙正寺川という川を渡るとすぐ『黒色戦線』の発行所があった。この雑誌は『戦旗』や『文芸戦線』がマルクス主義を背負って、文学の世界を揺りうごかしつつあった時期に、アナキズムの旗を立てたものとして記憶されるが、前に述べた、純正アナキズムとサンジカリズム派との対立のなかでは、一年の命しかなかった。その同人会を解散するときまって、外に出て、中井駅前の坂道を登って家にかえると暗い家かげから二人の男が出て来て、早稲田警察署に連れて行かれたが……(後略)
  
 秋山清は、目白文化村の「小さい家」を近くの雑貨屋で紹介されており、小野十三郎つながりで借りているわけではない。それ以前、1925年(大正14)から翌年の1月まで借りていた萩原恭次郎あたりのつてで、小野十三郎は文化村の「小さい家」を知ったのだろうか。
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 大阪へ帰ってからの小野十三郎は、変わらずに詩作をつづけていた。戦時中の1943年(昭和18)2月には、戦争からは“遠い”ところで詩集『風景詩抄』を湯川弘文社より出版している。また、同年夏には勤労動員され、藤永田造船所の労務部で敗戦の日まで勤務している。彼が詩作を本格的に再開するのは、1946年(昭和21)4月に秋山清や岡本潤、金子光晴らと詩誌「コスモス」を創刊してからのことだ。その直後に、関西詩人協会を結成している。

◆写真上:管理棟が建っていた、第一文化村のテニスコート北端の現状。
◆写真中上は、小野十三郎のプロフィール2葉。は、1936年(昭和11)の空中写真にみるテニスコート跡。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同跡。
◆写真中下は、1926年(大正15)に自費出版された小野十三郎『半分開いた窓』の表紙()と奥付()。は、1925年(大正14)に出版された萩原恭次郎『死刑宣告』(長隆舎書店)の中面。は、小野十三郎『半分開いた窓』の中面。萩原恭次郎の表現が激情的かつ扇動的なのに対し、小野十三郎がいかに“静寂”な表現なのかがわかる比較。
◆写真下は、詩誌「弾道」でいっしょだった草野心平()と萩原恭次郎()。中左は、戦時中の1943年(昭和18)に出版された小野十三郎『風景詩抄』(湯川弘文社)。中右は、戦後の出発点となった1946年(昭和21)9月発行の詩誌「コスモス」第3号。は、1967年(昭和42)ごろに撮影された左から右へ秋山清、岡本潤、小野十三郎。

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首相官邸のトンネル「溜池ルート」について。 [気になるエトセトラ]

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 永田町1丁目にある首相官邸(現・首相公邸)の、南西側に落ちこんだバッケ(崖地)Click!が連なる高い築垣には、一見、防災用品などを備蓄収納したような「倉庫」のような外観に見える、コンクリートで固められ鉄製のドアが付属する“穴施設”が穿たれている。ときに、鉄製のドアの前には機動隊員がよく手にする、ジュラルミンの盾が立てかけられていることもある。以前、「不良華族事件」Click!の記事をアップした際、その崖地をとらえた写真の右隅にも、“穴施設”のコンクリート壁がとらえられている。
 この施設は、20mほどのゆるい坂道(緩斜面)に面しており、短い坂のちょうど正面が、溜池ダンスホール「フロリダ」があった跡地の裏手にあたる。二二六事件Click!の際、首相の岡田啓介Click!をともない庭の築山へ出ようとした義弟の松尾伝蔵は、すでに兵士たちが庭園に多数入りこんでいるのを見て断念している。もう一度、1977年(昭和52)に毎日新聞社から出版された、岡田貞寛・編『岡田啓介回顧録』から引用してみよう。
  
 あのころ、すでに首相官邸には庭の裏手から崖下へ抜ける道が出来ていた。五・一五事件で犬養毅首相が殺されたあと、なにかの際に役に立つだろうというので、つくったものらしい。崖っぷちのずっと手前から土をくり抜いて、段々の道になっており、そこを降りて行くと土のかぶさった門がある。土がかぶさった門と思ったのは実は小さいトンネルだったんだが……そこを通ってフロリダとかいうダンスホールの裏に出る。山王方面へ抜ける近道になっていたわけだ。話によると、永田町の官邸には秘密の通路があるとのうわさも世間にはあったそうだが、たぶんこの道のことだろう。
  
 わたしは、家の氏神であり江戸東京総鎮守の神田明神社Click!ほどではないにせよ、江戸東京を二分する天下祭りClick!の社(やしろ)、徳川家の産土神である日枝権現社(山王権現社)Click!を何度か訪れたことがある。ちょっと余談だが、日枝権現社には則宗や国綱、長光など徳川家ゆかりの名刀類Click!が収蔵されているので、それらを観賞しにいくのが楽しみだった。同時に、付近を散策する機会も多かった。その際、日枝権現社つづきのバッケ(崖地)にあたる、首相官邸の南側にある築垣界隈を散歩することも多かった。
 すると、なぜか上記の「防災倉庫」の前で、警官に出会う確率が高かったのを憶えている。警官は、「防災倉庫」の横や前、あるいは20mほどの短いダラダラ坂付近に立っていることが多く、坂を下りきるとレコードレーベル・東芝EMIビルの裏手に出た。当時は、首相官邸の裏側なので、いちおう首相が在邸しているときは警官を配置していたのだろう……ぐらいに考えていたのだが、「防災倉庫」の前というのが不可解に感じられた。まるで、「防災倉庫」を警備しているような雰囲気だったからだ。
 2002年(平成14)4月に、新たな首相官邸が敷地の北側に竣工し、旧・首相官邸が首相公邸になってから、この場所で警官の姿を見ることは少ないけれど、それでもときどき警官が「防災倉庫」を警備している様子を知ることができる。わたしがうっかりカメラを向けたりすると、とたんに不審訊問に遭いかねないので、こういうときに役立つのが、定期的に街角をクルマで撮影してまわっているGoogleのStreetViewだ。
 「防災倉庫」の前あるいは横に警官が立つ姿が、2016年、2017年、2018年、2019年……とほぼ毎年連続して見てとれる。1年に一度、それほど頻繁に撮影していないにもかかわらず、StreetViewのカメラに写るということは、かなりの頻度でいまだ警官が立っていることになる。StreetViewの撮影車を、警官たちが不審そうに見送る姿が印象的だ。もうお気づきだと思うが、「防災倉庫」前の短い緩斜面の下に建っていた東芝EMIビル(赤坂2丁目2番地)が、規模の大きかった溜池ダンスホール「フロリダ」の跡地ということになる。
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 ところが、溜池へ抜けるトンネルは東條英機Click!が首相だった戦時中に、防空壕とともに造られた2本のトンネルのうちの1本だとする資料がある。つまり、岡田啓介は戦時中に造られたトンネルを、戦後になって二二六事件の当時からあったと勘ちがいしているのでは?……という懐疑的な見方だ。1995年(平成7)に朝日ソノラマから出版された、毎日新聞記者の大須賀瑞夫『首相官邸・今昔物語』から戦時中の様子を引用してみよう。
  
 トンネルの入り口は官邸の小食堂わきと公邸近くにあった。このトンネルは防空壕につながっており、そこから溜池方面と特許庁方面へ通じる二本のトンネルがあった。/赤坂・溜池に通じるトンネルは長さ百メートルもあり、出口付近は爆弾が落ちても爆風のショックを和らげるためにジクザグ通路になっていた。(中略) これ(『岡田啓介回顧録』)によれば、戦時中に防空壕とトンネルを掘った時、すでに官邸からの抜け道ができていたというのだが、佐藤朝生や佐藤嘉右エ門ら当時の官邸関係者は、/「防空壕のトンネルとは別に抜け道があったなんてことは全く聞いたことがない」/と否定的だ。/岡田の回顧録は戦後になってまとめられたものであり、あるいは東条(ママ)内閣当時のトンネルと混同している可能性もあるが、今となっては確かめようがない。(カッコ内引用者註)
  
 東條内閣のとき、首相官邸の南庭に2本のトンネルと防空壕を建設したのは、官邸の建設業者と同じく清水組(現・清水建設)だった。文中に登場している佐藤というふたりの人物は、その工事を眺めていた官邸事務方の関係者だ。
 この証言と、上掲の『岡田啓介回顧録』の証言とを照らし合わせると、すぐにもおかしいことに気がつくだろう。東條英機が官邸の地下にトンネルと防空壕を造らせたときには、とうにダンスホール「フロリダ」など存在していなかったからだ。換言すれば、岡田啓介は非常脱出用のトンネルと「フロリダとかいうダンスホールの裏」をセットで記憶していたのであり、戦後になって東條が造らせた防空壕トンネルと存在しない「フロリダ」とが重なるのは、あまりに不自然な記憶ということになる。
 もう一度、「フロリダ」の営業経緯について整理してみよう。この店は、1929年(昭和4)8月に当初は「溜池ダンスホール」という名称でオープンしている。すぐに「フロリダ」という店名が追加され、1932年(昭和7)8月6日に火元の不始末から建物が全焼。その直前、同年5月15日には「フロリダ」のすぐ上にある首相官邸付属の「日本間」=和館(戦災で焼失)で、犬養毅首相が暗殺(五一五事件)された。そして、同年10月早々に「フロリダ」は再建され営業を再開するが、焼失前よりもかなり大規模で豪華なダンスホールとして生まれかわり、東京市内でも最大クラスで人気No.1のダンスホールとなった。
 1933年(昭和8)11月、「フロリダ」を中心とした「不良華族事件」が摘発され、経営の柱だった舞踏教師(ダンスインストラクター)夫妻の検挙により、「フロリダ」はしばらく営業停止を余儀なくされている。首相官邸の五一五事件から、1年半ほどたったのちのことだ。さらに、1936年(昭和11)2月16日に麻布歩兵第一連隊(第一師団)の下士官兵300名以上が首相官邸を襲撃(二二六事件)し、岡田啓介の義弟・松尾伝蔵を首相とまちがえて殺害している。そして、1940年(昭和15)には第二次近衛文麿Click!内閣のもと、10月12日に大政翼賛会が結成され、10月31日には奢侈禁止によりダンスホール「フロリダ」は閉鎖されている。
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 この一連の流れの中で、当時は東京市内のどこのダンスホールでも見られたような「醜聞」や、作家たちの私的な賭け事(麻雀や花札)にもかかわらず、なぜ1933年(昭和8)11月に「フロリダ」は大規模な摘発・手入れを受け、15名以上もの検挙者を出さなければならなかったのか?……、しばらく営業を停止・閉鎖せざるを得なかったのか?……という点が、わたしにはどうしても不自然に思えて引っかかるのだ。
 前年からつづく脱出用のトンネル工事が竣工間近であり、溜池側への“出口”を設置する際、デイチケットで昼間から混雑していた「フロリダ」とその周辺から、人々を遠ざける必要があったというのがわたしの推測だ。そして、宮崎白蓮Click!も感じたように、あまりにも不自然な「不良華族事件」とダンスホール「フロリダ」のネームは、二二六事件以前から岡田啓介の脳裏にも強い印象となって焼きついたにちがいない。だからこそ、トンネルと「フロリダとかいうダンスホールの裏」とを重ねて記憶していたのだろう。
 東條内閣時に造られた官邸の防空壕と2本のトンネルは、官邸事務方の記憶によればわずか数ヶ月で竣工したという。確かに、防空壕とトンネルの特許庁ルートは新たに建設されたかもしれないが、溜池ルートは既存のトンネルをリフォームしただけではないか。だからこそ、建設リードタイムがかなり短くて済んだのではないかという気がするのだ。
 1945年(昭和20)8月15日の未明、このトンネルを通って避難した人物の証言が残っている。1964年(昭和39)に恒文社から出版された、鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長だった迫水久常『機関銃下の首相官邸』から証言を聞いてみよう。このときは、ポツダム宣言受諾を承知せず、「徹底抗戦」を叫ぶ陸軍士官の襲撃から逃れようとしていたときだ。
  
 実弟と警護の警視庁巡査を伴っていったん防空壕内の書記官長室に入り、非常用出口の方を偵察せしめ、兵隊のいないことを確かめて特許庁に近い道路に出た。特許庁の角を目がけて三人で走ったが、後ろから狙撃されるかもしれないと思った。飯倉の親友の家に着き、ここで警視庁へ電話、徒歩で警視庁へ行き、総監室では町村総監に会った。
  
 このとき、迫水は特許庁ルートを通じて避難しているのがわかる。特許庁ルートは戦後、現在の六本木通りが拓かれ首都高が建設された際、官邸のバッケ(崖地)とともに消滅しているのは確実だ。では、溜池ルートのほうはどうなったのだろうか?
 戦後しばらくして、防空壕や2本のトンネルは埋め立てられたとされている。だが、1992年(平成4)に溜池ルートを途中まで探検した人物がふたりいる。宮澤喜一内閣で、官房長官と副官房長官だった加藤紘一と石原信雄だ。ふたりは、同年9月5日に懐中電灯をもって溜池ルートのトンネルを50mほど進んでいる。だが、坂状になったトンネルを下りる途中で息苦しくなり、酸欠を怖れたふたりは階段が下へとつづくトンネルを途中で引き返している。
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 おそらく、さらに進むと途中には頑丈に施錠された鉄扉があり、奥には「防災倉庫」のように見える、東芝EMI(「フロリダ」跡)の裏へ抜けられる“出口”にたどり着いたのではないだろうか。だからこそ、いまでも“出口”で頻繁に警官の姿を見かけるのではないだろうか。

◆写真上:左手の「肉」看板の先にある青っぽいビルが、ダンスホール「フロリダ」跡。
◆写真中上は、StreetViewより2016年の「防災倉庫」前。は、2017年と2018年の撮影。は、2017年の撮影。いずれも、警官が撮影車を不審そうに見ている。
◆写真中下は、火事で焼失した1932年(昭和7)以降の大規模化した「フロリダ」内部。は、戦後に撮影された溜池ルートのトンネル起点となったといわれる首相官邸の南庭にある築山と、清水組が建設した首相官邸地下の防空壕の一部。
◆写真下からへ、それぞれ1936年(昭和11)、1940年(昭和15)ごろ、1948年(昭和23)撮影の空中写真にみる首相官邸とその周辺。下左は、1995年(平成7)出版の『首相官邸・今昔物語』(朝日ソノラマ)。下右は、1964年(昭和39)出版の『機関銃下の首相官邸』(恒文社)。文中では触れなかったが、首相官邸のトンネルについて記録した本には、敗戦間もない1946年(昭和21)に出版された中村正吾『永田町一番地』(ニュース社)がある。
おまけ
 1947年(昭和22)の空中写真にみるフロリダ跡で、溜池を埋め立てたあと明治以降も残った2本の濠筋を、さらに埋め立てた新地の上に建っていた。戦後、ビルの前には車列の写っていることが多いので、GHQの将校クラブなどに接収されていたのかもしれない。
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中央線の脇に立つ焦土新宿のピラミッド。 [気になるエトセトラ]

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 空中写真を観察していると、ときどき目が点になり「はぁ??」となることがある。今回も、そんなケースのひとつだ。山手線の外側、百人町の北に位置する戸山ヶ原Click!に建設された、陸軍科学研究所Click!陸軍技術本部Click!のビルや建屋群を観察していたときのことだ。何気なく戸山ヶ原の西、当時の住所でいうと淀橋区柏木5丁目990番地(現・新宿区北新宿4丁目)に目を向けたとたん、アタマが白くなって思考が停止した。
 観察していたのが、戦後1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真で、陸軍科学研究所の敷地に建設されたビル群について、それぞれなんの建物かを観察し規定しようとしていたときだった。周辺の住宅街は焼け野原で、同研究所や技術本部のコンクリートビル群がかろうじて焼け残り、ことさら目立っているような写真だった。そして、同敷地の小滝橋通りをはさんだ西側に目を向けたとき、それは焼けずに残っていた。
 周囲が焼け野原の焦土なので、あたかも火星探査衛星が撮影した地表の写真にありえないものを発見したかのように、なぜだかピラミッドが建っていたのだ。にわかに自分の目が信じられず、一瞬、1960年代に撮影された学習院キャンパスClick!のモノクロ空中写真と、気づかずに取りちがえたのかと疑ったぐらいだ。だが、新宿駅からカーブを描いて伸びる中央線のすぐそば(北側)に、まちがいなくピラミッド状の建築が存在している。このピラミッドの南東側に接して建つビル状の建物は、戦前まで淀橋区役所だったはずだ。
 国家総動員法が敷かれたあと、敗戦までの7~8年は「贅沢は敵だ!」とか「欲しがりません勝つまでは」の時代Click!なので、淀橋区役所が「そろそろ庁舎が古びてきたので、今度造る新庁舎はどこの自治体もマネができない、誰も見たことがない奇抜なピラミッド型にしよう」……などというような、1980年代にありがちなバブル期の地方自治体みたいなことは、思いもよらなかったはずだ。あるいは、「今度、宅で建設しております屋敷は、ライト風はもう古うござますから、ギザのピラミッドを模しましたのよ。オ~ホホホホ……」もありえないだろう。それにしても、このビラミットは淀橋区役所のビルよりもはるかに大きな建造物で、1辺がおよそ70m余はありそうな四角垂型をしている。
 また、陸軍科学研究所の敷地が山手線西側の戸山ヶ原Click!をほとんど覆いつくし、敷地が足りないので西側に拡張して、ピラミッド型のなにやら怪しい研究施設でも建設したのかとも考えた。科学や物量ではどうしても米国に勝てないため、偏西風のジェット気流にのせた文字どおり風まかせの、イチかバチかの情けないバクチ作戦「風船爆弾」Click!を飛ばしたりしていたので、ピラミッドを建設して「宇宙の気」Click!でも集め、「光波のデスバッチ」Click!的念力波動砲で米国を呪詛する神だのみ施設でも「新兵器」として開発し、これは“呪いのピラミッド”なのかなどと妄想は際限なくふくらんだ。
 ところが、せっかく高揚した妄想に水を打(ぶ)っかけてくれたのが、1940年(昭和15)に作成された1/10,000地形図だった。同地図で、当該の敷地を確認すると淀橋区役所の北東側に接して、正方形の建物の形状が採取されており、その傍らに「市場」と記載されている。「な~んだ、いまもある新宿の淀橋市場じゃないか」と、面白くないのでガッカリしたのだけれど、戦時体制下にもかかわらず東京市は、なぜピラミッド型の大規模なビルなど建設しているのか、新たな疑問がわいてきた。
 当時の公設市場Click!は、今日のいわゆる青果類や魚介類の卸売市場だけでなく、一般の消費者を顧客にしたリテールだった。関東大震災の直後から、物価の高騰で苦しむ東京市民のために、特に生活必需品の食糧を中心に適正価格で、あるいは小売商店よりも安く提供するのを目的とした、今日の大型スーパーマーケットのような存在だった。だから、特に売り上げが大きく顧客が多く集まる公設市場Click!は、まるでデパートClick!のような意匠のビル建築もめずらしくなかった。
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 淀橋市場も多くの顧客を抱え、戦時下にもかかわらず東京市が目立つピラミッド状の市場などにしたのも、売上が大きく伸びていたからではないか? そう考えたわたしは、市場の建物がリニューアルされたとみられる1940年(昭和15)前後の東京市の記録を調べてみた。すると、1938年(昭和13)に東京市産業局庶務課が発行した、淀橋市場の史料を見つけた。
 以下、同年3月に発行された『東京市日用品買入先調査書』から引用してみよう。
  
 次に利用の大なのは百貨店で、総消費者の65%以上を占め、之に亜いで小売市場の中公設市場の利用が45.5%を示している。併乍(しかしなが)ら地域的には多少其の傾向を異にし、三味線堀市場を中心とせる方面では市設市場の利用割合が33.5%を示してゐるに反し淀橋市場を中心とせる周囲消費者の当該市場に対する需要は63.7%で百貨店を凌駕してゐる。両市場中心半径五百米の周辺に、前者に在つては上野松坂屋を控へ、後者に於ては新宿二幸、三越、伊勢丹等を擁し百貨店の利用程度は寧ろ淀橋市場方面が大なる事を想ふが、其の位置に於て淀橋市場方面が区域圏外稍々遠方なる事と、又三味線市設市場(ママ)に比し淀橋市場の方が規模及び地理的条件に優位であり、之に加ふるに、勤労階級の支持を受けてゐると謂ふ諸点に起因してゐるものと観察するのが妥当であらう。(カッコ内引用者註)
  
 この文章の中で、「三味線堀市場」と書かれているのは、当時の上野駅近くにあった東京市の大規模な公設市場のことだ。すなわち、添えられた統計資料によれば1935~1936年(昭和10~11)の間、繁華街だった上野の市場よりも淀橋市場のほうが1.5倍から2倍近くの売上のあったことがわかる。東京西部に「勤労階級」、すなわち会社勤めのサラリーマン家庭が急増していた様子がうかがえる。
 たとえば、1935年(昭和10)の三味線堀市場の売上が105万円なのに対し、淀橋市場は185万円を記録している。翌1936年(昭和11)は、前者が107万円に対し後者は153万円の売上となっている。しかも、新宿にある二幸や伊勢丹、三越など並みいるデパートの売上さえ、淀橋市場が凌駕しているような状況だったようだ。
 1日平均の入場者数は、1935年(昭和10)10月の三味線堀市場が1.087人/日に対し淀橋市場は1,607人/日、2年後の1937年(昭和12)では前者が4.767人/日に対して、後者は5,.390人/日と双方ともに急増している。また、1店舗あたりの1日平均売上高は、1935年(昭和10)の時点で前者が26円/日なのに対し後者が31円/日、翌1936年(昭和11)では前者が22円/日に対し後者が26円/日と、淀橋市場が顧客も多くにぎわっていたのがわかる。淀橋市場の建物を、ことさら大規模にリニューアルする理由はここにあったとみられる。
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 1939年(昭和14)から、中央卸売市場法の「東京市第二次分場拡張計画」により、淀橋区(現・新宿区の一部)を中心とした急増する消費人口に対応するため、当時の周辺に林立していた私設市場13カ所を併合し、改めて造られたのが淀橋市場だった。大正期に設立された当初は、リテールオンリーの公設市場だったのが、1939年(昭和14)を境に青果物の卸売市場を兼ねる市場となり、卸売部門は「東京中央卸売市場淀橋分場」となった。戦後は南側の敷地を買収して拡張し、おもに青果物の卸売市場として機能してきている。
 ピラミッド型の大規模な建造物は、1939年(昭和14)の東京市による「第二次分場拡張計画」により進められた建設事業だった。淀橋市場は、小売りの店だけでなく卸売市場を併設することになったので、現在から見ても巨大な建物への大幅な拡張が必要になったのだ。上掲の、東京市が作成した統計資料『東京市日用品買入先調査書』は、そのリニューアルへ向けた下準備のための説明資料だったのだろう。
 現在の淀橋市場は、立体構造化したにもかかわらず再び敷地が手狭になっているようだ。また、卸売市場の性格から早朝にトラックの出入りが多く、近隣の騒音も大きな課題になっているらしい。2019年に発行されたパンフ「淀橋市場の概要」から引用してみよう。
  
 淀橋市場は、新宿区をはじめ中野・杉並・練馬・世田谷等周辺区部や多摩地区の東部・中部を中心に青果物を供給しており、東京都中央卸売市場の青果9市場中で大田市場、豊洲市場に次いで第3番目の取扱実績を保有するなど、生鮮食料品の安定供給に重要な役割を果たしている。/しかし、産地出荷者の大型化に伴う大量・広域輸送の進展により、搬入車両がさらに大型化するとともに、取引方法の多様化(転送・納入等)に伴い、買出人の車両もせり開始時刻(午前6時4 0 分) 以前の深夜早朝から市場に出入りする傾向となってきていることから、様々な問題を抱えている。淀橋市場は敷地が狭隘なうえ、その市場面積に比べ取扱量が多いことから、市場関係車両による騒音と交通渋滞等により、近隣住民や一般通行車両及び通行人に多大な影響を及ぼす状況となっている。
  
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 淀橋市場では、「周辺環境への迷惑を解消することが第一」を基本方針にすえ、さまざまな施設改造計画を立案しているようだ。東側が戸山ヶ原だった戦前ならともかく、確かに周辺は住宅街が広がっている街中なので、夜中から早朝にかけての大型トラックの騒音や振動は周囲へ大きく響くのだろう。せっかく伝統のある新宿の市場なのだから、大久保射撃場Click!近衛騎兵連隊Click!のように「新宿から出ていけ!」といわれないうちに、予算の都合もあるのだろうができるだけ早急に防音・渋滞対策を進めたほうがいいように思う。

◆写真上:1947年(昭和22)の空中写真を見ていて、目が点になった淀橋市場。隣接する陸軍科学研究所のビル群に比べ、同建築がいかに大きかったのかがわかる。
◆写真中上は、1938年(昭和13)ごろの空中写真で淀橋市場のピラミッドは建設されていない。中上は、1940年(昭和15)の1/10,000地形図にみる淀橋市場。中下は、1944年(昭和19)撮影の淀橋市場。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真(拡大)。
◆写真中下中上は、1938年(昭和13)に東京市産業局庶務課が発行した『東京市日用品買入先調査書』による統計資料。中下は、1950年代の淀橋市場内部。下左は、『東京市日用品買入先調査書』。下右は、2019年発行のパンフ「淀橋市場の概要」。
◆写真下は、1950年代の淀橋市場で北側に増設された建物が見えている。は、フカンから撮影した1960年代の淀橋市場。は、立体建築化した淀橋市場の現状。

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大正期からの丁目表記と字名境界の規定。 [気になる下落合]

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 落合地域の住所に「丁目」表示が採用されたのは、1932年(昭和7)に東京35区制Click!が施行され、淀橋区の成立とともに落合町が下落合・上落合・西落合(旧・葛ヶ谷)の3地域に分けられてからというのが「公式」のお役所記録だが、実はこれが誤りであることは、ずいぶん前にも一度、拙サイトで記事Click!にしている。
 大正期の手紙やハガキには、すでに「丁目」を付加している宛て名書きが存在しており、以前の記事では1926年(大正15)に下落合の西側に住んでいた前田寛治Click!(下落合1560番地Click!)の、「下落合4丁目1560番地」を例に引いて書いた。前田寛治に限らず、大正期に下落合の住所に「丁目」をつける郵便は、ほかにも散見することができる。
 地元の地図類でも1925年(大正14)から、「丁目」表記とその境界線が明確に規定されている。また、翌1926年(大正15)の地図でも、同様に「丁目」表示は引き継がれ、目白通り沿いに東から西へ順番にふられている。だが、それ以前の地図類には「丁目」表記は見あたらない。もちろん、国や自治体が制作する地図類には、1932年(昭和7)まで「丁目」の表記は記載されていない。
 以前の記事では、下落合で“線引き”された「丁目」の境界、または境界近くに郵便局があるケースの多いことから、広い下落合へ複雑にふられた番地を少しでもわかりやすくするため、郵便配達の便宜上、あるいは逓信業務の効率向上のために「丁目」を付加する慣習が、大正期から採用されていたのではないかと推測した。
 新興住宅地には多々見られる傾向だが、住宅が建てられたエリアから住所=番地がふられていくため、当初から先を見こして綿密に計画を立てないと、番地の振り方が不規則になりがちだ。新しい住宅街の開発では、往々にして古い道路を廃止して新道路を拓いたり、従来は田圃や灌漑用水で仕切られていた区画を埋め立てて宅地化するなど、番地のふり方がチグハグになる要素が多々見られる。よほど先を見こした、余裕のある番地計画Click!を立てないかぎり、複雑でわかりにくい番地の割りあてとなってしまう。
 下落合の例を挙げると、たとえば道路を1本隔てただけで200番地台から700番地台へ、600番地台から1400番地台へ飛んだり、1100番地台から住宅の敷地境界の隣りがいきなり1800番地台になるなど、わかりにくい箇所がいくつもある。たいがいの番地(おおむね地番を踏襲している)は、東から西へ昇順に大きな数字になっていくが、800番地台の西側に600~700番地台がきたり、1400番地台の西側に1300番地台が展開したりと、通常の規則性から外れたエリアも多い。
 このわかりにくさを解消するために、地元の郵便局が利便性を考慮して配置したのが、下落合1丁目から4丁目までの表記ではないかと推測したのだが、もうひとつの可能性としては、1924年(大正13)に落合町が成立したのと同時に地元の自治体、すなわち落合町役場が地域住民の利便性を考慮して、暫定的にふっている「丁目」の可能性もありそうだ。ちなみに、大正期からふられていた「丁目」表記は下落合4丁目までで、いまだ葛ヶ谷(のち西落合)の飛び地だった妙正寺川北岸の西端は「(字)御霊下」のままで、のちの下落合5丁目は存在していない。
 では、下落合にふられた「丁目」の境界を見ていこう。参照するのは、1925年(大正14)1月17日に地理図案研究所が発行した「下落合及長崎一部案内図」の東部版だ。同地図は、目白通りの商店街を中心に、当時の住宅街を描いた便利地図のようなつくりになっており、拙サイトでは通称「出前地図」Click!と表記してきたものだ。同地図の東部版では下落合1丁目から4丁目の境界まで、同年4月11日に発行された西部版では下落合4丁目から葛ヶ谷(のち西落合)の東部までがカバーされている。すなわち、江戸期から下落合村と長崎村の境界にあたる、清戸道Click!の街道沿いに発達した「椎名町」Click!(現在の椎名町駅周辺とは位置が異なる)を中心に、構成されているのが歴然としている。
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 まず、「出前地図」に描かれた下落合1丁目は、東側の山手線沿いにある高田町と落合町の境界から西へ七曲坂筋まで、すなわち目白通りでいえば下落合500番地の目白福音教会Click!の敷地と、下落合491番地の田島邸との間に通う道路まで、ということになる。だが、この境界は1932年(昭和7)以降にふられる下落合1丁目とは異なっている。のちの1丁目は、さらに西側の下落合483番地の小林邸と下落合579番地の菓子屋にはさまれた道路であり、丁目境界が七曲坂Click!と合流するのは子安地蔵通りClick!へ交叉してからだ。
 また、下落合2丁目は先の七曲坂筋から、下落合639番地の舛田屋と下落合641番地の田中邸にはさまれた、地元では通称「木村横丁」Click!と呼ばれていた道路までだ。これも、1932年(昭和7)以降の2丁目とは異なる境界だ。なぜなら、大正期の木村横丁から入る道は南へ進むと一面の原っぱになり、当時は青柳ヶ原Click!が拡がっていた。すなわち、のちに国際聖母病院Click!が建設され聖母坂Click!(新・補助45号線)が拓かれるのと同時に、木村横丁全体が消滅してしまったからだ。1932年(昭和7)以降の下落合2丁目境界は、当時の通称「西坂通り」、佐伯祐三Click!の画題を借りれば「八島さんの前通り」Click!(旧・補助45号線)から南へたどる西坂Click!筋が、2丁目の西端境界となっていた。
 ここで、もうひとつの課題がある。目白通りの北側、雑司ヶ谷旭出(現・目白3~4丁目)へ大きく張りだした下落合は、1丁目と2丁目のどちらだったのだろうか。「出前地図」には、目白通り南側のように境界が記載されておらず、1丁目と2丁目の「目」の字のみが地図上に重なって記載されているだけだ。先の行政や逓信の便宜からいえば、「目白通り北の下落合」(500番地台エリア)ですぐに絞りこめて特定できるため、丁目の境界線が曖昧だったか、あるいは「出前地図」の制作者が書き漏らした可能性もありそうだ。
 さて、下落合3丁目は、いまでは消滅してしまった木村横丁から、下落合1497番地の長寿庵と下落合1948番の高田邸にはさまれた道路、そのまま南下すれば落合町役場Click!落合第一小学校Click!へと抜けられる道筋までのエリアだ。この道筋が、南へ下ってどのような経路で下落合3丁目と4丁目の境界を形成しているかは、記載がないのでさだかでない。1925年(大正14)4月11日に地理図案研究所が発行した、「下落合及長崎一部案内図」の西部版Click!を参照しても詳細は不明だ。
 やはり、1932年(昭和7)以降の境界は大正期とは異なり、下落合3丁目は西坂筋(八島さんの前通り)から小野田製油所Click!の手前(東側)、下落合1522番地の八百菊と1523番地の宇田川酒店にはさまれた道路、すなわち第二府営住宅Click!を縦断し第一文化村Click!を縦に分割して、第二文化村から振り子坂Click!をへて寺斉橋Click!へと抜けるラインが、3丁目と4丁目を分ける境界となっている。
 そして、「出前地図」の下落合4丁目は、先述の落合町役場へと抜ける筋から、西側は落合町葛ヶ谷(のち西落合)との境界まで……ということになる。1932年(昭和7)以降は、下落合4丁目の境界がさらに西側へとずれ、淀橋区成立後の新たな地名である西落合との境界までつづいているのは上記のとおりだ。
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 この「丁目」境界は「出前地図」の翌年、1926年(大正15)10月10日に東京市町事情研究所が発行した「下落合事情明細図」でも、基本的に変わらない。あえて「丁目」の境界線は記載されていないが、前年に発行された「出前地図」とほぼ同じエリアの目白通り沿いに、下落合1丁目から4丁目までが記載されている。ただし、心なしか全体的に「丁目」表記が「出前地図」に比べて西寄りに感じられる。
 その原因は、下落合の中部から西部にかけ住宅が急増しており、住宅街は西へ西へと伸びていったため、1925年(大正14)現在の「丁目」境界のままだと、下落合4丁目が広大な地域になってしまう……と懸念されていたせいだろうか。そこで、従来は曖昧で揺れ動いていた字名のエリアを厳密に整理・規定する作業も、大正期には同時に行われていたのではないだろうか。以前、揺れ動く「中井」や「大上」Click!「不動谷」Click!、あるいは消滅してしまった「摺鉢山」Click!などの字名について書いたけれど、字名は名称そのものの変化や消滅とともに、時代ごとにそのエリアも移動し曖昧化している。
 たとえば、明治の初期まで下落合の東端にある字名「丸山」Click!は、氷川明神社Click!のある目白崖線の斜面から下にふられていた字名のはずだった。ところが、明治後期になると丸山は下落合東部の丘上へと移動し(その西側に位置する字名「本村」Click!も同様だ)、丘下の本来の丸山エリアは「(字)東」「(字)南」と呼ばれるようになる。ところが、昭和初期になると丸山の位置は北へ移動したままだが、東と南の字名は「東耕地」「南耕地」へと変化する。字名の移動や名称の変化もそうだが、そのエリア自体も曖昧なケースが多い。「中井」が目白崖線の丘下や丘上を転々としたり、「不動谷」のエリアが本来の位置から西へ大きく移動(拡大)しているのは、すでに何度か記事に書いたとおりだ。
 つまり、関東大震災Click!ののち宅地化が急速に進む落合地域では、字名の名称およびエリアの厳密な規定も、行政上あるいは逓信上で迫られていた課題のひとつだったのだろう。1929年(昭和4)に、川流堂が発行した「東京府豊多摩郡落合町全図」には、この字名の境界が赤い破線で改めてきっちりと規定されている。そして1932年(昭和7)、淀橋区の成立とともに下落合1丁目から4丁目まで規定された境界線も、この字名の境界線に沿ってトレースされたもので、大正期の「丁目」境界とは明らかに異なっている。さらに、葛ヶ谷の飛び地が下落合へ併合されると同時に、妙正寺川の北岸一帯を下落合5丁目としている。
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 大正末から昭和初期にかけての字名エリアの規定は、古くからつづく本来の字名やその位置とはやや異なり、行政上あるいは逓信上、ときにはディベロッパーClick!のご都合主義で規定されたものであり、史的な経緯はあまり重視されていない。換言すれば、曖昧化しつづける字名エリアの課題を解消するために、大正期から試みられていたのが「丁目」の付加だったという見方も可能だろうか。1925年(大正14)の「出前地図」(東部版/西部版)で初出する、下落合の「丁目」表記だが、東から西へと急速に開発が進む住宅地を、できるだけ把握しやすいように工夫した、苦肉の策の地元地図だったのかもしれない。

◆写真上:1925年(大正14)4月11日に発行された、北が下の「下落合及長崎一部案内図」の西部版(地理図案研究所)にみる下落合4丁目。
◆写真中上は、1925年(大正14)1月17日に発行とれた「下落合及長崎一部案内図」の東部版(地理図案研究所)にみる下落合1丁目から下落合4丁目まで。は、1926年(大正15)10月10日に発行された「下落合事情明細図」(東京市町事情研究所)にみる下落合1丁目の表記。同地図には、すでに「丁目」境界は描かれていない。
◆写真中下:「下落合事情明細図」にみる下落合2丁目から4丁目までで、この時点では葛ヶ谷の飛び地である(字)御霊下はいまだ下落合5丁目になっていない。
◆写真下は、1929年(昭和4)に発行された「東京府豊多摩郡落合町全図」(川流堂)。落合地域の字名のエリアが、赤い破線で明確化されている。は、1935年(昭和10)に作成された「淀橋区詳細図」(東京地形社)にみる下落合1丁目から5丁目まで。
おまけ
 もうひとつ、面白い地図が残されている。1927年(昭和2)に作成された、西武線の高田馬場仮駅Click!が描きこまれている「淀橋区其ノ三/第六図落合町」Click!だ。これは地元の地図ではなく、東京府が1932年(昭和7)の35区制Click!を見こして作成した計画図で、そこにはのちの「丁目」表記がすでに赤囲みとともに書きこまれている。同図の存在により、かなり早い時期から落合地域の「丁目」付加が、行政側でも検討されていた様子がうかがえる。
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芸術革命から革命芸術への萩原恭次郎。 [気になる下落合]

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 萩原恭次郎が、下落合1379番地にあった第一文化村Click!テニスコートClick!に建つクラブハウス(管理棟)を、誰から紹介されたのかは不明だ。この家に萩原恭次郎が住んでいると、ほどなく戸田達雄Click!が転がりこみ、萩原や戸田が出たあとは秋山清Click!によれば一時期はときどき小野十三郎Click!も居住していたらしい。そして、そのあとは秋山清Click!がヤギを飼いつつ、ヤギ牧場Click!の構想を抱きながら暮らしていた。
 上記のネームから、すべてが詩人つながりで居住しており、彼らはダダClick!(あるいはマヴォClick!)、未来派、アナキズムといった共通項でくくれそうな一派であることがわかる。(ただし、秋山清は第二文化村沿いの雑貨屋で紹介されたと書いている) したがって萩原恭次郎も、誰か親しい知人(=詩人)を通じて、目白文化村のテニスコートにあった家賃5~8円/月のクラブハウスを紹介されたのかもしれない。ひょっとすると、1918年(大正7)より上落合581番地に住み、萩原が前橋時代に兄事していた川路柳虹Click!が探してくれた物件だったろうか? 豪華な西洋館群や、大屋敷に囲まれたテニスコートにポツンとあるわずか2室の小さな管理棟は、逆に周囲からはことさら目立っていただろう。
 萩原恭次郎Click!が、故郷の前橋市上石倉から東京へとやってきたのは、1922年(大正11)9月のことだ。当初は独立した借家に住まず、駒込千駄木町にあった下宿「松寿館」に逗留している。1924年(大正13)3月には、結婚とほぼ同時に西ヶ原町滝野川に家を借りて住みはじめ、同年7月には「マヴォ」に同人として参加している。そして、1925年(大正14)4月に目白文化村に3つあったテニスコートのうち、第一文化村の下落合1379番地に建っていたクラブハウス(管理棟とみられる)に入居している。あるいは、家賃が安い同棟を紹介してくれたのは、上落合に多く住んでいた「マヴォ」仲間のひとりだったろうか。彼の代表作である『死刑宣告』は、同年10月にこの管理棟で仕上げられている。
 故郷・前橋時代から、萩原恭次郎は川路柳虹が主宰していた「現代詩歌」、つづいて「炬火」などに作品を発表しており、詩人としては早くからその名が知られていた。東京へとやってくる前後には、東京日日新聞に『街上の歓声』を掲載、「種蒔く人」に『白き指よ強き瞳よ』を発表するなど詩人としては無名ではなく、比較的めぐまれたスタートを切っている。また、同時期に小川未明Click!柳瀬正夢Click!、宮地嘉六、壺井繁治Click!、新島栄治などと知りあっている。ちなみに、小説家の宮地嘉六も昭和初期から戦前まで、葛ヶ谷(現・西落合)および下落合に居住している。
 萩原恭次郎が、本格的に活動を開始するのは関東大震災Click!の年、1923年(大正)1月に詩誌「赤と黒」を創刊してからだろう。メンバーは萩原をはじめ、岡本潤Click!や川崎長太郎、壺井繁治、林政雄、小野十三郎Click!たちだった。詩をめぐる当時の文学状況を、1979年(昭和54)に出版された『日本の詩・第13巻/萩原恭次郎・小野十三郎』(集英社)収録の、秋山清『変革とニヒリズム―萩原恭次郎と小野十三郎について―』から引用してみよう。
  
 (前略) デモクラシーを持込んだ民衆詩派が、社会情勢をとらえて詩壇を風靡するかと見えたが、逆にそこでは詩が失われようとした。民衆詩派と<萩原>朔太郎らの近代的な抒情詩が詩壇を形成した時、これらを全否定する形でダダ、あるいは未来派、立体派の詩が大正十年頃から胎動した。高橋新吉(ダダ)、平戸廉吉(未来派)の試みであった。ダダの高橋はすべての芸術的、政治的、社会的なるものを否定するかの如き活動を始め、俄然として存在し、それはたしかに同じくダダといわれた『赤と黒』に魁<さきがけ>たが、それ以後の発展がなかった。平戸は早く死んで僅かな試みと宣言に終った。これらアバンギャルドの徒は未知のものに向けての出発であるから、一人の詩人が生涯のはじめにダダを宣言したとしても、やがて芸術派となり、反動となり、宗教へ、というが如き変貌は宿命的でさえある。/ダダの先進者高橋が文壇詩壇の外側にジャーナリズム的に存在したことは驚くに当らない。『赤と黒』もまた同断である。(< >内引用者註)
  
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 このあと、萩原恭次郎をはじめ「赤と黒」の同人たちは、次の段階としてアナキズムを標榜した。ただし、ダダが政治や社会に存在するあらゆるものの全否定だったにもかかわらず、バクーニンやクロポトキンClick!など既存のアナキズム思想に傾斜したのは“一歩後退”のようにも見える。そこから、同人たちはさらに革命主義的アナキズム(サンディカリズム)とポルシェヴィズムに分岐(厳密には純粋アナキズムとサンディカリズムの対立もあるが)していく。萩原恭次郎は、前者の思想的な傾向が強かったように見え、彼の死後もその位置づけをめぐっては、両派間で評価の“綱引”きがつづいていたように感じる。
 「赤と黒」が大震災後、1924年(大正13)6月の「号外」号で終刊すると、萩原恭次郎は同年7月に村山知義Click!らの「マヴォ」へ同人として参画、さらに同年11月には詩誌「ダムダム」の創刊に参加している。「ダムダム」の発行は創刊号で終わったが、この時期、萩原恭次郎には息子が誕生している。同年暮れに駒込に転居し、岡本潤と同居して生活費稼ぎのために少年少女向けの小説を書きはじめたが、困窮するばかりでまったく売れなかった。そして、翌1925年(大正14)4月に目白文化村に建っていた、下落合1379番地のテニスコート管理棟に転居してくる。
 萩原恭次郎の下落合での仕事は、転居直後の6月に東京朝日新聞へ『朝・昼・夜』を発表、つづいて8月には同郷だった萩原朔太郎Click!の『純情小曲集』へ跋文を提供している。この間、萩原恭次郎の初詩集である『死刑宣告』の執筆が、「マヴォ」の仲間たちによる絵画・オブジェの写真版やリノカット(リノリウム版画)による挿画制作とともに進展していただろう。萩原恭次郎が下落合に引っ越してから、ほどなく困窮した戸田達雄が萩原家へ転がりこんだエピソードはすでに記事に書いた。だが、ちよ夫人と子どもを抱える萩原恭次郎も、戸田の境遇とは大差なかったと思われる。
 萩原恭次郎は、『死刑宣告』に全力投球をしていた。その制作過程は、ページごとの活字からデザイン、装丁などすべてに刮目した念入りのものだったろう。同年10月、同詩集は長隆舎書店から出版され、ほぼ同時に九段画廊で出版記念パーティが開かれている。『死刑宣告』の反響を、前掲書の秋山清『変革とニヒリズム』から引用してみよう。
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 そして大正十四年(一九二五)十月に詩集『死刑宣告』を刊行して、大正のアバンギャルドの活動の頂点に立った。この年河井酔茗五十年誕辰祝賀会に築地小劇場で自作詩を朗読し、かねてからの新興芸術の総合性を主張しかつ藤村幸男と称して創作舞踊を発表するなど、はなやかに大正の、大震災後における各種の新興芸術運動の旗手と目された。だが二十七歳にして生活不如意、妻と子をその郷里の実家におくって、自分は前橋在にかえる程に困窮しながら、郷里と東京における新芸術運動に情熱のはけ口を求めつづけた。同時に前衛芸術のための活動はしだいに沈潜し、すでにアナキスト萩原恭次郎として、プロレタリア詩運動に重き存在となった。
  
 萩原恭次郎が下落合で暮らしていた、わずか9ヶ月足らずの間が、彼の人生ではもっとも華やかな時間だったろう。文中にもあるように、彼は詩作だけでなく舞踊や演劇、絵画などにも関与し、『死刑宣告』では一部挿画も手がけている。
 いってみれば、『死刑宣告』は萩原自身のみならず落合地域に数多く参集していた、大正アヴァンギャルドの芸術家たちによる記念碑的な“総がかり作品”であり(尾形亀之助Click!の姿が見えないのはさびしいが)、「ダダ」や「マヴォ」による全否定の終焉、弁証法的に表現するなら否定の否定、すなわちアナキズムにしろポルシェヴィズムにしろ次のフェーズへと移行する直前の、いわば金字塔的な作品といえるだろうか。見方を変えれば、萩原恭次郎は本人が意識するしないにかかわらず、期せずして本作により大正アヴァンギャルドへ「死刑宣告」=引導をわたしたともいえるかもしれない。
 1926年(大正15)1月、萩原はあまりの生活苦から、ちよ夫人と子どもを茨城県湊町にある実家(植田家)へ一時的に帰し、自身も故郷の上石倉へ“避難”している。同年6月、再び東京へやってきた彼は、駒込千駄木町65番地の溝口稠宅に寄宿して、湊町から妻と子を呼びよせている。同年2月に、壺井繁治や岡本潤、小野十三郎らとともにアナキズム文芸雑誌「文芸解放」を創刊すると、同年5月には世田谷町若林へと転居している。同年9月には、詩誌「バリケード」の創刊するなど精力的な創作活動がつづくが、生活の困窮は相変わらずだった。
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 1928年(昭和3)10月、萩原恭次郎は東京生活に見きりをつけ、家族とともに故郷の上石倉へと帰った。群馬県でも彼は鋭意創作をつづけるが、完全な“プロレタリア詩人”にはならなかったように見える。彼の外面ではなく、内面の芸術観では常に「アナ・ボル対立」の矛盾が起きており、東京ではどちらかの旗色を表明せねば許されないような状況だったが、群馬では表現者としての“孤立”が許されるような環境だったのかもしれない。萩原恭次郎は1938年(昭和13)に39歳で急死するが、「芸術革命から革命芸術へ」のちょうど過渡的な位置で孤独に創作をつづけた人、そんな表現がしっくりくるような詩人のように思える。

◆写真上:1920年(大正9)に、前橋で撮影されたとみられる21歳の萩原恭次郎。
◆写真中上上左は、1923年(大正12)5月発刊の「赤と黒」第4号。上右は、1979年(昭和54)に出版された『日本の詩・第13巻/萩原恭次郎・小野十三郎』(集英社)。は、下落合1379番地の第一文化村テニスコート跡の現状。コートの北側にあった管理棟に萩原恭次郎一家や戸田達雄、小野十三郎らが住んでいた。下左は、1925年(大正14)10月に出版された萩原恭次郎『死刑宣告』(長隆舎書店)。下右は、著者のプロフィール。
◆写真中下は、『死刑宣告』で挿画制作を担当したおもに「マヴォ」の仲間たちリスト。は、『死刑宣告』の中面ページで上から下へ萩原恭次郎、柳瀬正夢Click!村山知義Click!、イワノフ・スミヤヴィッチ(住谷磐根Click!)の挿画作品。
◆写真下は、1936年(昭和11)1月に描かれた萩原恭次郎『自画像』。は、長男の年齢から推定して大正末ごろとみられる萩原恭次郎と家族たち。ひょっとすると、背後に写っている建物が第一文化村のテニスコートにあった管理棟の外観かもしれない。

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目白文化村絵はがきと国立絵はがきとの相違。 [気になる下落合]

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 目白文化村Click!SP(販促)絵はがきClick!と、国立(くにたち)Click!で開発した学園都市のそれとを比較すると、コピー面でのちがいが顕著で面白い。目白文化村のコピーは、当初、非常に概念的かつ抽象的な表現が多い。箱根土地Click!が、東京郊外で手がける初めての大規模な住宅地建設だったせいか、SP戦略も手さぐりだった様子が透けて見える。
 たとえば、第一文化村の分譲後、第二文化村を開発している最中に印刷されたとみられる絵はがきでは、冒頭で田園都市や郊外住宅地の必要性を説いてまわった、米国のP.W.ウィルソンの言葉からはじまっている。当時、ウィルソンの知名度がどれほど高かったのかは不明だが、英国「レッチワース」のE.ハワードなどとともに、住宅雑誌や主婦向けの雑誌Click!などでは、よく取りあげられていたのかもしれない。
  
 ウイルソンは「住居の改善は人生を至幸至福のもたらしむる」と断言致して居ります、目白文化村は健康と趣味生活を基調として計画致しましたが今や瀟洒な郊外都市として立派な東京の地名となつて仕舞ひました。/高台地のこの村は武蔵野の恵まれた風致――欅や楱の自然林、富士の眺め――をそのまゝに道路や下水を完備し水道や電熱設備倶楽部テニスコート相撲柔道場等の設備が整つて居ります。文化村は住宅地として市内以上の設備が整つて居ります。/倦み疲れた心身に常に新鮮な生気を与へ子女の健やかなる発育を遂げる為めに目白文化村の生活は真に有意義のものであります、今回第二期の新拡張を合して文化村は三万五千坪に達しました。(後略)
  
 絵はがきの表面には、「省線目白駅より府道を約十丁、駅より文化村迄乗合自動車の便があります、市内電車予定線停留所より約二丁」と書かれている。
 コピーの表現からすると、東京郊外に開発された分譲地のザックリとした紹介だけで、確かに交通の便や設備なども書かれてはいるが、文章全体からは「健康と趣味生活を基調」「武蔵野の恵まれた風致」「富士の眺め」「心身に常に新鮮な生気」などなど、抽象的で主観的なイメージが強く感じられる。もっとも、最寄りの駅が山手線・目白駅だったので、いろいろアピールをしなくても売れると見こんでいたものだろうか。
 だが、目白文化村とほぼ同時期の1922年(大正11)、東京土地住宅Click!によって開発がスタートした同じ下落合の近衛町Click!は、目白駅Click!から徒歩5分前後ですぐにたどり着けるが、目白文化村は駅からやや遠い。ちなみに、絵はがきには駅から「十丁」(約1.09km)と書かれているが、これは不動産屋ならではの距離感でw、府道(目白通り)を歩いてもいちばん近い第三文化村で1.4km、第一文化村の北東端にあたる箱根土地本社までは1.7km、第二文化村は2km前後とそれ以上の距離があった。確かに「乗合自動車の便」はあったが、東京市電が目白通りを走ることはついぞなかった。
 箱根土地の宣伝広報部は、絵はがきによるSPの“引きあい”が悪いとみたのか、急いで第2弾の絵はがきを刷って配布している。そのコピーは、かなり具体的な表現だ。
  
 (前略) 位置 山手線目白駅ヨリ府道ヲ西ヘ約十丁目白駅ヨリ文化村迄乗合自動車アリ市内電車予定線停留所ヨリ南ヘ約二丁/環境 山ノ手ノ高台、西ニ富士ヲ眺メ展望開豁 学校ハ新築落合小学校約二丁、目白中学学習院成蹊学園等十四五丁内外、周囲ニ百五十戸ノ府営住宅アリ日用品ノ購入至便/ 設備 水道、瓦斯、電熱装置下水、道路(幹線三間枝線二間)倶楽部、テニスコート、相撲柔道ノ道場/価格 壱坪五拾円ヨリ六拾五円マデ、五拾坪ヨリ数百坪ニ分譲ス
  
 この第2弾の絵はがきによって見込顧客に選ばれた人々は、ようやく目白文化村での生活環境を具体的にイメージできたのではないかと思われる。
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 箱根土地は、このあと郊外住宅地の開発を東大泉(大泉学園)Click!、国分寺、小平、谷保(国立)へと拡げていくが、特に力を入れたのが東京商科大学の移転が決定した国立の分譲地開発だった。目白文化村で蓄積したSP手法の経験やノウハウを活かし、“絵はがき戦術”Click!が国立でも文化村以上の規模や頻度で展開されている。
 目白文化村の“売り”は、東京近郊のモダンな文化住宅街だったが、国立の場合は「学園都市」という強力なアピールポイントが上乗せされている。また、文化村は江戸期からつづく既存の道路(農道や街道)を縫うようにして開発されたのに対し、国立は一面のアカマツ林を開拓して、当初より整然とした道路計画が立てられたのも重要なセールスポイントだったろう。絵はがきも、「学園都市」を前面に提唱し、設備や交通の便についても非常に具体的だ。東京市街地から遠く離れた郊外のせいか、交通環境については特に気を配ったようで、絵はがきには常に新宿駅からの時刻表が掲載されている。
 国立の分譲地販売がスタートした当時、中央線の電車は国分寺までしか開通しておらず、さらに西の国立駅へと向かうには国分寺からバスに乗るか、そもそも新宿駅から中央本線の汽車に乗って国立駅で降りるしかなかった。大正末の当時、国立駅に停車する中央本線の汽車は1日に13本しかなく、1本乗り遅れると1時間以上は待たなければならなかった。そこで、中央線の電車を国分寺で降り、駅前からバスで国立まで向かうことになるが、箱根土地はバスが非常に混雑するので新宿駅から汽車に乗ることを推奨している。国分寺駅と国立駅間が電化されるのは、1929年(昭和4)3月以降のことだ。
 国立の分譲販売で、早期に制作されたとみられる絵はがきのコピーを引用してみよう。
  
 国立の玄関口とも云ふべき駅も出来 道路、下水も完成し東京商科大学(建築予算五百万円)も大講堂の建築に着手しました。東京高等音楽学院や小学校は既に開校して居ます。/音楽堂、水禽舎、動物舎、児童遊戯場等も出来ました。/さてこれから図の様な各商店や住宅が続々出来るばかりです。かくて本社は開拓者たるの使命を著々果しつゝあります。土地は国家と雖も一個の力のみで発展は出来ませぬ。従つて一人で利益を壟断すべきではありません。本社はこの絶対有望の国立の土地を廉価に費出し皆さんの自然的協力を俟つて共存共栄の主旨を実現致し度いと思ひます。/国立は東京駅迄約一時間 定期券を買へば一日何回乗つても僅かに拾六銭です。(以下、新宿駅からの汽車の時刻表/略)
  
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 目白文化村のSP絵はがきとのちがいは明らかで、文化村が箱根土地の一方的な思い入れや主観で表現されていたコピーに比べ、国立のコピーは「開拓者たる使命」のもと「皆さんの自然的協力」をもって、国立の街を発展させていこうという、いわばディベロッパーと住民との協業による事業をうかがわせるような文面になっている。
 くだいていえば、今日の“街おこし”のように「みんなで一緒に盛りあげていこうぜ」といった、開発者と住民とのインタラクティブな関係を匂わせている。これは、目白文化村ではついぞ見られなかった箱根土地の姿勢だ。箱根土地は、1925年(大正14)12月に本社を下落合から国立へ移転しているので、同絵はがきは1926年(大正15)ごろに制作されたものと思われる。つづいて、少しあとに刷られたとみられる絵はがきのコピーを引用してみよう。
  
 商科大学の専門部と商業教員養成所が愈々来る四月より国立の新校舎で開校と本日発表されました。/国立は教育の聖都郊外安住の地です、そこには一人で数万坪を擁して豪奢を誇る大邸宅もない代りに、見るも悲惨な貧民窟もありません。道路、下水、水道等の施設はもとより音楽堂、鳥獣の飼育場、児童遊戯場等があつて百万坪の国立全体が美しい松林の大公園をなして政府から禁猟区域として指定された位です。やがて数万の在住者が健康と幸福に恵まれた生活を楽しみ彼のモーアのユートピヤが地上に実現するのも近きにあります。/東京商科大学は目下盛に工事中で東京高等音楽学院、国立小学校は已に開校しました。/此の町は日に月に芸術的な立派なものに創造されてゆきます。/国立は東京駅まで約一時間 定期券を買へば一日何回乗つても僅かに拾六銭です。(以下、新宿駅からの汽車の時刻表/略)
  
 ちなみに、絵はがきごとに毎回書かれる「定期券を買へば」のクロージングだが、1日に13便しかない汽車に何回も乗ることなどありえないだろう。
 箱根土地が自身で開発しているにもかかわらず、「此の町は日に月に芸術的な立派なものに創造されてゆきます」と、あたかも他人ごとのように第三者的な視点で書いているのは、先述した国立開発は住民の「皆さんの自然的協力」があってこそという、協業的なスタイルを打ちだしたいがためなのだろう。ディベロッパーとしての箱根土地は、あたかもインフラ整備のみで、舞台の“黒子”に徹しているかような印象を与える表現だ。
 国立絵はがきのコピーに登場している“売り”のサービス施設、「音楽堂、水禽舎、動物舎、児童遊戯場等」のほとんどは、開発が終了してしばらくすると解体され追加の宅地や異なる施設にされているのは、目白文化村の「文化村倶楽部」Click!「柔道場・相撲場(第一文化村テニスコート)」Click!、各種モデルハウスなどとまったく同じだ。これらは、あくまでも顧客にアピールし購買欲を喚起するための娯楽施設(販促材)などであって、用が済めばサッサと解体し宅地化するか、別の施設や用途に転用されている。
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 国立の絵はがきは、配布されるごとにコピーがより具体的になり、一連の開発ルポを読むような感覚にとらわれる。「ここまでできました」「こんなものまで建ちました」というコピーは、そのまま見込顧客の「皆さんの自然的協力」(つまり分譲地購入)を求めるニュアンスとなっている。ターゲットは、明らかに下落合の目白文化村と同じく、勤め人で中流の上層をねらっていると思われるが、単に「分譲販売中」という文化村のそっけない呼びかけ調のSPに比べると、「共存共栄の主旨を実現」するため一緒に協力しあいませんか?……と呼びかけ、顧客の想いへ一歩踏みこんだアプローチとなっている点が大きなちがいだろう。

◆写真上:国立に建てられた商店で、洋風の外観だが店先には桶が見える。
◆写真中上は、もっとも多く刷られた目白文化村のSP絵はがき。中上は、その裏面コピー。中下は、神谷邸Click!を写したSP絵はがきの裏面コピー。は、下落合における箱根土地本社の所在地(左)と国立移転後の同本社所在地(右)。
◆写真中下は、国立の分譲地に竣工した文化住宅。中上は、早期に配布された国立分譲SP絵はがき。中下は、一連の国立SP絵はがきに印刷された汽車の時刻表。は、開校直前の東京商科大学商学専門部を写したSP絵はがき。
◆写真下は、東京商科大学の大講堂完成予想図を印刷したSP絵はがき。中上は、「国立分譲地案内」のチラシ。中下は、同チラシの裏面。は、1928年(昭和3)の「東京商科大学予科敷地ノ交換ニ関スル件」の同大学が作成したマル秘資料。同資料によれば、箱根土地が東京商科大学のある国立から国分寺を経由し、同大学予科のある小平までの鉄道敷設計画を提案していたのがわかる。もちろん、そのような鉄道は当時もいまも存在せず、開発を促進するためのその場限りで終わったプレゼンテーションだろう。
おまけ
 国立の販促用絵はがきは豊富で、大量に制作されている。上は1926年(大正15)印刷の人着絵はがきで、下は同じころ制作の国立駅舎から見た水禽舎と箱根土地本社(右)。
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目白文化村で極貧生活の戸田達雄。 [気になる下落合]

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 「マヴォ」Click!に参加していた戸田達雄Click!が、上落合の借家にやってきたのは1923年(大正12)中あるいは1924年(大正13)の初頭だとみられるが、この借家がどこにあったのかがハッキリしない。それまでは、ライオン歯磨広告部画室に勤務していたが、「未来派美術協会」にあこがれて上落合186番地の村山知義Click!や、上落合742番地の尾形亀之助Click!らが住んでいた上落合へとやってきている。
 戸田達雄が上落合へと移り住んだとき、「未来派美術協会」に参加していたメンバーとはすでに知り合いだった。きっかけは、東京駅前の丸ビルに開設されていたライオン歯磨の「ライオンショールーム」で、1923年(大正12)4月に「未来派美術協会習作展」が開かれ、のちにマヴォの中核メンバーとなる尾形亀之助Click!や門脇晋郎、大浦周造、柳瀬正夢Click!らと、同社のグラフィック・デザイナーだった戸田達雄は親しく交流したのだろう。この展覧会の企画・開催には、戸田自身も少なからずかかわっていたのかもしれない。
 つづいて、1923年(大正12)5月15日から19日まで神田文房堂で開催された、村山知義Click!による「意識的構成主義的作品展覧会」も戸田達雄は観賞している。その直後、すでに知りあっていた未来派美術協会の親しい誰かに連れられ、戸田は上落合の三角アトリエを訪問している。なお、未来派美術協会は村山知義Click!の展覧会が開かれていた同年5月17日で、発展的に解散している。新たなマヴォ時代の幕開けであり、戸田が上落合に転居してくるのは、同年9月1日に起きた関東大震災Click!のあとのことだ。
 戸田達雄は、厩橋東詰めの本所外手町にあったライオン歯磨の寄宿舎が震災で焼け、しばらくは巣鴨にある社長宅の寮に落ち着くが、そこから壊滅したライオン歯磨本所工場のあと片づけに出勤している。だが、ほどなく社長宅の寮をでて、上落合に転居しているとみられる。なぜなら、戸田達雄『私の過去帖』(私家版)には、上落合のある地域を「落合村」と表現しているらしいからだ。落合村が、町制施行で「落合町」になるのは関東大震災の5ヶ月後、1924年(大正13)2月1日からであり、戸田達雄にとって住所を「豊多摩郡落合村」と書ける時期は、この5ヶ月間しか残されていないからだ。
 上記に、落合村と「表現しているらしいからだ」と書いたのは、残念ながら戸田達雄『私の過去帖』を直接参照できていないのだ。同書は、私家版のせいか高価であり、子息が書いた書籍でしか確認できない。2016年(平成28)に文生書院から出版された戸田桂太『東京モノクローム-戸田達雄・マヴォの頃』から、当時の様子を少し引用してみよう。
  
 会社の寄宿舎を出たタツオ(戸田達雄)は村山知義やマヴォイストの面々が多く住んでいる府下豊玉郡(ママ:豊多摩郡)落合村に借家を見つけ、村山のアトリエに集まるメンバーに加わった。村山や柳瀬はもとより、高見沢路直(のち田河水泡)、矢橋丈吉、住谷磐根、加藤正雄など、同じ歳だった岡田龍夫以外、マヴォイストたちの多くはタツオより少し年上だった。遅れて参加したタツオが「マヴォ」の一番若い同人だったようだ。尾形亀之助は既に「マヴォ」とは疎遠になっていたが、やはり落合村に住み、タツオと尾形はその後も親密な関係を続けていた。/「マヴォ」の活動史にはじめてタツオの名前が出てくるのは、大正十三(一九二四)年四月に前橋で開催された「マヴォ展」だと思われる。前橋市桑町の日高屋文具店二階の画廊で、イワノフ・スミヤヴィッチ<住谷磐根>と戸田達雄の作品を数点づつ(ママ:ずつ)展示し、そこに高見沢路直も加わった。前橋はタツオの故郷でもあり、当時も母や兄、妹たちが暮らしていた。住谷も前橋に近い国府村の出身だった。(カッコ内引用者註)
  
 戸田達雄は、1924年(大正13)2月末日でライオン歯磨広告部を退社している。
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 村山知義をはじめ、文中のマヴォ仲間の多くは上落合に住んでいた、あるいは住むことになるが、戸田達雄と高見沢路直Click!(田河水泡Click!)はのちに下落合へ、柳瀬正夢Click!はのちに西落合の鬼頭鍋三郎アトリエClick!の隣りへ住むことになる。特に、高見沢路直(田河水泡)が「少年倶楽部」へ連載する漫画『のらくろ』は、1931年(昭和6)から目白文化村Click!で描かれていくことになる。
 戸田達雄が暮らしていた借家は、家賃が13円ということで当時の落合地域ではかなり高かったが、婦人之友社Click!から発行される雑誌類のイラストや、「子供之友」などの挿画を描くことで月収が20~30円ほどは確保できていたようだ。だが、マヴォの同人会費が10円/月であり家賃が13円だったので、月に30円の収入があったとしても7円しか手もとに残らないことになる。しかも、婦人之友社の仕事は定期ではなくイレギュラーなので、当然30円にも満たない月がある。前衛美術家として出発した戸田達雄は、既成の「画壇」と闘うよりも先に、貧困な暮らしと闘わなければならなかった。
 同書によれば、米を食べれば1ヶ月はとてももたないので、小麦粉を買ってきては水で練り、それを焼いて食べる生活がつづいたという。東京方言でいえば、どんど焼き(お好み焼き)Click!もどき、あるいはネパールのチャパティのようなものを作っては毎日飢えをしのいでいたようだ。小麦粉3.5kgで、およそ4~5日はもたせられるとしているので、1日に小麦粉700gほどしか摂取していないことになる。これでは栄養失調になるのは目に見えているので、友人知人を頼っては借金をすることになった。
 また、どんど焼きもどきに飽きると、粥やおじや(雑炊)を作ることもあったようだ。同書に引用された、戸田達雄『私の過去帖』から孫引きしてみよう。
  
 土製の七輪で煮炊きをする燃料は集めてきた枯枝や、道の辻に立っている歯医者や産婆の看板の古びたのを、これはもう年限がきていると勝手に決めて引き抜いて来て、砕いて燃した。大麦を包丁で切りきざんで粥にし、オートミール気取りで食べるのも主食だった。たまには目白通りへ行って十銭の牛めし丼を食うとか、小間切り牛豚肉を五銭買ってきて枯腸をいやした。電車賃がないので歩いて小滝橋→高田馬場→早稲田→飯田橋→九段→神田→日本橋→銀座へと行き、誰かをつかまえて何か食べさせて貰い、帰りの電車賃までせしめることも再々だった。
  
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戸田達雄「死刑宣告」リノカット1925.jpg
 文中の「歯医者や産婆の看板」の立てられていた位置がわかりさえすれば、それら医療機関あるいは関係者の所在地・住所はおおむね判明しているので、戸田達雄が暮らしていた借家の位置がかなり絞りこめそうだが、それについては触れられていない。
 この一文は、小滝橋から早稲田通りへ入り高田馬場へと向かっているので、明らかに上落合時代の生活の一端だろう。わたしは10年ちょっと前まで、会社からの帰りを飯田橋から下落合まで毎日歩いて帰っていたClick!が、たどるコースにもよるけれどおよそ5kmの距離だった。戸田達雄のたどったコースは、千代田城Click!の外濠を右まわりで銀座へと抜けているので、その倍の10kmはゆうに超えそうだ。歩く速度にもよるが、1時間半から2時間はかかっただろう。しかも、空腹だったりするとかなり身体にはこたえたにちがいない。
 このあと、13円の家賃を払いきれない戸田達雄は、1925年(大正14)4月に下落合1379番地の“建物”へ引っ越してきた、詩人・萩原恭次郎宅へ転がりこむことになる。さて、この下落合1379番地の建物は住宅として建てられたものではなく、箱根土地Click!堤康次郎Click!宇田川家Click!の敷地を借りて柔道場と相撲場を建てていた跡地、1925年(大正14)現在では第一文化村のテニスコートが造られていた地番の一画だ。すなわち、同コートに付属するクラブハウス的な建物(小屋)だった。住宅ではないので家賃は5~8円と安く、同じく詩人の小野十三郎Click!も一時的だがここに住んでいるとみられる。
 萩原恭次郎は、この建物に1925年(大正14)4月から翌1926年(大正15)1月まで住んでいるので、戸田達雄も1926年(大正15)には再び転居せざるをえなかっただろう。そして、1929年(昭和4)になってから同建物に住むようになったのが詩人・秋山清Click!だ。秋山は、施設を管理する箱根土地と地主である宇田川家Click!との板ばさみに遭い、なにがなんだかわからないまま上高田へと転居して、立ち退き料を元手にヤギ牧場Click!を経営することになるのはすでに記事に書いたとおりだ。
 また、秋山清が住んでいた時期、1931年(昭和6)にテニスコートのすぐ西側に邸をかまえているのが、戸田達雄のマヴォ仲間だった高見沢路直(田河水泡)Click!だ。田河水泡は、秋山清が文化村ですでに飼いはじめていたヤギを目撃して不思議がっている。「少年倶楽部」へ『のらくろ』が連載されるのは、このあと少したって1931年(昭和6)からのことだ。
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 1925年(大正14)9月に、戸田達雄は新興美術運動の美術家たちが結集し三科造形美術協会へ参加するが、同協会はすぐに空中分解してしまう。美術家ではとても食えないと考えた戸田は、同年にライオン歯磨広告部時代の仲間たちと広告デザイン会社「オリオン社」を起業する。神田須田町にある同社へ通勤するため、戸田は神田神保町に仕事場を設置しているので、おそらく1924年(大正14)の暮れには、すでに下落合にはいなかったのだろう。

◆写真上:第一文化村の二間道路で、右側が1925年(大正14)に萩原恭次郎と戸田達雄が住んでいたテニスコート跡。1929年(昭和4)になると秋山清が住み、コート脇でヤギを飼っていた。また、道路左手の一画には漫画家の田河水泡が住んでいた。
◆写真中上は、1925年(大正14)に婦人之友社から発行の「子供之友」5月号に収録された戸田達雄の挿画による『ねことじどうしゃ』。は、1933年(昭和8)に婦人之友社発行の「子供之友」7月号に掲載された戸田達雄の挿画『波の音』。
◆写真中下は、1924年(大正13)4月に前橋で開催された「マヴォ展」記念写真。左から右へ戸田達雄、高見沢路直(田河水泡)、住谷磐根Click!は、1924年(大正13)10月発行の「マヴォ」第4号に添付された戸田達雄『予言』。は、1925年(大正14)発表の萩原恭次郎による詩集『死刑宣告』に挿入された戸田達雄『死刑宣告』。
◆写真下は、一時期はそろって下落合1379番地の第一文化村に住んでいた戸田達雄()と萩原恭次郎()。萩原恭次郎が当初参加していた「現代詩歌」の川路柳虹Click!も、1918年(大正7)の早い時期から上落合581番地に住んでいた。下左は、2016年(平成28)に文生書院から出版された戸田桂太『東京モノクローム-戸田達雄・マヴォの頃』。下右は、1972年(昭和47)に私家版として出版された戸田達雄『私の過去帖』。

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気力・吸気・腹案が「観念力」と「光波」を生む? [気になる下落合]

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 下落合356番地に住んだ静坐法Click!岡田虎二郎Click!や、下落合617番地を終(つい)の棲家にした光波のデスバッチClick!松居松翁Click!は、健康や施療に対してどのような考え方をもっていたのだろうか。大正期の日本心霊学会Click!(のち人文書院)が遺した資料を読んでいると、彼らの基盤となった共通する考え方が見えてくるようだ。
 たとえば、1913年(大正2/改訂版1924年)に日本心霊学会から出版された、同会の創立者で会長だった渡邊籐交『心霊治療秘書』から、少し引用してみよう。
  
 鼻呼吸は息が細く静かに調節せられるために動悸を制し心臓にも好い影響を与へるの外、口元の締りをよくし人相を善くする、口から呼吸する人、即ち常に口を開けてゐる人は馬鹿顔に見える。締りがないからである。口元に締りがない人は心にも締りがない。充実し緊張したときには口が締り呼吸も鼻からせざるを得ぬのである。従つて修養中はよく此点にも注意せねばならぬ。それから吸ひ込んだ息を暫らく丹田に溜てをくのは血液の循環をよくするためである。腹一杯、吸ひ込んだ息は丹田(臍の下)に溜てをく。此時は無息の状態に居ねばならぬ。無息の状態に居るときに偉大なる働きをするので、何人でも十秒時や十五秒間は無息で居られるものである。さうして愈よ息苦しくなつて来て、初めて細く成るべく長く静かに鼻から吐き出すのである。吸ひ込んだ息を丹田に湛えてゐる間は全身の血管は悉く緊張し力一杯に張つて来る、
  
 わたしは花粉症なので、春先の2~3月は口呼吸をすることが多くなり、確かに「馬鹿顔」に見えると思う。ここ数年はCOVID-19禍でマスクが隠し、かなり助かっていたことも確かだが、「心に締りがない」のはいまにはじまったことではない。
 つまり、「心霊治療」を行う重要な要素として、「鼻呼吸」がいかに重要なのかを渡邊籐交は解説している。そして、吸気を肺ではなく「丹田」に溜めて(?)、全身の血流をスムーズにしていく、いわゆる腹式呼吸がいかに重要かを説いている。これは、「観念力=念力」を発揮するために必要な基本形のひとつで、ほかに「気力」と「腹案」をあわせることで、「念力」を備えることができ、それによって「心霊治療」に必要な「光波震動」を起こすことができるようになる……ということらしい。
 渡邊籐交の文章はまわりくどく、引用しているだけですぐにページが埋まってしまいそうなので、ここは昨年(2022年)に人文書院から出版された栗田英彦・編『「日本心霊学会」研究-霊術団体から学術出版への道』より、「心霊治療」の要点を引用してみよう。
  
 まず、活元呼吸という特殊な呼吸法をおこなって「丹田に八分の程度で気力を湛えると、一種の波動的震動を起す」。「これが光波震動である。この震動と共に病気を治してやろうとする目的観念を旺盛たらしめねばならぬ。目的観念とは予め構成したる腹案を念想する、つまり一念を凝せば腹案は遂に力としての観念となるものである。而して此観念が術者の全身に伝わり指頭を通じて弱者、即ち病人の疾患部に光波として放射集注するのである。之が終って又呼気を新たにし光波震動を起し病者の心身に光波感応する。此刹那の感応が人心光波の交感である。福来博士の所謂観念力一跳の境である、心霊学者の所謂交霊であり心電感応の現象である」。
  
渡辺籐交「心霊治療秘書」1924.jpg 「日本心霊学会」の研究2022.jpg
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 つまり、呼吸法で「丹田」に気力を集中し、起きた「光波震動」を「病気を絶対に治すぞ、治療するぞ! 治療するぞ!」という観念(腹案)とともに、患者の身体へ「念力=光波震動」を送りこむと、相互の「光波感応」によって病気が治癒する……ということのようだ。これは、松居松翁の「光波のデスバッチ」とよく似ている。
 当時は「心霊」現象だと認知する認知しないは別にして、科学的にはいまだ解明されていない「念力=光波震動」を用いた治療法が、全国各地で試みられていたようだ。松居松翁のケースは、「霊」的ではなく「科学」的として「光波のデスバッチ」による患者への施術を行なっており、『落合町誌』(1932年)が「この療法の科学的根拠は光波のデスバツチで、それが動物の身体に応用される時、体内の血行を盛んならしめ、あらゆる疾患を一掃するもので、決して精神的とか霊的とかいふものでなく、この現象は医学者としても看過すべき出ないと思ふ」と書いたのは、大正末から昭和初期にかけ、いかがわしい詐欺師まがいの施術者が雨後のタケノコのように現れていたから、それと差別化するためにあえて意識的にこのような書き方をしているのだろう。
 また、1930年(昭和5)には警視庁が「心霊術」を取り締まる「療術講ニ関スル取締規則」を公布したため、それにひっかからないよう「科学的根拠」を強調しているものとみられる。もっとも、松居松翁の「光波のデスバッチ」も十分にいかがわしいのだが、ある側面では「光波」を当てたので「もう大丈夫、安心だ」と思わせる、心理療法的な効果(プラシーボ)は、その過程でいくばくか期待できるのかもしれない。
 渡邊籐交の『心霊治療秘書』では、「気力」と「吸気」、「腹案」の集中力によって「観念力」を生みだし、それが「光波震動」を起こす経過を、「統整されつゝある観念状態の図示」として、順次わかりやすく(?)表現したイラストも掲載されている。松居松翁が患者に行った、手かざしによる「光波のデスバッチ」の施術も、おそらく同じような方法論によって編みだされたものだろう。
 ただし、渡邊籐交が「光波」を生む「念力」を、あらかじめ「宇宙的エネルギー」を備えた人間の体内にやどる自然の「気」力であり、それを「宇宙の霊に合致」させることで「心霊治療」ができるとしたのに対し、松居松翁の「光波のデスバッチ」は、宇宙から降りそそぐ「気」(宇宙エネルギー)を体内に取りこみ「光波」に変換することで、「デスバッチ(実はdispatchの意味か?)」=手かざしによる施術が可能になるとしているようだ。すなわち、前者は唯心論的(精神論的)で、後者はその方法論は別にしても、目には見えないが後世の科学的な解明が待たれる「宇宙エネルギー」を用いるという点では、まがりなりにも「物理学」的ともいえるのだろうか。
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 松居松翁が、「光波のデスバッチ」で施術を行ったのは大正後期から昭和にかけて、すなわち渡邊籐交の『心霊治療秘書』と同時代なので、その施術については同書に触れられていないが、岡田虎二郎の静坐法は明治末から1920年(大正9)までのわずか10年間であり、彼の死後に出版された改訂版『心霊治療秘書』(1924年)には、他の呼吸法とともに岡田式静坐法についてかなりの紙数を割いている。
 特に静坐法への批判や、他の呼吸法との厳密な比較などはしていないが、端座し足の甲を重ねて重心をヘソの下=「丹田」にかけて身体を安定させ、口を閉じ鼻呼吸をしながら下腹部に力を入れて、「虚心坦懐」に「静坐」をすると紹介している。岡田式静坐法は、誰かを治療するのではなく自分自身の身体を壮健に保ち、病気がある場合は体内の血流を円滑化して自然治癒力を高めることを目的としているので、渡邊籐交の「心霊治療」とは目的がまったく異なるが、「呼吸法」の反応などについて、同書より少し引用してみよう。
  
 4.静座(ママ)呼吸の反応 氏の静座呼吸を行へば、其反応として身体が動揺する。膝上の両手は自然に離れるとか、頭が前後左右に動揺するとか、胸部足部動揺の結果膝行する者もある。此動揺は人の性状に依つて程度が異るのみならず、同一人でも時に依つて異ると云ふ。/5.静座原理 心身重心の安定として臍下丹田に力を込め、全身の力を集注する結果、腰部は堅く膨張し且つ強靭な不断の弾力を集中する、斯くして血液の循環は調和せられ心身の平安が期せられると云ふ。
  
 ちょうど、1960~70年代にかけて世界的に流行った禅や、ラジニーシズムに代表される「冥想」法に近いような趣きだ。もっとも、ブッダ(シャカ)を起源とする「冥想法」は、日本では身体が揺れたりすれば即座に警策でたたかれるのが常だが。
 わたしが参照している渡邊籐交の『心霊治療秘書』は、国立国会図書館に収蔵されている1924年(大正13)の改訂版だが、どうやら同書は岡田式静坐法を信奉する人物の蔵書だったらしい。往々にして、このような「健康法」や「施術」を信奉する人たちは、「わかってないな」とでも笑い流せばいいものを、同様の組織や集団に対しては敵対的であり、少しでも「まちがっている」ことが書いてあると、とたんに敵愾心をムキだしにした言質を吐き散らすものだが、同書にもそのような書きこみがいくつか見られる。
 たとえば、『心霊治療秘書』が呼吸法のみを取りあげ、「比較し見れば」と簡単なサマリーを書いてまとめている横に、「著者は岡田式静坐法の何物たるかを知らず。依て之を論ずる資格なし、況んや比較論評に於てをやである」と、怒りの文字が挿入されている。
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 怒りは、血管を収縮させ血圧を高め動悸を加速させる、岡田式静坐法がもたらす精神とは対極だと思うのだが、このようなミクロコスモス的集団の「信者」は、排外主義的に怒りを爆発させる傾向が顕著だ。そして、そのような人こそますます「不健康」になっていく?

◆写真上:京都市の河原町二条下ルにあった、日本心霊学会(人文書院)の本部。
◆写真中上上左は、1913年(大正2)に出版された渡邊籐交『心霊治療秘書』(日本心霊学会・改訂版/1924年)。上右は、2022年出版の栗田英彦・編『「日本心霊学会」研究』(人文書院)。は、『心霊治療秘書』の「呼吸法」と「観念力」のページ。
◆写真中下は、『心霊治療秘書』の著者・渡邊籐交()と、日本心霊学会からの著書が多い福来友吉()。は、日本心霊学会内にあった治療室で患者に「手当て」をしている様子。は、身体の中で形成される「観念状態」のイラスト。「右端は観念粉起(ママ)しつゝあるも注意を一点に凝集し統一しつゝあれば順次に統整し最後に左端の如く真我の状となり光波的霊活動をなす」と書かれている。イラストは上段右から下段左へと推移するのだが、若い子のネットスラングでいえば「ばりイミフ・草」だろうか。
◆写真下は、下落合に住んだ「光波のデスバッチ」の松居松翁()と、岡田式静坐法で知られた岡田虎二郎()。中上中下は、『心霊治療秘書』内の岡田式静坐法に関する解説。は、国会図書館の同書内に書きこまれた批判文の一部。

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