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目白文化村で極貧生活の戸田達雄。 [気になる下落合]

第一文化村テニスコート跡.JPG
 「マヴォ」Click!に参加していた戸田達雄Click!が、上落合の借家にやってきたのは1923年(大正12)中あるいは1924年(大正13)の初頭だとみられるが、この借家がどこにあったのかがハッキリしない。それまでは、ライオン歯磨広告部画室に勤務していたが、「未来派美術協会」にあこがれて上落合186番地の村山知義Click!や、上落合742番地の尾形亀之助Click!らが住んでいた上落合へとやってきている。
 戸田達雄が上落合へと移り住んだとき、「未来派美術協会」に参加していたメンバーとはすでに知り合いだった。きっかけは、東京駅前の丸ビルに開設されていたライオン歯磨の「ライオンショールーム」で、1923年(大正12)4月に「未来派美術協会習作展」が開かれ、のちにマヴォの中核メンバーとなる尾形亀之助Click!や門脇晋郎、大浦周造、柳瀬正夢Click!らと、同社のグラフィック・デザイナーだった戸田達雄は親しく交流したのだろう。この展覧会の企画・開催には、戸田自身も少なからずかかわっていたのかもしれない。
 つづいて、1923年(大正12)5月15日から19日まで神田文房堂で開催された、村山知義Click!による「意識的構成主義的作品展覧会」も戸田達雄は観賞している。その直後、すでに知りあっていた未来派美術協会の親しい誰かに連れられ、戸田は上落合の三角アトリエを訪問している。なお、未来派美術協会は村山知義Click!の展覧会が開かれていた同年5月17日で、発展的に解散している。新たなマヴォ時代の幕開けであり、戸田が上落合に転居してくるのは、同年9月1日に起きた関東大震災Click!のあとのことだ。
 戸田達雄は、厩橋東詰めの本所外手町にあったライオン歯磨の寄宿舎が震災で焼け、しばらくは巣鴨にある社長宅の寮に落ち着くが、そこから壊滅したライオン歯磨本所工場のあと片づけに出勤している。だが、ほどなく社長宅の寮をでて、上落合に転居しているとみられる。なぜなら、戸田達雄『私の過去帖』(私家版)には、上落合のある地域を「落合村」と表現しているらしいからだ。落合村が、町制施行で「落合町」になるのは関東大震災の5ヶ月後、1924年(大正13)2月1日からであり、戸田達雄にとって住所を「豊多摩郡落合村」と書ける時期は、この5ヶ月間しか残されていないからだ。
 上記に、落合村と「表現しているらしいからだ」と書いたのは、残念ながら戸田達雄『私の過去帖』を直接参照できていないのだ。同書は、私家版のせいか高価であり、子息が書いた書籍でしか確認できない。2016年(平成28)に文生書院から出版された戸田桂太『東京モノクローム-戸田達雄・マヴォの頃』から、当時の様子を少し引用してみよう。
  
 会社の寄宿舎を出たタツオ(戸田達雄)は村山知義やマヴォイストの面々が多く住んでいる府下豊玉郡(ママ:豊多摩郡)落合村に借家を見つけ、村山のアトリエに集まるメンバーに加わった。村山や柳瀬はもとより、高見沢路直(のち田河水泡)、矢橋丈吉、住谷磐根、加藤正雄など、同じ歳だった岡田龍夫以外、マヴォイストたちの多くはタツオより少し年上だった。遅れて参加したタツオが「マヴォ」の一番若い同人だったようだ。尾形亀之助は既に「マヴォ」とは疎遠になっていたが、やはり落合村に住み、タツオと尾形はその後も親密な関係を続けていた。/「マヴォ」の活動史にはじめてタツオの名前が出てくるのは、大正十三(一九二四)年四月に前橋で開催された「マヴォ展」だと思われる。前橋市桑町の日高屋文具店二階の画廊で、イワノフ・スミヤヴィッチ<住谷磐根>と戸田達雄の作品を数点づつ(ママ:ずつ)展示し、そこに高見沢路直も加わった。前橋はタツオの故郷でもあり、当時も母や兄、妹たちが暮らしていた。住谷も前橋に近い国府村の出身だった。(カッコ内引用者註)
  
 戸田達雄は、1924年(大正13)2月末日でライオン歯磨広告部を退社している。
戸田達雄「ねこじどうしゃ」子供之友192505.jpg
戸田達雄「波の音」子供之友193307.jpg
 村山知義をはじめ、文中のマヴォ仲間の多くは上落合に住んでいた、あるいは住むことになるが、戸田達雄と高見沢路直Click!(田河水泡Click!)はのちに下落合へ、柳瀬正夢Click!はのちに西落合の鬼頭鍋三郎アトリエClick!の隣りへ住むことになる。特に、高見沢路直(田河水泡)が「少年倶楽部」へ連載する漫画『のらくろ』は、1931年(昭和6)から目白文化村Click!で描かれていくことになる。
 戸田達雄が暮らしていた借家は、家賃が13円ということで当時の落合地域ではかなり高かったが、婦人之友社Click!から発行される雑誌類のイラストや、「子供之友」などの挿画を描くことで月収が20~30円ほどは確保できていたようだ。だが、マヴォの同人会費が10円/月であり家賃が13円だったので、月に30円の収入があったとしても7円しか手もとに残らないことになる。しかも、婦人之友社の仕事は定期ではなくイレギュラーなので、当然30円にも満たない月がある。前衛美術家として出発した戸田達雄は、既成の「画壇」と闘うよりも先に、貧困な暮らしと闘わなければならなかった。
 同書によれば、米を食べれば1ヶ月はとてももたないので、小麦粉を買ってきては水で練り、それを焼いて食べる生活がつづいたという。東京方言でいえば、どんど焼き(お好み焼き)Click!もどき、あるいはネパールのチャパティのようなものを作っては毎日飢えをしのいでいたようだ。小麦粉3.5kgで、およそ4~5日はもたせられるとしているので、1日に小麦粉700gほどしか摂取していないことになる。これでは栄養失調になるのは目に見えているので、友人知人を頼っては借金をすることになった。
 また、どんど焼きもどきに飽きると、粥やおじや(雑炊)を作ることもあったようだ。同書に引用された、戸田達雄『私の過去帖』から孫引きしてみよう。
  
 土製の七輪で煮炊きをする燃料は集めてきた枯枝や、道の辻に立っている歯医者や産婆の看板の古びたのを、これはもう年限がきていると勝手に決めて引き抜いて来て、砕いて燃した。大麦を包丁で切りきざんで粥にし、オートミール気取りで食べるのも主食だった。たまには目白通りへ行って十銭の牛めし丼を食うとか、小間切り牛豚肉を五銭買ってきて枯腸をいやした。電車賃がないので歩いて小滝橋→高田馬場→早稲田→飯田橋→九段→神田→日本橋→銀座へと行き、誰かをつかまえて何か食べさせて貰い、帰りの電車賃までせしめることも再々だった。
  
前橋「マヴォ展」192404.jpg
戸田達雄「予言」リノカット1924.jpg
戸田達雄「死刑宣告」リノカット1925.jpg
 文中の「歯医者や産婆の看板」の立てられていた位置がわかりさえすれば、それら医療機関あるいは関係者の所在地・住所はおおむね判明しているので、戸田達雄が暮らしていた借家の位置がかなり絞りこめそうだが、それについては触れられていない。
 この一文は、小滝橋から早稲田通りへ入り高田馬場へと向かっているので、明らかに上落合時代の生活の一端だろう。わたしは10年ちょっと前まで、会社からの帰りを飯田橋から下落合まで毎日歩いて帰っていたClick!が、たどるコースにもよるけれどおよそ5kmの距離だった。戸田達雄のたどったコースは、千代田城Click!の外濠を右まわりで銀座へと抜けているので、その倍の10kmはゆうに超えそうだ。歩く速度にもよるが、1時間半から2時間はかかっただろう。しかも、空腹だったりするとかなり身体にはこたえたにちがいない。
 このあと、13円の家賃を払いきれない戸田達雄は、1925年(大正14)4月に下落合1379番地の“建物”へ引っ越してきた、詩人・萩原恭次郎宅へ転がりこむことになる。さて、この下落合1379番地の建物は住宅として建てられたものではなく、箱根土地Click!堤康次郎Click!宇田川家Click!の敷地を借りて柔道場と相撲場を建てていた跡地、1925年(大正14)現在では第一文化村のテニスコートが造られていた地番の一画だ。すなわち、同コートに付属するクラブハウス的な建物(小屋)だった。住宅ではないので家賃は5~8円と安く、同じく詩人の小野十三郎Click!も一時的だがここに住んでいるとみられる。
 萩原恭次郎は、この建物に1925年(大正14)4月から翌1926年(大正15)1月まで住んでいるので、戸田達雄も1926年(大正15)には再び転居せざるをえなかっただろう。そして、1929年(昭和4)になってから同建物に住むようになったのが詩人・秋山清Click!だ。秋山は、施設を管理する箱根土地と地主である宇田川家Click!との板ばさみに遭い、なにがなんだかわからないまま上高田へと転居して、立ち退き料を元手にヤギ牧場Click!を経営することになるのはすでに記事に書いたとおりだ。
 また、秋山清が住んでいた時期、1931年(昭和6)にテニスコートのすぐ西側に邸をかまえているのが、戸田達雄のマヴォ仲間だった高見沢路直(田河水泡)Click!だ。田河水泡は、秋山清が文化村ですでに飼いはじめていたヤギを目撃して不思議がっている。「少年倶楽部」へ『のらくろ』が連載されるのは、このあと少したって1931年(昭和6)からのことだ。
戸田達雄.jpg 萩原恭次郎.jpg
戸田桂太「東京モノクローム」文生書院2016.jpg 戸田達雄「私の過去帖」(私家版)1972.jpg
 1925年(大正14)9月に、戸田達雄は新興美術運動の美術家たちが結集し三科造形美術協会へ参加するが、同協会はすぐに空中分解してしまう。美術家ではとても食えないと考えた戸田は、同年にライオン歯磨広告部時代の仲間たちと広告デザイン会社「オリオン社」を起業する。神田須田町にある同社へ通勤するため、戸田は神田神保町に仕事場を設置しているので、おそらく1924年(大正14)の暮れには、すでに下落合にはいなかったのだろう。

◆写真上:第一文化村の二間道路で、右側が1925年(大正14)に萩原恭次郎と戸田達雄が住んでいたテニスコート跡。1929年(昭和4)になると秋山清が住み、コート脇でヤギを飼っていた。また、道路左手の一画には漫画家の田河水泡が住んでいた。
◆写真中上は、1925年(大正14)に婦人之友社から発行の「子供之友」5月号に収録された戸田達雄の挿画による『ねことじどうしゃ』。は、1933年(昭和8)に婦人之友社発行の「子供之友」7月号に掲載された戸田達雄の挿画『波の音』。
◆写真中下は、1924年(大正13)4月に前橋で開催された「マヴォ展」記念写真。左から右へ戸田達雄、高見沢路直(田河水泡)、住谷磐根Click!は、1924年(大正13)10月発行の「マヴォ」第4号に添付された戸田達雄『予言』。は、1925年(大正14)発表の萩原恭次郎による詩集『死刑宣告』に挿入された戸田達雄『死刑宣告』。
◆写真下は、一時期はそろって下落合1379番地の第一文化村に住んでいた戸田達雄()と萩原恭次郎()。萩原恭次郎が当初参加していた「現代詩歌」の川路柳虹Click!も、1918年(大正7)の早い時期から上落合581番地に住んでいた。下左は、2016年(平成28)に文生書院から出版された戸田桂太『東京モノクローム-戸田達雄・マヴォの頃』。下右は、1972年(昭和47)に私家版として出版された戸田達雄『私の過去帖』。

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