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日本文壇から排斥された「世界文学」の大泉黒石。 [気になる下落合]

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 下落合4丁目(現・中井2丁目)の五ノ坂下に、大泉黒石Click!が引っ越してきたのは、関東大震災Click!の直後、1924年(大正13)のことだった。それ以前は、1921年(大正10)から高田村雑司ヶ谷に住んでいたが、短い期間だけ長崎村に住んだあと下落合へ転居している。ちなみに、関東大震災のときはすでに南長崎(ママ)にいたとする黒石の長男・大泉淳の証言もあり、このあたり震災の混乱もあってか記憶が錯綜しているようだ。
その後、大泉黒石とその子どもたちのみならず、黒石の研究者たちも転居先とそれにともなうエピソードについて混乱していることがわかった。詳細はこちらの記事Click!へ。
 長崎村の住所を、「椎名町」とする年譜が存在しているが、椎名町Click!は江戸期の清戸道Click!(およそ現・目白通り)沿いの下落合村と長崎村の両側に形成された街道町Click!の名称、あるいは北へ500mほど離れた武蔵野鉄道の駅名であって、1923年(大正12)現在の住所は長崎村(字)椎名町が正確な表記だろう。おそらく、大泉黒石は目白通りも近い長崎村の最南部(のちに南長崎と呼ばれる長崎村側の椎名町Click!)に住んでいたとみられる。このあと、大泉一家は東京土地住宅Click!が1922年(大正11)以来、「アビラ村」(芸術村)Click!と名づけて開発していた下落合の西部、目白文化村Click!の西側へと転居してくる。
 この「アビラ村」(芸術村)Click!での大泉邸は、五ノ坂から路地を西側へ家1軒分入りこんだ旗竿地、大正期の二瓶貞次郎邸が建っていた西隣りの、下落合2130番地の大きな屋敷だと思われる。大震災の前から、大泉黒石はベストセラー作家として活躍しており、また映画監督・溝口健二と組んで『血と霊』(日活)を制作するなど、彼の生涯でもっとも多忙で収入が多かった時期にアビラ村(芸術村)へ移り住んでいる。だから、一家全員に加え書生を3~4人置けるほど、家賃が50円/月の大きな屋敷を借りられたのだろう。黒石は家族とともに、この屋敷で1942年(昭和17)までの17~18年をすごすことになる。
 なぜ、下落合2130番地の屋敷だと規定できるのかといえば、すでに大正期から五ノ坂下に建っており、のち1932年(昭和7)に林芙美子・手塚緑敏夫妻Click!が転居してくる“お化け屋敷”Click!(林の自称)、大泉邸と同じく家賃が50円/月だった和洋折衷館の「裏庭」に位置する大きな屋敷は、同地番の1棟しか存在していないからだ。大泉邸の子どもたちは、“お化け屋敷”の裏庭から林・手塚邸へ遊びに訪れている。また、林芙美子は大泉邸の庭になるみごとな落合柿Click!を、うらやまし気に眺めていた。
 1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を参照すると、のちに林芙美子・手塚緑敏Click!夫妻が住む下落合2133番地の屋敷には平山季明という人物が住んでいる。この裏庭に面する屋敷は、1926年(大正15)現在で北・北東・東側の3邸しかなく(西側は未開発のままだった)、北側の斜面に接した同じく下落合2133番地は本間長一邸、北東の斜面に面していた下落合2130番地は佐藤吉三郎邸と記録されている。だが、裏庭の東側に面した下落合2130番地の邸には名前が記載されていない。路地の奥にある旗竿地だったせいか、五ノ坂に面した二瓶貞次郎邸を採取しただけで、同明細図の調査員は調査漏れに気づかなかったか、あるいは表札を出していなかった可能性がありそうだ。
 平山季明一家がどこかへ転居したあと、1932年(昭和7)に上落合850番地Click!尾崎翠Click!旧居跡Click!から、林芙美子・手塚緑敏夫妻が下落合2133番地の屋敷に住むようになると、その裏庭に面した(林・手塚邸の台所からは見上げる位置にあたる)大泉黒石邸についての文章が残っている。1934年(昭和9)に改造社から刊行された、「旅だより」収録の『柿の実』という「随筆」だ。これがエッセイ=事実でなく、一部が林芙美子の想像による創作(フィクション)だったことが、のちに大泉黒石の二女・大泉淵によって、やや怒り気味の文章で否定されている。まずは、林芙美子の『柿の実』から引用してみよう。
  
 夏中空家であつた隣家の庭に、私がねらつてゐた柿の木があつた。無性に実をつけてゐて、青い粉をふいてゐた柿の実が毎日毎日愉しみに台所から眺められたのに、あと二週間もしたら眺められると云ふ頃、七人の子供を引き連れた此家族が越して来たので、私はその柿の実を只うらやましく眺めるより仕方がなかつた。(中略) 台所から覗くと淵子ちやんがもう柿を噛りながら唄をうたつてゐる。/「淵子ちやんお父さまは……」/「お酒のんでンの」/「お母さまは」/「おちごと」/「お兄さまは」/「ガツコ」/「お姉さまは」/「お母さまのお手つだひ」/「洽子さんは」/「ガツコ」……。
  
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 まず、1924年(大正13)から下落合の五ノ坂下に住んだ大泉家が、なぜか林芙美子が転居してきた1932年(昭和7)以降に転居してきたことになっているのに、読まれている方々はすでにお気づきだろう。大泉黒石が下落合に住んで8年後、『放浪記』Click!がヒットした林芙美子が夫とともに、五ノ坂下の屋敷へ引っ越してきているのが事実だ。
 また、大泉淵と林芙美子との会話にもフィクションが混じっているとみられる。文中で林芙美子は、「大泉黒石と云ふひとにまるで知識がない」と書いているが、そんなことはないはずだ。昭和初期の同時代、日本文学(=「私小説」)の文壇から激しく排斥されようとしていた、「私小説」家とは無縁な日本人とロシア人のハーフだったベストセラー作家を知らなかったはずはない。少し前まで、大泉黒石は『放浪記』がヒットした林芙美子よりも、よほど原稿料の実入りがよかったはずだ。だからこそ、アビラ村(芸術村)の大きな屋敷を借りて、大家族を養うことができたのだろう。
 1988年(昭和63)に緑書房から出版された、『大泉黒石全集』付録の「黒石廻廊/書報No.1」(1988年2月25日)より、大泉黒石の二女・大泉淵の証言を聞いてみよう。
  
 林芙美子の随筆の中に、「お父様は?」、「お酒のんでるの」。「お母様は?」、「お父様のご飯つくってるの」と書いてあるけれども、私は、「お父様はお仕事してるの」、と言ったつもり。子供にもプライドや体裁はあるものです。
  
 私小説主流の日本文壇から、虚偽の情報やウワサ(“主犯”は村松梢風Click!田中貢太郎Click!らといわれている)を流され、「日本人」とは見なされない“あいの子”差別とともに意図的に排斥されようとしていた大泉黒石は、より質が高く視野の広い「世界文学」(当時の日本文学=「私小説」ではない)や旅行記に取り組もうと、必死に原稿用紙と向かいあっていたはずで、育ち盛りの子どもたちを養うために酒を飲んでいるヒマなどなく、どう考えても大泉淵の証言どおり「お仕事してるの」が事実だったろう。
 事実にもとづいて書かれているとされる随筆やエッセイの類にも、ついフィクション(虚偽)が混じるのは小説家の性(さが)としてはいたしかたのない側面もあるのは、全身小説家Click!の“嘘つきミッちゃん”の記事でも触れたが、上記のケースはヘソ曲がりなわたしから見れば、林芙美子は当時の私小説家が群れ集う文壇から「異端」とされ、はじき出されようとしている大正期のベストセラー作家へ、文壇主流派の意向を忖度して彼の“落ちぶれた姿”を描いてみせた……と考えるのは、あまりにもうがちすぎだろうか。尾崎翠Click!を鳥取で「殺し」てみたり、矢田津世子Click!の大切な作品原稿を押入れの奥に隠して「行方不明」にしたりと、没後に次々と明らかになった彼女の行状を考えると、ついつい疑ってしまうのだ。
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 大泉黒石は、1893年(明治26)にロシア外交官と長崎税関長の娘・本山ケイとの間に生まれ、日本名を大泉清、ロシア名をアレクサンドル・ステパノヴィチ・キヨスキーと名乗っていた。生まれてすぐ母親を亡くし、当初は日本で育ったが10歳のとき父親が死去してロシアの叔母のもとへ引きとられ、モスクワの小学校へ転校している。11歳のとき、父親の故郷であるヤースナヤ・ポリャーナを訪れ、76歳で浮浪者のような身なりのレフ・トルストイClick!と会話している。彼が生涯、晩年のトルストイズム的アナキズムの思想に共鳴しつづけたのは、このときの出会いが強烈な印象として焼きついたからだろう。
 1907年(明治36)の14歳のとき、叔母に連れられロシアからフランスに移住すると、モーパッサンの研究に夢中になり雑誌に「ヴィクトル・ユゴー博物館印象記」などを寄稿して評判になる。その後、スイスやイタリアをへて日本に帰国している。1915年(大正4)にロシアのペテルブルグの高校へ進学するが、二月革命に遭遇し身の危険を感じて帰国、三高(現・京都大学)に進学したが学費が払えず退学している。東京に転居してくると、父親の遺産で一高(現・東京大学)へ入学するが、遺産がつきて退学を余儀なくされた。
 こうして、大泉黒石は小説家をめざすことになるが、彼の視野は世界レベルであり日本語はもちろんロシア語、フランス語、英語、ドイツ語に堪能で、のちに中国語(漢文)にも精通していった。日本文学(私小説)にはない魅力をたたえた彼の作品は、次々とベストセラーになるが「大泉黒石はロシア語ができない」(村松梢風による悪質なフェイク情報)をはじめ、当時、ベストセラーをいまだ持たない小説家たちの嫉妬による、低劣な虚偽のウワサがあまた出版界に流され、それが彼の出自であるハーフに対する差別意識とあいまって、出版社からの原稿依頼が徐々に減っていくことになる。
 先述の『大泉黒石全集』全9巻(造型社)は、「全集」と銘打ってはいるが第1シリーズのみで、出版社の都合により第2シリーズは刊行されなかった。したがって、大泉黒石の作品群の多くが戦後未刊のままに終っている。今年(2023年)になって、岩波書店Click!は大泉黒石『俺の自叙伝』(岩波文庫)をはじめ彼の関連本を次々に刊行しはじめた。おそらく、『大泉黒石全集』(完全版)をいずれ出版する布石なのだろう。
 1960年代に、日本文学では「異端」「特異」などとされていた夢野久作Click!久生十蘭Click!江戸川乱歩Click!小栗虫太郎Click!ら(私小説ではなく完全なフィクションや物語を創造する力量のある、世界ではあたりまえの作家たち)が見直されたときも、大泉黒石にスポットライトが当たることはなかった。それは、彼がハーフであるがゆえに「日本文学」の範疇とは見なされなかったものか、あるいは大正末から昭和初期にかけてイヤというほど流された「彼は虚言癖」というウワサ(世界文学の視野から見れば「特異」な私小説が中心だった日本文壇だが、そもそも小説家が“虚言癖”でなくてどうするのだ? 別の国であれば、「彼は虚言癖」は一笑にふされただけで終わりだったろう)が、出版界で生きていたせいなのか、またはフェイク情報や排斥に加担した作家たちが、いまだ存命だったせいだからだろうか。
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大泉黒石「俺の自叙伝」2023.jpg 四方田犬彦「大泉黒石」岩波書店2023.jpg
 もうひとつ、わたしには気になることがある。同じく、昭和初期に日本文壇からも当局からも敵意をもって意図的に排斥されようとしていた(その急先鋒は小林秀雄Click!だ)、私小説とは無縁な大正期からのベストセラー作家に吉屋信子Click!がいる。まったく同じ時期に、下落合に住みあわせていたこのふたりだが、下落合2113番地の吉屋信子邸Click!と下落合2130番地の大泉黒石邸とは、五ノ坂をはさみ直線距離でわずか80m弱しか離れていない。このふたりの接点がどこかにないかどうか、わたしはここしばらく探しつづけている。

◆写真上:その容姿から、下落合2130番地邸の書斎で撮られたと思われる大泉黒石。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる平山邸裏庭の東側に面した大泉邸とみられる屋敷。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同邸。大泉邸西側の林芙美子が住んでいる手塚邸が「牛塚」邸と誤採取され、大泉邸東側の二瓶邸が「二藤」邸と誤採取されるなど、「火保図」は表札名の読み誤りが目立つ。は、大泉邸があった五ノ坂から西へ入る袋小路。左手奥の茶色い建物が大泉邸跡で、正面に見えるグレーの四角い建物が林芙美子・手塚緑敏邸の北側に面した裏庭跡。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大泉邸。は、1940年(昭和16)ごろの空中写真にみる大泉邸。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・大泉邸。下落合西部はほとんど空襲を受けておらず、戦前からの屋敷がそのまま建っていたが、旧・林・手塚邸は裏庭がなくなり北側へ増築されているのがわかる。
◆写真下上左は、1922年(大正11)に出版された大泉黒石『老子とその子』(春秋社)。上右は、1972年(昭和47)にようやく出版された同『人間廃業』(桃源社)。は、1923年(大正12)に監督・溝口健二×大泉黒石で制作された表現主義的映画『血と霊』(日活)の1シーン。関東大震災の直後に上映されたものの、震災の混乱で観客を集めることができず評判にはならなかった。下左は、今年(2023年)に出版された大泉黒石『俺の自叙伝』(岩波書店)。下右は、同年出版の四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』(岩波書店)。
おまけ
 アブラゼミの蝉時雨のなかで聴きづらいが、下落合の居心地がいいのか北帰行しないマガモが、家の裏でウロウロしながら毎日鳴きつづけている。この声を聞くと、うちのヤマネコは女子のくせに「打(ぶ)っ殺すニャ!」と殺気立ちながら網戸に手をかけて威嚇する。

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