大泉黒石が下落合にやってくるまで。 [気になる下落合]
大泉黒石Click!がぶっ飛んでいて面白いのは、ベストセラー作家になり原稿依頼が次々と舞いこみ多忙だったにもかかわらず、息子のひとり(大泉滉)と同様に俳優をめざしたことだ。今日ではめずらしくない“二刀流”だが、ベストセラー作家が活動(映画)俳優をめざすなど当時としてはありえないことで、彼が混血のハーフだったことによる“あいの子”差別ともあいまって、同業者(文壇)から反感をかったのではないか。彼が映画界に手をだしたことも、文壇から排斥されるきっかけになったのかもしれない。
大泉黒石は1923年(大正12)5月、日本活動写真(のち日活)の俳優部を志望して、同社の向島撮影所へ入所している。もちろん、彼は世間に名の知られた作家であり、職業をふたつ持つことなど考えられない時代だったので、希望する俳優部ではなくシナリオライティングが専門の脚本部所属の顧問というポストへまわされている。人気の流行作家が映画会社に就職したということで、さっそく東京の新聞ダネにもなっている。
当時の映画界は時代劇Click!が主流で、同時代の新派Click!と同様に女役も男の役者が演じるような環境だったが、大正中期の日活は松竹蒲田撮影所Click!から新進女優を引き抜いたり、『カリガリ博士』(R.ヴィーネ監督/1920年)などヨーロッパ前衛映画の影響を受けた作品の制作を試みたりと、時代の最先端をいく映画表現に挑戦する姿勢を見せていた。
大泉黒石は、脚本部で『血と霊』という120枚ほどの短編を仕上げると、前年にデビューしたての新人監督だった溝口健二Click!と組むことになった。ちょうど、村山知義Click!がヨーロッパからドイツ表現主義を持ち帰り、月見岡八幡社Click!の南側にあたる上落合186番地の敷地へ「三角アトリエ」Click!を建設しているころだ。未来派美術協会Click!の解散から「マヴォ」Click!グループ結成と、大泉黒石のシナリオによる溝口健二『血と霊』の制作過程は、時期的にもみごとにシンクロしている。
少し余談だが、大泉黒石によって築地小劇場へよくいっしょに連れていかれた息子の大泉滉は、1940年(昭和15)に制作された『風の又三郎』(島耕二監督/日活)の子役でデビューしている。戦後は杉村春子Click!のいる文学座Click!に所属して舞台や映画・ドラマで活躍することになるが、1952年(昭和27)に制作された溝口健二『西鶴一代女』(東宝)に出演し、田中絹代Click!と共演している。このとき、溝口健二が大泉滉へ父親と制作した映画『血と霊』について話題にしていたかどうかは不明だ。
映画『血と霊』を溝口健二と制作しているのと同じ時期、大泉黒石は並行して『預言』を執筆している。だが、ちょうど関東大震災と重なってしまい、震災後に新光社から出版された同書(出版社が勝手に『大宇宙の黙示』とタイトルを変更してしまった)は、大震災の混乱の中で埋もれてしまいほとんど評判にならなかった。これは映画『血と霊』もまったく同様で、大震災直後の秋に公開されたため観客の入りがきわめて悪く、日活は以降、前衛映画の制作に二の足を踏むようになる。大泉黒石にとっては、重ねがさね不運な時代だった。
このころの様子を、岩波書店から今年(2023年)に出版された四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』から、少し長いが引用してみよう。
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黒石が『預言』を世に問うにあたっては、いくぶん込み入った事情があった。関東大震災の直後、彼は瓦礫と化した雑司ヶ谷(ママ)に疲れ、郊外の下長崎(ママ)に転居。気分を一新して執筆を開始したまではよかったが、刊行にあたっては大震災の出版業界の混乱が災いした。/一九二四年四月、以前に『老子』で大評判を得た新光社がこれに飛びつき、大急ぎでそれを出版した。ところが困ったことに、出版社は作者の主張する『預言』という題名を無断で『大宇宙の黙示』という表題に変更して刊行したのだった。この鬼面人を驚かす題名は、あわよくば『老子』の二番煎じを狙ってのことである。杜撰なのは題名だけではなかった。書物には目次も章立てもなく、校正が不充分であったのか恐ろしく誤植が目立った。黒石は「自序」のなかで「文壇に対する私の心には、今や、軽蔑と冷笑のほかには何もない」と大見得を切ったものの、文壇からの反響はなく、大震災後の騒然とした雰囲気のなかで、『大宇宙の黙示』は何の話題にもならず埋没してしまった。
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まず、「下長崎」は「南長崎」(当時は長崎村字椎名町)、あるいは「下落合」のどちらかだと思われる。文中では、「瓦礫と化した雑司ヶ谷」と書かれているが、東京郊外の高田町雑司ヶ谷は関東大震災による被害は軽微だった。
もっとも大きな被害は、薬品棚が倒れ学習院の特別教室が全焼したもので、あとはレンガ造りの建物や脆弱な住宅などの外壁が崩れたか、場所によって住宅の屋根瓦が落ちた程度だった。建物の倒壊も見られず、したがって雑司ヶ谷地域では死者が出ていない。ちなみに、落合地域の被害は農家の古い納屋が2軒倒壊しただけで、死者は高田町(雑司ヶ谷)と同じく記録されていない。東日本大震災のときにも感じたことだが、東京市街地と丘陵地とではそもそも震動の規模が異なっていたとみられる。
1923年(大正12)現在、雑司ヶ谷にあった当初の大泉邸の住所番地は不明だが、雑司ヶ谷鬼子母神Click!や秋田雨雀邸Click!からほど遠からぬ位置にあったことはまちがいない。ちなみに、『俺の自叙伝』(岩波書店版/2023年)には華族の三条邸裏(北側)と書いてあるので、高田町(大字)雑司ヶ谷(字)美名實あるいは高田町(字)若葉(高田若葉町)のいずれかだと思われる。大泉黒石は、同業の文学者や、「鬼子母神森の会」Click!のサークルのように地元に住んでいた作家や画家たちと交流することはほとんどなかったが、秋田雨雀Click!の家にはちょくちょく遊びに寄ったようだ。そのためか、彼のトルストイ主義的アナキズム思想とも相まって、黒石はこの時期から警察にマークされるようになる。
大泉黒石は、同じ雑司ヶ谷町内で一度転居している。そのころの生活の様子を、1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』第3巻の付録、「黒石廻廊/書報No.3」に収録された黒石の長男・大泉淳「父、黒石の思い出」から少し長いが引用してみよう。
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家の屋根に登れば鬼子母神の森が望めた程の距離であったから、父はよくそこに出かけた。父は子供達への愛情は大変強かったので、鬼子母神には自ずから足が向いたのであろう。その参道の欅並木に挟まって雀焼きの店があって、父は雀焼きをよく買って帰って酒の肴にしていた。/その後、私共は鬼子母神と池袋の中間辺りに引越した。(中略) ここでは、父は好んで和服を着ていた。背恰好、風貌は全く日本人離れしていたから、和服を着て外を歩く父を人々は振り返って見ていた。(中略) 家の後ろの程遠からぬ所を武蔵野鉄道が走っていて、時々、私は弟の灝を連れて電車を見に行った。(中略) その後、私共は東長崎(ママ)の茶畑にぽつんとある西洋館に引越した。この頃父の名も売れて、仕事が本調子になって来ていたのであろう。と言うのは、家の構えはその頃には珍しくハイカラな洋館で、ピアノを始め家具調度も然るべく整っていて、離れた所にある何軒かの人たちから、私共は坊っちゃん、坊っちゃんと呼ばれるようになっていた。私は武蔵野鉄道に乗って雑司ヶ谷の小学校に通っていたが、朝、父が駅まで見送りに来てくれることが屡々だった。
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高田町雑司ヶ谷の中で転居した先は、武蔵野鉄道の線路内に子どもたちが侵入できる地域(大泉淳は一度汽車に轢かれそうになっている)だから、おそらく池袋駅も近い(大字)雑司ヶ谷(字)御堂杉か(字)西原のどちらかだろう。
この文章では、新たに「東長崎」という名称が登場している。もちろん、大正期の長崎村にこのような地名も字名も存在していないので、武蔵野鉄道の駅名だとすると、同駅から近い長崎村(字)五郎窪あるいは(字)大和田ということになる。だが、長崎村の転居先については「椎名町」、あるいは「南長崎」とする大泉淳の証言もあるようなのだ。息子が武蔵野鉄道で雑司ヶ谷の高田第一小学校へ通うために、大泉黒石がしばしば見送った駅は東長崎駅か、または椎名町駅のどちらだったのだろう?
また、当時の長崎村は清戸道Click!(現・目白通り)沿いの(字)椎名町を除いては、一面の田畑が広がる農村地帯だった。したがって、文中に書かれているようなハイカラな西洋館が建っていたとすれば、そして同邸の主人が「全く日本人離れ」した風貌をしていれば、雑司ヶ谷のリヒャルト・ハイゼClick!が住んでいた「異人館」Click!と同様に、地元の人たちに強烈な印象を残しているはずだが、わたしは長崎地域でそのようなエピソードを一度も聞いたことがないし、資料類でも目にした憶えがない。おそらく、大泉一家の長崎村ですごした時期が短かったため、語り継がれるほどの印象を地元に残さなかったのだろう。関東大震災からほどなく、一家は下落合(現・中落合/中井含む)へと転居※してくることになる。
※大泉黒石とその子どもたちばかりでなく、黒石の研究者も彼の転居先やそこでのエピソードについて混乱していることが判明した、詳細はこちらの記事Click!へ。
大泉淳は、林芙美子の『柿の実』(1934年)を意識したのか、「父が酒に溺れていたことはない」とわざわざ書いている。むしろ、健康には留意して生活し執筆をしていたと、林芙美子へ間接的に“反論”しているようだ。また、大泉黒石はよく即興で自己流のピアノを弾いていたらしい。今日的な表現をすれば、黒石はJazzyな演奏をしていたのだろう。下落合2130番地でも、大泉邸からは黒石のJAZZが流れて五ノ坂あたりまで聴こえていただろうか。
◆写真上:1923年(大正12)秋に上映された大泉黒石×溝口健二監督によるドイツ表現主義的映画『血と霊』(日活)だが、大震災の混乱で興行は失敗だった。
◆写真中上:上左は、1923年(大正12)に新光社から出版された大泉黒石『大宇宙の黙示』(出版社がタイトル『預言』を勝手に改変)。上右は、1926年(大正15)に雄文堂出版から改めて刊行された大泉黒石『預言』中扉。中は、1919年(大正8)に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の表参道。下は、同年撮影の雑司ヶ谷鬼子母神境内。
◆写真中下:上左は、雑司ヶ谷時代とみられる大泉黒石。上右は、1929年(昭和4)出版の大泉黒石『当世浮世大学』(現代ユウモア全集刊行会)。中は、『当世浮世大学』の前川千帆Click!による挿画。下は、1935年(昭和10)ごろ撮影の東長崎駅。
◆写真下:上は、1919年(大正8)に撮影された椎名町駅の近辺。当時はほとんどが田畑で、東京郊外の田園地帯だった。下は、1935年(昭和10)ごろ撮影された椎名町駅。