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大空襲の遺体が地表へ這いあがる話。 [気になる本]

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 以前、1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲Click!について、米軍の偵察機F13Click!が撮影した午前10時30分すぎの写真とともに、千代田小学校Click!(現・日本橋中学校Click!)近くの実家にいた家族たちの避難ルートClick!をご紹介したことがあった。
 同時に、大橋(両国橋)Click!東詰めの本所に住む菊池正浩という方の家族が、自宅から上野公園まで避難する経緯も、関東大震災Click!の大きな川筋における火のまわり方(大火流)Click!とともにご紹介している。また、向島側と浅草側の避難民が衝突して身動きがとれなくなった、言問橋Click!の惨事についても記事にしたばかりだ。本所から大川(隅田川)の大橋をわたり、西へ逃げた菊池家についての本が出ているのを最近知った。2014年(平成26)に草思社から出版された菊池正浩『地図で読む東京大空襲』だ。
 著者の一家は、大橋(両国橋)をわたり本所元町や同相生町から南の堅川に架かる一ノ橋をわたった、本所の千歳町10番地(現・墨田区千歳1丁目)に住んでいた。また、母親の実家となる中西家は、大川と堅川に面した本所元町268番地(のち本所区東両国1丁目/現・墨田区両国1丁目)で暮らしていた。菊池家と母親の実家とは、直線距離で200mと離れていない。この2家族が、それぞれの家で東京大空襲の夜を迎えることになる。
 菊池一家も、関東大震災の教訓を知悉している祖父のリードのもと、遮蔽物のない大きな川の近くにいては危険ということで、大橋を西側(日本橋側)へわたったあと柳橋Click!をわたり神田方面へと逃げている。神田のフルーツパーラー「万惣」Click!は祖母の遠い親戚筋にあたるそうだが、「万世橋」(浅草橋Click!の誤記?)から南へ折れ日本橋馬喰町から同小伝馬町、同橋本町、同室町とたどり、日本銀行Click!日本橋三越Click!へ出たあと大手町から千代田城Click!方面へ逃げようと計画したらしい。この避難ルートは、わたしの家族が逃げたルートとも何ヶ所か重なっている。
 だが、ここで菊池家は、万世橋から反対方向の上野をめざして避難することになった。理由は、神田小川町や同淡路町方面に火の手が見えたとのことだが、このとき万世橋を「万惣」の方角へ折れるか、神田川に架かるいずれかの橋をわたり日本橋をめざして急いで南下していれば、うちの家族と同様にそれ以上の危険なめに遭うことはなかっただろう。菊池家は日本橋ではなく、まず知り合いのいる湯島天神をめざして北上していった。
 ところが、黒門町まできたときに、本郷や湯島方面から火の手が上がるのが見えたので、迫る大火災に背を向け、上野広小路の交差点から不忍池へと逃れ、そこから上野山へとようやくたどり着いている。このとき、著者は父親か母親の背中でグッスリ寝ており、3月10日夜の公園内の様子は記憶していない。上野公園は、関東大震災のときと同様に濃い森林が幸いして、各町からの大火流を食い止めていた。著者は、なにもない避難用の広場より、「木が豊かなところが避難場所に適している」と書いている。
 翌朝、起きてみると火災で焼けた道路を歩いてきたせいか、靴裏が破れ足の裏がひどく火傷していることに気づいた。大火災により、空気が急激に膨張して起きる火事嵐=大火流Click!で、道路を炎がなめて焼けていたのだろう。3月10日は著者の誕生日で、小学校に上がる直前の満6歳だった。この夜、空襲で焼き殺されたのは10万人超、いまだ行方不明者がどれぐらいいるかわからないのは、何度か記事Click!に書いてきたとおりだ。
 丸1日を上野公園ですごし3月11日の朝、実家のあった本所千歳町へともどる途中の光景は、著者が「話したくない」と書いているように悲惨のひと言だった。ときに、焼死体を踏まなければ歩けないような凄惨な道程だった。その様子の一端を、2014年(平成26)に出版された菊池正浩『地図で読む東京大空襲』(草思社)から少し引用してみよう。
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 (犠牲者の遺体を)鳶口などで引っ掛けては、大八車やリヤカーへ無造作に積み重ね、埋葬場所へと運ぶ。埋葬場所といっても適当な空地や隅田公園などに大きな穴を掘り、放り込んで埋めるだけである。棺桶などはあるはずもない。ただの土葬である。戦後しばらくして掘り返されたわずかな遺骨は、何人分かをまとめて骨壺に入れられ、震災慰霊堂へ保管された。多くの犠牲者はビルやマンションが建ち並ぶ地下に眠っている。/下町といわれる一帯は、明暦の大火以降、多くの災害で亡くなった数十万の人に支えられてあるといっても過言ではない。(カッコ内引用者註)
  
 著者が遺体処理を目撃していたころ、わたしの義父Click!は麻布1連隊(第1師団)のトラックを運転し、大空襲による重傷者(おもに大火傷)を、次々と下落合の聖母病院Click!(1943年より軍部の命令で「国際」を外され単に「聖母病院」となっていた)までピストン輸送していた。国際聖母病院で亡くなった重傷者も、少なからずいたはずだ。
 わたしはよく記事の中で、東京は街全体が「事故物件」であり、そのような環境で「心霊スポット」や「心理的瑕疵物件」などといっているのは滑稽で笑止千万……というようなニュアンスの文章を書いているが、特に(城)下町Click!つづきの東京市街地(旧・大江戸エリアClick!)は、江戸期の初めから東京大空襲まで数えても、足もとにいまだ何万体の遺体が人知れず眠っているか不明なままの、街が丸ごと「心理的瑕疵物件」だ。
 現在でも、東京各地の自治体では東京大空襲による犠牲者の遺骨収集Click!をつづけているが、戦後78年が経過しても発見されている。菊池正浩は「隅田公園」を例に挙げているが、わたしは以前にこんな“怪談”を聞いたことがある。
 自治体では、遺骨収集の計画にもとづいて各地の公園や空き地、学校、公共施設の建て替え、あるいは大規模な道路工事などの際、戦後の記録や生存者の証言などにより発掘調査を行うが、前年に調査・発掘して遺骨を収集した場所でも、再び地表面の近くで少なからぬ遺骨が見つかるという。すでに遺骨を発掘・収集を終えているので、今回はより深く掘削して残りの遺骨を探す計画だったものが、再び地表面近くの同じ位置で遺骨が何度も繰り返し発見されるというのだ。
 つまり、5m以上も深く掘られた穴へ投げこまれた数多くの犠牲者の遺体が、少しでも早く発見してもらいたくて地中を上へ上へと這いあがってきているのではないか?……というのが、東京大空襲にからんで語られる有名な“怪談”のひとつだ。特に卒業式や終業式のため、疎開先からわざわざ東京へ一時的にもどっていた小中学生にとっては、悔やんでも悔やみきれない無念の死だったろう。この話が、人を怖がらせるためだけに作られた荒唐無稽な「怪談」とは異なり、非常にリアルかつ身近に感じるのは、事実として無念の死を迎えた人々の遺体があと何万体(関東大震災なども含め)、この街の足もとに人知れず埋まっているのかがわからず、わたしたちがその上で平然と生活し、歩きまわっているからだろう。
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 余談だが、菊池家は明治期に東京へやってきているそうなので、わたしの親世代や祖父母世代から上の感覚でいうと、同書には違和感をおぼえる記述がいくつかある。大橋の東詰めは本所であって、少なくとも地付きの人々は1960年代ごろまでは「両国」とは呼んでいない。総武線の両国駅があるので、「両国」と呼ばれはじめたのは昭和期に入ってからだ。したがって、女学生たちがヒロポンを注射され風船爆弾Click!製造に動員されていた、そこにある国技館は本所国技館であって、「両国国技館」とは(少なくとも大川の西側からは)呼んでいない。両国国技館は、両国駅の北側にある現代の施設だ。
 大橋の東詰め一帯にある本所松坂町や本所相生町、本所松井町、本所小泉町などから「本所」(一帯は江戸期より「南本所」と呼ばれていた)がとれたのは町名の上に本所区が成立したからで、明治以降に「本所区本所〇〇町」ではクドく感じて面倒だったのは、大橋の西側が日本橋区になり、各町名のアタマから江戸期よりつづいていた「日本橋」を外したのと同じ感覚であり経緯だ。たぶん、わたしの親世代でさえ「東両国〇丁目」というよりは、「本所〇〇町」といったほうがピンときて話が通じやすかっただろう。日本橋区も京橋区と統合され、中央区という名称になっているけれど、町名の上に本来の「日本橋」を復活させる自治体の動きは、めんど臭いのかわたしの知るかぎり存在していない。
 また、以下のような記述がある。同書より、つづけて引用してみよう。
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 深川の思い出といえば八幡祭りが思い出される。/毎年八月十五日を中心に行なわれ、江戸三大祭りの一つに数えられている。他は神田明神と山王日枝神社で「神輿の深川、山車の神田、だだっ広いが山王さま」といわれ、それぞれ百ヵ町村以上の氏子町内を有していた。いずれも「天下祭」という寺社奉行直轄免許の祭礼であり、なかでも八幡宮の祭礼は勇み肌祭礼として、勇壮な神輿振りで庶民に人気があった。
  
 上記の文章には、明らかな誤りがあるので指摘しておきたい。深川八幡社(富岡八幡宮)Click!の祭りが、「江戸三大祭り」なのはまちがいないし、同祭が日本最大の神輿(4.5トン)を担ぐ“いなせ”で勇み肌なのも事実だ。ちなみに、日本橋地域のわが家は神田明神Click!の氏子で、氏子町は旧・神田区や旧・日本橋区を中心に八重洲や京橋方面も含め、ゆうに150町(江戸期の町数:昭和期に区域や地名、町名などが統廃合され現在は108町)を超えている。だが、深川八幡祭は史的に「天下祭り」とは呼ばれていない。
 「天下祭り」は、千代田城に山車や神輿が繰りこみ、ときの徳川将軍が観覧する神田明神Click!(北関東は世良田氏=松平・徳川氏の徳阿弥時代<鎌倉末期>からの氏子)と、日枝権現Click!(徳川家の産土神)の2社だけだ。深川八幡祭が「天下祭り」と呼ばれだしたのは、明治以降のことだろう。また、「寺社奉行直轄免許の祭礼」は江戸市中のおもな寺社祭礼には出されていたもので、特に上記の3社に限ったことではない。
 さらに、著者は「江戸城」と書いているが、江戸城は大江戸以外の地方・地域(他藩)から江戸表の同城を呼称するときに使用される名称であり、また江戸城Click!は1457年(康正3/長禄元)の室町期に太田道灌Click!が建てた日本最古クラスの城の呼称であって、それと区別するために地付きの人々が徳川幕府の城を表現するときは、戦前戦後を通じ一貫して単に「お城」、または昔からの地域名をとって「千代田城」と呼称している。
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菊池正浩「地図で読む東京大空襲」2014.jpg 東京都35区区分地図帖1946.jpg
 同書では、1946年(昭和21)に日本地図(のち日地出版)が刊行した『東京都35区区分地図帖-戦災焼失区域表示-』の詳細を紹介している。確かに、戦後間もない植野録夫社長の仕事には頭が下がる思いだ。けれども、同地図には誤りが多々散見される。戦後、F13が1947~1948年(昭和22~23)にかけ爆撃効果測定用に撮影した空中写真Click!と同地図とを重ねあわせると、特に山手大空襲Click!地域における焼失区域と焼け残った区域とが、かなり異なって一致しないことに、ここ10数年気づかされつづけている。詳細な被害地区を特定するには同地図よりも、米軍の精細な空中写真を参照するほうがより正確な規定ができるだろう。

◆写真上:小名木川出口の、深川芭蕉庵跡から清州橋方向を眺める。大空襲のあった翌朝、大川には無数の犠牲者が浮かび東京湾へと流されていった。
◆写真中上は、一ノ橋から大川へと注ぐ堅川水門を眺めたところ。著者の家は堅川の左手(千歳町)に、母親の実家は川の右手(相生町)にあった。は、空襲がはじまってすぐに避難した同書にも登場している本所回向院の鼠小僧次郎吉の墓と力塚。
◆写真中下:1945年(昭和20)3月10日の午前10時35分から数分間、大空襲の翌朝に東京を撮影した米軍の偵察写真。いまだ各地で、延焼中の煙が見えている。
◆写真下は、1909年(明治42)に竣工した本所国技館。は、夏の深川八幡の祭礼でかつがれる日本最大(4.5トン)の富岡八幡宮神輿。下左は、2014年(平成26)出版の菊池正浩『地図で読む東京大空襲』(草思社)。下右は、戦後間もない1946年(昭和21)に出版された『コンサイス/東京都35区区分地図帖-戦災焼失区域表示-』(日本地図)。
おまけ
 新型コロナ禍で中止されていた神田祭が、ようやく今年は開催された。「天下祭り」Click!の名のとおり、神輿かつぎや山車ひき、先導も含め女子が多いのも同祭の特徴だ。ちなみに神田祭には、昔から男神輿と女神輿の区別がない。もうすぐ創建から1300周年祭を迎える江戸東京総鎮守・神田明神の本神輿や山車は、柴崎村(現・大手町)の旧・神田明神跡(将門首塚)Click!で主柱「将門」を載せたあと、同じく主柱の出雲神オオクニヌシの神輿とともに神田町内を巡行する。神田・日本橋・京橋・八重洲・大手町その他の各町内からは、150基を超える神輿や山車が繰りだす日本最大の祭り(参加氏子総数は200万人前後ともいわれる)だが、神田から御茶ノ水、湯島一帯の交通がマヒしてしまうので、現在では観光客や見物客も多いため、氏子町の全神輿が神田明神下へ勢ぞろいするのはなかなか困難だ。写真は、日本橋筋から神田方向へと進む神輿連。いちばん下の写真は、大川(隅田川)の大橋(両国橋)から柳橋をくぐり神田川を明神下までさかのぼる、東日本橋界隈の舟神輿(舟渡御)。
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