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海辺で関東大震災に遭遇した画家たち。 [気になるエトセトラ]

北條海岸通り19230901.jpg
 1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!のとき、海辺のごく近くにいた画家としてこれまで岸田劉生Click!の証言を何度かご紹介してきた。劉生は津波を懸念して、鵠沼から藤沢駅の北にある丘陵地帯をめざしたが、幸い津波は境川を遡上してそこまでは到達せず、途中の石上駅近くの親切な農家で避難生活を送っている。
 岸田劉生Click!と同じく、関東大震災と同時に発生した大津波Click!の際、海岸べりにいた画家は湘南海岸Click!(神奈川県)のほかに千葉県の房総半島側にもいる。明治末から大正期にかけ、画家の写生地として人気が高かった、太平洋に面する南房総の布良Click!や白浜だ。そこでは、画家たちが大津波の前に沖へ向け、いっせいに波が引いていく光景を目のあたりにしている。その様子は、曾宮一念Click!がとある高名な帝展画家から取材して、その思い出をエッセイに書き残している。
 曾宮一念Click!自身も、風景画のモチーフとして南房総の村々は何度も繰り返し訪れているので、たまたま風景画の写生地について話題になったとき、その画家から大震災時の様子を聞いたのだろう。曾宮一念は、その画家のことを「謹厳で無口なその先生」と表現しているので、かなり年上の彼にとっては師匠格にあたる洋画家だったと思われる。
 ちょうどこの時期、布良に滞在して制作をしていそうな洋画家には、寺崎武男や倉田白羊Click!、多々羅義雄らがいるが、寺崎はのちに南房総にアトリエをかまえている。また、倉田は1922年(大正11)に信州の上田へ転居しているが、夏季になったので南房総へ写生に訪れていたものだろうか。特に倉田白羊は、明治期に牛込弁天町のアトリエで絵画教室Click!を開いており、早稲田中学を中退した鶴田吾郎Click!が最初の弟子として入門している。寺崎も倉田も、曾宮一念よりは10歳以上も年長であり「先生」と呼んでもおかしくなく、彼も鶴田吾郎Click!を通じて「先生」のことを知っていたのかもしれない。
 その帝展画家は、夏の初めから9月まで布良に滞在しており、地元の家の2階をアトリエとして写生に出ていたようだ。浜辺にある漁師の家や波、岩などを描いていたようで、8月末には40枚近いタブローが完成していたと曾宮一念に話している。
 1923年(大正12)9月1日に大震災を経験した、その画家の証言を聞いてみよう。収録されているのは、1955年(昭和30)に四季社から刊行された曾宮一念『橎の畔みち』を底本に、1995年(平成7)に講談社から出版された曾宮一念『橎の畔みち・海辺の熔岩』(文庫版)から引用してみる。ちなみに、収録の「掘出した絵具箱」が書かれたのは1940年(昭和15)1月のことで、文中の「私」とは取材相手だった画家の一人称だ。
  
 その日九月一日も朝のうち仕事をして帰り、昼食前にパレットの掃除をしていた時、平素の風波の音とはちがって地の底から湧き出し身体まで戦かせるような響きの海鳴り、地鳴がしだした。と間もなく、私の体はポンと宙に吹き飛ばされ、これは大地震と気付くと共に着の身着のままで二階から駈け下り戸外へ出た。駈け下りる時のほんの瞬間に眼に映った景色は、遠く遠く潮が引いて海底が赤肌色に露われていた。この時の印象は今に忘れられない。/私も海水の引くのは津波の前兆だと知っていたし、近所の人々も山へ逃げろと呼ばわっているので夢中になって山手の方へ走り小高い丘に上り、その上更に大きな松の木の頂に攀じ登ってしまった。
  
布良海岸.jpg
多々羅義雄「房州布良ヲ写ス」1922頃.jpg
江澤館.jpg
 太平洋の沖に向かって海が後退していく、いわゆる海洋性=相模トラフ(わたしが子どものころまでは「相模湾トラフ」と呼称されていた)に由来した、巨大地震直後に起きる強烈な引き波を目撃して、津波の恐怖に襲われているのがわかる。鵠沼の岸田劉生のアトリエは、海岸から少し内陸へ入った場所にあったので海の様子が見えず、『劉生日記』Click!にも相模湾の引き波の様子は記録されていないが、その後に襲った津波の規模からすると、南房総と同様にかなり大規模な引き波が見られただろう。
 最初、身体が浮き上がるように家屋の床面から投げだされ、あるいは屋外であれば身体が突き飛ばされたように転倒し、その直後から立っていられないほどの激しい横揺れがはじまったという、残された数多くの記録とも一致する証言Click!だ。横揺れの中、屋外へ逃げだした人々の多くは、屋根から落ちてくる瓦で負傷Click!している。また、当時の家屋は耐震設計などない時代の住宅なので、屋内にとどまった人たちあるいは逃げ遅れた人たちは、同大震災で5,000人以上が圧死Click!したとみられている。
 今日、特に都市部などの住宅では耐震設計がほどこされ、瓦屋根を廃した軽量のスレート葺きが主流なので、簡単に倒壊してしまう住宅はそれほどないとみられる。ただし、鉄筋コンクリートの集合住宅では倒壊の危険が少ない反面、割れた窓ガラスの落下や壁面の剥脱・破壊によるコンクリート片の落下、割れた窓からの家具調度類の落下などが大きな懸念となっている。特に繁華な地域では、高層のビルやマンションなどの下にいる歩行者や、走行車の危険が改めて指摘されている。
 さて、曾宮一念に話している帝展画家は、もうひとりいた知り合いの画家といっしょにアトリエの裏山へ避難し、松の木へ登ったのはいっしょにいた画家がそうしたので、自身もそれにつられて登ったと話している。小高い丘に上ったぐらいでは安心できず、大きめな松の木を選んでさらに高いところに登っているのは、沖合いから南房総の海岸線めがけて押し寄せてくる津波の巨大な“壁”に恐怖したからにちがいない。
 つづけて、曾宮一念が採取した画家の証言を引用してみよう。
関東大震災伊東町(国立科学博物館).jpg
外房隆起(2m前後).jpg
延命寺断層(2m).jpg
  
 ちょうどこの時山のような、全く山のような波で、あんな波は北斎の版画で見たほかにはまだ本物には会ったことがないがそれが押し寄せて来る。それが来ると布良の部落は一嘗めにされ、私の居た二階家は一たん浮いて他の家々と打合って粉々に破壊されてしまった。私はまもなく松の木から下りたが、も一人の男は夜中松の木の上で明かした。/多勢(ママ:大勢)いた画家たちは八月末迄に布良を引揚げていて、私と松の木の男と日本画家の三人が震災に遭ったわけである。(カッコ内引用者註)
  
 このとき、画家はアトリエに描きためていた40枚近くのタブローと、絵の具箱をはじめ画道具をすべて津波に持っていかれて失った。上記の描写は、東日本大震災の被害を目のあたりにしているわたしたちの世代には、すぐにもその情景がリアルに浮かんでくる。特に津波の“音”には触れていないが、家屋や生木が根こそぎ押し倒され流される際には、海岸一帯にすさまじい騒音が響いていただろう。
 しばらくすると、布良の部落の子が津波にさらわれ砂に埋もれていた絵の具箱を見つけ、画家の避難先までとどけてくれた。その後、この絵の具箱は画家にとって特別な存在になっていく。1935年(昭和10)すぎごろ、波太の岩礁で写生をしていた際、高波にさらわれて画架や絵の具箱が海底に沈んだが、翌日になると再び画家の手にもどっている。そのときのエピソードを、同書より引用してみよう。
  
 引潮であったが、まさか此処まではと思って画架を据え岩の上に絵具箱を置いて写生をしていた。もう少し、もう少しと日没後の明るさで仕事をしていた時、追々荒れていた波がとても逃げられぬ高さで押しよせて来て私は頭に(ママ:の)上までスッポリと波をかぶり、首が水から出た時はカンバスは十間も流されていたのを必死に泳ぎついて宿に持ち帰ることが出来た。箱は沈んでしまったのを翌日行って拾うことが出来た、(ママ:。) 絵具の重みが碇の役をして流されずに済んだらしい。こんな因縁があるとただの古び方とは違って一寸捨てられないのである。こういってその先生は焦土色の絵具箱を撫でまわした。
  
 このあとも、「先生」画家は荒れ海あるいは冬山で危うく遭難しそうになるが、この幸運の絵の具箱を持ち歩いていたせいか、そのつど危機を脱して無事に生還している。こうなると、画家は野外の写生には手放せない、“お守り”のような絵の具箱になっていたのだろう。
笠原吉太郎「房州」大正末.jpg
刑部人絵の具箱.jpg
佐伯祐三「絵具箱」1925-26頃.jpg
 曾宮一念は、画家の絵の具箱について「今すぐにでも博物館に珍蔵されるだけの外見と因縁」を備えていると書き終えている。笠間日動美術館では、画家たちのパレットや絵の具箱を蒐集しているが、この帝展画家の絵の具箱も収蔵しているだろうか。海水に何度もつかって、古び方が半端ではない「焦土色」をした絵の具箱を、一度見てみたいものだ。

◆写真上:1923年(大正12)9月1日に撮影された、南房総・館山の地割れした北條通り。房総半島は、大震災で地面が2m前後も隆起している地域が多い。
◆写真中上は、相模湾の各地で見られるのと同じく関東大震災で海底から浮上した南房総・布良の岩礁で、沖の左手に見えている大きな島は伊豆大島。は、1922年(大正11)ごろ制作された多々羅義雄『房州布良ヲ写ス』。は、南房総の鴨川市太海浜にある画家たちの常宿のひとつだった江澤館Click!(裏山より江澤館様撮影Click!)。
◆写真中下は、国立科学博物館に保存されている津波で壊滅した相模湾の伊東風景(作者不詳)。は、関東大震災で2m以上も隆起した南房総の岩礁。は、関東大震災で2m前後もズレた南房総を走る延命寺断層(道路左手の小崖)。
◆写真下は、大正末から昭和初期に南房総をモチーフに制作された笠原吉太郎Click!『房州』Click!。のち1928年(大正3)9月に、東京朝日新聞社で開かれた第3回笠原吉太郎展に出品された、『船のとも』と同一画面ではないかと思われる。渚に近い海には、関東大震災で浮上したとみられる岩礁がいくつも描かれている。は、刑部人Click!の絵の具箱と写生用パレット。は、1925~1926年(大正14~15)ごろに描かれた佐伯祐三Click!『絵具箱』。

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