アナキストの中学同級生が特高になると。 [気になる下落合]

さまざまな仕事をやりつくし、いよいよ食うに困ったら「俺に出来る仕事は泥棒か乞食か文学者だ」と、『俺の自叙伝』に書いた大泉黒石Click!は、1918年(大正7)に革命干渉で日本がシベリア出兵すると、報道とつながる特派員的なジャーナリストとして、多種多様な雑誌や新聞に文章を発表しはじめている。また、1919年(大正8)の春までロシアに滞在し、のちのロシア文学史の執筆に活用するつもりだったのだろう、ロシアの古い伝説や俗謡の研究をつづけた。そして、同年に帰国するとともに作品を発表しはじめている。
翌1920年(大正9)から本格的に小説を書きはじめ、関東大震災Click!をはさみ、下落合2130番地に転居してきてからの大正末までには、文学好きなら誰でも知るベストセラー作家になっていた。そのせいか文芸愛好サークルなどから依頼され、日本各地で講演会を開いている。以前の記事では、辻潤Click!と高橋新吉Click!がいっしょだった福岡の文芸講演会Click!について書いたが、大泉黒石Click!と高橋新吉は故郷である長崎と伊方に帰ってしまい、実際の講演会では辻潤Click!のみが登壇している。
大泉黒石は、文学の視野はグローバルだが、日本の芝居や講談、落語、古典、俳句、川柳などにも深く通じていて、エッセイではそれらのシャレのめしやパロディなどもよく登場している。逆に、それを知らない日本人が読んだら、ちょっと恥ずかしくなるような教養であり知識量だ。そのせいだろうか、学校などからも講演を頼まれて出かけている。
『俺の自叙伝』(岩波書店版/2023年)では、その一例として早大にお呼ばれして講演会を開いた経緯が記録されている。その内容が傑作なので、同書より引用してみよう。
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ある時早稲田大学の学生がやって来て、学校で講演をしてくれと言うから、よろしいと一言の下に承知した。ところが、その出掛ける前の日に少々飲み過ぎたために、演壇に立って「諸君」と言ったら目が回って、いきなり吐いてしまった。すると五百人ばかりの聴衆が余程気に入ったと見えて一斉に拍手した。講演はそれでお了いである。吐くのは苦しいが、お蔭で拙い話をせずに事件が落着したかと思うと嬉し涙が零れたことがある。俺はそのくらいお饒舌りが不得意である。
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大正末か昭和初期ごろとみられる、この早大の講演会では、大泉黒石が演壇で二日酔いによる嘔吐をしたにもかかわらず、聴衆がシラケたりせずに拍手喝采を浴びたのは、彼のトルストイ主義的アナキズムの思想を学生たちが知悉していたのと、大震災後の時代的な背景との重なりが大きく影響しているとみられる。
すでに、社会から大正デモクラシーの自由闊達さが失われ、特高Click!の創設による思想弾圧がますます激しさを増していた時期だった。まるで、精神生活や論理的な思考回路=理性(自我)が侵食されていると感じて嘔吐感を繰り返す、戦後の実存主義者・サルトルのような情景ではないだろうか。それを敏感に感じとっていた学生たちは、大泉黒石が登壇して「吐いた」ことで、視野狭窄で狭隘な文壇や息苦しさを増す社会に対する、黒石ならではの的をえた「饒舌」なパフォーマンスと解釈したような気配さえ感じる。まもなく自殺(1927年)する芥川龍之介Click!は、吐き気ではなく「ぼんやりした不安」に苛まれつづけ、日に日に追いつめられていった。
大泉黒石は「お饒舌は苦手」と書いているが、確かに講演会や座談会などでのしゃべりが苦手な作家は多い。ただ、家族たちにさえ敬語をつかいつづける彼のていねいな言葉づかいは、むしろ聴衆には説得力をもって受けとめられたのではないだろうか。演壇に上ると、まるで政治家のように大上段にかまえて話す講演者が多かった時代に、黒石の独特な語りかけるような押しつけがましくない話し方は、今日からみれば聴きやすかったように思える。




ちょっと余談だが、家でセミ時雨に耳を傾けていると面白いことに気づく。セミたちは天候の変化に敏感だといわれるが、雨が降るしばらく前になるとセミたちの合唱がピタリとやむ。ミンミンゼミやアブラゼミ、8月に入るとツクツクボウシもそうだが、微妙な気圧や湿度の変化へ敏感に反応するのだろうか、昼間でも深夜でも雨の前には静寂になる。ところが、セミの種類によってその“敏感”さにちがいがあることに気づく。
アブラゼミやツクツクボイシは、少しぐらいの小雨の前なら鳴きやまない。ところが、ミンミンゼミはちょっとした通り雨や小雨の前にも、ピタリと鳴きやむ。それだけ、周囲の環境に敏感な器官を体内に備えているのだろうか。ヒグラシは、おもに早朝と夕暮れにしか鳴かないのでよくわからないが……。つまらない喩えだが、環境変化に敏感なミンミンゼミは、社会(自身のいる世界)の“荒天”を鋭敏に予知していた、芥川龍之介であり大泉黒石なのかもしれない。大泉黒石の場合は、ペテルブルクで二月革命を経験しているが、そこでも敏感に危機を予知していたように思える。
大泉黒石は、東京で死去した祖母の遺骨を長崎の墓へ納めるために帰郷したとき、講演旅行とまちがえられたことがあった。どこで嗅ぎつけたのか、新聞記者が彼の写真とともに「日本文壇有数の社会主義者」が来崎しているという見出しで記事を載せた。この記事のおかげで、プライベートな帰郷が実際に地元のサークルから文芸講演を依頼されることになるのだが、厳密にいえば彼はアナキストであって、このときは国家を前提とする「社会主義者」ではなかったはずだ。
さて、旧友の来崎記事を見て旅館まで訪ねてきた、中学時代の同級生がいた。故郷の長崎で特高Click!の刑事になった、「島田喜八」という人物だ。「島田」は学生時代、さかんに社会主義やアナキズムを研究しており、黒石たちと学内を暴れまわった悪友のひとりだった。実は、カネがない黒石はこの裕福な旧友から、東京へ帰る旅費を借りようとあてにしてきたのだ。そのときの会話を、前掲の『俺の自叙伝』からつづけて引用してみよう。
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「今度はどういう御用件でこちらへお出でになったのでありますか? 新聞には演説のためにと書いてありましたが――やはりそうでありますか」と言った。乱暴な旧友が久闊の言葉とも思われぬ。俺は当てが外れてムカッ腹が立った。金の都合はどうでもならあ、俺は何よりも、警察の高等係になった俺の旧友を見たくないのだ。高等と名乗って出る奴ほど下等なものはないだろう。現金な話だが、こんな下等動物には用がないと思うと一刻も早く追い返したくなった。/「あれは間違いでさ、格別用はないが来たくなったから来たのです。僕は気の向いた所へ自由に出掛ける権利がないだろうか?」/「いや、それはもう仰有るまでもないことであります。そこでご帰京の予定は?」と島田の訊問は型のとおりだ。俺は何でも悪く取る。「だからさ、今言ったような気まぐれな僕が、町へ着くや否や、いつ帰ろうなんて考えるものでしょうか?」/「いや大きにごもっとも、さぞお疲れでありましょう」と、流石にきまり悪くテレている。無愛想な俺の剣突を一々もっともに聞くところから按ずるに、この男はまだ出来立ての刑事だ。
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このあと、「島田」は次々と阿諛追従を並べたて、「先生のご名声は当地にまで轟いておりま」すなどと、「あなた」が「先生」に変わり、黒石が「不愉快だよ!」というとようやく引きあげていった。なにやら、桐野夏生『ナニカアル』Click!(新潮社/2012年)に出てくる卑屈で慇懃で剽軽な私服憲兵のようだが、特高が手をまわしたのだろう黒石は宿泊していた旅館「大黒屋」を追いだされ、予定されていた文芸講演会は黒石が登壇する以前に、特高が送りこんだスパイの「機械工」にジャマされつぶされている。
ちょっと余談だが、大泉黒石の語学獲得能力は天才的だったようで、東京へやってきてから数年間で東京方言(城)下町言葉Click!をマスターしているとみられる。『俺の自叙伝』を読んでいると、あちこちに流暢な東京弁Click!が顔をのぞかせている。
大泉黒石は、よく家族を連れて長崎へ遊びに出かけているが、そのときも特高がピタリと彼のあとを尾行していたのだろう。子どもたちはそれに気づかなかったようだが、両親は背後の気配に気がついていたと思われる。長崎にいる間、黒石はまったく原稿用紙には向かわず美味しいと評判の料理屋を食べ歩きしたり、長崎が舞台となる小説の構想を練ったりしていた。長崎ですごす家族の情景は、長男・大泉淳がよく記憶している。
1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』(緑書房)付録の、「黒石廻廊/書報No.3」(1988年4月20日)より、大泉淳『父、黒石の思い出②』から引用してみよう。
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石畳の坂道を何回か上下して、寺町や父の卒業した鎮西学院を、父は懐かしげに私に紹介した。街に出る度にチャンポンを食べに支那料理屋に連れて行かれた。それは、いつも小さな薄暗い店で、部屋の片隅に黒い堅いベッドが置いてあり、長いキセルが側に立てかけてあって私の目には一種異様な雰囲気を感じたものである。/その頃の父が酒に溺れていたということはない。むしろ、甘、辛に関らず食べ物には興味があった。冷たい甘い水飴水を飲んで乾いた喉を潤した。擂りつぶした胡麻を主材にした、少し甘未のある胡麻豆腐も父の好物で、売り声を聞きつけては毎日のようにそれを買ったものである。(中略) あの頃が、父の生涯の最も平穏な思い出の頃であったかも知れない。/長崎は父の文学の構想上でもその背景になっていたと思われる。
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大泉黒石は、「俺に出来る仕事は泥棒か乞食か文学者だ」と書くが、もうひとつ落合地域の特性に則していえば、そこに「画家」も含まれるだろうか。事実、黒石は絵がうまく、戦前に出版された旅行記などには、自身でスケッチブックに描いた挿画を掲載している。『大泉黒石全集』の函表にも、彼の挿画が採用された。五ノ坂下の隣家(下落合2133番地)には画家志望の手塚緑敏Click!が住んでいたので、ひょっとすると交流があったのかもしれない。
◆写真上:特にうまい店を知っていたようで、大泉黒石が好んで食べた長崎ちゃんぽん。
◆写真中上:上は、雑司ヶ谷時代の撮影とみられる大泉黒石。中は、1930年(昭和5)出版の本地正輝『悲しき剣舞』(三洋社)を推薦する大泉黒石。児童向け小説家などと書かれ、日本文学から意図的に排除されはじめている様子が伝わる。下は、1988年(昭和63)出版の『大泉黒石全集』(緑書房)添付の「書報No.1」(左)と「書報No.3」(右)。
◆写真中下:上は、下落合2133番地の五ノ坂下にあった林芙美子・手塚緑敏邸Click!。大泉邸は、裏庭右手の奥(2130番地)にあったとみられる。中は、林芙美子に抱かれる大泉淵。淵は成人すると、林芙美子の清書などを手伝う秘書のような仕事をしている。下は、1928年(昭和3)7月撮影の日本画家たちと写る大泉黒石(前列の右端)。
◆写真下:1933年(昭和8)出版の、大泉黒石『渓谷行脚』(興文書院)の黒石挿画。
★おまけ
深夜になっても鳴きつづける、下落合の安眠妨害セミ時雨。(8月末録音)
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
東京からきたって顔は絶対しないで1931年。 [気になる下落合]
少し前に、「東京へいってくら」「江戸へいってくら」という感覚が、戦後まで残っていた中野地域の事例Click!をご紹介したが、その際、落合地域にもまったく同様の地域感覚が残っていたのではないかと書いた。事実、やはり残っていたのだ。
1931年(昭和6)に、麹町区三番町(現・千代田区三番町)生まれの女性が、恋愛結婚をして落合町葛ヶ谷Click!(現・西落合)の旧家へ嫁いできたとき、夫から「“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないで」と頼まれている。つまり、裏返せば落合町は「東京」ではないという感覚が夫にも、また家族や近隣の人々にも、当時まであった様子がうかがえる。「東京」は仕事や買い物で出かけるエリアであり、妻にした女性は地元にしてみれば「東京」から嫁いできたという、明確な地理的認識があったと思われる。
彼女が生まれ育った麹町区三番町は、千代田城Click!の内濠に接したすぐ西側の町で、本丸から西へわずか1km足らずしか離れていない。江戸期には大旗本が軒を並べて住んでいた地域であり、(城)下町Click!の中では乃手(山手)Click!と呼ばれた中枢エリアだ。日本橋や神田あたりの町場からは、商家から借りたカネを返さないで踏み倒す、幕府の身分が高い横柄な武家が住んでいた、「人が悪いよ糀町(麹町)」と呼ばれたエリアでもある。w 彼女はまちがいなく江戸東京における、(城)下町の中核地域で生まれ育ったことになる。
では、どこから先が「東京」だったのかというと、おそらく中野地域とまったく同様に新宿駅の山手線内側あたりから“向こう”という感覚だったのではないだろうか。中野地域の事例は中央線・中野駅だったが、落合地域の場合は目白駅あるいは高田馬場駅から山手線Click!に乗り、新宿駅の東口で降りた先、神田から事業移転してきたデパート伊勢丹Click!(旧・ほていや百貨店Click!)から先が「東京」……という感触だろうか。
この意識は、江戸後期に朱引き墨引きClick!が大きく拡大され、市街地が拡がって大江戸(おえど)Click!と呼ばれるようになり、甲州街道の内藤新宿Click!と東海道の品川宿Click!が廃止され、大江戸に編入されて町奉行の管轄になったころからのエリア認識なのは明らかだ。また、新宿駅の東口から四谷方面に歩けば、大江戸の市街地と郊外とを分けるメルクマールとなっていた、四谷大木戸Click!が設置されていた地点でもある。
21世紀の今日、東京の(城)下町で生まれ育った女性が結婚して落合地域に転居してきたとして、夫から家族や近所に「“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないで」などと頼まれたりしたら、「ハァ? あなたなにいってんの?」とまったくトンチンカンな会話になってしまう。東京でもっとも賑やかな街を抱え、都庁も移転してきた新宿が、東京の「副都心」から「都心」と呼ばれるようになって数十年たつが、わずか100年足らずの間に、これだけ“東京”という街に対する認識に変化が生じたわけだ。
これと同じことが、江戸(江戸前期)→大江戸(江戸後期)の街でも起きているとみられる。江戸前期には、(城)下町の中心街といえば神田であり日本橋だったろうが、途中から大川(隅田川)Click!の東側である本所Click!、深川Click!、向島Click!地域が下総から江戸市中に編入されるとともに、江戸後期の繁華街の中心地は日本橋地域の東側へと移り、大橋(両国橋)Click!を中心としたエリアClick!が大江戸(おえど)でもっとも賑やかな街へと変貌していく。そして、明治期に入れば日本橋の南側に位置する銀座Click!と、大橋(両国橋)の北側に位置する浅草Click!が繁華街の中心になっていく。
さらに、昭和期に入ると東京15区制が35区制Click!へと拡大し、(城)下町からは武蔵野Click!と呼ばれていた新宿駅Click!の周辺が急速に発展して、戦後は渋谷と池袋がそれにつづく……というような経緯だ。明治以降、丸ノ内3丁目の松平土佐守屋敷跡(1457年に江戸城Click!を築いた太田道灌Click!像の位置)から動かなかった東京都庁(旧・東京府/東京市合同庁舎)だが、行政機関が淀橋浄水場Click!跡の新宿駅西口へ丸ごと移転するとともに、都内の地域をとらえる意識や地場感覚はめまぐるしく変化している。


では、1931年(昭和6)に落合町葛ヶ谷へ嫁いできた、乃手育ちの貫井冨美子という方の証言を聞いてみる。1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された、『新宿に生きた女性たちⅢ』収録の「西落合・葛ヶ谷村界わいの暮らし」から引用しよう。
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主人の家は代々この葛ヶ谷村(西落合)でございまして、村の世話役のようなことをしていたようですが、お父さまは三三歳で、お母さまも早くに亡くなって、主人はおじいさまとおばあさまに育てられたそうですから、随分と苦労が多かったと思いますよ。私が参りましたときは、広い家に主人と、主人の亡くなった姉の忘れ形見の小学校四年生の男の子と、ばあやの三人きりでした。/結婚いたしましたときに、主人は「こういう子どもがいるけれども、大事に可愛がってやってくれ」って申しました 「それから、“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないでほしい」 そして「村の人と仲よくやってくれ」って申しました。/こちらへ参りましたころここは田舎で、長崎へ行くまでずうっとすすきの原っぱで、こうもりが飛んでいて、そのもっと先は竹藪で、私は見ませんでしたけれど、きつねがいたって言ってました。
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現在でも、神田川や妙正寺川の橋下にはアブラコウモリが棲息して、夕暮れになるとたくさん飛びまわるし、さすがにキツネは見ないがタヌキはそこそこ歩きまわっている。でも、ススキの原っぱは井上哲学堂Click!のほうまでいかないと見られない。
上記の文章から推察するに、当時の落合町葛ヶ谷の東京方言と、彼女のいわゆる乃手弁Click!(東京方言山手言葉)からして、かなり異なっていたのではないかと思う。身のまわりに「ねえや」(女中)がふたりもついて育った彼女が、「私=わたくし」などというと違和感をおぼえて、「村」の衆は「ちぇっ、気どってやがる」と感じたかもしれない。「じゃあだんじゃねえやな。おとーさまったって、正月にゃ葛ヶ谷消防組の出初式でハシゴ乗りしちゃアラヨッてんで、上機嫌できこしめしちゃ赤い顔してたオヤジじゃねえか。なにがおとーさまだい」などと、陰口をたたいていたかもしれない。w
文中から、耕地整理Click!の最中だった落合町葛ヶ谷(現・西落合)の時代でさえ、江戸期からつづく「葛ヶ谷村」の意識そのままだったことがわかる。彼女が、早大理工科の恋人の出身地である葛ヶ谷に、それほど抵抗感なく入りこめたのは、身体が弱かったせいで20歳をすぎてから母親の知り合いが住んでいた長崎町で療養生活を送っており、早くからその周辺域の土地勘が備わっていたせいもあるのかもしれない。「当時はとっても遅いんでございますのよ」という彼女が恋愛結婚したのは、すっかり身体が丈夫になった27歳のときだった。


当時の葛ヶ谷は、耕地整理が進捗しているとはいえ一面に農地が拡がる一帯で、農家があちこちに散在するような環境だった。農家では白米は食べず、今日では健康食といわれる雑穀米だったようで、白米は神棚に載せるご飯ということで「のんのまんま」と呼ばれていた。また、魚は「うみちいちい」と呼ばれ、椎名町Click!の交番横Click!にあった“ひのや”という魚屋から、毎日棒手振(ぼてふり)の店員が売りにきていた。この交番は、現在の三角形の敷地にある“二又交番”のことではなく、その向かい(長崎バス通り入口の東側)にあった古い位置の交番だ。近隣には、パーマがかけられる美容院がなかったので、彼女はしかたなく長い髪をうしろで丸めてとめるようなヘアスタイルをしていた。
「村」の風習については、昔から家にいた「ばあや」がいっさいを飲みこんでいて、どこかへ出かけるときも「あっちへ行くんならこっちから出ていけ」とか、「行きと帰りが違う道を通るんだ」とか、いろいろ教えてくれたようだ。ざっくばらんな市街地とは異なり、近所や親戚と円満につきあうためには、いろいろやかましい地域のしきたりや“お約束”があったらしい。だが、このばあやはもともと生粋の神田っ子だったので、彼女とはウマがあったようだ。休みの日には芝居を見にいき、目白駅Click!から俥(じんりき)Click!を飛ばしては葛ヶ谷まで帰ってきたそうだから、評判の芝居や役者の話なども彼女にしてくれたのだろう。
彼女が嫁いだ家の、周辺に拡がる風景を同書よりつづけて引用してみよう。
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竹の子なんかは家の裏の竹藪で掘るから買ったことはございませんでした。掘りたて穫れたてのは、そのまま食べられまして、えぐくないんですのよ。おいしかったですよ。竹で籠作りもこの辺は盛んだったようですよ。/うちではお茶を作っていたそうで、主人の父はお茶作りがとっても上手だったんですって。できたら障子に向かってパッと投げると、それが障子にささったって主人がよく話しておりました。家の周りにもお茶の木がたくさんございましたよ。この辺りは見渡すかぎり畑で、遠くに落合の火葬場の煙突が見えたんですよ。それで「昨日は友引だったから今日は煙がよく見える」なんて申してました。
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大泉黒石Click!が、長崎村五郎窪4213番地Click!に転居した際、周囲を茶畑で囲まれた自邸(西洋館)のことを「茶中館」と名づけているようだが、当時の長崎地域や落合地域には明治期からの茶畑(栽培していたのは狭山茶)が、あちこちに残っていたのだろう。

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「わたくしは番町ですのよ」と奥さん、「あたしは神田っ子なのよ」とばあや、こんなふたりがいる家の中で「“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないでほしい」と夫が頼んだとしてもどだい無理な話で、姑も舅も小姑もすでに亡くなって不在だった貫井家で、ふたりは市街地の様子やウワサ話をあれこれ楽しげにおしゃべりしていたのだろう。西落合に住んだ貫井冨美子という方の話は面白いので、機会があればまたご紹介したい。
◆写真上:西落合は戦時中に爆撃をほとんど受けていないため、あちこちに古い家屋を見ることができる。以下のモノクロ写真は、2003年(平成15)にコミュニティ「おちあいあれこれ」が編纂した『おちあいよろず写真館』より。
◆写真中上:上は、1917年(大正6)ごろに撮影された葛ヶ谷・貫井家の正月風景。中は、1945年(昭和20)ごろに撮影された西落合の地元消防団。下は、昭和初期には葛ヶ谷のどこからでも眺められた荒玉水道Click!の野方配水塔Click!(1929年竣工)。
◆写真中下:上は、1880年(明治13)に作成されたフランス式1/20,000地形図Click!にみる葛ヶ谷村。東側の長崎村側から、当時の流行だった狭山茶栽培の茶畑が増えてきている様子がわかる。中は、貫井冨美子が結婚する前年1930年(昭和5)作成の1/10,000地形図にみる葛ヶ谷地域。耕地整理が終わった地域から、新しい道路が碁盤の目のように敷設されている。下は、昭和初期の住宅とみられる和洋折衷の近代建築。
◆写真下:上は、1925年(大正14)ごろに撮影された葛ヶ谷耕地整理記念写真。前列の左からふたり目が、当時の町長で落合耕地整理組合の組合長も兼ねていた川村辰三郎Click!。この中に、葛ヶ谷(西落合)では旧家だった貫井冨美子の連れ合いが写っている可能性がある。中は、昭和初期に設置され現在でも道路沿いに長くつづく大谷石の宅地用縁石。下は、戦後になって西落合の原っぱで撮影されたとみられる紙芝居屋に集まる子どもたち。
山岳は遠きにありて愛でるもの。 [気になる下落合]

室生犀星Click!は、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と詠じたが、その伝でいえば「ヒグラシは遠きにありて愛でるもの」ということになるだろうか。遠くの森や山の中で、暮れなずむなかカナカナカナ……と静かに響く合唱を聞くと、どことなくうら寂しくしみじみとした晩夏の気分にさせてくれるけれど、早朝の5時前後から、寝室のすぐ裏に生える樹木で「カナカナカナ! これでもカナカナカナ!」などと怒鳴られては、朝っぱらから殺意をもよおすほどの騒音だ。
今年の夏は、ことのほかセミが多く、9月下旬になってもアブラゼミとツクツクボウシは鳴きやまなかったけれど、山々でもセミたちの声は例年になくかまびすしかったのではないだろうか。少し前の記事Click!にも書いたが、わたしはなんとなく薄気味の悪い山岳よりも、精神をデフォルトにもどしてくれて弛緩でき、気が許せる海Click!のほうが好きなので、大人になってから向かう先は海のほうが圧倒的に多かった。
ところが、古いアルバムを整理していて気づくのだが、そこに貼られて残された写真類を見ると、親父Click!は若いころから圧倒的に海よりも山、それもアルプス級の標高の高い峰々が好きClick!だったらしい。山の写真は、親父の年齢を問わず多く残されているけれど、海の写真は千代田小学校Click!の高学年に、千葉県勝浦の興津海水浴場へ出かけた臨海学校Click!のみしか見あたらない。東京大空襲Click!で実家にあったアルバム類が焼け、そもそも写真があまり残っていないせいもあるのだろうが、ひょっとすると戦前から戦後にかけて若い子たちの間では、熱狂的な登山ブームでもあったものだろうか。
当時のそんな山好きの若い子なら、必ず読んでいた本の1冊だと思われるものに、1942年(昭和17)に大新社から出版された大泉黒石Click!『山の人生』がある。日本の文学界や、その息のかかった出版社からは悪意にもとづき“ウソつき”呼ばわりされて意図的に排除され、昭和10年代以降はおもに日本の山岳や、山々の温泉場に関するルポルタージュを書いていた大泉黒石Click!だが、同書の中に山の怪談を記録した一文が掲載されている。
『谷底の絃歌』と題されたノンフィクション(ほんとにあった怖い話)は、日米戦がはじまる前後に大泉黒石が尾瀬沼の帰りに、群馬県の片品川渓流沿いにある老神温泉に逗留した際、道連れになっていた登山家から聞かされた話だ。当時もいまもある、大旅館「白雲閣」の温泉につかりながら、怪談の口火をきったのは黒石だった。このころの黒石は、文学界から締めだされたあと、ようやく“山岳旅行作家”としての執筆活動が軌道に乗り収入も安定してきてきたのか、大きな旅館へ宿泊する余裕があったようだ。
『山の人生』(大新社/1942年)を底本とする、2017年(平成29)に山と渓谷社から出版された東雅夫・編『山怪実話大全岳人奇談傑作選』より、同作から引用してみよう。
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(黒石の怪談)あれから沼山峠を越えて東へ一里の山中に、矢櫃平といって、摺鉢の底みたような熊笹の原がある。ここは源義家に追われた安部惟任一族が、はるばる奥州から利根へ逃げ込むときに、矢櫃、鎧櫃などを埋匿したというので、矢櫃平の名称があるんだそうですがね。不思議なことには、只今でもこの笹原に足踏入れると、方角の見当がつかなくなって、立往生する。御承知の通り、山の中で頼りになるものは地図でしょう。それがですよ。持っている地図の文字や線が消えてしまって、いつの間にやら、白紙になっている。だから何方へ行ったらいいか、サッパリわからず、迷いに迷いながら、やっとのことで笹原を脱出て見ると、その白紙が、また、いつの間にやら元の地図になっているんだそうです。(カッコ内引用者註)
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安部惟任一族の話は、「やびつ=矢櫃」地名へ辻褄をあわせるための後世の付会だろう。安部一族が、わざわざ奥州からより障害や敵対勢力が多そうな、関東へと落ちのびてくるなど考えにくい。落ちのびるとすれば、奥州の南ではなく北だろう。



また、登場している「やびつ」の由来だが、神奈川県の丹沢山塊にもヤビツ峠という名称が存在している。もちろん、「矢櫃」の伝説などとは無縁で、当てはめる漢字も不明のため昔からカタカナで「ヤビツ峠」と表記されたままだ。いまでは、丹沢登山やキャンプ場へと向かうターミナル的な起点になり、休日にはかなり賑わう峠になっている。
ちょうど、丹沢山塊のどこへ向かうにもおよそ都合がいい、少し開けた感じのする峠の空間(路線バスも通う)なのだが、ヤビツとは「ヤ・ピト゜」が転訛した原日本語(アイヌ語に継承)ではないかと疑っている。「ヤ・ピト゜」とは「神々しい丘」あるいは「(尊称としての)丘(山)様」というような意味になる。
大泉黒石は、この怪談を事前に知っていたら、尾瀬を訪ねたついでに矢櫃平へ足をのばすのだったと残念がっているが、山にいる樵夫や炭焼きの話によれば、この現象はまちがいなく安部一族の幽魂のなせるワザなのだそうだ。ひょっとすると、地図の細かな文字や線が見えなくなるのは、登山による過度の疲労からにわかに低血糖症となり、視力に異常をきたして手もとのモノが見えづらくなっていたのではないだろうか。そうまともに解釈しては、せっかくの怪(あやかし)なのに身もふたもないのだけれど。
さて、黒石の怪談に対し、途中から山の道連れになっていた登山家は、もっと怖い話を語りだしている。つづけて、同書より引用してみよう。
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私の知っている山の温泉宿の二階座敷に、近ごろ女の幽霊が出たり、真夜中になると、床の下から嬰児の泣声がきこえる、という噂が立ったんです。(中略) 噂は段々ひろがって、その土地の新聞にまで書立てられるほど、有名になった。温泉宿の人達の話によると、その温泉宿は、もと部落の者の墓地だったところへ建てたんだそうで、墓地の持主の娘が旅商人の胤を宿して、女の子を生んだ。父親が怒って嬰児を里子に出して終った。娘は気が違って淵に身を投げて死んだ。父親は家をたたんで他国へ行っちまった。その家と墓地を無代同様に買ったのが、温泉宿の主人で、墓地のそばに温泉が湧いているもんだから、墓地を取払って宿屋を建てたんですな。(中略) 世間には物好が多いから、こいつァ面白い、嬰児の泣声なんざ、聞えなくってもいいが、別嬪の幽霊にはお目にかかりたいもんだ、というわけで、温泉の効果なんか何うでもいい連中が、どしどし押しかけていく。
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こちらのほうが、因縁が多少ハッキリしているので怖い話だろう。里子に出されたはずの、嬰児の泣き声が床下から聞こえるのは、実は里子に出したことにして父親が村人に知られぬよう、秘密でナニしてるのではないか?……とか、小野不由美の『残穢』Click!(新潮社/2012年)的な不気味さや気持ちの悪さすら漂っている。
女の幽霊が、知らないうちに「別嬪」化されているのはちょっとひっかかるけれど、ひそかに流した「別嬪」な女幽霊のウワサが各地からの宿泊客を万来させる、温泉旅館によるステルスマーケティングの成功例とみてまちがいないのではないか。これで温泉街に置き屋でも備われば、男性客をターゲットにした街の振興プロモーションは大成功となる。“座敷わらし”効果の「別嬪」幽霊版と考えれば、あながちピント外れでもなさそうだ。地元の新聞に“怪異”をリークしたのは、実はこの旅館の関係者だった可能性が高い。



現在では、「事故物件」へ泊まりたがる物好きや、検証型or肝試し型のYouTuberのために、いわくつきの客室をネットでリリースしている旅館やホテルも多いようだ。経営側にしてみれば、幽霊が出ようが出まいが知ったこっちゃないわけで、「別嬪」幽霊が出なくても「たまたま日が悪かった」とか、「彼女との相性が悪かった」とか、「泊まる前に寺社に参ったのがいけなかったんだ」とか、「もともと霊感がないからかも」とか、「自分は気が強いから出にくいんだろう」とか、自ら勝手な理屈をひねりだしては諦めて帰っていくだけだろう。そんなことで、なかなか予約が埋まらない“わけあり部屋”が回転するのであれば、経営者としては御の字で願ってもない客筋となるわけだ。
登山家が語った温泉宿は、連日「満員の盛況です。逆宣伝も巧く当ると此の通り」と、やはり温泉宿によるステルスマーケティングを疑っている。また、安部一族の呪い譚も、勝手に私有地の山へ入りこむ「登山家よけの禁厭に、地図が白紙になるなんて、途方もないことをね」と、登山家はハナから信用していない様子がうかがえる。
だが、この理屈っぽい登山家でも、まったく説明不能な出来事に遭遇している。同じく上州の四万温泉から入りこんだ、雨見山の深い谷間で道に迷い、日が暮れてしまったので山の斜面でたまたま見つけた、廃墟のような小屋で一夜を明かすことになった。
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夜中に目が醒めると、何うでしょう。宵会の座敷で芸者が、三味線ひいて唄い騒ぐような賑やかな物音が、真暗い谷底から聞えて来るじゃありませんか! この山奥に料理屋でもあるまいし、不思議に思って聞いているうちに、賑やかな音はパッタリ絶えてしまった。
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翌朝、近くの掛茶屋に寄ったので昨夜の経験を話すと、茶屋の爺さんが36年前の出来事を教えてくれた。雨見の谷には、もともと賑やかな炭焼き部落があり、越後三俣からきた5人の芸者が住みついて紅灯の店を出していたという。だが、谷間の大雪崩に家ごと巻きこまれ、芸者5人は全員が建物とともに流され全滅してしまった。深夜になると、谷底から聞こえてくる三味線や唄声は、惨死した女たちの亡霊のしわざだろう……とのことだった。




くだんの登山家も、自分が現場で直接体験していることだから説明がつかず、思わずゾッとしたのだという。これだから、山岳には不可解で得体の知れないモノが棲みつき、うごめいているような感じがつきまとうので苦手なのだ。わたしは、やっぱり海のほうがいい。
◆写真上:おそらく北穂高の細い尾根筋から、親父がカメラを北に向けて撮影したとみられる「アルプス銀座」(北アルプス)の峰々。1949年(昭和24)の撮影で、右手には当時はまだ名づけられていなかった「ゴジラの背」Click!が見えているはずだ。
◆写真中上:大泉黒石と同じく、上州での山歩きで親父が1943年(昭和18)ごろに撮影した山岳の写真。上は、岡本あたりの山から向かいの山々を望んだ風景。中は、明らかに手前が妙義山で奥が浅間山とみられる。下は、榛名山方面だろうか。
◆写真中下:上は、1949年(昭和24)に親父が喜作新通りから燕岳とみられる山をとらえた写真。中は、尾根筋から穂高連峰をとらえたとみられる写真。下は、同時期に槍ヶ岳の容姿からしておそらく東鎌尾根の尾根筋より西を向いて撮影した峰々。戦後間もないこの時期、親父は北アルプスを次々と制覇しようとしていたように思える。
◆写真下:上は、1941年(昭和16)に箱根の大涌谷あたりで撮影されたとみられる写真。もちろん当時はロープウェイなど存在せず、すべて足による登攀だったろう。中は、明らかに東京府立三中(現・両国高校)の制服姿をした生徒たちのパーティが、箱根の駒ヶ岳付近を登攀中の姿をとらえたもので親父もこの中にいたのだろう。下左は、1942年(昭和17)に出版された大泉黒石『山の人生』(大新社)。下右は、同書の『谷底の絃歌』が収録された2017年(平成29)出版の『山怪実話大全岳人奇談傑作選』(山と渓谷社)。
★おまけ1
戦後撮影の1枚で、上高地の小梨平あたりだと思われるが、キャンプにもよく出かけたものだろうか。三角巾にショートパンツ、ハイソックスの野営炊事係らしいとてもかわいい女子が、丸太をわたした梓川とみられる岸辺に写っているが、ちなみに母親ではない。(爆!)

★おまけ2
苦労して山頂付近まで登攀すると、ミニスカートにパンプスの女子たちや走りまわるガキどもに、杖をついた老人までがいて、「いままでの苦労はいったい何だったんだ!」と愕然とする、同じく北アルプス南端の乗鞍岳。だから、山はイヤなんだよね(ちがうか)。

コーヒーが欲しい敗戦国と緑茶が欲しい米軍。 [気になるエトセトラ]

JAZZのハービー・マン(fl)の曲に、「Turkish Coffee」Click!という楽しい曲がある。『Impressions Of The Middle East(中東の印象)』(Atlantic/1966年)という、めったにJAZZ喫茶Click!でもリクエストされることのない、とても地味ィ~なアルバム収録の自作のナンバーだ。日本では、むしろ「Uskudar」のほうが有名だろうか。
ハービー・マンも、かなりコーヒーClick!好きだったようだが、米国のコーヒーはあまりうまくはなかっただろう。全日本コーヒー協会(JCQA)によれば、コーヒーの産地ベスト5(2022年)は、1位がブラジル、2位がヴェトナム、3位がコロンビア、4位がインドネシア、5位がエチオピアだそうだが、なぜかコーヒーが美味しい国の上位には、これらの国々が入ってこないという不思議な現象がある。やはり、コーヒーClick!の美味しさは水と品質管理、そして淹れる道具立てや凝り方に大きなカギがあるのだろう。
JCQAによれば、外国人にコーヒーがうまい印象の国はどこかと近年アンケート(あるいはインタビュー?)をとると、日本とオーストリア、イタリアの3国を挙げる人が多いそうだ。なるほど、コーヒーにこだわりをもち、豆や水の質、炒り方、道具類などに凝る、ちょっとヲタッキーで凝り性の人たちが多くいそうなところが、美味しいコーヒーを飲ませる国……ということなのかもしれない。それに、クセのない美味しい水や、美味しさを保つ豆の厳重な品質課題も、もちろん重要なテーマなのだろう。
物書きには“コーヒー中毒”の人が多いらしく、1日にマグカップで6杯も7杯も飲まないと気がすまない作家やライターたちの話をよく聞く。上落合581番地(1918~1927年)からしばらく外遊のあと、すぐ東隣りの区画である上落合2丁目569番地(1932年~)の家で暮らした詩人の川路柳虹Click!も、そんなコーヒー中毒のひとりだったようだ。大正期に、1杯のコーヒーを詠んだ詩「珈琲茶碗」を残している。
1921年(大正10)に玄文社から出版された、川路柳虹『曙の声』から引用してみよう。
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白い船のやうにかがやく/硬質の土器/その上にかかれた唐草は/朝の光りに花と見える/なみなみと盛られた/黒い珈琲 一口すするうちに/かけぬ詩のこと/女のこと……/冒涜の思想の一閃//しかし画家のするやうに/じつとみつめるコツプの/おもてには/ふと青々とした野がうつる/ブラジルの野原で/黒こげになつた百姓が/汗しづくの手に摘む珈琲/さてまたうつるは/陶工の竈 熱い火の室内/ろくろ廻す若人の顔……//げに自分を慰める一杯の珈琲には/これを盛る粗末な茶碗には/汗と悩みと苦労がまつはる/生はどこまでも喘ぎ/歓びは悩みに培はれる/わたしの詩作の汗は/いつも何の幸福をもたらす?
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川路流行とその周辺はよく知らないが、確かにコーヒーを飲んでいるときに読んだ本や、流れていた曲や、棚に光るMcIntoshClick!のマッキンブルーClick!や、なにかモノ想いに沈んでいた夕暮れや、いっしょにいた友人たちや、もちろん女性たちなど、さまざまな情景がコーヒーの香りとともに甦ることがある。「♪一杯のコーヒーから~夢の花咲くこともある~」(藤浦洸/1939年)という歌は、実は若い恋人たちの歌などではなく、歳をとってから過ぎし日のノスタルジーまたはセレナーデに浸っている情景のようにも感じる。そういえば、「あのときは、ああだったな」と鮮やかに思い出せるのは、コーヒーの香りにまつわりついた「匂いの記憶」が脳を刺激して呼び醒まされるからかもしれない。
親父は、コーヒーはそれほど好んでは飲まず、ふつうの煎茶や番茶が好きだったけれど、若い学生時代には代用品ではないコーヒーや、ふつうの飯をたらふく食べたくて、敗戦直後から米軍のPXで料理場のアルバイトをしている。いや、正確にいえば飯(めし=コメ)ではなく、米国らしい風味のパンということになるだろうか。だから、世間が食糧難の時代にもかかわらず、それほど困窮して飢えずには済んでいたらしい。





米軍の隊内で支給されるコーヒー豆ないしは粉末コーヒーは、ドラム缶や石油缶へ大量に入れたような大雑把かつ品質もあまりよろしくないしろもので(しかし代用品ではなくホンモノだ)、決して現代のコーヒーのように美味しくはなかったと思うのだが、モノがなく代用品ばかり食わされ、飲ませられつづけた親父にしてみれば、それでも美味しく感じたのかもしれない。ただし、日本橋をはじめ京橋や銀座などの食いもん屋を、「母語」ならぬ「母味」として育った親父の舌にしてみれば、戦時中に比べればかなりマシと感じる、あくまでも相対的な「美味しさ」だったにちがいない。
戦時中の代用コーヒーには、大豆を深炒りして「コーヒー」豆に見立てたり、大麦や小麦などの籾を焦がし、それを布などで濾した茶色い水を「コーヒー」と称して代わりに飲んでいたが、食糧の配給が困難になるとそれらもなくなり、タンポポの根を掘り返して乾燥させ、それを焦がしては「コーヒー」と自己暗示をかけて飲むなど、味も香りも本来のものとは似ても似つかない飲料を代用コーヒーと称していた。もっとも、タンポポの根を焦がして煎じたものは、古くから消炎剤や利尿剤の生薬として用いられており、現在でも薬局やスーパーなどでは自然療法の「タンポポコーヒー」として販売されている。
さて、無類のコーヒー好きだった大泉黒石Click!も、戦時中はかなり不自由したようだ。おそらく彼の性格からすると、代用コーヒーなどもってのほかで、あまり口にしなかったのではないだろうか。太平洋戦争の初期には、欲しい品物が手に入ったが、「戦争の中頃から、混り物が入って来た。戦争の終わる頃は、完全なニセモノ、よく言へば代用品だけになった」と述懐している。大泉黒石は、コーヒーについて次のように書いている。
1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』(緑書房)付録の、「黒石廻廊/書報No.8」(1988年9月29日)より、大泉黒石『終戦と珈琲』から引用してみよう。
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それでも(代用コーヒーを)買ふ人があり売る店があって、戦争は終った。私は珈琲の先生ではない。たゞ五十年の経験から、素人の話をするに止るのだが、尋常の心臓を持ってゐる人にとって、これがその日の仕事を仕易くし、生活を楽しくする適度の昂奮を与へることは事実だ。萎弛してゐるエネルギーを鼓舞し胃酸の分泌を促すから消化不良には効果があるらしく、腎臓の作用をも助けるが、潰瘍を何所かに持ってゐる人は刺戟を避けるために余り沢山喫まないことだ。それだけだ。(カッコ内引用者註)
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大泉黒石Click!は当初、大豆や無花果(イチジク)の実を焦がしては代用コーヒーを試みていたようだが、「精神的にも肉体的にも効果ゼロだ」とやめている。




大泉黒石は、米軍の通訳になればコーヒーや砂糖もたくさん手に入ると思い、敗戦直後に外務省を訪れ、正式に通訳官になっている。当時は、横浜のニュー・グランド・ホテルがGHQの本部になるとウワサされていたので、さっそく外務省が指定した横浜の旅館に滞在している。だが、ロクな仕事がなかったので、すぐに横須賀の米海軍基地へと向かった。ここでなら、うまいコーヒーにも飯にもありつけると思ったのだろう。
横須賀での大泉黒石の仕事は、海兵隊の兵舎に図書館を創設するというものだった。各国語に堪能で、世界の多種多様な文献に通じていた彼には、まさにピッタリな仕事だったろう。当時の様子を、「黒石廻廊/書報No.8」の『終戦と珈琲』からつづけて引用しよう。
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これがアメリカの兵隊に塗れて九年何ヶ月の生活を送る皮切となったのだ。洋酒は兎も角も、珈琲と砂糖とクリームにありついた。この時分のことを「海兵図書館」といふ表題で東京新聞に書いた。海軍から陸軍の騎兵第五連隊に移ったのは十八ヶ月後で、珈琲に不自由はしなかったが、現にアメリカの兵隊が、喜んで使ってゐる石油缶大の缶詰の珈琲は、美味しくないといふ。美味しくないといふのは、女士官と女兵隊で、彼女等は一封(ポンド)入の缶詰を買ってゐる。無償と有償とは違ふだらうし、兵隊の用ひる珈琲を最上品とは思はぬが、美味しくないとは思はぬまんま、朝鮮戦乱が片づいて、何年間か喫みつゞけたのである。
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石油缶のような容器に入った船便でとどく大量のコーヒーは、長期輸送による品質劣化と金属の臭気が移り、とても美味しいとは思えないのだが、戦時中はまったく口にできなかった黒石の舌には、それでも「美味しい」と感じたのかもしれない。
敗戦後、横須賀に勤務していた将校や士官たちと親しくなった大泉黒石は、面白いエピソードを記録している。神奈川から東京にもどった黒石は、さっそく1日「五杯も六杯も喫む」コーヒーの入手に困ることになった。そこで、米軍からのコーヒー横流しルートを探しまわるのだが、おかしなことに米海軍航空隊司令官をはじめ、将校や士官たちは軍支給のコーヒーを飲まずに「緑茶党」だったことが判明している。「緑茶党」の米軍人(特に上級将校)は相当数にのぼり、大量の緑茶が米軍基地へ運びこまれていたらしい。
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米軍の横流しルートには、コーヒーと煎茶の物々交換によるあまり知られていないルートも、日本のレストランや料理屋を介して存在したのではないだろうか。敗戦国の日本人たちはコーヒーを欲しがり、進駐してきた米軍では「緑茶党」が急増して煎茶を欲しがる不思議な構図。「なんだこれは?」と、大泉黒石は不思議に思い書きとめたのかもしれない。
◆写真上:夏のアイスコーヒーには、丹念にローストしたコーヒー豆が欠かせない。
◆写真中上:上は、ハービー・マン『Impressions Of The Middle East(中東の印象)』(Atlantic/1966年)。中は、ペギー・リー『Black Coffee』(Decca/1956年)。下は、こんな海の午後風景を観ながらゆったりとJAZZでも聴きたい夏の終わり。
◆写真中下:上は、1921年(大正10)出版の川路柳虹『曙の声』(玄文社/左)と著者(右)。中は、米兵にコーヒーをわたす英兵。下は、1950年代の横須賀米海軍基地。
◆写真下:いずれも戦時中によく見られた代用コーヒーで、大豆コーヒー(上)、大麦コーヒー(中)、タンポポコーヒー(下)。コーヒーだと思って飲むと即棄てたくなるが、あらかじめこういう独特な飲み物だと納得して飲めば、それなりの風味が味わえるだろうか?
「山手線」の測定標杭を引っこ抜け。 [気になる下落合]

明治期に起きた鉄道敷設の反対運動Click!には、よく鉄道本などに書かれているその理由として、蒸気機関車の排煙で火事が多発するから、機関車の振動で作物の生育が悪化するから、線路沿いの電線を伝ってスズメが集まるから、いち早く伝染病Click!が拡がるから……などなど、現代から見ると中にはやや滑稽な理由も含まれている。確かに、利用者で混雑するターミナル駅や電車を介して、COVID-19(新型コロナウィルス感染症)Click!あるいはインフルエンザが拡散されていったケースもあるだろう。
だが、切実な理由から激しい反対運動を繰り広げたのは、当の鉄道敷地や駅舎予定地の地主たちだった。日本鉄道(株)が、「品川川口間鉄道」(現・山手線)を計画して沿線の住民たちに発表したとき、鉄道誘致を展開していた村々は喜んだだろうが、それが憤激に変わるのにさして時間がかからなかった。日本鉄道が用地を適正な実勢価格で買いとるどころか、地主たちは“半額セール”Click!をやらされることになったからだ。
しかも、日本鉄道の「鉄道を敷いてやる」的な強引で傲慢な姿勢も、沿線地主たちを激怒させた要因だろう。所有者に断りもせず無断で農地や宅地に侵入し、勝手に測量しては境界杭(測定標杭)を打ち並べ、いきなり社員が所有者の家にやってきて、境界杭を打った土地を実勢価格の半額で売るべしと、明治期の土地収用法をカサにきて上意下達式にいい残していった……というようなケースがほとんどだったからだ。
怒った農地や宅地の所有者たちは、日本鉄道が勝手に測量して自分の土地に打ちこんでいった境界杭を、片っぱしから引っこ抜いて工事の妨害をつづけることになる。東京都の公文書館には、これら「測量杭行方不明」事件あるいは「測定標杭妨害」事件の報告書が、東京府庶務課の記録として多数残されている。それは、高田村や下落合村の周辺に限らず、品川方面から徐々に北上していく激しい反対運動だったとみられる。おそらく、日本鉄道の横暴と土地の“半額セール”の情報は、またたくまに「品川川口間鉄道」計画沿線の村々に伝わっていったにちがいない。
わたしの手もとには、「品川川口間鉄道」の工事計画が進む1880年(明治13)に作成された、東京都公文書館に保存されている『往復録第一類/東京府庶務課』の資料があるが、目黒村や渋谷村、代々木村などにおける妨害事件の詳細が多数記録されている。実力行使をともなう、あまりに激しい反対運動だったせいか、中には工部省から東京府へ問い合わせた「工部省より鉄道沿線測定標杭妨害の件に付照会」までが記録されている。これらは、荏原郡(現・品川区/目黒区含む)をはじめ南豊島郡(現・渋谷区/新宿区含む)、北豊島郡(現・豊島区/北区含む)と、現在の山手線西側のすべての地域を含んでいる。
たとえば、1880年(明治13)4月29日に記録されている、工部省の書記官・杉実信から東京府知事・松田道之あてに出された、目黒・渋谷・代々木の3村における「標杭取棄」事件に関する照会文書を、東京都公文書館の保存資料からそのまま引用してみよう。
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東京前橋間沿線ニ付 既ニ測量線路ハ標杭打チ立候処 此程中何物之取棄候〇〇願上 目黒渋谷代々木村等ニ於テ右測定之標杭三四本抜取之有者〇〇〇 又昨今中下渋谷村ニテ一二本紛失ニ及ヒ 夫レカ為メ実測点検之多大ニ不都合ヲ生シ候義ニ付 決シテ之等ノ所業無キ様沿道村民ニ無漏厳〇〇〇旨 至急〇〇〇〇〇〇度 此段及付照会〇也(〇は判読不明字)
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この時点で、3村における測定標杭の「取棄」事件は、34本+12本の計46本にも及んでいたことがわかる。いざ工事に取りかかろうとすると、目印となる標杭がまったくなく作業を中断し、もう一度測量からやり直しになったケースも多かったにちがいない。



東京府庶務課では、「妨障害無之様沿線村々ヘ至急告示」を繰り返すが、激怒した地主たちは聞く耳をもたなかった。ついには各村々の戸長へ、標杭が引っこ抜かれないよう見張れとまで命じている。だが、沿線村々の戸長も自身の土地が勝手に測量され、“半額セール”の災厄に巻きこまれた人物もいたとみられ、日本鉄道への妨害や東京府への抗議はなくならなかった。むしろ、村の利害を代表する戸長が率先して、村民とともに標杭を引っこ抜いていたケースもあったのではないだろうか。なんだか、1970年代の三里塚闘争を想起させるような、実力行使をともなう激しい反対運動が展開されている。
高田村の戸長・新倉徳三郎Click!にも、測定標杭が「行方不明」になって妨害されないよう、監視・管理をちゃんとしろという命令が東京府からとどいているようなので、高田村の「品川川口間鉄道」敷設予定地あるいは目白停車場設置予定地でも、そのような事例が発生していたのだろう。しかし、日本鉄道が勝手に設置した測定標杭を、24h365dにわたり見張ることなど不可能なので、標杭の「取棄」事件は工事が強行されるまでつづいていたのではないだろうか。高田村における測定標杭の引っこ抜き妨害事件、あるいは新倉徳三郎あての東京府庶務課からの命令書は、残念ながらいまだ発見できていない。
この反対運動は、豊島線(池袋停車場から分岐する現・山手線)の計画が具体化する明治後期には、その激しさを増している。1901年(明治34)に東京府知事だった千家尊福Click!の周囲には、日々寄せられる「意見書(苦情・抗議書)」が山積していたとみられる。日本鉄道が、品川川口鉄道につづき豊島線の敷設を進めていたため、その土地買収をめぐって敷設工事を監督する立場にある東京府へ抗議が殺到したとみられるからだ。
千家府知事は、庶務課あるいは鉄道敷設に関する業務を行う部局の担当者を呼んで、「これはいったい、どうなってるのかね?」と、さっそく照会しただろうか。寄せられた「意見書」=苦情・抗議書のほとんどが、池袋駅を起点とする豊島線の沿線地主からで、そろいもそろって土地収用に関して激怒している内容だったからだ。千家尊福の性格からして、これはあとあとまで尾を引いてマズイなと感じたかもしれない。のちに、怒った沿線の地主たちにより、次々と土地買収に関する訴訟が起こされ事態は深刻化していくことになる。




中には、鉄道敷設に必要なギリギリの土地だけの面積しか買収しない日本鉄道のせいで、自宅の軒が停車場とくっついてしまうような住宅も出現した。当然、家の建て替えあるいは移築をしなければならなくなるが、それに対する移転費・補償費もまったく出ないというありさまだった。農地や宅地を所有する住民たちの怒りは、標杭の「取棄」事件のように直接的には日本鉄道へと向かったが、それを監督・指導すべき東京府へも続々と「意見書(苦情・抗議書)」が寄せられている。
たとえば、実勢価格を無視して土地の“半額セール”を迫られた、巣鴨村池袋にある重林寺住職の宮崎真誠という人は、1901年(明治34)に下記のような「意見書」を東京府に提出している。ちなみに、同寺は境内へ勝手に日本鉄道の測量隊が無断で侵入し、地価の半額で買収すると「強請」=ゆすられたとして許しがたいと書いている。
2006年(平成18)に豊島区立郷土資料館から刊行された、『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』(調査報告書 第18集)から引用してみよう。
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豊島線鉄道用地ニ係ル当寺所有ノ地所ニ対シ日本鉄道会社長ヨリ土地収用審査会裁決申請セラレシニ付、右ニ対スル意見呈出仕候/一 日本鉄道会社ニ於テ当寺所有ノ地所買収ニ付、無断ニ測量シ、且ツ壱坪金弐円五拾銭ト所定之強請セラレ候次第ニ付、承諾致シ難ク候事/一 鉄道用地ニ対シ地所売渡ニ応セザルモノニ無之候間、相当ノ代価ヲ以テ買収有之度、即チ壱坪五円ノ割ヲ以テ買収有之度事/一 壱坪ノ代価金五円ヲ以テ相当ト認メタル理由ハ、先年当村学校設立ノ際、所有者地所一纏メニテ壱坪金弐円五拾銭ノ割ヲ以テ買収セラレ候、又壱坪四円ニテ売渡セシ地所モ有之候、然ルニ、今回鉄道会社ノ買収ニハ地所ノ取捨有之候間、残地ノ補償等併セテ壱坪五円ヲ請求候事
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つまり、2円50銭/坪の価格は、実勢価格にまったく合わない算定評価であるばかりでなく、鉄道用地から少しでもはみ出した土地は買収の対象にならないため、農地にも宅地にも活用できない中途半端な狭い変形地があちこちにできてしまうので、それも含めて日本鉄道に買いとってほしいという要望だ。自宅の一部に駅舎がかかり、駅舎と自宅がくっついてしまうという非常識なケースは先述したが、少しでも鉄道用地から外れた土地がどうなろうと、あとは知ったこっちゃないという日本鉄道の横柄で傲慢な姿勢が、このあと東京府の土地収用審査会への訴訟事件を次々と生じさせる結果となった。



明治後期ともなれば、私鉄の敷設計画も増えてきている時期で、山手線エリアよりもさらに市街地から離れた計画の沿線地で、3~5円/坪で鉄道会社が買収している情報も伝わっていたとみられる。あまりにもひどい日本鉄道の高圧的な態度と、実勢価格の半額となる買収価格に、山手線沿線の地主たちは次々と堪忍袋の緒を切っていったのだろう。
◆写真上:1897年(明治30)ごろ、池袋停車場近くを走行する現・山手線の汽車。
◆写真中上:上・中は、東京都公文書館に保存されている測量標杭の「取棄」事件の記録いろいろ。下は、工部省から東京府への「なんとかしろ」の文書。w
◆写真中下:上左は、1880年(明治13)に東京府庶務課がまとめた『往復録第一類』。上右は、2006年(平成18)に刊行された『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』(調査報告書 第18集/豊島区立郷土資料館)。中は、1903年(明治36)に撮影された池袋停車場の先で分かれる品川川口線と豊島線の分岐点。下は、同年撮影の池袋停車場。
◆写真下:上は、1894年(明治27)に作成された日本鉄道平面・断面図。すべて英語表記で単位はCN(センチニュートン)で統一されているが、雑司ヶ谷道(新井薬師道)Click!の下落合ガードClick!地点はいまだ隧道が認可されておらず「LEVEL CROSSING 29CN」と踏み切りが設置されていた。中は、1884年(明治17)6月に裁定された下落合村と高田村を結ぶ下落合ガードの設置請願書に対する鉄道局の拒否回答。鎌倉支道の同道が、線路土手で遮断されて荷車の通行が困難なため、両村では東京府を介して隧道(ガード)の設置を請願しているとみられるが、当初は鉄道局ににべもなく拒否されている。下は、1891年(明治24)作成の地形図に記載された山手線を横ぎる踏み切り表現の雑司ヶ谷道(新井薬師道)。地図下に見える、早稲田通りや旧・神田上水のガード表現と比べるとちがいが明らかだ。
陸軍に“占拠”される以前の戸山ヶ原の情景。 [気になるエトセトラ]

このところ、陸軍科学研究所Click!や陸軍技術本部Click!など、戸山ヶ原Click!がらみのテーマではキナ臭い記事がつづいているので、陸軍に全体を“占拠”される以前の、武蔵野の面影が色濃い同地域について、少しまとめて書いてみたい。
これまで、戸山ヶ原Click!の風景や情景などについては三宅克己Click!や正宗得三郎Click!、中村彝Click!、中原悌二郎Click!、小島善太郎Click!、曾宮一念Click!、佐伯祐三Click!、萬鐵五郎Click!、濱田煕Click!などの絵画作品やエッセイについては、機会があるごとに数多くご紹介してきたように思うが、文芸がらみの作品類に登場する戸山ヶ原の記事は、夏目漱石Click!や小泉八雲Click!、江戸川乱歩Click!、岡本綺堂Click!ぐらいしか思い浮かばず、美術分野に比べてかなり少なかったように思う。
そこで、きょうは文章として描かれている戸山ヶ原について、少しご紹介してみたい。なお、既出の人物たちはできるだけ避け、これまで拙サイトではあまり取りあげてこなかった文学者たちの、「戸山ヶ原風景」の描写を中心にピックアップしてみよう。
影のごと今宵も宿を出でにけり 戸山ヶ原の夕雲を見に 若山牧水
若山牧水Click!が、早大近くの高田八幡(穴八幡)Click!に接する下宿から、下落合方面へ散策にやってくる様子を、『東京の郊外を想ふ』(改造社『樹木とその葉』収録/1925年)を引用しながら18年ほど前に記事Click!にしている。戸山ヶ原の夕暮れに、かけがえのない美しさを感じたのは若山牧水Click!だけではない。大久保町西大久保205番地に住んだ、フランス文学者の吉江孤雁(喬松)もそのひとりだった。1909年(明治42)に如山堂から出版された、随筆集『緑雲』より晩秋の風景を少し引用してみよう。
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或夕方私は戸山の原へ出て、草の深く茂つた丘の上へ登り、入り日の後の鈍色の雲を眺めて立つてゐた。すると不意にけたゝましい音をたてて、空を鳴きつれて行くものがある。驚いて見上げると、幾百かの群鳥が一団となつて、空も黒くなるばかりに連なつて行くのであつた。それは私の立つてゐる丘から、さまで隔らない空の上であるから、羽音まで明らかに聞えて怖ろしい位であつた。(中略) 其渡鳥が過ぎた翌日であつた。夕嵐が烈しく起つて原を吹き、杜を吹き、枯草を飛ばし、僅かに残つてゐた木の葉を挘ぎちぎり、雲の中から霰がたばしつて来た。もう秋の終り、今日よりは冬の領ぞ、とやう感ぜられた。私は又一人、嵐に吹かれながら野路を辿つて行つた。
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渡り鳥はおそらくカリやカモの群れであり、近くの自然に形成された湧水池や、田畑にある溜池などへ北の国から飛来したものだろう。
ひとところ夕日の光濃くよどむ 野の低き地をなつかしみ行く 前田夕暮
同じく、戸山ヶ原の夕暮れをめでた歌人に前田夕暮Click!がいる。大久保町西大久保201番地に住んだ前田夕暮は、戸山ヶ原を含む大久保を「第二の故郷」として愛した。1940年(昭和15)に八雲書林から出版された前田夕暮『素描』から、その様子を引用してみよう。
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私は西大久保に明治四十三年から昭和九年六月まで二十五年間の間棲んでゐた。(生れた村には十六、七年しかをらなかつた) で、西大久保は私の第二の故郷であつた。その第二の故郷に棲みついた長い「時」のながれのなかの戸山ヶ原こそは、いろいろの意味で親しい交渉をもつてゐた。若し、私の過去の作品のなかから、この戸山ヶ原を削除したならば、可成り淋しいものになるにちがひない。私はこの戸山ヶ原を夕日ヶ丘といひ、またただ草場とよんでゐた。(中略) 私はよく戸山ヶ原に行つた。その頃の戸山ヶ原は、高田馬場寄りの東南一面、身を埋めるばかりの草原であつた。その草原のなかを細い一本の路が雑木林のはしをうねつて戸塚の方に通つてゐた。秋になると、その野路をコトコトと音をたてゝ荷車を挽いた農夫が行つた。
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吉江孤雁の西大久保205番地や、前田夕暮の同201番地は山手線・新大久保駅も近い、現代でいえば金龍寺墓地の周辺にあたる住宅街であり、当時は秋になるとスズムシが鳴き、空には渡り鳥の群れがいきかう、夕日がとびきりキレイな郊外の閑静な住宅地(現・大久保1丁目界隈)だったろう。大久保通りを越え、少し北へ歩けば戸山ヶ原の広大な草原や雑木林が拡がり、静かに歌作をするには最適な散策地だったにちがいない。
ちなみに、上記の住所は新大久保駅から220mほど東へ歩き、大久保通りから南へ数十メートル入ったあたりの番地に相当する。つまり、現代では周囲を“韓流”商店に囲まれ、そこから南へ200mほど歩けば新宿の歌舞伎町という、とんでもなく賑やかな立地になってしまった。金龍寺の山門脇には、集まる観光客の多さや騒音に怖れをなしたのだろう、「檀信徒以外立入禁止」「撮影禁止」の立て看がいかめしく設置されている。大久保の文士たちが現代に現れたら、きっと目をまわして卒倒するにちがいない。
明治末の戸山ヶ原について、小説家で詩人の岩野泡鳴との間で恋愛のゴタゴタを抱えていた作家・遠藤清子(のち岩野清子)は、1915年(大正4)に米倉書店から出版した『愛の争闘』に収録の「大久保日記」で、戸山ヶ原を次のように描いている。
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明治四三年六月八日 夕ぐれの戸山の原を一緒に散歩した。夕陽が小さい鳥居の立つてゐる森の間に沈みかけてゐた。目白につゞく一帯の麦圃はもう充分に熟してゐた。馬鈴薯畑には白く花がついてゐた。雲雀が私達の頭上で囀つてゐた。
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「一緒に散歩した」のは、もちろん恋愛相手の岩野泡鳴だ。このとき岩野には妻があり、9歳年下の遠藤清子とは大久保で同棲生活を送っていた。「小さい鳥居」とは、皮肉なことに大久保通りをはさんで金龍寺の北東に建っていた、戸山ヶ原の夫婦木社(現・大久保2丁目)のことだろう。草むらから、空へ垂直に飛びたつヒバリの声を聞きながら、戸山ヶ原を複雑な想いを抱いて歩くふたりだったのではないだろうか。
戸山ヶ原といえば、戸川秋骨の文章をどこかで読んだ方もおられるだろうか。田山花袋Click!や永井荷風Click!とともに、戸山ヶ原の風情を記録したひとりだ。1913年(大正2)に籾山書店から出版された、『そのまゝの記』収録の「霜の朝の戸山の原」から引用しよう。



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戸山の原は、原とし言へども多少の高低があり、立樹が沢山にある、大きくはないが喬木が立ち籠めて、叢林を為した処もある。そしてその地上には少しも人工が加はつて居ない。全く自然のままである。若し当初の武蔵野の趣を知りたいと願ふものは此処にそれを求むべきであらう。高低のある広い地は一面に雑草を以て蔽はれて居て、春は摘み草に児女の自由に遊ぶに適し、秋は雅人の擅まゝ散策するに任す。四季の何時と言はず、絵画の学生が此処其処にカンヴァスを携へて、この自然を写して居るのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。最も健全なる遊園地である。その自然と野趣とは全く郊外の他の場所に求むべからざるものがある。
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物音が途絶えたような静謐な住宅街と、昔日の武蔵野の姿をとどめた戸山ヶ原の存在は、多くの文学者や画家たちを惹きつけてやまなかったようだ。
ねがはくば戸山が原の赤樫の かげに木洩れ日あびて眠らむ 並木秋人
文人たちが、戸山ヶ原を北にのぞむ西大久保や東大久保、あるいは山手線の外側にあたる百人町へ参集したのには理由がある。明治期のベストセラーとなった1冊、『武蔵野』Click!を著した国木田独歩Click!もまた大久保に住んでいたからだ。明治末の当時、36歳で病没したこの作家の人気は衰えず、彼の面影を慕って大久保界隈はさしづめ文士村のような様相をていしていた。また、東京郊外だったこともあり、家賃や物価が安かったのも、貧乏暮らしが多かった作家や画家たちを惹きつけた理由だろう。
1999年(平成11)に岩波書店から出版された、歌人で国文学者の窪田空穂『わが文学体験』から、国木田独歩の家を訪ねた様子を引用してみよう。
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とにかく当時の西大久保は、貧しい者の代名詞のようになっていた文学青年の好んで住んでいた所で、私には親友関係となっていた吉江孤雁、前田晃、水野葉舟など、みな西大久保の小さな借家に住んでいた。誰も内心には、一種の寂蓼感を蔵していたので、よく往ったり来たりしていた。(中略) 独歩の家は、私達仲間とほぼ同じ程度の小家であった。一間道路に面して、青垣根で仕切った三室か四室くらいの平屋であった。そのころは貸家は幾らでもあり、したがって家賃も安かった。独歩の家は家賃十五円程度の家で、二十円はしなかったろうと見えた。書斎は広く、八畳ではなかったかと思うが、これが家の主室で、客室でもあり、寝室でもあったろう。装飾品は何もなく、机が一脚すわっているだけで、がらんとして広く感じられた。
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戸山ヶ原は、大正期に入ると山手線の内側(東側)には、陸軍の近衛騎兵連隊Click!が駐屯し、大久保射撃場Click!や軍医学校Click!、戸山学校Click!、第一衛戍病院Click!などをはじめ多種多様なコンクリート施設が建設されていく。昭和に入ると、それまでは「着弾地」などと呼ばれて建物が少なく、子どもたちの格好の遊び場や大人たちの散歩道となっていた山手線の外側(西側)の戸山ヶ原にも、陸軍科学研究所・技術本部Click!のビル群がひしめくように建設されていく。江戸川乱歩Click!の作品に登場した、戸山ヶ原の大きな目印だった「一本松」Click!も、陸軍科学研究所の敷地が北へ大きく拡張されるにつれ戦時中に伐採されている。
◆写真上:戸山ヶ原を東西に分ける山手線で、ビル側が明治~大正期の射撃演習場跡。
◆写真中上:戸山・大久保地域に残る、昔日の戸山ヶ原の面影いろいろ。
◆写真中下:上は、西側の戸山ヶ原から戸塚4丁目(現・高田馬場4丁目)へ移設された天祖社Click!。中・下は、昔日の戸山ヶ原を想像させる風景いろいろ。
◆写真下:上は、明治期と変わらない昔ながらの戸山ヶ原風景。中は、いまも残る防弾土塁のひとつ。下は、1931年(昭和6)に制作された川瀬巴水『冬の月 戸山ヶ原』。
山登りは晩秋がいちばんという話。 [気になる下落合]

子どものころから多彩な山々に登ったけれど、この山は「素晴らしかった!」というようなのは特にない。もとより、わたしは海辺Click!のほうが向いている人間だからだろう。海には気がゆるせるが、山には得体のしれない不気味さClick!を感じるからかもしれない。だが、親父は山のほうがよかったらしく、わたしを山歩きClick!によく連れだした。
身近なところでは鎌倉から三浦半島、箱根連山、大山、丹沢山塊、足柄、はては富士山や日本アルプスまで、さまざまな山々へわたしを連れていってくれたが、親父が海へ向かった回数は少ない。ひとりで行動できるような年齢になったとき、わたしが向かった先は山ではなく近くの海や、日本各地の海辺だった。山は、確かに体力や忍耐力がつくし、達成感や充実感が湧くし、めざす山頂からの眺めは素晴らしいのだが、根がめんど臭がりでいい加減なわたしには、“ただそれだけ”のように感じるのだ。
海に浸かって感じるような、心身ともにリラックスさせてくれ、心や精神をデフォルトにもどしてくれるような深い魅力を、わたしは残念ながら山に感じることはついぞなかった。ただ、これまでさまざまな山に登ってきて、山道に見られる山岳植物や昆虫、動物などの名前を憶えるのは知識が拡がって面白いし、ときに地層がむき出しになった崖から化石を採集Click!するのも楽しいし、山で野営地を整備してテントを張り、焚き木を集めながら飯盒炊爨をするのも魅力的なのだが、よく考えてみればそれらの行為が楽しいのであって、別にことさら“山”でなくてもいいことに気づくのだ。
子どものころ、親に連れられて出かけた山は、おそらく危険がないようにということでほとんどが夏山だったが、確かに山の植物に花が咲き、昆虫や動物が数多く見られるのは夏場だから、それにまとまった休みがとれるのは夏休みだから、わたしの好みや都合にあわせてくれたのだろう。低山の植物だが、ウラシマソウClick!とそれによく似たマムシグサに興味をもったのも、夏山のハイキングだったように思う。神奈川県の低山には、これらの山草がよく生えているが、同時にその名のとおりマムシにもよく出あった憶えがある。
ハイキングで山道を歩いているとき、近くにいた女子たちがフリーズして無言になるのは、たいがいその先にヘビがとぐろを巻いていることが多かった。シマヘビやヤマカガシなら、大きな動物(人間)の気配を感じればたいてい逃げるが、マムシは警戒してその場で動かなくなるし、アオダイショウClick!は昔から人と共存してきた経緯が記憶された遺伝子から、他のヘビほど人間を警戒したりはしない。だから、女子たちの先にいるのは、たいていマムシかアオダイショウだった。アオダイショウClick!なら、「かわいいね」(爆!)といってその横をスッと通りすぎればそれだけだが、マムシは落ちている木の枝かなにかで草むらへ追いやってからでないと、安心して歩けなかった。
ちょっと余談だが、千代田城Click!のお濠端にある歩道の柵には、ときどきシマヘビがからまって日向ぼっこをしていることが多く、歩道を歩いていた昼休みでランチの女子たちが「ギャーーッ!」といって血相を変えながら逃げていくという話を、何度か聞いたことがある。いちばん耳にするのは、九段下から番町あたりの内濠だが、市ヶ谷から四ッ谷にかけての外濠にもいるのだろうか。都会に住んでいるシマヘビは、クルマの騒音がうるさかろうが、女子たちClick!が悲鳴をあげながらすぐ近くを走りぬけようが、すでに環境適応してしまったのか逃げないらしい。日光浴で暖まりながら、「うるささヘビー級の女たちだ」とでも思っているのかもしれない。
いつごろから、親たちがわたしを山に連れていってくれるようになったのか、ハッキリした記憶がない。いちばん最初に記憶している、というか苦しかった地獄のような山は、箱根の旧・東海道(箱根旧街道)を歩いたことだ。おそらく、小学校の1年生ではなかったかと思う。夏に出かけたのだが、箱根の山上は涼しかったらしく暑さの記憶はない。当時、箱根旧街道はほとんど江戸期のままの姿をしており、現在のようにきれいに整備などされていなかった。箱根湯元から歩きはじめ、元箱根の芦ノ湖畔へと抜ける山道だが、つづら折りの山道が多々あるので総距離は10kmをはるかに超えていただろう。しかも、滝廉太郎が詠うように「箱根の山は天下の剣」で、箱根外輪山はほとんどが急峻な坂道のコースなのだ。



江戸期から石畳は敷かれていたが、とんでもない急坂を登りつづけ下りつづけ、途中で弁当を食べて大休止はしたと思うのだが、およそ10kmほどは歩いたとみられる甘酒茶屋で、わたしはついにダウンしもう歩けないと泣きだした。「足が棒になる」という喩えがあるが、脚の感覚が鈍くなって自分の思うように動かせなくなるほど、6歳のわたしにはきつい山歩きだった。その当時、甘酒茶屋を切り盛りしていたお婆さんが、甘いものを飲ませればすぐに治るといって、わたしはオレンジジュースとコーラ(チェリオClick!だったか? 炭酸飲料)を飲んだ憶えがある。考えてみれば、急峻な旧・東海道が通う箱根の山道に、なぜ江戸期の大昔から“甘酒”の茶屋があるのかよくわかるエピソードだ。
そこで1時間ほど休み、甘いものを飲みつづけたせいだろうか、しばらくすると体力が回復し、箱根関所のある元箱根まで出ることができた。いまの整備がゆきとどいた箱根旧街道ではなく、1960年代ごろは江戸期そのままの道筋であり、おそらく総距離にするとゆうに12~13kmはあったと思う。そんなけわしい山道に、6歳の子どもをつれていく親も親だが、わたしにとって箱根連山は大山や丹沢山塊よりもキツイ山々として強烈に印象づけられている。もっとも、クルマのドライブルートで箱根に出かける人たちには、この山々のほんとうのけわしさはわからないだろう。
子どものころから、夏山ばかりを登った記憶が多いが、大人になってからのわたしは秋に登る山が好きだ。それも樹々が色づいたころではなく、紅葉があらかた散ってしまった晩秋か、初雪がチラつきはじめる初冬の登山が快適で気持ちいい。
穴八幡の下宿から、目白崖線を上って下落合の丘をよく散策していたらしい若山牧水Click!も、同じようなことをいっている。1925年(大正14)に改造社から出版された、若山牧水『樹木とその葉』収録のエッセイ「自然の息自然の声」から引用してみよう。



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私はよく山歩きをする。/それも秋から冬に移るころの、ちやうど紅葉が過ぎて漸くあたりがあらはにならうとする落葉のころの山が好きだ。草鞋ばきの足もとからは、橡(トチ)は橡、山毛欅(ブナ)は山毛欅、それぞれの木の匂を放つてゞも居る樣な眞新しい落葉のからからに乾いたのを踏んで通るのが好きだ。黄いな色も鮮かに散り積つた中から岩の鋭い頭が見え、其處には苔が眞白に乾いてゐる。時々大きな木の根から長い尾を曳いて山鳥がまひ立つ。その姿がいつまでも見えて居る樣にあらはに明るい落葉の山。/それも余り低い山では面白くない。海拔の尺數も少ない山といふうちにも暖國の山では落葉の色がきたない。永い間枝にしがみついてゐて、そしていよいよ落つる時になるともううす黒く破れかぢかんでゐる。一霜で染まり、二霜三霜ではらはらと散つてしまふといふのはどうしても寒国の高山の木の葉である。(カッコ内引用者註)
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わたしは、晩秋に歩く高山もいいが、周囲の見晴らしがきく低山でも楽しい。紅葉がなくなるので、登山者やハイカーの姿がなくなり、風の音となびく草木の音しか聞こえないような静黙な山歩きが面白い。街の喧騒から逃れ、リセットされるような気分を味わえるからだろうか。それとも、わたしにとっての海と同様に、なにも考えずに精神的なデフォルト感へ、心のおもむくまま自然と浸れるからだろうか。
少し前、いまだ未整理のアルバム類をひっくり返していたら、まったく記憶にない山の写真がゾロゾロと出てきた。コダックのリバーサル(ポジ)フィルムEktachromeに記録された、小学校低学年とみられるわたしもいっしょに写る山の写真だが、これらの風景にまったく憶えがない。道路には雪が見えており、山道は一面の枯れ草が拡がっているので、おそらく晩秋か、初雪が降った初冬のころに登った山なのだろう。
樹木が少ない山々の様子から、かなり標高の高いことがわかる。Ektachrome用のプラスチックでできた専用ケースに入っていたもので、プリント・ネガ袋に親がよく書き残していた撮影場所や日付けの記載もなく不明だ。ポジを見ているうちに、大きな湖が写っていたので、どうやら箱根外輪山のうちのいずれかの山だと想像がつく。おそらく、その山容から富士山が間近に見える、箱根外輪山では北側に位置する金時山ではないかと想定できる。だが、撮影日が晩秋ないしは小雪まじりの初冬のせいなのか、富士山はすっぽりと雲に隠れて見えない。いや、見下ろす芦ノ湖でさえ霧にかすんでハッキリとは見えていない。




わたしは、このフィルムに写る情景にまったく見憶えがない。わたしの容姿からして、先述した地獄の箱根旧街道を歩いたころと、それほど年数が隔たっているとは思えないのだが、この山登りは記憶の中からスッポリと抜け落ちている。ひょっとすると、わたしは昔から晩秋または初冬の登山が性にあい、ことさら快適な山歩きだったせいで記憶に残らなかったのか、あるいは記憶から無意識に丸ごと削りとってしまいたいほど、箱根旧街道の上をいくつらい思いをして登ったかのどちらかだろう。写真のわたしの表情からすると、どうやら涼しく快適な山登りだったせいで、また金時山の目前に大きな富士山も見えず、他の山歩きに比べて印象が薄れ、しだいに忘れ去ってしまったような気配が濃厚なのだ。
◆写真上:Ektachromeのポジフィルムに記録された、金時山とみられる枯草が風になびく急斜面。ちょっと滑落したら、無傷では済まなさそうなヤバい急傾斜だ。
◆写真中上:すでに冠雪しているので、初冬のころに登った金時山だと思われる。
◆写真中下:その山容から金時山と思われ、いちばん下の大きな湖はおそらく芦ノ湖。
◆写真下:上は、1881年(明治14)に制作された小林清親Click!『箱根山峠甘酒茶屋』。わたしが歩いたころと、あまり変わらない風景だ。中は、雄大な富士山を堪能できる金時山の山頂(手前)。おそらく、現在は外国人の山好きやハイカーたちで連日賑わっているのだろう。下は、1925年(大正14)出版の若山牧水『樹木とその葉』(改造社/左)と著者(右)。
大泉黒石の転居先が混乱していて悩ましい。 [気になる下落合]

大泉黒石Click!に関する居住地と、その転居ルートが錯綜して混乱しているようだ。黒石自身の証言と、家族たちの証言にも大きな食いちがいが見られる。特に、本郷から雑司ヶ谷へと転居してからの証言に、研究者を含めかなりの混乱が生じている。
今回は、大泉黒石Click!が住んだといわれている居住地について、その記述を書籍や資料から追いかけながら、できるだけ順番にたどっていきたい。まずは、わたしが大泉黒石について記事を書くのにベースとしていた、巻末に年譜が付属する岩波書店から出版された最新の四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』(2023年)から引用してみよう。
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1921年(大正10年) 28歳
文士生活はますます軌道にのり、雑司ヶ谷へ転居。(後略)
1924年(大正13年) 31歳
(前略)この頃は椎名町から転居して、下落合の中井に住む。書生2、3人を置き、家賃50円。隣家では林芙美子が『放浪記』を書いていた。(後略)
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上記の1921年(大正10)に雑司ヶ谷への転居は、本郷から高田町雑司ヶ谷442番地へ転居したことを指している。これは、二松堂書店版の『文芸年鑑』1923年版(国立国会図書館収蔵:以下同)でもそうなっているし、また1988年(昭和63)に緑書房から出版された『大泉黒石全集』第6巻の巻末に収録された、由良君美「大泉黒石掌伝」でもそう規定されている。
この住所は、大泉黒石が『俺の自叙伝』の中で以下のように書いている家だ。
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雑司ヶ谷で黒石の邸はどこだと尋ねれば直ぐ解る。三条家と背中合わせに偉大なる冠木の門があるだろう。門の内に物凄い大銀杏が、サガレン半島から押し寄せて来る空っ風と腕押しをしながら、北斗星を脅やかしているはずだ。その枝に赤ん坊のおしめが干してある。
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確かに、目白通り(高田大通り=清戸道Click!)に面した大きな華族の三条屋敷の裏側(北側)に、高田町雑司ヶ谷442番地は位置しているのでまちがいない。
だが、わたしが先の年譜をおかしいと気づきはじめたきっかけは、大泉黒石が1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!の前後に書いた長編小説『預言』の「自序」だった。同作が、作者の了解をとらず『大宇宙の黙示』と改題して1923年(大正12)に新光社から出版された本の当初「自序」ではなく、改めて原題の『預言』にもどし1926年(大正15)に雄文堂出版から刊行された改訂版の、「再刊の序」として書かれた以下の文章だ。
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(前略) かくして、再び本来の面目に還つて世に出る運びとなった。著者の欣びには誠に少なからぬものがある。/大正十五年九月一日東京府下長崎村大和田の寓居にてしるす
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これによれば1926年(大正15)9月現在、大泉黒石は長崎村大和田にいたことになる。同様に、『文芸年鑑』(二松堂書店版)の1926年版を調べてみると、長崎村(同年に町制へと移行)の大和田2028番地(江戸期には椎名町と呼ばれていた清戸道Click!沿いのエリア)に住んでいたことがわかる。しかし、この間にはいくつかの転居先が抜けている。
ちなみに、いわずもがなだが混乱を避けるために書いておくと、大泉黒石の東京における転居先で「長崎」という地名が頻出するが、これは当然ながら彼の生まれ故郷である九州の「長崎」のことではなく、東京府北豊島郡長崎村(1926年より長崎町)のことだ。
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まず、高田町雑司ヶ谷442番地のあとの、長男・大泉淳の証言がある。1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』第3巻の付録、「黒石廻廊/書報No.3」には、「家の後ろの程遠からぬ所を武蔵野鉄道が走っていて、時々、私は弟の灝を連れて電車を見に行った」と証言している。このとき小学生だった大泉淳は弟とともに、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)を走る汽車(おそらく貨物列車)に轢かれそうになっている。
雑司ヶ谷442番地の家の「後ろ」、小学生が気軽に遊びにいけるような場所に武蔵野鉄道は走っていない。高田町内で、武蔵野鉄道が「程遠からぬ所」を走るのは、高田町雑司ヶ谷の御堂杉か西原、あるいは上屋敷(あがりやしき)あたりの住所だ。大泉一家は短期間のうちに、高田町雑司ヶ谷内を一度転居しているのではないか?
また、年譜は雑司ヶ谷から椎名町(長崎村大和田)へ転居したとなっているが、実は関東大震災の翌年1924年(大正14)に転居したのは、長崎村五郎窪4213番地だったことが『文芸年鑑』1924年版(二松堂書店版)で確認できる。つまり、長男の大泉淳が電車に乗って通いつづけた雑司ヶ谷の高田第一小学校は、最寄りの武蔵野鉄道・東長崎駅から乗車したのであり、大泉黒石が毎朝息子を見送った駅舎も同駅ということになる。大泉淳の証言に、ときどき「東長崎」が登場するのは、この長崎村五郎窪時代のことだろう。
長崎村五郎窪4213番地は、ダット乗合自動車Click!が通う長崎バス通りClick!も近い一画で、五郎久保稲荷Click!から通りをはさみ南へ120mほどの区画、五郎窪一帯の大地主だった岩崎千之助邸Click!の北西にあたる敷地なので、大泉淳の記憶に残る茶畑に囲まれた大きめな西洋館は、岩崎家が建てて賃貸住宅にしていた邸だった可能性が高い。
さて、長男の大泉淳は長崎村で関東大震災に遭遇したと書いているが、大泉黒石は雑司ヶ谷で大震災に遭ったとしているようだ。すでに他の記事Click!でご紹介している一文だが、四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』(2023年)より大震災前後を引用してみよう。
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黒石が『預言』を世に問うにあたっては、いくぶん込み入った事情があった。関東大震災の直後、彼は瓦礫と化した雑司ヶ谷に疲れ、郊外の下長崎(ママ)に転居。気分を一新して執筆を開始したまではよかったが、刊行にあたっては大震災の出版業界の混乱が災いした。
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雑司ヶ谷一帯が、関東大震災の被害をあまり受けていないのは、以前の記事でも触れて書いたとおりだが、文中で「下長崎」と架空の地名(?)で書かれている転居先が、東長崎駅も近い長崎村五郎窪4213番地だったことがわかる。


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このあと、大泉黒石は1926年(大正15)の『文芸年鑑』(二松堂書店版)、および同年の『預言』に書かれた「再刊の序」にあるとおり、長崎村大和田2028番地に転居している。五郎窪4213番地の家から、東南東へ930mほどのところにある敷地だ。しかし、ここでも研究者を悩ませる課題がある。長崎町内を転居していたはずの大泉一家だが、1925年(大正14)に誕生した三男・大泉滉(ポー)の出生地が「雑司ヶ谷」になっていることだ。つまり、1924年(大正13)の長崎村五郎窪と、1926年(大正15)の長崎町大和田との間に、大泉家は高田町にもどっているのではないかという可能性だ。残念ながら、1925年(大正14)の『文芸年鑑』(二松堂書店版)は国立国会図書館でも欠番となっている。
では、長崎町大和田の次に上掲の年譜どおり、ようやく下落合の西部へ転居したのかと思えば、実はここからがますますややこしいのだ。大泉黒石は、長崎町大和田2028番地から、再び高田町の雑司ヶ谷近くへともどっているのだ。この一連の高田町→長崎町→高田町の往復転居あたりの事情から、黒石本人も子どもたちも、また研究者も前後関係の文脈がわからなくなり、彼の住居が混乱している要因ではないかとみられる。
1932年(昭和7)に改造社から出版された『文芸年鑑』1932年版によれば、大泉黒石の新たな住所は高田町鶉山1501番地であることがわかる。同所は、雑司ヶ谷鬼子母神Click!のすぐ南側に位置する敷地であり、現在はちょうど明治通り(環5)の下になってしまったあたりの番地だ。したがって、黒石自身や家族たちの鬼子母神とその周辺にからんだエピソードや証言は、双方の時代が前後し錯綜して語られている可能性がある。
では、今度こそ年譜にあるように下落合へ転居してきたのかといえば、実際はまったく異なるのだ。1932年(昭和7)に出版された『文芸年鑑』(改造社版)によれば、今度は下落合とは正反対の方角、板橋区(1932年より東京35区制が施行)の中新井1丁目71番地に転居したとされている。ところが、お気づきかと思うが困ったことに、今度は『文芸年鑑』が記載ミスをやらかしている。中新井町があるのは板橋区ではなく練馬区だ。同住所は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の練馬駅の南側にあたる位置だ。
そして、ここからもすぐに転居して、1936年(昭和11)に改造社ではなく新たに第一書房から出版された『文芸年鑑』によれば、板橋区(ママ)下石神井町北1丁目305番地に居住している。再び、『文芸年鑑』の改造社版→第一書房版でも記載ミスが引き継がれ、練馬区を板橋区と誤記している。この住所は、現在の西武池袋線・石神井公園駅の近くにあたるとみられる敷地だ。ちなみに、練馬区内の中新井と下石神井について、大泉黒石や家族たちが証言している文章を、わたしはいまだ発見できていない。
このあと、ようやく下落合へ転居してくることになるが、その時期は1936年(昭和11)以降ということになり、下落合2133番地Click!に住んだ林芙美子Click!が裏庭の様子と、転居してきた大泉一家の様子を書いた『柿の実』(1934年)は、転居前後の記述においては時系列的に正しいということがわかる。ただし、「七人の子供を引き連れた此家族」(『柿の実』)と書かれている大泉家だが、男子3人+女子2人で「五人の子供」が正しい。おそらく林芙美子は、大泉家にいた学生の書生たちを実子と勘ちがいしているのだろう。

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こうして、大正期から昭和初期にかけ大泉黒石の転居先を追いかけると、黒石の研究者はもちろん、子どもたちまでも記憶に残る情景がどこの家でのものなのか、混乱している様子がよくわかる気がする。ましてや研究者たちは、最初に九州の長崎と東京府北豊島郡の長崎とでややこしくなり、高田町雑司ヶ谷内での転居、あるいは高田町と長崎町の往復転居で混乱し、『文芸年鑑』の練馬区と板橋区の誤記に頭を抱え、落合町下落合の住所に首をひねっているのではないだろうか? これでは、現在の目白や雑司ヶ谷、練馬、そして下落合の街々をよく知る地元の人間でなければ、転居先の具体的な特定は容易ではないだろう。
◆写真上:『預言』執筆時の、1923年(大正12)ごろに撮影されたとみられる大泉黒石。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)出版の『文芸年鑑』(二松堂書店版)に掲載の大泉黒石住所。旧所有者がメモ書きしたのか、すでに長崎村五郎窪への転居先が手書きされている。中上は、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」にみる同所。中下は、1924年(大正13)出版の『文芸年鑑』(二松堂書店版)掲載の大泉黒石住所。下は、1926年(大正15)作成の「長崎町西部事情明細図」にみる同所。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)に出版された『文芸年鑑』(二松堂書店版)掲載の大泉黒石住所。中上は、1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」にみる同所。同時代のはずだが、残念ながら長崎町大和田2028番地に大泉邸は採取されていない。中下は、1932年(昭和7)に出版された『文芸年鑑』(改造社版)掲載の大泉黒石住所。下は、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」にみる同所。
◆写真下:上は、1934年(昭和9)出版の『文芸年鑑』(改造社版)にみる大泉黒石住所。中は、1936年(昭和12)出版の『文芸年鑑』(第一書房版)に掲載の大泉黒石住所。いずれも、練馬区を板橋区と誤記。下左は、今年(2023年)出版の大泉黒石『俺の自叙伝』(岩波書店)。下右は、同年出版の四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』(岩波書店)。
実は美味しい“冷や飯喰らい”の妙。 [気になるエトセトラ]

わたしの母方の祖父は、冷や飯(ひやめし)が好きだった。祖父に限らず、冷や飯が好きな人が昔はたくさんいたように思う。“冷や飯喰らい”というと、江戸の武家の間では“厄介叔父”などとも呼ばれ、嫡子(長男)以外の弟たちは家の中では煙たがられたようだ。どこかへ養子のもらい手もない、あまり優秀でない、または幸運にめぐまれない男たちは生涯、家長あるいは嫡子が食事をしたあと、残った冷めた飯を遠慮しながらこっそり食わなければならない存在で、“石(ごく=米)つぶし”ともいわれて蔑まれた。
だが、中国や朝鮮半島由来の儒教思想に根のある、「家制度」にまつわるこのような習慣は、幕府の小旗本や御家人の間ではあまり根づかず、ましてや江戸の町人(商家・職人)の世界では家庭内の様相Click!がまったく異なっていた。一家の女性Click!(いわゆるお上Click!)がマネジメントをつかさどる家庭が多く、男は職技=仕事に精通して店(たな=企業)や家の経営は女性に委任する、男女の役割分担(分業化)が進んでいた。そのような家では、お上Click!の統括のもと“冷や飯喰らい”は不良にでもなっていなければ存在せず、兄弟そろって同じ仕事(職技)に励む家も少なくなかった。
少し横道へそれたけれど、“冷や飯喰らい”はあまりいい意味の言葉ではないが、炊きたての熱い飯ではなく、冷や飯を好んで食べる人が昔は多かった。もちろん、電子(保温)ジャーや電子レンジなど昔は存在しなかったので、冷や飯を食べる機会も多かったのだろうが、熱い飯では米の味がよくわからず、あえて飯を冷ましてから食べる人がたくさんいたのだ。冷めた飯のほうが、熱々の飯よりもじっくり噛みしめて味わえるので、米がもつ本来のうまさがよくわかり美味しいと感じたのだろう。
夏場の小腹満たしには、冷や飯の上に冷ました煎茶をかけて食べる冷や茶漬けClick!が好まれ、冬でも炊きたてではなく、飯を冷ましてから食事をする人たちが多かった。ただし、おみおつけ(味噌汁)やおすまし(すまし汁)は熱々でなければダメで、どのようにしたらもっともうまい飯が食べられるのか、昔の人たちはいろいろ食事の工夫や作法にこだわっていたにちがいない。確かに、熱々の飯よりは少し冷ましてから食べたほうが、米のうまさや銘柄による味わい、風味のちがいなどがよくわかる。
わたしも食べ物には意地きたないが、もっと意地きたない人の言葉を聞いてみよう。冷や飯以外は食わないといっているのは、ことのほか食にうるさい作家の子母澤寛Click!だ。1977年(昭和52)に出版された『味覚極楽』(新評社版)から引用してみよう。
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しかしこの時にきいた飯の味は冷や飯が本物だということは間違いない。私は道重さんの話をきいていったい本当かどうかと、試してみたのが病みつきで三十年来飯は冷や飯に限るとしている。寒中に冷や飯へ水をかけて沢庵で、なんてところまではいかないが、絶対熱い飯は喰わない。いや、喰えなくなってしまった。そのため朝など、女中さんが困ることもあるらしいが、少し硬目の冷や飯に、その代りだしのよく利いた舌の焼けるようなうまい味噌汁、これが私の一番好物で、ずっと今日までこれをやっているのだから、道重さんも地下で微笑していられるかも知れない。
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「道重さん」とは、徳川家の菩提寺Click!で巨刹のひとつである芝増上寺Click!の大僧正・道重信教のことだ。冬でも冷や飯に水をかけて食べていたらしいが、3000年前のシャカの教えのとおり「肉を喰うと慈愛の精神がなくなる」と説いた、動物の殺生を禁ずる戒律をもつ仏教僧Click!としては、しごくあたりまえの食生活だったのだろう。旅行などでよその地方に出かけ、現地で馴れないものを食べては吐いていたというから、ふだんから食べ馴れた飯(米)を持参する、まるで配給制度があった食糧難時代Click!のような趣きだが、それほど食や味に関してはうるさい人物だったらしい。
わたしの親父も、熱々の飯が苦手だった。多少ネコ舌だったせいもあるのだろうが、少し冷ましてから食べたほうがうまいといっていた。母方の祖父Click!も同様で、食事の最初に飯をよそらせ、しばらく酒を飲んだあと、ほどよく冷めたころを見はからって食べていた。この人も食に関してはこだわりがあり、めっぽううるさい人だった。



江戸の芝居茶屋から普及したうなぎ飯(うな重Click!)だが、あれは炊きたての飯の熱さを逆に利用したもので、すぐに食べなくても(幕間になるまでしばらく放置しても)、うなぎの焼きたて感が保てるための工夫だった。脂がのっているうなぎは、冷めると硬くなるので蒸しを強くするが、それでも芝居が役者のセリフまわりで長丁場だったりすると、皮が硬くなり食べにくくなる。うなぎが適度に温かみを保ち、飯がほどよく冷めたころ、双方がいちばん美味しく食べられるコツだったのだろう。
ちょっと余談だが、わたしはときに蒲焼きClick!の皮がパリッとして香ばしいのも好きで棄てがたい。たっぷりと蒸しをきかせて、口の中でとろけるような蒲焼きもいいが、焦げめの香ばしさを残したタレの味が映える食味も好きだ。現在は前者が乃手の店に多く、後者が今日いわゆる下町Click!と呼ばれている地域の店に多いだろうか。
蒲焼きヲタクだった新派Click!の俳優・伊井蓉峰Click!は、とにかく蒲焼きの皮が硬いなどもってのほかで、通りがかりではなくいきつけの店で蒲焼きをちぎろうと、箸を立てたら皮が抵抗してうまくいかず、さっそく店の親父に文句をいったところ、皮の硬いのが好みの客が増えているといわれた。「馬鹿なことで、うなぎは皮があってなきがごとしを上とするもんだ」と、子母澤の取材では話しているが、おそらく伊井は蒸しにたっぷりと時間をかけられる、高級な蒲焼き屋ばかりを食べ歩いていたのだろう。
ざっかけない蒲焼き屋では、通りすがりの客の回転も考えるため、蒸しの時間を短縮して出すことが多いのか、焼きが強い蒲焼きにお目にかかることがある。だが、それはそれなりにまた香ばしくタレがのって美味しく食べられるもので、わざわざ「上」だの「下」だのというほどのことでもないように感じる。もっともダメな蒲焼き屋(伊井の表現にならうなら「下」)は、うなぎの泥臭さをうまく処理できていない、料理の初歩的な技術からして知らないか、手抜きをしているような店だ。
さて、新宿の河田町には小笠原伯爵邸がいまもレストランとなってそのまま残るが、その小笠原家の誰かが京で面白い飯の食い方をしている。おそらく、江戸期の逸話ではないかと思われるが、まるで江戸市中で暮らした忙しい職人か俸手振(ぼてふり)、日雇取(ひようとり)のような食事の「作法」だ。同書より、子爵・小笠原長生が語る伝承を引用してみよう。
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むかし私の家の何代目かの人間が京都へ使いに行って宮中で御膳が出た。小笠原流の一家の者だ、どんなふうにして飯を食うだろうとさらでだにこんなことにはやかましい公卿さん達は唐紙障子のかげにかくれてすき見をしている。小笠原はただちにこれに気がついたのでまずいきなりお汁もお平のおわんもふたをとると飯の上へざぶりと汁をかけ、その上へお平をまた打ちかけ、また香の物を打ちかけてさくりと食い出した。公卿達は肝をつぶした。なあんだ小笠原一家の者だなどといって、あれでは田夫野人にも劣るというので、しきりに冷笑したが、いよいよ膳部を下げて箸を洗うことになってはじめてびっくりした。そんな荒っぽい食い方をしているにもかかわらず、箸の先が二分とはよごれていなかった。小笠原流などといってむやみに形式ばかり論ずるがそんなものじゃないということを示した訳である。
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わたしの世代でいえば、これは「木枯し紋次郎」風な食い方で、こんなことをすればわたしの家でもさっそく「お行儀が悪い!」と母親から叱責されただろう。
だが、礼儀や礼法で形式化された食べ方では、食事のほんとうの美味しさや醍醐味がわからないのは、『味覚極楽』でも多くの人が証言している。炊きたてで熱々のご飯を出して客をもてなしたり、うなぎを香ばしく皮がほんの少しパリッとするところ残して出したところ、かえって嫌な顔をされるシチュエーションもあることを考えると、料理というのはほんとうに奥が深くてむずかしいものだと思う。食に対する個々人の趣味嗜好はもちろんあるが、その外枠の“くくり”として地域・地方の食文化のちがいもあるのだろう。
やはり冷や飯が好きだったとみられる、子母澤寛Click!がインタビューした当時は民政党の影のボス、実質的な党首だった榊田清兵衛はこんなことを書いている。
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江戸生粋の料理でつづいた「八百善」がこの節はもなどを出したりするくらいで、いわゆるむかしからのうまい物屋もだんだんなくなってしまう。/江戸の料理というものは今ではなかなか味わえない。いろんなことはいっても上方料理の影響が利いて第一魚の切り方からが変わっている。それに支那料理風が流れこんだり、西洋風がはいったりして、つまり自然のものその物の味を出して、すべて淡白にやっていくという江戸料理よりは調味料をうまく使って食わせるというやり方が多くなっている。
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新鮮な素材がふんだんに手に入る、自然の風味を活かした料理が確かに江戸東京地方の大きな特徴であり持ち味なので、ゴテゴテといじくりまわすような料理を榊田が批判するのも無理はない。榊田が話すころから東京の料理屋の味、つまり“うまいもん”Click!の風味が少しずつ変化してきたのだろう。ただし、彼は政界のボス的な存在なので、八百善のような高級料理屋や新橋・赤坂あたりの料亭などで食事をする機会が多かったにちがいない。そのような店では明治以降、薩長政府の政治家や役人たちの舌にあわせた味つけを、あえてするようになっていたのに気づく。
八百善でハモ(鱧)が出たのが、よほど腹立たしく気障りだった榊田だが、確かに多彩な太平洋の魚に比べそれほどうまいとも思えないハモは、いまでも東京では普及していない。



わたしも、冷や飯食いをマネしようと何度か試みたのだが、湯気が立つ炊きたての飯の香りも棄てがたく、いまではかわりばんこClick!に味わうようになった。だから、道重信教や子母澤寛などにいわせれば、いまだ舌が未熟で米のほんとうの味を知らないのかもしれない。
◆写真上:新宿・河田町にある、2000年(平成12)よりレストランとなった小笠原長幹邸。
◆写真中上:上は、毎日食べるご飯で近ごろは山形の「つや姫」が定番。中は、めずらしくサルといっしょに写らない子母澤寛。下は、芝の増上寺境内。
◆写真中下:上は、新派の人気俳優だった伊井蓉峰のブロマイド。中・下は、牛込区(現・新宿区の一部)の河田町にレストランとして残る小笠原長幹邸(1927年築)。
◆写真下:上は、天保年間に制作された安藤広重Click!『江戸高名会亭尽/八百善』。中は、民政党のボスだった榊田清兵衛。下は、目黒不動ではなく巣鴨「にしむら」のうな重。
★おまけ
クーラーの冷たい風が苦手なのか、夏になるとどこかの天井近くで昼寝をする凶暴なアライグマ……ならぬ、うちのオトメヤマネコ(6歳♀)も猫舌で冷や飯しか食わない。

大泉黒石もはまった神奈川の化石採集。 [気になる下落合]
わたしは子どものころ、よく化石採集Click!に出かけた。小学生の高学年になると、自転車で近場にある更新世(昔は洪積世と呼ばれた)の地層が露出しているところへ、クラスの友だちと出かけたりした。それ以前は、親に連れられ神奈川や東京の化石を産出する地点をめぐり、夏休みの自由研究にして学校へ提出したりしていた。
神奈川県では、すぐ近くの大磯や二宮に露出していた二宮層群Click!(魚貝類やサメの歯などの化石)であり、足柄地域の足柄層群(貝類やサンゴなどの化石)、三浦半島の横須賀から観音崎あたりの宮田層群(ナウマンゾウや魚貝類、鳥類足跡などの化石)をよく訪れていた。東京では、武蔵野Click!を歩きがてら、五日市Click!盆地(現・あきるの市)の五日市町層群(古生代~新生代の多種多様な化石)にも出かけている。
これらの化石は、わたしの部屋でたいせつに保存したかったのだが、夏休みの自由研究で宿題として学校へ提出したりすると、教師から学校へ寄贈してくれといわれて二度ともどってはこなかった。おそらく、学校側から両親へ先に話をつけていたものだろう、自由研究が学校からもどらなくても親たちはなにもいわなかった。箱根の温泉からの帰り道、足柄山地へ立ちより山道を10km以上歩きながら苦労して採集した、20個以上の貝化石がもどってこなくなってから、わたしは二度と採集した化石を学校へ自由研究として提出することはなかった。人がせっかく苦労して集めた化石を、学校にタダ盗りされて怒りが湧かないほどガキではなくなっていたからだ。いまでも、当時の化石採集用の大小タガネ類やハンマーは、棄てずにそのまま家に残している。
神奈川県の化石産地を、大泉黒石Click!も子どもたちを連れながらゾロゾロ歩いている。彼は大岡昇平Click!のように地質学にも詳しかったらしく、更新世(黒石の時代は洪積世)中期~後期の質のいい化石は、神奈川県の地層から産出するのを知っていたのだろう。ちなみに、黒石が住んでいたここ下落合でも貝化石は産出するが、関東ロームを5m前後も掘り下げないと砂質性のシルト層にはぶつからない。目白崖線のバッケ(崖地)Click!に、うまくシルト層が露出している箇所(その多くが湧水の出口になっている)では採集できるが、たいがい濃い樹林と下草におおわれて容易に掘ることができないか、すでに住宅が建ち並んでいて探すのがたいへんだし、うっかり掘ったりすると「あ~た、宅の土地でいったい何してるんですの?」と、地主のヲバサンに怒られたりするから厄介だ。
大泉黒石は、子どもたちには常に丁寧語の「ですます」調で接し、親と子ではなく対等の人間同士のように応対していたらしい。父親のどこかよそよそしい態度には、子どもでさえ人格を尊重するやさしい愛情を感じた子もいれば、苦手で逃げ出したいと感じた子もいたようだ。また、黒石は子どもたちの教育には熱心で、化石採集も子どもたちに地球の歴史について興味をもたせるため、教育の一環として出かけたのかもしれない。
神奈川県の化石採集について、1988年(昭和63)出版の『大泉黒石全集』(緑書房)の付録「黒石廻廊/書報No.1」より、二女・大泉淵『幼き日の思い出』から引用してみよう。
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化石を採りに行った時のことです。電車で行ったか歩いたかは忘れましたが、場所は横須賀でした。もう私も小学生です。単衣を尻はしょりしてカナヅチを手に持ち、ハンカチを腰にはさんだ父の後ろからついて行くと、小高い丘を上り切った所に白い崖があって、さまざまな貝の化石が沢山ありました。丹念に採集した化石を、大事そうにハンカチに包んでいる父を見ている内に、私はなぜだかもの悲しくなりました。/家庭のことをかえりみない父ではありましたが、こと教育に関しては全く熱心でありました。
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黒石は、娘の大泉淵がまだ年端もいかない小学生だったにもかかわらず、当時としてはありえない「英語」を教えはじめている。毎日、新しい単語カードを作っては娘にわたしていた。その日の単語カードを父親の部屋へもらいにいくと、「昨日のは覚えましたか?」といわれて必ずテストをされた。父親が仕事で不在のときも、欠かさずに単語カードは事前に用意されていて、彼女は情けない思いをしたようだ。大泉淵は「英語」がイヤでイヤでしかたがなかったようなのだが、のちに女学校へ通うようになってから、このときの単語カードがずいぶん役に立ったと書いている。
また、小学生のクラスメイトが遊びにくると、大泉黒石は紅茶をいれて大人の来客に接するようにご馳走したり、まるで年ごろの娘が遊びにきたかのようにていねいに接待し、息子のポー(大泉滉)の「嫁さんになってもらえませんか?」などと頼んだりしている。黒石は、「小学生の女の子にそのようなことを礼儀正しく真面目に話す」ことができる、子どもたちにしてみれば常識はずれで面食らうようなオトナ(父親)だったようだ。
大泉淵は、子どものころからいっぷう変わったそんな父親が苦手で、彼女はいつも父親から逃げまわっていたらしい。大泉黒石としては、かわいい娘たちを連れて歩くのが楽しくてしかたがなかったのかもしれないが、小学生の娘にしてみれば迷惑以外のなにものでもなかった。「黒石廻廊/書報No.1」から、つづけて彼女の証言を聞いてみよう。
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私達はいつも父親から逃げたいという態勢でした。父は背が高いうえ脇も見ずに真直ぐ大またで歩くので、向うから父が来たと分ると、なるべく背を低くしてすりぬけるようにします。ひとたびつかまって、「一緒に来ませんか」といわれたが最後、私達の習慣としてイヤということは出来なかったものですから、何処へ連れて行かれるか分ったものではなかったのです。彫刻家、画家、映画の監督さんの家、など。つかまるのは外とは限らず、家にいても「一緒に来なさい」といわれたら運が悪いとあきらめるわけです。その日はどっちでつかまったか分りませんが、私は銀座の南蛮というバーに連れていかれ、その揚句おきざりにされて、母をひどく心配させたこともありました。とにかく父と歩くと実にお腹が空くので困るのです。
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上記の彫刻家や画家の中には、同じ下落合のアビラ村(芸術村)Click!ないしは落合地域に住んでいた人物が含まれていたのかもしれない。また、「映画の監督さん」は日活向島撮影所の脚本部にいたとき以来の友人たちだと思われ、中には『血と霊』の溝口健二Click!も含まれていたのだろう。銀座のバー「南蛮」は、その店名から同郷の長崎出身のママが切り盛りする、昔から馴染みの店だったのだろうか。
大泉黒石の子煩悩は、東京帝大近くの本郷に住んでいたころからのようで、やはり長男の大泉淳を連れては散歩や見物に出かけていたようだ。大泉黒石の本郷時代というと関東大震災Click!の前、1920年(大正9)ごろのことだ。やはり、小学校に通いはじめた大泉淳を散歩に誘っては、当時はめずらしかった飛行機を見に出かけたりしている。
1988年(昭和63)出版の『大泉黒石全集』(緑書房)の付録「黒石廻廊/書報No.2」より、今度は長男・大泉淳『黒石の思い出』から、その父親黒石像を引用してみよう。
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その後本郷の、帝大から程遠からぬ所に引越した。父は赤門通りの、いちょう並木の落葉が散り敷く坂道をよく散歩していた。郷里長崎の石畳の坂道の面影を求めていたのかも知れない。或は散歩の間に小説の構想を練っていたのであろう。坂の途中に屋台店があって油で揚げて砂糖をまぶした薩摩芋を売っていた。父は時々そこに立ち寄って土産にそれを買って帰り、油に滲んだ新聞紙の包を開けて親子でそれをつまんだものである。後年、大学芋と呼ばれる同種の芋を見る度に帝大の近くにあった、あの屋台店のことを思い出す。
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帝政ロシアの官僚だった父親の遺産がつきてカネがなくなり、一高を中退せざるをえなかった大泉黒石は、どこかに東京帝大への未練があったものだろうか、本郷では帝大周辺をよく散歩している。家族がいた当時、創作の合い間にも子どもたちのことを気にかける子煩悩でやさしい父親だったようだが、娘たちにとっては「逃げたい」存在だった。もっとも、父親が煙たいのは、別に大泉黒石の娘たちに限らないのだろうが……。
大泉黒石は毎年、夏休みになると故郷の長崎へ家族旅行に出かけている。すでに長崎には、黒石の身寄りや姻戚はひとりもいなかったが、やはり生まれ育ったところなので彼を生涯惹きつけてやまない街だったのだろう。長崎では仕事をせず、1ヶ月間をただなにもせずに遊んで暮らしていたらしい。子どもたちを連れていたので、もちろん名所史跡めぐりはしただろうし、散歩や食べ歩き、海水浴などにも連れていっただろう。ときに、子どもたちの夏休みの宿題をみてやるなど、ひと月を作家ではなく父親としてすごしている。


大泉淵の姉の家には、大泉黒石が海岸でひろい集めた美しい貝殻の入った箱があった。彼女の姉の娘、黒石にとっては孫娘のために集めた貝殻だった。横須賀の化石採集へ娘たちを連れだしても、まったく喜ばなかったのを憶えていたものか、更新世の貝化石ではなく現代のきれいな貝殻ばかりを集めたらしい。大泉淵は、孫娘のために砂浜でしゃがみながらひとつひとつ、きれいな貝殻を選んでひろっている父親の姿が浮かび、「胸を熱くして一粒の貝を手のひらにのせると私はながいこと見つめておりました」と、エッセイを結んでいる。
◆写真上:関東大震災のときに地中から浮上した、貝化石を数多く含む二宮層。
◆写真中上:上・中は、横須賀市の観音崎に露出する地層と磯。下は、麻布か本郷時代に撮影された大泉一家だが子どもはまだふたりしかいない。
◆写真中下:上は、下落合の砂質シルト層から見つかる貝類化石(「新宿区立図書館紀要Ⅰ」/1967年)。左上から右下へ順にカガミガイ(他)、ナミガイ、ヤツシロガイ、オオノガイ、ミルクイの化石。中は、同じく同紀要より左上から右下へ順にブラウンイシカゲガイ、ホソスジカガミガイ、トリガイ、イタヤガイ、ウチムラサキ(?)、アサリの化石。下は、大磯海岸のこゆるぎの浜に関東大震災の直後から露出した二宮層。
◆写真下:上は、1923年(大正12)秋の関東大震災直後に上映された大泉黒石×溝口健二監督『血と霊』(日活)のポスター。大震災後の騒然とした中での上映で、観客の入りがかなり悪かった。下は、1923年(大正12)2月に故郷の長崎を訪れた大泉黒石(前列中央)。
★おまけ
神奈川の代表的な化石産出地層で、上が二宮町に露出する二宮層と、下が足柄上郡山北町に露出する足柄層群。足柄層群からは貝のほか、サンゴの化石も多数発見されている。
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