東京護謨の納品帰りは神田市場の青果。 [気になる下落合]
いまから18年ほど前、下落合を流す物売りの声について書きとめたことがあった。風邪などで熱をだし家で寝ていると、いろいろな物売りの声が聞こえてきて面白かったのを記事Click!にしたものだ。だが、このところ物売りの声が絶えて久しい。
もちろん、新型コロナ禍の影響もあっただろうが、それ以前から物売りの声がしなくなっていたように思う。江戸期と変わらない鋳掛屋や研ぎ屋、ラオ屋、江戸風鈴・吊忍・風車売りの声や音も聞かなくなった。以前はまわってきていた、移動スーパーや青物屋の小型トラック、豆腐屋もしばらく見かけていない。すべて近所のスーパーによるネットの受注が浸透したせいで、これら流して歩く物売り商売が全滅した……とも考えにくい。鍋釜の修理や包丁研ぎ、煙管のメンテナンス、風鈴や吊忍をネットで依頼し発注するような手間がかかり、かえって業務効率が悪くなりそうなワークフローは考えづらい。
おそらく、これらの商売をしていた人たちが高齢化して引退してしまったか、あるいは流して歩く物売りへなにかを依頼する、あるいは商品を購入するのをためらう世代が増えて、マーケットが急速に縮小してしまったかのどちらかなのだろう。また、住環境が変化し集合住宅が増えて、中の住民にはスピーカーを使わない物売りの声は聞こえない、あるいは聞こえても上階からは声をかけにくいなどの事情があるのかもしれない。さらに、夫婦の共働きが80%をゆうに超える住環境で、そもそも物売りがふれ歩いても誰もいない家庭が増えていることも挙げられるだろう。
戦前の上落合地域を流す、物売りの声を記録した資料が新宿区に残されている。上落合の早稲田通り沿いで、「八百由」という青物屋を営んでいた岸銀太郎という方が証言した、昭和10年代の物売りの声だ。1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会が刊行した『新宿に生きた女性たちⅢ』収録の、岸銀太郎『八百屋三代記』から引用してみよう。
▼
そのころの台所は上げ板つきの板の間で、ほとんどの家は座り流しに足付きまな板を使っていました。奉公人は箱膳でした。農家は箱膳が多かったようですね。銀行の野々村さんとか大きなお屋敷に御用聞きに行くと、そこは立ち流しで水がめがありました。広い板の間で真ん中に調理台があって、ガスも早くからあったようですよ。/御用聞きは私ら八百屋のほかに魚屋がきて、飯台に鰹とか鯖など時期のものを入れて担いでやってきました。物売りも大勢きましたね。「いわーしっこぃ」「はとんがらーし」「あさりー、しじみー」「甘―い、甘―い、甘酒」 それに薬屋が「じょさいやでございっ」って薬箱の把手をガチャガチャいわせて歩いていました。
▲
文中の「銀行の野々村さん」とは、1932年(昭和7)10月以降の住所でいうと上落合1丁目472番地の野々村金五郎邸のことだ。野々村金五郎は、川崎銀行や麹町銀行、東京銀行を歴任し、この文章の当時は開発社の社長あるいは内閣統計局書記官の仕事をしていた人物だ。経歴だけ見ると、金融業界の専門家のように映るが、歴史学に興味があったらしく『拿破崙(ナポレオン)戦記』や『露国史』など、まったく畑ちがいの著作を残している。
上記の物売りの中で、「いわーしっこぃ」と「あさりー、しじみー」は、わたしの親世代の街中を流していた物売りだ。ただし、市街地の売り声は落合地域とは多少ちがっているようで、「ぃわしこ-い、わしこい」「あーさりー、しーじみー」とふれ歩いていたらしい。登場する薬屋はいまも現役で、売り声をあげて流してこそいないが、富山の薬売りの営業マンは各戸訪問でときどき救急箱のクスリを入れ替えにやってくる。
さて、上落合の早稲田通り沿いで青物屋(八百屋)Click!を開店していた、岸銀太郎という方の両親は、母方が大隈重信邸Click!で屋根職人をしていたそうで、茶室の庇や家屋の屋根を檜皮葺きにする仕事をしていた。当時(明治後期)の早稲田鶴巻町は、田圃と狭山茶の茶畑Click!が拡がるのどかな風景で、家の裏にはミョウガ畑があった。江戸東京でミョウガというと、神楽坂ミョウガの名前がすぐに浮かぶが、明治期には早稲田地域にまでミョウガ栽培が流行していたのかもしれない。
父親の代から、上落合で「八百由」という店を開業しており、野菜の仕入れは神田青果市場へ出かけたと証言しているので、息子の岸銀太郎が荷車押しを手伝ったのは1928年(昭和3)以降のエピソードだということがわかる。東京府市青果実業組合連合会による神田市場は、1928年(昭和3)も押しつまった暮れの12月にオープンしている。
▼
親父は朝は五時起きで神田市場に出かけました。大八車に「横櫃かご」を積んでいくんですが、空ではもったいないからって、近所のゴム工場から草履のゴム裏を問屋へ運ぶ仕事を請け負っていました。浅草の駒形の方までもっていくんですよ。それから市場へまわるんです。/遠い道のりですから、十五、六歳になると私も車の後押しを手伝わされたんですよ。そのころの神田市場は須田町にありました。湯島天神や昌平橋の辺りは、坂が急でたいへんでしたよ。帰りは一人で帰るんです。(中略) 時には姉も車を押していきました。姉は飯田橋から電車で帰るんですけど、雨が降ったときなんぞ着物がずぶ濡れになって、嫁入り前なのに電車の中で恥ずかしかったって話していましたね。/私は御用聞きをすませて、早稲田のグランド坂下まで迎えにいくんです。帰ってくると配達です。品物は野菜物の他に千葉産の真桑瓜とか青森のりんごとか珍しいものも仕入れました。
▲
「近所のゴム工場」とは、下落合駅のすぐ南側、上落合前田136番地に堤康次郎Click!が創業した東京護謨工場Click!のことだ。上落合から駒形の履物問屋へ納品して、そこから神田須田町の青果市場へとまわり、須田町から外濠をまわって神田川沿いに(早大のグランド坂下を経て)上落合へともどってきているから、往復25km前後の道のりになっただろう。戦前の人たちが、いかに健脚だったのかがわかるエピソードだ。
落合地域の地元市場で仕入れられる野菜(地物)は、ダイコンにナス、キュウリ、ジャガイモなど季節野菜に限られ、他の野菜は青果市場までいかないと揃わなかった。妙正寺川沿いの旧・水車小屋Click!に住み青物商の父親と、大八車Click!を押すのを手伝っていた下落合の小島善太郎Click!のエピソードとが、どこかでオーバーラップするような情景だ。
自宅は上落合にあったが、1935年(昭和10)に早稲田通りが舗装されたのをきっかけに、通り沿いの店舗に加え道路をはさんだ反対側(東中野側)にも店を開いて、商売を大きく拡張していったらしい。また、八幡通りClick!沿いの東側にあった上落合市場Click!にも出店している。これら商売のマネジメントは、すべて母親がこなしていた。
この岸邸がどこにあるかを探してみると、1938年(昭和13)作成の「火保図」に当時の月見岡八幡社Click!の南側、早稲田通りに面した2軒つづきの商店建築のすぐ裏にあたる、上落合1丁目171番地に岸邸を見つけることができる。
早稲田通りへと抜ける、八幡通りClick!のすぐ西側にあたる位置で小滝橋も近く、江戸期には上落合村の旧家だったという大きめな屋敷だ。おそらく邸敷地の南側、早稲田通りに面した位置に2軒つづきの商店建築を建てて営業していたのだろう。向かいは東中野であり、ちょうど小滝台住宅地(旧・華洲園)Click!の入り口なので、同住宅地に並ぶ大屋敷Click!を新たな顧客に取りこもうとしていたのではないだろうか。ちなみに、『落合町誌』(落合町誌刊行会/1932年)には岸竹次郎という、上落合170番地で米店「武蔵屋」を営んでいた人物が紹介されているが、おそらく岸銀次郎の親世代にあたる姻戚筋だろう。番地から見ても、青果店「八百由」の並びが米店「武蔵屋」だったのかもしれない。
休みの日には、おそらく公楽キネマClick!にも出かけただろうが、月見岡八幡社Click!の「表」Click!の祭礼では境内に芝居小屋がかかり、大勢の近隣住民が押しかけたらしい。
▼
八幡さまの表の祭りには芝居が掛かって、桟敷に上って見物しましたね。よその村からもやって来ましたが、よそ者は桟敷に入れないんですよ。柿の「禅寺丸」のなり年が表の祭りでしたから一年おきでしたね。/親父はお祭り好きで民謡をいい声でうたっていました。富士講で年に一度は富士登山をしていましたから、留守中の店番は母親や息子や若い衆でやっていました。小鳥を飼うのがはやって、下落合の小鳥屋へ鶯とか目白の餌買いにやらされましたよ。/月に一日の休みには浅草とか上野へ連れていかれて、上等のライスカレーを食べたり、向島の七福神めぐりで土手に生えていたのびるを採ってきたこともありましたねえ。母は新歌舞伎が大好きで新宿第一劇場へは、しょっちゅうでかけていました。
▲
いまだ、江戸期の上落合村以外の人間は「よそ者」として見ていた、ミクロコスモス的な眼差しが昭和10年代にも生きていたのがわかる。ちなみに、同じ落合町でも江戸期は下落合村の住民たちも、やはり「よそ者」として見られたのだろうか。
父親が富士登山をしていた富士講Click!は、月見岡八幡社の境内に移っていた落合富士Click!(大塚浅間古墳Click!)など、江戸期から周辺地域に富士信仰を広めていた大規模な月三講社Click!の集りだ。「上等のライスカレー」は、当時は新宿中村屋Click!のカリーClick!よりも高価だったと思われる、不忍池畔の上野精養軒Click!にあったメニューだろう。
証言者の岸銀太郎という方は、父親が勝手に決めた一度も会ったことがない、8歳年下の女性を妻に迎えている。気風(きっぷ)がよく、商売も上手な優しい女性だったが、戦時中の苦労がたたったのだろう、1949年(昭和24)に胃がんのため35歳の若さで死去している。GHQに出版妨害Click!をされつづけ、同年に日比谷出版社からようやく刊行された永井隆『長崎の鐘』を、死の床で読んでもらいながら涙ぐんでいたという。あとには、小学5年生を頭に3人の子どもたちが残され、「八百由」は子どもたちが受け継ぐことになる。
◆写真上:スーパーで買うよりも、新鮮な野菜が手に入る街中の青果店(八百屋)。
◆写真中上:上・中は、1928年(昭和3)12月開業の神田青果市場と内部。下は、当時は神田須田町にあった東京青果実業組合連合会の本部事務所。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる岸邸とその周辺。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」に採取された岸邸。下は、1945年(昭和20)4月2日に偵察機F13Click!が撮影した第1次山手空襲Click!直前の岸邸とその周辺。
◆写真下:上・中上は、1940年(昭和15)ごろの月見岡八幡社の例大祭に繰りだす神輿と山車の曳きまわしを描いた守谷源次郎の記憶画スケッチ。中下は、例大祭前夜に行われる宵闇を描いた守谷源次郎の記憶画スケッチ。戦後の情景で、舞踊や芝居の出し物を楽屋で準備をする舞台裏の様子。下は、1950年(昭和25)ごろの青果店(八百屋)。
タブローを描いてるヒマがない蕗谷虹児。 [気になる下落合]
かなり前になるが、下落合2丁目622番地に建っていた蕗谷虹児Click!のアトリエをご紹介したことがある。諏訪谷Click!の北側、曾宮一念アトリエClick!の2軒北西隣りであり、道の突きあたりは昭和初期に里見勝蔵Click!がアトリエClick!をかまえていた敷地で、その奥にはパリでは顔見知りだったとみられる、東京美術学校の英語と美術史の教授・森田亀之助Click!が住んでいるという位置関係だ。
同じくパリでいっしょだった清水多嘉示Click!は、蕗谷虹児アトリエから40mほど南へ下がった地点にイーゼルをすえ、曾宮一念アトリエClick!のある東を向いてタブローの2作品を残している。『風景(仮)』(OP284/285)Click!だ。大正期から師事していた、下落合464番地の中村彝アトリエClick!をはじめ、画集の出版元である下落合1443番地の木星社Click!など、なにかと下落合を訪ねる機会の多かった清水多嘉示Click!は、おそらく蕗谷アトリエを訪ねた機会に付近を写生したものだろう。
蕗谷虹児の周囲には、青年時代から洋画・日本画を問わず、たくさんの画家たちがいた。もちろん、彼もまた画家をめざすのだが、そのつど周囲の厳しい環境に邪魔され、すぐカネになる図案(グラフィックデザイン)や挿画の仕事をせっせとこなしては、肉親の借金返済に追われなければならなかった。だが、“あと出しジャンケン”Click!の結果論的にいえば、画家などにならずイラストレーターあるいはグラフィックデザイナーでいたからこそ、現代まで根強い人気を保ちつづけているゆえんだろう。
蕗谷一男(虹児)は、1898年(明治31)に新潟県新発田町で生まれている。子どものころから絵が好きで、ヒマさえあれば描いていたらしいが、高等小学校を卒業すると株式仲買店、洋服店、印刷屋などへ丁稚奉公に出されている。新聞記者だった父親が、給料のほとんどを酒代にしてしまうため、母親や弟たちの生活費をかせぐための奉公だった。だが、どうしても画家になりたい彼は、勤めていた印刷屋の社長で、のち新潟市長になった人物の推薦により、日本画家・尾竹竹坡の弟子となって、1912年(大正元)に15歳で東京へやってきた。なお、母親は前年に29歳の若さで早逝している。
竹坡の弟子時代は3年ほどつづくが、酒飲みの父親が仕事をしくじり失業したため、やむなく帰郷している。そこで、彼は親や弟たちの生活費を稼ぐために、大量の売り絵(軸画)描きや看板描きをしなければならなかった。父親が樺太の新聞社へ就職するのを機に、1915年(大正4)に再び東京へもどり尾竹竹坡画塾での学びを再開するが、ほどなく「すこぶる難渋している」という父親の手紙をもらう。再度、竹坡の画塾を去って樺太に向かうと、父親はアルコール中毒で仕事も放擲し、弟たちとともに荒んだ生活をしていた。そこでも、借金の返済や生活費のために売り絵を大量に描いては販売している。
1919年(大正8)に樺太から東京へともどると、先輩だった画家で彫刻家の戸田海笛のもとへしばらく寄宿していた。そこでは、弟子のひとりだった岡本唐貴Click!と知りあっている。やがて、彼は日米図案社に就職すると、当時の日本では最先端だったエアブラシで表現するアートやイラストなど、広告デザインを本格的に学んでいる。仕事仲間には、拙ブログではおなじみの武井武雄Click!もいた。
だが、どうしても画家への道をあきらめきれない彼は、日米図案社の社長から洋画家ではなく挿画家になるよう奨められ、1919年(大正8)に当時は本郷菊坂Click!の丘上に建つ菊富士ホテルClick!で療養していた竹久夢二Click!を紹介してくれた。彼のスケッチブックを観た夢二は、その場で「少女画報」の編集部に紹介状を書いてくれたという。こうして、日本画の素養に最新のグラフィックデザインの技法、そしてイラストや挿画もこなす特異なアーティストの蕗谷虹児が誕生している。時代は大正の半ばであり、日本でも新しいデザインやよりモダンな表現が求められている状況だった。
それでも、彼はタブロー画家への夢をあきらめなかった。画業をはじめると、なんらかの邪魔や障害が入り中断させられ、再び画家をめざすと肉親が問題を起こして目的をとげられない、その繰り返しだった。夢二に会った同年、彼は『漂浪の記』の中で次のように書いている。1985年(昭和60)に出版された、「別冊太陽・蕗谷虹児」から引用してみよう。
▼
俺は自分の一生の運命の糸を、余りに早くたぐり過ぎはしなかったか。画家になりたい、いや、是非なるんだと、云いながら、株式仲買店の小僧になったり、洋服店のデッチになってしもうたり、又印刷屋の小僧になった。/その間は、ほんとに短かったが人の半生分も苦労したような気がする。竹坡師について上京してすぐ、苦学をやりはじめる。それから今までの俺、わずか五年の間だが、幾多の運命の場面は目まぐるしいほど変転しつつあった。/小林須成氏の食客時代、伝川大我氏の食客時代、自炊時代、活動の看板画家時代、山岸の食客時代、恋愛生活、失恋、また自炊、戸田氏の食客、下宿生活、また戸田氏の食客、漂浪生活、ああ、なんたる数奇の運命の所有者ぞ。しかもその場面がすべて、悲劇で、また俺はいつもその悲劇の主人公であらねばならなかった。(大正八年六月四日)
▲
ところが、そう記した同年に、画家をめざす蕗谷虹児にはチャンスがめぐってきた。「少女画報」(東京社)に毎号連載中だった短編小説の、挿画を担当する仕事だった。『花物語』Click!と題されたそれを書いていたのは、彼より2歳年長だった同郷の吉屋信子Click!という駆けだしの新進作家だった。彼は、吉屋信子の挿画に没頭することになる。
また、以降の吉屋作品(『地の果てまで』『海の極みまで』など)の挿画は、人気の高い彼が担当することになり、タブローを描くどころではないほど多忙になった。彼の名前は挿画家、あるいは風俗画家(イラストレーター)として広く知られるようになり、再び洋画家をめざす本来の夢から大きくズレはじめていた。1922年(大正11)には、彼の作品をメインに掲載する「令女界」(宝文館)が創刊され、仕事はますます多忙をきわめていった。この時期、描き慣れないモチーフである現代の少女を観察するため、女学校の校門に立ちながら少女たちの姿や動作を細かく観察したり、女学生のあとを尾行して変質者とまちがえられるなど、新時代の少女像の創作にはかなり苦労を重ねたらしい。
このころ、収入も増えて生活が安定したため、樺太にいた弟たちや酒飲みの父親を東京に呼びよせていっしょに暮らすようになった。父親は間もなく死んだが、このころから川崎りんと同棲生活をはじめ、関東大震災Click!の年に息子が生まれている。ようやく、洋画の勉強をしはじめる余裕も生まれ、彼はりん夫人とともにパリへ留学する準備を進めている。主婦之友社と東京朝日新聞社から画料の前借りをし、留守宅を弟たちと女弟子にまかせて1925年(大正14)9月に、神戸港から箱根丸で渡仏している。
パリのリヨン駅に着くと、彼を出迎えたのは旧知の彫刻家・戸田海笛と画家の東郷青児Click!だった。ようやくタブロー制作に毎日没頭できるようになった彼は、パリで開催されていたサロン・ナショナルやサロン・ドートンヌへ作品が次々と入選するようになる。また、パリの週刊誌や児童雑誌からも注文が連続して舞いこんだ。この間、パリにあった国際連盟Click!支部の会議室の壁画制作も手がけている。フランスでも人気が高まり、シャンゼリゼ通りの画廊「ジヴィ」で個展が開かれているころ、東京の留守宅にいる弟たちから経済的に破綻したとの知らせが入り、りん夫人を残したまま1929年(昭和4)に大急ぎで帰国している。画家としてパリで成功しはじめた時期、いま帰国するのは絶対にダメだと、彼をパリに強く引きとめたのは詩人で歌人でもあった堀口大学Click!と東郷青児だった。
東京にもどった彼は、金策に走りまわりながら、弟たちや出版社への借金返済のため再び挿画を描きつづけ、パリから帰国したりん夫人は「愛人ができましたから」と、息子を残したまま彼の前から姿を消した。数年間にわたり、挿画や風俗画を描きつづけて借金を返済し、1933年(昭和8)には青山女学院を出たばかりの18歳も年下だった松本龍子(当時18歳)と再婚している。上野東黒門町に新居兼アトリエをかまえたが、龍子夫人が妊娠すると、より広い下落合2丁目622番地のアトリエへと転居してくる。
蕗谷虹児の下落合時代は、出版社や雑誌社から大量に舞いこむ挿画やイラストの仕事に追われる日々だったろうが、どうやらこのころから洋画家ではなく図案家(今日のイラストやグラフィックデザインをこなすアーティスト)に徹しようと、彼自身でも心に決めていたようだ。フランスから帰国した東郷青児は、盛んに二科展への出品を奨めたが、もはや彼は挿画や絵本、風俗画の仕事から離れることはなかった。
戦時中の蕗谷虹児は、明らかに創作意欲を喪失していた。モンペ姿の少女など、死んでも描きたくはなかったにちがいない。同書の、花村奨『抒情の旅人』から引用しよう。
▼
昭和一〇年に、詩画集『花嫁人形』(宝文館)を出し、「婦女界」に『闘雪紅』(昭和一三年)を連載するなど、衰えぬ人気を持っていた虹児にも、そして虹児を中心に、加藤まさを、須藤しげる等、抒情画家の根拠地視されていた「令女界」にも、情報局の締めつけが強くなってきた。/「この産めよ殖やせよの時代に、子どもも産めそうにない虹児の柳腰の女の絵はよろしくない。もっと尻の大きい丈夫そうな女を描かせろ」/「いまどき、スカートで歩いている女などいないぞ。モンペをはいた女を描かせろ」/わざわざ編集長を呼びつけて、そんな命令を出すようになった。
▲
そんな状況が嫌になった彼は、1944年(昭和19)になると神奈川県の山北町へ疎開している。下落合のアトリエは、1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲で、目白通り沿いからの延焼により焼失した。下落合では10年ほど仕事をしたことになる。
戦後は、山北町の教育委員に推され地元高校の校歌や校章をつくっていたが、出版社が彼を放っておくはずもなく、再び東京へともどって仕事を再開している。多忙の中、1954年(昭和29)には東宝動画スタジオの設立に参画し、日本初のカラーアニメーション試作品『夢見童子』の制作を担当している。タブローをなかなか描けず、挿画やイラストばかりを描きつづけた蕗谷虹児は、57歳になってから新しい表現法であるアニメに着目していた。
中国にも、蕗谷虹児の熱烈なファンがいた。彼の画集や本などを上海の内山書店に通っては買い集め、置いていない画集はわざわざ日本へ発注している。中国の民主革命期に活躍した、文学者で思想家の魯迅Click!だ。彼は、蕗谷虹児の画集から気に入った作品を選び、詩を中国語に翻訳しては芸術教育の教本として刊行しているが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:結婚する直前に撮影された、1933年ごろの蕗谷虹児(左)と松本龍子(右)。ふたりはこのあと結婚して、下落合のアトリエに住むことになる。
◆写真中上:上左は、1934年(昭和9)出版の吉屋信子『花物語・釣鐘草』(講談社)。上右は、『花物語』の蕗谷虹児『デンドロビューム』絵はがき。中は、吉屋信子『花物語・鈴蘭』の虹児挿画。下は、「少女の友」向けに描かれた虹児『葡萄』。
◆写真中下:上左は、フランスに向かうパスポートに貼られた蕗谷虹児のポートレート。上右は、1926年(大正15)のサロン・ドートンヌ入選作の蕗谷虹児『混血児とその父母』。中上は、1927年(昭和2)ごろのサロン・ドートンヌ入選作で蕗谷虹児『ポン・ヌフ』(部分)。中下は、1926年(大正15)ごろに制作された蕗谷虹児『(タイトル不明)』(部分)。下は、同時期のサロン・ドートンヌ入選作で蕗谷虹児『裏通り』(部分)。
◆写真下:上・中は、パリから「令女界」の編集部あてにとどいた蕗谷虹児の「パリの女性」シリーズ。下は、下落合1丁目622番地にあった蕗谷虹児アトリエ跡の現状。
★おまけ
下落合(4丁目)2111番地に住んだ林唯一も、1934年(昭和9)に吉屋信子『花物語』の挿画を描いている。吉屋信子邸Click!から林唯一アトリエClick!までは、南西へ50mほどしか離れていない。下は、林唯一による『スヰトピー』の挿画と、五ノ坂に面した林唯一アトリエ。
伊勢丹デパートガールの第1期生の証言。 [気になるエトセトラ]
かなり以前に、大手呉服店がデパート(百貨店)化Click!するに当たり、モデル事務所Click!からデパートガールやエレベーターガールなどを派遣してもらっていた事例をご紹介している。おそらく、マネキンガールClick!(いわゆるファッションモデル)の派遣をきっかけに、大正末から昭和初期にかけ各売り場やエレベーターなど、顧客と直接接触する業務へ“モデル並み”の女性を派遣していたものだろう。昭和期に入ると、さすがに各デパートとも積極的に女子社員を雇用しはじめている。
昭和初期に賑わいを見せはじめていた、新宿へ進出した日本橋の三越Click!を横目で見ながら、神田の伊勢丹も新宿への店舗進出を計画している。しかも、三越とは異なり新宿支店の開設ではなく、大きなビルディングを建てて本社機能も移転しようと考えていた。そのために、1933年(昭和8)の早い時期から新規採用の売り子=デパートガールを募集している。新宿の店舗は建築中であり、入社試験や面接は従来の神田本店で行われた。
もともと新潟出身の丸山智與子という方は、故郷の女学校を卒業すると東京にいた叔父の家に遊びにきていたが、周囲の女性たちはみな職業をもち働いていたので、20歳になったのを契機に自分もなにか仕事をしてみたいと考えるようになった。そこで、ちょうど店員を募集中の伊勢丹で働こうと、入社試験を神田本店へ受けにいった。人事課を訪ねると、試験会場は「真直ぐに行って突き当たったら左に曲がる」と教えられ、そのとおりに歩いていったら道路にでてしまった。昭和初期の神田伊勢丹本店は、新宿伊勢丹とは比較にならないほど売り場のフロアも狭いコンパクトなビルだった。
女子の入社希望者は、東京の(城)下町Click!でも定評のある百貨店であり、同店では初めての女子社員の大量募集だったせいもあって、800人ほどが殺到したようだ。入社試験はきびしく、つごう7~8次試験まであった。受験するうえでの基本的な条件は、両親が健在で身体健康、高等女学校以上の学歴のある女子ということだった。
彼女はそれに第1期生として合格したが、すぐに社員になれるわけではなく最初は「雇員」という身分の試用期間で給料は24円だった。今日の貨幣価値に換算すると約6万円強と低いが、3ヶ月後「準社員」になると昇給する仕組みになっていた。ただし、全員が3ヶ月で準社員になれるわけではなく、勤務成績に加え顧客への態度や接し方、言葉づかいや発音など、その仕事ぶりから雇員のまま抜けられない女子もいたらしい。
彼女は最初に、金銭の出納をするレジ係を担当している。レジを打つ場所は日々変わり、各階の売り場を循環するようなローテーションが組まれていた。これは不正防止と同時に、同じ売り場の男子社員と親密になるのを防ぐ目的があったのかもしれない。出社すると、まずロッカー室で制服に着替え、開店30分前にはその日の担当売り場へ入り、ショウケースのガラスをアルコールを薄めた水できれいに磨くのが義務づけられていた。
勤務の様子を、1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された『新宿に生きた女性たちⅣ』収録の、丸山智與子『新宿伊勢丹の一期生』から引用しよう。
▼
『じょてんかん(女店監)さん』と呼ばれる女の人が各階に一人ずついました。女店員の指導監督をする役目の方で神田店から来られました。私たちより五、六歳年長で「女だって男の方に負けちゃあいけない」とよく言われました。しっかりしてらして男の方だって怖がっていましたからね。/服装は着物の上にブルース(上っ張り)。着物は自前です。夏は水色のポプリン。冬は紺地に赤のストライプが入った純毛でした。開店のころ売出し期間中は月二回しかお休みがなくてそれも交代でした、土、日は九時半まで仕事です。一二月は売出しなみでした。勿論早番と遅番はありましたけど。
▲
「事故」があると、なかなか帰宅できなかった。銀行と同じで、勘定が1銭や2銭不足しても勘定が合うまで最初から計算のやり直しとなった。どこかでレジを打ちまちがえたか、顧客へわたす釣銭のまちがいがなかったかどうか、勘定が合わない売り場の社員は、全員が残り面倒な細かい確認作業しなければならなかった。今日のクラウドPOSのように、一瞬で錯誤がある箇所を洗いだすトレーサビリティなど存在しない、すべてがアナログの時代なのでとんでもない手間と時間がかかっただろう。どうしても勘定が合わなければ、上長の「事故簿」に記録され勤務評定へと直結した。
社員食堂は地下2階にあり、残業のときは会社側が14銭の食券を配布して無料にしてくれたようだ。今日の貨幣価値に換算すると、この食券は喫茶店でおやつとお茶が飲めるぐらいだが、社の食堂には社員割引があったと思われるので、もう少しちゃんとした食事ができたのだろう。食堂といっても、男女が並んで食べるということはなく、女子のテーブルと男子のテーブルの境界線が、暗黙のうちに決められていたらしい。
社内結婚は、いっさい禁止されていた。また、伊勢丹のデパートガールなら身元が確実なので、新宿界隈では「嫁さがしは伊勢丹」などといわれた。同資料から引用してみよう。
▼
若い娘さんがいましたので結婚する人も多かったですよ。嫁さがしは伊勢丹といったくらいですから。身元がしっかりしていますし躾もきちんとしていますしね。でも今と違って社内結婚は御法度でしたから結婚するとどなたも退職します。一階のワイシャツ売場のレジに座るでしょ。そうすると同じお客さんが行ったり来たりしてあの方は誰かを探しにいらっしゃったんだなとわかります。あの時分は柱の四方に鏡がついていましたから店内の様子が座っていてもよくわかるんですよ。悪いことをした人もわかりましたね。
▲
社内では、男女社員の交流にはネガティブだったが、社外のレクリエーションはまったく別だった。遠足は山登りが多かったらしく、富士山や榛名山、高取山、高尾山などに男女そろって出かけている。業務をすべて終えた午後11時ごろ、新宿駅から夜行に乗って翌日の夜までには新宿へもどるという、夜行日帰りの強行軍だった。
また、運動会は豊島園Click!で開かれ、事務方と売り場、フロアごとに分かれての対抗戦が多かったらしい。試合に不参加の社員も、必ず応援しなければならなかった。でも、社内では交流できない男女社員には楽しみな行事だったようだ。
伊勢丹の中には美容室もあり、六本木から出勤してくる「千葉先生」(千葉益子だろうか?)という美容師が担当していた。この美容師は、華族や皇族の家庭にも出張しており、得意先には津軽家Click!も含まれているので、おそらく下落合3丁目1755番地の津軽義孝邸Click!へも出張していただろう。大晦日に閉店しすべての勘定計算を終えると、女子社員たちはこの美容室で髪を結ってもらい、初詣でへと出かけていた。
戦時中、伊勢丹は幸運にも焼けずにそのまま残った。戦争が激しくなると、売り場がどんどん寂しくなっていったようだ。それは物資不足で売る商品自体が減っていったこともあるが、職場の男子社員が次々に召集されて消えたことだ。勘定・出納部門は男子社員がひとりだけで、あとはすべて女子社員だけになった。レジ係も20人ほどいたが、すべて女子社員だけになってしまった。
伊勢丹の職場環境は、「女店監」に象徴されるように、仕事ができれば女性でも幹部社員にとりたてられたようだ。証言をしている丸山智與子という方も、金庫のカギを預かる今日でいえば経理部長のようなポストに就いている。女性でも「能力で上っていきましたから、やり甲斐がありましたね」と、彼女も述懐している。
戦時中の伊勢丹売り場の様子を、同資料よりつづけて引用してみよう。
▼
まだそんなに空襲が激しくならないころ、伊勢丹の裏にあった松平写真館に爆弾が落ちてその震動が凄かった。地下二階にしゃがんでいた人はその衝撃で横に倒れてしまい、電話室の人はレシーバーをかけていたので器械と一緒に上まで飛び上がったそうです。私は出納の鍵だけ持って四階の秘書課の狭い部屋で机の下に滑りこんだの。朝あったビルが帰りはなくなっていて悲しかったですね。/伊勢丹は焼けなかったですが、五月ごろになるとあたり一面焼け野原になって私の住んでいた世田谷の羽根木から伊勢丹が見えましたよ。交通機関も破壊されて動かないのでトラックに乗せて貰って出勤したこともあります。(中略) 売場でもだんだん売る物がなくなって、紙で作ったカラー(衿)とか紙のベルト、魚皮で作った靴やベルトなども売りました。戦争中は誰も使いませんし口紅なんか付けていたら大変で、それこそ国賊なんてすぐ言われますから。国債や慰問袋コーナーもありましたね。
▲
このとき、松平写真館(経営・松平三郎)に落ちたのは250キロ爆弾だろう。松平写真館は、東京市内でもかなり名の知られた店だった。空襲前の、1944年(昭和19)に撮影された空中写真を見ると、松平写真館は3階建てほどの細長いビルだった様子がうかがえる。それが倒壊するということは、鉄筋コンクリート仕様ではなく木造モルタル建築のビルだったのかもしれない。1945年(昭和20)に入ると、東京の各地で少数機のB29による散発的な空襲Click!が行われるようになっていた。
伊勢丹は頑丈なコンクリート建築だったため、社員たちは空襲警報が出ても防空壕Click!などへ退避しなかった様子がわかる。手すきの社員は、地下2階へ避難したかもしれないが、重要な役職の社員は持ち場を離れていないのが証言からうかがえる。二度の山手空襲Click!を耐えた伊勢丹は、戦争末期になると陸軍に接収され、敗戦後は米軍に接収されている。米軍は1948年(昭和23)まで、伊勢丹ビルの3階から屋上にかけ、日本全土にわたる爆撃効果測定用の空中写真(ここでもよく引用している)を撮影する偵察部隊Click!の本部にしている。
◆写真上:戦災でも焼けなかったため、1926年(大正15)に竣工したほてい屋百貨店の建物を流用しリニューアルして営業している伊勢丹新宿本店。
◆写真中上:上は、昭和初期に撮影された伊勢丹神田本店。中上は、1930年(昭和5)ごろに撮影された伊勢丹進出前のほてい屋百貨店で、新宿通りの左手(南側)には建設中の新宿三越が見えている。中下は、1932年(昭和7)ごろに撮影されたほてい屋の西隣りに建設中の伊勢丹で、1935年(昭和10)に伊勢丹は隣接するほてい屋を買収している。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみるほてい屋買収直後の伊勢丹本店。
◆写真中下:上は、1935年(昭和10)ごろの伊勢丹界隈。(新宿歴史博物館「新宿盛り場地図」より) 中上は、1944年(昭和19)に撮影された伊勢丹界隈。中下は、1945年(昭和20)1月6日に撮影された伊勢丹とその周辺。下は、1945年(昭和20)5月25日夜半に撮影された空中写真で、大量の焼夷弾が新宿駅を中心に投下されている。
◆写真下:上は、昭和初期に撮影されたとみられる木造の松平写真館で、いまだビル状に改築されていない。中上は、1933年(昭和8)ごろにほてい屋百貨店の屋上から松平写真館の方角を向いて撮影された写真。同写真館は、いまだビルに建て替えられていないとみられる。中下は、現在の伊勢丹の屋上庭園から新宿駅南口方面を向いた撮影で、見えているビルはルミネ新宿(右)とドコモタワー(左)。下は、いまも昭和初期の面影が残る伊勢丹新宿本店。
★おまけ1
1933年(昭和8)の伊勢丹オープン時には、開店を待つ客の長い行列ができた。中の2葉は、いまでも伊勢丹のショーウィンドウはかなり凝っているが、開店当初からディスプレイには力を入れていたらしい。下の2葉は、オープン時に撮影されたとみられる店内の化粧品売り場の記念写真。いずれも新宿歴史博物館『新宿風景』(2009年)より。
★おまけ2
1935年(昭和10)に買収されるまで、伊勢丹の隣りで営業していたほてい屋百貨店の歳末売出しチラシ。伊勢丹に対抗するためだろうか、年末は夜間営業までしていたようだ。
念仏講のお祈り先はご先祖様と太陽神。 [気になる下落合]
戦前、葛ヶ谷(現・西落合)で毎月行われていた念仏講の様子が興味深い。付近の住民が集まって念仏を唱える習慣だが、つまるところ地域のコミュニティ集会のようなもので、みんなで食事をしながら情報交換をする社交場のような趣きだった。
1931年(昭和6)に恋愛のすえ、落合町葛ヶ谷に嫁いできた貫井冨美子Click!という方の証言には、毎月16日になると各家庭の持ちまわりで念仏講が開かれていた様子が語られている。葛ヶ谷地域の念仏講は、エリアによって「東組」「中組」「西組」と3つに分かれており、彼女の家は「中組」に所属していた。念仏講というと、そのままの解釈では仏教信仰のように感じるが、祈願していた対象は先祖霊であり太陽神だったので、江戸期における神仏習合の習慣がそのまま根づきつづいていたのだろう。
ここで祈られていた太陽神が、大地に恵みをもたらし江戸期には先祖霊とも習合していた田神Click!的な存在なのか、明治以降にことさら賞揚されるようになった伊勢のアマテラスなのかはハッキリしないが、「南無阿弥陀佛」と数珠を連ねて祈るその先にいたのは、農業をつかさどるアニミズム的な概念としての原初的な太陽神だったようにも感じる。そして、豊穣を約束する太陽神に重ねて、農業の神である田神(的なもの)が意識され、それと強く結びついていた先祖霊への崇敬ではなかったろうか。
これらの風習を、まったく知らなかった麹町三番町の出身で乃手Click!育ちの貫井冨美子という方は、神田っ子のばあやに「村の風習」をいろいろ教えられて、少しずつ葛ヶ谷の生活に慣れていったのだろう。もっとも、神田今川橋で薬屋の内儀だったばあや自身も、新聞広告に応募して葛ヶ谷の旧家へ働きにきた当座は、さまざまな「村の風習」に面食らっていたにちがいない。息子も大きくなり、夫と死に別れたばあやは、まだ若かったので働き口を探したのだろう。「五〇か六〇位のきれいな人で、着物をたくさん持っていました」というから、かなり裕福な暮らしをしていたらしい。頻繁に芝居を観に出かけるのは、神田時代からの習慣だったのだろう。
葛ヶ谷地域では、毎月16日の夕方になると、大きな平べったい鉦(かね・しょう)が隣り近所に鳴り響き、今月はどこの家で念仏講が開かれるのかを知らせたらしい。この鉦は、月ごとに変わる念仏講の当番の家にまわってきた。その念仏講の様子を、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された『新宿に生きた女性たちⅢ』収録の、貫井冨美子「西落合・葛ヶ谷村界わいの暮らし」から引用してみよう。
▼
お念佛講っていうのは、ただご先祖様を拝んでたんです。特別に信仰っていうのはなくて、ご先祖様、お日様ですわね。みんなで大きな数珠をまわしながら、南無阿弥陀佛からいろいろのお経をあげてたんですの。/お念佛を唱えてからその後に、何か作ったご馳走をゆっくりと食べて、そこで世間話をするっていうのが皆さんの楽しみだったですね。「今日は何のご馳走が出てくるかな」っていう男の人もいましたよ。大概はお煮ものみたいな、がんもどきみたいなものでしたね。御飯は食べないで来なすったでしょうね、後で食べるから。会費なんかはございません、みんな回り持ちですからね。主人も会社から早く帰ってきて出ていました。それがここの社交だったんですの。大事なおつきあいですのよ。そのお念佛講も戦争が始まる前には終わっちゃいました。
▲
食事については、「お煮ものみたいな、がんもどきみたいなもの」以外にどのようなメニューがあったのか、興味があるのでもう少し聞きたかった。葛ヶ谷地域の正月雑煮Click!については、男がつくることも含めて以前に書いているけれど、魚屋の棒手振(ぼてふり)がまわってきたというから、集まりには魚料理なども出たのではないか。
葛ヶ谷では念仏講だけでなく、正月の1月13日になると葛ヶ谷御霊社Click!で御備射Click!が開かれ、また同社の祭りも毎年秋には開催されていた。また、秋祭りが終ったあとは、有志が集まり新井薬師への参詣も行われていたらしい。これらの情景は、昭和に入ってからのハイカラな西洋館や大きな和洋折衷館の建ち並んでいた、西落合のイメージが形成されているわたしには、古い時代の西落合(葛ヶ谷)を記録しためずらしい証言の数々だ。
貫井家の近所には、さまざまな店舗が並んでいたようだ。彼女へのインタビュー時の住所が、西落合3丁目となっているので、これらの店は目白通り沿いあるいは葛ヶ谷街道(現・新青梅街道)沿いに開店していたものだろう。小学4年生になる、夫の亡くなった姉の息子におこづかいをあげると、近くの米屋のお婆さんがやっていた通称“米イッチャン”という駄菓子屋から、ばあやといっしょに2銭の水飴を買って帰ったらしい。
この葛ヶ谷にあった米屋や、先の記事に登場ししている椎名町の交番並びにあった魚屋「ひのや」も、1925年(大正14)に作成された「下落合及長崎一部案内図」Click!(通称「出前地図」)の西部版Click!にも、また1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」または「長崎町西部事情明細図」にも掲載されておらず発見できない。もちろん、“米イッチャン”の駄菓子屋の所在も不明だ。
貫井家は、もともとは古くからつづく大きな茅葺き屋根の屋敷だったらしいが、大正初期に火事で焼けてしまい、その後は当時の一般的な日本家屋に建てなおしていたようだ。耕地整理前だったせいか、いまだガスは引けておらず炊事や風呂は薪炭でまかなっていた。また、水道については特に触れていないが、目の前に野方配水塔Click!があることから彼女が結婚した当時から、すでに荒玉水道が引けていたのだろう。家内には広い板の間が残っていたというが、彼女は茶畑から収穫したお茶の葉を、加工か製造をする際の作業部屋ではないかと想像している。
自動車の仕事をする多忙な彼女の夫が、1936年(昭和11)に米国へ技術研究のために出張したあと、改めて自宅を近代的な住宅に建て直している。今度は畳の日本間を全廃し、すべてテーブルとイスの洋風生活をするようになった。夫は早大理工科を出ているので、おそらく自動車の設計業務にたずさわっていたのではないかと思われるが、武蔵野鉄道Click!の東長崎駅Click!のすぐ北側、葛ヶ谷の近くにあった長崎町3922番地のダット自動車製造Click!の工場にでも勤務していたのかもしれない。
やがて、貫井家には子どもたちが生まれるのだが、つづけて同書より引用してみよう。
▼
私たちが結婚いたしましたときに椎名町にあった“桃太郎産婆”っていう方が「お産のときには自分を使ってください」って主人に頼んだそうですけど「お産は大事だから」って主人も申しまして、七人の子どもみんな慶応病院でいたしました。検診に行くときは目白まで人力車で、お産のときは円タクで前もって入院してました。二〇日くらい入ってたかしら。安産でお乳もよく出ましたの。私が病気だったときも慶応病院だったんですけど、先生が「あなたはもうすっかりいいから、結婚すればもっと丈夫になる」っておっしゃいました。本当にその通りでしたね。この辺りは空気もよかったんでしょうしね。
▲
これまで何度か記事に書いてきたが、ここでいう「椎名町」Click!とは武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の椎名町駅Click!のことではなく、江戸期の清戸道Click!(練馬街道とも:現・目白通り)をはさんで長崎村と下落合村の双方に形成された、明治以降はにぎやかな商店街を中心とする街道筋の街並みClick!のことだ。
文中の「桃太郎産婆」も、目白通り沿いかそれに近い位置で開業していた産婆なのだろうが、先の「出前地図」や「事業明細図」には多数の産婆宅が採取されており、どれが「桃太郎」なのかわからない。1930年(昭和5)現在、長崎町には51名の産婆(同年の『長崎町政概要』Click!より)がいたというから、その特定は困難だ。また、西落合に近い下落合側の街並みにも、拡大する住宅街に比例して産婆(助産婦)業Click!は多く開業している。
昭和10年代でさえ、西落合から目白駅までは俥(じんりき)で出かけたというのがめずらしい記録だ。もっとも、目白駅には戦後まで俥屋の島さんClick!がいたけれど、それは駅に着いた客を乗せて走る、あくまでも駅を基点にした近隣交通であって、西落合のような住宅街から俥が通うのはまれな事例だったろう。当時の西落合には住民の便宜を考えて、いまだ明治期あたりからの俥屋が残っていたか、あるいは貫井家で契約していた専属の俥屋でもあったものだろうか。
さて、この貫井邸の位置だが、彼女が貫井家に嫁いで7年目、1938年(昭和13)に作成された「火保図」では、西落合1丁目132番地(現・西落合3丁目)に貫井邸が採取されている。ちょうど“妙見山”Click!の南斜面に位置し葛ヶ谷街道も近い、陽当たりのいい広い敷地をもった住宅だ。夫が米国から帰ったあとの時代なので、おそらく大正初期のだだっ広くて古くなった屋敷を解体して、建てなおしたばかりの新邸だろう。
戦時中は、葛ヶ谷御霊社境内に集まっては千人針をこしらえたというが、防空演習では貫井家の物置にハシゴを架けて水をかけたらしい。その物置とは、「火保図」に採取された貫井邸の南西に見えている、葛ヶ谷街道(現・新青梅街道)に面したやや小さめな建物だろうか。担架に乗せて運ばれる病人の役には、「裏の天理教のおばあちゃん」がなったということなので、貫井邸の北側にあった小林家のことなのかもしれない。
◆写真上:戦災をまぬがれた、西落合(旧・葛ヶ谷)に建つ昭和初期の大きな和館。以下のモノクロ写真は、新潟の念仏講写真1点を除き2003年(平成15)にコミュニティ「おちあいあれこれ」が編纂した『おちあいよろず写真館』より。
◆写真中上:上は、1984年(昭和59)に新潟市で撮影された念仏講。中は、昭和初期に撮影された葛ヶ谷御霊社の祭礼。葛ヶ谷街道(現・新青梅街道)をゆく同社の神輿がとらえられている。下は、葛ヶ谷御霊社境内で撮影された祭礼の記念写真。
◆写真中下:上は、同社祭礼における神輿連の記念写真。中は、「葛ヶ谷ばやし」を継承した葛ヶ谷睦会記念写真(戦前)。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる貫井邸。斜面擁壁の南側一帯が、葛ヶ谷の旧家だった貫井家の敷地と思われる。
◆写真下:上は、“妙見山”の山頂から南の貫井家方面を眺める。中は、昭和初期に築かれたとみられる大規模な大谷石の擁壁。下は、右手の擁壁下の一帯が貫井邸跡。
大泉黒石『預言』に展開する目白風景。 [気になる神田川]
これまでエッセイ類はともかく、小説に描かれた落合地域やその周辺の風景をなぞるような記事は、ほとんど書いてはこなかった。基本的に小説(フィクション)に描かれたものは、大なり小なり粉飾されている可能性が高いので、実際の風景との混同を避けるために取りあげていない。例外的にご紹介したのは、上落合850番地→842番地Click!に住んでいた尾崎翠Click!が散歩をしていたらしい道筋の風景を描いたとみられる、1931年(昭和6)に婦人誌「家庭」に発表された『歩行』Click!のコースと、「はははは、明智君」Click!の江戸川乱歩Click!が舞台に選んだ、山手線の東西にまたがる戸山ヶ原の風景だ。
今回、めずらしく取りあげるのは、1923年(大正12)前後にかけて執筆されている、大泉黒石Click!の小説『預言』だ。もちろん内容にも触れるので、これから『預言』を読もうと思っている方は、一部ネタバレになるのでぜひページ移動していただきたい。まるで、日本にドストエフスキーが出現したら、こんな作品を書いただろうと思わせる、当時の文壇=「私小説」家の群れとはまったく無縁な物語となっている。
小説の主人公は、音楽学校のヴァイオリン科に通う「麟太郎」という青年だが、彼が天文学者の父親といっしょに住んでいるのが目白台の邸宅であり、その目白崖線のバッケ(崖地)Click!下を流れる旧・神田上水を、「俤橋」(面影橋Click!:黒石は同橋の史的な地元の記録を踏まえたうえで「俤橋」Click!と書いている可能性が高い)から、下落合寄りの上流へとたどった先にあるのが、恋人「千代子」の石門のある大きな屋敷という設定になっている。つまり、わたしもときどき散歩をする、下落合の東側に隣接した神田川沿いの高田地域や目白台(目白山Click!)地域一帯が、『預言』の舞台となっているのだ。
『預言』は、先にドストエフスキーばりの作品と書いたが、もうひとつのテーマとして、大正中期の時点では最先端だった天文学の学術的な成果が積極的に紹介されている、「天文小説」とでも表現できる内容となっている。これは、明治末(1910年)にハレー彗星が地球へ大接近したせいで、さまざまな予測や流言飛語が世界規模で拡がり、天文学に関する興味が一気に高まったという世相もあるのだろう。
『預言』には、当時の天文学界では大きな話題を呼んでいたラプラスやシャプレー、チェンバレン、ゼリガーなどの学説、あるいは数学者のポアンカレ、来日して間もないアインシュタインや、フランスで流行していた哲学者・ベルクソンまでが登場している。その絶望的な予測、いわば「大宇宙の黙示」(本文中)から人間はなにをしても、あとは宇宙の塵芥となる運命にあるので無意味だという、ひどく虚無的でペシミスティックかつアナキズム的な思想の経糸が、音楽的にいえばコントラバスの通奏低音のように、天文学者の口を通じて語られつづけることになる。
ちなみに、その当時は「暗星」と名づけられていた宇宙の現象が、突然に観測圏外から出現して地球に衝突する危惧のある暗黒星なのか、アインシュタインの一般相対性理論から想定された「シュヴァルツシルト解」にみる今日的なブラックホールなのか、または太陽観測で漸次拡大して地球に近づいているように見える黒点の観誤りであるのかは定かでないが、おそらく衝突すると地球は塵芥になって宇宙空間に飛び散るので、人類はたちどころに滅びると書かれていることから、「暗星」=暗黒星ないしは突然現れる観測困難な大型彗星のことではないだろうか。『預言』は多彩な学術領域をまたいだ、大泉黒石Click!の視野の広さを知ることができる作品でもある。
さて、主人公の音楽学校に通う麟太郎が、天文学者の父親と住む屋敷は目白台のどのあたりだろうか? 物語は、大正初期から関東大震災Click!が起きた翌年の、いまだ余震がつづく1924年(大正13)早々の大雪が降る時候までが描かれている。麟太郎が小学生のとき、雑司ヶ谷鬼子母神寄りの「この町から五、六町ばかり離れた小学校に」通っていたとあるので、この学校は当時の所在地でいうと高田町(大字)雑司ヶ谷(字)古木田455番地にあった、高田(第一)尋常小学校(現・雑司が谷公園敷地)のことだろう。
そこから「五、六町」、つまり550~650m「ばかり離れた」小石川区目白台というと現在の目白台2~3丁目あたり、ちょうど歌人・窪田空穂Click!邸跡か、西洋古代史学の村川堅固邸(現存)あたりということになる。ちなみに、高田大通り(目白通り)Click!を南に越えた目白崖線沿いの“目白台”は、この時代には小布施邸や細川邸Click!などの大屋敷が建ち並んでいて、『預言』で描写される周辺風景としては合致しない。
だが、麟太郎は卒業まで高田(第一)尋常小学校にいたわけではなく、のちに千代子のあとを尾けて雑司ヶ谷鬼子母神の森を抜ける描写が登場するように、途中で高田第二尋常小学校へ移籍しているとみられる。これは、当時の雑司ヶ谷地域が急速に市街地化し人口が急増していたからで、高田(第一)尋常小学校だけでは生徒を収容しきれず、途中から高田第二尋常小学校が創設されて生徒を大量に分散させている。『高田町史』(高田町教育会/1933年)によれば、1916年(大正5)に高田第一小学校の4年生以下の生徒346人を、高田第二小学校に収容して開校している。このとき、麟太郎も千代子も雑司ヶ谷鬼子母神の北西にあたる同小学校へ移動になった可能性が高い。
この経緯は、おそらく大泉黒石の長男・大泉淳Click!あるいは二男・灝の小学生時代に雑司ヶ谷で経験した事実なのだろう。では、高田第二小学校からの下校時、麟太郎が惹かれる少女・千代子のあとを尾ける様子を、『預言』(緑書房全集/1988年)から引用してみよう。
▼
或る日、私は思い切って、学校の帰りに彼女の後をつけて行った。学校の前の鬼子母神の森をぬけて、狭い坂を下ると朽ち破れた古い橋があった。それは俗に俤橋といった、(ママ) 橋の袂には、太田道灌で有名な山吹の里の跡があった。堤の下には江戸川がゆるやかな渦をまいていた。その流れに沿って二丁ほど高田馬場へ向かってさかのぼると、小さい山栗の林があった。その林の陰に、古くはあるけれども、かなり大きな石の門構えの家がたった一軒あった。彼女はこの門をくぐって消えた。ここに住んでいるのだ。私はしばらく林の中を迂路ついた。それから、彼女の家の裏手に出た。そこは先刻の川が小さい淵となり淀んでいた。人を乗せた底の浅い船が往ったり来たりした。私は汀に下りてその家の真裏に出た。どこから流れてくるのかわからないが、地底の水を吐き出すために造られた大きな鉄の水門が、石垣の真ん中にあった。
▲
ふたりは、高田第二小学校から鬼子母神境内の杜を抜け、北辰社牧場Click!を右手に見ながら表参道を南下しているのがわかる。そして、高田農商銀行Click!などのビルが建ちはじめた賑やかな高田大通りをわたると、角の交番Click!の脇から旧・鎌倉街道である宿坂Click!を下っていった。坂の左右には根性院Click!や金乗院Click!、南へ向かう道筋のクラックをすぎれば南蔵院Click!や高田氷川社Click!を左右に見て、ほどなく北詰めに山吹の里碑のある面影橋Click!へとさしかかる。橋をわたれば、牛込区戸塚町の(字)バッケ下Click!へと出ることができた。
文中に「江戸川」とあるのは旧・神田上水Click!のことで、江戸期からの「江戸川」は、もう少し下流にあった大洗堰Click!より外濠の出口に架かる舩河原橋Click!までの川筋のことだ。(旧・神田上水と江戸川は1966年より全流域が「神田川」に統一) また、「高田馬場」とあるのは、幕府の練兵場だった高田馬場Click!跡ではなく山手線の高田馬場駅Click!の方向、つまり旧・神田上水をさかのぼった下落合寄りの位置ということになる。当時は交通手段として、掉さす底の浅い猪牙舟が川を往来していた様子がわかる。
大正期の前半には、面影橋から「二丁ほど」=220m前後のところに『預言』に描かれたような石門の大きな屋敷は存在していない。旧・神田上水沿いには土手がつづき、その両岸は一面が水田地帯であり、千代子の家が旧・神田上水の北岸だとすると(麟太郎が面影橋をわたったとは書いてないので)、田圃の中を早稲田変電所Click!へと向かう高圧線鉄塔Click!が、東西に連なっているような風景だった。
また、1921年(大正10)ごろになると川沿いには家々がポツポツ建ちはじめるが、それではふたりの小学生時代とは情景が一致しない。1923年(大正12)ごろに麟太郎と千代子が19歳だとすると、どうしても上記の風景描写は1916年(大正5)前後でなければ話があわないことになる。川に面した「鉄の水門」は、灌漑用水の出口として高田町(字)稲荷前あるいは(字)八反目に拡がる、水田の随所に見られただろう。
麟太郎は、旧・神田上水の土手側にある屋敷の石垣で、千代子を母親に内緒で呼びだすために葦笛を吹くようになるが、その葦については「江戸川の土手の、あの目白と高田馬場との中間に、たくさん生えていましたが、今はもう、すっかり拓けて、おまけに少しぐらいあっても、水が濁っちゃって駄目です」と後年、父親や叔父に説明している。そのころの葦が繁った「目白と高田馬場との中間」風景は、織田一磨Click!が明治末に描いた『高田馬場附近』Click!(1911年)で想像することができる。
目白駅と高田馬場駅の中間、つまり高田町と下落合の境界が入り組んだ、山手線の線路土手の東側あたりに葦が密生し、そこで葦笛の材料を調達していたことになっているが、これだと千代子のいる家からかなり川沿いを西(上流)へとさかのぼらなければならない。このあたり、クライマックスへとつづく物語の“展開”を考慮すれば、大泉黒石はことさら千代子の家を面影橋から下落合との間を流れる旧・神田上水沿いのどこかと、意図的にボカしておきたかったのではないだろうか。
このあと、麟太郎は他者の罪をかぶって死刑囚となるのだが、収監された巣鴨監獄から関東大震災の余震で崩れたレンガ塀を脱出し、旧・神田上水沿いの千代子の邸まで逃げてくる。そして、そこでは思いがけない展開が待っていた……ということで、『預言』を貫くテーマが一気に語られるのだが、それは実際に本編を読んでからのお楽しみということで。
◆写真上:1910年(明治43)に地球へ接近し、世界を混乱に陥れたハレー彗星。1986年(昭和61)にも再びその姿を見せたが、76年前ほどの迫力はなかった。
◆写真中上:上は、大泉黒石も目にした1923年(大正12)撮影の目白台からの眺め。中は、1919年(大正8)撮影の高田大通りで右に見えるビルは高田農商銀行Click!。下は、1935年(昭和10)撮影の芭蕉庵で手前は旧・神田上水(上)と芭蕉庵の現状(下)。
◆写真中下:上は、目白台に残る古い屋敷群。中上は、高田大通り(目白通り)から面影橋へと抜ける鎌倉街道の宿坂。中下は、面影橋の北詰めにある太田道灌Click!の「山吹の里」Click!記念碑。下は、1919年(大正8)に撮影された改修後の面影橋。
◆写真下:上は、1916年(大正5)に作成された1/10,000地形図にみる麟太郎が尾行した千代子の下校コース。下は、1921年(大正10)に作成された同じ地域の地形図。
★おまけ
物語では天文学者の父親とともに、麟太郎が住んでいたと想定された目白台の一画で、上は窪田空穂邸があったあたりと、下は西洋史学者の村川堅固・村川堅太郎邸。
ビジネスモデルに悩む「神社の迷宮」。 [気になるエトセトラ]
都内にあるデータセンターのサーバラック群には、クラスタごとに「家内・交通安全」や「事故防止」などのお守りが下がっていることが多いと聞く。システムエンジニアリングを突き詰めると、最後はやっぱり神頼みというのもおかしいが、確かにシステムの構築から運用管理にいたる各Phaseには、運・不運がつきまとうのも事実だ。技術の論理的な整合性がとれていても、カットオーバー後や追加開発後も円滑に稼働しつづけるとは限らないのは、フィジカルなエンジニアリングの世界と同様だ。
これらのお守りは、別にPMやSEが勝手に自分でこしらえてラックに下げているわけではなく、都内各地の神社で実際に授与(販売)されている「厄除け」のものだ。社(やしろ)の三大行事といえば、正月の初詣でに節分の豆まき、そして最近はやたら期間が長くなったように感じる秋の七五三だ。この3つのイベントだけで、お守りやお札(お神札)、おみくじの喜捨額(売上げ)は年間の80%前後になるという。
確かに、わたしも家から独立して下落合に住むようになってから、昔日の下落合村総鎮守である下落合氷川明神Click!への初詣では欠かさないし、破魔矢を必ず購入……いや喜捨して授与いただいている。身体健康・交通安全のお守りも、買い替えては……もとへ喜捨しなおしては端末の周辺に置いている。自分の身体を守るというよりは、出雲のクシナダヒメClick!にPCの不具合防止と情報交通安全を祈願してのことだ。特に、彼女はスサノオとともにヤマタノオロチ退治に参加しているので、手をかえ品をかえて襲来するサイバー空間の襲撃にも、巫女的な威力を発揮すると見こんでの呪術的防衛ラインだ。w
もうひとつ、家が代々氏子の江戸東京総鎮守・神田明神では、主柱である平将門霊神Click!の護符を買っては……いや喜捨して授与いただいては家の壁に貼っている。わたしは、別に神道の熱心な信者ではないが、データセンター(クラウド上)でシステムの構築や運用管理を担当するPMやSEと同様に、一種の「気休め」であり「ゲンかつぎ」であり、また「おまじない」のようなものにすぎない。ただし、そこらにあるどこの社のお守りでもいいというわけではなく、江戸東京のゲニウスロキ(地霊)であるオオクニヌシやクシナダヒメ、スサノオ、タケミナカタなど古い社にやどる出雲系の護符に限定している。
各地の社(やしろ)で、お守りが大々的に売られるようになったのは、1964年(昭和39)の東京オリンピックがきっかけだったそうだ。世の中では「交通戦争」などと呼ばれ、交通事故が多発して1年間に数万人が事故死するような状況を迎えていた。そこで、お墓も檀家もなく収入の道が限定されている社では、「交通安全祈願」の授与品(販売品のこと)を増やしてなんとか売上……いや喜捨量を伸ばそうと企画したらしい。企業でいえば、マーケットニーズ(参拝者の欲望や要望)を的確に把握し、ユーザーが求める製品を開発して大々的にSPを展開していった……ということになるだろうか。
少し前の情報だが、授与品製造メーカーへの取材記事を見つけた。2016年(平成28)刊行の「週刊ダイヤモンド」4月16日号に掲載された「神社の迷宮」から引用してみよう。
▼
いまや授与品販売は、参拝者や氏子を集めるための、貴重な手段となっている。/お守りでいえば、普及のきっかけは1964年の東京オリンピックで、自動車優先から歩行者優先社会へと移行する中で、「交通安全祈願」が登場したことだった。/その後、お守りの販売を拡大するため、祈願の種類が増えていった。縁結び、安産、健康にとどまらず、今では、受験、就職活動、果ては、出世、IT情報安全……などなど数え上げたら切りがない。加えて、色やデザインもどんどん派手になっている。「どこの神社もオリジナルの授与品で差別化したい。東京都内の神社を回って、同じお守りを見つけることの方が難しい」(授与品製造メーカーの担当者談)というくらい、多品種化している。(カッコ内引用者註)
▲
確かに、子どものころはどこの社(やしろ)でもお守りは似かよっており、中にはネーム(社名)を入れ替えただけで同一のデザインのものもたくさんあった。当時は少品種大量生産だったお守りが、社のSP戦略と他社との差別化(その社ならではの独自な付加価値付与)のために、限りなく個別受注少量生産に近づいてしまった様子が透けて見える。
また、そろそろ年間のインバウンドが3,000万人を超えそうな状況を迎え、日本語ではなく各国語によるお守りやお札などが登場しているらしい。破魔矢も、たいてい羽の色は白か赤と決まっていたものだが、最近では色とりどりのものが増えたという。これら授与品は、多品種少量生産のため手作業の工程が多く、製造元は中小企業が多いとのこと。お守りやお札の「効能効果」は、いつの間にか24h365dに限定されており、翌年にも改めて喜捨して手に入れなければならないという授与(販売)サイクルまで形成されている。
以前、寺院の経営がかなり苦しく、檀家の減少に少子化や過疎化が加わり、21世紀は廃寺が続出するのではないかと記事Click!に書いたけれど、各地の社(やしろ)もまったく事情は同じだそうだ。墓地という檀家の人質ならぬモノ質(死者も人だから「人質」でいいのかもしれないが)を持たない社にとってみれば、賽銭と授与品、そして神前でのイベントや祭礼が収入のすべてであり、寺院以上に苦しい台所事情だろう。
お守りやお札、おみくじ、破魔矢、熊手、ご朱印では経営を維持できないので、幼稚園や結婚式場を併設する社も多い。それでも経営は苦しく、町おこしならぬ“社おこし”の創意工夫で、その社ならではのオリジナリティを基盤とした“名物”を生みだそうとする動きも盛んだ。以前、拙サイトの記事で、親父が買ってきた江戸期の玩具「今戸焼き」Click!について触れたけれど、地元の今戸社では昔から江戸の町々に供給していた招きネコClick!発祥の地にちなみ、かわいい招きネコのキャラクターを創造している。
今戸社は、1年間にお守りが20個(体)ほどしか売れない忘れられた社だったが、福をまねく招きネコと縁結びの神(イザナギ・イザナミの第七天神Click!)を奉っているのを“武器”に、参拝者を増やしつづけていった。この付加価値やSP戦略を企画・実施したのは、東京ではめずらしくなくなった巫女(女性神主)Click!だ。しかも、縁結びを単なる社への願掛けレベルにとどめず、男女の出逢いをあと押しする婚活プロモーション「縁結び会」を社務所で主宰している。2016年の時点で、すでに100回ほど開催しており60組のカップルが誕生しているそうだ。福をまねく縁結びの社を、出逢いの場所、婚活の場所として開放したアイデア勝ちの今戸社ならではのケーススタディだ。
結婚式場を備える社(やしろ)でも、今日の嗜好に見あう新たな仕掛けをあれこれ模索中だ。神前結婚といえば、昔から祭壇前に和装した新郎新婦の席があり、床几を並べてそれぞれの親族が左右に向かいあって座るというような情景が浮かぶが、どうやらそのような結婚式スタイルを望むカップルの激減とともに、多種多様な施策を練っているらしい。
たとえば新潟の護国社(新潟縣護国神社)では、まるでキリスト教系か記念披露パーティー目的の複合施設での結婚式のようなスペースをデザインし、宴席で提供する料理も和洋を選べるフルコースと、なんだか目白椿山荘Click!か目黒雅叙園Click!のような結婚式場を演出している。インテリアはすべてイタリア製で、披露宴会場は豪華客船をイメージした会場と、ニューヨークの5つ星レストランを模倣したデザインの会場とがあるそうだ。カップルの衣装も和洋から選べるので、もはや先述のような神前結婚の面影は皆無に近い。
また、江戸期には芝居や物語あるいは見世物Click!、明治以降は小説や新派、映画などと連動した社(やしろ)の宣伝は存在したけれど、最近では人気アニメとのコラボレーションを追求する社も少なくないそうだ。同誌より、もう少し引用してみよう。
▼
神社がアニメの聖地となることで、町おこしにつなげるケースが増えている。「らき☆すた」の舞台になった埼玉の鷲宮神社、「ガールズ&パンツァー」の、茨城の大荒磯神社などがそうだ。/東京では、神田神社が「ラブライブ!」とのコラボレーションを展開している。「ラブライブ!」は、神社に近い秋葉原を舞台としており、キャラクターの一人が巫女のアルバイトをしている設定だったことから、この話が実現した。3月30日に神田神社を訪れてみると、「ラブライブ!」のラッピングカーがお目見えしており、キャラクターをイメージしたドリンクを求めて、ファンが境内の外まで長蛇の列を成していた。/昨年は、異例なことに神田祭のガイドブックに、「ラブライブ!」のポスターが掲載された。
▲
アニメ「ラブライブ!」自体をまったく知らないので、この記事の情景はチンプンカンプンなのだけれど、創立1300年祭も近い神田明神Click!の境内に、どうかアニメのキャラクターに扮した女子たちが大勢ウロウロするのだけはカンベンしてほしい。
そういえば、ときどき下落合氷川明神社Click!がコスプレ女子で埋まることがある。まるで池袋の乙女ロードから、そのまま下落合にテレポートしてきたような女の子たちなのだが、どうやらコスプレヲタク女子の撮影場所として境内を提供しているようだ。経営が苦しいのは理解できるのだけれど、神田明神Click!と同じく創建が非常に古い下落合氷川明神も、コスプレ女子が境内にあふれてヲジサンが入りづらくなるのはカンベンしてほしい。
神田明神ではようやく売り出し……もとへ授与しだしたようだが、サイバー攻撃除けのお守りを作るというのはいかがだろうか。神田明神のケースは、「IT情報安全守護」と漠然としたお守り(表現もInformationと情報が重なりいい加減で古く、ICTの現場に詳しくない方が創案したのだろう)だが、下落合氷川明神では「ICT安全守護」シリーズとして、明確に差別化した「サイバー攻撃退散」お守りをはじめ、より具体的に「標的型攻撃除け」「ランサムウェア除け」「個人情報守護」「IoTセンサリング安全」「AWS鎮護」「azure鎮護」「PC・デバイス守護(Windows版/Mac版/Linux版)」(ただし1年ごとのバージョンアップ必須/爆!)など、目的別のお守りを作って喜捨を待てば、授与を求める企業の長蛇の列ができるかもしれない。もちろん、デザインは退治されたヤマタノオロチに刺さる櫛(かわいいクシナダヒメ必須)で、ICTに強い社として一躍脚光を浴びることはまちがいない………かな。
◆写真上:日本では「厄除け」「魔除け」のお守りも見かける、データセンターに並んだサーバやネットワークスイッチを収容するマウントラック群。
◆写真中上:江戸東京総鎮守の神田明神社で見られる情景いろいろ。
◆写真中下:新潟県護国社の情景で、下の2葉はまるで椿山荘か雅叙園のようだ。
◆写真下:上は、正月の初詣でで賑わう下落合氷川明神社。中は、同社の拝殿。下は、同社の神輿巡行。下落合氷川社でも、ときおりアニメ連携やコスプレ女子撮影会が見られる。
女子聴講生にはじまる女子学生への道。 [気になる下落合]
かなり前になるが、下落合2080番地の金山平三Click!と結婚した牧田らくClick!をはじめ、3人の女子学生を入学させた東北帝国大学Click!について書いたことがある。同大学では、1913年(大正2)の特定学部入試から女子へ教育の門戸を開放していた。
では、落合地域の周辺にある大学ではどのような状況だったのだろうか。目白駅前にある学習院大学Click!は、そもそも戦前まで華族学校としての学習院Click!だったため男子のみで、当時は大学の教育機関とはまったく異なる存在だった。また、落合地域の北側にある立教大学Click!は、沿革資料が手もとにないので男女共学をいつから開始したのかが勉強不足で不明だ。わたしの手もとにあるのは、新宿区の地域女性史編纂委員会が取材・調査した、同区内の早稲田大学Click!における女子学生受け入れの経緯を紹介した史料だ。
大学における男女共学は、1918年(大正7)に「大学令」が施行されてから、あちこちで議論がつづいていた。当時の文部省は、大学の男女共学については特に決定せず(省内でも統一見解が出せなかった)、各大学の教育方針に委任するようになっていた。東北帝大の理系が女子学生を受け入れていたのも、少なからず影響を与えていたのだろう。
翌1919年(大正8)に早稲田大学は、「専門学校卒業生で附属高等学院修了生と同等以上の学力があると認められた者も入学を許可する」という項目を、あえて性別の表記をせずに入学規定学則へ明記した。このため、女子の入学も許可されたと解釈した、高等教育を受けたい女子学生たちの問い合わせが同大学へ殺到するが、当時の早大内部でも男女共学については意見が大きく割れていた。そこで、その折衷案として誕生したのが、同年の女子学生の聴講入学制度だった。この制度は、翌1920年(大正9)に文部省から認可され、ようやく早大に女子学生の姿が見られるようになった。
だが、聴講生といっても希望者が全員入学できるわけではなく、ある一定の学力のある女子たちに限り聴講入学させていたようだ。そのときの様子を、1996年(平成8)に刊行された『新宿に生きた女性たちⅢ』(新宿区地域女性史編纂委員会)から引用してみよう。
▼
早稲田大学が許可した一九二〇(大正九)年度には、文学部・商学部・理工学部に合わせて一二名の女子聴講生が入学した。一万人を越す早稲田の学生数(ちなみに大正中期は全学で2,000人余)からみると微々たるものであったが、女子聴講生入学許可の一石がその後の通信講義録『高等女学講義』を生んだのである。/初年度入学の理工学部応用化学科聴講生 生田代美代子は、足掛け三年の経験から「時代の声として婦人の学問的向上が識者間に唱えられてきた折柄、早稲田に於いても大英断の下に婦人に大学開放の扉を開かれたことは私共にとり涙ぐましい程嬉しいことである。過渡期のことで止むを得ないことながら、学校当局としてはさらに英断をもって一層の徹底した解放(ママ)をお願いしたい……」(中略) しかし人数は順調に伸びたわけではなく、一九二四年度の新規聴講生は二名で、英文学専攻の石垣綾子も「埃っぽい学生服に交じって女子聴講生は三人、学生たちは慣れぬ若い女性を遠巻きにしてろくに話しかけてもこない」。(カッコ内引用者註)
▲
男女共学の実現、すなわち聴講生ではなく正式な大学生としての女子入学を強力に推進したのは、この女子聴講生制度を早くから導入した早稲田大学ではなく、同じ私学の日本大学Click!と東洋大学Click!からだった。日本大学における女子聴講生の正規学生への昇格運動が、東洋大学の女子学生たちと連動し、両大学による「女子学生連盟」が1924年(大正13)に結成されている。この女子学生連盟の動向が、早大の女子聴講生たちへ直接的な刺激や影響を与え、正規学生への昇格運動や女子学生への門戸開放に波及したかたちだ。
だが、早大が女子聴講生ではなく正式な女子学生の入学を許可するまでには、まだまだ紆余曲折があったようだ。1938年(昭和13)4月に開かれた早大臨時理事会において、田中穂積総長が初めて「女子ノ編入資格ニ付門戸開放方針」を発表し、ようやく大学当局による女子学生の受け入れと男女共学環境への大転換がスタートしている。
この方針転換による学則改正は、翌1939年(昭和14)2月に文部省から認可され、同年4月より早大キャンパスに女子学生が誕生することになった。同年に入試の門戸を開いたのは、政治経済学部、法学部、商学部、文学部、理工学部の5学部だった。田中総長のあとを継いだ大浜信泉総長も、学内新聞に「学問は男がこれを独占すべきものでなく本来性別のあるものでもない。文化の興隆という観点から言えば、女も大学で学び、あらゆる部門で才能を伸ばし男と協力することが望ましい。大学の課程では強いて分離教育の必要はない」との声明を発表している。
1939年(昭和14)に入学した女子学生について、同書よりつづけて引用してみよう。
▼
長い道のりの末、一九三九(昭和一四)年には四名の女子学生が正規学部生の一期生として入学した。文学部国文学専攻には、学者志望の織本良子(東京女子大学卒)と中沢政子(旧姓足助・帝国女子専門学校卒)、英文学専攻には岡野恵子(旧姓小林・聖心女学院高等専門学校卒)、法学部には今北静子(旧姓古田・東京女子大学卒)が入学した。/二期生は、文学部英文学専攻に松宮澪子(旧姓清水・実践女子専門学校卒)と、英文学を研究したいという山脇百合子(旧姓横山・東京女子大学卒)の二名、法学部英法科に伊藤きよ(明治大学商学部卒)、弁護士志望で免囚保護事業を目標とする渡辺道子(東京女子大学卒)、男子と同等の勉強がしたいと考えていた園田天光光(旧姓松谷・東京女子大卒)の三名であった。
▲
1943年(昭和18)になると、職業に就いて働きながら勉強したいという、30歳をすぎてからの女学生も入学してくる。また、同年には西洋史を学ぶことで、当時の「ナショナリズムに溺れている我が国を批判する視点を掴みたい」(大塚野百合)という、軍国主義によるファシズム政府へ公然と異議を唱える女子学生までが登場している。
だが、彼女たちが実際に入学してみると、キャンパス内の施設や設備がすべて男子学生用につくられており、食堂やトイレひとつとっても女子には使いづらいものだった。1942年(昭和17)には、女子学生同士の親睦会である「早稲田女子学生会」が結成されている。彼女たちは、おしなべて入学後の成績がきわめて優秀だったが、戦時の勤労動員で製鉄所に連れていかれ、そこでは動員を中止し学業を継続したいという女子学生の申し入れをめぐり、製造現場での議論がつづけられたという。女子学生たちが落ち着いて講義を受け勉強できるようになるには、戦後を待たねばならなかった。
さて、21世紀の今日、女子に人気の大学はどこなのだろうと、ふと思いたって調べてみたら興味深い統計を見つけた。今年(2023年)4月にリクルート進学総研が実施した、関東地方における高校3年生の女子約3,200名を対象としたアンケート調査によれば、入学したい大学ベスト10に女子大学が1校も含まれていない。また、国公立大学もベスト10には含まれておらず、最上位が12位の筑波大学と17位の千葉大学のみとなっている。
わたしの高校時代には、女子の志望校には必ず上位に国公立大学や女子大学が並んでいたものだが、どうやら時代が大きく変わり、女子たちの意識や志向(嗜好)がかなり変化したようなのだ。先年、少子化の影響もあるのだろう、東京都立の4大学が統廃合されたばかりだが、このアンケート調査を見ると、同様に志望者が急減しつづける国立大学の統廃合も、およそ現実味を帯びてきたテーマのように思える。
同総研の調査によれば高校3年生の女子に人気の大学は、第10位が中央大学、第8位が人気同率で慶應義塾大学Click!と日本大学、第7位が下落合にもキャンパスがある上智大学Click!、第6位は落合地域の西隣りにある哲学堂Click!の井上円了Click!が、唯一科学的に解釈できなかった「真怪」Click!のすき間から嬉しくなって化けて出そうな人気の東洋大学、第5位が法政大学Click!、第4位はわたしの高校時代から女子には人気の青山学院大学、第2位は人気同率で落合地域のすぐ北側にある立教大学と明治大学Click!だ。
そして関東地方の女子高校生が入学したい大学の第1位は、女子学生大好きヲジサンClick!だったらしく日本女子大学Click!や女子学院(のち東京女子大学)Click!などの講演や卒業式に呼ばれるとホイホイ喜びいさんで出かけていたらしい、大隈重信Click!のホクホク顔Click!が目に浮かぶ、落合地域の南東側に位置する早稲田大学となっている。史料類を参照していると、いま生きていたら「いつまでも貧乏大学やなかじゃろ。そうっちゃ、ほいだら、いっそんこと在野精神むば旺盛な女子大にしたら、経営もちっとは安定するにちがいなか」などといいだしかねない、女子学生たちとニヤけ顔で数多くの記念写真に収まる大隈重信なのだ。
最近、高田馬場駅から早稲田界隈を散歩すると、女子学生ばかり目立つように感じていたのだけれど、男子学生とは異なり講義をサボらずマジメに出席するのは女子学生のほうが多いようだから、それでなんとなく女子大の近くを歩いているような感覚にとらわれたのだ。女子学生の絶対数が、同校の志望者数に比例して30年前の2.5倍と急増し40%近くを占めているため、男子学生が相対的に漸次減少しつづけているせいなのだろう。
◆写真上:国際聖母病院の聖母看護学校跡地にできた、下落合の上智大学キャンパス。
◆写真中上:上は、高校3年の女子に人気の10位・中央大学。中・下は、人気同数でともに同率8位の慶應義塾大学と日本大学(江古田キャンパス/芸術学部)。
◆写真中下:上は、同じく7位の上智大学。中上は、6位の東洋大学。中下は、5位の法政大学。下は、昔からオシャレな女子学生に根強い人気の4位の青山学院大学。
◆写真下:上・中は、人気同率でともに2位の立教大学と明治大学。下は、1位の早稲田大学。関東地方における高校3年生の女子約3,200人を対象としたアンケート調査による入学したい大学アンケート結果のベスト10(リクルート進学総研/2023年4月実施)より。
再びどこだかわからない山と渓流の写真。 [気になるエトセトラ]
前回、箱根外輪山の最北端、金時山Click!とみられる山影や登山道を撮影した写真をご紹介したが、山ばかりを撮影したアルバムがつづいて出てきた。小学生になるかならないかの自身も写っているので、やはりわたしも歩いているはずなのだが、前回と同様にサッパリ記憶がない。海なら、どこの海か必ず憶えているのに山の記憶は曖昧だ。
周辺の雰囲気からして、どうやら丹沢山系にあるいずれかの登山道入り口あたりの情景だと思うのだが、ひとくちに丹沢といってもかなり範囲が広い。神奈川の県北一帯を、ほぼ覆いつくしているのが丹沢山系(大山含む)であり丹沢山塊だ。写真には、山麓の小流れ(田圃の用水)にあったとみられる水車小屋や、渓谷と思われる川には大きな段差(落差工)がみられ、その途中の風景なのだろう社(やしろ)や寺院も記録されている。だが、いくら写真をためつすがめつ眺めても、わたしにはそこを実際に歩いたという記憶がまったく浮かんでこない。おそらく現代から50年以上も前、1960年代の風景だろう。
幼い自分が写っていても、親に連れられて歩いた武蔵野各地Click!の散歩コースClick!と同様に、いつの間にかすっかり失念しているので、やはりわたしは山々を登ったり歩いたりするよりも、物心つくころから“海男”Click!していたほうが性にあっていたのだろう。情けないことに、写真の中でわたしはカメラに向かって盛んにふざけたりおどけたりしているのだが、記憶の片りんすら残っていない。親にしてみれば、せっかく連れていったのにまったく情けない……とでも思っているだろうか。
現代の写真で、それらの風景を特定しようとしても、あまりの変わりようで不可能なのは、鎌倉Click!の台山にあったとみられる大叔母の家Click!と同様だろう。家々の姿はもちろん、ヘタをすると地形までが変わってしまっているので、写真と照らし合わせようにも端緒がつかめなかったりする。アルバムにキャプションでも入れておいてくれれば、すぐにも場所が特定できるのだろうが、親父は年齢とともに整理が面倒になったものか、あるいは写真を見ればすぐにどこの風景かがわかっていたせいか、年を追うごとにプリントを並べてただ貼るだけのアルバムが増えていく。
まず、渓流から引かれた用水の、田圃のすみにあったとみられる川葺きの水車小屋を見てみよう。(冒頭写真) もとより、いまではとうに解体されて存在しない水車だろうが、当時でさえ、すでにめずらしかっただろう水車小屋も記憶に残っていない。小屋の端には、まだ若々しい母親と幼いわたしが立っているけれど、こんな風景はかつて一度も見たことがない。いや、実際に目にしているのだからすっかり忘却したのだろう。
つづいて、少なくと1ヶ所の寺院の写真と、1ヶ所の社(やしろ)の写真がとらえられている。寺の屋根は、当時、茅葺きを葺きなおしたばかりのようでトタンないしはスレートのように見える。もちろん、境内には誰もおらず、ひっそりと静まり返っているようだ。寺の境内にあったものか、蘭塔(僧の墓石)Click!や朽ちかけた石仏がとらえられている。如意輪観音と見まごう風化した彫刻は、下に三猿が掘られているようなのでおそらく庚申塔だろう。また、境内にはみなデザインが同一な、石仏の六地蔵も安置されていたようだ。
蘭塔も庚申塔も六地蔵も、いずれも江戸期に建立されたもののように見えるが、年紀を確認のしようがないので不明だ。どこの寺なのかまるで見当もつかないが、廃寺Click!にでもなっていないかぎり、本堂は現在もそのままの姿をとどめていそうだ。わたしは案外、各地にある寺々の様子は記憶にとどめるほうだと思うが、おそらく子どもの印象に残るような本尊(仏像)が本堂内になく(あるいは当日は開帳されていなかったか)、また境内にも記憶に焼きつくような記念物がまったく存在しなかったのかもしれない。
一方、撮影された社(やしろ)のほうは、境内に巨木が繁るかなり古くからの聖域のように見える。急峻な渓谷の川沿いに建立されているとみられ、このような地形からするとタタラClick!の鋳成神Click!(江戸期には朝鮮の農業神である稲荷神=ウカノミタマへ転化しているケースが多い)、あるいは丹沢の近くにある大山(おおやま)山頂の大山阿夫利社と同様に、山々の神であるオオヤマツミ(大山祇)を奉っている可能性が高いだろうか。江戸期に庚申信仰と習合した、火床の神である荒神がベースにある庚申塔もあるところをみると、鋳成(稲荷)の可能性が高いような気がする。
鳥居の両脇を見ると、左には明治以降に造られた「忠魂碑」が建っているが、右には写真を拡大すると、おそらく「堅牢地神」と彫られているらしい大きな石碑が建立されている。もともと、仏教に由来する大地をつかさどる神の1柱であり、社(やしろ)ではなく寺に置かれるはずのものだが、神仏習合で社の鳥居脇に奉納されたものだろう。ということは、神仏習合が進んだ江戸期に建立された石碑であり、先の写真にとらえられた寺院と同社とは、非常に近接して建っているのではないか?……という想定もできそうだ。
社の境内には、拝殿と思われる前に母親がポツンと写っているが、これはわたしが親父のカメラを借りて撮影しているのかもしれない。この社の屋根も、茅葺きからトタンかスレートに葺きなおされて間もないらしく、真新しい光沢が印象的だ。もし火災などで焼けていないとしたら、いまも同じような拝殿の姿で残っているのではないか。
また、この社の鳥居前や拝殿前などには狛犬や狛狐がまったく見あたらず、単に灯籠が置いてあるだけなので、ひょっとすると秦野や伊勢原など丹沢山系の近くに散在する社に多い、ミタケ(御嶽神Click!=大神=ニホンオオカミClick!)を合祀している可能性もあるのではないか……と、いろいろ推測してはみるのだがサッパリ自信がない。
上記のような想像をして、さっそく「稲荷神=ウカノミタマ(倉稲魂)」や「オオヤマツミ(大山祇)」、「ミタケ(御嶽神)」などをキーワードに、丹沢周辺の川や渓谷に近い社を検索して探してみると、はたしてこの3神をすべて奉り、加えて食物をつかさどる神のオホゲツヒメ(大宜都比売)やオオクニヌシClick!(子大神=大国主)などを奉っている、寄(やどりき)神社というのが中津川沿いの登山口にあることがわかった。
丹沢山系には、中津川と呼ばれる渓流が少なくとも東西に2本あるが、東側の伊勢原の中津渓谷Click!から宮ケ瀬へとたどる中津川ではなく、反対の西側の秦野から松田町をへて北上する中津川のほうだ。中津川沿いを、寄(やどりき)湧水源(現・やどりき水源林)へ向かう山道(現・神縄神山線)の途中に、はたして寄神社(別名:弥勒神社)があった。
さっそく、GoogleのStreetViewで観察してみると、写真の社(やしろ)はどうやらこの場所のように思えてならない。鳥居の右脇には、神木のようなスギの巨木が生えているのも同じだ。ということは、上掲の寺写真は寄(やどりき)社に近接した弥勒寺ということになるのだろうか? ただし、周囲の風景は大きくさま変わりし、写真では右手に茅葺き農家が残り、左手には軒の低い昔の商店のような家が写っているが、現在の寄社は右手に居住タイプの駐在所が設置され警官が常駐しているようだ。
この道路を、そのまままっすぐ山に向かって渓流沿いを北上すると、落差20mほどの滝郷の滝があるが、その周辺域は飲料に適する湧水にめぐまれており、キャンプ地には最適な場所だろう。ちなみにクルマで出かけるキャンプ場(オートキャンプ)など、当時はほとんど存在していない。(丹沢山系は国定公園であり神奈川県の自然公園でもあるので、現在でもクルマは制限されオートキャンプ場は少ないかもしれない) だが、写真を見ているわたしには、まったく憶えのない山道風景がつづく。
写る母親の服装からして、沢沿いを登りながら滝郷の滝や清兵衛の滝まで歩いていったとは思えず(登ったとすれば写真が残るはずだ)、また親父が30kgほどはあった当時のテントやキャンプ装備を背負っていそうもないので、おそらく日帰りの気軽なハイキングだったのではないか。3人ともやたら軽装なので、寄(やどりき)橋あたりから斜面を登って、檜岳(ひのきだっか)や鍋割山稜へ取りついたとも到底思えない。
おそらく、寄社の手前に昔からあるバス停あたりで下車し、そこから中津川をさかのぼりながら寄(やどりき)湧水源とその周辺を散策し、ときに河原へ下りて遊びながら、5km前後の山道(当時:現在は途中までクルマが上れるよう山道が拡幅され、奥まで舗装されている)を往復したのではないだろうか。だが、これはあくまで推測にすぎない。
箱根の旧・東海道(箱根旧街道)のように、非常に疲労が激しくつらい思いをしたとか、なにか子ども心に残る楽しい出来事があったとかではなく、単に渓流沿いの山道を歩いただけでは、印象に残らないハイキングClick!のひとつとなり、記憶が薄れていったのだろう。
とはいえ、以上の場所特定はあくまでもわたしの推測であって、これらの写真がほんとうに松田町の中津川沿いに展開する丹沢風景なのかどうか、つまるところ不明のままだ。実際に歩いてからゆうに半世紀以上が経過しているので、どなたか(ヤマジョの方?)、この一連の写真にとらえられた風景に見憶えのある方がおられれば、ご教示いただければと思う。
◆写真上:現在では観光地に保存されたもの以外、見ることがなくなった水車小屋。
◆写真中上:境内に蘭塔や六地蔵、庚申塔などが確認できる山寺。
◆写真中下:上は、寄(やどりき)社ではないかとみられる社と現在の寄神社の入り口。中・下は、同社の鳥居と拝殿とみられるが狛犬も狛狐も見あたらない。
◆写真下:山道に入るとガスがでたようで、かなり川幅のある渓流の落差工。
下落合に住んだ彫刻家・夏目貞良の仕事。 [気になる下落合]
下落合(2丁目)739番地に住んだ彫刻家・夏目貞良Click!は、同じく下落合(1丁目)436番地に住んだ兄の日本画と洋画双方の画家・夏目利政Click!に比べて、地元ではほとんど目立たない存在だ。さまざまな出来事や証言を記録した資料にも、夏目利政Click!は頻繁に顔をのぞかせるが、弟の夏目貞良はほとんど登場しない。地元の方の証言でも、「ここには、確か夏目という彫刻家が住んでいた」……ぐらいの記憶しか取材できたことがなく、彼にまつわるエピソードはいっさい聞こえてこない。
夏目貞良は、1895年(明治28)生まれで昭和初期には30歳前後であり、当時は同年代の美術家が落合地域にはたくさん住んでいたはずなのだが、彼らと交流していたという記録も痕跡も見つからない。確かに、落合地域に住んでいたのは洋画と日本画を問わず、圧倒的に画家が多かったため、畑ちがいの彫刻家である夏目貞良としては交流しづらかったのかもしれない。だが、落合地域に限らず、美術誌などで取りあげられる美術家の記事などの資料類にも、夏目貞良のことを紹介した記述は見られないし、ましてや彼の文章も発見することができないでいる。
夏目貞良のアトリエは、下落合の野鳥の森公園沿いのバッケ坂(転訛してオバケ坂)Click!を上りきった道沿いの左手、ちょうど下落合753番地にあった九条武子邸Click!の道路をはさんで南隣りにあたる敷地だ。唯一、夏目貞良邸に関する情報としては、すぐ近くに設立されていた服部建築土木Click!(代表・服部政吉)が同邸を建設しており(同社設計士のご子孫証言による)、当初は兄の夏目利政が発注し下落合436番地へ転居する以前に、家族とともに同邸に住んでいたとみられる。
当時の夏目利政は、夫を亡くした日本画家の師・梶田半古の妻である和歌夫人と結婚(1919年)し、師の子どもたち5人と、生まれたばかりの和歌夫人との間の子ども(「できちゃった婚」の可能性が高い)、そして自身の母と祖母の計10人家族で、1920年(大正9)ごろ下落合739番地に転居してきているとみられる。同邸は、借家ではなく自邸とみられ、近くの服部建築土木が建設を請け負っている。
死去してから間もない、梶田半古の妻と関係したことで、夏目利政は梶田半古の弟子たちから恨まれて悪いウワサを流され、日本画壇からは事実上追われるような境遇になっていた。画壇で肩身が狭くなり、おそらく作品の販売ルートが狭まったからだろう、下落合739番地に建設したアトリエが縁で、その後、夏目利政と服部政吉のコラボレーションによるアトリエ仕様の建築が、下落合の各所に建設Click!されていくことになる。ふたりの間では、下落合の東部を“アトリエ村”にする計画があったのかもしれない。
下落合739番地のアトリエは10人家族には狭すぎたのか、夏目利政は数年で下落合436番地に新たなアトリエを建てて転居している。そして元のアトリエには、弟の夏目貞良を呼び寄せている。東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!の開発広告Click!が、新聞紙上に掲載されたのは1922年(大正11)6月10日が初出だが、そこには協賛人として満谷国四郎Click!や金山平三Click!、南薫造Click!、北村西望Click!らの名前とともに、夏目利政や夏目貞良の名前が見えるので、少なくとも同年に夏目貞良は下落合にいたらしいことがわかる。
さて、人となりや性格がわかるようなエッセイやインタビュー記事が発見できず、またその作品が批評家の対象となることも少なかったらしい夏目貞良だが、文展から帝展、そして新文展へと毎年コンスタントに作品を出品しつづけ、帝展では途中から“無監査”彫刻家になっている。つまり、帝展に作品を出品しさえすれば入選・落選の審査を受けることなく、常に無条件で展示されるという位置にいた。公募のある美術団体でいえば、「会員」あるいは「準会員」に相当するポジションだ。
“帝展無鑑査”といえば、当時の官展美術界では相当な地位を意味し、名刺のショルダーにさえ刷りこまれるような、将来の「大家」を約束されたようなポジションだが、彼の人となりについての記録は驚くほど少ない。国立国会図書館の資料類を漁っても、夏目貞良の名前が登場するのは文展・帝展の展示図録か、また同展を紹介した美術誌で出品作家として単に名前だけが紹介されるぐらいのものだ。
確かに、画家に比べて彫刻家は地味だし、当時の一般家庭へ持ちこまれる美術品は、洋画・日本画を問わず壁面を飾れる絵画が中心であって、それなりに設置場所が必要な彫刻のニーズは少なかっただろう。だからというべきか、“帝展無鑑査”になった画家の取材記事は美術誌などでよく登場するけれど、彫刻家の記事は相対的に少ない。また、夏目貞良がそうだったかどうかは不明だが、あまり騒がれたくない引っこみ思案の性格だったりすると、マスコミの取材を受けることに抵抗があったのかもしれない。
1923年(大正12)に帝国絵画協会によって作成された、「大正十二年・帝国絵画番付」という面白い資料がある。同番付表は、1922年(大正11)から1924年(大正13)の3年間にわたり制作されたらしく、文展・帝展の日本画家・洋画家・彫刻家の位列が、あたかも相撲の番付表のように紹介されている。これによると、夏目貞良は彫刻の部の【入選格】(前頭筆頭?)として紹介されている。また、その横には【特選格】(小結?)として陽咸二Click!の名前が掲載されている。
この序列で判断すると、【特選格】や【入選格】はいまだ【審査員格】(大関?)から審査を受ける対象であり、“無監査”ではないことがわかる。“文展・帝展無鑑査”になるには、【推薦格】(関脇?)以上の番付にならないと得られない特権のようだ。ちなみに、彫刻部の最上位【元審査員】(横綱?)には高村光雲Click!の名前が見えている。
また、同番付表の洋画部には、【審査員格】(大関?)として満谷国四郎Click!や金山平三Click!、南薫造、片多徳郎Click!、牧野虎雄Click!、そして中村彝Click!の名前が見えており、さながら下落合の住民名簿のような趣きになっている。また、【推薦格】(関脇?)には大久保作次郎Click!、三宅克己Click!、藤田嗣治Click!らが名を連ねている。
さて、夏目貞良の下落合時代の作品を観ていこう。彼の作品画像は、1927年(昭和2)の第8回「帝展図録」から確認することができる。同年の図録には、『無憂』と題する彫刻が載っている。裸の女性が、目をつぶりながらボーッと立っている像だ。つづいて翌1928年(昭和3)の第9回「帝展図録」には、『渚』とタイトルされた作品が出品されている。やはり、裸の女性が立ちながら、右足を寄せる波に向けて浸しているようなポーズだ。なんだか、両年ともほとんど変わり映えのしない女性が無心に立っている作品で、同時制作(バリエーション)といってもいいようなポーズをしている。
少し飛んで、1932年(昭和7)の第13回「帝展図録」には、夏目貞良の横に“無鑑査”のクレジットが入っているので、いわゆる“帝展無鑑査”になったのはこのころだろう。出品作は、裸の女性がいわゆる体育座りで脚に手を添えている『女性』というタイトルだ。そして、翌1933年(昭和8)に制作されたのは、帝展出品作ではなく、裸のふくよかな妙齢の女性が腰かけ、手を膝の上に行儀よく組んで左脚を少しずらしている『若き日』という作品だ。翌1934年(昭和9)に発表されたのは、裸のスレンダーな若い女性が腰かけ、手を膝の上に行儀よく組んで左脚を少しずらしている『少女』というタイトルだ。(爆!)
そして、1934年(昭和9)の第15回「帝展図録」には、裸のふくよかな妙齢の女性が腰かけ、左脚を少しずらして筋肉痛なのか左手でふくらはぎをマッサージしているような、『女』という作品(やっとポーズが変わった!)だ。すでに読まれている方もお気づきだろうが、毎年「若い女性+裸」の共通するモチーフで、少しずつポーズを変えただけの作品では、どうしても観賞者や批評家の目にとまりにくいし、印象も稀薄化するのはいたしかたないだろう。夏目貞良が、美術誌などでもなかなか取りあげられない要因は、このような作品の傾向にもあったのではないか。
それでも、戦時体制が年々色濃くなり帝展が改組されて新文展(1937年~)の時代を迎えると、夏目貞良の作品から「若い女性+裸」のモデルはいっさい消え、軍人の彫刻などが見られるようになる。1942年(昭和17)の第5回「新文展図録」には、『軍人加藤少将』という胸像作品が掲載されている。加藤少将とは、いわゆる「加藤隼戦闘機隊」(陸軍航空隊第64戦隊)の戦隊長・加藤建夫中佐のことで、同年に戦闘機「隼」に搭乗してビルマ(ミャンマー)上空の空戦に参加、撃墜されて戦死し二階級特進で「少将」となっていた人物だ。
そのほか、家庭の床の間や棚、洋間のサイドテーブルなどに飾るのを意識したのだろう、販売を目的としたウシやキジ、ウサギなどの動物彫刻(置物)や、アイヌ民族のコタン(村)に住むエカシ(古老)をモデルにした作品などを多く残している。これらの“売り彫刻”は、現在でもオークションなどで見かけるので、かなりの数が出まわっているのだろう。
◆写真上:バッケ坂(オバケ坂)の上にあった、下落合739番地の夏目貞良アトリエ跡。画面左手の低層マンションがアトリエ跡で、正面が九条武子邸Click!跡。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる夏目貞良邸。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる夏目邸。下は、1933年(昭和8)に美術新論社から出版された『美術家名簿』に掲載の夏目貞良。
◆写真中下:上は、1923年(大正12)作成の「帝国絵画番付」と【入選格】に掲載された夏目貞良の拡大で、右の【特選格】には陽咸二Click!の名前が見える。中は、1927年(昭和2)刊行の第8回「帝展図録」(左)と1928年(昭和3)刊行の第9回「帝展図録」(右)。下は、1937年(昭和12)刊行の『時事年鑑』(時事通信社)収録の夏目貞良。
◆写真下:上は、第8回帝展(1927年)の夏目貞良『無憂』(左)と、第9回帝展(1928年)の(以下同)『渚』(右)。中上は、第13回帝展(1932年)の『女性』。中下は、1933年(昭和8)制作の『若き日』(左)と、1934年(昭和9)制作の『少女』(右)。下は、第15回帝展(1934年)制作の『女』(左)と、第5回新文展(1942年)制作の『軍人加藤少将』(右)。
第三文化村で沈黙をつづける宮地嘉六。 [気になる下落合]
大正期から戦後までの長期にわたり小説を書きつづけ、落合地域にも住んだ宮地嘉六Click!は興味深い作家のひとりだ。戦前から戦後にかけ、いわゆる「私小説」と位置づけされる作品群は面白くないが、それ以前の大正期に書かれた作品群は、いまでもその輝きが失われていないと感じる。なぜなら、宮地が働いていた当時の労働現場の様子や、工員・職人たちの世界が非常に仔細かつリアル(記録的)に描かれているからだ。
宮地嘉六の作品は、「労働小説」あるいは「初期プロレタリア小説」などと呼ばれたりするけれど、思想的なプロパガンダ臭はほとんど感じられない。あくまでも、当時の労働現場の様子を忠実にトレースし再現した、そこで働く人々の生活や考え方、環境、人生観、人間関係などを精緻に記録したルポルタージュのような趣きだ。そこでは、労働者の権利や主張がスムーズに認められる社会主義的な世界を、「楽園」あるいは「パラダイス」というような漠然とした世界としてしかとらえられておらず、またその思想性もきわめて微弱かつ観念的で、物語の付録的な描かれ方をしているにすぎない。
それは、宮地嘉六が本質的に「私小説」作家であったがために、その時代の自身が体験し認識した現実(事実)をそのまま原稿用紙に投げだしたがゆえに生じる、“ウソ臭さ”を感じさせないリアリズムのせいもあるのだろう。大正期に書かれた彼の作品群を読んでいると、期せずして1970年代から80年代にかけ日本の高度経済成長期にあたる労働現場を記録しつづけた、鎌田慧による初期のルポルタージュ作品群を思い浮かべてしまう。
別に思想的な宣伝臭もなければ、ことさら扇動的なアジテーションやあからさまなテーゼもない宮地嘉六の淡々とした作品は、その反作用として「この絶望的な現実をなんとかしなければ」……というような感慨を、かえって強く抱かせるのだ。その想いは、現代人であるからこそ強く感じられる問題意識であり、課題解決への欲求であり、これらの作品群が実際に読まれていたデモクラシーという思想がようやく浸透しつつある大正期の人々とは、その受け止め方がまったく異なるのは承知のうえで、現代の視座から“あと出しジャンケン”Click!的にいわせてもらえば、宮地嘉六は小説家というよりも、当時の社会や労働現場の“記録者”としての眼差しが非常に優れていると感じる。
宮地嘉六は、13歳で佐世保造船所の見習工として入所し、1898年(明治31)には三菱長崎造船所に同じく見習工として勤務するが、17歳になった1900年(明治33)に呉海軍工廠の第二工場で旋盤工として勤務している。明治末の当時、工場に勤める工員あるいは職工と呼ばれた労働者は、周囲からどのように見られていたのか、1920年(大正9)に聚英閣から出版された『或る職工の手記』より、筑摩書房版の同作から引用してみよう。
▼
佐世保の造船所へ行つて職工になる決心をしたのは十三の秋だつた。同じ町から行つてゐた年上の友達が職工になつてゐた。その友達は青服のズボンをはいて黒セルの上衣を着込んで、鳥打帽を冠つて久しぶりに佐賀に帰つて来た。或る日手荷物を提げて汽車から降りて来る姿を一目見て私は直ぐに彼れであることを知つた。ズボンのポケットからズボン締めの帯皮へ時計の鎖をかけ渡したりしてゐる気取つた風が少なからず私の目を引いた。/その頃の職工は決して今日のやうに労働者、若しくは職工などと頭から賤しめる風はまだ一般になかつた。それどころか、機械師とか、西洋鍛冶などと云つて到る所で青服姿を珍しがつて尊敬する風だつた。職工自身でも自分の職業は立派で高尚であると云ふ誇りを抱いてゐたのだ。それは今日の飛行機や飛行家等が世間にもてはやされるくらゐに彼等はもてたのだ。
▲
当時の造船所といえば、特に海軍はイギリス(Vickers社など)からの技術を吸収し、日本ならではの精緻な技術を加味しつつ、成長産業の先端を走る工業分野だったろう。今日の感覚でいえば、造船所の工員はICT分野の最先端でAIアルゴリズムを組みあげるエキスパート的な位置づけだったと思われる。文中にも登場するが、ある部門に熟練した専門工員は機械師や鍛冶師、旋盤師などと呼ばれている。宮地嘉六は、呉海軍工廠で旋盤師となった。
このころから宮地嘉六は文学(おもに小説)に傾倒しはじめ、1902年(明治35)に東京へやってくると石川島造船所へ就職している。だが、自身の作品を発表する機会が得られず、造船所を転々とすることになった。1903年(明治36)の20歳になった宮地は、神戸の川崎造船所、佐世保海軍工廠、呉海軍工廠とわたり歩くが兵役後、再び東京へとやってきている。そして、1908年(明治41)に正則英語学校(現・正則学園高等学校)に通いつつ、早稲田大学の聴講生となって勉強している。
その後、広島の呉海軍工廠へともどり、1912年(大正元)に起きた造兵部の全工員によるストライキに第九工場の代表として参加し、検挙されて広島監獄に収監された。出所後は、広島の商工会や新聞社に勤めていたが、どうしても小説家になる夢をあきらめきれず、1913年(大正2)に改めて東京へとやってきている。牛込区(現・新宿区の一部)で発行されていた地域紙「牛込タイムズ」で、水谷善四郎(水哉)や宮嶋資夫と知りあい、文芸誌「廿世紀」や「新公論」へ次々と短編を発表していく。
1918年(大正7)には、堺利彦の紹介で雑誌「中外」に『免囚者の如く』と『煤煙の臭ひ』を発表し、同年から大正末にかけて宮地嘉六の代表作となる『河岸の強人』『或る職工の手記』『放浪者富蔵』『群像』『累』などを、雑誌「中央公論」や「改造」、「解放」、「新潮」などへ次々と発表した。また、1923年(大正12)の関東大震災Click!では、社会主義者とみなされて王子警察署へ検束(10日間)されている。
1929年(昭和4)に、宮地嘉六は報知新聞に連載していた『愛の十字街』の原稿料で、落合町葛ヶ谷15番地(のち西落合1丁目15番地)に新築の家を建てている。ちなみに、宮地嘉六の年譜では葛ヶ谷15番地をいまの西落合1丁目9番地としている資料が多いが誤りで、1929年(昭和4)現在の葛ヶ谷15番地は現在の西落合1丁目7番地の東端、および同1丁目6番地にある落合第二中学校の南東端に食いこんだ、南北に細長い一画だ。
そして、拙サイトをお読みの方は、この地番にピンとくる方々も多いと思う。佐伯祐三Click!が1926年(大正15)の晩秋に描いたとみられる「下落合風景」シリーズClick!の1作、「富永醫院」Click!の看板がある『看板のある道』Click!の画面右手が、葛ヶ谷15番地の南角地にあたる。そして、宮地嘉六が家を建てた時期と重なり、1927年(昭和2)から1930年(昭和5)までここに住んでいたのが、新感覚派からプロレタリア作家へと脱皮しつつあった片岡鉄兵Click!だ。おそらく宮地嘉六と片岡鉄兵は、小説家同士の近所同士で顔見知りだったにちがいない。あるいは、片岡鉄兵に地主を紹介されて自邸を新築しているのかもしれない。
このあと、宮地嘉六は1939年(昭和14)に西落合の家を処分すると、下落合3丁目1470番地のアパート「玉翠荘」へと転居してくる。目白会館文化アパートClick!に接した北側の敷地、第三文化村Click!に建っていたモダンなアパートのひとつだ。宮地は、1945年(昭和20)まで「玉翠荘」に住んでいるが、同アパートは同年4月13日夜半の空襲では目白会館文化アパートClick!とともに焼け残っている(同年5月17日の米軍F13Click!による偵察写真Click!)ように見えるが、同年5月25日夜半の空襲では確実に焼失しているとみられる。
さて、宮地嘉六が落合地域に転居してきてから発表した作品群は、経験すれば誰もが書けそうなありふれた「私小説」であり、大正期に書きつづけた「労働小説」のように、社会的な問題意識を鋭く抱えた、あるいは時代的に記録性の強いルポルタージュのような表現作品は鳴りをひそめてしまう。つまり、宮地嘉六は自分自身が“その現場”で経験しなければ表現できない作家であり、工場の生産現場から遠く離れ10代からあこがれていた作家生活を送れるようになったとたんに、自分の身のまわりで起きる日常的な出来事しか表現できなくなってしまった……ということなのだろう。宮地嘉六は、1940年(昭和15)から敗戦まで作品を発表せず、沈黙を守りつづけた作家のひとりでもある。
宮地嘉六について、1967年(昭和42)に岩波書店から刊行された「文学」2月号に収録の、森山重雄『宮地嘉六論』が正鵠を射る分析だと思うので引用してみよう。
▼
宮地は労働文学の作家として知られている。しかし、彼の作品系列全体を見まわしてみると、意外に労働文学は少ない。(中略) ということは宮地ははじめから労働文学の作家というより、わたしが漂泊者の文学・免囚者の文学と呼んでいるような作家だと言った方がふさわしい。そして彼の労働文学の作品にも、この漂泊者の意識が濃厚にみられるのである。(中略) この故郷喪失感は、年少にして継母の支配する封建的な家から追われた体験に基づくものである。それと創世期資本主義への幻滅感、これが宮地の漂泊者の意識を培養する。全体を蔽う虚無的気分も、この放浪者の故郷喪失感からきているのである。(中略) 彼はインテリゲンチャと労働者の両面に全円的に入りこむ可能性をもった作家であったが、彼はおのれの体験につきすぎて、そこに冷徹な認識者の文学を成立せしめず、やや私小説的な傾向をもった体験文学に終ってしまった。
▲
宮地嘉六は、第三文化村の「玉翠荘」で空襲警報のサイレンを聞きながら、どのような想いにとらわれていたのだろうか。1940年(大正15)から敗戦まで6年間もつづく沈黙の中で、どのような風景を見ながらすごしていたのだろうか。「体験作家」であれば、そこが知りたい思いにかられるのだが、彼が敗戦後に発表した作品は明治末から大正期にかけての自叙伝的な『職工物語』(1949年)であり、敗戦の世相を描いた『老残』(1952年)だった。
◆写真上:下落合3丁目1470番地の、第三文化村に建っていた「玉翠荘」跡の現状。少し前は空き地だったが、現在は駐車場になっている。
◆写真中上:上は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」にみる葛ヶ谷15番地。中は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる西落合1丁目15番地。2軒のうちどちらかが宮地嘉六邸で、もう1軒はすでに転居した旧・片岡鉄兵邸だろう。下は、1926年(大正15)の晩秋に描かれた佐伯祐三『看板のある道』で右手角が葛ヶ谷15番地。
◆写真中下:上は、葛ヶ谷15番地の現状(画面右手)。中は、葛ヶ谷15番地の書斎で撮影された執筆中の宮地嘉六。下は、宮地嘉六の原稿。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる第三文化村の「玉翠荘」。中上は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された第1次山手空襲(4月13日)直前の「玉翠荘」。中下は、同年5月17日に撮影された第2次山手空襲(5月25日)直前の「玉翠荘」で、目白会館文化アパートとともに先の空襲から焼け残っているように見えるが内部は丸焼けだったのかもしれない。下は、宮地嘉六のポートレート。背後にデッサンが見えているが、落合地域に転居したせいか絵画や版画なども制作している。