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第三文化村で沈黙をつづける宮地嘉六。 [気になる下落合]

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 大正期から戦後までの長期にわたり小説を書きつづけ、落合地域にも住んだ宮地嘉六Click!は興味深い作家のひとりだ。戦前から戦後にかけ、いわゆる「私小説」と位置づけされる作品群は面白くないが、それ以前の大正期に書かれた作品群は、いまでもその輝きが失われていないと感じる。なぜなら、宮地が働いていた当時の労働現場の様子や、工員・職人たちの世界が非常に仔細かつリアル(記録的)に描かれているからだ。
 宮地嘉六の作品は、「労働小説」あるいは「初期プロレタリア小説」などと呼ばれたりするけれど、思想的なプロパガンダ臭はほとんど感じられない。あくまでも、当時の労働現場の様子を忠実にトレースし再現した、そこで働く人々の生活や考え方、環境、人生観、人間関係などを精緻に記録したルポルタージュのような趣きだ。そこでは、労働者の権利や主張がスムーズに認められる社会主義的な世界を、「楽園」あるいは「パラダイス」というような漠然とした世界としてしかとらえられておらず、またその思想性もきわめて微弱かつ観念的で、物語の付録的な描かれ方をしているにすぎない。
 それは、宮地嘉六が本質的に「私小説」作家であったがために、その時代の自身が体験し認識した現実(事実)をそのまま原稿用紙に投げだしたがゆえに生じる、“ウソ臭さ”を感じさせないリアリズムのせいもあるのだろう。大正期に書かれた彼の作品群を読んでいると、期せずして1970年代から80年代にかけ日本の高度経済成長期にあたる労働現場を記録しつづけた、鎌田慧による初期のルポルタージュ作品群を思い浮かべてしまう。
 別に思想的な宣伝臭もなければ、ことさら扇動的なアジテーションやあからさまなテーゼもない宮地嘉六の淡々とした作品は、その反作用として「この絶望的な現実をなんとかしなければ」……というような感慨を、かえって強く抱かせるのだ。その想いは、現代人であるからこそ強く感じられる問題意識であり、課題解決への欲求であり、これらの作品群が実際に読まれていたデモクラシーという思想がようやく浸透しつつある大正期の人々とは、その受け止め方がまったく異なるのは承知のうえで、現代の視座から“あと出しジャンケン”Click!的にいわせてもらえば、宮地嘉六は小説家というよりも、当時の社会や労働現場の“記録者”としての眼差しが非常に優れていると感じる。
 宮地嘉六は、13歳で佐世保造船所の見習工として入所し、1898年(明治31)には三菱長崎造船所に同じく見習工として勤務するが、17歳になった1900年(明治33)に呉海軍工廠の第二工場で旋盤工として勤務している。明治末の当時、工場に勤める工員あるいは職工と呼ばれた労働者は、周囲からどのように見られていたのか、1920年(大正9)に聚英閣から出版された『或る職工の手記』より、筑摩書房版の同作から引用してみよう。
  
 佐世保の造船所へ行つて職工になる決心をしたのは十三の秋だつた。同じ町から行つてゐた年上の友達が職工になつてゐた。その友達は青服のズボンをはいて黒セルの上衣を着込んで、鳥打帽を冠つて久しぶりに佐賀に帰つて来た。或る日手荷物を提げて汽車から降りて来る姿を一目見て私は直ぐに彼れであることを知つた。ズボンのポケットからズボン締めの帯皮へ時計の鎖をかけ渡したりしてゐる気取つた風が少なからず私の目を引いた。/その頃の職工は決して今日のやうに労働者、若しくは職工などと頭から賤しめる風はまだ一般になかつた。それどころか、機械師とか、西洋鍛冶などと云つて到る所で青服姿を珍しがつて尊敬する風だつた。職工自身でも自分の職業は立派で高尚であると云ふ誇りを抱いてゐたのだ。それは今日の飛行機や飛行家等が世間にもてはやされるくらゐに彼等はもてたのだ。
  
 当時の造船所といえば、特に海軍はイギリス(Vickers社など)からの技術を吸収し、日本ならではの精緻な技術を加味しつつ、成長産業の先端を走る工業分野だったろう。今日の感覚でいえば、造船所の工員はICT分野の最先端でAIアルゴリズムを組みあげるエキスパート的な位置づけだったと思われる。文中にも登場するが、ある部門に熟練した専門工員は機械師や鍛冶師、旋盤師などと呼ばれている。宮地嘉六は、呉海軍工廠で旋盤師となった。
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 このころから宮地嘉六は文学(おもに小説)に傾倒しはじめ、1902年(明治35)に東京へやってくると石川島造船所へ就職している。だが、自身の作品を発表する機会が得られず、造船所を転々とすることになった。1903年(明治36)の20歳になった宮地は、神戸の川崎造船所、佐世保海軍工廠、呉海軍工廠とわたり歩くが兵役後、再び東京へとやってきている。そして、1908年(明治41)に正則英語学校(現・正則学園高等学校)に通いつつ、早稲田大学の聴講生となって勉強している。
 その後、広島の呉海軍工廠へともどり、1912年(大正元)に起きた造兵部の全工員によるストライキに第九工場の代表として参加し、検挙されて広島監獄に収監された。出所後は、広島の商工会や新聞社に勤めていたが、どうしても小説家になる夢をあきらめきれず、1913年(大正2)に改めて東京へとやってきている。牛込区(現・新宿区の一部)で発行されていた地域紙「牛込タイムズ」で、水谷善四郎(水哉)や宮嶋資夫と知りあい、文芸誌「廿世紀」や「新公論」へ次々と短編を発表していく。
 1918年(大正7)には、堺利彦の紹介で雑誌「中外」に『免囚者の如く』と『煤煙の臭ひ』を発表し、同年から大正末にかけて宮地嘉六の代表作となる『河岸の強人』『或る職工の手記』『放浪者富蔵』『群像』『累』などを、雑誌「中央公論」や「改造」、「解放」、「新潮」などへ次々と発表した。また、1923年(大正12)の関東大震災Click!では、社会主義者とみなされて王子警察署へ検束(10日間)されている。
 1929年(昭和4)に、宮地嘉六は報知新聞に連載していた『愛の十字街』の原稿料で、落合町葛ヶ谷15番地(のち西落合1丁目15番地)に新築の家を建てている。ちなみに、宮地嘉六の年譜では葛ヶ谷15番地をいまの西落合1丁目9番地としている資料が多いが誤りで、1929年(昭和4)現在の葛ヶ谷15番地は現在の西落合1丁目7番地の東端、および同1丁目6番地にある落合第二中学校の南東端に食いこんだ、南北に細長い一画だ。
 そして、拙サイトをお読みの方は、この地番にピンとくる方々も多いと思う。佐伯祐三Click!が1926年(大正15)の晩秋に描いたとみられる「下落合風景」シリーズClick!の1作、「富永醫院」Click!の看板がある『看板のある道』Click!の画面右手が、葛ヶ谷15番地の南角地にあたる。そして、宮地嘉六が家を建てた時期と重なり、1927年(昭和2)から1930年(昭和5)までここに住んでいたのが、新感覚派からプロレタリア作家へと脱皮しつつあった片岡鉄兵Click!だ。おそらく宮地嘉六と片岡鉄兵は、小説家同士の近所同士で顔見知りだったにちがいない。あるいは、片岡鉄兵に地主を紹介されて自邸を新築しているのかもしれない。
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 このあと、宮地嘉六は1939年(昭和14)に西落合の家を処分すると、下落合3丁目1470番地のアパート「玉翠荘」へと転居してくる。目白会館文化アパートClick!に接した北側の敷地、第三文化村Click!に建っていたモダンなアパートのひとつだ。宮地は、1945年(昭和20)まで「玉翠荘」に住んでいるが、同アパートは同年4月13日夜半の空襲では目白会館文化アパートClick!とともに焼け残っている(同年5月17日の米軍F13Click!による偵察写真Click!)ように見えるが、同年5月25日夜半の空襲では確実に焼失しているとみられる。
 さて、宮地嘉六が落合地域に転居してきてから発表した作品群は、経験すれば誰もが書けそうなありふれた「私小説」であり、大正期に書きつづけた「労働小説」のように、社会的な問題意識を鋭く抱えた、あるいは時代的に記録性の強いルポルタージュのような表現作品は鳴りをひそめてしまう。つまり、宮地嘉六は自分自身が“その現場”で経験しなければ表現できない作家であり、工場の生産現場から遠く離れ10代からあこがれていた作家生活を送れるようになったとたんに、自分の身のまわりで起きる日常的な出来事しか表現できなくなってしまった……ということなのだろう。宮地嘉六は、1940年(昭和15)から敗戦まで作品を発表せず、沈黙を守りつづけた作家のひとりでもある。
 宮地嘉六について、1967年(昭和42)に岩波書店から刊行された「文学」2月号に収録の、森山重雄『宮地嘉六論』が正鵠を射る分析だと思うので引用してみよう。
  
 宮地は労働文学の作家として知られている。しかし、彼の作品系列全体を見まわしてみると、意外に労働文学は少ない。(中略) ということは宮地ははじめから労働文学の作家というより、わたしが漂泊者の文学・免囚者の文学と呼んでいるような作家だと言った方がふさわしい。そして彼の労働文学の作品にも、この漂泊者の意識が濃厚にみられるのである。(中略) この故郷喪失感は、年少にして継母の支配する封建的な家から追われた体験に基づくものである。それと創世期資本主義への幻滅感、これが宮地の漂泊者の意識を培養する。全体を蔽う虚無的気分も、この放浪者の故郷喪失感からきているのである。(中略) 彼はインテリゲンチャと労働者の両面に全円的に入りこむ可能性をもった作家であったが、彼はおのれの体験につきすぎて、そこに冷徹な認識者の文学を成立せしめず、やや私小説的な傾向をもった体験文学に終ってしまった。
  
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 宮地嘉六は、第三文化村の「玉翠荘」で空襲警報のサイレンを聞きながら、どのような想いにとらわれていたのだろうか。1940年(大正15)から敗戦まで6年間もつづく沈黙の中で、どのような風景を見ながらすごしていたのだろうか。「体験作家」であれば、そこが知りたい思いにかられるのだが、彼が敗戦後に発表した作品は明治末から大正期にかけての自叙伝的な『職工物語』(1949年)であり、敗戦の世相を描いた『老残』(1952年)だった。

◆写真上:下落合3丁目1470番地の、第三文化村に建っていた「玉翠荘」跡の現状。少し前は空き地だったが、現在は駐車場になっている。
◆写真中上は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」にみる葛ヶ谷15番地。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる西落合1丁目15番地。2軒のうちどちらかが宮地嘉六邸で、もう1軒はすでに転居した旧・片岡鉄兵邸だろう。は、1926年(大正15)の晩秋に描かれた佐伯祐三『看板のある道』で右手角が葛ヶ谷15番地。
◆写真中下は、葛ヶ谷15番地の現状(画面右手)。は、葛ヶ谷15番地の書斎で撮影された執筆中の宮地嘉六。は、宮地嘉六の原稿。
◆写真下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる第三文化村の「玉翠荘」。中上は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された第1次山手空襲(4月13日)直前の「玉翠荘」。中下は、同年5月17日に撮影された第2次山手空襲(5月25日)直前の「玉翠荘」で、目白会館文化アパートとともに先の空襲から焼け残っているように見えるが内部は丸焼けだったのかもしれない。は、宮地嘉六のポートレート。背後にデッサンが見えているが、落合地域に転居したせいか絵画や版画なども制作している。

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