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大泉黒石『預言』に展開する目白風景。 [気になる神田川]

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 これまでエッセイ類はともかく、小説に描かれた落合地域やその周辺の風景をなぞるような記事は、ほとんど書いてはこなかった。基本的に小説(フィクション)に描かれたものは、大なり小なり粉飾されている可能性が高いので、実際の風景との混同を避けるために取りあげていない。例外的にご紹介したのは、上落合850番地→842番地Click!に住んでいた尾崎翠Click!が散歩をしていたらしい道筋の風景を描いたとみられる、1931年(昭和6)に婦人誌「家庭」に発表された『歩行』Click!のコースと、「はははは、明智君」Click!江戸川乱歩Click!が舞台に選んだ、山手線の東西にまたがる戸山ヶ原の風景だ。
 今回、めずらしく取りあげるのは、1923年(大正12)前後にかけて執筆されている、大泉黒石Click!の小説『預言』だ。もちろん内容にも触れるので、これから『預言』を読もうと思っている方は、一部ネタバレになるのでぜひページ移動していただきたい。まるで、日本にドストエフスキーが出現したら、こんな作品を書いただろうと思わせる、当時の文壇=「私小説」家の群れとはまったく無縁な物語となっている。
 小説の主人公は、音楽学校のヴァイオリン科に通う「麟太郎」という青年だが、彼が天文学者の父親といっしょに住んでいるのが目白台の邸宅であり、その目白崖線のバッケ(崖地)Click!下を流れる旧・神田上水を、「俤橋」(面影橋Click!:黒石は同橋の史的な地元の記録を踏まえたうえで「俤橋」Click!と書いている可能性が高い)から、下落合寄りの上流へとたどった先にあるのが、恋人「千代子」の石門のある大きな屋敷という設定になっている。つまり、わたしもときどき散歩をする、下落合の東側に隣接した神田川沿いの高田地域や目白台(目白山Click!)地域一帯が、『預言』の舞台となっているのだ。
 『預言』は、先にドストエフスキーばりの作品と書いたが、もうひとつのテーマとして、大正中期の時点では最先端だった天文学の学術的な成果が積極的に紹介されている、「天文小説」とでも表現できる内容となっている。これは、明治末(1910年)にハレー彗星が地球へ大接近したせいで、さまざまな予測や流言飛語が世界規模で拡がり、天文学に関する興味が一気に高まったという世相もあるのだろう。
 『預言』には、当時の天文学界では大きな話題を呼んでいたラプラスやシャプレー、チェンバレン、ゼリガーなどの学説、あるいは数学者のポアンカレ、来日して間もないアインシュタインや、フランスで流行していた哲学者・ベルクソンまでが登場している。その絶望的な予測、いわば「大宇宙の黙示」(本文中)から人間はなにをしても、あとは宇宙の塵芥となる運命にあるので無意味だという、ひどく虚無的でペシミスティックかつアナキズム的な思想の経糸が、音楽的にいえばコントラバスの通奏低音のように、天文学者の口を通じて語られつづけることになる。
 ちなみに、その当時は「暗星」と名づけられていた宇宙の現象が、突然に観測圏外から出現して地球に衝突する危惧のある暗黒星なのか、アインシュタインの一般相対性理論から想定された「シュヴァルツシルト解」にみる今日的なブラックホールなのか、または太陽観測で漸次拡大して地球に近づいているように見える黒点の観誤りであるのかは定かでないが、おそらく衝突すると地球は塵芥になって宇宙空間に飛び散るので、人類はたちどころに滅びると書かれていることから、「暗星」=暗黒星ないしは突然現れる観測困難な大型彗星のことではないだろうか。『預言』は多彩な学術領域をまたいだ、大泉黒石Click!の視野の広さを知ることができる作品でもある。
 さて、主人公の音楽学校に通う麟太郎が、天文学者の父親と住む屋敷は目白台のどのあたりだろうか? 物語は、大正初期から関東大震災Click!が起きた翌年の、いまだ余震がつづく1924年(大正13)早々の大雪が降る時候までが描かれている。麟太郎が小学生のとき、雑司ヶ谷鬼子母神寄りの「この町から五、六町ばかり離れた小学校に」通っていたとあるので、この学校は当時の所在地でいうと高田町(大字)雑司ヶ谷(字)古木田455番地にあった、高田(第一)尋常小学校(現・雑司が谷公園敷地)のことだろう。
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高田大通1919.jpg
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関口芭蕉庵.JPG
 そこから「五、六町」、つまり550~650m「ばかり離れた」小石川区目白台というと現在の目白台2~3丁目あたり、ちょうど歌人・窪田空穂Click!邸跡か、西洋古代史学の村川堅固邸(現存)あたりということになる。ちなみに、高田大通り(目白通り)Click!を南に越えた目白崖線沿いの“目白台”は、この時代には小布施邸や細川邸Click!などの大屋敷が建ち並んでいて、『預言』で描写される周辺風景としては合致しない。
 だが、麟太郎は卒業まで高田(第一)尋常小学校にいたわけではなく、のちに千代子のあとを尾けて雑司ヶ谷鬼子母神の森を抜ける描写が登場するように、途中で高田第二尋常小学校へ移籍しているとみられる。これは、当時の雑司ヶ谷地域が急速に市街地化し人口が急増していたからで、高田(第一)尋常小学校だけでは生徒を収容しきれず、途中から高田第二尋常小学校が創設されて生徒を大量に分散させている。『高田町史』(高田町教育会/1933年)によれば、1916年(大正5)に高田第一小学校の4年生以下の生徒346人を、高田第二小学校に収容して開校している。このとき、麟太郎も千代子も雑司ヶ谷鬼子母神の北西にあたる同小学校へ移動になった可能性が高い。
 この経緯は、おそらく大泉黒石の長男・大泉淳Click!あるいは二男・灝の小学生時代に雑司ヶ谷で経験した事実なのだろう。では、高田第二小学校からの下校時、麟太郎が惹かれる少女・千代子のあとを尾ける様子を、『預言』(緑書房全集/1988年)から引用してみよう。
  
 或る日、私は思い切って、学校の帰りに彼女の後をつけて行った。学校の前の鬼子母神の森をぬけて、狭い坂を下ると朽ち破れた古い橋があった。それは俗に俤橋といった、(ママ) 橋の袂には、太田道灌で有名な山吹の里の跡があった。堤の下には江戸川がゆるやかな渦をまいていた。その流れに沿って二丁ほど高田馬場へ向かってさかのぼると、小さい山栗の林があった。その林の陰に、古くはあるけれども、かなり大きな石の門構えの家がたった一軒あった。彼女はこの門をくぐって消えた。ここに住んでいるのだ。私はしばらく林の中を迂路ついた。それから、彼女の家の裏手に出た。そこは先刻の川が小さい淵となり淀んでいた。人を乗せた底の浅い船が往ったり来たりした。私は汀に下りてその家の真裏に出た。どこから流れてくるのかわからないが、地底の水を吐き出すために造られた大きな鉄の水門が、石垣の真ん中にあった。
  
 ふたりは、高田第二小学校から鬼子母神境内の杜を抜け、北辰社牧場Click!を右手に見ながら表参道を南下しているのがわかる。そして、高田農商銀行Click!などのビルが建ちはじめた賑やかな高田大通りをわたると、角の交番Click!の脇から旧・鎌倉街道である宿坂Click!を下っていった。坂の左右には根性院Click!金乗院Click!、南へ向かう道筋のクラックをすぎれば南蔵院Click!高田氷川社Click!を左右に見て、ほどなく北詰めに山吹の里碑のある面影橋Click!へとさしかかる。橋をわたれば、牛込区戸塚町の(字)バッケ下Click!へと出ることができた。
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 文中に「江戸川」とあるのは旧・神田上水Click!のことで、江戸期からの「江戸川」は、もう少し下流にあった大洗堰Click!より外濠の出口に架かる舩河原橋Click!までの川筋のことだ。(旧・神田上水と江戸川は1966年より全流域が「神田川」に統一) また、「高田馬場」とあるのは、幕府の練兵場だった高田馬場Click!跡ではなく山手線の高田馬場駅Click!の方向、つまり旧・神田上水をさかのぼった下落合寄りの位置ということになる。当時は交通手段として、掉さす底の浅い猪牙舟が川を往来していた様子がわかる。
 大正期の前半には、面影橋から「二丁ほど」=220m前後のところに『預言』に描かれたような石門の大きな屋敷は存在していない。旧・神田上水沿いには土手がつづき、その両岸は一面が水田地帯であり、千代子の家が旧・神田上水の北岸だとすると(麟太郎が面影橋をわたったとは書いてないので)、田圃の中を早稲田変電所Click!へと向かう高圧線鉄塔Click!が、東西に連なっているような風景だった。
 また、1921年(大正10)ごろになると川沿いには家々がポツポツ建ちはじめるが、それではふたりの小学生時代とは情景が一致しない。1923年(大正12)ごろに麟太郎と千代子が19歳だとすると、どうしても上記の風景描写は1916年(大正5)前後でなければ話があわないことになる。川に面した「鉄の水門」は、灌漑用水の出口として高田町(字)稲荷前あるいは(字)八反目に拡がる、水田の随所に見られただろう。
 麟太郎は、旧・神田上水の土手側にある屋敷の石垣で、千代子を母親に内緒で呼びだすために葦笛を吹くようになるが、その葦については「江戸川の土手の、あの目白と高田馬場との中間に、たくさん生えていましたが、今はもう、すっかり拓けて、おまけに少しぐらいあっても、水が濁っちゃって駄目です」と後年、父親や叔父に説明している。そのころの葦が繁った「目白と高田馬場との中間」風景は、織田一磨Click!が明治末に描いた『高田馬場附近』Click!(1911年)で想像することができる。
 目白駅と高田馬場駅の中間、つまり高田町と下落合の境界が入り組んだ、山手線の線路土手の東側あたりに葦が密生し、そこで葦笛の材料を調達していたことになっているが、これだと千代子のいる家からかなり川沿いを西(上流)へとさかのぼらなければならない。このあたり、クライマックスへとつづく物語の“展開”を考慮すれば、大泉黒石はことさら千代子の家を面影橋から下落合との間を流れる旧・神田上水沿いのどこかと、意図的にボカしておきたかったのではないだろうか。
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 このあと、麟太郎は他者の罪をかぶって死刑囚となるのだが、収監された巣鴨監獄から関東大震災の余震で崩れたレンガ塀を脱出し、旧・神田上水沿いの千代子の邸まで逃げてくる。そして、そこでは思いがけない展開が待っていた……ということで、『預言』を貫くテーマが一気に語られるのだが、それは実際に本編を読んでからのお楽しみということで。

◆写真上:1910年(明治43)に地球へ接近し、世界を混乱に陥れたハレー彗星。1986年(昭和61)にも再びその姿を見せたが、76年前ほどの迫力はなかった。
◆写真中上は、大泉黒石も目にした1923年(大正12)撮影の目白台からの眺め。は、1919年(大正8)撮影の高田大通りで右に見えるビルは高田農商銀行Click!は、1935年(昭和10)撮影の芭蕉庵で手前は旧・神田上水(上)と芭蕉庵の現状(下)。
◆写真中下は、目白台に残る古い屋敷群。中上は、高田大通り(目白通り)から面影橋へと抜ける鎌倉街道の宿坂。中下は、面影橋の北詰めにある太田道灌Click!「山吹の里」Click!記念碑。は、1919年(大正8)に撮影された改修後の面影橋。
◆写真下は、1916年(大正5)に作成された1/10,000地形図にみる麟太郎が尾行した千代子の下校コース。は、1921年(大正10)に作成された同じ地域の地形図。
おまけ
 物語では天文学者の父親とともに、麟太郎が住んでいたと想定された目白台の一画で、上は窪田空穂邸があったあたりと、下は西洋史学者の村川堅固・村川堅太郎邸。
窪田空穂邸跡.JPG
村川堅固邸.JPG

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