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伊勢丹デパートガールの第1期生の証言。 [気になるエトセトラ]

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 かなり以前に、大手呉服店がデパート(百貨店)化Click!するに当たり、モデル事務所Click!からデパートガールやエレベーターガールなどを派遣してもらっていた事例をご紹介している。おそらく、マネキンガールClick!(いわゆるファッションモデル)の派遣をきっかけに、大正末から昭和初期にかけ各売り場やエレベーターなど、顧客と直接接触する業務へ“モデル並み”の女性を派遣していたものだろう。昭和期に入ると、さすがに各デパートとも積極的に女子社員を雇用しはじめている。
 昭和初期に賑わいを見せはじめていた、新宿へ進出した日本橋の三越Click!を横目で見ながら、神田の伊勢丹も新宿への店舗進出を計画している。しかも、三越とは異なり新宿支店の開設ではなく、大きなビルディングを建てて本社機能も移転しようと考えていた。そのために、1933年(昭和8)の早い時期から新規採用の売り子=デパートガールを募集している。新宿の店舗は建築中であり、入社試験や面接は従来の神田本店で行われた。
 もともと新潟出身の丸山智與子という方は、故郷の女学校を卒業すると東京にいた叔父の家に遊びにきていたが、周囲の女性たちはみな職業をもち働いていたので、20歳になったのを契機に自分もなにか仕事をしてみたいと考えるようになった。そこで、ちょうど店員を募集中の伊勢丹で働こうと、入社試験を神田本店へ受けにいった。人事課を訪ねると、試験会場は「真直ぐに行って突き当たったら左に曲がる」と教えられ、そのとおりに歩いていったら道路にでてしまった。昭和初期の神田伊勢丹本店は、新宿伊勢丹とは比較にならないほど売り場のフロアも狭いコンパクトなビルだった。
 女子の入社希望者は、東京の(城)下町Click!でも定評のある百貨店であり、同店では初めての女子社員の大量募集だったせいもあって、800人ほどが殺到したようだ。入社試験はきびしく、つごう7~8次試験まであった。受験するうえでの基本的な条件は、両親が健在で身体健康、高等女学校以上の学歴のある女子ということだった。
 彼女はそれに第1期生として合格したが、すぐに社員になれるわけではなく最初は「雇員」という身分の試用期間で給料は24円だった。今日の貨幣価値に換算すると約6万円強と低いが、3ヶ月後「準社員」になると昇給する仕組みになっていた。ただし、全員が3ヶ月で準社員になれるわけではなく、勤務成績に加え顧客への態度や接し方、言葉づかいや発音など、その仕事ぶりから雇員のまま抜けられない女子もいたらしい。
 彼女は最初に、金銭の出納をするレジ係を担当している。レジを打つ場所は日々変わり、各階の売り場を循環するようなローテーションが組まれていた。これは不正防止と同時に、同じ売り場の男子社員と親密になるのを防ぐ目的があったのかもしれない。出社すると、まずロッカー室で制服に着替え、開店30分前にはその日の担当売り場へ入り、ショウケースのガラスをアルコールを薄めた水できれいに磨くのが義務づけられていた。
 勤務の様子を、1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された『新宿に生きた女性たちⅣ』収録の、丸山智與子『新宿伊勢丹の一期生』から引用しよう。
  
 『じょてんかん(女店監)さん』と呼ばれる女の人が各階に一人ずついました。女店員の指導監督をする役目の方で神田店から来られました。私たちより五、六歳年長で「女だって男の方に負けちゃあいけない」とよく言われました。しっかりしてらして男の方だって怖がっていましたからね。/服装は着物の上にブルース(上っ張り)。着物は自前です。夏は水色のポプリン。冬は紺地に赤のストライプが入った純毛でした。開店のころ売出し期間中は月二回しかお休みがなくてそれも交代でした、土、日は九時半まで仕事です。一二月は売出しなみでした。勿論早番と遅番はありましたけど。
  
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 「事故」があると、なかなか帰宅できなかった。銀行と同じで、勘定が1銭や2銭不足しても勘定が合うまで最初から計算のやり直しとなった。どこかでレジを打ちまちがえたか、顧客へわたす釣銭のまちがいがなかったかどうか、勘定が合わない売り場の社員は、全員が残り面倒な細かい確認作業しなければならなかった。今日のクラウドPOSのように、一瞬で錯誤がある箇所を洗いだすトレーサビリティなど存在しない、すべてがアナログの時代なのでとんでもない手間と時間がかかっただろう。どうしても勘定が合わなければ、上長の「事故簿」に記録され勤務評定へと直結した。
 社員食堂は地下2階にあり、残業のときは会社側が14銭の食券を配布して無料にしてくれたようだ。今日の貨幣価値に換算すると、この食券は喫茶店でおやつとお茶が飲めるぐらいだが、社の食堂には社員割引があったと思われるので、もう少しちゃんとした食事ができたのだろう。食堂といっても、男女が並んで食べるということはなく、女子のテーブルと男子のテーブルの境界線が、暗黙のうちに決められていたらしい。
 社内結婚は、いっさい禁止されていた。また、伊勢丹のデパートガールなら身元が確実なので、新宿界隈では「嫁さがしは伊勢丹」などといわれた。同資料から引用してみよう。
  
 若い娘さんがいましたので結婚する人も多かったですよ。嫁さがしは伊勢丹といったくらいですから。身元がしっかりしていますし躾もきちんとしていますしね。でも今と違って社内結婚は御法度でしたから結婚するとどなたも退職します。一階のワイシャツ売場のレジに座るでしょ。そうすると同じお客さんが行ったり来たりしてあの方は誰かを探しにいらっしゃったんだなとわかります。あの時分は柱の四方に鏡がついていましたから店内の様子が座っていてもよくわかるんですよ。悪いことをした人もわかりましたね。
  
 社内では、男女社員の交流にはネガティブだったが、社外のレクリエーションはまったく別だった。遠足は山登りが多かったらしく、富士山や榛名山、高取山、高尾山などに男女そろって出かけている。業務をすべて終えた午後11時ごろ、新宿駅から夜行に乗って翌日の夜までには新宿へもどるという、夜行日帰りの強行軍だった。
 また、運動会は豊島園Click!で開かれ、事務方と売り場、フロアごとに分かれての対抗戦が多かったらしい。試合に不参加の社員も、必ず応援しなければならなかった。でも、社内では交流できない男女社員には楽しみな行事だったようだ。
 伊勢丹の中には美容室もあり、六本木から出勤してくる「千葉先生」(千葉益子だろうか?)という美容師が担当していた。この美容師は、華族や皇族の家庭にも出張しており、得意先には津軽家Click!も含まれているので、おそらく下落合3丁目1755番地の津軽義孝邸Click!へも出張していただろう。大晦日に閉店しすべての勘定計算を終えると、女子社員たちはこの美容室で髪を結ってもらい、初詣でへと出かけていた。
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 戦時中、伊勢丹は幸運にも焼けずにそのまま残った。戦争が激しくなると、売り場がどんどん寂しくなっていったようだ。それは物資不足で売る商品自体が減っていったこともあるが、職場の男子社員が次々に召集されて消えたことだ。勘定・出納部門は男子社員がひとりだけで、あとはすべて女子社員だけになった。レジ係も20人ほどいたが、すべて女子社員だけになってしまった。
 伊勢丹の職場環境は、「女店監」に象徴されるように、仕事ができれば女性でも幹部社員にとりたてられたようだ。証言をしている丸山智與子という方も、金庫のカギを預かる今日でいえば経理部長のようなポストに就いている。女性でも「能力で上っていきましたから、やり甲斐がありましたね」と、彼女も述懐している。
 戦時中の伊勢丹売り場の様子を、同資料よりつづけて引用してみよう。
  
 まだそんなに空襲が激しくならないころ、伊勢丹の裏にあった松平写真館に爆弾が落ちてその震動が凄かった。地下二階にしゃがんでいた人はその衝撃で横に倒れてしまい、電話室の人はレシーバーをかけていたので器械と一緒に上まで飛び上がったそうです。私は出納の鍵だけ持って四階の秘書課の狭い部屋で机の下に滑りこんだの。朝あったビルが帰りはなくなっていて悲しかったですね。/伊勢丹は焼けなかったですが、五月ごろになるとあたり一面焼け野原になって私の住んでいた世田谷の羽根木から伊勢丹が見えましたよ。交通機関も破壊されて動かないのでトラックに乗せて貰って出勤したこともあります。(中略) 売場でもだんだん売る物がなくなって、紙で作ったカラー(衿)とか紙のベルト、魚皮で作った靴やベルトなども売りました。戦争中は誰も使いませんし口紅なんか付けていたら大変で、それこそ国賊なんてすぐ言われますから。国債や慰問袋コーナーもありましたね。
  
 このとき、松平写真館(経営・松平三郎)に落ちたのは250キロ爆弾だろう。松平写真館は、東京市内でもかなり名の知られた店だった。空襲前の、1944年(昭和19)に撮影された空中写真を見ると、松平写真館は3階建てほどの細長いビルだった様子がうかがえる。それが倒壊するということは、鉄筋コンクリート仕様ではなく木造モルタル建築のビルだったのかもしれない。1945年(昭和20)に入ると、東京の各地で少数機のB29による散発的な空襲Click!が行われるようになっていた。
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 伊勢丹は頑丈なコンクリート建築だったため、社員たちは空襲警報が出ても防空壕Click!などへ退避しなかった様子がわかる。手すきの社員は、地下2階へ避難したかもしれないが、重要な役職の社員は持ち場を離れていないのが証言からうかがえる。二度の山手空襲Click!を耐えた伊勢丹は、戦争末期になると陸軍に接収され、敗戦後は米軍に接収されている。米軍は1948年(昭和23)まで、伊勢丹ビルの3階から屋上にかけ、日本全土にわたる爆撃効果測定用の空中写真(ここでもよく引用している)を撮影する偵察部隊Click!の本部にしている。

◆写真上:戦災でも焼けなかったため、1926年(大正15)に竣工したほてい屋百貨店の建物を流用しリニューアルして営業している伊勢丹新宿本店。
◆写真中上は、昭和初期に撮影された伊勢丹神田本店。中上は、1930年(昭和5)ごろに撮影された伊勢丹進出前のほてい屋百貨店で、新宿通りの左手(南側)には建設中の新宿三越が見えている。中下は、1932年(昭和7)ごろに撮影されたほてい屋の西隣りに建設中の伊勢丹で、1935年(昭和10)に伊勢丹は隣接するほてい屋を買収している。は、1936年(昭和11)の空中写真にみるほてい屋買収直後の伊勢丹本店。
◆写真中下は、1935年(昭和10)ごろの伊勢丹界隈。(新宿歴史博物館「新宿盛り場地図」より) 中上は、1944年(昭和19)に撮影された伊勢丹界隈。中下は、1945年(昭和20)1月6日に撮影された伊勢丹とその周辺。は、1945年(昭和20)5月25日夜半に撮影された空中写真で、大量の焼夷弾が新宿駅を中心に投下されている。
◆写真下は、昭和初期に撮影されたとみられる木造の松平写真館で、いまだビル状に改築されていない。中上は、1933年(昭和8)ごろにほてい屋百貨店の屋上から松平写真館の方角を向いて撮影された写真。同写真館は、いまだビルに建て替えられていないとみられる。中下は、現在の伊勢丹の屋上庭園から新宿駅南口方面を向いた撮影で、見えているビルはルミネ新宿(右)とドコモタワー(左)。は、いまも昭和初期の面影が残る伊勢丹新宿本店。
おまけ1
 1933年(昭和8)の伊勢丹オープン時には、開店を待つ客の長い行列ができた。中の2葉は、いまでも伊勢丹のショーウィンドウはかなり凝っているが、開店当初からディスプレイには力を入れていたらしい。下の2葉は、オープン時に撮影されたとみられる店内の化粧品売り場の記念写真。いずれも新宿歴史博物館『新宿風景』(2009年)より。
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おまけ2
 1935年(昭和10)に買収されるまで、伊勢丹の隣りで営業していたほてい屋百貨店の歳末売出しチラシ。伊勢丹に対抗するためだろうか、年末は夜間営業までしていたようだ。
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