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東京護謨の納品帰りは神田市場の青果。 [気になる下落合]

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 いまから18年ほど前、下落合を流す物売りの声について書きとめたことがあった。風邪などで熱をだし家で寝ていると、いろいろな物売りの声が聞こえてきて面白かったのを記事Click!にしたものだ。だが、このところ物売りの声が絶えて久しい。
 もちろん、新型コロナ禍の影響もあっただろうが、それ以前から物売りの声がしなくなっていたように思う。江戸期と変わらない鋳掛屋や研ぎ屋、ラオ屋、江戸風鈴・吊忍・風車売りの声や音も聞かなくなった。以前はまわってきていた、移動スーパーや青物屋の小型トラック、豆腐屋もしばらく見かけていない。すべて近所のスーパーによるネットの受注が浸透したせいで、これら流して歩く物売り商売が全滅した……とも考えにくい。鍋釜の修理や包丁研ぎ、煙管のメンテナンス、風鈴や吊忍をネットで依頼し発注するような手間がかかり、かえって業務効率が悪くなりそうなワークフローは考えづらい。
 おそらく、これらの商売をしていた人たちが高齢化して引退してしまったか、あるいは流して歩く物売りへなにかを依頼する、あるいは商品を購入するのをためらう世代が増えて、マーケットが急速に縮小してしまったかのどちらかなのだろう。また、住環境が変化し集合住宅が増えて、中の住民にはスピーカーを使わない物売りの声は聞こえない、あるいは聞こえても上階からは声をかけにくいなどの事情があるのかもしれない。さらに、夫婦の共働きが80%をゆうに超える住環境で、そもそも物売りがふれ歩いても誰もいない家庭が増えていることも挙げられるだろう。
 戦前の上落合地域を流す、物売りの声を記録した資料が新宿区に残されている。上落合の早稲田通り沿いで、「八百由」という青物屋を営んでいた岸銀太郎という方が証言した、昭和10年代の物売りの声だ。1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会が刊行した『新宿に生きた女性たちⅢ』収録の、岸銀太郎『八百屋三代記』から引用してみよう。
  
 そのころの台所は上げ板つきの板の間で、ほとんどの家は座り流しに足付きまな板を使っていました。奉公人は箱膳でした。農家は箱膳が多かったようですね。銀行の野々村さんとか大きなお屋敷に御用聞きに行くと、そこは立ち流しで水がめがありました。広い板の間で真ん中に調理台があって、ガスも早くからあったようですよ。/御用聞きは私ら八百屋のほかに魚屋がきて、飯台に鰹とか鯖など時期のものを入れて担いでやってきました。物売りも大勢きましたね。「いわーしっこぃ」「はとんがらーし」「あさりー、しじみー」「甘―い、甘―い、甘酒」 それに薬屋が「じょさいやでございっ」って薬箱の把手をガチャガチャいわせて歩いていました。
  
 文中の「銀行の野々村さん」とは、1932年(昭和7)10月以降の住所でいうと上落合1丁目472番地の野々村金五郎邸のことだ。野々村金五郎は、川崎銀行や麹町銀行、東京銀行を歴任し、この文章の当時は開発社の社長あるいは内閣統計局書記官の仕事をしていた人物だ。経歴だけ見ると、金融業界の専門家のように映るが、歴史学に興味があったらしく『拿破崙(ナポレオン)戦記』や『露国史』など、まったく畑ちがいの著作を残している。
 上記の物売りの中で、「いわーしっこぃ」と「あさりー、しじみー」は、わたしの親世代の街中を流していた物売りだ。ただし、市街地の売り声は落合地域とは多少ちがっているようで、「ぃわしこ-い、わしこい」「あーさりー、しーじみー」とふれ歩いていたらしい。登場する薬屋はいまも現役で、売り声をあげて流してこそいないが、富山の薬売りの営業マンは各戸訪問でときどき救急箱のクスリを入れ替えにやってくる。
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 さて、上落合の早稲田通り沿いで青物屋(八百屋)Click!を開店していた、岸銀太郎という方の両親は、母方が大隈重信邸Click!で屋根職人をしていたそうで、茶室の庇や家屋の屋根を檜皮葺きにする仕事をしていた。当時(明治後期)の早稲田鶴巻町は、田圃と狭山茶の茶畑Click!が拡がるのどかな風景で、家の裏にはミョウガ畑があった。江戸東京でミョウガというと、神楽坂ミョウガの名前がすぐに浮かぶが、明治期には早稲田地域にまでミョウガ栽培が流行していたのかもしれない。
 父親の代から、上落合で「八百由」という店を開業しており、野菜の仕入れは神田青果市場へ出かけたと証言しているので、息子の岸銀太郎が荷車押しを手伝ったのは1928年(昭和3)以降のエピソードだということがわかる。東京府市青果実業組合連合会による神田市場は、1928年(昭和3)も押しつまった暮れの12月にオープンしている。
  
 親父は朝は五時起きで神田市場に出かけました。大八車に「横櫃かご」を積んでいくんですが、空ではもったいないからって、近所のゴム工場から草履のゴム裏を問屋へ運ぶ仕事を請け負っていました。浅草の駒形の方までもっていくんですよ。それから市場へまわるんです。/遠い道のりですから、十五、六歳になると私も車の後押しを手伝わされたんですよ。そのころの神田市場は須田町にありました。湯島天神や昌平橋の辺りは、坂が急でたいへんでしたよ。帰りは一人で帰るんです。(中略) 時には姉も車を押していきました。姉は飯田橋から電車で帰るんですけど、雨が降ったときなんぞ着物がずぶ濡れになって、嫁入り前なのに電車の中で恥ずかしかったって話していましたね。/私は御用聞きをすませて、早稲田のグランド坂下まで迎えにいくんです。帰ってくると配達です。品物は野菜物の他に千葉産の真桑瓜とか青森のりんごとか珍しいものも仕入れました。
  
 「近所のゴム工場」とは、下落合駅のすぐ南側、上落合前田136番地に堤康次郎Click!が創業した東京護謨工場Click!のことだ。上落合から駒形の履物問屋へ納品して、そこから神田須田町の青果市場へとまわり、須田町から外濠をまわって神田川沿いに(早大のグランド坂下を経て)上落合へともどってきているから、往復25km前後の道のりになっただろう。戦前の人たちが、いかに健脚だったのかがわかるエピソードだ。
 落合地域の地元市場で仕入れられる野菜(地物)は、ダイコンにナス、キュウリ、ジャガイモなど季節野菜に限られ、他の野菜は青果市場までいかないと揃わなかった。妙正寺川沿いの旧・水車小屋Click!に住み青物商の父親と、大八車Click!を押すのを手伝っていた下落合の小島善太郎Click!のエピソードとが、どこかでオーバーラップするような情景だ。
 自宅は上落合にあったが、1935年(昭和10)に早稲田通りが舗装されたのをきっかけに、通り沿いの店舗に加え道路をはさんだ反対側(東中野側)にも店を開いて、商売を大きく拡張していったらしい。また、八幡通りClick!沿いの東側にあった上落合市場Click!にも出店している。これら商売のマネジメントは、すべて母親がこなしていた。
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 この岸邸がどこにあるかを探してみると、1938年(昭和13)作成の「火保図」に当時の月見岡八幡社Click!の南側、早稲田通りに面した2軒つづきの商店建築のすぐ裏にあたる、上落合1丁目171番地に岸邸を見つけることができる。
 早稲田通りへと抜ける、八幡通りClick!のすぐ西側にあたる位置で小滝橋も近く、江戸期には上落合村の旧家だったという大きめな屋敷だ。おそらく邸敷地の南側、早稲田通りに面した位置に2軒つづきの商店建築を建てて営業していたのだろう。向かいは東中野であり、ちょうど小滝台住宅地(旧・華洲園)Click!の入り口なので、同住宅地に並ぶ大屋敷Click!を新たな顧客に取りこもうとしていたのではないだろうか。ちなみに、『落合町誌』(落合町誌刊行会/1932年)には岸竹次郎という、上落合170番地で米店「武蔵屋」を営んでいた人物が紹介されているが、おそらく岸銀次郎の親世代にあたる姻戚筋だろう。番地から見ても、青果店「八百由」の並びが米店「武蔵屋」だったのかもしれない。
 休みの日には、おそらく公楽キネマClick!にも出かけただろうが、月見岡八幡社Click!「表」Click!の祭礼では境内に芝居小屋がかかり、大勢の近隣住民が押しかけたらしい。
  
 八幡さまの表の祭りには芝居が掛かって、桟敷に上って見物しましたね。よその村からもやって来ましたが、よそ者は桟敷に入れないんですよ。柿の「禅寺丸」のなり年が表の祭りでしたから一年おきでしたね。/親父はお祭り好きで民謡をいい声でうたっていました。富士講で年に一度は富士登山をしていましたから、留守中の店番は母親や息子や若い衆でやっていました。小鳥を飼うのがはやって、下落合の小鳥屋へ鶯とか目白の餌買いにやらされましたよ。/月に一日の休みには浅草とか上野へ連れていかれて、上等のライスカレーを食べたり、向島の七福神めぐりで土手に生えていたのびるを採ってきたこともありましたねえ。母は新歌舞伎が大好きで新宿第一劇場へは、しょっちゅうでかけていました。
  
 いまだ、江戸期の上落合村以外の人間は「よそ者」として見ていた、ミクロコスモス的な眼差しが昭和10年代にも生きていたのがわかる。ちなみに、同じ落合町でも江戸期は下落合村の住民たちも、やはり「よそ者」として見られたのだろうか。
 父親が富士登山をしていた富士講Click!は、月見岡八幡社の境内に移っていた落合富士Click!(大塚浅間古墳Click!)など、江戸期から周辺地域に富士信仰を広めていた大規模な月三講社Click!の集りだ。「上等のライスカレー」は、当時は新宿中村屋Click!カリーClick!よりも高価だったと思われる、不忍池畔の上野精養軒Click!にあったメニューだろう。
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 証言者の岸銀太郎という方は、父親が勝手に決めた一度も会ったことがない、8歳年下の女性を妻に迎えている。気風(きっぷ)がよく、商売も上手な優しい女性だったが、戦時中の苦労がたたったのだろう、1949年(昭和24)に胃がんのため35歳の若さで死去している。GHQに出版妨害Click!をされつづけ、同年に日比谷出版社からようやく刊行された永井隆『長崎の鐘』を、死の床で読んでもらいながら涙ぐんでいたという。あとには、小学5年生を頭に3人の子どもたちが残され、「八百由」は子どもたちが受け継ぐことになる。

◆写真上:スーパーで買うよりも、新鮮な野菜が手に入る街中の青果店(八百屋)。
◆写真中上は、1928年(昭和3)12月開業の神田青果市場と内部。は、当時は神田須田町にあった東京青果実業組合連合会の本部事務所。
◆写真中下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる岸邸とその周辺。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」に採取された岸邸。は、1945年(昭和20)4月2日に偵察機F13Click!が撮影した第1次山手空襲Click!直前の岸邸とその周辺。
◆写真下中上は、1940年(昭和15)ごろの月見岡八幡社の例大祭に繰りだす神輿と山車の曳きまわしを描いた守谷源次郎の記憶画スケッチ。中下は、例大祭前夜に行われる宵闇を描いた守谷源次郎の記憶画スケッチ。戦後の情景で、舞踊や芝居の出し物を楽屋で準備をする舞台裏の様子。は、1950年(昭和25)ごろの青果店(八百屋)。

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